7月6日(日)

 批判的に捉えよ、論理的に考えよ、そんなことを、事例を挙げながら、書いてきたが、さて、最近の変化には、どう対応すべきか。生成人工知能が、登場して以来、皆の戸惑いは、大きくなるばかりだが、少し落ち着いてきたか、と思えるのは、使いようの話題に、移りつつあるからだ。
 だが、そうは言っても、何でも鵜呑みにし、心配や不安を、口にしていれば、それで安心という、馬鹿げた考えが、社会を満たす以上、ちょっとやそっとでは、何も変わらないのでは、と思えてくる。先日も、囀りの動向を、検索によって、眺めていたら、呆れる話題が、続々と、寄せられていた。社会媒体では、大衆媒体を、批判したり、馬鹿にしたり、ということが、続いているが、それも、偽情報満載と、自分に不都合な情報を、流す大衆媒体を、偽物や塵の如く、批判し続ける、海の向こうの餓鬼大将を、真似するだけでは、と思えるものばかりだ。今回の話題は、通信社として、この国で、二大と評される、ものの一つが、ある調査結果を発表し、懸念を伝えたからだが、あそこは、これまでにも、大誤報を、流したことや、情報操作を、繰り返したことで、批判されており、今回のも、その見方からすれば、恣意的なもので、中身の詳細を、確かめよう、という気さえ、起きなかったものだ。高校生が、勉強に苦しむ姿は、悲観的な筋書きに、格好の話題だろうが、逃避心理の表れを、将来役に立たない、という言い訳で、表現させて、何の意味があるのか。囀りでは、躍起になって、否定する意見や、批判的な意見が、連なっていたが、そんなことを、すること自体、単なる時間の無駄、とさえ思える。嘗て、ある小説家が、理科ではなく、数学の無意味さを、訴えた時に、その夫君が、国の役所の委員を、任じられていたことから、それを伝え、ゆとり教育への、流れに乗って、愚かな変更が、断行されたのは、その愚かさから、今でも記憶される所だが、似たり寄ったり、と思える話だろう。特に、今の教育現場では、役に立つか否かが、最重要かの如く、扱われているようで、その反映だろうが、にしても、馬鹿げた話に過ぎず、鬼の首を取ったよう、という通信社の姿に、流石に、理系が、冷遇される業界だ、とさえ思えてくる。躍起になって、相手をする、価値さえ見出せず、こんな所に、書くくらいのものだが、役に立たぬのは、そんな話題に関わる人間かも、とさえ思えてくる。

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7月5日(土)

 前にも、少し書いた気もするが、今の社会情勢について、体制への不満が、蓄積することで、現状打破の動きが、高まっていると言われ、その中で、海の向こうの大統領は、返り咲きを果たし、多くの無名候補が、突如として、人気を集め、時に、その勢いのままに、権力を握る、と言われる。
 だが、その多くのなりの果ては、馬脚を現し、魅力的と言われた、政策提言の数々は、雲散霧消する。確かに、現状を批判し、今とは異なる、提案の数々は、表面的には、魅力的と映る。だが、政は、単純でも、簡単でも、決してない。実際には、政に限らず、物事の殆どは、裏と表、右と左、正と負、正反対なものが、入り混じったものであり、それが、天秤に載せられ、一種の均衡が保たれる中、その状態が生まれる。だから、少しでも、均衡が崩れると、別の所に、新たな問題が生じ、それに取り組む為に、また別のことが、という連鎖が生まれる。ごく当然のことだが、不安と心配に、苛まれた人々や、弱者を装う人々は、何かが手に入る、と言われると、すぐにそれに飛び付く。税金の話は、その典型であり、収支が、保たれる中で、公共的な仕組みが、運営されることに、気付かぬ人々の、不平不満は、歪曲されたものに過ぎず、手を差し伸べる必要は、全く無いと思える。だが、この勢いに、乗っかって登場した人間は、結局は、私利私欲に満ちた、自己満足だけの政を、行うだけとなる。更に、この状況を、悪化させるのは、この類の輩は、政敵を追い落とす為に、犯罪紛いのことも、厭わない点だろう。件の大統領は、何度も、対抗馬を、犯罪者呼ばわりし、「逮捕せよ」とまで、言い募ってきた。その一方で、自らが行った犯罪には、言い逃れを連ね、保身に走る。規模が違うものの、こちらのある政党の党首は、まさに、その小型版と思える。多くの制度が、性善説に立ち、悪意に満ちた行為は、恥を知る人間なら、行う筈がない、との前提が、否定された時、懲罰による排除は、実行され難い。このこと自体、社会秩序の維持、という観点から、道徳的、倫理的な感覚が、通用しない人間には、為す術無し、となるのも、やむを得ないことだが、にしても、と思う。その上で、あんな狂人じみた輩を、支持する人間が、居ること自体に、現代社会の病の重さを、痛感させられる。

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7月4日(金)

 昨日の朝、いつも通りに移動していると、暫く前から建っていた、掲示板に、候補者のポスターが、貼り出されていた。帰りに、同じ道を通って、車窓から眺めると、他の掲示板には無かった、新しいポスターが、目立つ黄色で、加わっていた。そこには、党首の名が、でかでかと。
 告示日当日に、貼り出されるのは、当然のことだが、首都では、多過ぎる立候補者数に、追加で建てられた掲示板に、空きが目立つのが、何度か報じられた。それが、いつの間にか、別のものが貼られて、話題になったのも、ついこの間のことだ。いつから、選挙が、遊びの一つとなったのか、と呆れるばかりだが、大真面目に、商売の如く、扱う人が出ているらしい。で、帰ってから、夕方のニュースを、ある意味真剣に、眺めていたのだが、その報道は、全く無く、今朝の新聞を見て、やっと、理解できた。あの党からの候補者は、党首ではなく、別の無名の人物だった。だとしたら、あのポスターは何か。選挙は、様々な制限が課せられ、使える道具も、配布するものやポスターの内容も、公序良俗に反しないか、点検される、と聞いていたのだが、この所の選挙では、まさに、違反するとしか、思えないものが、公共の場で、晒されている、と聞く。これもまた、その一つだろうが、それにしても、こんな暴挙が、罷り通るような国に、成り下がったのだろうか。様々な規則は、関係する人々が、守るのは当然で、敢えて、注意を促さずとも、誰もが、当然のこととして、守る筈のもの、との常識は、あの犯罪者紛いの政治家だけでなく、多くの人々に、通用する筈だったのだが、今や、そんな常識は、何処かに、打ち捨てられたのだろう。政治家の非常識を、今更、取り上げたとしても、何の役にも立たず、時間の無駄、なのかも知れぬが、社会媒体をはじめとして、非常識が、公然と貼り出され、反論にさえ、一切構わずに、過ちを繰り返す、そんな社会の状況では、自分達で、浄化しようとしても、成り立たぬのかも。こうなれば、公民権の剥奪など、あらゆる手段を講じて、これらの反社会的人間を、片付ける必要がありそうだ。

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7月3日(木)

 株式相場は、今と近い将来の、経済状況を、反映すると言われる。でも、と思う人が、多いのではないか。最近の相場の動きには、経済状況とは、全く関係の無い要因が、強く影響している、と思われるからだ。それは何か、という話の前に、別の要因の話から、始めたい。
 嘗て、場立ちで、売買が行われていた時とは、全く異なる、売買方式が、今では、殆どとなっている。機械が関与し始め、その制御にも、機械的なものが、主流となり始めると、一瞬の差の遅れが、莫大な損失を招く、などと言われるようになり、方式の整備が、急速に進んだ。その結果、予め定められた、売買の基準に従い、機械は、指示通りの動作を、繰り返す。ところが、この方式では、一度動き始めた、勢いは、加速度的に、その動きを増し、買いは買いを呼び、売りは売りを呼ぶ、という結果が頻出することとなった。遅れによる損失は、確かに、素早い反応から、避けられるようになったが、人間の判断より、素早く動く方式では、人間が、勢いを止めることは、不可能となった。ここで、重要となるのは、設定した基準の問題も、確かに当てはまるが、以前から問題視されてきた、心理的な動きが、制御不能となる、という点だったのだろう。改善は、確かに、図られつつあるが、現実には、この手のことは、殆ど変化が起きておらず、今後、更に問題が大きくなるのでは、と思われている。その理由の一つが、海の向こうの妄言癖の影響だ。あらゆることに、発言を繰り返すが、前言撤回は、日常茶飯事であり、正反対の予言にも似た、爆弾発言を、繰り返すことで、注目を浴びるのも、彼の性癖の一つだろう。だが、市場は、日々の発言に、右往左往しており、経済状況とは無関係な、迷走を繰り返している。流石に、三つの指標が、全て下落した時には、その責任を、追及されるとの恐れからか、撤回を余儀なくされたが、そんなことで、懲りる人間では、決して無く。責任転嫁を繰り返し、自らの責任については、一切触れようとしない姿勢は、保たれたままだ。利益追求の結果としての、売買行動なのだろうが、そろそろ、相手にするのを、止めた方がいい。でないと、彼奴らが、濡れ手に粟と、なるだけだろうから。

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7月2日(水)

 世の中、理不尽なことも、理解不能なことも、山のようにある。なのに、人々は、手にした端末から、世界に向けて、不平不満を発信し、それで、満足しているらしい。でも、そんなことでは、何も変わらず、何の意味もない、と思うのだが、どうか。まあ、ここもその一つだろうが。
 最近の話題の中でも、最も理解に苦しむのは、海の向こうの暴君が、大好きな言葉、と断言した、関税の話だろう。不公平な貿易を、解消させようと、大きな板に、表を貼り付けて、仰々しく発表した内容に、世界が驚いたのは、就任後まもなくのことだった。小学生にもわかる、という算出のための数式について、あの程度の知能の人に、何を言っても始まらず、また、自己中心的な考えにおいて、損を解消する為には、その分に見合う税金を、設定すればいい、という解決策は、古くから、使い古された手法の一つだ。ただ、その宣告から、こちらでは、大騒動が続いている。まるで、商売が、成り立たなくなる、とでも言いたげに、悲鳴にも似た要望が、多くの企業から届き、既に、崖っぷちに追い込まれていた、政府も、盛んに活動し始め、あちらの高官と、会合を重ねているようだ。でも、理解に苦しむのは、関税がかかると、何が問題なのか、という点である。税関によれば、関税の支払いは、輸入者が行い、輸出する国にも企業にも、更なる経費は、生じない。なのに、この騒ぎは、想像するに、あちらでの販売価格に、関税分を上乗せせずに、今と同じ価格で売るなら、出荷の時点で、値下げを強いられる、という話になる、ということだろう。でも、何故、そんなことをせねば、ならないのだろう。売れなくなるから、と叫ぶ人が居るが、本当に必要なら、25%上がっても、買うのでは、と思う。その上、あちらの仕組みで、その分、税金や他の、国に納めるものを、減らす形で、還元すれば、問題無しとなる。所詮、その程度のまやかしに、これ程に、騒ぐことには、解せないというより、馬鹿げているとしか、思えてこない。その他の疑問についても、せっせと答えているようなので、こちらも参考にしては、と思う。

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7月1日(火)

 社会媒体にせよ、大衆媒体にせよ、毎日毎日、下らない話題ばかりで、情報社会とは、こんなものか、と思う人が多いのではないか。いや、肝心な情報は、塵の山の中に、埋まっている訳で、それを掘り出すには、まず、塵をかき分けねば、ならないのだ、と言われそうだが。
 米騒動も、そろそろ、どうでもいい話に、なり始めたようだ。備蓄米の放出が、大臣の交代から、一気に勢いを増し、それによって、市場に、米が戻り始めると、ついこの間まで、姿を消していた、銘柄米と呼ばれるものまで、店頭に並び始めた。と言っても、価格は相変わらずで、何としてでも、利鞘を稼ごうと、躍起になっているようだ。それにしても、ある政党代表が、備蓄米、特に古いものを、家畜の餌と発言し、撤回した話は、あの手の輩の、無能さを、露呈することになった。何しろ、毎日、美味い美味いと言いながら、食べている豚の飼料は、その多くが、食べ残しのもので、新鮮なものも、食卓から戻れば、餌と化すのだ。その意味で、何の知恵も無い、妄言の典型、と思える話だ。さて、これ程までに、不足しているなら、とばかりに、交渉ならぬ、脅迫じみた調子で、海の向こうの大統領は、自国生産米を、買えと言い始めた。半世紀近くに、食べたことのある銘柄で、確かに、炊き立ての味は、こちらの、所謂短粒米と、同程度と思える、食味だったのだが、如何せん、中粒米の特徴は、冷えた時に、現れるとのことで、お握りにしたら、がっかりさせられた。その話は、全く出てこず、ただ、安いものを掴め、との話に、乗せられるのは、とも思えるが、そう言えば、備蓄米の食味の話は、その後、殆ど触れられなくなり、どうでも良くなったのか。この国では、大多数が、意見を出さぬのは、ある意味当然であり、一方で、これ程多くの、備蓄米、それも数年前に、収穫されたものが、出回り始めても、当初、専門家と称する、評論家達が、盛んに、味の違いを、訴えていた話が、聞かれなくなったのは、何故なのか、いつもながら、不思議なものだ。新米の美味さ、を訴える人が、多いのは知っているが、こちらは、それ程の違いを、感じることもなく、いつもながらの美味さ、と思うだけだから、まあ、その程度のものだろう。どうでもいい話、と言ってしまえば、まさに、そうなのだ。

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6月30日(月)

 隣の大国に関して、少し思う所を、書き加えておく。こんなことをすると、今度、あの国に旅行したら、逮捕されそうだけど、多分、そんなことは、起きそうにない。彼らの小心ぶりは、大袈裟な表現にも、表れており、例えば、何千年とかの主張も、その一つと考えられる。
 何しろ、その長い歴史の中で、何度となく、国の治世が変わり、前の歴史を、完全否定することが、度々行われた。その中で、歴史を誇る態度には、二重の基準が、如実に現れている。一方で、こちらは、どうだろうか。実態がどうかには、触れぬことにして、少なくとも、国を治める仕組みに、大きな変化は、長い期間、起きておらず、君主の家系も、保たれてきた。それが、理由の一つかも、と思うこともあるが、多くの人々は、そんなことを意識せずに、ある程度の誇りを、抱いていることから、随分の違いを、感じるものだ。その上で、今の国になってからの、隣の変化を眺めると、自信の無さに、時に襲われて、無謀な政策に走った、歴史が見えてくる。あの、革命と呼ばれた、前史の否定と、時の支配者以外の、地位の高い人物の排斥は、まさに、そんな心の動きの、表れだろうし、そんな危機が、再び訪れたのが、あの広場での事件だった、と思う。特に、二つ目の事件では、前の支配者から、粛清された人物が、復活を遂げた後に、起きたこととして、あの国の人々が、抱える問題の大きさを、表していると思える。その上で、これらの事件を、二つ共、経験した人物が、規定以上に長く、治世を続けようとする、今の状況は、まさに、三度目の正直の如く、同じ心持ちが、表面化しそうな気配を、感じさせるものだ。大人を装う態度には、心理の裏返しが、見え隠れしており、これまでも、そして、これからも、何が起きても、不思議はないと思える。同様に、今、侵攻や紛争に、関わる他の二つの大国も、暴君にも似た、人物達が頂点に立ち、力を誇示している。どうするのが、適切なのかは、誰にも分からないが、はじめの国を除けば、国民の総意が、反映される仕組みであり、少しはましなのかも知れぬ。