安全を保証し、安心を伝える。子供に対する、親の言葉として、重視されることだが、それを、社会が行うべきか、話は、かなり変わってくる。にも拘わらず、いつの頃からか、そんな風潮が広がり、当たり前の如く、扱われるようになった。困ったことと思い、何度も書いてきたが。
これも、何度も書いたが、何故、こんな考えが、広まったのか。第一にあるのは、はじめに書いたように、子供に対する親の姿勢、つまり、弱い者を、保護すべきとする、考えだろう。だが、これについても、社会が個人に対して、すべきこととするのは、どうだろう。誰が、弱き者で、誰が、強き者なのか、どう決めるべきか。個人を尊重する考えは、あって当然と思うが、それが、擁護するか否か、となるとどうだろう。何かしらの権利を、求める人の多くは、その権利が、弱者に与えられるもの、と考えるようだが、その為には、弱者であることを、社会が認める必要がある。でも、そんなものは、固定されたものでも、保証されたものでもなく、時と場合によることだ。だとしたら、誰もが、対象になる筈も無く、社会を支える人間として、寄与が求められるとしたら、尊重されたからであり、役割分担の一つとして、求められるからだ。そこには、強弱の区別はなく、誰もが、対等な立場として、助け合うこととなる。なのに、弱者であることを、主張する人が、余りに目立っている。その一方で、彼らを、弱者として尊重し、助けてやる必要を、説く人々が居る。こちらもまた、何の目的で、そんなことを、思うのかは、はっきりとはしない。人道上の問題として、それを取り上げ、支援するとの主張も、あるにはあるのだが、人道とは何か、殆ど見えないばかりか、そこに、何らかの利害が、介在することの方が、多いように感じられる。で、これらの結果として、安全・安心が、取り沙汰される訳だ。人道云々を、引き合いに出されると、拗れてくるように、見えているので、確率の問題や、妨げとなる行為を、紹介してきたが、肝心の人々には、何も伝わりそうにない。でも、このような指摘を、繰り返しておかねば、社会の歪みは、深まるばかりとなり、溜まりに溜まったものは、捌け口として、戦争などの国際紛争へと、繋がりかねない。安全・安心を求めたことが、戦争に繋がるなどと、ふざけた話と受け取るかもだが、大真面目で、書いておこうと思う。
安全・安心を希求する人の問題は、何だろうか。これまでに、何度も触れてきたことで、改めて、書く必要は無い、と思う人も、沢山居るだろうが、今、思い付く所を、書いておこうと思う。世間は、これから指摘することに、殆ど気付かぬままに、相変わらずの主張ばかり、だからだ。
まずは、そんなものは、存在しない、という点だろう。安全と安心を、求めるばかりの人々は、それによって、自分の人生が、素晴らしいものになる、と信じて疑わぬようだが、そんな夢のようなものは、何処にも存在しない。反論は、一杯寄せられるだろう。だが、100%、つまり、完全な「安全と安心」の世界など、ある筈もない。と書くと、そんなものは、要求していない、とまずは言い返す。確かに、なるべくの安全と安心を、目指しているのだ、と思う人も居るには居るが、要求のほぼ全ては、まさに、全ての危険を、取り除いた上で、絶対の安心を、与えて欲しい、というものだ。だからこそ、そんなものは、存在しない、と断じているのだ。まずは、確率で、物事を考える必要を、説く必要があるが、これとて、すぐに、自分に当て嵌めて、どうなるかを教えろ、と返してくる。まさに、お手上げ状態、なのである。だから、この点に関しては、説明はするものの、説得しようとは、こちらも思っていない。理解には、程遠い状況であり、歩み寄りなど、以ての外なのだ。だから、次へ移ろう。次は、こういう要求を、突き付ける人の殆どが、自分が、安全・安心を、整えようとする仕組みに対して、邪魔をしている、という点だ。昨日書いたものは、その一例だが、日々の交通状況は、そんな事例に、溢れている。だから、その中で、求めることは、やめて欲しいし、無駄だから、捨てておけ、と思うのだ。この遣り取りの中で、重要となるのは、要求する人々を、弱者と見做し、彼らへの擦り寄りと同情から、支援する人々が居る、という事実だ。馬鹿げた言動を、大いに褒め称え、支援することの、意図は何か、全くわからないが、弱者保護という、考え方そのものが、間違いだとすべきだろう。説明するが、説得しないのも、その表れの一つだが、どうだろうか。
何かある度に、安全・安心を、訴える声が上がる。では、その一方で、この声を上げる人々は、自身では、どんな形で、安全・安心を心掛けているのか。そんな疑問を抱く人は、現実に、かなりの数居るように思う。何しろ、日頃から、運転をしていても、法規を守らぬ人を、毎日見るからだ。
囀りに関して、何度も、否定的な意見を、掲げてきたが、この問題に関しては、事例提示という点で、あれ程に、活発な媒体もないだろう。頁を繰る度に、次々に表示される、逆走の車や、信号を守らぬ車、煽り運転などの例は、数限りなくある、ようにさえ思える。免許という形で、運転を許された人が、法規を遵守するのは、当然のことに思えるが、その一方で、高齢化社会では、認知機能が、衰えるにつれて、覚束なくなる人が、増えているとも言われる。これも、重大な社会問題として、今後、解決の道を見つけていかねば、安全・安心は、手に入れられそうにない。その意味で、自動運転や、運転支援などの、新たな技術開発にも、期待が膨らんでいる。では、運転しない人については、どうだろうか。自転車などの、軽車両に属するものは、免許を必要とせず、正しい技術や知識が、身に付いている保証は、全く無いから、法律上の制約で、安全・安心を、確保することは、難しいだろう。当然、歩行者に関しても、同様のことが、当てはまる。弱者、という見方からすれば、これらの人々については、保護が必要、と考える人が多いが、現実には、交通法規という点で、多くの人々が、誤った行動をしている。ただ、事故が起きた場合に、弱者保護から、責任が問われぬ場合が多く、真の意味での、安全・安心の妨げとなる。先日も、駅で電車を待つ間、入線した時に、隣接する踏切が、閉まり始めた。ところが、歩行者が、そこに侵入し、おそらく安全装置が、感知した為か、入線してきた電車が、緊急停車した。この装置は、安全・安心の為のものだが、一方で、件の歩行者は、身勝手な行動をした訳だ。結局、こういう行為が、遅延に繋がり、それが、別の事故を、誘発する場合もある。関わる人全てが、何らかの形で、影響を与えるのは、こんな事例を見れば、すぐにわかる。でも、自分は関係ない、と思う人が居て、別の危険を招く。どうすればいいのか、答えは簡単なのだが。
推移や現状を眺めても、ただ、摩訶不思議なこと、としか思えないけれど、日々の生活への影響は、大きいに違いない。ただ、大衆媒体の情報操作から、多くの人々が、懸念を抱くことについては、これまた、単なる不思議でしかなく、おそらく、何の結論も出ないまま、例の如く、雲散霧消しそうだ。
それにしても、人々の考えとは、何と不安定なものか、ほんの少しのきっかけで、皆が、同じ方に向かい始め、騒動は、広がるばかりとなる。百年程前に、起きた大震災後の、噂話の数々について、放送や報道の重要性を、認識させる動きが、出ているようだが、その一方で、現状は、そんな媒体の問題ではなく、そこに漂う、人々の不安定な心理と、それを操る不穏当な動きという、問題の方が、遥かに大きく映る。だとして、どうすればいいのか。本来は、関わる人々、それぞれに、状況の認識や分析を、正しく行えるように、教育することこそが、最重要とすべきだが、現状から、見えてくるのは、その手の方策では、何の効果も及ぼさず、却って、悪くする場合さえ、ありそうに思えてくる。だとしたら、お手上げとなるか。そうもいくまい。となれば、国として、何らかの方策を、講じる必要があり、それは、おそらく、若年層への働きかけ、という形になるに違いない。一度固まってしまった、大人達の考え方を、変えようとしても、殆ど無駄に終わることは、明白であり、無駄な努力と見えるからだ。だとしたら、まだ、純粋無垢な子供達を、教育する方が、遥かに効果的なのだろう。でも、これもまた、この百年の歩みを、顧みるに、ほぼ全ての試みが、失敗に終わったことに、気付かせられる。興味本位で、動くだけの子供達に、落ち着いて、物事を考える必要を、説いてきたようだが、それを、受け止めるだけの、受容力は、子供には、無いに等しいからだ。とは言え、ここで、諦めても仕方ない。何らかの関わりを、持ち続けることこそが、今後の展開に、不可欠な要素となるだけに、関係者達は、諦めることなく、継続する必要があるだろう。どうなるか。
米騒動は、どうなったのか。大衆媒体は、依然として、盛んに、高値を煽るかの如く、報じ続けているが、政府が、対策として、渋々打ち出したと言われる、備蓄米放出も、先週、入札が行われ、平均落札価格も、公表された。ただ、それらが、市場に出回るのは、来週以降とのこと。
だが、報道は、相変わらずの高値を伝え、一向に、騒動が収まる気配がない。何が問題か、誰にも、わからぬままだが、さてどうしたものか。ここでは、少し、価格の推移を、眺めてみたい。監督官庁は、その手の情報を、公表しており、それを、まずは、正しく伝えることを、大衆媒体も、社会媒体に関わる人も、行うべきと考えるからだ。上に掲げた、平均価格は、全ての銘柄についてであり、銘柄毎に、価格は大きく異なる。市場原理と言ってしまえば、その通りだが、人気などというものは、信用できぬものだけに、なんだろうか、とさえ思えてくる。そちらに関しても、各地の銘柄別に、価格が発表されている。更に、銘柄毎では無いが、ここ12年程の相対取引価格なるものも、推移がグラフで示されている。このグラフが、興味深いと思われるのは、今年度のものだけが、異常な推移を示し、何かしらの力が、かけられた結果、と思えることだろう。その上で、自分自身の経験を、照らし合わせると、この状況が、更に複雑なもので、ある種、原因不明のものに、思えてくる。これまで、農家から直接、買い付けてきた玄米は、30キロで8千円で、それが、今回は、9千円となっていた。但し、農協では、1万円で買い取られた、と言われたから、それよりは安い。一方で、農協は、それまで8千円だったものを、1万円にして2割増となる。だが、官庁発表の資料では、60キロ2万2千円強で、銘柄や地域の違いで、異なるとは言え、これらの数値が、鵜呑みにできぬことを、示しているようだ。さて、その上で、小売りでは、昨年は、10キロ4千円程で、それでも前の年より、2割強値上がりした。物価上昇が、続いていることが、分かるけれど、グラフからすると、その年、2千5百円のものが、4千円になった訳で、如何に中間業者が入り、手数料が嵩んだとしても、と思えてくる。この手の話を、じっくりと解説することが、大衆媒体の役割と、思えているが、テレビも新聞も、煽ることばかりで、そんな気は起きないようだ。さて、小売価格は、何処に落ち着くのやら。
知り合いの一人が、突然、海の向こうの片田舎に、引っ越した。国際活動の一つ、との話だったが、どういう意図なのか、さっぱり読み取れなかった。渡る前の、暫くの間、電力会社の実情に対し、抱える問題に、触れていたと思うが、それと、片田舎との対比が、不思議だったのだ。
この国は、多くの技術者を、嘗ての後進国、今で言えば、発展途上国に、送り込んでいる。技術移転が、主たる目的だろうが、場合によっては、子供の教育や、技術そのものではなく、考え方全般を、伝えるものだったりする。受け入れ側の、期待通りとなるかは、定かではなく、単純に、それをきっかけに、投資が届けば、と思う人々も、居るに違いない。一方で、派遣される人間にとり、現地の状況を、十分に理解できぬままに、生活を始めることは、ある意味の、不安が伴うのだろう。当初は、驚きの混じった内容が、次々に掲げられて、こちらの驚きも、重なっていた。ただ、今回、新たに記されたものは、やっと、当地の生活に慣れ、現地の人々と、意見交換が行えるように、なったことが理解できるものだった。気候変動は、地球規模で、大問題として取り上げられるが、世界会議などの場ではなく、片田舎の現地で、そこでしか、生活したことのない人にとり、どんなふうに受け取られるか、あまり知られていない。世界的には、大問題の解決において、対立軸が、設定されており、善と悪の二つに分け、関わり方が大きく異なる、とされてきた。ところが、知り合いが、現地の人の議論から、理解したことは、片田舎でさえ、温暖化を問題視し、その上、自分達の生活の糧である、農業における、焼畑方式が、悪影響を及ぼすのでは、との見解に、驚かされたことだ。何も、そんな考えを持たずとも、ただ単純に、豊かな生活をする、先進国の人々が、加害者として、被害者たる自分達に、厳しい生活を強いている、と考えれば、と思ったようだ。だが、この考え方、捻じ曲がった、今の対立軸に毒されず、単純に、目の前の問題に取り組めば、当然出てくるものではないか。純粋無垢とはいかぬまでも、何かしらの真っ当な考え方に、意外さから、驚いたのだろうが、その半面、彼らの考え方を、素直に受け入れて、自分に、何ができるかを、考えたらいいのに、と思う。その一方で、片田舎にまで、気候変動の話題が、持ち込まれたことには、正直、驚いた。
毎月、経済紙で楽しみにすることの一つは、「私の履歴書」である。それなりに、名を成した人が、自らの履歴を、詳らかにするもので、出生から今までの、出来事を語ると共に、親や家族、友人の話題を、紹介するというものだ。成る程と思えることが、多くある。
だが、今月は、一瞥もくれていない。理由は、簡単で、人物は、件の感染症騒動で、政府への答申を、続けた人だからだ。読まずとも、自慢話にしか、ならないだろう、という勝手な言い訳と共に、失敗の数々を、正当化するだろう、と見込まれるからだ。確かに、あの集まりの中心人物が、どう語るかを読み解き、真意を探ることは、重要に思えるかも知れぬ。だが、世界機関の失策にもあるように、真意がどうあれ、実態を見極め、それに対する、適切な対策を講じる、という役目に関して、十分な責任を、果たしたとは思えぬ。それも、国民と政府の間に、板挟みにされたことで、失敗に関して、何らかの責めを、負わされたと言われても、ここで何度も書いたように、冷静で論理的な、分析の上で、どうすべきかを、判断してきたとは、とても言えぬ状況では、読む価値も無い、と断じるのみとなる。これは、世界機関でも、同様であり、専門家を自認する人々が、寄って集って、何を為したかは、暫く時間を置いた、今となっても、とても褒められるものでなく、厳しく批判されるべき、と思うからだ。その上、その後の総括は、一切されること無く、忘れ去られようとなりつつある。その中で、陰謀論などの、下らない言説ばかりが、社会媒体という、何の保証もない世界で、盛んに語られるようでは、何ともならない。こうなりつつあるのは、まさに、詳細を分析し、何をどうすべきかを、後世に残す動きが、世界機関でも、また、各国の研究機関でも、更には、政府自体の判断についても、進められないままに、今の紛争問題ばかりに、目が向くことで、それぞれの責任回避が、平穏に進められ、誰の責任でもない、となっている。これを、自然災害による、津波などの被害や、発電所に絡む、数々の問題と、同様とする考え方には、同意しない。確かに、これらは全て、人災と言えるのかもだが、それなりの成果を上げたものと、そうでないものを、同等に扱うことは、できないからだ。