もう一つ、本を紹介しておこう。この国の、半導体産業の盛衰を、著したものだが、この著者は、その渦中にあり、自身の浮沈に合わせて、海の向こうとの、戦争にも似た遣り取りを、赤裸々に綴っていた。と言っても、買った時の期待は、大きくはずされて、読後感は・・・
とは言え、半導体技術の発達が、この国の産業、特に電器産業を、支えてきたことは、確かだろう。その中で、その頃の自分の姿を、思い浮かべながら、急速な発展を、思い起こしていた。特に、大学時代は、電子式卓上計算機、通称電卓が、世の中に登場し、演算機能の発達と、安値競争の激化が、著しくなっていた頃なので、その背景にあった、新規半導体の、技術革新の程が、文章化されたことに、懐かしく思ったものだ。ただ、専門家の中でも、最先端を歩んできた、人物にとっては、一般の利用者の、理解力には、考えが及ばなかったらしく、開発された、新たな仕組みの、違いを解説するのは、面倒だったのか、はたまた、知って当然と思ったのか、ほぼ割愛されており、理解も何も、問題視されず、別のことに、目が向いていたようだ。ただ、期待は、盛衰と共に、その要因となった事柄の、解説だったのだが、強い外圧だけが、書き記されるのみで、その後の衰退への道筋が、語られることなく、つまりは、現状からの脱却、という意味での、傾向と対策という、視点が、示されることなく、今後への期待も、何処か、他人事の如き、薄っぺらなものに、終わっていた。確かに、発展の過程で、どんな視点を持ち、どんな考えを抱いたかは、重要なものなのだろうが、そんな昔話は、実は、殆ど役立たずでしかない。成功は、多数ある選択のうちの、たった一つから、始まったことであり、それを選んだ理由は、確かに、重要なものに違いないが、一方で、他を選んだら、どうなったかについては、知る術が無い。逆に、失敗については、何故それを選んだか、という点には、参考になることが、ありそうに思えるのだが、どうだろうか。そんな考えから、こういう成功物語は、あまり参考にならず、そういう人物の、現状分析は、実は、役に立たないことが多い。失敗を語ることは、ある意味重要だが、それでもなく、一方で、そこからの脱却でもない。まあ、その程度のものだった、ということか。
暫く前から、読み始めた時代小説は、半世紀程前に、著されたものだ。それも、第十巻となり、毎巻が面白く、息抜きになることもあり、気に入っている。ここまでは、読み切りで書かれ、時に、続き物の如く、なったとしても、精々二、三回のものだったが、突然、一年の続き物となった。
それ自体も、興味深いもので、主人公は、架空の剣客とはいえ、周囲の登場人物は、歴史上のもので、その背景と相俟って、時代の流れを、感じさせるものだった。ただ、読み切りとしたのは、おそらく、続きとすることで、筋書きに縛られ、自由闊達に書き進められぬ、との思いがあったのだろう。だとしたら、この変心は、如何なる事情によるのか。鬼籍に入った著者に、尋ねることもできず、何とも歯痒いが、今回、改めて書こうと思ったのは、そこが理由ではない。あの時代、250年以上続いた、幕府の時代が、どのような山谷を、辿ってきたかは、歴史書を繙けば、わかるものだろうが、こういう時代小説は、それを、ほんの一握りの人々の、営みの中で、書き記してくれる。その上で、偶々、今放映されている、所謂大河と呼ばれる、ものの時代が、丁度重なっていることに、気付かされる。特に、その中で、老中と呼ばれる、権力者の争いや、将軍と呼ばれる、その上に、君臨した人々の、跡目争いが、話題となっているのだ。小説は、あくまでも、創作であり、主人公は、架空だけに、大河とは、かなり異なる事情が、ありそうに思える。だが、御三卿と、老中と、その間の、直接的ではない、何とも、不可思議に思える、謀の連鎖が、彼方でも、此方でも、演じられたことから、創作とはいえ、ある程度、史実に基づいた部分が、見え隠れして、何とも言えぬ程に、参考になったような、そんな気がしてくる。面白さとは、そんなものかと。特に、作者が、著した当時とは、全く違う事情で、心の綾を含めた、権力者の思いと、その中での、策略の交差が、面白さを、倍増させたのには、楽しさが、増すばかりとなった。まだ、暫くは、続くことだが。
不祥事が起きる度に、任命権者の責任が、問われてきた。確かに、その人間を、大臣としたのは、あの宰相なのだが、その一方で、宰相への絶対服従が、条件とはなっておらず、好き勝手な言動から、不祥事へと繋がる場合が、何と多いことか。それに比べ、海の向こうは。
あまりにも、状況が違い過ぎる、と思う人が、多いのだろう。絶対的な権力を持ち、人と地位との結び付きも、自在に操れるという状況に、前回の任期では、首の挿げ替えが、頻繁に起きていた。その原因は、命令に従わなかった、というものから、反応が鈍かった、すぐに行動を起こさなかった、など、様々だったが、共通していたのは、服従しなかった、という事実だろう。それも、反旗を翻す、という所まで、進展せずとも、返事をしなかったり、少し意見を返したり、といった些細なことでも、逆鱗に触れれば、即座に、首が飛んでいた。それに対して、今回は、全く異なる面々だが、皆が、総じて、守っていることは、絶対服従なのだろう、と思う。だが、政には、それはそれで、通用したとしても、先々の流れに対しては、予想不能なものも含め、あらゆる可能性を、試す訳にもいかず、まして、暴君の命令が、常に正しいとは、限らぬとなれば、更に、複雑な様相を呈する。だから、だろうと思えるが、一部の組織においては、任命権者は、彼自身ではなく、特段の理由なしには、首とする訳にも、いかないとなっている。これは、身分保証と共に、異なる考えが、通用するようにする、仕組みなのだろうが、一方で、だからといって、好き勝手にしていい、という訳でもない、という点にも、目を向ける必要がある。責任は責任であり、その範囲内で、全力を尽くせ、という意味なのだ。その点を、誤解する人も多く、任された、となれば、好き勝手にする、と受け取る向きがあるのは、まさに、今の時代の、大きな問題と思える。老若男女を問わず、そういった馬鹿げた考えに、取り憑かれた人々が、出鱈目をやることには、何の保証も無い。だからこそ、厳しい目が向けられ、批判の矢面に立たされるのだ。その上で、全力を尽くすべき、となる。
餓鬼大将、と呼んでいたのが、いつの間にか、暴君となった。理由の一つは、地位を利用した、卑怯なやり口に、腹が立つからだ。確かに、弱者保護の考え方には、賛同しないのだが、だからと言って、権力を笠に着て、好き放題の振る舞いには、反吐が出る、といった感じだ。
この所のやり取りも、そんな部分ばかりが、目立っている。他国との関税交渉については、交渉術を、自慢げに話すが、その実、交渉とはならず、ただ単に、力でねじ伏せようと、躍起になる姿が、目立つばかりだ。和平交渉も、話し合いとは名ばかりで、一方的な、意見の押し付けが、露骨になっており、一方で、のらりくらりと、躱すことを、得意とする、と言われた、軍事侵攻を始めた、別の暴君とは、全く異なる様相を、呈している。脅し、という表現が、ぴたりと嵌まる、とも言われるが、力の誇示が、大国の特権とばかりに、棍棒を振り回すような、外交交渉では、平穏は、とても迎えられそうにない。とは言え、それとて、四年の辛抱、と思う人が、居るかも知れぬが、まだ、その8分の1しか、済んでおらず、このまま、迷走を続けるとなると、振り回される側は、堪ったものではない。内政においても、同様の状況で、企業経営よろしく、服従する部下達を、操りたいとの願いは、大国の舵取りでは、成就する筈もない。特に、敵愾心を、露わにしている、中央銀行の面々には、あれこれ、難癖をつけてばかりだが、独立性を、盾にされて、思い通りに、事が運びそうにない。外交、内政共に、危ういように、見えているが、さて、どうだろうか。元々、上手く運べば、自分の手柄、何か悪ければ、他人の責任、という心根で、動いており、取り巻きは、びくついているようにさえ、見えているが、今の状況は、芳しいとは、とても言えぬ。そろそろ、対岸の火事とでも、決め付けて、高みの見物とでも、いこうではないか。
相場は、様々な要因で動く、と言われるが、最近の状況は、どうか。特に、海の向こうの暴君の、不規則な発言や、思い込みや拘りに、縛られた、執拗とも思える発言に、振り回されることが多い。そんなものを眺めるに、彼奴の側近が、相場に手を出せば、濡れ手に粟かも、とさえ思える。
如何に愚かと雖も、自身が、手を出すことは、流石に、無いに違いないが、就任以来の、不規則発言の連発や、不確定な成り行きばかりを、眺めさせられると、もしかしたら、何処かの投資会社に、その役を任せているのでは、などと疑いたくなる。そんなことを、考える人は、山程居るに違いなく、社会媒体でも、そんな不穏当な、そして、憶測でしかない情報が、飛び交っているに、違いない。監視委員会から見れば、そんな疑義を抱きつつ、観察を続ける必要が、ありそうにも見える。昨日も、最高値を更新しつつも、何処か、不安を抱かせる相場は、朝から、下げ始めていたが、総体としては、上げ下げ入り混じった、方向感のない相場、と予想されていた。ところが、そこに、また、暴君の横槍が、飛び込んできた。最近は、自ら運営する社会媒体を、専ら使っているようで、囀りを検索しても、とんと投稿が無く、閑散としたものだった。こちらの市場が、開いた直後に、投稿されたのは、自らが署名した文書の写しで、目の上のたんこぶよろしく、邪魔でしかない、中央銀行制度の理事を、解任したとのことだ。ただ、権限から言えば、できなくもないのだが、それは、犯罪などの違法行為が、明らかとなった場合、と限られており、不正を疑われるものの、調査の最中に、断行することは、不可能と言われてきた。そこに、自分の命令文書を、発行する訳で、その正当性については、何の保証もないものだ。予想通り、反撃の狼煙が上がり、あの国が得意とする、法廷闘争へと入るだけだが、情報に敏感な市場は、即座に反応を示した。と言っても、所詮、不確定なままであり、その上、解任の是非が問われたとしても、景気がすぐに、反応する筈も無く、結果、ある線での落ち着きを、取り戻したとされる。それにしても、自らの身の保証を、宣言することで、法廷闘争を打ち切らせる一方で、他人の責任には、口出しし続けるのは、やめるべきだろう。4年後の保証さえ、手に入れさえすれば、気楽なものには違いないが。
歴史から学ぶことは、それが、事実か否かに関わらず、難しいこと、と言われる。生き死にに、直接関係なくとも、例えば、資産運用は、その典型と言われ、様々な格言が、残されているが、その場になると、正反対の行動、決断をして、大損を繰り返すことが、よく起きる。
とは言え、まずは、状況把握をして、判断の材料となるものを、集めた上で、その場での判断を、下すのが、肝心なことだろう。歴史的な事実でさえ、それに当てはまるか否かを、確かめること自体が、時に、難しくなる。欲に駆られて、頭から尻尾まで、全部の儲けを、独り占めにしよう、とすることで、売り時や買い時を、見誤って、結果、損失が膨らんだ、という経験は、誰もがするものだ。では、科学の世界では、どうだろうか。新発見をはじめとして、そこには、歴史にない事柄が、並ぶと思う人は多く居る。確かに、誰かが見つけたことは、それまでは、誰も知らなかった訳で、そう見れば、そこに、歴史から学ぶことは、一切無いと言える。でも、そこに至る道筋や、発見後の対応については、よく似た事象が、歴史上に、沢山転がっており、そこから、学べることも、多いのではないか。例えば、原子爆弾が、開発された時、その威力を、見極めることは、ある程度できていた。だから、それを、敵国に投下させれば、何が起きるのかも、予想がついた。では、どんな決断が、為されたのか、伝聞では、かなり酷いことが、起きたと言われる。しかし、一度ならず、二度までも、確認した上で、その後開発された、新型爆弾では、予想を上回る威力に、驚いたとは言え、そういう結果を、導くことが、明らかとなった。その上で、今更、使用するか、と問われれば、保有国の施政者は、ほぼ全てが、否と答えるだろう。但し、これは、歴史上の事実が、加わった話だ。では、自動車産業で、近年話題となった、電動車については、どうだろうか。化石燃料の悪影響、再生可能エネルギーの導入、などの要素から、推進が進められたが、ここに来て、逆風が吹き始めた。材料は、全て揃っていただろうが、判断は、所詮、関係者の議論で、下される。その結果、誤った方に、進んだとされつつある。何故か。所詮、その程度の見通ししか、立てられないのだ。なのに、断定して、突き進もうとする。これ自体、歴史上、何度も起きたことなのに。
歴史は、勝者のもの、とよく言われる。確かに、勝敗が決した後、そこに残るのは、勝った者の力であり、時に、破れ去った者には、発言権が残らぬどころか、命の保障さえない。だから、書き残されたものは、その大部分が、勝ち残った者達に、都合のいいものばかりとなる。
学校で、歴史を学ぶ時に、そんなことを考えては、肝心なことも、覚えられなくなるから、やめておいた方が、いいには違いないが、事実として、残すべきことは、と考えると、もっと広い視野で、見つめ直す必要がある、と思えてくる。今、紛争地域で、実効支配を続ける勢力の、戦死者の数が、全体の2割にも満たない、との報道があった。それ程、非戦闘員の被害が、大きいということを、示すための数字だが、先の大戦で、本土爆撃にあった、中小を含めた、都市の被害では、その大部分が、一般市民であり、彼らの死を、目的としたもの、とも言われている。同様に、南北の戦いに、介入した時も、ゲリラが潜む、密林を焼き払おうとしたのも、同じ心理が、働いたことなのだろう。その反省が、あるとはとても思えず、一体、この分析結果は、何を意図したものか、と思えるのだが、一部の人々は、紛争地域の実情に、目を向けるよりも、戦争の中での、虐殺に目を向け、その点のみを、強調しようとする、のではないか。一方、こちらも、先の大戦では、大陸の一都市で、膨大な数の住民を、虐殺した、との歴史が伝えられ、その後の政府は、過大とも見える、数字を示すなど、歴史的事実として、伝えている。ただ、その数が、事実か否かについては、戦争経験者からも、別の意見が聞かれ、検証の必要性が、何度も取り上げられる。でも、何方が勝ったのか、を思い起こせば、そんな声は、雑音の一つ、でしかないのだろう。だが、何かに拘る余り、歴史を歪曲すれば、後世に禍根を残すことに、なりかねない。忘れるべき、とは言わないが、経緯を、なるべく正確に、知ることと、そこでの、互いの関わりを、見直すことで、今、必要なことを、考えるべきではないか。過去の過ちを、忘れるのでも、打ち消すのでもなく、正確な記録を、残した上で、どうすべきかを、考えてはどうか、と思う。