悲観的な筋書きが、何故、好まれるのか。最悪の事態を、想定しておけば、それ以上に、悪くなることはない、というのが、理由なのか。だとしたら、その筋書きで、右往左往させられるのは、誰が悪くて、何がいけないのか。十分な備えの為に、予算を注ぎ込んだとしたら。
だが、そんな筋書きを、提示する人間の多くは、結果については、知ったことではない、のでは。だとしたら、言うだけ言っておいて、後は知らぬ存ぜぬ、とでも言うのか。狼少年ではないが、何度も、それを繰り返され、その度に、備えを怠らず、とせねばならぬのなら、早晩、聴く耳持たぬ、とでもなるのでは。今の、女性宰相は、確かに、人気を誇っており、また、悲観的よりも、楽観的な見通しを、示すように、心掛けている、ように見える。それに対して、口煩い、評論家や、報道陣は、専ら、悲観的な見通しを、示すことで、彼女の失敗を、望んでいるかの如く、見えなくもない。今回、海の向こうに、行くについても、そんな雰囲気が、漂っており、特に、あの暴君が、他国への侵攻を、繰り返すのを、眺めるにつけ、平和よりも紛争を、安定よりも不安定を、目指している、のではないか、との見方も、掲げられていた。その不安を、更に、煽ったと思えるのは、別の大国との会談を、延期したことで、それにより、こちらへの圧力が、増すとの指摘が、急激に、強まっていた。この状況では、過大の要求を、突き付けられる、との指摘も、あり得るとの声が、高まっていた。だが、和やかな雰囲気で、始められた会談は、そのままの勢いで、罵声が飛ぶこともなく、また、法外な要求も、起きなかったと言われる。はて、あの不安感は、何処へ、と思った人も、居たのだろう。だが、終わってみれば、楽観一色となり、何やら、別の不安が、過り始めた。では、どうなるのか。実は、誰にも分からず、答えさえ、何処にも見えぬ状況は、何も変わっていない。なのに、何故、この安心感に、満ちた状況が、起きているのか。相変わらず、訳の分からぬ、ものでしかない。でも、まあ、暫くは、様子を見るしかない、のだ。
女性の社会進出を、妨げる表現として、盛んに使われたのが、硝子の天井だろう。ただ、海の向こうは、そうだとしても、こちら側は、少し感覚が違う。その中で、男女の割合が、引き合いに出され、対等にすべく、掛け声で使われたのが、男女共同参画なる言葉だろう。
今、経済紙の、私の履歴書に、連載されるのは、誤認逮捕から、検察の内部問題へと、発展した事件の当事者だが、彼女の働き方は、まさに、女性の社会進出を、促す動きの中での、当事者の実情を、表すものと見える。ただ、今日の話題は、この問題の核心に、触れるもののように、思えた。曰く、自分の収入の殆どは、共働き世帯の、二人の子育てに、注ぎ込まれたとある。この状況は、女性の社会進出に、不可欠な要素を、明確にするが、その一方で、彼らの能力の、活かし方として、唯一無二の選択肢、とすべきかを、考えさせるもの、とも見える。公務員なら、共働きせずとも、何とか生活が、成り立つだけの、収入を得られる筈だが、双方が働くと、子供を預けたり、その他諸々の、支出が嵩むことで、折角増えた収入も、多くが失われる、という事態を招く訳だ。それでも、女性の能力を、社会発展に役立てる為に、との掛け声が、高まった頃に、彼女の活躍が続いた。しかし、どういう訳か、生贄のような、扱いを受けて、事件が発覚したが、本人と支援者の、努力により、検察の不正を、暴くまでに至り、法曹界の悪弊を、暴くこととなった。話を、元に戻すと、さて、共働きは、不可欠なものか、という点に、疑問が残る。確かに、人間の能力を、社会に反映させる為には、働くことが、必要となるが、その人間の能力を、子育てに、向けることは、それと違うのか、という点に、目を向けてみると、おかしいかも、との思いが過ぎる。では、どうすべきか。現状では、貧困を訴える人が、溢れているだけに、片方の収入だけでは、生活が成り立たぬ、と断じられる。だが、それが、十分に満たされたら、どうか。この点を、先日も、囀りで、書く人が居た。こちらの考えからは、妥当と見えるが、対岸の考えからは、不当と見えるのだろう。差別を無くす、とか、平等にする、とか、そんな考えでは、何が答えなのか。一概には言えぬようだ。
相手の顔が、見えない中で、どう理解を得るのか、という点に、悩んでいる人が、居るのだろう。何度も、書いたように、社会媒体は、その典型であり、揉め事となる場合も、多いようだ。でも、状況は、徐々に、変わりつつある。ただ、良くなっている、とは言えないと思う。
四半世紀以上前、まだ、そんな問題が、重視されていない中、仮想社会は、既に構築され、多くの人々が、そういう意見交換の場に、参加していた。2チャンネル、と呼ばれた場所が、その典型だったと思うが、多くが、匿名で発言し、時に、誹謗中傷合戦、となったことを、記憶する人も多い。ただ、それ以外の場でも、そんなことは、日常的に起きて、罵り合いに、発展することも、多々あった。ただ、いつの間にか、落ち着きを、取り戻して、以前同様の、意見交換となる場合が、殆どだった。それが、変わったようだ、と思えたのは、今、社会媒体、SNSと呼ばれる、場の登場からだ。手にした端末で、送受信が、行えることから、寝ている時間以外は、常に、接続したまま、という参加者が多く、緊急性の高い、情報を収集するのに、使う人も、多いのだが、その反面で、悪質な書き込みや、煽りとも称される、悪意に満ちた発言を、繰り返す人が、増えたのも、事実だろう。その結果、とは言えぬが、被害者と呼ばれる人が、急増したことで、問題が大きくなり、遂には、裁判沙汰となった。四半世紀前には、想像も付かぬ話だが、今や、大真面目に、論じられるもので、それも、この仕組みが、発言だけでなく、態度表明の釦を、設けたことにより、弊害が増えたと言われる。裁判でも、悪意の発言が、罰せられることは、勿論のこと、その発言に、賛同を示した人間も、加担したとして、罰せられることとなった。これは、ある意味、予想外のことで、沈黙を含め、放置することさえ、罰となり得る、とまで言われる。管理者が、責任を問われるのも、その一つだろう。ただ、管理責任を、重視したことで、仕組みの中に、新たな対策が講じられ、更なる弊害が、起きつつあることには、警戒を要する。他人からの、危害を、防ぐ為として、反論などの拒絶を、設定できるのは、一見、安全性を、高めるものと、見えなくもないが、非常識な発言を、押し付けられた挙句に、放置せざるを得ないのは、如何なものか。見ないで済む、との措置より、暴力的に感じるが、どうか。
話が通じない、となった時に、何をどうしたらいい。これが、意外に、難しい。特に、面と向かって、話している時には、相手の目を見て、納得させて、という具合に、運ぶ筈だが、画面に向かうと、そうもいかぬ。結局、擦れ違ったまま、断絶となる場合も、起き得る。
相互理解が、進まぬ中で、何をどうしたら、となる訳だが、その多くは、何方か一方の、問題のようだ。論理的に、説明すれば、理解が得られる、との思いは、ほぼ通じない。で、仕方なく、丁寧に説明して、と始めるのだが、それが、上手く行くことは、少ないようだ。当事者でなく、ただの傍観者として、眺めていると、その原因の殆どは、言葉の意味の、取り違えに見える。ただ、それが、あまりに酷いと、やはり、一方の問題として、片付けたくなる。先日も、囀りで、一方的に腹を立てる、人の発言を読み、自業自得としか、思えなかった。ある人が、業界の中で、育てて貰ったのだから、その恩返しを、と書いて、業界への寄与を、促したのだが、恩返しとは、思っていない、と反論を綴っていた。まあ、この頃の身勝手な連中、と見るしかないのだが、こんな輩が、他の人々に、八つ当たりをする訳で、害悪を撒き散らす、としか見えてこない。酷い仕打ちをされ、その中で、やっと、今の地位を築いたのに、何が恩返しか、と訴えているようだが、はて、虐めがあったにしろ、結果として、今の地位に就けたのは、自分だけの力か、とさえ思えてくる。いや、どうも、こういう考え方が、当然となりつつあり、話が通じなくなるのも、止む無しとすべきかもだ。もう一つ、気になったのは、職業上の活動の中で、必要となる経費に関して、何処かから、支給されるべきもの、と考える人達の中に、驚くべき考えの人が、居ることだ。先輩が、後輩に奢る時、出世払い、との一言が、出る場面に、出会した人も、多いだろう。後輩ができたら、その時には、奢ってやりなさい、的な発言なのだが、それについて、腹を立てる人が、居るのを見て、驚くのだ。曰く、出世なんかしていない、とくる訳だ。こういう発言者は、他人の金や組織の金について、受け取ることには、何の躊躇もしない。一方で、自腹で何かをする、ということには、強い拒否反応を、示すのだ。だから、後輩と一緒に飲食しても、奢る訳がなく、それについて、指摘されると、まだ出世していない、とか、そんな戯言を、返してくる。いやはや、どうしたものか、と思うのだが、彼らの思考は、何事も、自己中心的過ぎる、と思うしかない。
何故、楽観が、嫌われるのか、考えてみたい。こんな疑問は、下らないこと、と思われるかもだが、では、何故、悲観ばかりを、強調するのか、こちらの疑問は、どうだろう。そんなことは、決まっている、とでも答えるのか。確かに、経済停滞が、長く続いたから、とも。
でも、その割に、様々なことに、悲観が漂っていたが、だからと言って、明日をも知れぬ、ではなかったのでは、とも思う。社会制度の崩壊も、あれ程までに、断定されてきたが、今もなお、続いており、あの話は、何だったのか、との意見もある。特に、年金については、制度自体が、続かぬとの指摘が、盛んになされたが、はて、どうなったのか。依然として、続いているのは確かだが、受給者達からは、不満の声が、聞こえてくる。確かに、存続しているが、額としては、不満があるからだ。でも、どれだけ与えられたら、十分なのか、その答えは、見つかりそうにない。若い世代にとり、存続自体も、確かに問題だが、年金額が、どれだけ減らされるか、が大問題と言われる。でも、それとて、今後、物価がどうなるか、その上で、年金額が、どうあれば、妥当と言えるか、となると、答えは見つかりそうにない。だから、あれやこれや、全てを、悲観的に捉える方が、安全とする考え方がある。でも、その悲観とて、どの程度のものか。命を、永らえることが、難しいのなら、分かり易いが、そうでもない、ようにも見える。だったら、なんとかなる、とでも考えて、楽観的に、なってみたら、どうだろうか。ただ、楽観も過ぎれば、及ばざるが如し、となる。楽観が、何もしなくていい、と結び付けば、それはそれで、困るのだろう。だからこそ、悲観であるべき、との考えに至る。その通りかも、知れないけれど、でも、皆、何とかなる、と思っているのでは、とも思える。まあ、何れにしても、日々の生活こそが、第一であり、その先が、悲観だろうが、楽観だろうが、大差無い、とも言えそうだ。そんな気持ちを、抱きながら、その日暮らしを、続けるのだろう。
囀りに書いた話題は、論文のピアレビュー、学会運営、学生指導、研究室運営、大学運営など、学問の世界も様変わりしつつあるが、その一方でSNS世界の歪みも。となり、最後の話題は、大学運営について、当然、学生との関わりも、出てくる中で。素人意見として。
Xの中でも大学運営に意見を書く人がいるが、それらの殆どは的外れで視野の狭いものだ。特に大学関係者はしたり顔で私見を述べ持論を展開するが、自らの経験のみに基づく極端なものが多い。その原因を分析するのは無意味だろうからここでは触れない。大学の存在意義について書くが、法律には「学術の中心で知識を授け、専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的、応用的能力を展開させる」とある。この目的を達成するには何が必要となるか、考えてみよう。教育と研究の両立と言えばその通りだが、それに必要となるのは運営の観点からは何だろうか。単純には環境整備となる。潤沢な予算が有ればと言われるが、遊園地のような施設を整えるのはおかしいと思うだろう。一方で国立大学の場合ここ数十年のように毎年1%の予算削減がなされると、現状を保つことさえ難しくなる。その中で効率化が図られてきたが、限界に近づきつつあり、授業料の値上げを決断した所も多かった。ただ、増額の理由はあってもその使途を示すことが少なく理解が得られにくいように思える。とは言え、ここまで続いた経済停滞からの値下げ圧力から抑えられてきた授業料を上げたのは妥当な判断と言える。家計が苦しいとの話から始まった無償化は教育から得られる利益を考えれば誤った考えと思うが、今もその圧力は続き歪みが増すばかりだ。運営に戻ると法人化により企業経営と同等な考え方が必要とも言われるが、現実には各大学の貸借対照表を見れば判るように、資産が借り物でしかなく優良企業でない組織に同等は無理難題でしかない。法人格を考え直すことは不可能だから諦めるとしてこの状態でもできる運営方法を考える必要がある。授業料関係で一つあるとすれば効率化の一つとして単位当たりの授業料徴収がある。卒業までの必要単位数で4年分の授業料総計を割り、一単位当たりの授業料を算出して登録単位数からその期の授業料を求め徴収する。講義に不合格となればより多くの総計授業料を収めることになり、真面目に勉学に励むだろう。一方で卒業に関係ない単位は自分の為だけと判断され余計に収めなければならない。まあこれについては再考の余地がある。教員配置についても考えるべきことがある。任期制や教員評価については今の状況でも適用可能と思えるが、きちんと実行されておらず、不十分と思う。制度を定めても運用が不完全ではどうにもならない。この点については企業の法律遵守と同じように実行すべきだろう。最後に運営費交付金の増額が始まったので少し明るくなりつつあることは良い兆候と思える。特に研究への支援が回復すれば、大学の本来の役割を果たすことができると見込めるので、是非この流れが続くことを望んでいる。
経済の話題になった途端に、訳が分からなくなる。今回も、市場原理、需給の均衡、という話を抜きにして、ただ、単なる値上げが、庶民の生活を、脅かしている。確かに、暴君の気紛れで、始まった紛争は、原油輸送の要所を、閉ざしかねない、状況へと進みつつある。
だが、それらが、消費者の手に、届くまでには、まだ間がある。と盛んに、報道しながら、さっさと1割強も、値上げした燃料価格の、動向を、何の批判も無しに、報道し続ける。将来の需要が、逼迫しかねない、という筋書きは、確かにあるが、今、手元にあるものに、まだ、危機は迫っていない。だったら、その時が来るまでは、同じ価格で、売れる筈で、もし、需給が逼迫したら、それに合わせた、価格設定をすれば、いいということになる。その時に、どれだけの値が、つくかについては、当然、状況次第であり、先物価格では無く、現物価格が、反映するのは、当然のこととして、庶民の頭でも、理解できる。だが、今の状況は、市場原理も、需給の均衡も、全て棚に上げ、自分勝手な、儲け話を、作り上げただけ、としか、言いようがない。こんなことが、経済の原理となるのなら、それを、学問的に説明するのが、専門家の役割だろう。彼らも、報道同様、ただ騒ぎ立てるだけで、煽りに、手を貸しているだけ、という絵に、呆れ果てる。日々の生活を、考えるには、経済の動きを、注視しなければ、という話についても、こんな戯言に、付き合わされるだけ、となっては、如何ともし難い、としか、言えないものだ。毎度お馴染み、と言って仕舞えば、その通りなのだが、兎に角、心理しか見当たらない、こんな馬鹿げたことに、付き合わされるのは、真っ平御免、としか言えない。やっと回り始めた、経済の歯車も、暴君の気紛れで、歯止めがかけられ、二進も三進も、いかぬ状況に、追い込まれている。その上、気紛れは、続いたままで、猫の目状態が、更なる障害を、産むとなれば、手の施しようがない。