5月10日(日)

 嘘八百の状況で、心が落ち着かない、というのが、現状だろうか。でも、と思うのは、その中で、騙された、と叫ぶ人達のことで、前に書いたように、余りにも、馬鹿げた嘘に、騙される、という人が、急増していることと、嘘でも何でもない話を、嘘と断じる人が、増えている。
 不思議に、思えるのは、前者ではなく、後者の方だ。被害妄想については、以前も、書いた気がするが、嘘や詐欺に、関する話の中でも、同じような、妄想話が、溢れている。被害者意識は、いつの間にか、ごく当然のもの、となってしまい、逆に、迷惑を被る人が、増えているらしい。何故、そんなことが、と思うのは、普通の感覚だが、今や、そんなものは、普通でもなく、ただ、少数派になった、とさえ思える。その典型は、毎日のように、社会媒体で、掲げられるが、こちらが、首を傾げる中、どんどんと、賛同者が増え、それが、常識の一つ、となる現象が、起きているようだ。社会に対する、不満の表れとして、こんな感情が、起きるのかもだが、それにしても、よくもまあ、そんな論理を、展開するな、と思える書き込みが、押し寄せてくる。本人が、どの程度、真面目なのかは、知る由も無いが、にしても、傍から見て、賛同する感覚は、信じ難い。あの世界に、住む人々には、それが、当然のことであり、苦言を呈しようものなら、一気に、怒りに任せた、人格否定に満ちた、書き込みが、押し寄せてくる。逆に見れば、何と平和なことか、と思えるけれど、どの程度、真剣なのか、とさえ思える。さて、こんな時代に、こちらから、何ができるのか。考えても、無駄に違いないが、時に、横槍を、入れたくなってしまう。まあ、少し書き込んでも、炎上することなく、ただ、無視されるだけだから、大禍なく済むが、それも、いつまで続くのやら、自信は持てない。狂っている、とまでは、言わないけれど、議論が、盛り上がると、罵声の浴びせあいとなり、収拾がつかなくなる。昔の掲示板が、そんな賑わいを、見せたこともあるが、今や、そんな遣り取りは、皆無となったと思ったのに、で済ませるのか。どうだろう。

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5月9日(土)

 詐欺の常套句が、嘘なのは、当たり前だが、日頃から接する、情報の中に、嘘が鏤められるのは、何故なのか。人々が、手にした端末から、せっせと発信する、情報の多くが、嘘であるのは、本当に、困ったことだが、これも、何故か、そうなっている。では、放送は、と見ると。
 こちらも、かなり深刻な状況、にあるのでは。ただ、彼らが、昔の状態を、省みて、権力に与し、嘘を承知で、流し続けたのを、盛んに、反省したのは、何だったのか。あの反省の弁は、単なる、言い訳に過ぎず、実際には、自分に有利になるなら、そんな嘘も、方便とでも、言うのだろうか。こんな状況では、情報社会という、呼び名は、戯言に過ぎず、嘘や、恣意的な操作で、何かを、有利に運ぼう、とする思惑に、満ち溢れた社会、と呼ぶべきか。ただ、その中で、迷惑メールにしろ、囀りの偽情報にしろ、確認の方法として、使われている、人工知能が、それ自身、嘘に嘘を重ね、決して、謝罪することがない、と言われるのでは、頼りには、なりそうにない。結局、各個人が、自分自身で、判断するしか、解決法は、ありそうにないが、本当に、それでいいのか、誰にも分からぬ。事件が、起こる度に、持ち込まれる、情報の数々も、まさに、こんな状態であり、筋書き通りに、事が進めば、といった感覚で、取捨選択を行い、ちょっとした、脚色まで施し、騒ぎを、大きくする。ただ、この状況は、何も、放送局に限ったものでなく、発信する個人個人が、同じような気持ちで、有る事無い事、発信し続けている。その度に、囀り上で、検証する仕組みが、発動されるようだが、それとて、信用ならぬ、の状況では、お手上げだろう。鵜呑みにせず、確認を繰り返す、という手法が、頼りになる、とも言われるが、検索すれば、すぐに知れるように、耳目を集める、嘘の方が、上位に掲げられる。一方で、確認をと、参加者に、問い掛けるが、それとて、愉快犯が、群がるようでは、無駄でしかない。さて、どうしたものか。耳と目を、塞ぐのが、手っ取り早いかも、とさえ思えるが、本末転倒でしか、ないのでは。

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5月8日(金)

 詐欺の手口が、巧妙になったと言う。本当だろうか。オレオレ、と呼ばれる手口で、電話による詐欺が、横行した当時、親族の窮地に、心を揺さぶられた人々は、なけなしの金を、差し出した。面と向かっての、無心には、応じなかったろうに、何故、顔の見えない相手に、と。
 首を傾げる人が、多かった。だが、我が身に降れば、状況は一変し、心配や不安で、苛まれた人も、居たと聞く。その後、その手口は、常套手段として、紹介されるにつれ、廃ったが、詐欺集団は、次々に、新手を繰り出し、心理の不安を、煽り立ててきた。その典型が、最近の、警察騒ぎだろう。逮捕状が、出ているとの一言で、身に覚えのないことに、巻き込まれた上に、どういう訳か、金品を奪われる、となる。何故、警察官が、逮捕状や手帳を、見せてまで、脅しにかかるのか、という不思議だけでなく、その上に、そこに金銭が、関わるとなるのか。一部の発展途上国なら、公務員が、様々に不正を働き、庶民から、金品を巻き上げるのは、日常だろうが、この国において、何故、と思うのが、普通だろうに。これを、巧妙と紹介するのは、明らかな誤りで、ほんの少しの、論理によって、撃退できるのに、と思うのが、普通だろう。この辺りから、状況は、怪しさを増すばかり、となっている。詐欺も、種が尽きて、台本を、書けなくなったのか、はたまた、その程度の知恵で、犯罪に手を出そう、とする輩が、登場する程に、社会が、腐ってきたのか。と思う中、最近は、電子メールを使い、詐欺に精を出す、連中が、巷に溢れているようだ。ここ最近の傾向には、呆れるしかない、と思うのだが、ここでも、不安心理を、煽る手口が、横行している。国税庁から、未納の税金やら、脱税やらの、摘発めいた、文書が届くのは、近年の、確定申告の電子化が、背景にある。手続きで、登録したアドレスに、こんなものが届けば、驚く人が、居るというのか。慌てて、振り込む人が、居るのか、と思うけれど、何千万通も、送りつけて、一人でも騙せれば、という皮算用なのだ。何しろ、元手は、ほぼかかっていない。とは言え、そんなところに、市役所税務課なる所から、同様のメールが、届いたら、どう思うのか。滑稽としか、思えないが、送り主の市名が、抜け落ちている。こんな調子で、巧妙化を、語っては、それは、詐欺と同類では、と思う。

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5月7日(木)

 無理解に対し、どう説明すれば、と悩んだことが、あるだろうか。効率、効果の話の、深刻さには、そんな側面が、あるように感じる。費用や時間に対し、どんな成果が、と問い掛けてみると、大いなる誤解が、横たわることに、気付かされるが、あちらは、それには無頓着だ。
 少し、説明が必要か。無頓着なのは、何を、成果と見做すか、という点に対し、自らの判断が、絶対的であり、世間一般のものや、他の人が指摘するものに、目が向くことがない。この状況では、手に入れたものは、何の役にも立たず、また、それにかけた、費用や時間は、無駄となるしかない。だが、その役立たずを、目的とする訳で、それで、満足するのだから、それで、良いのでは、との意見もある。確かに、客が望むものを、与えさせすれば、それで、こちらの役割は、果たせたとすれば、その通りだろう。だが、それでは、その場で、要求されたものとは、異なる物を、投げ捨てただけで、こちらの役割は、本当は、果たせていないことになる。それに、本人達が気付けば、まだ、救いようもあるが、そうなることはなく、頑なに、思い込みを、果たそうとするだけで、困るだけだ。この傾向は、特に、教育現場で、著しいように、思えているが、気付かぬのだから、どうにもならぬ。その結果、後々になってから、酷い仕打ちを受けた、と訴えたとして、誰の責任となるのか。こういった話が、日常となって、こういう人々は、自分達が、被害を受けたと、訴えてくる。その典型が、囀りでの書き込みだが、その中身は、空っぽであり、付き合う必要も、慰める必要もない。ただ、自己責任として、済ませて仕舞えば、それまでだろう。だが、あの社会は、そうならずに、同類相憐れむ、となり、徒党を組んで、社会に対して、不平不満を並べる。元は、自分が蒔いた種で、誤解の上で、好き勝手なことを、した結果だというに、こうなっては、どうにもならぬ。にしても、この被害妄想ぶりは、如何なものか。更には、そこに作り上げた、嘘八百で、何をしたいのか。

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5月6日(水)

 最近の若者達が、盛んに使う言葉に、コスパとか、タイパとか、そんなものがある。前者は、昔から使われた、費用対効果のことだが、後者は、どうだろうか。その流れから、時間対効果、となりそうだが、何をどう使うと、時間当たりの効果が、導き出せるのか。
 ただ、大人達が、考える効果とは、全く異なるものを、若者達は、想定しており、この言葉を、鵜呑みにできぬ、と思うことが、屡々ある。例えば、こういった効果の、対象となるものが、何であれ、如何に楽に、手に入れられるか、という点にしか、目が向いていないからだ。何をどうすれば、手に入れられるか、ではなく、単純に、楽か、大変か、という点にしか、目が行かないから、真面目に、相手をしても、無駄にしかならない。特に、成果を、重視するのだが、その成果自体が、的外れなものであり、結果的に、手に入るものにしか、注目しない。学校で言えば、卒業という資格が、その一つだろうが、それが、どのような成果が、結びついた結果か、という点には、一切興味が無い、らしい。手に入ったものが、何の役に立つのか。この点についても、首を傾げざるを得ず、紙切れ一つに、血道を上げる、その姿には、滑稽さしか、感じられない。また、こういった場合に、コストが、何を指すのかについても、理解不能となる。費用という意味では、学費が、それに当たる筈だが、大多数の学生、生徒は、自分で支払わず、親が負担する。そこでは、金銭とは、全く別のものに、費用という言葉を、当てているようだ。その意味では、まだ、時間の方が、そのものズバリを、表している。だが、その計り方に、違和感を感じる。何かしらの課題に、どれ程の時間を、費やしたか、という点に、目が向くようだが、その成果を、顧みようとせず、時間だけ計るのは、どうしたものか。要するに、効果と呼ばれるものに、縛られるのは、それが、効率を表し、その割合が、高いことが、優秀さを表す、との思い込みで、動くからなのだ。中身の無い、人間のままで、いいと思っているのか、とさえ思えるが、どうだろうか。もし、このままなら、若者は、やはり、馬鹿者と、呼ばれるべき存在、となってしまうのだが。

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5月5日(火)

 弱者最強は、歪な考え、と思う。弱者を保護する、という社会の方針に、如何に、乗っかるかが、重視されて、被害者意識を、募らせる。その一方で、世間では、勝ち負け重視が、浸透しており、こちらの歪みが、重く伸し掛かる。傍目には、自己矛盾が、山積みなのだが。
 そんな中で、順位付けを、最優先とする、考え方が、囀りでは、主流となっている。自分より、劣ったものを、拾い上げて、揶揄することで、満足を得たり、優劣が、決められると、そこに、不公平がある、と決めつけて、社会の規則を、扱き下ろす。ただ、彼らの多くは、自己都合の、論理を押し通し、社会改善より、自己待遇の改善ばかり、主張し続ける。社会の中で、生き延びているのに、その社会を、破壊しようと、目論むかの如くに。こんな調子では、何も変わらないばかりか、悪くなるばかり、と思えるのだが、当人達は、至って真っ当な、要求と信じ込む。歪な考えが、大半を占める、そんな集まりに、興味を抱いても、無駄なのだが、念の為、一言二言、茶々を、入れてみる。突如として、反撃が、飛んでくるが、それとて、非論理的で、視野狭窄の典型となれば、相手する必要は、無いものと見るべきだ。さて、そんな輩が、今、盛り上がる話題の一つに、大学の数がある。若者人口が、減り続ける中、大学は、定員を満たせず、収入は、減り続けると聞く。その状況で、閉校する所も、増えているが、依然として、過剰と言われる。監督官庁は、特に、指導をするでもなく、趨勢に任せているが、補助金の出所の、官庁からは、暗い見通しが、出ているようだ。途端に、順位付けに、血道を上げる、輩達は、下位大学の不要論を、ぶち上げる。だが、実際には、大学入学の、入口での順位であり、人間の能力の、ほんの一部での、判断でしかなく、そこからの4年で、どんな変化が、起きるかは、誰にも分からぬ。それを、こう決めつければ、反論が、押し寄せるのは、無理もない。一方で、以前、どこかの女子大が、閉校との報道で、入学後の指導の、厳しさが、仇となった、とされていたが、この為体には、何の批判も、寄せられぬのに、唖然とする。何しに、大学へ、とは、よく尋ねられることだが。

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5月4日(月)

 もう何度も、書いてきたから、飽きたと言われるかもだが、今は、弱者保護の時代である。平和な時代が、長く続き、お互いを尊重し合う、姿勢が、強まった結果、社会には、強者と弱者が居り、弱者は、常に保護されるべき、との考えが、全体に、広まってきた。
 何時だったか、そして、何処に書いてあったか、全く思い出せないが、被害者意識の、強まりに対し、危機感を綴ったものが、目に触れた。これと、弱者保護が、どう繋がるのか、と思う人が、居るかも知れぬが、大いに、関係がある。今、保護されるべき、と訴える弱者の多くが、被害者然とした人々で、本当に、被害を受けたのか、本当に、保護が必要なのか、さっぱり、わからない対象だからだ。何故、このような考えが、蔓延してしまったのか、不思議に思うが、そんなことをしても、今の問題を、解決する手段は、見つかりそうにない。保護を、必要とする人は、確かに居るには居るが、今の状況は、そうでない人が、大きな顔をして、当然の権利と、訴えており、その状況は、異常としか、思えないのだ。別に、我慢しろ、などと、書くつもりはない。だが、そこまで、言わないと、引っ込まない人が、社会には、溢れており、その多くが、暇を持て余し、囀りで、盛んに訴えている。彼らに、手を差し伸べる必要は、全く無いと思う。だが、その一言さえ、書き込んだり、発言したりすることは、憚られている。それ程に、強い圧力を、社会全体に、及ぼしており、害悪でしかない、と言いたくなる。では、どうしたら、良いのか。論理的に、対応することが、第一と思うが、それ自体が、難しくなっている。こういう輩の殆どが、何も理解できず、それさえも、社会の責任や、相手の責任と、訴えるからだ。罰則が、必要なのでは、との意見は、数々出されているが、匿名性と、強烈な被害者意識が、邪魔をしている。こうなれば、まずは、無視が一番だ、との意見も多い。確かに、それも、一つなのだが、さて、この連中が、静かになるか。施す連中が、居なくならねば、何も起きそうにない。権利とは、と何度書いても、これもまた、無駄となる。最初に書いたように、平和が途切れれば、そんな余裕は、社会に無くなる。それしか、手立てが無いとしたら、不幸でしかないが。