ある頃から、画面に映る、背広の人の胸に、丸いものが、よく見られるようになった。中が抜けた、円形のものは、17色に彩られ、それが、持続可能という、掛け声を、表している、と聞く。言い出したのは、国際的な組織だが、これだけの人が、賛同を表すのには、首を傾げてしまう。
画面に映るのは、ある意味、地位の高さや、尊敬の対象を、表している、と思えるだけに、そんな人々が、身に付ける程に、重要な課題なのか、と思う人が、多いのだろう。だが、掲げられた目標を、読んでみると、やはり、何故とか、どうしてとか、口を出したくなる、そんな程度の話かと、思えてくるのだ。まず、第一に、誰が対象なのか、という疑問が浮かぶ。何故なら、自分達の周りで、今更掲げずとも、達成できている、と思えるものが多く、それに賛同することへの、意味が見えなくなるからだ。一方で、確かに、昔は、達成できていたが、最近は、怪しいなと思えるものも、多くあるように感じる。具体的に、示すことはしないが、思い当たる節が、誰にでもありそうだ。ただ、それが、失われつつある、あるいは、既に、失われてしまった、と感じるのは、何かと引き換えに、投げ出したのかも、と思えるからだ。上の世代から、引き継いできたのに、自分の世代で、諦めて、捨ててしまったことや、自身は、何とか関わり続けているが、社会全体としては、かなり厳しい状況に、あると実感することも、数多くある。だからこそ、ここで、目標として掲げることが、重要だとの意見も、分からなくもないが、国際機関が、主張していることは、それとは、少し違うように、感じられる。何も無い所に、その目標を、設定することで、意識を高めて、進むことができる、といった感があるが、嘗て、やってきたことを、何らかの事情で、捨ててしまった国には、そういった意識の、持ちようには、違和感が付きまとう。あれやこれや、文句をつければ、きりがないのだが、さて、どう対処すべきか。17個の目標について、それぞれ、違った取り組み方が、必要と思える。その意味で、外から押し付けられたものに、そのまま従うのは、少し違うように感じる。昔の生活に、戻るべきとは、一概には言えぬが、そういうものとの、付き合い方を、今一度、考えてみるべきでは、と思うのだ。として、何から始めるべきか、何をすべきかについては、別の見方から、考えるべきでは、と。
無知はいけない、と言うけれど、自分の考えを、否定された時の反応は、もっと深刻な問題では、と思う。間違いを、指摘されたり、別の意見を、出されたり、そんなことが、起きた時の反応には、人間の性格というか、人格のようなものが、現れているのではないか。
だから、という訳でもないが、批判が、強まるにつれ、人格否定に似た、書き込みが、増えてくる。それ自体、許されるものではないが、そこに至る道筋には、そんな背景があるのでは、とも思える。兎に角、反論や異論を、拒絶する姿勢が、露骨に出ている場合も、多く見られ、その一部は、拒絶反応という、排除機能を、発動させる。様々な事情から、組み込まれた仕組みだが、参加者の人権を護り、精神を、正常に保つ為に、働くのではなく、ただ単に、気に入らぬ人間や意見を、排除する為だけに、働いている、ようにさえ見える。気に入らぬ意見に、反論する手立てが無く、沈黙という、敗退が確定すると、勝ち負けに、拘る人々には、平静を保つことが、難しくなる。そこで、一つの釦を、押すだけで、排除できるとなれば、いとも容易く、手を出すのだ。だが、自分が、提供した情報や、自分の考えが、間違ったものだったり、誤解を招くものだったり、した場合には、修正を施すのが、自分自身を、守る為にも、必要な手立て、ではないか。それは、負けることや、負けを認めること、ではなく、単純に、考えを改め、自らの度量を、高めることへと、結び付く。そんな考えで、居る人の多くは、議論を重ね、そこから、より良い結論を、導くことを、目標に置く。その一方で、勝ち負けにしか、興味のない人は、間違った意見をも、押し通すことで、相手を、言い負かしたと、誇るのみで、傍観者からは、冷たい視線を、受けることに、気付きもしない。情けない心の持ち主、と言って仕舞えば、それまでだが、こんな人に、つける薬はない。社会媒体の、大きな問題は、ここにあり、自分だけの、あるいは、仲間内だけの、社会を築くことで、満足するだけで、実は、もっと大きな社会への、寄与は殆ど無く、役立たずとしか、言えないものだ。
「無知は駄目!」、と卒業式で、校長が挨拶した、と囀りに書かれていた。その通りなのだが、書いた人も含め、「無知」とは、どんなものか、分かっていない人が、多いように思う。知らないことを、放置するのの、何処が悪いのか、答えられる人は、多くないからだ。
学びの場で、学ぶことの、大切さを伝える際、騙されぬよう、と話す人が多いと聞く。確かに、詐欺が横行し、それにより、なけなしの金を、失った人が多い、と伝えられる中、それを防ぐ為に、知識を身に付ける、というのは、傾向と対策の、最たるものと思われる。だが、学ぶことの、目的は、決して、犯罪に巻き込まれぬよう、というものではなく、人間としての、知恵を増やすことしか、ないのではないか。一方で、知らぬこと、無知を恥ずべき、と主張する人の多くは、知らない人に対して、優位性を誇示し、見下す態度が、目立つのも、不思議に思う。まずは、全能の神ならぬ、何もかも知る人は、何処にも存在しない。だから、誰もが、知らないことを、恥じるのでなく、知ることの、喜びを感じるべき、と言われる。だが、囀りの中でも、その優位性で、存在意義を、主張するが如くの、情けない人が、なんと目立つことか。一方で、こういう人の多くは、自らの主張の、綻びを指摘されると、途端に、排除に走ったり、罵倒を繰り返す。自らの過失を、認めることなく、優位を保とうとするのは、まさに、恥ずべき行為、と言える。一方で、今は、何かを調べることが、容易くなっており、誰もが、一時の恥の為に、他人に尋ねるより、検索で調べたり、果ては、人工知能に尋ねるだけで、ものを知ることが、できる。なのに、囀りでは、調べもせずに、恥晒しの主張を、掲げてみたり、こちらから、そういう情報を、流したとしても、無視するだけだ。それも、本人だけでなく、その意見に、賛同する人間まで、同じ態度をとる。これでは、無知は、無くならない。はじめに書いた話でも、それを解く為に必要なのは、きちんと教えること、とはいうものの、自身の不明に、気付くことがないのでは、困ってしまう。昨日、取り上げた随筆も、その話とも言える。
読んだ本で、月末には、報告するのだが、興味深いものに、当たった。と言っても、古いものを、集めただけのことで、そこに、目新しさは無い。だが、扱った内容だけでなく、それが、社会一般の、目に触れた、きっかけが、非常に重要、と思えたのだ。昔は、そうだったのか、と。
今、囀りの中で、様々に、議論が交わされているが、その内容が、余りに悪質で、論理性の欠片も、見えないことに、呆れた話を、何度も書いてきた。初等中等教育で、論理性の重要性に、触れてこなかった、つけが回った、とも言えるのだが、実際には、そういうことを、生業にする人間さえ、感情論に流れ、冷静に、物事を、考えない、という事態こそが、ずっと深刻なものに映る。何故、こんなことが、起きるのか、を考えるにつけ、嘗ての、学者と呼ばれた人々が、一般向けに著した、科学随筆と呼ばれるものの、質の高さと、その平易さに、驚いたのだ。それも、この短篇集で、取り上げられたのは、教科書、それも中学生向けのもの、というから、驚きなのだ。確かに、分かり易く、平易な言葉を、用いて説明してあるが、それに加えて、中で論じた内容が、子供だけでなく、大人さえも含む、全員が、理解すべきこと、と思えた。著作権の問題で、一部の学者のものは、本で読むしか方法がないが、その他の人の随筆は、青空文庫という、誰でも読むことが、できる場所で、提供されている。偶々だが、近年改正された法律では、死後70年は、著作権が、保護されるが、それ以前の法律で、50年とあったことから、公開可能となったものもある。その一人が、雪の研究で有名な、中谷宇吉郎で、彼の文章も、青空文庫に収蔵されている。本にあった随筆を、二つ紹介するが、是非、読んで欲しい。一つは、「地球の円い話」であり、もう一つは、「科学の限界」である。何方も、じっくり読むと、その内容の豊かさを、理解できる。流石、師匠の寺田寅彦を、越えたと言われる、中谷の科学随筆なのだ。もっと驚いたのは、これらが、中学の教科書、当然ながら、国語の教科書に、掲載された時代が、あったということだ。今なら、どう見るか。難しい話は、子供向けでなく、簡単で、興味を惹く話を、と言い出すのでは。この頃、読んでおけば、もっと論理的な思考が、身に付いたのに、とは言わぬが、それにしても、失ったものが、大きかったのでは、と思う。
前にも、取り上げたかも、だが、違うことを、書くかも知れぬ。意思の疎通には、何が大切か、どう答えるだろう。自分としては、相互理解、と思う。これについて、不思議と思う人が、居るかも知れぬ。何故なら、自分の言いたいことを、相手に伝えるのが、疎通の筈と。
それなのに、何故、相手のことを、理解せねばならぬのか。確かに、言いたいことを、伝えるだけなら、それで、十分かも知れぬ。だが、相手の考えを、理解せずに、一方的に、伝えるだけでは、疎通とは、ならないのでは。今、こんなことを、引き合いに出すのは、あらゆる媒体で、行われている、情報の伝達の多くが、一方的なもので、時に、同じ言葉を、違う解釈で、受け止めることで、論争となるからだ。論争が、何故、何時迄も、平行線を、辿るのかという、疑問について、少し眺めていると、それが原因なのかも、と気付くことがある。つまり、同じ言葉を、使っているのに、互いに、違う意味で、使っている、というのが、論争の訳、なのだと。不思議に、思う人が居るだろうが、実際には、そんなことが、会話の中でも、屡々起きている。お互いに、顔を突き合わせて、話しているのなら、何となく、話がずれてきた、と思うことがあり、確認してみると、互いに、違う意味で、同じ言葉を、使っていた、と気付く。その多くは、何方かが、言葉の使い方を、誤った為であり、日常会話であれば、その誤解さえ解けば、擦れ違いを、除くことができる。だが、二人の間、あるいは、一人と多人数の間に、何らかの媒体が、存在する場合には、気付くことも、取り除くことも、難しくなる。一方が、指摘しても、片方が、頑なになれば、取り除けず、そのまま平行線を辿る。馬鹿げたこと、と笑う人が多いが、実際に、揉めているのを、傍観すると、殆どが、その状態にある、と判るのだが、当事者達には、何のことか分からず、紛糾するばかりとなる。隔離された状況で、議論を重ねることには、相互に理解することが、不可欠なのだが、今の状況では、そうなることは、難しいようだ。そこから、始めればと思うが、勝ち負けに、拘る人々には、聞こえないらしい。そんな人が、入ってきたら、無視するしかないのは、困った状況と思う。
迷走ぶりが、甚だしいので、日々、その動向を、伝えることに、意味があるかは、怪しいものだ。ここでも、屡々取り上げるが、事細かに伝えたり、分析したりしたとしても、殆ど意味を成さず、書くのも読むのも、無駄と思えてくる。そんなこんなで、一旦幕を閉じよう。
猫の目の如く、とはよく言ったもので、周囲の状況の変化に、素早く対応する、猫の黒目を、引き合いに出したものだ。この遣り取りで、思い起こされるのは、例の宗教集団が、大量殺人へと、突っ走り始めた頃に、毎週、画面に登場して、自分達の主張を、押し通していた、あの人物のことだ。事件後、多くの幹部が、教祖と共に、逮捕された時、彼だけは、除外された。何も知らずに、教団の代弁者としての、役割を果たしただけ、との解釈が、成されたようだが、本当の所は、本人以外には、解らないだろう。その点について、ここで、議論したいとは、全く思わない。もう、過去の事柄であり、ああいう狂信者が、再び、出てこないように、社会全体で、考えるべき、とは思うが、過去の団体で、どれ程酷いことを、したとしても、裁かれなかった、となれば、それは、一つの結論であり、済んだこととすべき、と思う。ただ、当時の記憶から、ああ言えば、と揶揄されたように、何か指摘されても、言い逃れる姿勢を、続けていたことは、忘れられない。それも、画面のこちらからは、先週と違うことを、平気で主張し、その場の危機を、掻い潜る態度に、腹を立てていたことや、それに対して、論客と呼ばれた人々が、論破することが、できなかったことに、呆れていたことが、思い出される。今の、海の向こうの暴君は、立場の違いや、権力の違いが、あるのは事実だが、同じ手法を、用いている。ここでの、傍観者は、社会媒体の読者や、報道の読者だが、論客にあたるのは、報道記者達だろう。今や、社会媒体での発言は、確かな記録として、残存しているし、記者会見の記録も、確かなものが、残っているが、それとの比較が、行われないままに、相手の発言に、右往左往するのは、どうしたことか。論理の重要性とは、こういう時に、役立てるものの筈が、そうなっていない。人間の持つ、欠陥なのかもだが、客観性と論理性を、重視することで、対応できると思うのだが。
誰もが、参加できることは、喜ばしいとは限らない。確かに、細かなものも含め、あらゆる情報が、日の目を見たのは、事実なのだが、そうなれば当然、偽物、嘘、出鱈目、等々、塵も含めて、あらゆるものが、皆の目に触れる。時に、それが、功を奏する場合も、あるのだが。
一方で、所詮、塵は塵であり、時に、汚染という害悪を、蔓延させることも、起きてくる。特に、近年は、何かと、騒音に惑わされ、ある意味、自分から、心を乱されて、悩みの淵に落ち込み、這い上がれなくなる、という人が、目立つのだ。そんな中で、僅かな効用を、頼みとして、こんなものを、垂れ流し続けることに、意味があるのか、怪しいものだろう。と言っても、こんな時代だからこそ、そんな雑音に、耳を傾けず、自分の思う通りに、進むことこそ、大切との意見も、出ている。ただ、この場合も、気を付けるべきは、そういう連中の、偏った意見が、騒ぎを招くことに、なるという点だ。他人の妄言に、惑わされぬ人々の、特徴の一つに、それを、聞こうともせず、全てを、一様に論破する、そんなことがある。これは、今の時代には、ある意味、重要な、生きる術となるが、その一方で、それが、外に向けて、発信されると、素直な人々には、悪い影響しか、及ぼさないということだ。論理的に、物事を語る場合には、そんなことは、起きる筈もないが、今の、一方的な発言と、その繰り返しでは、論理を、逸脱することこそが、主張を曲げぬ為の、最善の策となる、場合が多い。だからこそ、議論は、平行線を辿り、何の結論も、導き出せぬままに、突然、終了することになる。この遣り取りを、外から眺めるに、読む価値も無く、傾聴にも値しないことが、殆どとなる。だから、論理性を重視する人間には、何も響かないのだが、それを、軽視して、自分の仲間とか、味方とかいう見方しか、できない人々には、恰も、正論のように、見えるらしい。にしても、海の向こうの大統領は、その典型と、目されているが、今の状況は、惨憺たるものだ。ただ、権力者は、破綻しても、居座れる。庶民には、その力は無い。