買収した本人だけでなく、彼が支持した候補者も、盛んに、嘘や偽情報を、書き立てる場として、信用ならん、と何度も指摘したが、公序良俗に反するものまで、もう、石ころばかりで、消し去るべき、と思うことも屡々だが、今の状況では、如何ともし難い、となるだろう。
それ程に、多くの人々が関わり、多くの人が、情報源と信じている、そんな社会媒体にも、拾い上げれば、役に立つかも、と思えるものも、ほんの偶だが、出会すことがある。先日見かけたのは、所謂、家庭内暴力に関するもので、肉体的な暴力は、歴然としたものだが、罵りや脅しなどの、言葉による、精神的な暴力には、判然としないものが多い、という話だった。それを明らかにする為に、夫婦喧嘩を、録音してはどうか、という助言を与える、という内容だが、被害者が、後になって聞いてみると、自分は、意味のないことを、叫び続けているのに対し、相手が、それを宥めている、という内容が多く、冷静になってみると、これは、暴力でもなく、単に、非論理的なことで、騒いでいるだけ、という結論に達し、その原因は、自分にある、と納得できる、という話だった。成る程、この手の話は、実は、虐めと呼ばれる行為に、頻繁に見られるもので、被害者の、被害妄想の一種、と結論づけるしかない、となる。確かに、虐めの証拠として、その内容を録音して、第三者にも、分かる形のものを、残すべき、という助言には、こんな意図も、ありそうに思える。その結果、被害者の訴えが、却下されたという事件は、表に出ないからこそ、ずっと多くあるに違いない。確かに、怒りに任せて、暴言を吐く場合もあるが、その一方で、冷静で論理的に、相手の問題を指摘したのに、それを、逆恨みするかの如く、精神的な暴力を受けた、と訴える場合も多い。立場が変われば、こんなことが、起きるのは、当然のことであり、それを、第三者が、一方の言い分を、鵜呑みにするのではなく、客観的に判断する材料として、話の内容を、後になってから、調べることには、重要な意味があるのだ。それでも、夫婦喧嘩の録音を、改竄したとして、認めない人間には、何を言っても、通じないのだが。
大衆迎合の典型が、今、政策論争に、見えている。減税は、最も大きな魅力だが、それにより、何がどう変わるのか、読めている人は、おそらく居ない。一方で、給与を増やすことで、次々に立ちはだかる壁が、話題となっているが、こちらは、別の問題をも、提起している。
税金の話は、公的な事柄に、必要最低限の予算を、確保することを、まず考えねばならない。にも拘らず、ただ減らすことだけを、掲げるのは、明らかに間違いだ。一方、それに関わることとして、壁の問題を、引き合いに出して、表向き、減税に繋がるとする、政策論争には、誤魔化し以外の、何も感じられない。その上に、次の壁として、紹介され始めたのは、年金に関する話だ。丁度、将来設計として、変革を提案する、監督官庁の動きに対し、この話が加わることで、状況が、拗れたように見える。だが、現実には、制度そのものへの理解が、全く無いことが、その原因であり、それはつまり、大衆が、如何に愚かか、を表しただけだ。こんな大衆を相手に、迎合するための策を、講じるのは、民主主義の欠陥を、露呈するものとなる。では、どこが、理解不足なのか。これは、報道にも、官庁にも、大きな責任がある。説明不足の上に、報道の得意とする、煽りが加わり、真意が伝わらないのは、単に、受け手が愚か、というのが、理由でないことが分かる。では、年金の話の、どこが説明不足か。説明にあるように、納付金は、雇用者と被雇用者で、折半される。働く人にとり、自分で貯蓄するより、倍の額が、公的年金制度に、注ぎ込まれて、それが老後の資金となる。こんなお得な話はない、と思わないのは、何故だろう。多くの意見は、そんなことより、今、増えただけの額を、手にしたいとする。だが、それは、殆どが無駄遣いされ、貯蓄にさえ回らず、投資などはあり得ない。なのに、今欲しい、と願うのは、朝三暮四と同じ、どころか、損をしているだけだ。確かに、制度への不信は、大きいだろうが、それより、信用ならぬのは、自身であることに、気付かぬ愚かさは、迎合を歓迎する。
昨日取り上げた問題は、無料サーバーの管理人の指摘で、いとも容易く解決した。おそらく、cgiと呼ばれる、サーバーで動くソフトを、動かしている大元のソフトを、サーバー更新の際に、新たにした為と思うが、素人には、皆目見当が付かない。何れにしても、目出度である。
さて、そこで改めて、検索してみたが、「移民」という語では、大元のものには、到達できなかった。その代わりに、表示されたものにも、何種類かあり、この際、紹介しておこうと思う。昨日の話題に、関係するものは、これだろう。多分、今回復活を果たした、あの人物が、提案した極論に対して、意見を述べたのだと思う。その後の展開は、改めて書く必要は無いが、今後再び、同じ問題が、出てくることは必至だ。それ以外にも、多くが表示されたのは、独り言で、好んで取り上げる話題、だからだろう。もう一つは、労働力の問題として、この政策を、どう扱うかについて、論じたものだ。こちらは、少子高齢化を、一大問題として、掲げている、この国にとっても、重要な問題だが、実は、こういう方向に、進むべきとは思っていない。鎖国の時代に戻れ、とは言わないものの、他国からの労働力に、頼らずとも成り立つ、そんな仕組みを、真剣に考える必要がある、と思っている。となると、移民に頼る計画は、一概に、得策とは言えない、となるだろう。しかし、労働力不足に、悩む人々からは、既に、大きな悲鳴が届いている。その解決こそ、喫緊の課題とされ、方策の一つとして、移民歓迎の声が、上がっているのだ。しかし、労働力不足の反面で、多くの人々が、職を得られず、閉じ籠った生活を、続けていることに、目が向けられないのは、何故だろうか。安価な労働力、という意味での、移民歓迎は、上に挙げた、過去の独り言の、論点なのだが、そうすべきは、競争力の維持との、観点によるものであり、自給自足を基本とすれば、的外れでしかない。根本の考え方を、改める必要があるのだ。
以前、書いた気がするのだが、何時のことか、思い出せない。その上、独り言の検索が、動かなくなってしまった。多分、この間のサーバー交換から、システム変更されて、全体が動かなくなったことがあり、同じ原因と思われるが、その時の対処法は、巧く働かなかった。
そちらの解決は、今後に行うこととし、今は、今日の独り言を、書いておこうと思う。話題は、移民に関することで、この所話題としている、大衆迎合主義とも、関係している。移民排斥について、世界的な風潮となりつつあり、今後も続くものと思える。海の向こうでも、不法移民の解決について、選挙の争点ともなっていたが、あの国の繁栄が、移民により、支えられているという話を、以前書いたような気がするのだ。その時の話題は、世界各地で、教育問題が起き始め、その中心が、子供達が恵まれた環境で、現状維持を望むだけで、打破を目指さず、結果として、学力低下などの問題が、顕在化している、というものだった。その際に、海の向こうだけは、例外となっており、その理由は、移民の多さにある、としたと記憶している。その後、世界各地で、移民の増加が、大問題となり、各国は、増え続ける移民を、それぞれの国に、送り返そうとする政策を、作り始めた。極右がその代表らしいが、難民と移民の違いを始め、多くの未解決問題が、ある中での、極端な動きには、強い違和感を覚える。特に、植民地時代から、多くの人々が、移り住んできた歴史をもつ国は、自分の歴史と重ねて、どう考えるのか、という問題があると思う。このことは、合法違法に関わらず、夢と希望を抱き、成功の為の努力を、重ねようとする意欲こそが、国の繁栄を築くのに、不可欠なものと考えれば、今の状況は、由々しきものと思え、別の解決策を、講じる必要があると思える。と言っても、現政権のやり方が、正しいとはとても思えず、両極端ではなく、その間にある筈の、正解の一つを、見つける必要があると思う。
衆愚政治、と書くと、間違いだとされる。確かに、有識者の見解からは、衆愚とは、民主主義の果ての、失敗例を指すものであり、今流行りのものとは、明らかに異なる、とある。同じく、大衆を対象とする、民主主義の一例で、問題とされるのは、大衆迎合主義なのだそうな。
何れにしても、愚かなのは誰か、分かり切ったことであり、そこが、批判の的となる。だからこそ、大衆迎合も衆愚も、結果的には同じで、考えるべきとされるのだ。更に、情報発信が、大衆の手にあり、真偽が、定かでないものが、巷に溢れる中では、民衆の意見が、権力をも、上回る力を、発揮し始めている。一歩間違えれば、賢さよりも、愚かさが、大きくなりかねぬ状況の中、政治は、進むべき道を、見失いかけており、世界的な危機にある、とさえ言われる。独裁者が、大衆に魅力的な言説を、展開することで、権力を、意のままに扱うのは、歴史を振り返れば、数多の例を見ることができるが、現状は、その最中かすぐ近くに、あるとさえ思える。ただ、この国は、そんな時代でも、戦争に突入した、一種の狂気が、蔓延するような事態にはなく、一見、冷静な状況に、あるように思える。だが、政治の不安定が、始まる中、さて何方に向かうのか、民衆は、魅力的と思える、政策ばかりに、目を奪われているのではないか。例えば、年金についても、制度の変更が叫ばれるが、支給年齢に達した時、制度が、継続しているかとの懸念が、払拭されることはない。その中、制度継続の為にも、徴収額や納付期間を、増す提案がなされると、すぐに、反対の声が上がる。だが、税金と折半で、保たれる制度を、保持する為には、人口減少の中では、致し方ないように思える。更に、株式投資への、課税制度の変更で、個人資産運用への、配分を高めるのならば、年金への依存は、下げられるとも思える。魅力的なものは、歓迎するが、そうでないものは、との考えには、愚かという文字が、浮かぶのだが。
歴史上も、また今この時も、成功を手にする為には、それ相応の努力が、必要と言われる。特に、大成功を収める為には、単に、才能や運が必要なだけでなく、その上に、地道で多大な努力が、必要となると言われる。だが、社会全体から見れば、どうだろうか。そんな努力は、御免との声が聞こえる。
成功を手にしたい、と願う人が、殆どだろうが、その一方で、何かしらの努力を、惜しむ人々は、数え切れぬ程に居る。この違いは、何処から来るのか。一つには、以前も書いたが、やればできる、という根拠無き信念が、影響する場合がある。何の準備もせず、何の努力もなく、世界新記録を出せるとか、大金持ちになれるとか、そんな夢にもならないことを、自信たっぷりに語る若者が居る。試しに、やってみたら、と声を掛けると、途端に黙り込んだり、あれこれ、言い訳を並べ始める。要するに、何もしたくないのだ。その一方で、他人より大きな幸せを、手に入れたいと願う。確かに、才能と運だけで、手に入れられる人も、居るだろうが、大多数は、そんな運も、そんな才能も、持ち合わせていない。運も、実力のうち、と話す人々は、それを裏付けられるだけの、努力をした上で、そんなことを思うが、努力をしたことの無い人には、そんな実情など、思いもよらぬことだろう。一方で、努力と言っても、人それぞれであり、四六時中、重ねる人も居れば、ちょっとしたことで、済ませる人も居る。と言っても、後者とて、何もしない訳ではなく、何かしらのことを、行っている。ただ、人に自慢できる程の、時間と手間を、掛けているか否かは、別の話だろう。隠れて、努力する人も居れば、ほんの僅かな時間だけ、何かしらを行う人も居る。だが、何もせずに、やればできるとは、やはり、馬鹿げた発言でしかない。それを平気で、語る人々には、何の成果もついてこない。で、結果として、成功を手にできず、社会や他人の責任、と叫ぶのが精々だ。そうならぬ為に、何かをせねば、ならない。
数字の語呂合わせは、歴史を覚える時に、屡々使ったことと思う。数字を覚えるのは、人により得手不得手があるようで、それを克服する為の、方法の一つとして、こんなやり方がある。学校教育で、生き延びてきた語呂合わせは、覚え易さという意味があるのだろう。
一方で、日付についても、同じような遊びが、様々に行われている。例えば、鼻の日とは、と聞かれれば、多くの人が、即答できる。また、今月の22日についても、よく聞かれるものがある。では、1111とは、何を指すのか。この国ではなく、隣の大国で、いつ頃からか、盛んに持て囃されているが、独身の日なのだそうな。1は石ころを表し、それが並ぶ姿から、という解釈のようだが、はて、そんなものか。こんな日に、大売り出しを始めたのは、彼の国が、他国に追い付け追い越せ、とばかりに、成長を誇っていた頃だが、今は、翳りが見え始めている。1日の売り上げが、とんでもない数字と、なっていた頃には、この機に乗じて、売り込もうとばかりに、国内外を問わず、様々な売り込みが、行われていた。こちらからも、多くの企業が、参加していたのは、ついこの間のようだが、そろそろ、勢いを失い、別の販路の開拓に、乗り出し始めたようだ。報道では、不動産不況が、端緒となったと言われるが、どうだろうか。数字として、そこに、顕著な変化が現れたのは、事実なのだろうが、そこに至る道筋に、どんな変化の兆しが、現れていたかについては、おそらく、分析が行われることなく、このまま、全てが忘れ去られるだろう。この国も、嘗ては、経済における栄華を、誇っていたが、よく似た現象として知られる、不動産の泡が、弾け始めると、途端に、他の経済状況まで、勢いを失い、その中で、企業は、窮地に追い込まれた。今は、その頃に比べると、ずっとましな状況だろうが、にしても、一度失われた自信を、取り戻すまでには、到達していないようだ。何かが、足りないのだろうが、何が?