もう一つ、この界隈で、聞こえてくるのは、労働環境の劣悪さ、ではないだろうか。任期制が、多くの大学で導入され、心理的な不安定が、増したと言われる。だから、まともな研究も、教育さえも、できないのだ、と断定する声が、届いてくる。だが、本当だろうか。
確かに、研究の場として、大学を眺めると、そこに集まったのは、同好の士であり、好きなんだから、少し位の辛さは、克服できる筈、と言われてきた。そこに、職業としての、研究や教育が、認識されるにつれ、辛さは、邪魔なものと見做され、取り除くべき、との意見が増えてきた。でも、研究や教育の質を、優先して考えると、必ずしも、労働環境の改善が、その結果へと繋がらず、改善の努力が、実を結ばぬ事態に、批判が出ている。昨日書いたように、報酬や支援が、決定的要素ではなく、各人の心持ちや意欲が、より大きな影響を、及ぼすのでは、と考えたくなる。これは、初等中等教育でも、同じことであり、劣悪な労働環境が、成り手の減少と、現役の疲弊に、繋がっている、との意見が、強くなっているが、その多くは、文句を並べ、改善を迫るものの、具体的な対策は、一切論じることなく、ただの野次にしか、なっていない。最大の障壁は、親の介入と言われるが、それへの対策が、講じられぬまま、現場への圧力が、増すだけなのだ。対策として、組織が、連携を組むことで、一部への重圧を、取り除く手立てが、講じられるべきだろうし、一方で、過剰労働の原因として、教育そのものより、辺縁要素の問題が、増え続けるが、それとて、書類作成の効率化や、辺縁業務の効率化を、図る必要がある。本当に、これらが、障壁となるのなら、打開策は、十分に有り得ると思う。一方、不祥事の問題を、これらと結び付けるのは、浅慮と思う。まずは、人材獲得の策と共に、その後の育成をも視野に入れた、仕組みの構築から、始めるのが、一つだろう。悪貨が良貨を、と言われるものの、組織全体の整備が、それをも上回る勢いで、改善に向く可能性は、十分にあると思う。その上で、どの教育現場からも、現役の明るい声が、届くことを、期待する。
大学には、基盤整備が、肝要だと書いてきた。が、世の流れは、依然として、選択と集中のようで、紹介するまでもなく、ここ数日、多額の予算を、注ぎ込むべき大学が、指定された、と報じられている。これ程、明白なことに、まだ、溝に捨てよう、とは如何なものか、と思う。
少なくとも、最高学府の頂点に立つ、あの大学は、これまで、他と比べたら、遥かに多くの予算が、注ぎ込まれてきた。最優秀な学生を、最優秀な人材に、育て上げる、との目論見は、一部では、達成できたと見えても、注ぎ込んだ額に、見合う程かと問われれば、否との答えしか、出しようが無い。にも拘らず、懲りもせずに、同じことを繰り返す。流石に、頂点については、これまでのことが、あるからか、今回は見送り、となったが、それとて、一時の誤魔化し、に過ぎないだろう。一方で、高額予算を使い、人材獲得に力を入れる、との方針が出されると、途端に、群がる輩が出てくる。彼らの多くは、研究が進まないのは、人件費や研究費が、不十分だから、との論を張っており、書き連ねるのに対し、同類の無能な人々が、盛んに、同意を示す。この図式は、社会媒体の最大欠陥であり、排除の必要さえ、論じられる。画期的な発明や研究成果は、優秀な人間により、産み出される、と信じる人が多いが、所詮、結果論に過ぎず、それらの成果を眺めたら、その生みの親は、優秀だったというに過ぎない。どんなに、金を積んで、成果を上げた人を、招いたとしても、二匹目の泥鰌が、捕まるとは限らず、何度も、空振りをする覚悟が、必要となる。例えば、外資系企業が、盛んに、優秀な人材を、高額の報酬で、招く話が紹介されるが、その多くは、顧客獲得の手法が、手に入った途端に、お払い箱にする訳で、全体として、それによる儲けの方が、一時的な支出より、遥かに大きくなるから、いつまでも、同じことが行われる。一方、転職した人間には、一時的な収入増に、目が眩んだ結果、その後の安定した収入を、投げ出すことになり、憂き目を見るだけだ。本当に、優秀な人材は、報酬の多寡に関わらず、自分なりの努力を重ね、成果を上げる。彼らに報いるのは、成果報酬でしかなく、餌のばら撒きは、無駄となる場合が、殆どなのだ。そう考えると、今回の措置は、明らかな過ちで、それより、幅広く支援し続けることこそが、全体の力を向上させると思う。
絵に描いた餅、ではない。確かに、予算額が、各大学に配分され、それらは、法人毎に決めた、使途へと流れる。要求したものでもなく、また、提案に沿ったものでもないから、当然、何に使うべきかの、指定がある訳ではない。にも拘らず、自分達の給与を、と書く人々は、何を思うのか。
そこから既に、末期状況にある、と見る向きもある。確かな教育や、最先端の研究を、行えないのは、安月給で、働かされているから、などと、惚けた書き込みを、盛んに繰り返す。自己中心的で、あるだけでなく、そこには、見識も論理性も、微塵も感じられず、同情の価値無し、としか思えない。要するに、そういう劣悪な人材が、大学内に居座っている、と見るべきかも、とさえ思いたくなる。だが、そうは言っても、教育は、国が掲げる、大事業の一つである。その為に、必要となる予算を、確保した上で、実践を図ることを、期待している。長らく、馬鹿げた考えに、取り憑かれた財政当局が、後先考えぬ、愚かな政策を、強行してきた。その結果、教育の基盤が、荒廃するに至り、漸く、是正が図られた、というのが、現状の姿だろう。ただ、これも、長続きせねば、単に、焼け石に水、としかならず、無駄だった、などと揶揄されるだけだ。ただ、その一方で、腐り切った人々が、身勝手な考えで、本務を果たさず、責任転嫁を繰り返すのは、排除の対象、とせねばならない。強行策は、こういう状況では、適さないだけに、外圧に頼る前に、内部改革を、自ら進める必要が、出てくるだろう。既に手遅れ、という話は、良く出てくるが、その発言を繰り返す、人の多くは、自ら動こうとせず、単に、責任転嫁を、行うのみなのだ。だとしたら、雑音には、耳を貸さず、本来あるべき姿に、戻す必要がある。その為に、誰がどのように動くか、今後、徐々にでも、見えてくることを、期待したい。
昨日書いたことを、念の為に調べてみた。大学の監督官庁から、夏の概算要求で、提出された運営費交付金は、確かに、増額を示している。これは、つまりは、新宰相が、就任する前から、ある程度の方向性が、決められており、今回の補正も、その延長線上に、あると見える。
だからと言って、何の影響も無い、とは言い切れぬだろう。概算要求では、掲げていたものの、それでは、まだ足りないとの判断が、新しい政府で、検討されたと考えることも、可能だからだ。ここまでの数値は、監督官庁が、示しているので、確認して欲しい。提示書類の29ページには、確かに、今年度予算では、1兆784億円だったのを、来年度は、1兆1416億円とする、と謳っている。先頃の補正予算では、421億円が、認められたから、今年度の支出は、合計1兆1205億円となった。そこからの、今年度との比較では、200億円強の増額、となっており、2%弱の増加率となる。これまで、法人化後は、毎年度1%の減額が、強いられてきたから、それに比べれば、多いと見えるかもだが、現実には、これまで、20%近くの減額だったのだから、まだまだと見るべきだろう。となれば、来年度予算編成で、更なる増額を、望む声が、聞こえてきても、不思議はない。とは言え、内容として、人件費を中心とした増額、となっているから、これにより、何がどう変化するか、楽観はできない。一方で、困窮の極みで、動きが取れない、という悲鳴が、静まったとしても、それが、高等教育の強化、に繋がるとは言えず、ある程度の額を、増やしたことが、どんな改革に、結び付くのか、また、何年にも渡り、指摘され続けた、学生気質の低下に、どれ程の影響を、及ぼせるかには、何の保証も無いのだ。現場の人々を含め、何をどう変えるべきか、考える時が来たのではないか。無い袖が、との言い訳が、徐々に通じなくなるとしたら、まさに、真剣に、取り組まねばならないだろう。
色眼鏡、と書くこと自体が、既に、色眼鏡なのだが、それはそれとして、読んで欲しい。新たな政権が、始まった時、最大の関心事は、女性ということだった。女性解放運動を始めた、海の向こうでは、何時迄も、硝子の天井が、破れぬままに、今回も、暴君の再来を、招いたのに。
様々な批判が飛び交い、一挙手一投足に、揶揄の声が、絶えなかったが、徐々に、存在感を、強めているようだ。外交において、一つの発言に、誰もが群がり、あれこれ文句を並べるのは、マスゴミと揶揄される、大衆媒体の常だが、一方で、社会媒体も、見識を疑う発言が、並んでいる。その中で、大義名分としては、国民の生活の為、と言われた、補正予算案が、成立したと報道された。この中で、ある特定の人々にしか、響かなかった、ある予算について、注目する人が居る。大学、それも国立大学への、新たな運営費交付金が、注ぎ込まれたのだ。使途について、馬鹿げた論を、並べる輩は、ある意味、無視すればいい、と思うが、毎年1%ずつ、予算を減らし続け、20年程で、以前の8割近くに、削減されたものが、物価高騰の中、流石に、足らないと判断されたのか。財務当局は、馬鹿の一つ覚えで、一度決めた方針を、後生大事に続けたが、ここに来て、実態把握も無く、継続することに、反対の声が上がった。これも、新政権の手柄の一つ、とする向きもあるが、肝心なのは、一時金の支給では無く、運営に必要な額を、如何に確保するか、という点にある。その意味で、就任前に、決まっていた、来年度の概算要求で、一旦は、概ね決まっていた額を、年末の最終調整で、どう修正するかが、肝心となるだろう。果たして、そこまで、目を配るかは、何の保証も無い。だが、就任後の発言から、その期待をするのも、当然と言えよう。とは言え、担当官庁と財務当局の、鬩ぎ合いは、これからなのだろう。
苛め、という言葉が、盛んに聞かれ始めたのは、何時頃だろうか。行為自体は、遥か昔、古今東西に、あっただろうから、不思議なものではなく、特に、陰湿なものとして、語り継がれるのは、侍の時代の、松の廊下なる場所で、始まったものだろう。数々の物語が、作られた。
力の強弱で、立場が異なれば、それを利用して、自分に有利に、物事を運んだり、時に、単に愉快だから、という、取るに足りぬ理由で、事に及ぶ人も居る。真相は、それぞれであり、総じて論じるのは、難しいとされる。力関係も、職場のものが、一般的とされるが、話が大きくなったのは、この国では、教育現場での事件が、大事となったからだろう。そこでの力関係は、教室外の人々には、すぐに理解できず、事が、大きくなって初めて、取り上げられた。時に、それは、悲劇へと繋がり、人の命が、失われるまで、となると、関係者の数が、多くなるだけでなく、状況の深刻さも、大きなものとなった。その後、この手の話の取り扱いが、大きくなった要因には、海の向こうから、持ち込まれた考え方で、苛めの定義が、ある意味、大きく変わったことがある。それまでは、加害者の意識が、重要なものとして、取り扱われたが、そこからは、被害者の意識の方が、遥かに重要であり、それを、判断基準とせよ、となったのだ。現状は、そのままであり、多くの現場で、混乱が続いている。確かに、防ぐ為の仕組みが、導入されたのだが、それにより、被害者は、減るどころか増えており、被害の大きさも、増しているようだ。確かに、被害者の心情が、重要なのだろうが、それにしても、この歪みの大きさは、どうなっているのか。理解に苦しむ人が、多いのではないか。ただ、第三者から見ても、如何なものか、と思える事象は、確実に増えている。その理由は、仕組みの整備で、相互観察の、機会が増えたからだろう。加害者に、共通する点として、挙げられるのは、思い込みと、制動が効かない言動、にあるようだ。冷静さを失い、暴走する人間には、暴力に似た、言動が目立つが、それも一つだろう。こういったものだけは、周囲からの働き掛けで、防ぐべきかと思う。
世の中、理解不能なことばかりで、そんな瑣末なことに、取り合っていては、何もできなくなる。でも、気になるのは、事実であり、それも、自分の考えが、及ばない範囲となれば、何事か、と思うことも、屡々なのだ。例えば、この所話題の、隣国の話など、その典型と思う。
戦争が終わり、敗戦処理が続く中、占領した地帯の、国々に対して、補償をどうするか、責めを負うべきか、などの問題が、山積していた。その中、今は違う名となった、あの国の総統が、賠償放棄を決めた、とされており、今回の揉め事でも、その点を含め、様々に論評された、と言われる。まあ、その点について、こんな場所で、書いても意味が無い。だが、一方で、国としての地位については、理解不能なのだ。戦争終了時、国を代表する政府が、名乗っていた国名は、Republic of Chinaであり、今のPRCとされる国は、その後の内戦により、敗れた先の政府が、今の島に、移ったことで、一時的には、二つの国が、一つの国名を名乗る、という状態となった、と言われる。正確には、表記が違うから、同じではないが、複雑な状態だったことは、見てとれる。で、その後、何方が、地域を代表する国か、という話が、擦った揉んだされ、徐々に、情勢が一方に傾き、ある年、国際機関に加盟する国々の、決定として、今の状態に落ち着いた。その事実は、曲げようのないものだが、その後も、島国の方は、主権を維持する形で、残り続け、一部の国は、それを認め、国交を続けてきた。だが、公的には、と言っても、これは国際機関の会議による決定だが、それを理由として、様々な所で、国とは認められず、地域という、不思議な表現が、付け加えられ、一時的な問題解決が、図られ続けている。で、今回の話題は、その地域を、国の一部として、吸収するという、試みについて、平和的ではなく、占領してでも、と言い出したことが、発端となる。今、問題となる、軍事侵攻は、他国へのものであり、この例とは、明らかに異なるが、そう言い切れるものか、理解不能なのである。どうしたものか、どうなるべきか、はてさて。