最近の話題の、もう一つは、米騒動だろう。擦った揉んだの挙句に、大臣の交代となり、そこから、新たな手立てが、講じられて、今は、一つの解決を見た、と思われている。だが、不安と心配を、手放す気の無い人々は、別の問題を、次々に取り上げ、安心を渡さぬつもりらしい。
競争入札と、随意契約には、何の違いも無く、何方も、肝心の物品が、出回りさえすれば、問題解決となる、筈だった。ところが、この世界を、牛耳り続けてきた、ある組織は、依然として、その権利を手放さず、牛歩の如く、一向に進まぬ、手続きの数々を、まるで、人質に取ったが如く、価格の下降も、流通さえも、滞ったままに、操作を続けたようだ。豪を煮やした、新大臣は、親と同様に、業界に居座る組織を、破壊しようとばかりに、競争相手の参入を、手助けする形で、止まった歯車を、動かし始めた。その甲斐があり、市場に出回り始めた、米の袋に、群がるように、殺到する消費者を、不安と心配の権化は、盛んに取り上げ、競争を煽ることで、別の問題を、声高に訴える。と同時に、一部の政治家の、失言としか思えぬ、妄言の数々も、この時ばかりと、何度も繰り返し、流し続ける。家畜の餌に、なる筈のものを、大切な国民に、配るとは何事か、とは、言うに事欠いて、としか、言い表しようのない、馬鹿げた論法でしかなく、無知と共に無恥を晒し、売る程ある、と称した上で、受けを狙ったとまで、告白する始末の、前大臣と、何ら変わらぬ、愚か者ぶりだ。にしても、この一連の流れに対し、例の如く、総括するつもりは、毛頭無く、喉元過ぎれば、となることが、ほぼ確実となっている。米は、足りているのか、足りていないのか。監督官庁でさえ、実態を掴めぬままに、業界最大の組織の、主張のままに、鵜呑みにしており、ずっと昔の、年貢の時代のように、役人自ら、領地内を歩き回り、確かめる必要が、あるのではないか、と思える。その上で、減反政策一辺倒だった、愚策の連鎖から、抜け出す道を、見つける必要がある。その際に、現大臣が、活躍するとは、とても思えぬから、何か、新たな手立てが、必要となりそうだ。
独り言では、批判的なものの見方を、紹介しているが、それは、悲観論とは、全く異なるものだ。悲劇的な筋書きを、紹介することで、人々に、不安や心配を煽り続け、自らの存在価値を、見せつけようとする、一部の識者や、マスゴミとは、全く違う考えに、基づいている。
だから、ここで書き続ける、批判の数々は、多くが、悲観論に向けてのもので、安心していい、とは言わないまでも、過剰な心配や不安で、身動きが取れなくなる、という事態を、避ける為のものだ。だからと言って、何もせずに、好き勝手に振る舞うことが、いいという訳ではない。自分ができることを、しっかりと行うことで、社会全体が、支えられる、という信念に基づくもので、一人ひとりが、責任感を持ちつつ、日々の生活を送れば、何の心配も要らない、と言っているだけだ。例えば、多くの識者が、少子高齢化が、このまま進めば、労働力が不足し、その分を、外国からの人材に、頼らざるを得ない、と主張するが、現実には、多くの労働力が、余っている状態で、一方で、高度成長の果てに、効率化が高められ、様々な現場で、省力化が進んだお陰で、識者が叫ぶ、人材不足は、それらの殆どが、心配無用と思えてくる。にも拘わらず、人が足らないとばかり、言い続ける人々は、状況判断が、明らかに誤っており、今、国内で、余っている人材を、如何に活用するかを、論じないことに、知恵の無さが、露呈していると思う。そんなことを書くと、主婦がとか、子供がとか、そんな方にしか、目が向かないようだが、実際には、今、非正規雇用とされる、人材の多くが、正しく活用されず、本人も含め、悲惨な状態にある、と信じ込まされ、世間的には、誤解を招くように、誘導されている、と思う。それ以外にも、障害者と呼ばれる、人材の活用も、不十分な状態にあり、いつものように、不幸な人への支援ばかり、声高に訴えるだけで、本質的な解決を、目指さぬ姿勢に、呆れるばかりだ。支援も重要だが、それより、遥かに大切なのは、活用なのだと考えれば、使いようは、一変するに違いない。こんなことの積み重ねが、解決への道筋となる筈だが、どうだろう。
何度も書いてきたように、海の向こうの餓鬼大将の、迷走ぶりには、呆れるばかりだろう。ただ、彼程の極端さは、無いにしても、同様の政策は、同じ党からの、大統領を見れば、納得できる部分もある。関税も、最近は、盗聴事件で、失職した人物も、やっていたことだから、とされる。
で、その観点で眺めると、無軌道ぶりは、説明できぬまでも、高学歴の人間を、仇の如くに扱う、あの手法は、独自のものとは、思えてこない。だからこそ、多くの経営者や、大学関係者は、敵対する政党を、長く支持してきた。ここに来て、論理が通じない、政策の数々や、研究や高等教育を、罵倒する態度が、際立つようになると、高学歴の人間から、改めて、現職のみならず、あの政党への、批判の声が高まる、と思える。減税や雇用など、即効性の政策を、好んで打ち立てるのも、あの政党の常だが、ここに来て、度が過ぎるとさえ、思える程となると、長い目で見る必要がある、人材育成や研究などへの、資金投入が、滞ることが、明らかとなり、経済のみならず、様々な方面に、停滞が起きる、と予期される。特に、問題を大きくするのは、多くの点で、過度な変化を、起こしていることで、傾いた勢いを、戻すことが、難しくなる、とさえ思えてくる。再選は、もう無いと、制度上からも、言われているが、それとて、転覆させようと、動くかもしれず、懸念は、大きくなるばかりだ。一方で、次の候補と、見做される人物も、一見、論理性を有する、とも思えるものの、この所の、支える姿勢からは、逸脱の気配さえ、感じられている。二大政党制が、大切にされるのは、振り子のような、動きをするからであり、結果的には、何処か遠くに、飛んでいくことがない、と思われるからだろう。一方で、民主主義が、守るべき権利を、保証することも、重要なもので、今の急変についても、個々に対応され、落ち着きを、取り戻すかもしれない。何にしても、海のこちらからは、見守るしかないのだ。
排斥により、閉鎖的な国を、築き上げる、というのが、あの人物の目標だったら、まさに、今の状況は、その途上にある、と言えそうだ。関税の導入で、国内産業を、保護しようとするのも、その一つと考えれば、腑に落ちるだろう。だが、その将来性は、如何なものか。
こちらの大企業が、あちらの、凋落が続く、嘗ての重工業の花形だった、企業を買収する話は、自由主義、資本主義から言えば、当然の成り行き、と見えたが、前大統領も、その後を継いだ、候補も、そして、今のあの人物も、選挙期間中には、反対を唱えていた。禁止という判断を、下した挙句に、退任する態度には、責任とは思えぬ、別の感情が、働いているように、見えたものだ。その後、天邪鬼ぶりを、発揮し続ける人間に、前と同じは、納得がいく筈がなく、結局、買収を、認めることに、なりそうな気配だ。但し、つけるべきいちゃもんを、次々と繰り出し、与党の幹部でさえ、何やら、不穏な武器を、持ち出す始末に、また、市場が騒然となる。ただ、政府の関与を、確かなものとする手法は、別の先進国では、当然のものと見做され、発行株式の、かなりの部分を、政府が保有する、という国も珍しくなく、それによって、発言権を維持すると共に、海外進出などにおいて、支援を惜しまぬ姿勢が、維持されている。こちらは、海の向こうからの圧力に、屈する形で、政府主導の、経済発展や科学技術振興を、手放すこととなり、官僚にとって、国を率いる誇りが、失われたことで、役人になる夢は、失われてしまった。その後、優秀な学生の、就職先としての地位は、脆くも崩れてしまい、今に至っているが、近年の、能力不足の嘆きは、まさに、その辺りから、始まっている、と見ることもできる。公僕たる存在が、高い能力を発揮し、国を率いてきたことが、敗戦後の、高度成長を支えたのだが、その後の凋落ぶりは、別の要因を挙げる向きもあるが、現実には、国政に携わる人々の、問題と見るのが、正しいのではないか。今更ながら、嘗ての立身出世物語を、復活させることが、必要に思えてくる。
ここを書き始めた当初から、時代の問題を取り上げてきた。世界各国で、若者達の意欲の減退が、問題視されていることに、触れたのだが、各国の中で、唯一の例外は、海の向こうのあの国で、その理由は、移民の受け入れ、と結論づけていた。嘗ては、そうだったのだ。
となってしまいそうな勢いで、あの大統領が、次々に繰り出す、移民排斥の政策に、どう対処するのか、当初は、労働移民が、その中心となっていたが、今や、学問の世界にまで、及び始めている。ここまで、極端な変化が起きたのは、実は、その他の国での、移民政策の変化が、きっかけになったと思われる。冷戦時代には、東西に分かれていた国が、壁が崩れたことで、統一された時に、西側の人間達は、一気に流入する、安い労働力に、懸念を抱いていた。それが、杞憂となり、落ち着くにつれ、高い工業力を誇る国に、戻り始め、東からの人間が、宰相になった頃から、移民政策の転換が起き、多くの国々から、豊かな生活を夢見る人々が、流入し始めた。同じ地域の国々が、同等とは言えないまでも、似た政策を始めたことで、確かに、安い労働力を、手に入れたのだが、その代わりに、多くの労働者が、仕事を失い、徐々に、問題が広がった。その結果が、移民排斥へと繋がるのは、ある意味、当然の道筋だろう。ただ、それ以前から、移民大国だった所では、それでも、変更されることなく、維持してきたが、前の任期の時に、国境に壁を築き、流入を止め始めたのに、驚いた人は多い。それが、返り咲きとなると、更に、状況悪化が進み、まさに、移民排斥への道を、突き進み始めた。国内産業の保護と、労働の確保が、確かに、公約だったのだから、その通りの道筋だろうが、さて、このままで、繁栄を続けられるのか。最初に書いたことからすれば、危ういと言わざるを得ない。今しか考えられぬ、頭の悪い人間には、先のことなど、眼中に無いのは当然で、そんな人間を、選んだ人々は、彼の任期が終わった時に、何を考えるのだろう。
言葉の問題は、難しいことだが、その流れを眺めてみると、あのことが、気になってくる。それについては、後半で書くが、まずは、どんな言葉が、という所から、始めてみよう。手にした端末で、撮影するのが、当たり前となったが、それ以前には、皆、写真機を、持ち歩いていた。
その後、高価なものは、と思う人が増えたからか、あるいは、多くの物品が、一度きりの使用、となったからか、所謂、使い捨てカメラが、登場して、一世を風靡した。軽くて使い易く、高価なものと、変わらぬ画質が、手に入ることは、ある意味、画期的だったが、勿体無いとの意見が、社会に広がるにつれ、呼称に、いちゃもんが、ついたのだろう。いつの間にか、レンズ付きフィルム、と呼ばれるようになった。写真機を、知る人間には、フィルムにレンズが付くとは、異様としか、思えないものだが、こういう変更は、圧力によるものとして、多くありそうだ。これが登場した時、誰でも綺麗な、という意味を込めて、「バカチョン」という言葉が、使われていたが、その当時、最近、とんと見かけなくなった、ある女性論客が、言葉の問題として、「チョン」が、ある国を侮蔑するもの、と紹介して、放送で、使用が禁止されたことを、紹介していた。検索してみると、実は、維新前から、使われていたようで、語源も異なる、との意見が出ており、さて、あの話は何だったのか、と思える。先日の話に戻すと、優劣が、誤解を招く、とのことだったが、意味を含めて、解説することが、重要と思う、と書いた。しかし、学会が、乗り出してまで、変更を強いたのは、受け手の問題、とされている。嫌な思いとか、嫌悪感とか、差別とか、そんなことが、理由となったが、受け取り方が、肝心とされていた。学問の立場から、その意味を、丁寧に説明するより、安易な変更を、決断したようだが、新たな用語は、別の問題を生じている、と思う。さて、これらの経緯において、問題となったのは、やはり、虐めについての解釈に、始まりがある、と思えるのだ。いじめっ子ではなく、いじめられっ子に、主眼を置くべき、としたことは、ある意味、画期的だったのだろうが、それにより、様々な皺寄せが、社会で起きている。その一つなのでは、ないだろうか。
差別的な言葉に対し、配慮せねばならぬ時代、と言えば、その通りかも知れぬ。だが、差別という括りが、どのような形で、規定されるかで、この話は、解釈が大きく異なる。痴呆と認知、直接的な表現から、穏当な表現へと、変更されることが、重要との見方があるが。
現実には、真の問題は、そこには無いと思う。医学の世界では、症状を表す為に、様々に工夫された、表現が用いられ、それが、病名として、一般に知られることとなる。妥当な手続きに、思えるようだが、現実には、それによって、様々な誤解を招き、病名の一人歩きが、時に、治療を困難とさせ、社会問題となる。的確な表現であれば、と思う人も多いが、一方で、病名を告げられたことで、安心したとの声も、届くようだから、一概に、弊害とは言えぬ、との意見もある。本来、説明を尽くし、誤解を招かぬよう、配慮することの方が、大切だと思うのだが、多くの人々は、自らの直感に基づき、誤った解釈で、全てを片付けてしまう。これは、遺伝用語でも、同じことであり、表現を変更するより、真の意味を、伝えることに、力を入れるべき、と思うのだが、現代社会では、安易な方に流れる。また、こういう動きは、人権派が、得意とする所で、その圧力や運動に、学会が屈した結果、と見ることもできる。ただ、有識者を、自認する人間が、実際には、正しい対処をせず、安易に流れることが、問題を複雑にする。人権派も、有識者も、単に、装っているだけで、本質的な問題解決を、目指さぬのは、どうしたものか。懸念が、広がる訳ではないが、こういう動きが、盛んとなると、学問の世界へも、圧力が高まりそうに思う。差別表現の典型として、古くから使われてきた、生き物の名前、それも通称ではなく、和名という正式なものまで、変更せよとの意見が、出るのでは、とさえ思えてくる。著名な植物学者が、もし存命なら、何と評するのか。言葉そのものの、差別感については、こちらも著名な作家が、断筆宣言をして、世間を騒がせた。本人の意見は、少し違ったようで、所謂「言葉狩り」ではなく、時代背景を、とのものだったようだ。真意を、知る術は無いが、さて、言葉の問題を、どう考えるべきか。