不幸話も、差別の問題や、制度や権力の問題に、すれば、如何にも、筋が通ったものに、映るらしい。社会媒体で、そんなものが、盛んに、取り上げられるのは、本質的な部分に、目を向けると、単に、他人事だから、だったり、責任転嫁として、だったりする。つまらぬことだ。
そのくせ、こういった意見の多くは、大上段に構えて、何かを、ぶった斬るような、雰囲気を漂わせ、それに乗じて、下らぬ意見を、添える人々も、中身の無い話を、実しやかに、語っている。これらの媒体が、無駄ではないか、と揶揄されるのも、この類の人々が、巣食っていて、蠢いているからで、相手にするのも、無駄と断じる、意見も多くある。だが、今の社会媒体の仕組みは、これらの意見を、取捨選択することなく、と言うより、作為的に、それらの意見を、優先的に掲げている、としか思えぬ。この問題の本質は、下世話な話ほど、耳目を集め、媒体の優先順位は、以前の検索の仕組み同様に、下劣な心の持ち主が、関わった意見程、同じ水準の人間にとり、興味が湧き、目を向けることで、決まっている、という点にある。下らぬなら、相手にせずに、無視し続ければ、と言われるが、それが、可能とはならぬ、仕組みの、頑なとしか言えぬ、大欠点となっており、一人の参加者が、自身の判断で、変更できるものでは、ないことにある。この状況では、悪貨が悪貨を、産み出すことにしか、ならずに、それこそ、悪化の一途を、辿ることとなる。それでも、様々な魅力が、劣悪なる人間を、誘き寄せて、水準低下の勢いを、増し続ける。どうすれば、いいのか、と戸惑うこと頻りだが、かと言って、真っ当な意見を、書き連ね、誤った意見を、否定し続ける人が、実は、かなりの数に、上るのだが、彼らの行為が、功を奏することは、殆ど無い。これもまた、仕組みの問題で、ほんの一握りが、浄化を心がけても、その後を、追いかけるように、馬鹿げた意見を、山のように、投げ込む人の数は、まさに、多勢に無勢を、表すものとなる。で、別の形で、個人的に、管理できる媒体で、警告を、発する人も居るが、それも、焼け石に水、といった感しかない。ま、所詮、その程度のことが、仮想空間で、盛んに起きており、誰も、消し去ることが、できぬのだ。そんなことを、思いつつ、日々、表示される、愚かな意見を、無視し続ける。
何故、人は、他人の不幸話を、喜ぶのか。確かに、蜜の味、とも言われるが、それにしても、囀り界隈では、そんなことで、花盛りになり、皆が、競い合って、不幸の程度を、言い争う。多分、勝ち組負け組、の考えも、背景にあるのだろうが、蜜の味の逸話からは、もっと昔のことだ。
人間は、所詮、絶対的な指標を、持ち合わせておらず、また、その尺度で、物事を測ることも、できない。だから、相対的な比較が、単純で分かり易い、ものと見做され、せっせと、比較対象を、掘り出す訳だ。だが、その場合にも、より高いものを、見つけ出すより、低いものを、せっせと見つけ出し、その度合いを、競い合うことに、精を出すようだ。何故、と思うのは、庶民的な感覚ではなく、おそらく、高みから、眺める気分であり、底辺で、蠢くことを、意識する人間には、理解できそうにない。それより、自分より下の、人間を発見し、その悲惨さを、揶揄することこそが、第一の目標となり、それが、満足感を得る、唯一の方法となる。情けない、の一言で、片付けようと思えば、できるには違いないが、それもまた、何の意味も、持たないものだ。だったら、どうすれば、いいのだろうか。他人のことなど、目もくれず、ただ、自分の可能性を、広げることに、専念すればいい。簡単な、ことではないか。なのに、何故、囀り界隈には、そういう人が、出てこないのか。実は、確かに、そういう存在が、居るには居るのだ。にも拘らず、それが、目立たぬ存在に、終わっているのは、その他大勢が、挙って、不幸に目を向け、それぞれの成長を、無視し続けるからだ。こんな無駄は、他に無い、と思うのだが、世の中は、そんな風には、流れていない。兎にも角にも、上下関係を、詳らかにして、その上で、自分の立ち位置より、自分より下に、ある存在へと、目を向ける。それが、安心感に、繋がることで、自分を、安全な場所に、置くことができる。何とも言えぬ、違和感に、満ちた状態だが、当人達には、そうは見えない。それより、何より、不幸を見つけたい。ああ、どうでもいいことだ。
賃金は、何に対するものか。労働への対価、という理解が、一般的だろう。となると、学生の身分に対し、賃金が、支払われるとしたら、その労働とは、となる。確かに、学生実習の、補助として働く場合、それは、その学生には、自分の利益ではなく、他人の利益の為のものだ。
だから、TAと呼ばれる、立場においては、謝金が出されている。これは、海の向こうも、同様の仕組みだが、ずっと昔には、その為の原資がなく、タダ働き、と言われていた。これだけに、限ったことなら、何かを学ぶ過程で、収入を得ることも、当然に思える。だが、給与、賃金、という形で、一定の収入を、確保する話となると、別に思える。特に、博士課程の学生は、自身を磨き、将来への展望を、開く為に、日々研鑽しており、それは、あくまでも、自身の為でしかない。その過程で、手に入れた業績は、確かに、学界の、共通財産、時には、人類の、などと大袈裟な、表現も聞かれるが、その手のものとなるが、それでも、それに対する、報酬は、働き場所を、与えるという形でしか、支払われない。この考えの、何処がおかしいのか、最近の囀りでは、極端な意見のみが、共感を呼ぶだけで、真っ当な意見は、無視されたり、炎上したりして、非常識と、片付けられる。だが、教えを乞う間、誰が、得をするのか、と考えれば、その答えは、明白なもので、その人間自身でしかない。その結果として、この人物が、他を教える立場に、身を置けるように、なった時に、初めて、他人の利益、が出てくる訳だ。こういう流れと循環で、これまでの、大学の役割が、果たされてきたが、今は、随分と違う、考え方が、当然の如く、語られている。確かに、何故、指導教員の、指示の下に、研究を行うのに、タダ働きを、せねばならぬのか、と思うのだろうが、これを、労働と見ること自体が、誤りである、としか思えぬ。人から、何かを教わり、その過程で、鍛錬を積むのは、人材育成において、当然の事柄であり、それを経て、初めて、自立が可能となり、自身で考え、動くことが、できるようになる。その過程を、労働と見做し、対価を支払う、という考えには、納得できる筈がない。
学費無償化、なる話が、まるで、当たり前のことの如く、扱われるようになり、久しい。だが、その根底にある、考え方には、多くの異論がある。例えば、諸外国が、という話を、引き合いに出しつつ、高等教育までも、無償にすべき、との主張があるが、これも。
的外れの権化で、呆れるしかない。教育の本質は、人材育成にあり、学問のすすめ、を著した人も、平等ばかりに、目を向ける人が多いが、実際には、役割分担をも、含めた上での、人材育成を、説いていた。その意味で、この国では、義務教育期間が、それにあたるもので、だからこそ、学費無償が、給食費などの、一部の経費を除き、実施されている。だが、人間として、最低限の教養を、確保する為に、という期間は、この9年に、限定されており、その間に、学び方を含め、人として、生きる為の術を、身につけるものとする。で、その後に続く、高校大学に関しては、人それぞれの、判断に従い、学びを続けることが、できるように、用意されたもので、選択によるもの、という意味で、無償である必要は、全く無いと思う。それを、無償化したい、と願う声の多くは、貧困を理由とし、機会均等を、訴えている。だが、もし、その必要があるなら、個別に、審査をした上で、扱いを変えれば、いいだけのことだ。全体を、無償とする考えには、全く頷けない。この話は、これで、十分な説明、と言えるのでは。一方、この議論より、少し前の頃から、高等教育において、専門家育成に、必要となる段階での、学費無償化が、取り沙汰されていた。大学院の、修士課程については、全ての職業での、必要知識を、授ける段階と見做され、個人の利益を、優先する考えから、外されたようだが、その後に続く、博士課程では、進学者が、激減しており、定員なるものも、あってなきが如し、と言われる始末で、大学以降の就学期間が、9年にも及ぶことから、資金不足を、訴える声も多い。そこで、無償にする、と判断した大学も、あると聞くが、一部に限られている。これもまた、個人の利益、とする考えが、残るからだろうが、どうだろうか。そこに、最近、給与支給を、との企てが、監督官庁から、発表されたとされ、物議を醸す。基本的には、学ぶことが、主体である時期に、働くことへの、報酬を与えるのは、筋違いと思うが、どうか。こちらも、今でも、何らかの形で、報酬を与える所も、あると聞く。それは、個別の判断で、労働と見做すのであれば、対価を支払う必要がある。が、これもまた、全てに、となるのは、おかしなことだ。ここでも、貧困ばかりに、目が向くのも、この国の病気なのでは、と思う。
もう随分、時間が経った、ような気もするが、遂に、書類送検だと、報じられていた。当初から、摩訶不思議な状況で、誰がどのように、関与したのか、依然として、全く見えぬ中、警察は、粛々と、手続きを進めた、ということか。ただ、起訴を求めぬ、とは何か。
何れにしても、家庭内の出来事が、これ程までに、大きく扱われるのは、今の世の中の、典型と言えそう。実社会では、隣家で、何が起きようが、隣人が、死に瀕しようが、知らぬ存ぜぬ、となって久しいのに、何故か、仮想空間では、せっせと、口を出し、同調者を集めて、叫び続ける。それより、隣の子が、危ないことを、しているのを、叱ってみたら、と思うが、親が、反論してくるのに、面倒を、感じるからか。どうにも、息苦しさばかりが、目立つ時代なのだが、さて、どうしたら、こういう問題が、解決するのか、答えは、一向に、見えてこない。それより、報道が、先頭に立ち、煽り続ける中、有名無名に、無関係に、社会媒体で、誰かの過ちを、せっせと掲げて、制裁を与えようとする。集団リンチは、嘗ての、西部劇で、よく見られたことで、その後も、この国でも、活動家が、内部の啀み合いの、結果として、殺人に至るなど、古今東西、こういった、独り善がりは、止むことなく、時に、過激化する程だ。で、今回の顛末は、これで、幕引きとなるのか、そうは思えぬ。週刊誌報道が、直後に、印刷物として、売られたことを、含めて、この世の中の、他人への、厳しい視線は、止むことなく、過剰になり続け、自分で、自分の首を、絞めることとなる。誰も、反省することなく、他人の責任ばかりに、目が向くことが、続く中、さて、自身の行状について、何か、感じることは、無いのだろうか。他人事の如く、書いてきたが、同じことが、自分自身にも、向くと思いつつ、でも、こういう場も含め、なるべく、自分ごととして、考えるように、していきたいもの、と思う。
仮想空間だから、話が通じない、と書いた。だが、実際には、皆が経験するように、面と向かっても、通じない相手が居る、という事実もある。何を話しても、反論が飛び出し、時に、罵倒される。年齢差があれば、それは、更に酷くなり、徹底的に、叩かれるのだ。
こんなことが、起きるからこそ、パワハラなる言葉が、当然のものとして、皆に使われるようになった。なので、仮想空間に限ったことではなく、実空間でも、こういう迷惑千万は、数多ある、と言われるのだ。ただ、実在のものと、仮想のものでは、対応が大きく異なる。実在は、実被害を受けるが、その代わり、訴えることができ、相手を、社会から、抹殺することさえ、可能と言われる。それに対し、仮想では、匿名であることもあり、訴えるにも、煩わしい手続きが、必要となり、多くの場合、泣き寝入りではなく、単に、無視する、という手段に出る。確かに、執拗な相手では、単純な無視では、通用せずに、追いかけられるから、時に、自分自身の存在を、一旦消すことから始め、その後に、復活するやり方が、よく使われる。それでも、根に持つ人間には、通用せずに、あらゆる手段を講じて、見つけ出そうとする。そこまで行けば、まずは、訴えるしか、方法は残っておらず、となれば、徹底抗戦となり、前の例と同様に、抹殺するしか、手が無い。にしても、何故、そんな心理に、縛られるのか、加害者の気持ちを、理解することは、殆ど無理のようだ。訴訟の段階で、もう少し、これらの点を、明らかにして欲しい、と思うことがあるが、殺人を犯した人間と、何ら変わらぬ状況で、その場での、自身の心理を、説明できぬ人が、大部分のようだ。だとしたら、残る手段は、事件が起きた時に、重罪同様に、厳しく罰することしか、無いのでは。その為には、厳密な定義が、必要となるかもだが、まずは、決めてみては、と思う。そうなると、愉快や快感で、そんな不埒な行為を、繰り返した人間も、同じように、罰せられる。それは、行き過ぎ、と思うかもだが、そうだろうか。もう、ここまできたら、一度、極端に走ってみるのも、一つと思うのだが。
話が通じない、と思ったことは、無いだろうか。そんなことを、今更、尋ねて何となる、と言われそうだが、日々刻々、そんなことが、囀りの世界では、起きている。自分の主張が、通らないというのは、今に始まったことでなく、古今東西、起きてきたことで、特に、世代の断絶は、深刻だ。
実世界で、対面では、立場や地位の違いも、反映されるが、社会媒体の、仮想空間では、匿名性の確保から、何処の誰かが、特定されぬまま、多くの会話が、進められる。その中で、実名で、書き込む人には、強い違和感が、抱かれているが、匿名の人々には、そんなことは、理解できない。その上、相手をすると、罵声を浴びせ、喧嘩腰で、突っかかってくる。人生経験が、ある人ほど、こういう場での対応は、穏やかなものだが、それをいいことに、過激な文字が、連ねられ、発言の否定どころか、人格否定と呼ばれる、禁忌にまで、事が及ぶ。本人は、自己満足しか、頭に無いだけに、書き込みに、少しでも反対されると、躍起になって、反論を書き込む訳だ。この状況は、ネット掲示板、と呼ばれるものが、世に知られてから、何の変化もなく、実社会では、誰にも、相手にされぬまま、鬱々と、日々を送ってきた人間が、水を得た魚の如く、寝る間も惜しんで、持論を展開する。だが、その多くは、独り善がりの考えで、同意が得られにくく、時に、反論があるものの、多くは、無視されるだけで、日々の生活と、何の違いも無い。だが、その中で、時に、老婆心からか、指摘や助言を、書き込んで、相手をする人が、登場することがある。途端に、過剰とも思える、反応が、繰り返されるが、これらの遣り取りの多くは、そのまま、沙汰止みとなる。その結果は、かの人物には、勝利と映るらしく、次の標的を、探す為に、仮想空間を、彷徨い続ける。ある意味、無駄でしか、ないものと思うが、これもまた、以前の掲示板と、同じと見るしかない。要するに、この類の人々の存在は、消すことが、決してできない、ものなのだろう。では、皆で無視して、消えるのを、待つのが、いいのだろうか。否、とは思う。ので、偶に、相手をする、御節介から。