12月10日(水)

 1%、と聞いて、どう思ったろう。百回に一回、と思ったとすれば、逆に言えば、九十九回は、何事も起きない、となる。たったそれだけ、と思った人がいる一方、では、今回の地震が、起きる前と比べて、どうなったのか、と冷静に分析する人は、思ったのではないか。
 こんな数値を、担当庁の役人が、示したのには、理由がありそうだ。注意情報は、住民への注意喚起を、目的としたものだが、前回、もう一つの巨大地震が、予想される地域で、比較的小さな、地震が起きた直後に、発出された情報では、その地域だけでなく、周辺地域にまで、警戒が広がり、数日間の活動停止、を招いたと批判された。起こる、という情報は、それが、どの位の確率で、起きるかにより、受け止め方は、大きく異なるし、当然ながら、備えへの意欲も、全く異なってくる。夜中の、寝入り端を襲った、大きな地震は、直後の、津波警報の発出により、沿岸部に住む人々は、安全地帯への避難を、余儀なくされた。街灯以外は、真っ暗な中、高台に向けて、多くが、徒歩での避難を、行ったと思うが、その後の発表で、注意情報が発出され、1%という数字が、報道で飛び交った。だが、この僅かな確率に、どう対処すればいいのか、直後の報道は、何も伝えなかった。その原因は、記者会見場に居た、多くの記者達が、問い質さなかったからだ。初めの報道で、そう受け止めたが、ここで紹介する新聞記事は、直後にも、それを伝えていた、こととなる。地震発生以前は、千回に一回、だったものが、十倍になった、という話なのだ。成る程、と思いつつ、記事を読むと、そこには、0.01%と表記され、簡単なことでさえ、間違える記事に、更に、信頼は低下した。まあ、そんな過ちは、こちらで、修正するとしても、大元の取材の姿勢は、大いに批判されるべきで、特に、数値が示された場合の、その扱いには、送り手の立場から、どう処理すべきかを、平時から、検討しておく必要がある。担当庁も、ある意味では、慎重さに欠け、説明不十分となることが、多々あることから、ただの脅しではなく、説得力のある、表現の検討を、繰り返す必要がある。人間の心理を、読み取ることに、腐心するだけでは、誤解を招くだけとなるからだ。

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12月9日(火)

 女性差別と聞いて、何を浮かべるか。抑圧されてきた人には、そんなことは、大昔からある、と言われるが、世間的に、大きな問題として、取り上げられたのは、海の向こうの、ウーマンリブ(women's liberation)だろう。1960年代に始まり、70年代には、世界に飛び火した。
 でも、それで、変わったことは、殆ど無い、と言われる。その後、こちらでは、40年前に、男女雇用機会均等法なる法律が、制定され、女性の社会進出を、促したと言われる。が、これも、差別解消には、至らなかった。実は、雇用だけでなく、他の生活全般に、問題がある、と指摘され、四半世紀前に、男女共同参画社会なる言葉が、高々と掲げられ、法律も制定された。その後、国だけでなく、地域も挙って、この言葉を用いて、社会の構成員に、老若男女を問わずに、意識改革を促したが、さて、どんな具合だろうか。生物学的には、男女、雌雄の区別は、明確になっており、その役割分担も、はっきりしている。だが、生殖に関する以外には、時代、社会など、様々な要素で、それらは、大きく異なり、労働でさえ、女性が大半を担う、という所さえある。そこでは、戦いのみが、男の役割で、平時には、ただ、食って寝るだけ、とのことだ。何事にも、男女の区別なく、という考え方が、市民権を得てきたが、実情は、かなり難しい状況で、はっきりとはしない。一方で、推進の為と称して、雇用機会を均等にするのではなく、優先的に採用するなどの、措置が取られるようになり、逆差別などの言葉も、飛び交い始め、混乱の最中といった感がある。一方で、多様性の時代なる話が、徐々に大きくなり、男女以外の区別を含め、種々雑多な分類法が、採り入れられると、ただでさえ、落ち着かぬ状況が、更なる混乱を、招いているように映る。そこには、当然ながら、少数派や弱者といった、擁護される存在が、加えられることで、差別感は、却って強まった、ようにも映る。以前、強面俳優が、妊娠・出産を経験する、という喜劇映画があったが、性の区別を、排除して、神の思し召しは、正確ではないが、生物としての役割を、打ち砕くような考えには、賛同しかねる。自分さえ、という考えでは、社会は、成立しないからだ。

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12月8日(月)

 情報交換の場、だった筈だが、現実には、独り善がりの意見を、書き散らすばかりで、数としては、圧倒的に、そんなものが多いようだ。その上、反論が書き込まれると、途端に、火がついたように、その主張は、極論へと発展し、敵対視するだけでなく、反論を曲解する。
 情報交換や議論には、基本的に、冷静な対応が、必要となるのだが、上に書いた人々は、そんなことが、不可能であるばかりか、相手の人間性を、全否定してみたり、反論を曲解することで、貶めたりする。所詮、そんな人間性は、こういう場には、馴染まないもので、排除できれば、するのだろうが、そういう精神性の人間は、自らの立場を、守る為と思い込み、攻撃性を維持し、立ち去ることは、選択肢に出てこない。そうなると、独壇場となり、皆が、見て見ぬ振りをするか、或いは、拒否することで、目に入らぬように、するしかなくなる。自由な、情報交換の場、と目された筈が、当てが外れて、時に、心に傷を負い、退散した経験を、持つ人も多いだろう。勝手なことを書く、という意味では、独り言は、まさに、その典型であり、批判されても、と思ってきたが、これほど、耳目を集めぬと、そんなことさえ、起こらない。そんな見方もあるが、実は、はじめに紹介した、情報交換の場、とは大きく異なる仕組みが、ある。独り言は、自ら、接続しないと読めないが、囀りでは、おすすめと称して、矢鱈と、悪質なものが、送りつけられるのだ。それは、接続数や、「いいね」の数など、何かしらの数値を、基として算出された、ものなのだろうが、悪質であればある程、嘘や出鱈目が、極端である程、表示される可能性が、増すのだから、困ったものと思う。その上、悪質性を、感じない人だからか、そんな発言ばかりに、首を突っ込み、同意を表したり、煽ったりする輩が、居るのも困ったものだ。方法には、触らぬ神に、とばかりに、接続しないことや、そんな発言に、心を乱されぬ、ある意味の強さを、獲得するしかない。反論は、重要なことだが、面倒は、背負い込まぬ方がいいようだ。