10月19日(日)

 物価高騰に、何か救いの手を、と思う人は、多いだろう。だが、何をどうすれば、役に立つのだろう。一部には、減税の声が、あるようだが、懲りもせず、としか思えぬ。物価は、確かに、日々の生活に、密接に関係するが、それだけでなく、公共事業にも、当てはまるのだ。
 なのに、そこに、税収を減らしたら、何が起きるか。こんな想像さえ、出来ぬ程に、政治家の頭は、鈍っている。兎に角、票を稼ぐには、何が魅力と映るか、という点にしか、目が向かぬのだ。そんな愚か者に、政を任せるか、少し考えれば、判ることだろう。確かに、燃料費に、課された税金は、手っ取り早さから、導入された後、その使途さえも、限定を外され、流用自由となった。原点に戻り、使途の制限を、掛け直すか、あるいは、思い切って、廃止するかが、今決めるべきこと、なのかも知れぬ。だが、そうすれば、税収は、確かに減る。その分、どこから補えば、という問題に、真剣に取り組まねば、公共事業自体が、回らなくなり、住民に提供できるものは、減り続ける。だとしたら、どうすべきか。前にも書いたが、法人税を、まずあげることから、始めるべき、と思う。企業流出が、止まらなくなる、との見解を、大真面目に主張した、人々が居たことは、よく覚えているが、その通りになるかは、定かでない。その上、世界的傾向からは、本社のある地域での、納付ではなく、各地域での、収益に対して、税額を聴取する、という仕組みが、採り入れられようとし、全体の構図が、大きく変わり得るのだ。その意味では、法人税は、今より税率を上げ、その上で、納税を同額に、保とうとすれば、収益を減らす為に、従業員の給与を、あげる努力を、すべきと考える。こうすれば、物価の上昇分を、ある程度賄えるから、生活は苦しくならず、満足が広がるだろう。更に、所得税の収入は、税率を上げずとも、増えることになるから、公共事業も、十分に行える。当然、ふるさと納税なる制度は、廃止すべきで、残すなら、故郷への寄付、とすべきだろう。それこそが、本来の姿であり、餌で誘う、納税制度ではない。ここまで考えれば、妥当な政策とは、如何なるものか。解る筈ではないか。

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10月18日(土)

 偽情報に、惑わされぬよう、どんな備えが必要か。などと、考えたくなる程に、嘘や捏造が、情報社会に、満ち溢れている。だが、備えようにも、何をどうしたら、と思う人の方が、遥かに多いだろう。愉快犯として、嘘や捏造を、撒き散らす輩でさえ、結果として、騙されるのだから。
 他人を、騙すことにより、喜びを感じる、という劣悪な人間にとり、今の時代は、楽しくて仕方ない、のではないか。だが、自身が、被害者になったら、どう考えるのか。そんな心配は、しても意味が無い、と思うだろうか。詐欺電話が、横行する時代には、それに加担する人が、必ず必要となる。ただ、彼らの多くは、それによって、泡銭を、手に入れられることは、殆ど無いまま、監禁状態に置かれ、奴隷のような、扱いさえ受けている。最近の、海外拠点の話では、そんな様子が、伝えられるが、彼らも、被害者である、という意見さえ、出てくる。様々な犯罪で、裏で糸を引き、暗躍する首謀者以外は、所詮、金に目が眩んだとはいえ、大した分け前も受けずに、半分脅されながら、使われたり、海外拠点に、監禁状態で、命令に従うしか、方法が無かった、とされる。だから、被害者の一人、と見做す意見もあるが、加担する限りは、どんな状況でも、加害者でしかない。別の考えが、実しやかに、論じられるのは、今の時代の、物事の考え方が、如何に歪んでいるかを、表しているに違いない。責任の問題を、矢鱈に取り上げるのも、自分の責任を、棚上げにする為で、所詮、責任逃れの、言い訳に過ぎず、こんな論法が、通用すると思うこと自体、社会全体に、真っ当な論理が、通用しなくなりつつある、ことを表している。その上で、海の向こうの暴君の如く、好き勝手に振る舞っても、権力さえ握れば、という馬鹿げた例が、通用するとなると、まともな考えを、主張する気持ちも、失せてしまいそうだ。でも、屈してはいけない。主張すべきは、しつつ、相手の過ちを、糾弾せねば。

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10月17日(金)

 仕組み自体に、問題がある、という意味では、何方の媒体にも、当てはまる話だ。管理体制として、参加者が、それぞれに責任を持ち、健全な環境を、構築すると言っても、所詮、悪意の人々は、どんな社会にも居て、排除できないし、一方で、認可を受けたと雖も、信用ならぬ点も。
 これらの点に関しては、送り手の問題、だけではなく、受け手の問題でもあり、自分の身は、自分で守る、という点からは、仕組み自体の問題、とするのではなく、それはあるものとして、皆が注意する必要がある、ということだろう。では、仕組みではなく、内容についてはどうか。ここでも、かなりの違いが、指摘されており、一長一短なのか、はたまた、全く別のことか、まだ定まらぬ、という状況か。ただ、多くの人々が、個別に参加し、その中での、意見交換が行われるから、社会媒体の方が、何かと盛り上がり易く、時に、議論沸騰となる。その点では、情報伝達という面でも、ある見方からは、優れている、と見る向きもある。一方的で、一方通行な、大衆媒体では、権威の意見のみが、掲げられることとなり、大衆の考えが、盛り上がることは、少ないようだ。ただ、玉石混淆となるのは、やむを得ないことで、その点を含め、読む側が、注意をした上で、自分の意見を、掲げることが、要求される。それが、上手く運ばぬと、軍事侵攻直後の、かなり偏った盛り上がりの如く、一部の事実のみを、取り上げて、さも正しいかのように、扱う意見が横行し、収拾がつかなくなる。結果として、歪み合いを含め、対立が高まり、分裂が進みかねない。一方、大衆媒体は、確かに、権威ばかりが、目立つのだが、彼らが、慎重に検討し、練り上げた意見であれば、偏りは少なく、俯瞰的なものが、掲げられる。軍事侵攻に関して、攻め込まれた国が、どう対処してきたかを、解説した記事が、経済紙に掲載された。要するに、攻め込んだ国が、圧倒的勝利を、主張しているが、その実、軍隊の犠牲は、非常に大きく、安泰と思われた、国内の施設さえ、被害が及ぶ事態に、攻められた国こそが、勝利を収めつつある、との見解が、示されている。最近は、社会媒体では、とんと噂を聞かなくなり、どうしたものかと思うが、ひょっとすると、飽きただけかも、とさえ思えてくる。それに加え、情勢が膠着し、勝利も怪しくなりつつあるのが、影を落としたのかも。

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10月16日(木)

 情報源として、何を頼りにするのか。時々、世論調査のようなものでも、尋ねられる問題だが、嘗ては、専ら大衆媒体と、友人、知人だったのが、今では、社会媒体が、加わっている。組織内とは言え、自らが確認して、記される大衆媒体や、人としての信頼に基づく、人間関係に対し、
 社会媒体は、その基本となる部分が、大きく異なっている。一人ひとりが、違う考えを持ち、それらを、表明することで、接する人々は、その中から、共通項を選び出し、自分なりの、結論を導くことが、想定されている。だが、現実は、大きく異なる状況で、一人ひとりが、勝手に考えたことを、好きなように表現し、同調者を集めると、より大きな意見となり、それが事実かの如く、扱われるようになる。実は、そこに、自分なりの判断が、入り込む余地はなく、ただ、盲信的に受け入れる、という形式しか、使えない人が、多く居るのだ。そこから、種々雑多な問題が、噴出することとなり、一部から、厳しい批判が、浴びせられている。にも拘わらず、鵜呑みにする人は、その習癖を、改めることができず、何度も、騙されることになる。その上、匿名性の有無に関わらず、社会媒体の仕組みでは、対面性の出会いと異なり、相手の確認は、仕組みそのものが、行っている、と想定されるので、成り済ましなどが、横行することとなり、その持ち主が、詐欺の片棒を担ぐ、ことになってしまう。現実には、仕組み自体も、持ち主自身も、自らが、管理を、責任を持って、行うべきだろうが、誰もが使い易く、という仕組みでは、安全性の担保は、覚束なくなる。結果として、被害者が、出てくるわけだが、片棒を担いだ人間は、加害者ではなく、彼ら自身も、被害者なのだ。先日も、実名での付き合いのある人物が、乗っ取りに遭い、成り済ましにより、投資顧問の偽広告を、掲載させられていた。本人曰く、この所の状況から、そろそろ、社会媒体から、手を引く潮時か、と思っていたようで、もしそうなれば、折角の結び付きも、途切れてしまい、残念に思う。手にした端末から、世界中の誰にでも、発信できるという、便利な仕組みも、こうなって仕舞えば、悪党の便利な道具、に過ぎないものだ。利用者自身も含め、関わる人々が、それぞれに、役割を果たさねば、この道具は、打ち捨てねばならぬ。まあ、情報そのものでさえ、使いようで、何とでもなる訳だから、こんなことは、当然なのかも、だが。

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10月15日(水)

 政局の不安定は、相場にも、影響を及ぼした。その場の問題より、将来への期待や不安に、強く影響されるから、この動きは、当然のもの、と見る向きもある。ただ、自分達の長を、決める前の不安から、続いていた下げが、決まった途端に、一気の上げとなったのだが。
 いざ、協力体制が、崩れた途端に、それまでの上げを、吐き出すこととなった。長い目で、見た時とは異なり、こういう激しい動きは、ある時期から、多くの参加者が集まった、日々の売り買いで、儲けを出す動きに、大きな影響を、及ぼすのだろう。だが、今回のものは、その後の動きとして、少し落ち着きを、取り戻しただけに、一部の投資家は、一息ついているだろう。その上、短期の運用でなく、長期での運用を、続ける人にとっては、上下するとは言え、ある程度の範囲に、留まっている限りは、その後の上げ相場への、期待が膨らむ、というものだ。ある意味、資産運用の世界では、経済の成長が、続くことが、想定されており、その中で、株価の上昇だけでなく、配当などの分配が、大きな要素となる。現時点では、世界的な不安定が、続いているだけに、長期を主体とする、資産運用方針には、何かしらの、安定を手にしたい、と願う声が、強まっている。ただ、今の不安定を、産み出している、三極については、安心できぬ、と見る向きが、多数だろう。とは言え、その他の国々にとり、この不安定は、ある意味、想定されたもの、と見ているだろうから、その中で、如何なる経済活動を、続けていくのか、更には、それぞれの国民の、生活を守るには、何をすべきか、考えていかねばならぬ。さて、どうしたものか。ここ暫くは、様子見となるのだろう。

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10月14日(火)

 札を使う遊びでは、切り札の存在が、重要とされる。世界が、侵攻やら紛争やらで、不安定になる中、紛争が激化する、端緒を与えた動きは、人質という、切り札を手に入れ、それにより、係争地の交渉を、有利に運ぼう、とするものだった。だが、目論見は、大きく外れた。
 地域には、確固たる政府が、存在しない中、地下活動を、主とする勢力が、実効支配を、していた訳だが、彼らの急襲により、人質を取られた国は、断固とした態度に、出ることで、裏交渉には、応じない姿勢を、貫いた。それにより、地域は、苛烈な爆撃に、晒されることとなり、市民は、家や人命を、失うばかりか、定住さえ覚束ぬ、明日をも知れぬ、窮乏状況へと、追い込まれた。本来なら、市民の代表となる、暫定政府は、この交渉では、蚊帳の外に置かれ、権利を守る為の、活動が一切できず、無力な存在と、見做されてきた。一方で、実効支配を続ける、地下活動組織は、爆撃による被害を、声高に訴えることで、世界の同情を得ようと、活動を続けてきたが、その一方で、市民を盾にして、隠れ続ける姿勢には、人質をとる行為と共に、批判が強まっていた。このまま、膠着状態が、続くかと思われたが、海の向こうの大統領は、ある意味の、脅しに似たやり方で、強制力を行使し、生き残った人質の、解放へと漕ぎ着けた。これを、素晴らしい行為、と見る向きがあるが、それ自体が、無価値とは、誰も思わないだろう。ただ、今後の展開は、依然として、複雑怪奇なままで、今回の紛争の、最大要因である、地下組織の解体は、望めそうにない、と言われている。だとして、どんな展開が、起きるのだろうか。変化は、今回のようには、急なものにはならず、おそらく、ゆっくりとだが、確実に、組織の無力化を、進める必要があり、その中心となるのは、頼りない暫定政府ではなく、市民の一部が、中心となって活動する、何らかの組織が、担うしかないように思う。一部の発展途上国で、政府の転覆が起きた後、その力の中心となった、若者達が、政治参加することで、徐々に、再構築が進むが、それと似たことが、起きることに、期待が集まる。ただ、何も無い所には、何も起きず、何も変わらないのは、当然のことだ。次の展開に、外力への期待は、困難に思える。

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10月13日(月)

 混迷の時代、少数派の台頭が、どの国でも、目立ち始め、半数を超える勢力が、存在しなくなると、途端に、数合わせなる操作が、加えられ始めた。二大政党制を、採用する国では、そんなことは、起きる筈もないが、政党乱立が、際立つ国では、まさに、右往左往の状態に、陥っている。
 それらと比べたら、遥かに安定的、と捉えられてきた、この国でさえ、若者達の動きが、他の世代へも、影響を及ぼしたからか、不安定な時代へと、突入し始めた。前々回の、政権交代では、与党が惨敗し、野党の中の、一つの政党が、圧倒的な勝利を、収めたことから、当然の交代、となった訳だが、世界中で、蔓延する混乱では、どの政党も、過半数に達せず、結果として、共闘を組むしか、方法が残らぬこととなり、寄せ集めの集団は、共通理念を有さず、付いたり離れたりを、繰り返すことで、混乱が、更に増すことへと繋がった。では、こちらは、どうなるのか。ついこの間までは、身内の頂点を、決めることだけに、躍起となって、やっと決めたと思われたが、その過程で、身内の闇を、暴くことは、どの候補もせずに、浄化が進むとは、とても思えぬ状況を、露呈した。その為か、協力関係が破綻し、安定が崩れることで、他国の混乱と、同じになるのでは、との懸念が広がっている。どう転ぶかは、今後の、数合わせの作業に、よるものと考える人が、多いようだが、それでは、何も変えられず、ただ右往左往するのを、続けるだけとなる。鶴の一声、を待つ意見もあろうが、現状では、それほどの胆力を、有する人物は、政治の世界には、存在しない。ただの権力争いに、終始するだけの、心持ちでは、舵取りも、心許なし、としか言いようが無い。だとしたら、何をどうすれば、と言っても、勝手なことを、書き並べるだけの、社会媒体も、政治の予想屋だけで、根幹にあるべき考えを、議論しようとしない、大衆媒体も、何の役にも立たない。まあ、政の混乱とは、無縁な形での、官僚による、国の舵取りに、期待するしか、無いのかもだが、こちらも、惨憺たる状況で、困ったものだ。いやはや、どうなることか。