8月2日(日)

 昨日のようなことを、書くと、そんな面倒は、気になる人が、それぞれに、やればいい、と思う人がいるようだ。確かに、嘘八百を、平気で書き込み、騙される人々を、せせら笑うのが、生き甲斐なら、そうかもだが、認可の有無だけでなく、報道に携わるなら、許されぬことだ。
 もう、これもまた、死語となっただろうが、報道での基本で、「裏を取る」が、煩く言われた、時代もあった。特に、事件報道では、情報源は、警察当局が、大部分となるが、時に、情報操作を、目論んで、真偽入り混じる、話を伝えることが、起きていた。今時の、冤罪騒動で、この手法は、憚られるが、それでも、警察発表を、鵜呑みにして、誤った情報を、伝えることは、報道では、恥ずべきもの、と言われていた。だが、最近は、一方で、情報が、氾濫する中、真偽の見極めは、受け手が、行うべきとの、見解が、出ているようだ。呆れるばかりだが、不安や心配を、煽る為の、情報操作も、愉快に、楽しく、生きる為の、情報操作も、自在に行える、と思い込む、不埒な輩が、闊歩するのが、あの世界なのだろう。となれば、やはり、受け手が、情報を受け取る度に、せっせと、真偽を確認し、取捨選択するのが、今の時代に、賢く生きる術、となる、という訳だ。ご冗談を、としか思えぬが、大真面目で、そんなことを、宣う識者まで、現れるとなると、お手上げなのかも、とさえ思えてくる。何度も、書いてきたように、批判的、論理的に、読んだ上で、吟味することは、常に、必要なのだが、それは、何も、送り手が、嘘を並べても、構わぬ、という意味ではない。また、事前に用意した、筋書き通りに、展開できるような、事柄だけを、並べてもいい、という意味でも、決してない。改めて、こんなことを、書き綴らねばならぬ程、世の中が、腐っていることは、認めたくないが、事実なのだろう。その中で、一般庶民としては、受け手として、吟味力を、磨かねばならず、送り手、あるいは、伝達者として、軽率な、思い込みや、垂れ流しに、加担することも、控えねばならぬ。

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8月1日(土)

 天変地異が、起きると、途端に、喧しくなる。あれが心配、これが不安、と並べ立て、煽りまくるのだ。昔は、もっと冷静だった、と思うが、報道は、何時から、こんなに、愚かになったのか、と思う。と書くと、愚かなのは、マスゴミだけでなく、庶民と呼ばれる人も、と返ってくる。
 これも、その通りであり、だからこそ、耳目を集め、存在価値を、世に認めさせたい、とでも願う輩は、盛んに、叫び続けている。それが、何の役に立つのか、と思うことが、殆どであり、時間の無駄、でしかない。それも、口煩く、連呼されても、その場では、心配や不安を、示す人々が、肝心な時に、そんな警告は、すっかり忘れて、勝手な行動を、起こすのだから、堪らない。学校が、休みに入り、子供の過ごし方に、大きな変化が、訪れる。海外では、長期の休みを、親も取って、遠出するか、子供らだけを、催しに送り出す、こともあるが、こちらは、そんな習慣は無い。だから、変化に適応できず、体調を崩す、という不安を、口にするかと思えば、最近は、貧乏暮らしが、深刻なようで、金の話に、終始するようだ。昨日も、ある民放で、驚くべき話が、語られていた。夏休みで、給食がなくなり、出費が、5万円増える、と言うのだ。はて、どういう計算、と思うのは、何時もの、批判癖による、ことかもだが、本当に、どう考えれば、と思って、少し調べてみた。確かに、ある所に、そんな話を、にしたものがあり、一人一日500円増える、と書く。根拠は、常識とでも、言うのか、理解不能だ。一方で、給食費は、調査によれば、月5千円とある。でも、施し好きの時代は、無償化があるようで、そんな記事もあった。何にしても、自宅で食べて、一食500円は、高過ぎるし、仮令、共働きでも、宅食であれば、同じことだ。その上、夏休みに、給食費は、徴収されず、その差額が、必要となるだけだ。最初の図には、あれこれ、並んでいるが、やれやれ、細かく計上して、心配を増やすとは、何のつもりかと、思えてくる。その上、根拠不明、出所不明の数字を、実しやかに、伝えるだけの、無知な報道は、無価値でしかない。この手の矛盾に、気付けぬのは、やはり、無知蒙昧であり、そうならぬよう、備えねば、と思う。

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7月31日(金)

 何方も、泥沼化している。何度も、書いてきたように、当初の目論見は、外れてしまい、当事者は、新たに起きる、事変の数々に、対応を、余儀無くされる。だが、何方も、解決への道筋は、全く見えず、日々、爆撃に曝される、地域に住む人々は、不安な日々を、送っている。
 その一方で、遠く離れた場所に、住む人々は、対岸どころか、何処か遠くの、知らぬ場所での、紛争や戦争に、実感ないままに、好き勝手なことを、書き綴っている。意見の場、であることは、間違いない。だが、誰もが、意見を綴れる、と言っても、それは、勝手なことを、書いてもいい、という訳でも、あるまい。先日も、宗教的な諍いから、長く紛争が続く、地域での、突然の爆撃で、指導者の殆どが、失われた国が、交渉の末に、圧倒的な勝利を、手に入れた、との見解が、一部の人々から、示されたが、今回、その交渉により、互いに、合意に至った、と思われた話が、何方の責任か、反故にされたことで、再度、爆撃を受けた国が、周辺地域への、攻撃を開始したことで、圧倒的な優位を、手に入れた、との見解が、囀りの中で、飛んでいた。ただ、その発言者ではなく、その囀りを、再掲させた人は、その見解を、信じているようで、ちょっと読んだだけでは、その根拠は、脆弱なもの、にしか見えない。特に、引き合いに出した、もう一つの、軍事侵攻により、泥沼が長く続く地域で、攻撃側の国の、施設の多くが、爆撃を受けて、国内の燃料事情が、危うくなった、との報道が、すぐに、生産再開を、した程度の、軽微なもので、取るに足りぬ、と断じた上で、こちらの、周辺国への爆撃は、大規模なもので、殲滅させた、と言える、と結論づけた論理には、話のすりかえと、思えただけに、妄論の一つ、としか思えなかった。一事が万事、こんな調子で、遠く離れた所から、自分の考えに、合う話を見つけて、再掲を続ける人に、この手の媒体は、確かに、有用に見えるだろうが、そうではない、と思えてくる。批判的、論理的、そんなことを、主張するにつけて、自分の考えとの、合致が、最優先となると、どうにも、捻じ曲がったもの、にしか見えてこない。そういうことの、点検には、ネット上の意見は、確かに、役立つのかも、だが、そんな無駄が、本当に必要か、とさえ、思えてくる。

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7月30日(木)

 判った、かの如く、書いているが、その中味は、どうにも、支離滅裂で、何が言いたいのか、分からない。そんなものが、手にした端末に、次々に、届いている。情報社会だから、何も、逃したくない、と思う人も、いるのだろうが、こんな塵の山に、一体全体、何の世話になろうと。
 これらの塵を、せっせと、届けているのも、媒体、と呼ばれる代物だ。参加者から、最近、届くのは、何やら、仕組みが変わり、何の役にも、立たないものが、どんどん届けられる。自分の行動が、反映されたもの、との解釈が、なされているが、身に覚えがなく、自分の考えが、崩壊したのか、とさえ、思えてくる、と書いてある。元々は、顧客への奉仕、という形で、様々に、工夫が凝らされた、仕組みが、届けられ、欲しい物が、突然、画面に現れて、驚いた、という話や、納得できる、話に触れられて、良かった、という話が、綴られてきた。しかし、人間の関与、ばかりでなく、人工知能が、無数に転がる、データを、分析した結果として、編み出された、新たな工夫は、どうにも、人間離れ、したもののようだ。深層心理、という言葉が、時々、使われるけれど、本人が、意識していない、所謂、意識下の欲望を、実現したもの、とでも、言われそうな、気配もあるが、どうだろうか。それより、真偽入り混じった、ものを、提示することで、こちらの心理さえ、操ろうとする、そんな動きを、懸念すべき、かも知れぬ。今や、老いも若きも、性別に関わらず、興味の対象は、手にした端末に、操られている、とさえ、思えてくるが、さて、この後に来る展開は、どんなものと、なるのだろう。といっても、こちらは、媒体も含め、様々に、情報収集、と言える程でなく、単に、目に触れるものに、色々と、注文や文句を、投げ返して、いるだけだが、素直に、信じ込む人には、怖い存在と、なり始めたのかも、だ。

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7月29日(水)

 何でも、媒体の責任、にするのはおかしい、と思う。だが、今の状況では、被害者意識に、取り憑かれた人達が、誤った認識を、吐露する場として、格好の機会を、提供するが、そこで得られる、同意の多くは、同様に、間違ったものであり、当人には、何の役にも立たない。
 中でも、攻撃性が、大きな問題を、生じている。誰彼なく、相手の言葉尻を、捉えて、それらを、批判することで、溜飲を下げる、という図式は、決して、生産性のある活動、とは言えぬ代物だ。何処の馬の骨、とも知れぬ人間が、鬱憤ばらしに、明け暮れるのは、無駄が、無駄になる、だけのことで、本人以外には、毒にも薬にも、ならぬものだろう。一方で、こういう過激発言を、煽る輩は、単なる愉快犯でしかなく、批判とも、論理とも、結び付かぬ連中だ。そんな人間が、活動の場を、見つけたから、今の賑やかさが、あるのかも、知れないが、現実には、何の役にも立たず、無駄なだけのものなら、余計なことは、しないほうがいい。一方、攻撃性については、責任ある立場でも、目に余るものが、あると言われ、これも、大きな問題と、言われている。ここでも、被害者意識が、双方向に、展開されており、何方も、自分こそ、被害者である、と言わんばかりの、主張が繰り返されるが、実際には、お互いに、加害者であり、意思の疎通が、円滑にできぬ、欠陥をもつ、人間なのだ。誰しも、子供の頃には、自己中心的な、考え方しか、できないもので、身勝手な論理を、展開することが、多くあるが、成長すれば、相互理解を保ち、全体を、より良くしよう、とする考えから、交渉を行う。その結果が、相互に、利益となることが、条件となるが、攻撃的な考え方では、そんなものは、投げ捨てられる。これでは、仕事も何も、進まぬままで、不利益ばかりが、残ってくるのだ。だが、そうなると、こういう人の多くは、囀りなどの、社会媒体で、不平不満を、吐露し始め、助言を、与える人より、単なる賛同を、得たいと願う。精神衛生上は、確かに、好ましいかもだが、業務などは、滞るだけで、何にもならない。

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7月28日(火)

 施しばかり、求める人には、対価は勿論、納税も、邪魔なものでしかなく、また、文化が、失われる話も、自分に無関係なら、全然気にならぬ、というものだ。愚民政治は、民衆の望むものを、与えることで、人気を集めるが、その最大欠陥は、税収不足だろう。
 だが、長く続いた不況が、いつの間にか、活況へと、転じた途端に、税収も増し、別の施しを、考えねばならぬ、事態となった。だったら、これまで、縮小の連鎖で、首が回らぬ事態に、陥ったものに、注ぎ込めば、と思うのは、的外れなのか。公的な施設の多くは、非常に厳しい状況に、追い込まれており、死に体とまで、言われてきた。そこに、追い討ちをかけたのは、自立化を、目指せという、大臣の方針だろう。だが、それらの施設が、公に運営される、意義は、何処にあるのか。短い任期しか、持たぬ大臣には、考える気配さえ、見えてこない。だが、国政に携わる限り、座っている間だけ、などという考えに、囚われていては、無能でしかなく、役立たずでしかない。少なくとも、予算を、増やせる状況に、変わりつつある中、国の在り方を、考えることなく、縮小ばかりを、口にするのは、愚かとしか、言いようが無い。その中、どう舵取りするのか、宰相をはじめとする、政権幹部の、思慮次第だが、今まで通りだと、期待薄となる。ただ、大学への予算確保は、随分と、違う様相となり、少しずつだが、正常化に向かうかも、という、淡い期待を、抱かされる。文化や教育は、国の在り方の、中核を為すもので、蔑ろにしては、滅びるしか無い、となってしまう。本当に、すべきことは、施しではなく、優先順位を、つけた上で、長い目で見て、支えるべきものに、予算を、注ぎ込むことだろう。こんな、当たり前のことを、敢えて書かねばならぬ程、今の世界の様子は、荒れ放題となっている。田畠を、耕すように、考えれば、すぐに分かることだろうに。

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7月27日(月)

「文化軽視の政治」の文言が、紙面に踊っていた。その見出しでは、「日本美術館」は不要か、との言葉もあり、政治への不信が、こういう面でも、進んでいる、と感じさせるものだ。確かに、文化という意味では、美術だけでなく、他の分野でも、強い圧力が、かかっている。
 ただ、記事では、何やら、美術品の価値を、競売での、落札価格で、表現した上で、それを、観覧する為に、世界各地の美術館を、訪問することが、紹介され、国ごとの事情の違いを、表に纏めていた。来館者数、収蔵品数、職員数などが、表示されていたが、本文も併せ、入館料に、一言も触れないのは、強い違和感が、残った。ちょっと、調べてみよう、とも思ったが、検索してみると、古い資料しかなく、世界的に、比較することが、重んじられず、ある意味、どうでもいい、かの如くに、扱われている、とさえ、思えてきた。また、料金については、ある貨幣に換算して、比較しても、各地の物価との、比較が落ちては、ほぼ無意味だけに、単純な比較は、難しいのだろう。それに、この記事の目的は、観光との関連もあり、身近な文化、との結びつきには、ほぼ触れていない。一方、政治不信の、原因の一つは、博物館も含めた、この手の施設の、自立に関する話だろう。これについては、監督官庁が、資料を掲げており、その中での、運営状況の数値は、何らかの意図で、纏められた、とも思えるが、会議自体の、議事要旨を眺めても、何も触れられておらず、意図を、読み取ることは、できない。こんな状況で、重要な会議が、進められるのかもだが、さて、文化に関する政策は、何方に向かうのか。納税者に対する、説明責任ばかり、問うてきた報道も、こういう形で、批判するのは、勝手だろうが、税金にせよ、入館料にせよ、何も、出したくない、と叫ぶ人々を、相手にしても、無駄に思える。享楽主義が、駄目だとは、言わないけれど、こういうものを、どう扱うべきかは、別の観点から、考えるべきかと。かつて、地方の旦那衆が、訪ねてきた、文化人を、支えてきた、と言われるが、その形では、それらが、民の目に、触れることが、無かった。それを、公の財産として、と見做すのなら、その対価は、人民が、担うべきかも、だ。