情報伝達の道具として、社会媒体は、優れたもの、と言えるだろうか。手にした端末で、誰もが、情報を受信でき、発信できる仕組みは、確かに、伝達速度を、大きく上げた。それにより、手間のかかった作業も、一斉送信だけでなく、手から手へと、伝えられることで、満遍なくなった。
ただ、この手法は、ずっと遅かった昔と、なんら変わらぬ問題を、積み残すこととなった。情報の真偽が、伝達の過程で、確かめられることなく、耳から耳への、伝達遊戯さながらに、途中で、挟み込まれる、伝達者の感想や、悪意に満ちた、改竄なども、そのまま、拡散されることとなった。所詮、人間の手が、関わるものでは、そうなるのが、当然と言えば、当然のことだ。結局、判断は、受け手に委ねられ、騙され易い人々が、起こしてしまった、大騒動が、急速に広がる、問題を起こした。となれば、仕組みを考案した人や、その伝達に携わる、管理者に、責任が問われることとなり、問題の核心は、永遠に、解決されぬまま、となった。本来、人間にも、何種もの人が居て、彼らの関わりが、社会を形成することとなる。となれば、鵜呑みにする人も、悪意に満ちた人も、そこに居るのが、当然として、考える必要がある。彼らの、誤った行動に対し、その他の人々は、どう対処すべきか、改めて、考える必要が出ている。と言っても、多くは、防ぐ為の手立てであり、受け手が、吟味するしか、手段は残っていない。逆に言えば、それさえ、十分に整えられれば、間違いを犯す人々の、過ちの殆どは、次の段階で、排除されることとなる。それでいいのでは、と思うこともあるが、今、手にした端末に、次々に送られてくる、玉石混淆の情報に、嫌気がさしてくると、もう少しどうにか、と思うことも、屡々なのだ。自分のことは、自分で、とは言うものの、その他大勢が、こんな状況では、と思うと、何とかならぬか、と考えたくなる。答えは、見えてこないし、おそらく、解決法は、無いのだろう。人間の性と見れば、それまでだが、それしか無いのだろう。
今だと、悪意の塊は、そして、彼らの発言の場は、社会媒体だろう。大衆媒体も、今や多くは、当てにならぬ噂ばかり、弱い者を見つけては、集中攻撃を繰り返す。ただ、こちらは、世間体を気にして、弱者保護を、札に掛ける。ただの弱者には、手を差し伸べても、突き放しはせぬ。
とはいえ、大衆媒体も、盛んに、社会媒体の話題を、引き合いに出し、俎上に載せる。こうなると、ぐるではないか、とさえ思えてくるが、支援企業の顔色を、盛んに窺う大衆媒体と違い、社会媒体は、所詮、個人の集まりであり、耳目さえ集めれば、それで満足なのだ。立ち位置としては、かなりの違い、とも見えるが、どうだろうか。にしても、話題の中心は、社会媒体にある、とも見えて、書き散らかしを、拾い集めてみる。するとその中に、面白い遣り取りが、散らされていた。今、軍事侵攻の挙げ句、仲介国から、横槍とも思える、提案が寄せられたが、どうにも、不可思議にしか、映らなかった。だが、その中で、何方の勢力に、与するかにより、学識経験者と思しき人々が、その発言を、批判されたり、明らかな過ちと、指摘されている。その遣り取りが、ある意味興味深いが、さて、何方が、どう正しいのか。学界では、暫く後には、決定されるだろうが、現時点は、混乱の中と思える。ただ、その序でで、面白いのは、彼らの著したものが、真偽如何なるものか、指摘があり、所謂、学会誌の如きもので、普通に行われる、査読なる、検査方式において、偽と断じられた、論文の書き主として、批判を受けた話まで、出てきている。ふと、思い当たるのは、歴史の世界での、その手の出来事で、旧石器は、よく知られたところだが、別にも、古文書を引用した話があり、古文書自体が、捏造とのことらしく、学問の世界の、不思議を痛感する。誰が、どのような利益を、求めてのことか、とも思えるが、この話、上の話と、似て非なるものか。世間的な地位は、確かに重要だが、それで、学者生命を失うのは、何なのか、と思えてしまう。もっと汚れた世界、かもなのだが。
弱者に対する配慮、の問題は、かなり拗れている、と思う。実際に、害を被っている人々からの、訴えは、重要な事柄として、扱われる。それが、問題解決に、繋がっているなら、良いことなのだろうが、現実には、問題解決には程遠く、却って、善意の人々が、危機に陥っている。
それ自体も、解決への道筋で、不可欠なこととして、今は、取り扱われている。だが、それによって、弱者とされる被害者だけでなく、善意の人々までもが、被害を受けることとなると、とても、看過できぬ話となる。そんな所から、ここ数日の独り言を、書いてみたのだが、一方で、安易に取り上げると、自分の所にまで、害が及びかねない、と見る向きもある。だからこそ、誰もが、口を噤み、触らぬ神に、といった姿勢を取る。でも、それでは、何も解決しない。だから、恐れることなく、口を出して、実際には、書いてみた。すぐには、反応は出てこないし、ここ数日、囀りで、働きかけたからか、少しは、訪問者が増えたとしても、別の興味からだろうし、時には、こんな戯言には、関心を抱かぬ、という人も多いのだろうから、何も起こらない、と見るのが、妥当には違いない。仮令、そうだとしても、やはり、書いておきたいから、書いてみたが、どうだろうか。確かに、悪意に満ちた、書き込みを繰り返し、苦しむ人の姿を、見ることに喜びを得る、という類の人も、ある程度の数が、居るのはそうだろうが、かといって、弱者であることを、公にしながら、そういう発言を、徹底的に駆逐しようと、躍起になる人も、居る訳だろうから、何方も、居なくなる気配が、見えない中では、解決への道は、閉ざされた、と見るしかないように思う。だから、悪意の送り手の問題だけでなく、受け手の問題としても、考えてみては、と思うのだが、どうだろうか。感じない人には、理解されない、と苦しむよりも、どう処せば、そういった被害を、受けずに済むか、という点についても、考えてみるべきと思う。強制するのは、以ての外だろうが、自ら、解決の道を、探る為にも。
弱者に対して、あなたも、と言った途端に、激しく罵られた、という経験を、持つ人も居るだろう。だから、それ以降は、口を噤むようになり、一切、関わらぬようになった。という人も、居るのではないか。それが、望んだ展開なら、だが、そうとは思えぬ状況で、未だ、満たされぬまま。
そうなっているばかりか、依然として、悪意に満ちた暴言を、浴びせられるのを、見ていると、どうしたものか、と思う。強くなれ、という言葉は、元気づけるより、突き放すように、受け取られるのは、近年の風潮であり、このままでは、強い者と弱い者が、分断したまま、となるように思う。その上、海の向こうの暴君は、強い者の典型で、悪意に満ちた、と受け取られる発言を、盛んに繰り返す。その中で、人気は、相変わらずのようで、何故、と思う人も多いようだ。だが、それ自体は、何も不思議なことはない。彼の支援者は、その大部分が、不平不満を抱きつつ、力を誇示することを、常としており、その意味で、自分の味方として、強さを表現し、強弁を繰り返すのは、尊敬に値するからだ。だが、標的とされた、弱者や少数派は、何も利益が得られず、その上、罵倒されたり、支援を打ち切られたりと、良いことは、全くないと映る。だとしたら、もう、何かの利益を受けようとしても、支援を得ようとしても、無駄なのだろう。自分なりに、生き抜くことが、必要となり、多様性を、主張したとしても、権利が与えられず、冷遇されることが、続きかねない。おそらく、守るべきは、最後の一線であり、社会の一員として、存在することだけは、残さねばならぬ。特に、周囲の人々も、新たな支援を、模索することより、自分なりの生き方を、侵害されない範囲で、状況を保つことを、最優先とする方が、良いように思う。こう書くと、おそらく、多くの人々が、それでは、権利が得られず、存在さえ、消されかねない、と思うだろう。でも、権利とは、存在とは、どうあるべきかを、議論した上で、次の動きを、決める必要がありそうだ。その為に、必要なことは、何だろうか、と考えた時に、思ったことを、書いたのだが、無配慮となるのだろうか。
今の仕組みは、悪意に対して、効果が無い、と言われる。なのに、社会的には、弱者保護が、喫緊の課題となり、少数派への配慮が、当然のこと、となっているから、歪みは、強まるばかりとなる。このまま行けば、社会の分断は、強まるだけで、施政者は、板挟みとなる。
と考えつつ、昨日の話を、引き合いに出すと、どうも、仕組みの整備だけでは、事が片付かない、ということが、明らかになりつつある。問題の本質を、被害者に落とし込むのは、泣きっ面に蜂、でしかないと思われるが、本当に、そうだろうか。弱者の多くが、感受性は強い、と言われるのに、それを、一種の褒め言葉として、弱者でも、そういう能力がある、とさえ言い出す人が居るが、これは、大いなる誤解でしかない。弱者が、弱者たる所以が、そこにあるのだと見れば、褒めるよりも、すぐに手を付けるべきことが、あるのが分かってくる。何でも、鵜呑みにすることも、自分の弱点を、攻撃された時の、衝撃の強さも、全てが、弱者保護や少数派擁護の、根源とされる、出来事へと繋がる。そうなると、何をどうすべきか、自ずと明らかになる。それらを、精査した上で、どう対応すべきかを、考える必要があるのだろう。単なる保護や擁護では、ここから先、増え続ける少数派と弱者に、社会全体が、混乱を来すこととなる。元々、こういう仕組みが、先進国で採り入れられたのは、優位に立つ人々が、それを重視したことに加え、現実には、それが、自分達にとり、有利に働くことが、あった。確かに、この繰り返しにより、弱い者や、小さな集団が、世間的にも、社会的にも、認識されることとなり、彼らの存在そのものが、認められた。だが、それにより生じた歪みは、その後の展開から、大きくなり続け、問題も、大きくなっている。そろそろ、手の付け所を、考え直す必要があると思う。弱者や少数派も、そんなことに、気付いている筈で、相互理解の一手として、考えてみてはどうか。
何事にも、正解を求める、という声がある。特に、若い世代に、顕著と言われるが、何か、課題となるものが、与えられると、すぐに返ってくるものは、正解は何か、という話だ。確かに、高校までの学習では、唯一無二の答えを、求めさせる作業が、主体だったから、なのだが。
それにしても、社会に満ち溢れたものには、そんな正解は無い。だから、幾つか並んだものの中から、良さそうなものを、選び出すことで、次の段階へ、進もうとする。後になって、あれが正しかったのか、と思うことは、屡々起きるが、だからといって、その場で、立ち止まっていては、何処にも進めず、解決どころか、それに向けての道筋さえ、見つけられず、困り果ててしまう。だから、経験を積むにつれ、徐々に、その場の正解の一つを、見つけることで、次へと向かう、という手法を、身に付けていく。こんなことを、改めて考えたのは、ある本を読んだからだ。先月の読んだ本の中に、題名からでは、内容が推測できず、どんなものだろうか、と注文を出した時も、思ったものがあった。実際に読んでみると、そうだったのか、と一つ思い当たる所が、出てきた。この著者は、子供の頃に、壮絶な体験をした、として、その後、苦しんだ過程が、綴られているのだが、その体験そのものが、如何に壮絶だろうとも、そこには、驚きを感じなかった。それより、この人物が、本を読んだり、人の話を聞いたりした時に、どう感じたのか、という点に、驚きと共に、そうだったのか、と思う所があった。それは、あくまでも、受け身で、それらをすることで、本に書いてあることを、そのまま受け取り、言われたことを、そのまま受け止めた、という点だ。本の読み方に、決まりは無い、と思うが、それにしても、何故、こんなに素直に、書いてあることを、鵜呑みにできるのか、という点が、彼らのような人々が、社会で苦しむ存在となる、原因の一つ、と思えてきた。こちらは、本を読む時も、批判的な姿勢を貫き、対話を重ねる、という形式を取る。それに対して、こういう人々は、そこに書いてあることを、そのまま受け取り、心の奥底に、深い傷を負ったり、誰かに言われたことに、深く傷ついたりする。成る程、それでは、耐え切れぬかも、とさえ、思えてくるが、悪意に対して、どう処すべきか、と考えると、これでは駄目だ、と思える。彼らを保護するやり方も、実は、善意を退けるのみで、悪意はそのまま、となっているのも、だからだ、と思えた。
先週一週間、例の新型感染症について、覚えている範囲で書いてみた。読んだ人の感想を、聞いてみたい所だが、ここも、訪れる人が、殆ど居ないので、そんなことを、やろうとしても、無駄となる。まあ、それはそれとして、今回、一週間、書き続けたのには、目的があった。
これから、アップするのだが、このハンドル名で、流している囀りに、リンクを貼り付けよう、と考えている。そちらも、大した人数が、覗きに来る訳でもなく、また、フォロワーも、少ないので、効果の程は、あまり期待できないが、それでも、偶々覗く人が、居るかも知れぬ、との期待からだ。最近は、社会媒体で、盛んに発言する人がおり、その上、話題となれば、バズると言われて、万単位の人々が、閲覧することとなる。ただ、その内容は、と言えば、こちらの期待とは裏腹で、耳目を集めるだけの、乱暴な書き込みや、隣国への反発から、攻撃的な表現を、繰り返すものが、数多くある。また、分断と言われる時代に、海の向こうもこっちも、ほぼ同じ状況だろうが、政敵を、貶めるようなものや、書いても居ないことを、書き連ねることで、個人攻撃を、繰り返すものが、目立つように思う。それに比べ、などと書くと、同類なのに、とでも揶揄されそうだが、こちらは、大真面目に、あの当時の狂騒ぶりを、書いたに過ぎない。また、その内容も、確かな検証の上、とまでは言い切れぬが、少なくとも、論理性や科学的な確かさに、十分なものがある、と自負している。と言っても、誰かに読んで貰った訳でも、何処かで、点検を受けた訳でも、ないだけに、当然、誤りの指摘や、批判なども、押し寄せる可能性は、皆無とは言えぬ。ただ、落ち着いて考えれば、この程度のことは、思い当たる筈なのに、当時の喧騒ぶりは、制御不能に陥っており、それにより、罵声を浴びせ続けた人や、相手を貶めようと、躍起になった人まで、暗躍していたと思う。それはそれとして、立場がある人なら、今更でも、当時の過ちは、認めるべきだろうし、それにより、利益を得たのだとしたら、その点に関して、厳しい批判が、突きつけられても、いいのではないかと思う。とは言え、所詮、こんな所に、書いているだけだから、公的なものでも、社会的圧力でも、そんなものにはなり得ない。ただ、こんな考えもあるのだ、ということだけは、理解して欲しいものだ。