他山の石とせねば、と思った人が多いだろう。だが、これ、誤用の一つらしい。さて、何方と思うか、人それぞれだろう。こちらから見れば、あの失敗の数々に、何がどう間違っているのか、しっかり考えた上で、自分のやり方を見直そう、という意味なのだが、そうでない人も居る。
あれ程の人物が、考え抜いた末の決断だから、その手法を、真似るべき、と思った人が居る。その道筋自体に、異論を唱えるつもりは無い。そこではなく、これからの成り行きの方に、目が向いているのだ。おそらく、擦った揉んだの挙句に、目論んだ成果を挙げられず、皆からは、失敗と断じられる。そうなっても、あの人物は、自らの責任とは、決して思わず、誰か別の人間が、間違いを犯した、と断じるのだ。だからこそ、この機に乗じて、利下げの好機、と念を押した。決定機関の長が、慎重になるに違いない、と踏んだからだろう。もし、今後の展開が、思い通りに運べば、それは、当然、自らの功績、と褒めちぎるだろうが、そうならなかったとしても、あの時、折角、好機と言ってやったのに、従わなかった、愚かな長の判断が、けちをつけて、負の連鎖へと繋がった、とするだろうから。他山の石、と考えるのは、大いなる決断の部分ではなく、失敗しても、他人の責任として、自らの責任を逃れればいい、という部分なのだ。既に、世の中は、責任転嫁で溢れ、皆が、責任を負わずに、好き勝手に振る舞うか、あるいは、何もせずに、悪化の一途を放置している。こんな社会に、誰がしたのか、などと、また再び責任を投げるより、自分から動いて、少しでも良くしよう、とすべきと思うが、世の潮流は、そうなってはいない。だから、あんな餓鬼大将や、その取り巻き共を、褒め称えて、尊敬するのだろう。悪いことが起きれば、誰か他人のせい、うまく事が運べば、自分の功績、そんな考え方で、社会が、正しい方に向かう筈は無い。とでも書いたら、それでも、平和な時代には、うまくいっていたではないか、なぜ、自分達が関与する時代に、突然、難癖をつけられるのか、迷惑だとでも言い出す始末。こんな状況では、何も好転しない。だったら、自分で、何とかせねば、と思う。こんなことを書き続けるのも、その思いからだ。老人の戯言、と思えば思え。まだ、関わりを辞めるつもりは無い。
不確実性が、確実へと変貌したら、何が起きたか。この週の後半に、世界を駆け巡った、相場暴落が、その一つだろう。不安定な状況、二転三転する内容、そんなものへの、不安や心配を、募らせていた人々にとり、確定したことは、安心へと繋がる筈、だったのではないか。
その意味では、不確実性そのものが、問題では無いことが、明らかとなった。確実なことでも、それが、不都合であれば、相場は不安定となり、折角築き上げた、資産の多くを、失うこととなった。元々、相場には、心理が大きく影響する、と言われてきたが、今回の暴落は、人為的なものでも、ある暴君の、世界全体を敵に回す、暴挙の果てと言われる。但し、彼の思惑は、全く別の所にあり、心配は要らない、と支持者達は、囀りの中で繰り返す。今回の措置は、輸入を制限するという、国内産業の復興を目指す為の、保護貿易では決してなく、これこそが、自由貿易への道筋だ、とさえ言い出す始末には、お手上げとしか、言いようが無い。とは言え、彼の意図は、何処にあるのか。これ程の激震でも、方針転換はあり得ない、とまで、強気の弁を、囀りに繰り返すようだが、週末を迎えて、ある意味、稼ぐ為の時間は、たっぷりできた。その間に、理論武装に走るのか、はたまた、前言撤回ではなく、強気の姿勢を崩さぬままに、交渉術の一つとして、新たな変更を、投入することで、幕引きを図るのか。何方にしても、ここ数日の下げで、資産家達は、虎の子を、かなりの割合失った。ただ、票数の大部分を占める、支持者達の多くは、そんなものを手にしておらず、職や補助金を、待ち焦がれているだろう。そう考えれば、大勢が揺るぐことなく、このまま突っ走れば、と考えたとしても、不思議は無い。これも、但しだが、政権に参加した、経営者達には、大いなる打撃であり、何かしらの代償を、求めているだろう。どんな展開が控えるか、週明けへの期待は、再びの不確実性、かも知れぬ。
世界に、激震が走った、と伝えられた。関税発動は、国と国の間で、物品を取引するのが、当たり前の時代に、厳しい障壁を設ける、そんな措置なのだが、彼の目論見は、自国産業の復興であり、まさに保護貿易の発動だった。だが、どうにも、承服しかねるものだ。
自国産業の復興は、主要な公約の一つで、それこそが、雇用を確保し、皆の収入を伸ばす、という大いなる目標への、第一歩になる筈だ。と言うのは、簡単なことであり、それを、関税という形で、輸入品の流入を、妨げることによって、実現しようとする戦略は、如何なものか、という意見が大半だろう。当然、市場に出回る物品の価格が、その分だけ上がり、物価上昇という、今現在の課題を、克服するどころか、膨らませるだけ、とも言われる。それ自体が、暫くの間の我慢を、国民に強いるか、はたまた、破綻覚悟で、企業経営者に、関税導入による、価格上昇分を、吸収することで、価格維持を、強いることとなる。経営者たる人間には、当然の経営戦略、とでも言い始めるだろうが、破綻すれば、元も子もない。一方、自国産業の復興は、国内生産を目指すもので、これは、四十年ほど前の、同じ政党の大統領が、高らかに宣言した、"Made in USA"運動と、同等のものだろう。当時、繊維製品の大部分は、東南アジアの国々から、輸入されたもので、杜撰な縫製など、今から見れば、どうにも、安かろう悪かろうの典型、としか見えないものだったが、その暫く前には、この国からの輸入品が、まさにそう呼ばれて、揶揄されていた。その後、小型ラジオの登場以来、当時の、自動車輸入の増加に対し、国内の組合が、挙って反対の声をあげ、道端で、憎っくき車を燃やすなど、派手な反対運動が、巻き起こっていた。これも、圧力に屈した企業が、現地生産を始めることで、雇用の確保がなされ、国内生産が、伸びたのだが、その販売店で、客が車を選ぶ際に、これは、輸入か、国産かを尋ね、国産なら買わない、と言ったとされる、笑い話が飛び交った。それ程に、自国の生産能力に、疑いが抱かれた訳で、それこそが、産業復興が、進まなかった理由だろう。で、現状に目を戻せば、思惑通りには、いきそうにない、と思えてしまう。ここから先、口先だけでなく、小手先の手直しで、何とかしようとするだろうが、はてさて、どうなることやら。
主導権を握ることは、経営の鉄則の一つ、なのだろう。交渉事を進める上で、こちらに優位な条件を、設定できれば、その後の取引も、思い通りに進められる。実は、外交においても、同様のことが、当てはまると言われる。確かに、海の向こうでは、経営者達が、国政に携わり、交渉を進める。
だが、主導権を握るとは、時に、暴走を招くことがある。自己中心的となり、利己的な外交や内政を、推し進めることが、国内紛争のみならず、国際紛争へと、結び付くからだ。そんな事情から、国の間での紛争を、解決する手段の一つとして、国際機関が、設置されている。それも、大戦前の組織では、不十分だったとの反省から、戦後は、戦勝国を中心として、敗戦国が、再度の過ちを、犯さぬように、との配慮から、仕組みが設けられた。だが、ここに来て、肝心の戦勝国が、暴走にも似た行動を、起こし始めて、国際紛争は、どれも、解決には程遠い状況に、追い込まれている。その一方で、貿易戦争なる言葉が、盛んに使われ、被害を受けたとの主張から、関税導入を、ちらつかせていた、海の向こうの大統領は、ついに、相互関税なるものの導入に、踏み切ったとある。以前から、不公平だとの主張から、貿易赤字の削減に、関税が、最大の武器となる、との主張を、繰り返してきたが、遂に、その率を、国や地域毎に定め、公表した。この国も、長い付き合いや、数々の優遇措置にも関わらず、対象から外される訳もなく、貿易額に応じて、厳しい関税率を、当てはめられた、と言われる。公表の中で、彼が使ったのは、従前から、報道官が、盛んに出していた、ある物品への関税の数字だが、その度に、報道では、算出の根拠が示されず、法外な数字との解説が、加えられていた。更に、非課税対象として、34万トンも輸入している。だが、政府からは、確かな反論がなかったからか、今回の発表でも、同じ数字が示され、不公平の証左として、高らかに宣言された。実際には、あちらの市販価格と、こちらの関税を比較すれば、正しい率は、簡単に算出できる。kgあたり、円換算で、103-285円のものに、341円の関税が、かけられており、割合としては、120-330%程度となる。確かに、あちらの主張の700%には、程遠いもので、反論の余地は、たっぷりありそうに見える。だが、こちらの役人は、それを示せば、高い関税をかけていることが、明らかとなる、と思ったようで、何の反論もしなかったらしい。やれやれ、こんなことでは、交渉事は、有利には進まない。仲良しだった、元宰相だったら、どうしただろうか。で、現宰相は、如何にするか。示した根拠が、根も葉もないなら、別の示し方を、せねばならない。
需要と供給の均衡から、流通量が決まり、それによって、価格が決定される。単純化し過ぎだが、市場原理とは、このようなもの、と思われている。だが、現実には、全く別の要素が、強く反映され、価格の操作や乱高下が、引き起こされる。最近の動向について、考えてみたい。
海の向こうの暴君が、日々発する、妄言の数々は、脅しに似たものから、二転三転するものまで、様々あると伝えられる。一方、こちらの調査資料から、需給均衡が崩れたのは、流通経路が、変わった為と、官庁や新聞の解説は、結論付けた。これらの二つの事象と、株式市場や物価における、相場価格と米価格は、強く結び付くが、それが、市場原理によるものとは、どうにも解せない。どちらも、相場における、心理的要素が、強く反映され、不確実性と称する、何が起きるか、見えていない状況に、慌てふためく、株式市場と、前年の不作から、不足への懸念を、強めた人々の、不安心理からの、農家からの直接仕入れ、という買い占め行動の一種が、末端での商品不足を、引き起こした、米市場が、ある意味、同じ図式の上で、動き回った訳で、これらを、市場原理で、理解しようとするのは、無理筋に思える。他方、市場原理は、所詮、需給に関わる人々の、心理が映し出されたものに過ぎず、商品の流通は、二次的なものとの見方もある。何れにしても、末端においては、株の乱高下にせよ、米価の高騰にせよ、迷惑なものに違いなく、被害甚大とも言える。だが、その一方で、これらの事象の殆どは、投資家にしても、消費者にしても、直接関わることで、その変化に、何らかの影響を、及ぼしていることも、確かだろう。だとしたら、株の暴落も、米不足も、知らぬふりをして、嵐が過ぎ去るのを、待てばいいだけかも、だ。株は、徐々にしか、上がらぬものだが、下落は、一気に起きる。物価は、一方的に上がるのみで、下がることは、ごく稀に過ぎない。とはいえ、そこにあるものが、無くなる訳でもなく、今、手に入れなければ、という類いのものでもない。だとしたら、騒動が、過ぎ去るのを、待つのみだろう。心配や不安を、盛んに口にする人々は、安全・安心を、矢鱈に求めるが、それらの要因は、所詮、一過性のもので、喉元過ぎれば、となるだけだ。慌てず、騒がずを、基本とすれば、心の平安は、容易く手に入る。
米騒動の続報である。今朝の経済紙、5面に、監督官庁の調査結果が、発表された、という記事が掲載された。5面の記事なんて、普段なら、気付く筈もないが、重要との判断からか、1面最上段に、見出しを掲げて、知らせていた。それが無ければ、飛ばしていたに違いない。
監督官庁の公表資料には、記事にある通りに、通常経由する筈の、集荷業者ではなく、農家から直接に、小売りや外食に、多くのコメが流れていた、とある。記事では、資料の最終頁に、掲載された流れが、纏めて示してあり、調査の結果を、すぐに理解できるようにしてあった。説明として、農家から、通常ならば、集荷業者に流れた後に、届く筈のもの、何と44万トンが、飛び越して、卸や小売り、外食業者に、直接流れたとある。理由は、前年の不足があり、懸念を抱いた業者が、農家に直接交渉して、手に入れたようだ。だから、通常の流通経路は、不足の状態となり、末端の商店に、見当たらぬ事態となった。まあ、その通りなのだろう。これにより、需給均衡が崩れ、結果として、他の食品同様に、高値となった訳だ。市場原理から言えば、これもまた、その通りに違いない。だが、本当に、そうなのだろうか。疑いの余地は、まだまだありそうに思う。何しろ、末端消費者にとり、競争相手となる筈の業者が、既に、手に入れた状態であれば、需給均衡は、大して崩れていない、と見ることもできる。何れにしても、こんな具合で、米不足が起き、消費者の狂乱が、起きたと言う。となれば、一部の憶測の、騒ぎに乗じて、儲けを企む悪徳者は、存在しなかったとなる。これもまた、怪しいものだが、この調査結果自体が、やはり、誰も悪くない、との結論ありきの、ものだったとも思える。だとして、備蓄米の放出は、何を引き起こすか。足りていたなら、余ることになり、また、お役所攻撃が、起きそうに思える。こちらはこちらで、筋書き通り、とも思えるが、さて、どうなるのか、見守るしかない。一方で、記事では、専門家の発言として、「供給が足りていない」とあったが、こちらも、相変わらずの、愚かな意見だろう。騒動は、騒動でしかなく、何ともなかった、となりそうだ。
「不確実性(uncertainty)」という言葉が、おそらく今は、大流行りなのだと思う。海の向こうのあの人物と、その取り巻き達が、盛んに続けている、不規則発言、不穏当発言、更には、前言撤回などで、迷走が続く状況を、表す為に使われ、世界情勢の不安定を、解説する。
確かに、あっちへ、こっちへと、引き摺り回される現状に、辟易とすると同時に、あたふたするばかりで、心が落ち着かず、将来への懸念が、積み上がるばかり、という人が多いようだ。でも、そんなことは、ある意味、当たり前なのでは、とも思う。世の中には、確実なことなど、一つも無いし、そんなことの連続に、一喜一憂していては、心も体も、持ちそうにない。前にも書いたが、一つだけ、人間、というより生き物にとり、確実なことがあるとすれば、それは、死を迎える、ということだ。それ以外は、夢も希望も無く、期待は裏切られ、予想外、想定外のことばかりが、起きてきた。と思う人が、殆どだと思うが、実際には、結果的に考えれば、予想できることの、一つが起きたに過ぎず、不確実性という意味では、可能性のあるものの中で、それに至ったのが、確率の一つに過ぎない、ということなのだ。夢や希望は、その人の心の中で、芽生えてくるものであり、こうあればいいのに、と願うことだろう。でも、その通りになることは、殆ど無いに等しく、それ以外に、落ち着いたとしても、次は、それに対して、応じることが必要となる。人々の普段の生活でも、こんなことの連続であり、一喜一憂する人は、居るには居るだろうが、そんなことでは、すぐに対応できず、負の連鎖に陥ってしまう。だからこそ、これもまた、可能性の一つとして、ある意味の諦めに似た気持ちで、新たな方向に、進んでいく訳だ。では、最初に書いた、今の状況は、どうだろうか。彼に投票した人達は、確かに、期待とは異なる、別の言い方をすれば、約束とは違う、経過に対して、不確実性を実感、と思っているかもだが、現実には、人間のやることには、こんなことが当たり前で、期待する方が、間違っている、と思うべきだろう。地球規模での、長く続いた平和のお陰で、人の心は、確実を求める方に、動いてきただろう。でも、そんなことは、決して実現しないし、あり得ないと思っておいた方が、遥かに気楽ではないか。不確実性、何するものぞ、と思いながら、対応しよう。