放送作家なる職業が、未だに存在しているかどうかは分からない。同じような職業があることは確かだろうが、呼び名がそのままかが怪しい。音声しか伝達手法がなかった時代から、そこに画像が加えられて、様相は一変した。それまで館と名の付く所へ出かけねばならなかったのが、家庭で事が済むことになったのだ。
その頃、一世を風靡した人々は、かなりの高齢となり、鬼籍には入る人ばかりとなった。それでも、中には久し振りに画面に現れる人も居て、懐かしい思いで眺めた人々も居たのではないか。彼らは、新しい方式に乗せるために、様々な工夫を施し、新たな市場を開拓していった。その途上では、無理を通すことが多かったろうし、主義主張も重要となっていたのだろう。同じ場に居合わせた老俳優と老司会者も、同様の状況であり、従来とは異なるやり方を編み出し、引っ張りだこになっていた。ただ、今になって冷静に眺めてみると、彼らの様子が少し理解できるような気がしてくる。つまり、勝手気儘に振る舞っているように見えたものが、その実、状況を把握した上で、相手の望むものを上手く導き出す、そんな手法を用いていたような気がするのだ。当時は、自分の思うことばかりを通しているように見えたが、彼らの話しぶりを見ていると、他の年寄りにはない行動様式が見えてくる。それは、相手の話を聞いた上で、自分の思うことを話すという、ごく普通の遣り取りが成立していたためだ。若く、自信がない頃には、人のいうことに従ってばかり居た人が、年を重ねるに従い、勝手気儘に振る舞い、他人に対する気遣いを忘れる、という一般大衆とは違い、画面の向こうにいる年寄り達は、互いに話を合わせ、そこから何かを引き出そうとする。この大きな違いに、若い世代が何かを学ぶことがあるか。残念だが、期待薄である。
今更、性善説などと書くと、それだけで、何を惚けたことを、と言われそうだ。自分の周囲を見回してみても、善人と思える人の数の方が圧倒的に少なく、何やら良からぬことを考えているとしか思えない人ばかりである。これを嘆くべきかどうかは別にして、その現実を受け容れることが重要なのだろう。
受け容れるとは、諦めるという意味ではない。現実として認めることで、非現実的な夢を追うのを止めるのである。こういう人々が居るのは当然として、それに対して何らかの対処をするわけで、何もしないというのでも、投げ出すというのでも、どちらでもないわけだ。自分たちの都合しか考えない人間が、恰も、相手のことに配慮しているような言動を繰り返したとしても、その中身は空でしかない。ただ、自分に有利になるように、言葉を弄しているだけのことである。嘘を吐くとか、誤魔化すとか、そんな行為自体を批判するのではなく、そこにどんな思惑が隠されているか、そんなことにこそ問題があるわけだ。こんな連中の動きを眺めていると、大変面白いことが分かってくる。狭量な人間によく見られることだが、自分の考え方しか思いつかず、相手も同じことをしていると思い込むのである。だから、思惑に満ちた言動を繰り返す人は、相手も同じことをすると信じ、それを基に解釈する。こちらが全く違った意図を持って発言したとしても、彼らは、自分と同じように自分のことしか考えない人間の発言と受け取り、言葉の裏に隠された思惑を読み取ろうとする。そこに純粋な動機がある場合、困惑するというよりも、受け容れがたいという拒否反応が引き起こされる。自らの愚かさを露呈する行動も、本人は熟慮の末の戦略と見ているらしい。
いつ頃から、智慧を使えない人間が増え、目立つようになったのか。と尋ねれば、昔からという答えが、何処かから返ってきそうな気がする。野次馬とか井戸端会議などという言葉が使われた時代があったから、そんなことは以前から日常現象として知られていたのかもしれない。だが、それは巷でのことだ。
火事の現場、事件の現場で、惹きつけられた人々が、根も葉もない噂話を交換する。少し考えれば奇想天外なことも、そこではまことしやかに伝えられる。これは、庶民の集まる場所に限られた話だった。最近の傾向は、全く異なる場所で同じかそれ以下の事が起きているのだ。事件が起こる度に、その分析にしゃしゃり出て、その真相には無関係な持論を展開する。こんな人間は、昔から掃いて捨てるほど居たのだが、そんな人間を、識者として祭り上げ、重用する組織にこそ問題がある。報道機関では、以前は最低限の良識が保たれていたものの、最近はそれさえも捨ててしまったらしい。本当に大切なことは、十分な情報収集に基づき、正確な分析を施した上での総括だが、野次馬が画面に登場したかのような、訳の分からぬ嘘八百のてんこ盛りとなる。今、南の方で深刻化している、偶蹄類特有の伝染病についても、対策を講じることこそが重要なのに、初動対応の拙さばかりを批判する人々が居る。こんなことは、全てが片付いてから総括すれば済むのに、肝心なことを考える力を持たない人々は、次々に悪者を作り出そうと躍起になる。智慧がないと思えるのはその瞬間であり、彼らの無能ぶりは、この騒ぎが終息したあとにこそ露呈する。将来への備えを議論すべき時に、こういう連中は次の標的探しに明け暮れるのだ。権力を持つ人間も、一般大衆も、類は友を呼ぶ、とでもいったところか。
様々な臭いに悩まされる人が増えているのは、消臭剤の広告が盛んに流されていることからも理解できる。だが、不快な臭いという感覚は、何を基準として決まっているのか、定かでないように思える。快不快の感覚は個人差が大きく、特に嗅覚は適応が早い感覚の一つとして知られているから、解決は難しいだろう。
快適な臭いがあるかどうかは知らないが、体臭を消す作用として使われたものが、誘惑に関係するとなれば、何かしらの関連がありそうだ。その一方で、様々な薬剤が独特の臭いを発し、気分を害することもある。新築の住宅で、独特の溶剤臭に悩まされた人が、以前は多くいたようだが、最近は直接的な害が指摘され、使用を制限されている。水に溶けない材料を使う場合に、油かそれに代わる液体を使うが、その多くは石油を原料としている。燃料の独特の臭いも、そのものの臭いなのか、それとも、注意を促すためにつけられた臭いなのか分からないが、あまり気持ちの良いものではない。だが、その類のものに接する機会は少なく、大した影響を受けることもない。だが、身に付けるものとなると話は違う。衣服を洗濯業者に出す人は多いだろうが、その多くが石油系の溶剤を使う。水を使うのとの違いを示すために、ドライなどという言葉が使われるが、揮発性なので残留していると、独特の臭いが衣服から発せられる。慣れてしまえばと、そういう職場で働く人は言うようだが、不快感はかなり強い。ネット上の相談では、部屋に吊しておけば消えるとの助言もあるが、それで充満した室内の臭いはどうなるのか。いずれにしても、業者がきちんとした処理を施せば防げることだ。以前取り上げたレストランの印刷物の臭いと同様に、人の感覚の違いを感じさせられる。
情報が重要と言われてから久しいが、玉石混淆の状態は酷くなるばかりのようだ。報道機関が全てを握っていた時代には、操作を行うにしても、その背景や黒幕が見え隠れしたものだが、誰もが参加できる時代となり、匿名性ばかりが重視されるに伴い、極端に偏向した情報を、意図的に流す人々が増えてきた。
ここでの問題は騙りのことであり、信頼できる筋との報道でも、それなりの組織背景が見えていたものが、何処の馬の骨か分からない状態で、衆目に曝されることとなる。正体を隠しながら、他人のふりをして、自分や属する組織に有利になるように、情報を操作することも可能である。最近の典型的な例は、あるサービスの中で、読者の意見を掲示する仕組みが採り入れられたが、以前のような愉快犯でなく、ある意図を持って操作しようとする、余りに露骨な投稿が繰り返されるものだ。賛否の投票がそれに加わり、そこに更なる操作を加えれば、如何にも世論がそちらに傾いているかの如くの図式を作れる。報道機関が同様のことをしていることは、よく知られているところだが、少なくとも、そこには正体を露出することに関する違いがある。馬鹿げた事件として、昔取り上げられたものに、この手の投稿を職場から繰り返した人物に関するものがあり、業務に関する守秘義務や職務専念義務などに違反しているとの指摘があった。現在出回っている意見に、どれだけの真面目で、自分自身のものがあるのか、知る由もないところだが、こんな穿った見方をすれば、折角の情報提供の場も、汚されたものとなる。人間性の堕落が招いた結果と言ってしまえばそれまでだが、現実の問題は、そんな根も葉もないものまで信じ込む、無垢と称される、無知にあるのだ。
様々なところで、評価を下す作業が行われているが、何処か違和感を覚えることが多い。元々、そういった作業を好まず、私情を差し挟まぬ決定に馴染まぬ国民性は、どちらの立場に立ったとしても、不満だけが残ることとなる。にも拘わらず、この作業を繰り返さなくてはならないのは、何故か、理解できぬ。
評価は、次の段階に進むためには、避けられない一歩である。総括という言葉は、別の意味で使われた時代があり、忌み嫌われている部分があるが、評価も、その重要性の割には、嫌われ者の一つになるだろう。前例を踏襲し、大きな変化を免れようとする気質は、昔から持ち続けられてきたものであり、それで大した問題も生じなかった。しかし、国内問題とするだけで、触れる必要がなかった時代と異なり、今や、国の境もなく、互いの伝統さえ、場合によっては捨て去らざるを得ない状況になる。そんな中で、自分も含めて組織自体の評価を、自らの力で下そうというのは、とても難しいばかりか、外から入り込んできた連中が、委細構わず、厳しい評価を下すに至っては、堪えられないという気持ちになるらしい。だが、それまでに積み上げてきた成果が、十分に評価に値するものであれば、それ自体を恐れる必要はないはずである。問題は、評価の形式として、まるで収益を追求し続ける企業のように、短期の成果を対象とする点にある。前例の踏襲と変化を避けるという形式も、実際には、長い時間を経過すれば、その結果は見えてくるのが当然だし、逆の見方をすれば、長期の成果の評価を重視していると言える。それが、表舞台に評価が登場し、速効性で即席の成果が重視されるようになった。この状況は、本来の姿が歪み、正当なものとは言えないのではないだろうか。
微笑みの国の情勢が混迷を極めている。立憲君主制をしく国は、これまで問題が起こる度に、君主の一声で全てが収められてきた。高齢の為とも伝えられるが、一方で、今回の騒動の原因を眺めるに、これまでとはかなり事情の異なる背景があり、鶴の一声が効果を及ぼすか、少々怪しい気配もある。
政の中心となる人物の不正は、多くの国で問題となるが、これ程極端な結果に繋がるところも少ない。それはつまり、その規模が明確にならないほど大きいことや、人事における不正より、経済的な悪影響の方が遙かに大きかったことである。これ程偏った状況が生まれれば、それによって得られる利益は、誰につくかで大きく異なることとなり、その根が地底深くまで張り巡らされた結果、これまでに何度も繰り返されてきたように、外から見たら、何とも理解不能な事件が起こされた。主義主張の問題は、会議の机の上で解決の糸口を見つけることもできるだろうが、それぞれの利益が無に帰するかどうかがかかる問題は、議論の余地が見出せず、強硬手段に訴えるしかないのだろう。強欲を戒める宗教の影響さえ、それにどっぷりと浸かってしまった連中には、及ぶ筈もない。権益を握る人間は、おそらく前線に立つことはなく、後の方から支援という名の指令を飛ばすのみだろう。白黒でなく、別の色だったと思うが、そういう区別が明確になるほどの状況は、ある意味、異常にしか思えないが、そこに「金」の存在を繋げると、一変に理解し易くなるのではないだろうか。国民性はどうであれ、発展途上の国では、貧富の差は広がるばかりとなる。その事情を無視して、状況を理解しようとするのは、無駄なことであり、組織を含め、どんな構図が築かれたのか探した上で、外から眺める必要があるのだろう。