8月13日(木)

 国際協調は、何の為にあるのか。そんなことを、尋ねられたら、今なら、自分の為とか、自国の利益に、とか、そんな答えばかり、返ってきそうだ。だが、何事にも、自国中心に、考えていては、との考えから、この仕組みが、できたのではないか。今や、そんな話は、忘れ去られたのか。
 確かに、政治家が、有権者に対し、利益を振り撒く、という姿勢が、露骨になると、協調でさえ、彼方でもなく、相互でもない、自国中心で、考えることが、第一となる。今の、紛争地域の情勢は、互いに、自己主張を繰り返し、周囲を巻き込み、あらぬ方へと、向かっている、ようにさえ見える。その最中、協議を進める、との話が伝わっても、互いに、自国に有利な話のみ、伝えるのでは、話し合いなぞ、できる筈もない。その上、報道は、双方の不安定を、報じることに、専念するから、協議の内容どころか、その進展への、期待は、裏切られるばかり、と見えている。その中、結果的には、頑なに、主張を続けた勢力が、圧倒的な有利を、誇っている、と伝えるに至っては、もうお手上げなのだ。協調の為の、国際機関も、近年は、その存在意義さえ、失われつつある、とまで、言われており、強大な勢力を、有する国が、自国中心に動き、互いに、理解を進めるより、距離を置くことに、力を入れているから、どうにも、解決への道は、遠くなるばかりだ。ただ、当事国だけでなく、他の国々も、多くの要素で、関わらざるを得ない、状況に追い込まれており、このまま、未解決では、被害が、広がるだけ、とさえ思える。何か、妙案はないものか。こうなると、また、世界的な争いに、向かうしかないのか。そうなったら、戦争放棄を、謳っている国は、どう動くのか。不確かなことばかりで、何とも落ち着かないが、多分、このまま進み、何処かで、真の意味の、協議に入るしか、道は残っていない、と思える。楽観的に過ぎる、と言われそうだが、破壊と破滅にしか、向かわない道を、選ぶとは、思えないのだ。

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8月12日(水)

 兎に角、客観的な話が、聞きたい、と思うのだが、今の情報社会では、そんなものは、一欠片も、流れていない、のではないか。そんな話をすると、ずっと前は、大衆媒体が、それらを、操っていて、結果として、彼らの思惑が、反映された情報しか、流れていなかった、と返されそうだ。
 それは、その通りだろう。この国でも、戦時中は、その極端さが、際立っており、権力側が、流せと指示したものだけが、紙面や音声として、流布された。では、今の状態の方が、より適切だろうか。誰も、頷かないだろう。日々、手にした端末に、表示される情報も、今、面と向かっている、画面にも、そして、紙面や公共放送でさえ、全面的に、信頼がおける、と呼べるものは、一つも無い。だが、洪水のように、押し寄せる情報は、嘗てとは、明らかに異なる程、膨大なものとなり、一人ひとりには、目に触れぬものが、大部分となる。だったら、それらを、纏めて、情勢を示せば、間違いが、無くなるのでは、と思う人も、居るだろうが、これまでの、人為的な、纏めサイトの多くは、偏りを、一段と高めたもので、信頼度は、高まるどころか、地に堕ちた、と言われる程に、なっている。最近は、人の手を、煩わずとも、機械的に、そんな作業を、行う仕組みが、出来上がっており、人の思惑には、左右されず、もっと、均衡がとれたもの、となっている、と言われたりする。だが、現実には、とても、そんな評価が、できる代物とは、なっていない。理由は簡単で、捏造や嘘が、流される情報の、大部分であり、それに基づいて、纏めたとしても、まともなものが、出来上がる筈が、無いからなのだ。では、どうしたらいいのか。結局、情報の受け手が、自身で、取捨選択を、繰り返すしかない。それが、客観的と、呼べるものか、と尋ねられれば、即座に、否と答える、しかないだろう。だが、それでもなお、他人任せを、鵜呑みにするよりは、ましなことに、なりそうだ。でも、その手間が、との指摘には、所詮、それらの判断は、情報を、眺めつつできるから、大した手間は、かからない、とも言える。この点は、どうも、近年、理解できぬ人が、増えているようで、考えるとか、判断するとか、そんなことに、無駄な時間を、かけたくない、と訴えるのだ。ここに、大いなる誤解があり、そんな戯言を、信じるからこそ、何事も、鵜呑みにさせられる、事態が起きる。

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8月11日(火)

 情報社会の不思議は、山ほどあるに違いないが、囀り界隈では、両極端に属する、人間達が、蠢いていて、時に、啀み合っている。片方は、何事も、調べずには、済ませられぬ人で、その中で、垂れ流される情報を、一々確認する。もう一方は、その正反対に位置する、人間だ。
 こちらは、無知を、何とも感じず、ただ、そこで、相手となる人間を、罵倒し続ける。相手が、間違いを、指摘しても、その間違いは、実は、正しいことだ、と主張したり、指摘する人間が、非常識だと、決めつける。前者は、実害を、生じないが、後者は、ただ、そこに居るだけで、不快感を催し、時には、無視したり、排除したりすると、別の形で、追いかけてくる。迷惑に、思う人が大部分だが、そういう連中に、同調する輩が、登場するのも、あの世界の、特徴の一つかもだ。別に、無知を、恥じる必要は、無いのだが、でも、知らないことは、認めた方がいい、とは思う。と言っても、この手の人間に、かける言葉は、同調以外には、無いのかもだ。何か、意見をぶつけても、批判的なことを、投げかけても、いずれにしても、攻撃を受けた、と判断する限り、罵倒は止まらない。それにより、不快となる位なら、最初から、無視した方が、無難なのだろう。彼らの多くは、同調は、歓迎するが、異論は、全て排除するし、時には、そこに、暴力的な表現を、付け加えて、相手が、立ち去るまで、し続ける。まあ、それらの遣り取りが、何の役に、立つのかと、問われたら、何の役にも、と答えるしかない。のだったら、初めから、無視するのが、適切かも知れぬ。互いに、激昂するまで、論争を続けても、互いに、何の得も、得られないし、無駄な時間を、過ごすだけとなる。はじめに戻り、無知を、棚に上げる人々は、いつ頃からか、仮想空間に、溢れ始めたが、その原因は、何だろうか。幼い頃から、何の批判も受けず、叱責されることなく、育ったからなのか。それとも、仮想空間だからこそ、その逆の反応が、出てくるのか。答えは、見えてこない。そんな答えを、見つけても、何の役にも立たない、と言われるかもだが。

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8月10日(月)

 終活、という言葉が、いつの頃からか、盛んに、使われ始めた。当初は、従来の漢字変換しか、見当たらなかったが、今では、ごく普通に、表示される。それだけ、市民権を、得ているのだろうが、受け止め方は、人それぞれだろう。準備万端で、誰にも、迷惑をかけずに、との思惑も。
 確かに、人の死に伴う事柄には、普段とは、全く異なるものがあり、その為に、備えをする方が、良さそうにも、見える。だが、その一方で、死は、予期せぬもので、いつ何時、降りかかるか、分からぬ場合も、多くある。老後、と呼ばれる期間に、入ってしまえば、誰もが、そろそろ、と思い描くだろうが、時に、そんな所まで、寿命が延びぬ場合も、あるだろう。そんな、一種突然の死は、致し方ないものの、高齢となり、そろそろお迎えが、と思い始めると、世間で、騒がしくする、終活というものにも、目が向くのだろう。そこに、様々な手続きや、商売が、提示されると、途端に、心穏やかには、居られなくなる、という人も、居るのだろう。となると、ここでも、情報の収集が、肝心との意見が、出てきて、また、面倒を、背負い込むことに、なるのだ。所詮、商売だから、と思えば、適当に、考えれば、という思いも、過ぎるのだろうが、その途端に、そんなことでは、後で困る、などと、厳しい批判が、浴びせられる。それもまた、適当に、無視すればいい、との思いなら、まあ、大したことも、起こらずに済むが、しかし、世の中、そんなに甘くはない。商売人どころか、今や、役所まで、乗り出してきて、色々と、様々に、口出しされる。家族が居れば、それで安心、などと言えぬ、状況さえ、起きかねない。まあ、自分の人生が、終わってしまえば、それで幕切れ、と思えば、どうということも、ないのだろうが、周囲が許さねば、そうも行かなくなる。どうしたものか、と思い始めたら、思う壺だ。生きている間、精々、楽しめば、と思っておけば、またぞろの、懸念や心配も、起こらずに済ませる、のだが。