先週も同じ言葉から始めたが、今回も。大衆迎合の典型は、減税だろう。これ程に、魅力的なものは無い、と思う人が、殆どだろうから、人気は続く。しかし、そこに潜む問題は、浅薄な人々には、理解できそうにない。一方で、財布の紐を、預かる省庁は、早速、反論を始めた。
その最たるものは、減収だろう。特に、お零れに与る、地方の首長は、即座に、悲鳴を上げ始めた。だが、その一方で、国政に転じた、ある大都市の首長は、自らの減税政策が、増収に繋がったと、持論を展開する。この絡繰りは、経済学者でも、解き明かせぬ、と言われる。風が吹けば、の話の如く、因果を語れば、何とでもなり、現実には、あらゆる可能性が、存在する、とさえ言われるからだ。だが、政を治めるには、不確定では、信頼が得られぬ。その代わりに、ご褒美を、ばら撒くことが、得策と言われるのは、こんな事情がある。ただ、現状の、愚かな人々相手に、そんなやり方だけでは、多分、愚民政治へと、転落しかねない。感染症騒動で、厳しい制限を課す為に、金をばら撒いた時、大衆は、貰えることを、当然と受け止め、その条件としての、義務には目もくれず、もっともっとと、要求し始めた。こういう心理に、危機感を覚える人には、例えば、女性経済評論家のように、増税した上で、低所得者に、補助金を与える制度を、提案する人も居た。この案は、騒動前に、出されたもので、あの為体から、危機を感じる以前に、大衆迎合の過ちを、指摘したものだ。権利のみを、訴えるのではなく、まず、義務を果たしてから、分相応の権利を、満足させるという話だが、筋の通った論理と思う。だが、朝三暮四宛らに、目の前の餌に、飛び付く大衆には、理解の及ばぬものだろう。もう、この勢いは、収まる筈もなく、破滅覚悟でも、断行せざる状況にある。とはいえ、別のばら撒きに、支障が出るのも、ほぼ確実だ。都合が悪くなってから、騙されたでは、もう遅い。どうなることやら。
情報の真偽が、不確かなままに、ある方向に、突っ走り始めた大衆は、民主主義の秤を、一方向に傾ける。それが、明らかとなるのは、結果が出た後であり、まるで、別ごとのように、何方が正しいかを、議論し始めるのだ。だが、決着はついており、それについては、戻せない。
そんなことを、今更、指摘しても始まらぬ。もう、列車は走り始め、行き先も、多分決まっている。それが、大衆が望んだことか、その時が来て、初めて理解できる。そこで、彼らが発する言葉は、「騙された!」だろうか。何をどう騙されたのか。今は、それを知る術は無い。確かに、民意は、ある決定を下した。それも、勢いを増すばかりの、皆の発言の高まりに、後押しされたもので、発言自体の正誤は、二の次と言うより、皆、考えもしなかった。多くの発言は、それ自体が、正しいことを、示している、と信じ込んだからだ。だが、時間が経つにつれ、様々な綻びが、見え始める。その多くは、論争の最中に、指摘されたことで、ここに来て、真偽を確かめる、ようなものではない。にも拘らず、手遅れの検証に、入り始めるのだ。その一方で、新たな体制により、事が始められる。そうなれば、論争そのものの、勝敗ではなく、皆が参加した、論争の的が、どんな姿だったかが、明らかとなる。でも、それでいいのだろうか。本来ならば、選ぶ期間中に、こういった議論は、正誤を含めて、結論を導かねばならない。その筈が、発言の的は、全く別の方に導かれ、その高まりが、大衆の意を決する。情報の正しさは、最中には、検証されることなく、皆が好む意見に、手を挙げるのだ。本当に、それでいいのか。このことに関して、歴史は、様々な事例を挙げ、皆が学ぶべきことを、示している筈だが、実際には、そうなっていない。だからこそ、真偽の議論が、事が終わってから、改めて、始められるのだ。さて、どんな成り行きとなるか。世界中で、そんなことが、始まっている。
世間では、何方が、信頼に値するかの、罵り合いが、喧しい。社会媒体とマスゴミは、所詮、同じ穴の狢に過ぎないが、何故だか、何方がとの議論に、結びついてしまうようだ。これは、世界的な傾向でもあり、特に、海の向こうは、前大統領、今回、選ばれたから、次期大統領だが、彼が騒動の源だ。
任期中に、不都合な情報を、遮断する為に、既存の情報源を、嘘吐きと断じ、自ら、夜中の情報発信に、精を出していた。だが、その内容が、公職にある立場からは、信じられぬ程に、偏ったもので、嘘や誤解が、満載だった結果、頼みの媒体から、追放される憂き目を見た。ただ、その後、例の天才的経営者に、買収された結果、元の席に戻っただけでなく、選挙にまで、勝利したのは、偶然の成り行きとは思えぬ。さて、こちらの状況も、ある意味、似たようなものだ。井戸端会議だったり、野次馬の噂話だったり、その程度のものが、認可を受けた情報源から、発信され続け、その一方で、社会媒体は、正反対の話を、実しやかに拡散する。何方が、信頼に値するか、と問われれば、今は、多くが、社会媒体と答える。民意という、選挙結果が、それを如実に表す、とする訳だ。だが、徐々に、落ち着きを取り戻し始めた、世間の状況は、一層の混迷を来し、互いの媒体内では、互いを、価値なしと断じている。でも、冷静になって、考えてみれば、何方も何方、情報の正誤は、個別に精査せねば、明らかにはならず、その上、上塗りされる内容は、まるで小説の如く、作り物でしかない。特に、選挙期間中に、真相を暴いたとされる、ある小政党の人間は、それを喧伝し、機に乗じて、敵対勢力を、徹底糾弾し続けた。結果を得て、我が意を得たり、とばかりに、浴びせかける姿勢を見るに、詐欺師の言説と、酷似しており、お里が知れる。要するに、こんな勝負は、元から、無意味であり、受け取る側が、情報の真偽を、判断するしかない。こんなこと、当たり前なのだが。
働きたいとか、大学に行きたいとか、そんな話が、時々取り上げられる。望みを叶えられるように、と仕組みを整えるのも、それと共に触れられる話題だ。その理由は、現状では、それぞれの望みを、叶えることができないからで、制度を設けて、支援をする動きだ。
でも、と思う人も多いだろう。働きたい人の、望みを叶えるのは、就労意欲を、高める為には、重要との主張も、話題と共に出てくるが、本当に、そうなのだろうか。説明し易いので、まずは、大学進学の話から、始めたいが、様々な事情から、進学を断念する話が、伝えられる。何かしらの、金銭的な支援を施せば、一気に解決するとして、無料化とか、返済不要の奨学金とか、そんな提案が、なされるようだが、その一方で、大学からは、正反対の事情が、伝えられている。それは、学生の多くが、勉学をせずに、単位を要求し、卒業したいとするもので、彼らは、単に資格を欲しがり、学問を修める、という本来の目的を、無視しているというものだ。こんな輩に、支援が必要と思う人は、全く居ないだろう。だとしたら、安易に、支援制度の整備を、論じることは、誤りとなりかねない。同様に、働きたいとする人の多くは、そのこと自体より、現金を手にしたい、という望みの方が、優先している。就労そのものの、意欲があるのではなく、ただ、何かしらに使う、金が欲しいということだ。その為には、所謂壁が邪魔で、折角働いても、手にするものが減るのは、御免蒙る、ということだろう。だとしたら、少子高齢化の課題が、高くなるばかりの時代に、制度を改正することで、就労意欲のある人間に、働いて貰い、労働力不足を、解決しようとする目論見は、成就する筈もない。不足する現場でも、ただ、数合わせの人数が、必要となる訳でもなく、上質の労働力が、必要となっているのだ。今回取り上げた二つの望みは、まさに、そういう意味で、ぴたりと重なる。人材を求める意味で、育成も、勧誘も、同様に、肝要なものだ。
その程度の人間、と書いてみたが、では、この所の、社会媒体とマスゴミの論争は、どうだろうか。誰が、その程度、に当たるのかは、ここでは、問題にせずに置く。だが、この論争は、民意と称する、選挙の結果として、何かが、断定されたのか。否、そんなことは無さそうだ。
というのも、審議をする場として、議会に設けられたものは、結論に至っておらず、その代わりとして、議会は、首長に対する辞職要求を、全会一致で決議し、そこから、新たな論争が始まった。それも、当初は、誰が代わりになるのか、という論点だった筈が、選挙の最中から、風向きが大きく代わり、前職が、再び選ばれることとなった。だから、審議された話は、冤罪に過ぎず、結論が出た、との論調が、全体に広がっている。しかし、審議の結論は、未だ出されておらず、その上、その場は裁判所と異なり、法的な権限を、有するものではない。だからこそ、議会が、別途決議を行い、結論を導いた、とされたのに、復活となったのは、野次馬から見れば、何が何やら、全く見えていない、としか言いようがない。では、虐めの事実は、あったのか、なかったのか、その結論は、再開される審議で、出されるのだろうか。これもまた、誰にも分からない。何しろ、議会自体は、一つの結論に至り、始末がついているのだ。なのに、再び、審議を始めるとなれば、何をどうするというのか。以前書いた時も、この手の組織で、審議すること自体、無意味ではないか、との考えがあった。本来なら、違法行為か否かを、裁判という形で、法的に判断するのが、妥当なのだろう。にも拘らず、百条がどうこうという、不思議な場が設けられ、そこでの判断を、尊重するという。だが、今回の結論は、まさに、尊重に値しないことを、突き付けた訳だ。だとしたら、同じものを、再開したとしても、何の役割も果たせず、無駄な時間が流れるだけだろう。だとしたら、民意とは何か。また、大元の事件の白黒は、如何なるものか。
最近、週を跨ぐことが増え、最新号を読むなら、問題は起きないが、週毎に分類して、その後に、読み返す場合には、少しの不便を、感じることが、増えるかもしれない。昨日の話も、暴力や虐めに関して、特に、言葉の遣り取りの場合は、録音することで、白黒はっきりさせる、ということだった。
ところが、これも、現実に起きるらしいが、昨日の最後に触れたように、録音したものが、改竄されたと、被害者が訴えることも、あるようだ。そうなると、証拠も何も、あったものではない。昔は、裁判でも、録音は、証拠として採用されない、という話があったようだが、今は、そうでもないらしい。だが、一方で、録音媒体は、その後の編集作業が、行えないものではなく、自在に、変更可能と言われる。だとしたら、やはり、確固たる証拠とは、言えなくなるのでは、と思える。その中、今や、生成人工知能が、録音記録を元に、恰も、本人が話したように、新たな内容を、捏造できるとされ、問題は、拗れている。映像に関しても、同様のことであり、あらゆる記録が、そういう対象となるとなれば、折角、録音したとしても、それ自体は、無駄だったとなりかねない。パンチも、一度だけだが、組織の長から、所謂ハラスメントを、直接受けたことがある。当然、録音媒体を持ち込み、その場の遣り取りは、全て記録した上で、文字起こしもした。何かあれば、と思ったからだが、その後、これも一度だけ、提出を要請された。同様に、対象となった人々が、訴えを起こそうとし、動き始めた時に、証拠の一つとして、求められたからだ。結局、その長は、失職することなく、任期を終えたようで、何かあったのかは、定かではない。だから、証拠となったかも、定かにはなっていない。だが、こういうことは、以前から、行われており、重要な手立ての一つとなる。当然、上に立つ人間も、同様であり、身を守る為に、実行する人も増えた。一方で、改竄とあるように、発言者本人が、記録されても、その内容を認めず、論争となる場合も。所詮、その程度の人間、との解釈が、社会の常かも知れぬが。