2月11日(水)

 排他主義が、蔓延ってしまった、ように見える。選挙結果も、その延長線上か、と思える部分があり、首を傾げたくなる。だが、そんな考えは、少数派なのだろう。自分が、不幸だと考え、それを、他人のせいにし、その結果として、今は、外国人排斥が、先頭を切る。
 だが、そんな心持ちは、ずっと昔から、あった。島国根性、とも呼ばれる心情が、現れたものの一つに、村八分、という考えがある。今なら、仲間外れ、と呼ばれるものだが、何かしらの違いを、見つけた時に、それを、殊更に強調し、違いを元にして、排除に繋げる、という考え方だ。仲間だった人を、追い出す為に、あれこれと、理由を見つけ出し、それが、如何に重要なものかを、強調することで、目的を達成する。国を挙げて、そんなことを、やり始めた、と思えるのは、移民頼みで、発展を続けてきた、海の向こうの国で、だからこそ、移民排斥の政策に、驚いた人も多く、今も、その混乱が、国内各地で、発生している。それを、対岸の火事、と捉えるか、はたまた、同じ事情と、判断するかは、今後の、この国の行く末を、定めていくもの、と見ることもできるが、さて、どうなることか。これまでも、少し書いてきたが、外国人労働者頼みの、政策に関しては、疑義を感じる。海の向こうの発展は、実は、安価な労働力として、移民頼みを、続けてきたが、それが、肝心の働く場を、奪うことに繋がった、との解釈が、大統領自らが、下したことで、大きく、方針転換が図られた。だが、安価な労働力は、また、劣悪な労働環境とも、結び付いてきた訳で、それを、豊かな生活を、望み続けた自国民が、喜んで引き継ぐとも思えぬ。この状況は、こちらでも、同じと見做されるが、大きな違いは、まだ、多くの労働が、奪われたのではなく、単に、面倒で、劣悪なものを、回したいと願う、身勝手な人々の、考えを反映しただけだ。一方で、様々な事情から、働けないとされる、人々の扱いには、まだ、答えが出てなく、そこから手をつけたら、とも思う。そちらに、目を向けるより先に、排他主義へと、舵を切るのは、如何にも、愚かに思えるが、さて、どうなるか。暫く、様子見が、続くことになるのか。

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2月10日(火)

 選挙結果を受けて、相場は、最高値更新を、続けている。株式市場は、将来を見込んだ、動きを示す、と盛んに言われるが、果たして、この動きは、何を期待したものか。一方で、悲観的な筋書きを、好む人々は、今、沈黙の場面に、入っているのか。はたまた、礫の準備か。
 一つだけ、言えることは、相場が上げても、庶民の生活は、楽にならない、となる話だ。朝三暮四を、思い起こせば、今この時に、手にできる金の、多寡によって、感想を言う人々に、将来を見込んで、上げ続ける相場は、何の意味も為さない。だが、景気が上向けば、それぞれの収入も、それに従って、上がることになり、今年の末には、全く異なる数字が、給与票に、記されているかも知れぬ。そんな先のことに、興味が無い、と言い続ける人々も、一方では、老後の不安を、抱き続け、それについても、文句を並べる。目の前と、ずっと先、ある意味で、全く異なる光景を、思い浮かべつつ、不平不満を、並べているが、その本心は、何処にあるのか。こんなことに、いちいち相手をしていては、政は、進められぬもの、と見るのは当然だ。だが、目の前の人参を、ぶら下げてやらねば、票を獲得できない、となれば、やはり、減税との一言が、決め手となったのだろう。それも、横並びとなれば、政権を握った人間が、有利となるのは、必然だろう。結果が出て、それに合わせたかの如く、相場は、上向きの調子を、維持したままとなる。それも、連日で、かなりの上げを示すから、どうなったのか、という心配と、どうなるのか、という不安が、過ぎるのも、致し方の無い所だ。とはいえ、まずは、閉塞感しか、抱けなかった時代と違い、好転しつつある中、自分達が、考えるべきことを、各人が、果たすことが、第一ではないか。確かに、まだ、不安が残るのは、当然なのだが、それを言い募っても、何にもならない。自分がすべきことを、するのが、第一であり、その結果を、眺めるのが、次に来ることだ。不平不満や文句は、何の足しにもならぬ。動いてみたら、どうか。

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2月9日(月)

 選挙の結果には、触れないでおこう。無駄とは言わぬが、何だか、この動きに関して、熟慮の末、とは思えぬ節がある。でも、その一方で、先日取り上げたような、有名な人々が、囀りで、盛んに訴えたことは、水泡と化したようだ。論理とか、理念とか、盛んに言われたが。
 今回、書いておきたいのは、選挙のやり方、に関してだ。以前は、選挙が始まると、街中に、騒音が溢れ、何をどう訴えているのかは、全く伝わらないのに、ただただ、当選させて、との訴えばかりが、耳に響いていた。それに比べれば、ずっとましなのかもだが、それにしても、あらゆる媒体を用いて、皆に伝えたいことは、何なのかについては、依然として、明確にならぬまま、のように見える。どんな媒体を、用いようとも、何を伝えたいかを、明確に書かねば、伝わる筈も無いし、その一方で、一度訴えたことでも、約束を反故にすれば、何のことか、となってしまう。問題は、その伝え方ではなく、媒体の使い方、とでも言おうか、その辺りに、まだ、強い違和感と、強い抵抗を、覚えているのだ。社会媒体が、登場するまでは、と言うより、それを、選挙に用いることが、認められる前は、街頭での、騒音としか思えぬ、車から発せられる、連呼と、何処かの会場で、開かれる、演説会しか、無かったように思う。それでも、新聞折込で、候補者全員が、書き連ねた、主張やら、テレビで流される、録画やらが、あるではないか、という意見も、出てくるだろう。でも、誰が、どれ程の興味を、抱いているのか、という点からは、取るに足らず、と言いたくなる。そこに、登場したのが、社会媒体なのではないか。それ自体は、些細なもの、と見る向きもあるが、今や、多くの人が、手にした端末で、情報の送受信を行う。その上、時と場合によるが、何度も表示され、決められた時しか、発信されないものとは、大きく異なる、優位性を示すように思える。でも、内容を含め、誰がどう、判断しているのかは、不明確なままだ。電子メールは、いけないが、社会媒体であれば、という点も、今一つ理解に苦しむ。皆さん、どう思いますか。