お山の大将は、二人要らない、というのは、ある意味自明だが、国家間でも、国家内でも、この所、世界はそんな話題で、持ちきりなのではないか。自国内での大将では、飽き足らなかったのか、軍事侵攻に踏み切り、他国に土足で踏み込むなど、どんな理由をあげても、馬鹿げたことだ。
世界中から、批判の声が届くばかりか、遂には、侵攻した国から、反撃を受け、基地には、かなりの被害が広がった、と言われる。だが、あの狂気の人物には、あの程度のことは、何の影響も、及ぼさないようだ。怒りを、抑えきれぬ様子で、また、爆撃の命令を、下すに違いない。こうなると、抑えが効かない状況に、海の向こうの大将も、打つ手無し、の様子だろう。一方で、あちらの国内の、二人の大将は、予想通りと言うか、想定より遅かったと言うか、兎に角、決別となったようだ。当然の如く、手にした端末から、怒りに満ちた、罵声の数々を、世界中に飛ばし合っている。餓鬼のよう、と思うのだが、彼らは、恐らく、大真面目に違いない。しかし、外交にせよ、国内政治にせよ、やりたい放題の連続に、国民の多くは、辟易としている。あちらに暮らす人物が、久し振りの帰国で、話をすることができたが、やはり、予想通りと言うか、生活への危機感は、かなり強まっているようだ。別れる時に、帰りたくない、とまで語っていたが、正直な気持ちだろう。外国人にとり、ある意味、暮らしやすかった国だが、今の状況が、続くようだと、状況悪化が止められず、遂には、ビザどころか、永住権まで、剥奪しかねぬ、そんな気配さえ、漂っているようだ。閉鎖的な世界を、築こうとしている、と見る向きもあるが、確かに、二度目の任期で、前回にも増して、その傾向が強まるばかりで、取り巻きが、止めに入ることも、無い様子なので、このまま行けば、と考えたくなるのも、無理もないことだ。だからといって、放置しておけば、ともいかぬものだ。ほんの数ヶ月で、この様子だと、と思うのなら、早速、中間選挙に向けて、動き出す必要があるし、一方で、あの狂人とも思しき人物を、選んだ人々に、責任を、という声も、高まるだろう。一層の混乱は、避けたいものだろうが、さて、対岸の火事で、済むものだろうか。
一つの時代の終焉、との声が、聞こえてきそうだ。ある野球関係者の死が、それと繋がるとも言われるが、当日もそれからも、次々に流れる、特集番組の数々に、そんな思いが過ぎる。確かに、現役時代も、監督になってからも、絶大の人気を、誇っていたのだが、それにしても。
所属する球団の、黄金時代を築いた一人として、紹介されることも、多かったのだろうが、やはり、監督を退いた後に、国から、様々に表彰され、更に、評価が高まった。嘗て、職業野球と呼ばれ、他の野球とは、一線を画す存在で、しかし、その一方で、競技を見せることを、職業とするのが、一段低く扱われていたこともあった。それが、今丁度、百年を迎えた元号の、終わりの頃には、親達が、子供にならせたい職業として、首位を競う程に、評価が高まったのは、まさに、高度成長期を経て、収入が全て、と言われたことから、高収入を、約束されるものの一つ、としてのことだった。ただ、選手生命は短く、その後の保証も、不確かな中、果たして、そんな判断が、正しいものか、との声もあった。こういう変化の、きっかけの一つが、この人物の存在であり、互いに競い合った、同じ球団の本塁打王の、存在だったのだろう。一方で、金が全て、と言われたのも、既に、過去となりつつあり、その後は、自らの愉しみを、最優先にする為に、最低限の収入が、保証されれば、あとは自由時間、という考え方が、社会に浸透することとなった。だが、出生率の低下は、このことが、強く影響している、とも言われ、独りで暮らすことに、何の抵抗も無く、家族という存在を、不可欠なもの、とは捉えなくなりつつあり、今後は、その傾向が、強まるばかりと言われる。老後への懸念は、無くなることはなく、不安や心配を、煽る報道は、今この時も、せっせと、悪材料を見つけ出し、並べて叫んでいる。これもまた、時代の終焉、との繋がりかも知れぬ。あの元号の半ばの頃、を懐かしむ映画が、公開され、人気を誇ったのも、憧れや思い出に、浸ることからだったのか。だが、戻ることはできぬ。どうしたものか。
騒動も不足も、何方にしても、人間の問題だろう。その上、その問題を、際限なく広げるのも、人間の問題だ。騒ぐことは、大昔から、人間の営みの一つであり、それによって、社会を動かしてきた。ただ、社会の大きさは、今昔で、全く異なる。なのに、それに対峙する人間は。
本質的には、全く変わっていない。確かに、便利な道具を、手にするようになり、遠くの人から、話を聞くことも、できるようになった。でも、それらの、情報と呼ばれるものに、影響を受ける心は、何も変わっていないか、もっと脆弱性が、強まっている、とさえ思える。大したことないのに、大袈裟に取り上げたり、誰かが、悪意をもって、膨らませた話に、振り回され、騒ぎ立てる。そこには、自分なりの判断は無く、ただ、論外な話を、吟味することなく、鵜呑みにする。その結果、心が傷つけられれば、更なる騒動を引き起こし、周囲を巻き込もうと、躍起になる。そんな所で、大いに役立つのは、被害者意識であり、被害者保護の考え方だ。弱みを見せれば、声をかけてくれ、手を差し伸べてくれる。だったら、無理にでも、弱者を演じることが、重要となる。だが、それによって、作り出された歪みは、弱めようとする人が、登場する筈もなく、ただ、放置されるか、それとも、拡散されるか、となる。こんな心情が、巷に溢れると、それに対して、断固として、抵抗する人達は、集団から、排除されるだけで、仲間意識こそが、優先される。異論が許されず、協調性という、一種捻じ曲がった考え方が、強制される。この所の騒動は、殆どが、その程度のもので、関わった人々も、早晩、次の話題へと、移っていくだけだ。だから、どうでもよく、放置すればいい、とはいかないものだ。騒動も、不足も、要求に対して、何らかの対処が行われ、結局、それらが、残留物として、将来へと積み残される。だったら、もう少し、やりようがあるのでは、とも思えるが、余裕の無い連中に、そんな思いが、過ぎることなど、ありそうにない。こうなったら、自分だけでも、強く生きねば、と思ったりもするが、同調圧力は、強まるばかりで、抵抗するのも、簡単ではない。
今度は、人手不足の話の続きである。これもまた、的外れな指摘であり、最近の報道の、劣悪ぶりを、表している、と思う。前の話とは違い、ある特殊技能を、有した人間の職場で、最近噴出し始めた、問題を取り上げる、として、大々的に、謳ったものだが、何だか、と思う。
特殊技能とは、国家資格を有した人間しか、持たないものという場合も、数々あるが、中でも、そこに至るまでの道筋で、高い学力と厳しい競争があり、最終的に、厳しい国家試験を、課されるものだけに、世間の尊敬の対象ともなる。思い至ったろうか。医者のことだ。跡継ぎにさせる為に、莫大な寄付金を払い、やっとのことで、入学させたのに、肝心の国家試験に、合格できずに、廃業に至った、という話もあるが、最近は、経営難から、畳んでしまう所もあり、現場の実情が、如何に厳しいものかが、取り上げられる。だが、今回の話は、公共放送が、特別番組を流し、取り上げたもので、中には、少々、事情が異なるものもある。特に、この一連の番組の二番目に、取り上げられたものは、深刻さが、訴えられる割に、呆れるばかり、との印象しか、残らなかった。要するに、技量のない医師が、誤診を続ける中、病院での混乱が、極まることで、地域医療の荒廃と、病院の存続の危機を、伝えたものだが、何故、技量不足の医師を、解雇したり、資格停止としないのか、不思議でならない。以前なら、多くの医師が居る中で、ある程度の支援が、できていたが、とまで宣うのを眺め、呆れてものが言えない、としかならない。企業では、採用直後の社員が、力量不足を露呈すると、部署替えの挙句に、所謂、窓際に追い遣り、退職を促すが、資格絡みの業務では、資格停止などの措置が、不可欠ではないか。もう一つは、研修についての、制度改正により、一部地域に、医師の集中が起き、地方での空洞化が、著しくなっている、との話だが、こちらは、例の如くの、権力への抵抗を、強調したものに映る。ただ、前者が、制度だけでなく、雇用そのものへの、考え方の問題なのに対し、後者は、全く別の要因であり、並べて取り上げる姿勢には、またぞろ、無知蒙昧の気配が、漂っている。こちらの人手不足も、肝心要のことが、理解できていないようだ。
米騒動の続きを、もう一つだけ。備蓄米が、店頭に並び始めると、そこに、問題を生じさせたいからか、報道は、また、乱暴な取材を始める。この手法は、実は、使い古されたもので、あの連中が、社会に、不安や心配を、広げる為に、何度も使われ、恥知らずとされた、原因なのだ。
今回のものは、例えば、こんな感じだった。店頭で、備蓄米を、幸いにも手に入れた、消費者の自宅に、押しかけて行き、取材を続ける中、主婦は、封を切り、中を確かめるように、匂いを嗅いでいた。「お米の香り」と言ったら、その途端に、取材者は、「違和感はありませんか」と尋ねる。「何も。普通のお米の香りがします」と答えられ、次の言葉が出ずに、引っ込んだ。この手法、使い古された、と断じる理由は、これまでにも、数々の報道において、専門家と称する人間が、画面に登場し、報道内容に沿う見解を、述べるという、茶番劇が、演じられてきたからだ。時に、棒読みに近い、嫌々の言い草さえ、出てくるけれども、あの多くは、誰かが、報道の筋書きを作り、それに沿う見解を、あらかじめ原稿として書き、画面の人物に、読ませるからなのだ。テレビ、ラジオ、新聞、どれも同じ穴の狢で、街頭では、こちらの用意した筋書きに、当てはまるものだけを、選び出すのだが、今回のように、個別取材となれば、そこで完結させる必要が、生じてくる。で、結局、違和感を感じてくれず、失敗に終わった訳だが、それでも、この主婦は、優しい対応をしたと思う。自分なら、取材者に向け、袋をつきつけて、「どう、違和感はある?」、と聞き返したに違いない。そこでの、慌てぶりを眺めて、悦に入る訳でもないが、その位のこと、やってやれば、と思えてくる。彼らが、専門家相手のように、筋書きを徹底させなかったのは、今の時代、それが、社会媒体などで漏れれば、無知と無恥を晒すことが、確実となるからだろう。そこまで、愚かではなかったのか。はたまた、そこまでの脚色、演出を、思いつかなかったのか、誰にも分からないことだが。