パンチの独り言
思いつきを書きつづったものです。ご意見はメールでお願いします

(since 2002/4/3)

[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



5月19日(日)

 社会媒体への歓迎は、弱者からのものが多い、と聞く。が、本当だろうか。面と向かって、意見が言えない人にとり、端末から発信する意見は、誰に気兼ねすることなく、好き放題にできる。だから、気が弱い人間にとり、これ程有り難いものは無い、というのだけれども。
 確かに、権力も持たず、財力の無い人間には、人間としての権利が、与えられていない、と感じる人が多い。けれど、そうしているのは、誰なのか。虐げられている、とか、差別されている、とか、そんな意見は、数多あるものの、その内容を、詳しく尋ねてみると、強い違和感が残る。そこには、一方的な考えで、自らの不幸が、周囲の責任だと、断定しようとする姿勢が、露呈するからだ。皆がそうだと言えば、常に、反論が返ってくる。本当に、不幸な人間が居り、彼らは、常に虐げられ、常に差別されて、暮らしていると。でも、と思うのは、こちらが、何の苦労も知らず、何の圧力も受けていない、からだろうか。それは違うだろう。誰もが、何らかの苦労を背負い込み、何らかの圧力を受けている。その中で、自分なりの努力を重ね、小さいながらも、成功を手にする。それによって、何かしらの達成感を、得てきたのだ。では、弱者を、自称する人々はどうか。これも全てに当てはまる訳ではないが、何かを手に入れても、それに満足せず、もっと大きいものが欲しい、と主張する。それ自体は、何も悪いことではないが、その一方で、努力はどうだろうか。更なる努力が必要、となった途端に、それを差別と称し、自分には、その権利がある筈なのに、与えられないと主張する。勝手にすればいい、と思うのだが、今の世の中は、こういう人々に対して、何かの施しをしようとする。それが、どんな結果に結び付くのか、与えようとする人間は、殆ど理解せぬままに。というより、施しを提案する人間の多くは、自分ではなく、社会や組織に、それを求めている。何様、と思うのは、自然なことだ。

* * * * * * * *

5月18日(土)

 経済新聞の夕刊には、著名人の随筆のようなものが、掲載されている。ある小説家の文には、老人の集団自決で、炎上した人物の話が、紹介されていたが、件の人物は、海の向こうで、学者をやっているようだが、発言の内容は、常に、思慮も配慮も無い、代物だけに、当然の帰結か。
 報道の劣化に従い、有識者と呼ばれ、画面に登場する人物の劣化も、目に余るものとなっている。この事例も、その一つだろうが、理解に苦しむのは、そんな非常識な人を崇め奉り、茶の間へと送り込む、公共電波の濫用だ。白亜の塔だか、何だか知らぬが、学問を究めた、と思しき人物が、人格者である必要など、微塵も無い。にも拘らず、意見を伺うことに、価値があるかの如く、専門外のことにまで、及ぶのには呆れるしかない。仮令、それなりの常識を、持ち合わせたとしても、所詮、彼らの意見は、庶民と同等のものでしかなく、単に、円滑な話しぶりから、納得させられたような、気になるだけのことだ。逆に言えば、炎上の価値さえ無く、相手をする必要も無い。まあ、そんな話に、小説家は、心乱されたのだろう。一方、この手の話題では、ここでも取り上げたかも知れないが、「PLAN 75」という映画で、国が老人達の運命を、決定する話があった。確かに、社会問題として、取り上げるべき内容、かも知れないが、映画は、煮え切らぬままに、終わりを迎えて、期待外れとなった。新人監督の力量では、仕立て上げるのも、無理だったのだろうが、人間の死については、常に、困難な問題がつきまとう。姨捨山の話で、昔から扱われており、どの問題を、扱うべきかについても、決め切れない話だ。とは言え、極端な意見は、炎上の対象となり、それ見たことかと、飛び付く人も多い。尊厳を論じる一方で、無駄や効率を、引き合いに出すことに、どれ程の意味が、あるのかと思える。所詮、人の命は、その人間のものだが、だとしても、その人間が、決めるべきとは言えぬ。運命なのだから。

* * * * * * * *

5月17日(金)

 これも、社会媒体の弊害、と訴える人が居るが、実は、ずっと前からあったことだ。科学的、という衣を纏った、言説の数々である。四半世紀程前には、「とんでも」などと揶揄されたが、更に、1世紀より昔に、国の内外で、その類いの話が流布され、学者を巻き込んだ、騒動となった。
 この傾向は、社会情勢が、何方に傾いても、起こり得る。政情不安から、心配や不安が、巷に溢れる中、それらを煽る言説が、実しやかに語られ、振り回された挙句に、損失を被る人まで出る。一方、安定した時代には、正反対の状況だが、逆に、何も心配なことが無く、却って、安閑とすることで、物事を、吟味する力を失い、底の浅い言説に、まんまと騙される。人間の心理とは、何と脆いものか、と思えるのだが、その一方で、知識や知恵が、その弱さを補うことに、気付かぬ人の何と多いこと。地震などの災害が、起こる度に、持ち出される陰謀説や、荒唐無稽な説明に、常識的な判断力を、有する人々は、一笑に付すのだが、そうでない人々は、昔なら、井戸端会議で、今なら、社会媒体で、となっている。先日も、太陽の活動が、高まっていることで、様々な現象が、引き起こされる、との説明の中に、電磁波の影響で、オーロラが各地で観測され、という話があったが、それ自体は、何の不思議もない話だ。ところが、そこに、突如として、人間への影響を、論じる話が登場する。曰く、眠気を誘われるのは、電磁波の影響だ、とか、人間の行動が、異常を来すのは、その影響だ、とか。なら、手にした端末で、自分が日々行なっているのは、何か、との問いをしようものなら、人によっては、だから、あの端末から発せられるもので、脳が沸騰して、としかねない。いやはや何とも、と思うのだが、この風潮が、鎮まることは、人間が関わる以上、あり得そうにない。何故、そんなことが、と思うよりは、それが、当たり前なのだが、中身は、そうではない、と思うべきか、と。

* * * * * * * *

5月16日(木)

 報道は信用ならん、との風潮が強まっている。確かに、公共の電波や、公共性の強い新聞では、保守的、防御的にならざるを得ず、煮え切らぬ内容に、痺れを切らす向きもある。それに対して、手にした端末に届く、社会媒体の多くは、過激な意見が多く、一刀両断の内容に、胸がすく。
 確かに、そんな面もあるが、害も多い。極端な意見に、賛同した人々が、過激な言動に出て、社会問題を引き起こす。まるで、百年前の大震災後の、異常行動のようで、集団心理の欠陥は、今も昔も変わっていない。歯止めの必要性が、論じられた結果、発言者や扇動者だけでなく、媒体を運営する、仲介者の責任も、問われるようになった。自由こそが、正確な情報伝達に、不可欠なものとの意見が、多くあるものの、一方で、過激に走る群衆は、吟味力を有さず、暴走を繰り返すものだ。そこに、新たな問題が生じ、偽の広告に、踊らされた人々が、金銭的被害に遭う事件が、度々起きた。広告の主役が、著名人であることで、儲け話に飛び付いた人々は、その人物が、巨万の富を築いたことと、結び付けたのだ。結果、多くの金が雲散霧消し、詐欺集団は、姿を晦ました。被害者の訴えだけでなく、名を騙られた人物が、媒体の運営会社を訴えたのは、当然のことだろう。だが、件の企業らは、相変わらずの調子で、責任逃れに走ろうとする。元々、濡れ手に粟の如く、媒体は登場当初から、急速な成長を遂げ、企業戦略の成功例として、紹介されるだけでなく、追随するものが続出した。だが、広告に対する責任を、問われ始めたことで、図式は大きく狂い、迷走を始めたようだ。自己責任を掲げ、判断を利用者に任せ、仲介するものへの、責任を果たさぬままに、収益を上げてきたが、集団心理の話同様に、ここでも、群衆の判断は不確かで、他人任せでしかない。旧来の媒体同様に、掲載するものへの責任を、果たす為の手間は、掛けねばならぬだろう。ぼろ儲けの時代は、長くは続かぬものだ。

* * * * * * * *

5月15日(水)

 物事を、批判的に捉えることは、論理を構築する上でも、自分の考えを纏める上でも、不可欠のものだろう。だが、相手の意見に対し、一々、問題点や疑問点を、指摘することは、面倒なだけでなく、相手の印象を、悪くするのでは、と心配する人が多い。誰も、嫌われたくないのだ。
 一見、正しい主張のように見えるが、その実、この考え方には、重大な欠陥がある。意見交換において、互いの主張の問題点を指摘したり、疑問を質したりすることは、当然の作業であり、それなくしては、交換など起こり得ない。にも拘らず、好悪の問題を、最優先に考えねばならないのは、明らかに、基本となるものが、抜け落ちているのだ。互いに、議論を戦わせた時も、まるで、喧嘩の遣り取りのように、受け止める人が居るが、彼らは、意見交換の基本どころか、互いに尊重し合う基本を、全く理解していない。子供の頃なら、仕方ない部分もあると言われるが、子供とて、自分中心の考えを、徐々に、変貌させる必要があり、その途上にあるのだから、こういう変化を、受け止める為の、心の成長が促されるべきだ。その上で、本人が、必要性を自覚し、成長へと繋げることで、徐々に、準備が整っていく。この過程で、様々な障害が生じたり、紆余曲折があったりするのは、当然のことで、それを克服しなければ、人間社会の一員として、役割を果たすことも、難しくなる。ただ、周囲を見渡してみると、こんなことが、できないままに、育ってきた人間が、一杯居ることに気付く。彼らを相手にすると、何故、こちらを忌み嫌うのか、不思議で仕方ないが、おそらく、その原因は、この点における、未発達にあるのだろう。いい大人となってしまうと、この点を修正することは、ほぼ不可能となる。本人が、余程痛い目に遭わぬ限り、何の変化も起きず、ただただ、こちらをどう貶めようかと、躍起になるだけだ。面倒は、まさにその点にあり、放置しても、無視しても、始まらない。さて。

* * * * * * * *

5月14日(火)

 カスハラ、カタカナ語も、短縮形も、好ましいと思えず、嫌悪さえ催すが、この所話題となっている。内容は、何度も指摘するように、ハラスメントなる定義が、相も変わらず、曖昧なばかりか、一方的な主張に、辟易とするばかりだ。という意味では、他と同じ、ということだ。
 ただ、その背景として、殆ど指摘されないが、全く異なる背景がある、と思う。元々、店に行くと、そこで交わされる言葉に、強い違和感を覚えており、その指摘は、枚挙に遑がない程だ。慇懃無礼な言葉遣いに、不快と感じる客は、多数居るに違いない。その原因は、と考えると、まさか、と思えてくるのだが、はじめに挙げた言葉が、あるのかも知れない。虐められるから、それを避けようとして、馬鹿丁寧な言葉を発し、常識的な人々から、顰蹙を買う。これもまた、現代社会の馬鹿さ加減を、表す指標なのかも、と思える。一方で、相手の低姿勢に乗じて、声高に主張を続け、事件に発展した、という話が、こんな言葉が、市民権を得ようとする、強い力となったのだろう。ただ、こんな茶番に、社会全体が、振り回されるのは、如何なものかと思う。それより何より、まずは、互いの立場を弁えて、使うべき言葉を選び、互いに、気持ちよく過ごせるよう、心掛けるべきではないか。先日も、役所に類する所の人間から、耳を疑う言葉が、発せられた。年金に関わる所では、それが、住民全体による、支え合いで保たれている、との認識から、関係する人々に対して、懇切丁寧な説明が、必要との声がある。それ自体は、何も間違っていないが、だからと言って、相手に対して、「お客様」と呼び掛けるのは、何だろうか。客は、一般に、商店を訪れ、商品を購入する人間を、指している。だとしたら、年金は、商品なのだろうか。それを、購入して、老後の資金を、確保するという考え方は、資産運用なら、理解可能だが、これは、国を挙げての制度なのだ。何を言いたいのだろうか?

* * * * * * * *

5月13日(月)

 先週、炎上云々と書いたが、何も起きなかった。今、検索してみても、新しいものは見当たらない。まあ、仮想空間の、こんなうら寂しい所に、訪問する人の数は、数える程だから、反応が無くて当然かもだが、どうだろうか。読んだ人が、どんな感想を持ったのか、伺いたいものだ。
 常識的には、あの騒動は、早晩忘れ去られる。兎に角、批判の矛先が、的を外すどころか、正反対に、矢を放ったようなものだからだ。ふと思ったのは、あれはまるで、天に唾するかの如く、批判者共が、自分達の頭に、戻ってくるように、放ったのかも、ということだ。報道、中でも、電波を使う連中は、何かと、視聴率を気にするらしい。広告主に、喜ばれる為には、どれだけの人間が、その広告を眺めたかが、肝心だからだろう。全国放送では、同じ時刻に、同じ広告が、流されるとは限らず、各地方で、異なるものが、流される。となれば、時刻合わせは、重要であり、出演者が、話し続けていても、途中で打ち切られることは、当然とばかりに起きる。音声機器のスイッチを、切るという行為は、まさに、それと同じだろう。出演料を、払うべき相手ならば、少しは理解されようが、世間に訴えたいと、出てきた人間には、十分な時間を与えないと、許されないかも、という事態も起き得る。だが、実際には、どうだろう。その場で、少しの言い訳でも、するのならまだしも、触れることなく、別の番組に移り、知らぬ顔もあるだろう。どこが、どう違うのか。基本は、同じことだ。与えられた時間内に、如何に効率よく訴えるか、が全てであり、最低限の約束を、守れぬ人間には、権利主張は、許されぬものだろう。ただそれだけのことに、一時的とは言え、躍起になったふりをして、正義の味方を演じるのは、どれ程馬鹿げたことか。今の社会媒体の風潮は、その位劣悪なもので、乗せる方も、乗る方も、大概にせよ、と言いたくなる。今度は、炎上してしまうだろうか。

* * * * * * * *

5月12日(日)

 物の値段は、どう決まるのか。経済の原則からすれば、需要と供給により、と言われたのだが、今の状況は、どうだろうか。世界的に、不安定な時代となり、その駆け引きの中で、需要の均衡が崩れ、供給も安定しない。だから、物の値段が上がる、という説明は、納得できるか。
 そう言われれば、と思える時もあるが、必ずしも、当てはまらない時もあり、首を傾げてしまう。でも、と思うのは、あらゆる物が、世界中から集められ、それを使って生活する、という図式では、確かに、そんなこともあるし、今の不安定が、そこに影響を及ぼすのも、何となく理解できる。だが、地産地消はどうか。国内の賃金が、ある程度抑えられ、それが元なのか、逆の繋がりなのか、兎に角、それとの関係で、値段も抑えられてきた。だが、地産地消と雖も、全てを自分達で作ることは、難しい。例えば、燃料は、その典型であり、石油に関連するものは、ほぼ全てが輸入となるから、このご時世には、高騰を続けてしまう。輸送は当然だが、電気やガスも、同じこととなり、値上げは止むを得ない、と言われる。ただ、だからと言って、今の調子で、どんどん値上げが続くと、多分、皆の生活は、厳しくなるばかりだ。だから、賃上げを始めた、とされるものの、実質としては、物の値上がりに追いつかず、厳しさは、収まる気配を見せない。だからこそ、節約を進めるのだ、と相変わらずの論調も、あるにはあるが、果たして、この考え方は正しいのか。これもまた、経済に纏わる話だけに、簡単には、答えを導き出せない。でも、と思うのは、その割には、皆、それなりの生活を続けている。だとしたら、まだ、余裕があるのでは、と思うのだ。その上で、節約とか、世知辛くとか、そんなことより、必要なものを、必要なだけ、手に入れるようにすれば、然程心配する必要は、ないのでは、と思っている。厳しいからと、施しを欲したり、ただに飛び付いたり、それには至っていないようだ。

* * * * * * * *

5月11日(土)

 最近、見知らぬ番号からの、突然の電話に驚いた人が、多いそうだ。よく知られるように、それらは、十中八九、詐欺とのことで、前にも書いたが、警察や役所は、その周知に精を出している。まさか、と思う人も居るが、つい先日、掛かってきた電話は、まさにそれだった。
 表示された番号は、+29323063122とあり、慣れた人なら、国際電話と思うだろう。だが、冒頭にある国番号は、該当する国が無く、何かしらの方法で、捏造されたものだ。流れた音声は、まず、「入国管理局です」とあり、その後、突如として、外国語、おそらくは中国語に変わり、まくしたてて終わる。これが、数回続いた後、突然、切れるという具合だ。検索してみると、沢山のサイトが紹介されるが、一部には、別の詐欺と関わるものもあり、注意を要する。役所のものならば、ということで、紹介しておくが、数年前から始まり、使用する言語から、その国からの在留者を、対象とした詐欺行為、ということだろう。にしても、相手も選ばずに、何をするのか、と思うのは、平和な国に暮らす人間が、考えることだ。数打ちゃ当たる、とばかりに、出鱈目に発信しても、無料電話となれば、何の経費も掛かるまい。騙された、善良な(?)人間から、少しの額でも、巻き上げれば、濡れ手に粟となる。にしても、どうしたことか、と思うこと頻り。裁判所からの通告とか、税務署からの通知とか、果ては、外国人を相手にして、出入国管理局からの通告とか、そんなものの多くは、覚えの無い人間には、何の意味もなさない、と思うのは、昔のことかも。不安や心配を、連日のように煽られ、社会への信頼を、失った人間には、儲け話も、犯罪に関わった話も、何方にしても、放っておくことが、できなくなるようだ。脛に疵となれば、尚更のこと、慌てて反応するのも、やむを得ない、となるのかもだ。それにしても、嫌な時代となった。あらゆる国で、同じことが、起きているのだから。

* * * * * * * *

5月10日(金)

 平日の早朝には、朝の経済番組が、放映される。報道の質の低下は、何度取り上げても、足りないと思うが、その中で、少しはましな情報を、発信している方だ。ただ、その中で、専門家によっては、何を言いたいのか、的外れな意見ばかりで、聞くに耐えないものもある。
 一般に、経済学者も、経済の専門家も、評論家でさえ、どちらかと言えば、結果が見えてから、意見を出す場合が多く、相場の常として、必要となる筈の、見通しや見解を、述べる人は少ない。元々、経済活動が、予測不能なものであり、そこには、理論が成立しない、という理解があったからだが、それにしても、後出しジャンケンは、感心しない。ここ暫くの間、何度か取り上げた話題に、為替の変動の話があるが、それについても、盛んに議論したり、評論したりするものの、核心を捉えることは、殆ど無いに等しい。報道が、盛んに喧伝するように、確かに、それが、外国人観光客の増加に、繋がっているのかも知れないが、実際には、彼らが、安いと思っている理由には、円安ではなく、単に、物価の違いによるものが多く、それを、いつまでも、為替の問題として、取り上げる姿勢には、呆れてしまう。ただ、この経済番組の面白さは、週末に出てくる、お笑いが生業の、外国人の意見が、斬新であることにある。彼の政治に対する考えは、海の向こうの混乱の、一つの要因を、垣間見せてくれるが、それとは別に、今回も、問題の本質を、捉えていると思える意見を、述べていた。要するに、収入の違いが、外国人の購買意欲と、国内に住む人々の、節約志向の違いに、現れているというものだ。まさに、その点が、重要な筈であり、安物買いを常とする、風潮が長く続いたことで、収入が上昇せず、外国との格差が、広がったことこそが、問題の核心にある、ということなのだ。素人考えなどと、甘く見てはいけない。経済に関しては、全員が素人なのだろうから。

* * * * * * * *

5月9日(木)

 やはり、と思っただろうか。実情を訴える被害者代表に対し、権力側が取った措置に関して、弱者に寄り添う姿勢を見せる、報道がとった姿勢は、権力への徹底批判だった。報道や権力が、示したものを、やはりと思ったか、という意味とは限らず、別の「やはり」があると思う。
 確かに、強硬手段に出たことには、厳しい批判の声が飛ぶのは、当然に思える。だが、そこで示された、背景について、何の見解も示さず、一方的に加担するのは、どうかと思うのだ。被害を受けた人々が、直接、窮状を訴えたいとして、設けられた席だったろうが、不十分なままに、権力の横暴に晒された、との意見が大勢であり、ここで書くことは、まさに炎上の材料とも思える。が、限られた時間の中で、如何に訴えるかは、多くの人にとって、日常起こり得る話である。確かに、3分とは、短過ぎると思えるかもだが、互いの都合の中での、設定だったとしたら、話す側にも、責任があったと見るべきだろう。にも拘らず、ある意味、予想通りとしても、話し続ける人物に対し、予定通りの要請が、なされた上のことに、仮令、それが過激だったとしても、その行為のみを、糾弾する姿勢は、ここで何度も取り上げてきた、弱者保護の典型としか、思えて来ない。3分が、短過ぎるとしても、そこに集まった全員にとって、貴重な時間であり、それが、全員分の時間となれば、かなりのものだ。事前に、知らされており、その為の準備をするのは、機会を与えられた人間に、課されたものであり、老齢だからとか、被害の大きさを考えてとか、そんな事情から、許されるべきものではない。そんなことを、すぐに考える人間には、今回の話も、また起きたか、という意味での、「やはり」なのだ。その上で、一時の怒りに任せて、担当者の処分や、大臣の責任を、追及するのは、如何なものか。正義の味方を、気取るのも、と思ったりもするが、これがまた、炎上騒ぎになると、面倒には違いない。

* * * * * * * *

5月8日(水)

 新制度が始まり、それと共に始めた人も居ただろう。折良く、市場が活況となり、明るい将来を、描いた人が居たかも知れない。しかし、その後、様々に解説されるが、解せぬままに、相場は下がり続けた。話が違う、と思った人が、居るかも知れないが、まさに、これが自己責任なのだ。
 物価が上昇し続ければ、貨幣価値が下落し、そのまま持ち続けるのは、勿論のこと、仮令預けたとしても、今の利率では、目減りを止めることは、不可能と言われる。だからこそ、上昇率を、上回るような割合で、増え続ける筈のものに、投資するのが最善、との話だった。それも、儲かったものにさえ、税がかからぬとなれば、尚のこと、と思えていたが、現実は、甘くはなかったようだ。と、ここで、終わりにすれば、損をしただけ、となる。だが、多くの人々が、注ぎ込んだ先は、単純な、ある銘柄への投資ではなく、投資信託と呼ばれる、ある専門家集団が、決めた割合で、多種多様な銘柄に、投資するものであり、それも、一般には、短期で打ち切るのではなく、長期に渡るものだから、今、調子が悪くなったからと言って、すぐに辞める、とはいかないものだ。その上、少額で済むからと、積立という形で、始めた人にとっては、それが、ある額に達するまでは、仮令少額と雖も、続ける必要がある。まあ、これ以上の損失は、と思ったら、解約という方法が、あるにはあるが、それでは、更なる損失が、嵩むだけとなる。だから、続けるべき、という話ではない。相場の世界では、損切りは、一つの有用な手法であり、更なる損失を、出さぬ為のもの、と言われるからだ。ただ、ここでの話は、そちらのことではない。単純に、相場が上下するのは、いつものことであり、分散投資にしても、全体が萎む時期には、避け難いものとして、考えるべきだろう。更に、今始めた所で、あたふたするのは、それも、賢い方法ではない。老後の為、と思うのなら、尚更、長い目で見る必要がある。

* * * * * * * *

5月7日(火)

 立場の違いから、様々な意見が出てくる。中東の紛争は、まさに、その典型と思えるが、今回は違う、と思う人が多いのではないか。でも、と思うのは、この独り言を書き始めた、二日目に書いた話があるからだ。平和と安定を、求める声があるが、その多くは、そういう地域からのものだ。
 と書いたら、「そういう」とは、何方のことだ、と思った人も居るだろう。平和が保たれ、安定が続く国々から、求める声が出ているが、彼らには、本当の現実が、見えていないのでは、という意味だ。当時も今も、ふた昔以上違うのに、同じような状況が、続いている。施政者の問題、と片付ける向きもあるが、暫定政府と呼ばれる組織は、当時と比べると様変わりし、その上に、実効支配する勢力が、存在するから、事は、より複雑化している。その中で、反撃に出た国は、自らの平和を求め、当時も今も、同じような活動を続ける。そこに起きたのが、今回の事件であり、表面的には、平和な時が過ぎていたが、その実、地面の下では、着々と計画が進められ、過激な活動となった。まずは、そのことを忘れずに、今の問題に取り組む必要がある、と思うのだが、過剰防衛とも思える、過激な軍事行動に、冷静さを失った人々は、一方的な糾弾を始めた。嘗て、自国の軍隊を、他国に侵攻させて、一方の勢力を支援し続けたが、そのこと自体の意味を、失いかけた頃から、国内の反戦運動は、激化していき、特に、若い世代が集まる、大学という存在が、その舞台となっていた。それを彷彿とさせる、と見る向きもあるが、その違いにさえ気付けず、一方のみを攻撃する人々には、どんな深慮があるのか。多分、そんなに深く考えずに、同情の念とか、反省の思いとか、そんなものが、浮かぶことから、下した決断にしか思えない。所詮、対岸の火事であり、直接的な関与は、起きそうにもない中、盛り上がっているように見えるが、結局、「あなた達は、ここに住んでいない」と言われるのだ。

* * * * * * * *

5月6日(月)

 嘗て、海を挟んで、彼方と此方では、固定相場制が、敷かれていた。当時、物価も遥かに違い、持ち出せる外貨が、制限されていたから、旅行に出かけても、厳しい生活が、強いられていた、と聞く。ただ、逆に、彼方で働けば、帰国した時には、家を持てる程の蓄えが、できたそうな。
 今更、そんな戯言を、書いても詮方無い。ただ、この所、何度も触れたように、為替の問題として、今の違いを捉えるのは、如何なものか。遠い昔とは、生活水準が大きく異なり、互いに、然程差の無い、生活ができている。その一方で、長く続いた経済状況の違いから、いつの間にか、物価の水準が、かなり開いたように見える。そこが、問題の本質の筈が、そう捉えたくない人々は、挙って、円安を引き合いに出す。だが、物の値段が、既に違っており、為替による差は、それを埋められず、本当に、物価の違いが、為替に直接影響するなら、おそらく、今の倍くらいの水準に、引き上げる必要がある。それはそれで、別の方面への影響が、大き過ぎるだろうから、誰も、触れたくないのだ。さて、そう考えてみると、巷で取り沙汰される問題の、多くの部分は、誰かがこさえた絵空事、に思えてくる。もっと冷静になり、様々な面で捉えた上で、判断すべきことなのに、何故か、鵜呑みにして、納得し続けるのは、どうしてか。まあ、それだけ、平和な時代が、長く続き、大した心配もせずに、日々の生活が送れている、ということなのだろう。だが、それでは、煽ることを生業にする人々には、不都合なのだ。物価が低く抑えられていれば、格差のようなもので、不都合を演出する。そちらに、目を向けて貰えねば、互いの貨幣の価値に、差を見つけ出して、それが、恰も大層なことのように、不都合を演出する。それだけのこと、と一笑に付されてしまえば、今度は、将来の生活へと、不安を演出する。それだけ、平和なのだとなれば、戦闘が続く地域の問題を、ときりがない。やれやれ、と思う。

* * * * * * * *

5月5日(日)

 海の向こうの学生運動が、嘗ての戦争反対を訴えたものを、引き合いに出している、と報じられたようだが、立場の違いが、あまりにも大きく、首を傾げざるを得ない。歴史に関して、どんな認識が、後世の人々の心に根付くかは、その後の成り行き次第で、事実誤認も多くある。
 同じことが、こちらで起きた大学紛争にも、言えるように思う。原因は、様々にあったとされるが、あれ程の盛り上がりを、見せた理由については、定かではないようだ。学費値上げは、深刻なものだろうから、今の人々にも、理解できるだろうが、さて、半世紀以上昔の価値と、どう比べようとするのか。一方、もう一つの原因として、伝わっているのは、医学部職員の処遇に関することだが、こちらも、今の時代からは、想像がつかない話で、仮令、内容を紹介しても、理解に至るかは怪しいものだ。ただ、今も嘗ても、理解できるとしたら、権利主張の話だろう。水準の違いはあれど、権利に関しては、あの当時も、今も、強い主張が繰り返される。だが、学生の本分については、どうだろうか。あの時代は、誰もが、学歴を求めて、進学をしていたと伝えられる。でも、その一方で、大学で、真剣に学んだかと問われ、答えを濁した人の方が、遥かに多かったろう。特に、文系では、講義中心であり、出席確認も無く、今から見れば、いい加減なものだったようで、大学に行くのは、試験の時だけ、という学生が多かったようだ。今でも、多くの新入生が、誤解しているのは、大学に入れば遊べる、という伝説だろう。管理が求められる時代には、嘗ての如く、微温湯の学生生活はなく、厳しい制限が課される。その結果、社会へ旅立つのに、十分な資質を身に付けるのなら、納得もできようが、そうでもないらしい。自覚の問題、と言われるのは、こんな理由があるからだ。あの紛争により、甚大な被害を受けたのは、大学教員だったとの話も、嘘ではあるまい。学生の相手は、今も昔も、大変なようだ。

* * * * * * * *

5月4日(土)

 今回の海の向こうの学生運動に対して、興味深いのは、世間の評判ではないか。報道は、盛んに、彼らの考える所を、賞賛しようとするが、一方で、世論調査の結果は、決して芳しいものではない。この冷たいとも思える反応は、海を挟んだ彼我の差と言って、いいのではないか。
 教育に対する考え方は、彼方と此方で、かなり異なると言われてきた。既に、成人となった人々を、どう扱うかの違い、とも言えそうだが、子供扱いを続ける国と、もう大人なのだから、自立せよと考える国の、違いとも言えそうだ。だからこそ、借金をしてまで進学する、という風潮に対して、自らの能力を高める為に、当然のことと見做す、彼方側は、厳しい経済状況で、自ら作り上げた借金に、苦しむ若者を、救おうと動いた大統領の政策を、憲法違反と断じた。一方、此方側はと言えば、借金をさせることこそ、諸悪の根源と見做し、無料化を目指す政治家が、評価される状況らしい。自分の為、と考えれば、進学するか否かの決定には、かなりの覚悟も必要だろう。だが、今の風潮では、誰かが積極的に妨げぬ限り、彼らは、皆が行くからという状況に、当然のことと考え、何の覚悟も無いままに、進学している。その結果、学問の府たる存在は、若者に足蹴にされ、権利主張だけで、何の努力もせぬまま、劣悪な環境が、作り出されてきた。それに拍車を掛けたのは、予算削減であり、海の向こうの存在と、同様の活動を、強いられている。ただ、海の向こうも、嘗ての状況は、望めぬ程に、荒廃が始まったようだ。だからこそ、借金してまで進んだ大学を、目出度く卒業しても、まともな職にも就けず、返済が滞っているのだ。彼らを救うことは、確かに必要なのだが、果たして、誰でも彼でも、というやり方が、適しているのかは、定かではない。そこに、今回の動きが出てきて、さて、世間の目は、何方に向くのか。昨日指摘した別の動きと同様に、この状況も、気になる所かもしれない。

* * * * * * * *

5月3日(金)

 もう半世紀以上昔の話だが、この国でも、学生運動が盛んだった。それ以前に、海の向こうでも、大学構内が占拠され、不穏な空気に包まれた。但し、海を挟んで、全く異なる背景だった。向こうでは、戦争反対が掲げられ、運動は過激化した。今も、と思う人が居るかも知れない。
 だが、事情は大きく異なる。自国が乗り出した戦争に、自身が駆り出されるかも、という不安や心配と、他国で起きた紛争で、一部の人々が、虐げられるのを、見たくないという考えと、一緒にすることは無理だ。その上、現在の状況は、報道が盛んに伝える程には、盛り上がっていない。特に、嘗ての戦争反対の状況とは、比べ物にならない。更に、穿った見方をすると、今の活動の中心に、誰が居るのかさえ、疑わしく思えてくる。確かに、嘗ての世界大戦中に、ある国で行われた、特定民族を絶滅させようとする、驚くべき出来事に、戦後、全世界が震撼した。理由は兎も角、集団虐殺を、正当化するなど、信じられないことで、その被害者たる民族に対して、その後も、特別扱いする動きが、無かったとは言えない。だからと言って、今回のある地域での戦闘も、正当化できる筈もなく、できれば、平和的な解決を、と望む声が強いのは、当然のことだ。しかし、一向に、埒が明かない状況に、偏った報道が加えられ、世論は、ある方向に誘導されている。そこに起きた、大学での運動は、当然の結果と見る向きもあるが、どうにも、鵜呑みにできない。それぞれの大学当局が、頭を痛めているように、学生の本分から、遠く離れた状況からは、嘗ての戦争反対とは、大きく異なる事情しか、感じられないからだ。その上、活動の中心は、ほんの一握りの人々に限られ、それも、学生自身かどうかさえ、確認されていないとなれば、疑いたくなるのは、当然ではないか。当事者としての活動と、正義感からの活動の違い、というより、更に込み入った事情が、ありそうに思えてならない。

* * * * * * * *

5月2日(木)

 隣の大国が、著しい監視社会であることは、ずっと以前に本で読んだ。ただ、東側の国々は、元々、社会体制として、隣人監視が常であり、あの国からの人々も、嘗ては、常に複数人で訪問し、滞在期間中は、相互に監視し合うのが、常とも聞いた。だから、と言うつもりはないが。
 しかし、映像装置が、街に溢れるようになり、西側諸国でも、状況は、よく似たようなものだ。問題は、日頃から見張っているか、はたまた、有事の際に、利用されるかの違いだろう。どの国でも、最近は、政治的、宗教的な理由で、過激な活動が、盛んとなっており、事件が起こる度に、映像装置の記録が、再生される。その結果、現場からの足取りや、人物特定が行われ、逮捕に至ったという話が、屡々紹介される。あれを見ると、普段から、見張られていることは、誰にでも、容易に理解できる。だが、罪を犯す人間は、その考えには、及ばないことが、多いようだ。映画や小説では、そういった下調べの重要性が、何度も紹介されるが、自分は違う、とでも思うのだろうか。通常の犯罪者には、それだけの準備が、できないことが多い。で、今回の事件では、芋蔓式に、次々に犯人達が、捕まっている。成果の報告としては、こういうやり方が、効果的なのかも知れぬが、さて、いつになったら、本丸が現れるのか。犯罪に興味を抱く人々は、その多くが、背景を知りたがるのに、この状況では、当分の間、お預けを食らいそうだ。にしても、これ程、あの手の装置が増えたのは、何故だろう。安全を確保する為、という意味では、今に始まったことではなく、昔から、そういう社会情勢は、変わらずに続いている。あるとすれば、やはり、装置が、溢れる程に、市場に出回ったことで、その原因は、最初に取り上げた、あの国にありそうだ。確かに、一時、関係が険悪化した、南の国では、あの国から買った装置に対して、疑いの声が上がったらしい。やりかねないことだからこそ、の疑いだろうが。

* * * * * * * *

5月1日(水)

 与党全敗の文字が、踊っていた。政党としての不祥事で、失った議席の補欠選挙だから、当然の結果だろう。ただ、有権者は、人ではなく、政党を選ぶことが、はっきりとした。乱立した選挙区で、人として選ばれなかったのは、人間の価値が左右したのかも知れないが。
 で、敗れれば、当然の展開として、退陣を求める声が上がる。しかし、今回は、どうだろうか。政党として、不正を長年続けてきたものが、発覚したことで、起きた流れだが、そこに、今の宰相、総裁の責任が、どう関わると思ったのか。長年という意味では、その期間に総裁だった人物は、かなりの数となる。その上、今回の不祥事で、取り沙汰された話は、前任者の時代のことだろう。それを見抜けず、放置したのだから、という論法を、持ち出すとしたら、関係者全員が、罪人ということだ。自らの責任を、逃れる為と称して、こういう展開を描くのは、永田町の論理では、通用するのかも知れないが、人間社会では、以ての外だろう。政治家としての、という常套句を持ち出すのも、特別視の典型でしかなく、呆れられるだけだ。人間の倫理、道徳の問題として、やってはならぬことを、何の思慮も無く、続けてきた責任は、全員にある。それを、退陣に掏り替え、次の選挙での禊を、目論む態度には、呆れるばかりとなる。法の改正も、同様の話であり、矜持を保つ為には、自身の判断のみで、十分なことだ。一方で、ザル法の問題も、献金者の権利を守る、などという理由を付け、抜け道作りに精を出すのは、馬鹿げた話と思う。ここにも、総番号制を、拒み続けた人々が、暗躍する下地がある。国民の義務、などと持ち出し、何かにつけて、議論だけはするものの、いざという時には、特権階級に、便宜を図ろうとするのは、何故か。分かり易いのは、金が絡む話には、という指摘だろう。墓場に持ち込めなくとも、生きている間は、裕福にと思うのは、人の性に違いない。法律の範囲内だが。

* * * * * * * *

4月30日(火)

 円安の話は、氷山の一角に過ぎない。経済評論家や市場関係者は、事あるごとに、都合のいい材料を拾い上げ、それを端緒として、持論を展開し、結論に導く。事ほど左様に、といった具合だ。それに乗せられ、考えもせずに、飛び付く報道は、単なる後追いに過ぎず、愚かなだけだ。
 報道の愚かさは、何度も取り上げてきたが、紛争に関しても、そんな傾向が強い。特に、誰かの口車とは限らず、自分達の描いた筋書き通りに、話を展開させるのは、常套手段であり、浅慮の結果だけに、御里が知れるというものだ。人質を取られ、奪還を目指して、攻め込んだ国を、敵視する姿勢は、当初から指摘したように、この国の公共放送の、支局長の言動に、如実に現れていた。その上、現地に居るのに、情報収集に奔走せず、政府からではなく、敵対する暫定政府どころか、実効支配する勢力からの情報のみを、伝えるのには、呆れるばかりと書いた。この地域からの報道は、これまで、どちらかと言えば、双方からの情報を、ほぼ正確に伝えていた、中東のテレビ局でさえ、偏った内容しか伝えず、西側のものも、追随する姿勢が目立つ。犠牲者数も、中立的な立場からの発表ではなく、一方的なものばかりで、ある病院の爆撃も、直後は、誤ったものだった。更に、最近も、ある場所から、多くの埋葬された死体が、見つかったとの報道があったが、その後、音沙汰が無くなった。虐殺との推測が、飛び交ったのに、一体全体、どうなったのか。これに限らず、力の行使を見ると、極端に偏った情報操作が、行われることには、注意を要すると思う。特に、独裁者に関して、糾弾する姿勢として、彼らの情報操作を、批判し続ける一方で、自分達のものについては、何の罪の意識もなく、垂れ流し続け、総括をする気配も無い。報道の偏向は、今に始まったことではなく、戦争などの際に、特に、著しくなる。だが、当事者でもないのに、加担する姿勢を示すのは、如何なものかと思う。

* * * * * * * *

4月29日(月)

 人件費の違いを、理解しないままに、的外れな指摘を繰り返すのは、愚の骨頂ではないか。だが、違いを示すことなく、目を逸らさせるような、論調を続けることは、あの業界では、ごく当然のことであり、何かにつけて、自分達が書いた筋書きに、全てを載せようとする。
 煽動する為に、何が必要かを考えれば、当然の帰結だが、それに気付かぬ愚民は、何をどうしたいのか。例えば、基地問題で揺れ続ける、ある地域に、海の向こうの量販店が、進出することになった。その際、従業員募集で、示された時給は、千五百円である。そこでの最低賃金が、九百円弱であり、良くても千円に届くか、という状況下で、破格の提示だが、多くの商店が、危機感を抱いている、と伝えられる。だが、量販店の本拠では、通常、32ドルの時給だから、彼らにとっても、これ程に美味しい話は無い。為替を換算するから、という結論の導き方が、如何に誤ったものか、理解できぬ人が居たら、お手上げでしかない。この違いが、生じてきた背景には、当然の如く、物価上昇の原則を、守り続けた国と、頑なに、安値を追求してきた国との、違いが歴然とある。それにより、何が起きたのかは、書くまでもないことだ。確かに、何方の国でも、大衆はそれなりの生活を、維持し続けており、幸福な生活を、営む人も多く居る。それで済ませるのであれば、何の問題も、生じない筈だが、問題を起こし、それによって、不安や心配を煽る為には、これらの背景によって、保たれている均衡を、何としてでも崩さねばならない。その目的で、今、盛んに使われるのが、円安という現象だ。確かに、それが要因となり、これまで、低く抑えられていた物価が、急激に上昇しているように見え、生活が、一段と苦しくなった、という実感をもつ人も、多いだろう。だが、それが、経済活動の一つの答えであり、そこから導かれる、人件費の上昇が、確かなものとなれば、問題は無い。何処に不満があるのか。