批判的に、文章を読んだり、人の話を聞いたり、することの、重要性は、何度も、説いてきた。確かに、疑いを、抱きつつ、内容を、確認しないと、簡単に、騙されたり、話に乗せられ、騒ぎに、巻き込まれたりする。現代社会のように、情報が重要、となれば、より一層のことだ。
で、日々の報道や、評論本などに、触れるのだが、小説は、少し事情が、異なると思う。推理小説は、例外かも知れず、筋道を、辿りつつ、誰が犯人か、どんな手口か、について、考えを巡らす。その時、著者は、少しのヒントを、残す場合と、逆に、誤解を、植え付けるような、罠を、仕掛ける場合がある。何方にしても、それらを、見つけ出して、展開に、乗ることが、楽しみの一つ、になるのだろう。一方、この所、毎月紹介する、時代小説は、事情が異なる。時代考証が、重要となるものも、あるのだろうが、人物も内容も、架空のもの、である場合には、そんなに、粗探しを、必要とせず、出てくる、当時の風習や、料理の数々を、楽しめばいい。ある意味、気楽なものだが、著者が、何故ここで、このことに、触れるのか、といったことには、目を向けることが、多くある。現代小説は、著者にもよるが、あまり、楽しめぬことが、多くある。どうも、人物描写や、心理描写に、違和感を、覚えるようで、物語の中に、入り込めぬ、といった感覚が、残ってしまう。大した読書量、でもないから、飛ばし読みは、殆どしないし、買った本は、全て読もうと、心掛けている。仕事関係以外には、図書館で、借りることは無く、それらの読書は、記録には残らない。本好きな、性格でも無く、子供の頃は、専ら、自宅にある、漫画本を、読むだけだった。それでも、仕事に、暇ができると、他にすることが無く、結果的に、読書をする羽目に、陥っただけだ。ものを書くことは、面倒でもなく、困ることは少ない。ただ、話すように書けば、それでいい、と思う。まあ、人によることだが。
何方の戦いも、泥沼に嵌まっている。当事者達の、思惑がどうかも、見えなくなって、このまま、ただ続けるだけ、となるのでは、とさえ思える。それぞれに、大義があった筈が、いつの間にか、そんなものも、何処かに消し飛んだか、と見えるに至り、お手上げなのかも、と思う。
他国を、手に入れようと、首都陥落間近、まで至ったものの、思わぬ反撃で、絶好の機会を、逃したばかりか、それでも、軍事力の、絶対的な差で、占領間近、と思ったものの、結局は、何年も経過し、最近は、前線での反撃どころか、逆に、首都近郊に、攻め込まれたり、資源施設を、破壊されており、形勢が、測れなくなっている。それでも、国力の差は、歴然としており、窮鼠猫を噛む、程度の話に、終わるのだと、あの独裁者は、信じているのだろう。これでは、まさに、あの国の春の訪れと共に、進軍の妨げとなる、泥沼に、嵌まったかの如く、にあるようだ。巨人と雖、泥で、動きが鈍れば、小人達の攻撃に、曝される、とでも言うが如くに。一方、紛争地帯の、問題解決を企てて、政府転覆を、狙ったと言われる、大々的な爆撃は、確かに、指導者群を、ほぼ壊滅させたものの、他国のゲリラを、支援する軍隊は、そのままの勢いを、保ったまま、反撃に出た。その上、互いの協議で、覚書を交わしても、どこ吹く風と、素知らぬ振りで、海峡閉鎖を続け、依然として、地域の権利を、手放す気配さえ、見えぬ状況に、こちらの暴君は、徹底殲滅を、目指すが如くに、要衝への爆撃を、続けている。ただ、政府内の勢力争いや、他国のゲリラ支援が、複雑に、入り乱れる中では、早期の解決は、望めそうにない。何方の戦いも、世界中に、悪影響を、広げてきたが、ここまで来ると、解決せねば、という勢いは、殆ど見えない。それより、継続が、当然と見て、その中で、どんな解決策が、あるのかを、見極める必要が、あるのだろう。毎週末の、不規則発言も、当初は、振り回されたが、今や、不安定が当然、と見て、他の均衡点を、探し続け、安定を目指す。と見れば、対岸の火事に、騒ぐのも、無駄と見るべきか。
教育の話題は、尽きることがない。確かに、そうなのだ。人間自身のことだけでなく、社会として、国として、考えた時に、教え育むことが、如何に重要か、という問題に、直面する。では、教え育むとは、どんなことか。こちらについて、論じているようで、そうでもない、という気が。
子供の頃、色々と学んだ、と考える人は、多いだろうが、その多くは、押し付けられ、それを、消化した、という形だった、のではないか。教え育むという意味では、見守ってやり、道を示した上で、そちらに向かわせる、といった形になる。だが、ある年齢を超すと、自分自身で、道を見定めて、そちらに向かうには、どうすべきかも、自分で、決めねばならなくなる。いつまでも、手を取り足を取り、教わり続ける、とはいかぬもので、その中で、重要となるのは、答えが、与えられるか、自分で、見つけるか、という点だろう。そういう過程を、経てきた人は、そこに、唯一無二の、正解がある訳でなく、時と場合により、答えは、違ったものになるし、その時、正しいと思われても、後に、間違いとなり、別の正解が、見えてくる場合も、増えてくる。この過程も、ある意味で、教育の一環として、見做されており、ある程度の、助言が与えられ、自分で、軌道修正する、という形に、変化していく。人の成長に、合わせて、そういう転換が、図られるが、その中心となるのは、当然ながら、自分自身で、周囲が、あれこれ、注意をしてくれ、助言を与えてくれても、結局は、どれを、受け入れ、何方に向かうかは、自身で、決めるしかない、と言われる。初等中等教育では、正しい答えを、示すと共に、それへの道筋を、教え込む訳だが、その後、高等教育に、進んだ途端に、様相が、一変する。答えが、無い問題を、解きなさい、と言われて、何処を、進んでいるのか、見えないままに、次の段階へと、向かわねばならない。以前なら、教師が、何らかの答えを、示してくれたのに、突然、それは、自分で決めること、と言われた途端に、戸惑う人が多い。でも、そちらの方が、当たり前では。だとすれば、やはり、そういう模索を、含めた形で、悩み考えて、自分なりの答えを、導く必要がある。誰もが、通る道として。
この国では、亡くなった人を、批判するようは言葉は、忌み嫌われる。確かに、死という、罰の一種を、受けた中で、その行為自体を、否定することは、禁忌とされる。また、そこには、別の事情があり、それに触れることなく、全面否定では、と言われることも、多くある。
でも、と思うことも、多くあるのでは。例えば、建物から、落下した人が、地上の人を、巻き添えにした時、後者には、何の罪も無い。落ちてきた人が、どんな事情を、抱えていたとしても、加害者である、という事実は、曲げられない、と思う。自然災害を、相手にした時、同じ論理を、適用すべきでない、のは明らかだろう。ただ、他人が、そういう災害を、客観的に眺めて、もし、自分に降り掛かったら、どうすべきか、を論じること自体は、何も間違っていない、と思う。亡くなった人を、誹謗中傷する訳でも、批判した訳でもない。自分なら、という思いを、表明することや、これまでに、見聞きしたことから、どうしたら、という話を展開することに、間違いは、無いのだと思う。しかし、今の時代、そうもいかぬ、という状況が、起きかねない。被害者優先が、そこまで、拡張されるとは、決して思わぬが、そうでない人々が、突如として、群がってくることが、あるからだ。そういう意味で、発言には、注意せよ、と言われるのだが、果たして、そうだろうか。別に、他山の石、と言うつもりは、全く無いけれど、様々な状況を、眺めながら、そこから、取るべき行動を、考えておくことには、何の誤りもない、のだから。ただ、こういうことも含め、他人の発言を、曲解することで、その発言主を、批判する行為は、今の社会では、当然の権利とまで、思われている、ようだ。いい加減にしたら、と思うのは、軽率かも知れず、その後に来る、所謂炎上では、どうにも止められぬ、暴走が続いてしまうから。
災害に関して、今回も、警報の仕組みが、変えられた。皆が、理解し易いように、と言われるが、どうも、通じないようだ。慌てて、逃げ出す人が、居る一方で、判断が必要、と動かぬ人が居る。人それぞれ、と言えば、その通りだが、さて、警告を発する側から、どう見えるのか。
とは言え、ここでも、基本は、自己責任だろう。最終判断は、自分で下さねばならず、それに従って、動き始めたら、そこから先は、起きることに、対応するだけとなる。川が溢れ、大水が流れてきたら、車での移動は、危険に違いないし、徒歩でも、安全確保は、かなり難しい。一方、大雨が降る度に、どこかで、起きるのが、崖崩れや土石流、と呼ばれる、山が崩れてくる、災害だ。水でも土でも、どっと流れてくれば、防ぐ手立ては、ほぼ無いに等しい。川の氾濫で、水位が、徐々に増すのと違い、山から水と一緒に、土や木が、流れてくるのは、一気に生じる、現象であり、判断は、その場ではなく、事が起きる前、に限られる。今回、ある場所で、起きた、裏山が崩れた災害は、これまでにも、よく見たものだが、違いがある、とすれば、山の高さだろう。裏山は、精々50メートル程の、高さしかなく、そこから、土砂が流れても、大したことはない、と思っていたのか、住民二人が、犠牲となった。崩れたのは、それ程の高さでもなく、更に、こんなことで、と思った人も、居るだろう。ただ、現地の雨量は、非常に多く、周辺の川も、氾濫したと聞く。倒壊した家屋は、二階建てで、主に潰れたのは、一階部分だった。そこで、思い出すのは、災害が起きそうな時、裏山から、遠い部屋、より高い所へ、家屋の中でも、避難せよ、との警告だった。高い裏山からの、土石流で、家ごと流された、という災害では、こんなことでは、安全は、確保できないが、今回のものは、まさに、この警告を、思い起こさせるもので、もしも、と考えてしまう。行政が、とか、自治体が、とか、言い出す人が、出てくるのは、必定だが、今回の災害は、個人の判断でも、と思えるだけに、残念に思う。相場同様に、自己責任を、常に心掛けるべき、とは、まさにその通り、としか思えなかった。
昨日のような話は、囀りや顔本などの、社会媒体が、出てきたから、起きた訳ではない。一部の人は、悪者を見つけると、全てを、その責任にする、という癖があるが、元々、面と向かうかどうか、という点に、最大の問題があり、その場での、遣り取りかも、問題となる。
電子メールを、はじめとする、便利さに、すぐには、飛び付かなかった。だから、はじめの頃は、時代遅れ、との目を、向けられることも、多々あった。でも、少しずつ、手を広げ始め、今では、この場のように、毎日の書き込みを、せっせと、繰り返すように、なっている。で、皆の意見交換が、仮想空間で、行われ始めたのは、所謂、ネット掲示板が、登場してからで、中でも、その匿名性から、愉快犯などの、好き勝手な、暴言、妄言が、繰り返されたのが、問題視された。2チャンネルは、その典型で、皆が、共通の匿名を、名乗り始めると、区別がつかず、過激性は、強まるばかり、となった。自分が、誹謗中傷されたと、誤解する人が、現れるに至り、百害あって一利なし、と断じられた頃から、衰えを、見せ始めたが、逆に、最新型の、社会媒体が、登場してきて、そちらの方が、便利で簡単であり、耳目を集め易い、となったことから、離れていったようだ。こちらは、そこまで、付き合うつもりは、毛頭無かったから、精々、ネット掲示板、と呼ばれるものに、参加して、今の囀りと、同じ感覚で、間違いを指摘し、正しい方へ、議論を向かわせよう、としていた。しかし、何度か書いたように、思い込みが激しく、間違いを、認めぬ姿勢の人を、相手にすると、ただ疲れるだけで、無駄と思える、遣り取りが続いた。遂には、他の人から、無駄だから、と指摘され、そろそろやめたら、と書かれて、やめたこともある。今は、それ程までには、付き合う気力も、ある意味の暇も、無いのだから、指摘しても、非論理的な反論が、届いたら、今一度の、指摘をして、無視しているが、一部には、永遠とも思える、議論が続き、読むのを、やめるしかない。それも、即座の反応、といった風で、対面では、と思える程だが、現実世界では、そうはいかない。まあ、互いに、自分の世界に、閉じ籠った結果、なのだと思う。見物にも、値しないのだ。
主義主張が、できることは、良いことだが、その内容が、劣悪、悪質だと、どうなのか、となる。まあ、その典型が、毎日、囀りなどの、社会媒体で、行われている、意見交換だ。一見、妥当に見える話だが、綻びが、感じられたと、指摘した途端に、激論の応酬となる。
ただ単に、主義主張の表明、だけならば、多様な意見として、皆が認めるのだが、火がつくと、罵詈雑言となったり、罵倒の連続となり、果ては、人格否定へと、発展する。当初は、論理性が、保たれていても、興奮状態へと、移ると、非論理的な、話の連続となり、読むに堪えぬ、となるばかりか、攻撃的な発言で、価値も、失われる。確かに、誰しも、自分の意見が、否定されれば、良い気持ちはせず、腹が立つ場合も、起こり得る。そこで、怒りに任せて、文字を連ねれば、これもまた、誰でも、冷静な論理展開を、失うばかりとなり、汚い言葉を、並べることで、専ら、否定に走る、こととなる。本来、社会媒体は、密室での議論ではなく、公開討論の一種だから、全ての人の目に、触れるものであり、時に、脇から、注意喚起も、行われるが、興奮状態にある人間は、聞く耳を持たず、八つ当たりさえ、起き始める。こうなっては、手が付けられず、皆、立ち去ることが、得策と見て、無視するのだが、当事者は、そうもいかぬ。で、暫く、相手をするが、殆どの場合、徒労に終わり、精神的にも、疲れ果てることもある。社会媒体では、毀誉褒貶が、当たり前、と思っておけば、腹がたっても、暫くの間、放置することで、頭を冷やし、対応策を講じる。拗れる理由は、おそらく、発言が、公開のものにも、関わらず、発言者本人は、画面を前に、密室で、考えた上で、返答するからだろう。感染騒動で、皆が、穴に閉じ籠った時、一部で、指摘されたが、直接、対面しながら、話を交わすのでなく、互いに、画面を通して、意見交換すると、主観のみに走り、極端な考えに、陥ることが、多々あった。そんなことが、今、この瞬間も、起きているのだろう。客観を、失ってしまうと、暴走してしまうのは、人間の性なのだろう。