12月25日(木)

 慰め合い、と言ったら、過ぎるだろうか。囀りをはじめとした、社会媒体の有用性で、確かに、情報収集は、最大の要因に、違いないが、実は、多くが、全く別の目的で、書き込んでいるらしい。実生活で、辛い経験をした、とか、厳しい叱責を受けた、とか、そんな時に。
 その状況を、書き綴ることで、誰かから、慰めて貰うのを、待つのだ。そんなことを、書いた途端に、弱り目に祟り目、泣き面に蜂、の如くに、罵声を浴びせる書き込みが、急増するに違いない、という反論が来そうだ。ただ、この仕組みの便利な所は、と言っても、こういう使い方にとっての、便利さにすぎないが、登録した者同士の、秘密会を、設けることができることだ。これにより、味方以外には、読みもできず、書きもできず、何の心配も要らず、となる。でも、と思う人が多いだろう。それは、情報交換であれば、門戸を広げ、不特定多数からの、情報を、待つ方がいいからだ。でも、傷付きたくない、とか、突き落とされたくない、とか、そんなことを、考える人の方が、遥かに多いのだろう。先日も、少し意見を書いたら、途端に、戸を閉じてしまった。居心地のいい所に、留まりたい、という気持ちが、優先され、その上、耐えたり、堪えたり、といった苦行は、真っ平御免となる。まあ、勝手にしたら、と思うのだが、そうでないと、壊れてしまう、脆い心の、持ち主が増え、そんな人々が、自分は当然だが、相手も傷付けぬよう、慎重な書き込みを、心掛けている。それが、自分の心を、蝕むことへと、繋がりかねない、などとは、考えもしないのだろう。強さは、手に入らぬもので、弱さこそが、武器となる、と信じているのか、理解不能に陥る。社会全体に、そんな風潮が、高まるばかりで、正しい意見は、相手を傷付けるもの、と断じられるし、その発言者は、犯罪者の如く、扱われることさえある。このままでは、自己崩壊へと、向かうのではないか、と思うこと頻りだが、当事者達は、何処吹く風とばかり、自分だけは、となるようだ。触らぬ神に、とすべきだろうか。

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12月24日(水)

 でも、やはり、と思う人が、多いのではないか。確かに、情報を手に入れる為に、不特定多数の人に、問い掛ける機会として、社会媒体は、大変有用なものだろう。だが、だからといって、罵詈雑言を、浴びてもいい、と思う人は居ない。誰もが、気持ちよく生きられる、と願うものだ。
 さて、その中で、日々、幾つかの反応を、書いているが、反応は様々だ。「いいね」を、期待する訳ではないが、だからと言って、何の反応も無しで、構わないという訳でも無い。何らかの反応が、出てくるのであれば、嬉しいものだし、それによって、囀りという場が、賑やかになれば、有り難いと思う。情報交換が、相互理解に繋がり、それに付随して、多くの人が、何らかの利益を、得られるのであれば、存在価値も、高まるというものだ。だが、現状は、程遠いものであり、劣悪、という一言で、片付けてしまう人も、多いのだろう。今、これを書いている時に、ある囀りに対して、少しの反応を示したら、早速、回答が、寄せられていた。こちらが、疑問に思うことに、答えてくれるのは、有り難いことだし、それを、他の人が読み、何かを得てくれれば、と思う。その一方で、先日、実名の方で、書き込んだものには、興味を示した、人が多かったのだが、その中に、「言わずもがな」、と表現した部分に、拘りを見せる、一部の人が居た。尋ねられたので、考えてみたら、と返した所、別の人が、罵声を浴びせてきた。これで、すぐに反応したら、また、馬鹿げた遣り取り、となっていただろう。ぐっと堪えて、そのまま放置する選択をした。その後、音沙汰は無い。人それぞれであり、知りたいと思った人が、教えろと迫るのも、こういう場の、特徴の一つかもだが、無知は、恥じる必要がなくとも、考えもせずに、答えだけ寄越せ、と迫るのは、脅迫行為に近い。誰もが、参加できる、情報交換の場に、相応しいとは、とても思えず、こんな反応しか、返しようが無い。ただ、こういう形で、返答しないことも、意思表明の一つ、と思うのだが、どうだろうか。さて、囀りの次の話題は、何だろうか。

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12月23日(火)

 劣悪だと、考えつつも、何か教えて欲しい、と思ったら、頼りたくなるもの、なのかも知れぬ。先日も、ある大学関係者が、情報が見つからぬ、ということで、【急募】と付記して、誰でもいいから、教えてくれ、と叫んでいた。何がどう困っているかは、判らぬものの。
 余計なこと、と思いつつも、何かできれば、とばかりに、鍵単語を頼りに、検索してみた。すると、それに当てはまる情報が、すぐに見つかった。そこで、親切にも、返信してみたが、その後一日以上経過しても、何の音沙汰もない。困ったものだと思いつつ、こういう場での、礼儀として、如何なものか、と思う所を、書き記しておいた。依然として、放置されたままだ。こういう場は、ある意味の仲間意識で、関係が成立する、と思っているが、一部の不埒な輩は、馬鹿にしたり、批判する為だけに、罵倒したり、罵詈雑言を繰り返す。そんなことでは、より良い場が、築ける筈がない、と思うからこそ、こんな瑣末なことにも、対応してみるのだが、徒労に終わっては、何ともはやである。まあ、元々、求めた情報が、自分が示した所の、下に存在していたので、当人にとっては、単なる恥晒し、でしかなかった。だとしても、その不注意を恥じ、皆に、表明してこそ、人の上に立つ人間としての、矜持を示せるのでは、と思う。それも含め、良識や良心に、依存する世界を、このまま、便利な場として、維持しようとするなら、参加者全員が、その心掛けを、示す必要があると思う。それをせずに、ただ、自らの利益のみを、追求したとしたら、荒廃するのは、当然の帰結であり、その片棒を担いだことも、恥じるべきだろう。何故、こんな風に、私利私欲に走る人間が、巷に溢れる結果となったのか、理由や原因は、さっぱり思い当たらぬが、本人達は、何かしらを気付いている、のかも知れぬ。さて、どうなるものか。暫くは、あの書き込みを、見守っていきたい。何の期待も抱かず、遠くから。

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12月22日(月)

 皆が、引き寄せられた、理由は定かでない。だが、現実に、多くの人々が、日々、手にした端末に、目を奪われ、気付いたことを、盛んに発信する。その意味では、情報交換が、主たる目的であり、その役目は、ある程度、果たされている、と見るべきか。だが、その他大勢は。
 こちらも、時に、思いついたことを、発信しており、それに対して、寄せられる反応に、目を通している。人によっては、書きっぱなし、送りっぱなしで、見返すことも無く、単純に、発信のみ、となるのだろうが、多くは、目を通し、時に、反応している。と言っても、相手によっては、非論理的な書き込みを、繰り返すばかりで、無駄玉、という印象が拭えない。そう考えると、この情報交換の仕組みも、大多数は、塵同然であり、取るに足りぬばかりか、目を向ける必要さえ、感じられない。情報の流通を、円滑にし、万人に役立つものを、との狙いは、ほんの欠片しか、達成されず、これ自体を、無駄なもの、迷惑なもの、と見る向きもあるが、そうとは言い切れまい。これは、電子メールも、同様の状態であり、以前書いたが、職場のメールも、今では、肝心な通信に比べ、詐欺紛いが、一桁多いように、毎日感じている。では、この仕組みも、無駄かと問えば、誰もが、必要不可欠であり、使い方次第で、有用である、と答えるだろう。この状況は、もっと古い媒体でも、同じことだ。電話も、唯一の連絡手段として、その地位を築いてきたが、今では、最初に書いた端末と、同じもので、連絡する場合が多く、その意味では、音声よりも、文字で伝えよう、とする仕組みの方が、便利に映る。とは言え、依然として、多くが、電話として利用し、所謂、固定電話も、減少の一途とは言え、まだまだ、多くが設置されている。そんなことを、書いてくると、いや、別の媒体で、今問題視されるものが、あるのではないか、との声が聞こえてくる。それは、所謂、大衆媒体であり、認可を受けた上で、運用しているから、信用度は高い、と思う人も居るが、最近は、嘘しか発信せず、国民を操縦しよう、との意図が、丸出しとの声も、聞こえてくる。真偽の程は、場合によるが、それにしても、ここまで来ると、情報そのものに、そんな性質あり、と思うべきかもとなる。