ここ数日書いた、問題に関して、諸悪の根源は、個人主義にある、と言われる。社会の一員としてではなく、個人のことばかりを考え、その利益を追求し続けた結果として、今の歪みがある、というのだ。どうだろうか。人間は、当然のこととして、自分中心に、考えるのでは。
だから、私利私欲に走る、ということそのものに、害悪があるとは、言い切れぬように思う。私服を肥やすのは、これとは、全く別の行為であり、他人が、損失を被ったとしても、自分さえ、儲かればいい、という考え方こそが、今の歪みへと、繋がったとすべきではないか。そう考えると、あの宰相も、いかにも、国民の為になる、と称して、派手な振る舞いを、続けてきたが、その実、取り巻きどもだけが、その恩恵に与っただけで、その他大勢の国民は、損を被っただけだった。当然、その際に、政策を正当化する為に、様々な口上が使われ、そこで活躍した人物は、取り巻きと共に、利益を掠め取っていった。一方で、自身の政党を、破壊するとまで、言い切った話は、沙汰止みとなり、今に至ったことで、少数与党という、雁字搦めの事態へと、結びついたと言える。それはまた、もう一人の、人気を誇った宰相が、凶弾に倒れた時から、綻び始めた、派閥の問題と、そこから生じた、違法行為の連鎖が、大きく影響しており、一見、人気が高かった人間が、裏では、様々に、不正を働き、都合よく動いた結果が、今の姿を表している。そう考えると、次への世代交代、と称した行事が、まさかの結果へと、結び付いたら、没落の勢いが、増すように思えてくる。これは、一政党の問題ではなく、実は、国自体の問題でもある。この所、成長を誇った時と違い、様々な責任転嫁を繰り返し、保身に走るのが、多くの人々の常、となりつつあるが、それこそが、以前にも書いた、個人の活躍が、社会全体の繁栄へと、繋がるものと、大きく変わった点、との指摘がある。こんな筈では、と思う人が、増えているのも、その為かと思えるが、それを、一部には、個人主義の問題、と見做すようで、海の向こうから、押し寄せた考えが、諸悪の根源、となったと見做す。だが、それも、単なる模倣に過ぎず、その上、金の亡者と化した、権力者とそれに寄り添う人々の、問題だろう。本来の国民性は、一人が全体の為となる、個人主義であり、私利私欲に走ったとしても、それが、社会の繁栄に、繋がるものであれば、問題無しとなるのではないか。
長い間、生活の厳しい状況が、続いてきた。と思う人が、多いのだろう。そこにきて、この物価高騰が起き、更に、厳しさが増す、と思う人も、やはり多い。ただ、責任転嫁しても、仕方ない所で、自分なりに、対応、対処を、考える必要が、出てきているのだ。好転を待って。
泡が弾けてから、ほぼ30年の間、悪くなる一方の、様相が続いてきた。その理由に関して、様々な意見が、出されているが、やはり、政策の過ち、とするのが、適切かと思う。元々、外圧に曝され、自らが築くべき、権利を放棄することで、対応してきたことが、諸悪の根源なのだが、それを、更に加速した政権が、存在したことに、改めて、目を向けるべきと思う。そこでは、数々の国営企業が、次々に、民営化する中、その最後として、郵便事業の民営化が、ある宰相と、似非経済学者の手で、強く進められた。強い思い込みから、拘りに縛られ、一目散に、突っ走るのは、あの人物の特徴で、それが、人気の源となったが、その実、多くの取り巻きにより、思惑に満ちた、政策の数々を、断行したことで、弾けた後の混乱が、極まる方に、進められた。特に、似非学者は、如何にも学問的に、経済の法則を持ち出し、それに従った形で、誤った政策を、推し進めていた。その典型が、民営化であり、今起きている歪みも、元を辿れば、そこから始まったもの、と言えるに違いない。交通機関の民営化が、一部の企業のみとは言え、大成功に繋がり、他国の民営化とは、大きく異なる結果に、結びついたことと、対照的なもの、と言えるだろう。その上、彼の常套句だった、市場原理も、先日の騒動で、明らかになったように、一部業者の利益を、追求する結果を、正当化する為の、方便に過ぎなかった。当時、取り巻き達には、大企業だけでなく、一部の振興とも思える、企業の経営者が、蠢いていたが、結果として、彼らが私服を肥やすのを、大いに進めただけで、それによって生じた、数々の課題が、国民の上に、降り注いだだけだった。件の似非学者も、その後は、私服を肥やすばかりで、今尚、その悪影響が、残る一方で、自分は、活躍の場を見つけ、批判の矢面に、立つことは、決してない。あの宰相の問題は、まさかと思うが、次世代へと、引き継がれかねず、同じ穴の狢どもが、群がることに、なりかねない。いやはや、困ったものと思うが、どうなることか。
物価高が始まった頃、それまでの心配や不安なぞ、消し飛んでしまう程、落ち込んだ人が、居たのではないか。確かに、手取りが増えるあても無く、ただ、出費が増えるのだとしたら、早晩、破産宣告を、せねばならぬ、と思った人も、居ただろう。だが、その後の展開は。
確かに、日々の出費は、増え続けている、ように見える。だが、破産は、と言えば、そんな気配は、見えてない、というのが、殆どの人の状況だろう。何故か。理由は簡単で、心配したよりも、余裕があった、ということだ。にしても、この先、海の向こうなどのように、こちらの数倍の外食費、となったとしたら、やはり、蓄えが無くなり、遂には、破産となりかねぬ、とも思えてくる。収入と支出の均衡は、どうあるべきか、という点に関して、改めて、考えるべき時が、来ているのだろう。何故、今まで、そのことに、思いを馳せることなく、のうのうと生きてきたのか、とさえ、思うべきかも知れぬ。ただ、微温湯だったのか、はたまた、騙されてきたのか、理由は、定かではないが、何れにしても、これまでの収支への考え方を、改める時が、来ているのだ。だとしたら、何を、どう改めるのか。簡単なことでは、ないだろう。何しろ、まだ働いている人は、自分の仕事場や仕事の内容に、目を向けるべきだし、経営に携わる人は、企業を、どう切り盛りするか、考えねばならない。特に、経営では、収益を上げつつ、働く人々に、その分け前を、どう分配するかが、肝心となる。でも、もう働かなくなり、年金なるものや、蓄えなどの運用で、暮らす人にとっては、全く別の事情が、存在する。何しろ、支給額は、国が決めるもので、これまでなら、物価上昇に対し、支給減額など、理解不能な措置が、取られてきたのだ。流石に、ここまで来ても猶、そんな惚けたことを、するとは思えぬが、でも、国のやることは、信用おけん、と思うかもだ。まあ、そんなこんなで、何が起きるのか、まだ定かではないが、それでも、この流れが続くだろう。倹約も含め、対処せねば、と思うこと頻りだ。