3月25日(水)

 昨日紹介した、考え方の変化を、どう思うだろうか。大したことない、所詮、一部の考えが、変化したとしても、全体には、大きな変化は、起きていない、と見るのか、はたまた、僅かな変化としても、人々の考えが、変わったことで、次の世代へと、拡大する、と見るか。
 何れにしても、変化をどう見るのか、については、注意を要する、と思う。その主体となるのは、今の現役世代であり、彼らの一部は、次の世代を、育む役目を、負わされている。にも拘らず、自分のことを、過大評価するばかりで、社会が、それを認めぬのは、大きな問題と見る、そんな人々が、大きな声を上げ、自分の跡を継ごう、と思う人々を、排除しよう、と躍起になる。何故、そんな愚行を、し続けるのか、全く理解できぬ。もし、今の仕事が、下らないものなら、さっさと辞めて、他のことを、すればいい、のに、何故、そこに居座り、他者の参入を、妨げるのか。下らない干渉を、正当化する為だけに、自らの功績を、過大に見せ付け、後進に対して、暗闇に似た将来しか、見せようとしない。そんな心持ちが、何の役に立つのか、不思議でしかない。元々、悲観的に、物事を考える国民性が、あったのについては、否定しないが、その一方で、そればかりを、強調することで、教える立場の人々が、他人の、若い世代の、門を閉ざそう、とするのか。穿った見方からは、保身でしかなく、競争者の登場さえ、妨げようとする、下衆な心の、表れなのでは、とさえ思えてくる。一方で、将来に、光が見えぬ世代にとり、先人からの助言は、仮令、自分の夢を、打ち砕くものとしても、有難いものに、映るのだろうか。これについても、今の世代の、考え方の変化、と見るべきかも知れぬ。仮令、厳しい道でも、無謀に突き進んだ、世代が、萎み続ける社会に、嫌気がさしたのは、夢も希望も、無くしたからか。だが、その無謀さが、道を拓いたには、違いないのだ。だったら、邪魔など、せずともいい、と言えないか。

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3月24日(火)

 嘗て、中流意識が、大多数を占めた頃、上流社会は、憧れの対象だが、高嶺の花であり、雲の上の存在だった。だが、泡が、弾けた頃から、状況に変化が起き、貧困が、口の端に上り、平等意識が、崩れ始めた。それに連れ、憧れへの意識も、大きく変化し始めたのは、何故か。
 高度成長期に、皆が、中流意識を、持ち続けたのは、別の見方からは、共産主義の如き、状況にあった、とする向きもある。皆が、国の成長に向け、力を合わせて、発展に貢献する。何処かの、社会主義国のように、看板に掲げても、決して、実現することの、無かったものとは、大違いだが、その理由は、押し付けられた、制度ではなく、皆の意識に、それが根付いたから、なのだろうか。だが、弾けた途端に、成長が止まっただけでなく、衰退へと移ると、皆の意識に、変化が芽生えた。協力するより、他者を蹴落とし、その上に、自分が立とうとする、そんな優越感を、求めるようになった。それが、逆に働き、自らを、貧困へと導くとは、誰も、思わなかっただろう。ただ、この差別的な考えは、成長期の末に、風船が膨らむように、身の丈に合わぬ、状況が生まれた頃に、芽生えていた。そこから、急展開が始まると、そちらの考えが、大多数を占め、協力よりも、抜け駆けを、目指す動きが、高まったようだ。そこから、四半世紀以上を、経た所で、身の丈に合わぬ、上昇意識や、過大な、自己評価が、人々の心を、蝕み始めると、的外れな意見を、平気で吐く、人々の姿が、目立ち始めた。やればできる、はその典型で、自分への評価は、異常に高い反面、他人の評価は、低く保つ傾向は、徐々に、高まっていった。今まさに、そこにあるのでは、と思えるのだが、当人達は、そんなことは、微塵も考えず、不当な評価を、訴え続けている。何故、そんな簡単なことが、できないのか、と呆れるばかりだが、大真面目で、訴える人々の顔は、自信に溢れ、何の実績が無くとも、構わぬとばかり、叫び続ける。仕方なく、任せてみても、何も実現できず、責任転嫁を、続ける姿勢に、降格を決断すると、またぞろ、ハラスメントと、叫び出す。役立たず程、こんな調子では、少し、回復の兆しが見えても、軌道に乗るかは、心許ない。

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3月23日(月)

 独り言は、思いつきを書く、と記してある。これ自体は、囀りなどの、社会媒体と、何も変わらない、と思う人が、居るのではないか。公開性は、同じ状況にあり、接続すれば、誰でも読める。だが、門の開け方には、大きな違いがある。大きな媒体と、ちっぽけなものとの。
 もう一つ、大きな違いがあるが、接続数の違いから、そちらは、あまり目立たない。その他多くの、独り言のような、嘗て、ブログと呼ばれた、媒体に関しては、それに付随した、意見箱などが、ある場合にしても、独り言も、意見箱も、ある意味、一方的な情報提供であり、最近の社会媒体の如き、双方向性のものではない。だから、炎上のような、危害を与えることも、起きないから、ある意味、安心なのではないか。だから、という訳でもないが、好き勝手な発言も、邪魔が入らず、綴ることができる。などと書くと、多分、多くの人々が、それは違う、と言うだろう。何しろ、社会媒体は、まさに、好き放題の発言を、繰り返すばかりで、時に、害悪としか、思えない程の、暴言、妄言を、連ねているからだ。匿名性としては、同じ状況にあるが、それに乗じて、次々と、名前を変えて、同じ害悪を、撒き散らす輩も、おそらく居るのだろう。仮想空間の、最大の問題点として、何度も指摘されるが、改められる、可能性は低いままだ。媒体の管理者責任が、何度、取り沙汰されても、何も変わらぬのは、何故かと、考えてみても、答えは、見つかりそうにない。それは、人間性の問題であり、そういうものに、基づく社会では、打ち消すことが、できそうにない。独り言は、嫌ならば、読まねば良い。だが、社会媒体は、時に、押し付けられ、何度も、表示される。だからこそ、拒絶という仕組みや、仲間内という括りが、導入されたのだろうが、それは、却って、問題を、拗らせている、のではないか。