6月21日(日)

 本の企画が、台無しとなった、とは思わぬ。あの騒動で、暗躍したのは、政府関係者とマスゴミ、と言われるが、マスゴミの中も、それぞれで、少し様子が、違っていた。その結果、劣悪なる反応を、招いたのは、電波媒体による、情報伝達だった、と思われる。
 だが、著者達が、頼りにしたのは、調査結果で、渦中で、最も頼りとしたのは、民放との数値だった。意外だったのは、彼ら自身も、そうだったろう。玉石混淆、真偽入り混じった、情報さえも、何も無いよりまし、との見解かと、思える程だが、この数値だから、自らを高め、正当化せねば、となったのでは、と思う。印刷物が、衰退するのに比し、驚くべき評価、とでも受け取った結果、この本の内容へと、傾いたのだろう。情けない、という気分と、科学に立脚することを、基本とする、仲介者の役割を、歪めても構わぬ、との態度に、呆れてしまった。これらのことは、自身にも、通じることで、最近の、他人の評価を、過度に気にし、その数値だけが、全てとの思い込みに、警告を発する。一方、こんな為体を、招いた最大の原因は、総括の欠如、にあると言って良い。本の中でも、専門家が、それぞれに、独自の解釈と纏めを、表明していたが、これが、可能となるのは、肝心要の、政府による、客観的な評価と総括が、全くと言っていい程、行われなかった、からだ。多くの、出鱈目な解釈が、依然として、皆の口に上るのも、不確かなデータが、独り歩きするのも、全て、全体を見渡す形の、総括が、行われぬままに、目の前の問題へと、話題が移った結果なのだ。感染による死者数は、依然として、高いままとの主張が、専門家から、発せられたが、独り言でも、何度か取り上げたように、統計による数値で、感染の結果として、死因となるものの、数値の変遷が、どうだったかの、検証は一切無い。にも拘らず、高いままとの主張は、科学者として、あるまじき態度で、それに対して、何も指摘しないのは、科学的意思疎通に、携わる人間の、態度ではない。この繰り返しが、頁を繰る度に、現れるのは、読者にとり、不快でしかなく、無意味な時間が、過ぎていく。そんな感想しか、残らぬ読書は、一種、苦痛でしかない。さて、これ位にして、次は、総括と共に、問題として残ったことを、書くことにするが、暫く間を空けたい。

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6月20日(土)

 件の本については、帯によれば、次の爆発に備える、との掛け声で、科学的意思疎通の、必要性を、訴えるものらしい。だが、内容は、昨日書いたように、杜撰なもの、と言わざるを得ない。企画にも、聞き取りにも、携わった人々の、意気込みは、理解できるが、空振りだった。
 まず、当人達が、意識する、科学的意思疎通とは、どんなものか。元々、科学者などの専門家は、難しい言葉を並べ、時に、意味不明とも映る、拘りや主張を、展開する。学者様、として扱われた時代とは、大きく異なり、理解できぬ話を、偉そうに語る人間は、価値が無い、とさえ断じられる、そんな時代となり、俄を交えて、そんな連中が、有る事無い事を、囀りなどの社会媒体に、書き殴るのが、当たり前となる。その中で、大衆媒体が、牛耳ってきた、情報伝達の世界を、多勢に無勢の状況で、荒らされており、危機感は、膨らむばかりとなる。特に、感情的な意見が、大多数を占める世界で、何が正しいかを、論じることの必要性が、高まっており、科学的意思疎通として、それらが、活躍する場に、注目が集まる。その中で、感染爆発で、一部捻じ曲げられ、誤解に基づく、反論が飛び交った、混乱に対して、危惧を訴える動きは、当然のことに違いない。だが、だからと言って、軽率な態度で、自己主張を繰り返し、正当化を目論むのは、明らかな過ちであり、取り返しのつかぬ、信用失墜さえ、招きかねない。そんな思いを、抱きながら、全体を読んでみて、報道に携わる人々の、無知蒙昧ぶりに、呆れただけでなく、そんな人間が、寄ってたかって、敵対する人々を、感情的に批判し、有識者の見解を、都合よく解釈する、という、馬鹿げた本に、著したことは、恥ずべきことと思う。科学的意思疎通は、確かに、難しく理解困難な話を、分かり易い形に、翻訳することが、第一の役割、と考えられるが、この本では、その役割を、自負する人々が、自分の解釈を、被せる形となり、科学を、愚弄するものに、してしまった。自らの、重要な役割を、曲解したことは、このような企画を、的外れなものに、してしまった。

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6月19日(金)

 感染爆発について、皆、忘れてしまったのだろうか。一部には、そんな意見もあるが、こちらは、そんなことは、微塵も感じていない。だが、報道に携わる人の、一部には、そんな意見が、あるのだろう。だからこそ、今、こんな本が、出版されたのでは、と思うのだ。
 まだ、月半ばだから、読んだ本で、皆さんの目に、触れるまでには、暫く時間がある。だから、書名を明かさずに、意見を書いても、よろしくない、のかもしれない。だが、ここに書くことで、書名については、心当たりが、出てくるだろうから、直接書くことは、控えておく。でも、それにしても、こんな駄本を、世に問うて、何がしたいのか、と思ったのが、読後感だ。感染爆発が、世界を覆った、と言われた頃、この国でも、多くの人々が、政府と力を合わせて、対応に、腐心したと言われる。一部に限られ、全ての見解が、書き記された訳ではないが、少なくとも、改めて、当時、画面を賑わせたり、誌面に見解を、発表した人々が、何を考えたかを、伝えようとする、意図があったことは、簡単に分かる。しかし、その内容に、偏りが目立つのは、個人の見解だから、致し方ないとはいえ、一方で、聞き取りにより、正確な情報を、引き出したとでも、著者達や、編集に携わった人々が、断言したとしたら、何をか言わんや、と返すしかない。ある大学教授が、政治家などの、口述記録を、続けたことは、よく知られるが、今回のこの本は、それとは、似て非なるもの、としか、言えない代物だ。口述を、どの程度、正確に、文字起こししたか、という点にも、疑義があるが、それ以上に、問題なのは、複数人で、一個人に質問し、その遣り取りを、記録したことで、事実と異なる、内容へと、変えられたのでは、と感じたことが、大きい。誰が何を、と書名に、記したのに、実際には、聞き手の意見ばかりが、書物の中に、残ることになり、肝心の、現場での問題より、報道が、如何に関わったのか、だけに、光が当てられ、正当化への苦心が、露わとなってしまった。こんな本、読む価値は、無い。

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6月18日(木)

 陰謀論を、馬鹿にしていないか。いや、馬鹿げた妄論を、真面目に、取り上げるのは、愚の骨頂だろう、と思う人が、大部分だと思う。でも、海の向こうの暴君の、発言の多くは、彼が、表舞台を去ってから、実しやかに、陰謀の数々として、取り上げられるのだろう。
 で、彼自身は、それまでの、庶民の情報源だった、大衆媒体を、偽り、フェイクと断じ、好き勝手な振る舞いを、続けている。ただ、あの批判の、殆ど全ては、自己中心的な、評価基準に基づき、自分に、不都合なもの、だっただけなのだ。それを、陰謀と片付けるかは、一概には、決め付けられない。でも、はじめに書いた、陰謀論は、まさに、その典型であり、それを、主張する人にとり、不都合極まりない、邪魔なものなのだ。あの暴君が、これらの意見を、書き始めたのは、社会媒体であり、政権を去ってから、権利を失ったのも、権力に、君臨するからこその、暴挙の数々が、看過できぬ程、と判断されたからだ。しかし、その企業を、買収した人間が、擦り寄った結果として、権利を回復し、それと同時に、妄論を掲げることが、自由の名の下に、認められたことが、今の混乱を、招いたと思える。実しやかな論理を、展開する為に、必要となるのが、誰か、特に権力を握る、人間達の、陰謀によるもの、という展開だろう。どんなに、突拍子もない、奇天烈な、話でも、それが、権力者の、深謀遠慮による、としさえすれば、何事も、通用するとなる。いや、論理の欠片も、ないのでは、との指摘も、だからこそ、力による行使が、必要なのだ、と断じる。もう、手が付けられず、好き勝手な、話にしか、ならないもので、聞いたり、読んだり、する価値も無いが、今や、それらが、大真面目に、社会媒体で、囀られるのだ。特に、最近、目に余る、と映るのは、専門家の世界での、妄言の応酬であり、非論理的な、意見の遣り取りが、実名、匿名に関わらず、衆人環視の下、いつまでも続き、人格否定へと繋がり、当事者の、人格自体が、毀損することだ。人間の、卑しさを、見る思いとは、言い過ぎだろうか。

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6月17日(水)

 ちょっと、考えてみたら、と思う。軍事侵攻が、始まった時、世界の穀倉地帯が、焼け野原になり、食糧不足が、起きると報じた。爆撃が、始まった時、世界の石油基地が、紛争に巻き込まれ、原油不足が、起きると報じた。で、結果は、どうなったろうか。皆が、飢えに苦しみ、凍えただろうか。
 悲観論者にとり、真に、都合のいいことが、立て続けに、起きている。材料に、事欠かないとは、まさに、この状況を言う、とさえ、思えてくる。それに加え、どちらの紛争でも、今の農業にとり、死活問題へと、結び付く、肥料不足が、起きたと報じる。最後の問題は、効率的な、農業の確立に、不可欠なもの、とされるが、一方で、人工的なものとして、一部の人々に、忌み嫌われる話だ。にも拘らず、大ごとのように、扱われるのは、まさに、資本主義の時代、当然の成り行き、なのだろう。だが、どれもこれも、死活問題とは、言い難い、展開が、その後続いており、あれは、狼少年の物語と、同じことだろうか、などと思えてくる。警告を発すれば、それに対して、対策が講じられ、障害を、未然に取り除くことが、できると言われるが、今の展開を眺める限り、とても、そんなことは、言えない程に、下劣な情報操作と、一部の収益獲得ばかりが、目立っている。警告は、単純に、値上げの根拠となり、あろうがなかろうが、そんなことには、無関係に、流通を含め、それらの製品を、扱う人々の、収益獲得へと、繋がってきた。それこそが、需要と供給による、資本主義の姿、と見るのは、各人の勝手だが、現実は、全く異なり、どこにも、不足はなく、どこにも、困り果てた人は、出ていない。それでも、対策が、功を奏したとして、自慢げに、触れ回るのは、どうしたものか、とさえ、思えてくる。経済の理論とは、単に、嘘を塗り固めた、虚像の姿であり、そこには、実体も、実態も、何もなく、誰かが、組み立てた、張りぼてに過ぎない。それに、加担しているのが、情報を伝達する、役目を追う組織と、人々であり、今では、その他大勢も、社会媒体を介して、せっせと、嘘をばら撒き続ける。悲鳴を上げれば、救いの手が、差し伸べられる、という図式も、この茶番劇に、不可欠な要素で、そこへの加担も、重要な役回りだ。ま、そんなもの、ということで、騒ぎが、収まるのを、待つしかない、のだろう。

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6月16日(火)

 何度目の正直か、合意との報道に、多分、皆の疑いは、解けていないだろう。まあ、海千山千の争いに、二つだけでなく、もう一つの勢力が、加わっているだけに、解決への道は、近くはない、と思える。その中で、資源枯渇の話は、どうなったのか。誰にも、分からぬ。
 で、この国では、資源不足ではなく、そこから、産み出される、原材料の枯渇が、深刻化している、と言われる。でも、庶民の目からすると、今回もまた、一時の儲けに走る、不埒な連中の、思惑の表れ、と映るのだが、どうだろうか。米騒動でも、様々に、憶測が飛び交った。不足から、枯渇へと、話が移る中、行き詰まったのか、遂には、政府の調査自体が、誤っていた、という結論まで、飛び出す始末だったが、今になって、米余りが、深刻な問題として、取り上げられ、あの話は、何だったのか、などと言い出す始末。こんな調子の、大衆媒体なのか、マスゴミなのか、信頼に値しない連中が、今回の騒動にも、加担している。その手法は、いつもと同じで、何度、騙されたら、気が済むのか、と思うのだが、当人達は、大真面目で、買い占めに、走り回り、窮状を、叫び続ける。だが、末端でさえ、買い占めを、唯一の手立て、と見る程なのに、何故、流通の中途で、同じことが、起きぬと思うのか、不思議で、仕方がない。爆撃が、始まった時、あっという間に、燃料の値上げが、報じられた時、首を傾げたのに、同じ嘘で、騙されるのは、知恵が足りないのか。漸く、話題になり始めたのは、価格操作が、報じられた時に、問屋などの段階で、買い占めに、走った所があった、という話であり、それが原因で、末端の店の棚から、全てが、消えてしまった、とされる。だが、それとて、それを防げぬのは、政府の責任、などと言い出す始末では、如何ともし難い。儲け話に、群がる人々が、こういう行動に、出てくるのは、常道であり、それにより、一時の儲けに、ありつくだろうが、それが、信頼を失い、次の商売では、損をするのが、常ではないか。と、考えれば、この騒動も、対岸の火事、でしかない。

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6月15日(月)

 人工知能が、脅威となったのは、盤上の競技だろう。実力が、伴わぬ時代には、誰も、見向きも、しなかったが、徐々に、力が蓄積されると、その速度が、武器となり、実力者さえも、凌駕するように、なったと言われる。確かに、そうかもだが、かなりおかしいと思う。
 今の時代に、そんなことを書くと、無知との指摘が、飛んできそうだ。どの盤上競技でも、実力者が、敗退したとの報道は、誰もが知る所だ。でも、と思うのは、彼ら実力者達は、人間との戦いで、力を見せてきて、速度優先の、機械を相手にしたことは、殆ど無い。心理戦、というと、語弊があるかもだが、実力拮抗の中、心理的な揺さぶりが、効果を上げることも、あると聞く。将棋の世界では、嘗て、絶対王者と呼ばれた存在は、意外な手を、指すことで、知られていた。一人は、その勢いで、当時の全冠制覇を成し、もう一人も、同様の成果を上げた。でも、その後は、徐々に失い、絶対的な存在、とは呼べなくなった。それは、結局、彼らの戦略が、対戦相手に、通じ難くなった、結果と思える。これらの競技では、唯一無二の勝利手筋が、存在する訳でなく、対戦相手との、遣り取りの結果、勝敗が決する。この点は、仮令、人工知能でも、同じことであり、最善手の繰り返しで、勝利を得ることに、変わりはない。だから、相手の出方次第で、こちらの手も、変わることとなる。となれば、人間相手に、通用した戦略が、機械にも通じる、とは限らない。逆に、機械だからこそ、通じるものが、あっても不思議はない、と思う。これが、脅威として、恐れるだけでは、と思う理由だ。そこで、最近の生成人工知能が、万能かの如く、評価される中、各企業の仕組みの、脆弱性が、攻撃対象となる、との話が、紹介される。が、これ、例の如くの、不安を煽る話、でしかないと思う。もし、そんなものが、存在するなら、さっさと、自分達で、その欠陥を見つけ出し、対処すればいい、だけのことだ。何を、大ごとのように、取り上げるのか、と思う。それこそ、開発者や開発企業の、思う壺なのでは、とも。高を括る、のは幾ら何でも、だろうが、過剰に恐れるのは、却って、損失を被るからだ、あの競技のように。