6月26日(金)

 科学技術の進歩。その恩恵に、多くの人々が、浴している。日々の生活でも、そんなことが、数え切れぬ程にある。これを、否定する人は、居ないと思う。だが、技術の進歩と、その事象への理解に、食い違いが生じると、おかしな状況が、生まれる。どうしたものか、と思う。
 何度も、取り上げてきたことだが、感染爆発に関する話だ。感染が、発生した地域から、一報が、届いた時には、多くの人々が、その後の、惨状を想像しなかった。だが、発生国から、何時の間にか、星の反対側へと、飛んだ病原体は、多くの患者を、生じただけでなく、その多くが、死を迎えてしまった。感染症の、恐ろしさを、目の当たりにして、恐怖に慄く人々は、一気に、異常な状況へと、移っていった。だが、その過程で、各国から届く、数値の大きさに、驚いた人が多い。1世紀以上前の、世界的な悲劇を、思い起こした人も、多かったが、死者数でなく、感染者数という、数値に関しては、昔の話とは、大きな違いが、あった。その時も、ここで何度も、指摘したが、この数値は、検査陽性者数であり、一般的な理解の、感染者とは、何処か違ったものだ。従来の感染者は、発症した後で、検査を受けた結果、その病原体に、侵されたことが、確認される。だが、何時からか、感染症の学会が、精密な検査により、病原体の存在が、確認された時点で、感染と判断する、と決めた。それに従い、この場合も、PCRという、病原体数が、僅かでも、検出できる技術を、導入した結果、世界的に、その数値を、発表することとした。その結果、陽性者でも、発症せずに、回復する場合が、指摘され、彼らが、運び屋の如く、批判されるに、至っていた。この点に関して、疫学も公衆衛生学も、確かな情報を、総括として、発出していない、のではないか。もし、そうだとしたら、検査自体の、再検討が、必要となる、とも考えられる。この点は、実は、もう一つの大きな問題を、生じることとなった。それについては、後日、書いてみたい。

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6月25日(木)

 感染爆発で、世界が、恐れ慄く最中、何が、起きているのか、誰にも分からぬ状況が、続いた。確かに、被害が、急拡大する中、目の前の問題に、対処することしか、できなかった。だが、徐々に、死者の数が、減り始めて、現場の混乱が、収まり始めると、大凡の把握が、出来始めた。
 最中と、その後では、何が、変わったのか。単純には、全体を、見渡す暇が無く、目の前の問題さえ、把握できぬ中、何かを、落ち着いて、調べることさえ、不可能だった。それに対し、その騒動が、落ち着きを、取り戻すと、少なくとも、何処に問題があり、何が、以前と変わったのか、を点検できるようになった。この手法は、疫学や公衆衛生学が、主たる分析法として、長く用いてきたものだ。それが、可能となったら、総括は、容易いもの、と思えるのだが、一向に、出てくる気配さえない。これでは、問題の核心を、追及することは、不可能だし、何が、起きていたのかを、知ることさえも、できそうにない。そんな状態が、もう、長く続いてきて、知りたい、と思う人は、殆ど全てが、不満を募らせる。だが、何が足りず、何から、始めたらいいのか、そんなことは、情報を、欲しがる人には、知る術がない。いつまでも、この状態を、続けるのなら、政策に、批判を投げる人は、不確かなものも、含めて、真偽入り混じった、話をするだろうし、衛生措置に、異論を唱える人は、治療法への疑義を、持ち続ける。それが、科学的だろうが、非科学的だろうが、総括無しでは、反論もできない。今は、そんな状況にある、と思う。その中で、先週取り上げた、本が出版されたが、著者らも含め、主張が繰り返されるだけで、何の解決にも、至らぬままだ。この悪循環の、主原因は、総括の欠如にある。だが、それは、単に、政府や世界機関の、問題だけで無く、学界全体が、抱えるものではないか。科学か否かについては、論理のみでは、検証不能だ。なので、全否定する人も、妄論を発する、と言われても、仕方ないと思う。

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6月24日(水)

 騒動が起きて、役所等が抱える、問題の数々が、噴き出てきた。政策は、確かに、国民全体の利益を、求めるものだが、一度、綻びが見えると、修復不能な程に、傷が広がる。米不足、と言われた途端に、慌てふためき、備蓄米の放出を、決めたことに、間違いは無かったが。
 その一方で、何故、不足に陥ったのか、について、すぐには、答えが示されず、首を傾げるのみだった。とは言え、その後、明らかになったのは、役所等の調査が、不十分だったのか、生産量の概算が、間違っていた、とのことで、「はっ?」と思った人が、多いのでは。毎年、豊作か凶作か、をはじめとして、作況指数や収穫量が、発表されてきた。一喜一憂するのは、当然だろうが、この発表からすると、一体全体、あれらの数値は、信頼に値せぬ、ものだったのか、とさえ、思えてくる。嘗て、この国では、豊作、凶作に関することだけでなく、様々な要因から、庶民の生活を、守る為と称して、配給制度が実施され、公平性を、確保してきた。この状況では、当然のことながら、政府の関与が強く、管理体制が、整備されたから、生産量の把握も、難しくは、無かったと思う。戦前から続いた、この制度が、破綻を来し始めたのは、自主流通米、という代物が、登場した頃で、もう半世紀以上昔の、こととなった。意欲とか、努力とか、そんな言葉が、飛び交い始め、手をかけた米の、値段が、他と同じなのは、おかしいとの考えから、品質と価値、価格が、結びつくとの考えが、米以外も含め、労働対価として、反映すべきとの、考えが出てきたのだ。そうなると、政府の管理は、行き届かなくなる。結果、自由経済の名の下に、米価についても、味を含めた、数々の要素が、影響することとなった。だが、銘柄やら何やら、怪しげな名称や、噂話に過ぎぬことに、振り回される、消費者の数が、増えただけ、だったのかも、だ。そこに、この騒動が、起きた。途端に、様々な問題が、今更の如く、指摘され始め、恰も、悪者のように、扱われた。当然、権力批判は、常套手段であり、攻撃の手が、厳しくなった。でも、今に始まったことでなく、以前から、知られたことだ。もし、管理ではなく、綿密な調査、というのなら、追跡方法を、整備すれば、それで済む。密輸で、話題となる、金塊についても、消費税制度に、目を向けるより、追跡を、義務付けた方が、遥かに効果的だ。ただ、金持ち連中は、監視されては、堪らないのだろう。

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6月23日(火)

 誰が何と言おうが、米は主食である。騒動が起きた頃、多くの人々が、強く発言したのは、その為であり、日々の食生活で、肝心要のものが、不足しては、安心していられない。だからこそ、慌てふためき、小売店を、走り回る人が、出た。これも、当たり前、と言えるのか。
 こちらは、当然とは、言い難い。冷静になれば、明日の米が、無くなるわけでも、自宅の備えが、即座に、消え失せることさえも、あり得ないからだ。だが、煽るばかりの報道や、不安材料ばかりを、見せつける、専門家と称する人々が、あれ程に、騒ぎ立てたら、考えることを、忘れた人々は、慌てふためき、走り回ってしまう。数々の物品で、同じことが、同じように、起きたことを、見れば、現代の一般庶民が、如何に、考えようともせず、ただ、闇雲に、動き回るのかが、簡単に理解できる。では、何を、どうすればいいのか。簡単には、暫く様子見して、その後の成り行きを、見守ればいい、となる。昨年の騒ぎが、まだ続くことを、眺めていると、この問題が、拗れたことが、よく分かるし、その上で、加担した人々が、総括も始末も、つけようとせず、困り果てるまで、知らぬふりを、続けている、ことが分かる。備蓄米の騒動も、拠出されたものが、どこに消えたのか、誰にも分からず、相場の変動が、何の反応も、示さなかったのは、何故か、説明は、一切無い。その一方で、穿った見方からは、放出後も、倉庫に、置き去りにされた米が、どうなったのか、また、それに係る経費が、どれ程で、誰が、負担したのかさえ、何も見えてこない。数えれば、限りなく出てくるのは、明白なのだが、それを、一つひとつ、検証する気配は、見えそうにない。あれも、これも、騒ぐだけ騒いで、施しを、待つだけとの姿勢は、末端消費者から、流通業者、生産者まで、皆、同じなのだろう。総生産量さえ、定かでないのでは、手の施しようもない。お手上げ、では、済まぬ問題の筈だが。

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6月22日(月)

 米騒動は、解決していない。一方で、報道は、盛んに、末端価格の変動を、伝えている。僅かな変化を、さも大ごとの如く、伝える姿勢には、感染爆発の時と、同じように、疑いを抱くしか、ないのだが、当事者達は、大真面目に、取り上げる。騒動前の価格が、どれ位だったのか、忘れたように。
 確かに、その後も、様々な要因で、物価の上昇が、続いている。だから、同じ水準に戻る、などとは、誰も思わぬ。だが、ほぼ倍となった、価格が、僅か1%程度、変動したとして、何の意味があるのか、呆れるしかない。一方で、輸入品の多くは、恐ろしい程に、値を上げており、例えば、パンチが、日々愉しむ、珈琲に至っては、嘗て、と言ってもちょっと前、と思う頃の、倍どころか、3倍近くにまで、値を上げている。だから、物価上昇は、確実に、日々の生活を、脅かすまでに、至っている、と言えるのだ。だが、国内で、生産される物に、同じ圧力が、掛かっているとは、信じ難い。ここでは、別の要因が、被さっており、一部の業者が、私腹を肥やしている、と見るべきだろう。米騒動の、初め頃は、少し違っていたが、政府が、重い腰を上げた頃から、儲け話に、群がる人々が、急速に増えた。値上げの論理は、当時までは、需要と供給という、市場原理なるものが、あると信じられたが、今では、幻に過ぎず、市場心理を、操作することで、流通に携わる業者が、上前を跳ねる、という図式が、確かなものとなった。その上、裏で暗躍する人々は、情報操作にまで、手を伸ばしており、それに、加担する報道が、自らの役目を果たそうと、躍起になっている。先日、精米を買ってみたが、近県の生産物を、遠くの業者が、独自の精米技術で、仕上げた、と袋に印刷していた。それだけで、地産地消とは、全く異なる、流通業者の、関与が見えるが、それにより、運輸業が、厳しい状況下で、どんな無駄が、行われたのか、と思えてくる。付加価値とは、消費者にとり、利益をもたらす、と思われるものだが、ここでは、単純に、価格上昇へと、繋がる仲介者の、存在を意味しており、それにより、潤う業者達が、急増したと思える。元々、流通が、首を絞める、と言われてきたが、その最たるもの、と言えそうだ。