伝達を考えると、何方かと言えば、送り手の問題、となるように思える。特に、嘘や出鱈目は、それを作る人間に、責任があるから、当然のことだろう。だが、伝言遊びの場合、それが起きるのは、送り手である前に、受け手であることに、原因があるように、思えないだろうか。
お解りだろうが、情報伝達においては、送り手だけでなく、受け手の問題が、重要となる。同じ言葉でも、受け取り方により、正反対の意味になる、こともあるからだ。例えば、新入社員への指導で、報連相(ほうれんそう)とか、確連報(かくれんぼう)とか、心得が紹介される。報告、連絡、相談も、確認、連絡、報告も、新入社員が、上司に対して行うべきこと、として説明される。だが、どの行為も、上司にどう伝わるか、別の言い方をすれば、どう受け取るかが、重要となる。人間関係が、度々問題視されるのは、送り手だけでなく、受け手の能力が重要で、組み合わせが、肝心となる。そうでなくとも、受け取り方を、どうするのかが、大事であることは、実際に、関わってみると分かる。この見方は、社会媒体について、考えてみれば、よく分かるのではないか。熱狂的な盛り上がりが、見られた時に、どんな遣り取りがあったのか、後になって、理解に苦しむことが、度々起こる。これは、伝達された内容を、正確に理解するより、勢いで、皆が熱狂するのは、送り手の問題というより、受け手の問題だからだ。すぐに乗せられる人は除き、多くの人々は、彼らなりの解釈で、送られてきたものから、真意を読み取ろうとする。ただ、解釈は様々で、時に、正反対となることもある。何が、原因かは、明らかだろう。人それぞれは、人それぞれだからで、解釈の仕方も、様々となるからだ。最も重要なのは、受け手の違いに対して、誤解されぬように、念入りに、準備しておくこと、と思う人が多いだろうが、必ずしも、そうはならない。断定的な表現より、異なる解釈を、許すような表現が、大事になるのでは、と思う。
情報収集が大切、と考える人は多いが、では、情報伝達は、どうだろうか。意外に、その大切さを、認識していない人が、多いのではないか、と思う。例えば、伝言遊びを、思い出して欲しい。二、三人を、経てみたら、話が、全く違っていた、という経験が、あるのではないか。
同じことが、実社会でも、起きている。伝聞の信頼性は、確かに、発信源の、意図的な嘘や、恣意的な捏造など、そんなものが、大きく影響するが、実は、伝達者の問題が、それ以上に、大きいとも言われる。間に、数人入ってしまえば、他の人々が、如何に信頼に値しても、たった一人の、無意識な行為により、話が全く違ってしまい、受け取った人々は、被害を受ける。噂話程度のものなら、笑い事で済ませられるが、重大な話題だった場合、とんでもないことになる。こんな間違いを、防ぐ為に、多くの人は、複数の情報源を頼りに、確認作業を行う。だが、全てにおいて、これが可能かと言えば、そうとは限らぬ。だからこそ、伝達の重要性が、情報社会において、強調されるのだ。でも、媒体はどうか。社会媒体は、信頼度が低い、と言われ続けており、鵜呑みにする人は、少ないと見做されてきた。しかし、最近の状況は、却って、従来の媒体の方が、意図的な情報操作が、頻繁に行われており、信頼できないとされ、その一方で、一次情報を流す、社会媒体こそ、最も信頼できるもの、との見解が、盛んに喧伝される。だが、玉石混交が、そのままなのに、どうやって、その情報が、一次か二次か、更には、捏造などの手が、入っているか否かを、判断するのだろうか。こんなことを書くと、そりゃ無理だ、と言われるだけだが、今、そんな状態に、私達はあるのではないか。だとしたら、どんな手立てを、講じる必要があるのか、を考えるべきではないか。法律などで、様々に、制限をかけるのは、勿論のことだが、ここまでくると、参加者全員が、何かしらの考えを、共有する必要が、あるように思う。時には、ある種の人々を、排除することも含めて。
社会媒体の評価は、如何だろうか。そんな疑問を、打つけられたら、どう答えるか。ある範囲では、高い評価を、とする声もあるが、全面的には、とはとても言えず、批判の声は、止むことが無い。理由は、簡単なことだ。自分も含め、参加者それぞれが、信用できないからだ。
大災害が起きた時、緊急の情報伝達が、遮断され、戸惑う人々は、手にした端末に、届く報せに、救われた、との意見もある。だが、その一方で、この機に乗じて、嘘や出鱈目を、撒き散らす輩が、人々の混乱を招き、快哉を叫んでいた。これでは、頼りにならない、との意見が、出るのは止むを得ない。更に、通信基地が、破壊された時には、ただの箱と化してしまう。今、紛争地帯では、衛星を介した通信が、唯一の手立てとなり、緊急時には、活躍すると言われる。が、これもまた、ただ嘘や出鱈目を、伝えるだけとなれば、無用の長物だ。それでも、多くの人々が、握りしめた端末に、目を向けるのを、止めようともしない。心理学的に、その理由を解説するが、どうにも解せず、これもまた、嘘の一つとさえ、思えてくる。だが、その勢いが、増した原因については、おそらく、多くの意見が、一致しそうだ。それまで、情報伝達を、独占してきた、媒体の信頼度が、失墜したからだ。特に、権力に与せず、一定の距離を置き、反論を展開するのが、常となっており、それによって、権力とは別の見方に、大衆が接することができ、ある程度の平衡が、保たれてきたことが、重要と考えられる。だが、世界的な感染症騒動で、一部の報道を除き、権力に与することで、病原体の封じ込めを、目指そうとした判断が、接種の問題も含め、大衆の信頼を失い、嘘や出鱈目を、政府に追随して、垂れ流すだけの存在、と見做す意見が、大勢を占めるようになった。だから、玉石混交でも、様々な意見が、聞ける場に対して、多くが流れるようになり、今に至っている。嘘と真実を、判別できないままに、だ。
展開は、予想通りだったろうか。民衆の期待は、見事に裏切られ、納得できない人々は、更に過激化しそうだ。だが、昨日書いた、支持率と弾劾反対の、割合の違いにこそ、意味があるのではないか。発令の真意を、確かめることなく、ただ、自分達の権利が、剥奪されたと騒ぐのは、如何なものか。
だからこそ、大統領を支持するか否か、とは無関係に、過激な反応を示すことを、考えてみたいと思う割合が、あれ程だったと見るべきかと。一方で、報道については、いつも通りに、偏ったものが、露骨に出ている。権力に与せず、民衆の側に立つ、という根本原理が、相も変わらず、一つ覚えの如く、繰り返されるが、あの感染症騒動では、正反対の言動を、繰り返し続けた。だからこそ、大衆は、見切りをつけ、社会媒体へと、走ったのだろう。だが、その一方で、海の向こうの展開は、理解不能な状況へと、突き進んでいる。民主主義は、多数決を基本とし、民衆の願いを、叶えるのが、根本原理だが、その中でも、直接と間接の二つの方式が、採用されている。ある国では、ほぼ全てが直接選挙で、決定されると言われるが、殆どの国は、間接選挙により、代表者が、ほぼ全てを決定する、という仕組みを、採り入れている。今の世では、何故、間接などという、回り諄いやり方をするのか、との批判の声が、多く寄せられるが、この違いを、理解するのに、最適な事例が、出されたことに、気付かないのは、不思議なことだ。連合を離脱するかを、国会で議論するより、直接選挙で、という考えを、時の宰相が、何故決めたかは、今だに謎だが、その結果、離脱と決まったことから、あの国の混乱は、始まったと言われる。そこから、次々に、宰相が交代し、内閣は、何度改造されたか、思い出せぬ程だ。その極みとして、与党と野党が、交代するに及び、確かに、別の安定が、手に入るかも知れぬが、さてどうだろうか。今回の隣国の混乱は、まさに、この状態の最中にあり、解決への道筋は、全く見えていない。が、だからと言って、民衆の叫びに、合わせる必要は、必ずしも無い。愚民政治が、何だったのか、思い出せば。
政情不安、と思った人も、多いのではないか。普段なら、何らかの解決を、見てから、書くことを考えるが、今回は、そうしないでおく。理由は、そこにこそ、今の不安定な状況が、如実に現れており、問題として、考えてみる必要を、感じるからだ。何も、感じない人も、多いだろうが。
まだ、何の結論も出ておらず、解決への道も、示されていない。だが、隣の国の、今回の騒動には、異常とも思える、反応があったのも事実だ。ある報道番組で、若手と思しき人間が、滔々と語っていた、民衆が、民主主義を守った、という個人的見解には、開いた口が塞がらず、見識の無さに、報道の問題が、如何に深刻か、思い知らされた。隣の大国で、40年近く前に起きた、あの事件を思い起こせば、権力の行使が、民衆にとって、如何に危険なものか、報道に携わる人間なら、当然知っている筈が、この人物は、余りに幼かったせいか、はたまた、単に無知なだけか、動員された兵士に、逆らうことの意味は、民主主義も何も、あったものでないのは、判る筈ではないか。違いは、上司の命令に、服従するだけの人間と、そうでない人間、あるいは、平和ボケした世代と、そうでない世代、というだけであり、重大な発令があり、騒動を抑える為に、動員されたとすれば、逆らうことは、死をも意味する。ただ、その後の展開は、民主化を目指して、立ち上がった民衆という、大国での図式とは、全く異なり、民主化後、絶対的な権力を、保証された、大統領による行使、との違いが、現れたようだ。隣国は、任期後に、不正を理由に、逮捕収監された大統領ばかりで、遂に、任期中にまで、そんなことが、起きるようになり、保身に走れば、有り得る判断と、思える事例だった。解決前に、書こうと思った理由は、そこではなく、支持率が、20%を割っているのに、弾劾決議に、反対する割合が、25%ほどだったことで、その理由は、何だろうか、と思ったことだ。調査では、的中しない確率が、5-10%となる割合を、目指すものだから、この違いは、歴然としたものと見える。だとすれば、違いは何処から出たのか。考えてみては、と思うのだ。
詐欺の横行は、深刻になりつつある。ただ、その一方で、不安や心配を、煽るのに躍起となる、マスゴミについては、的外れな指摘ばかりで、自らの信用を、自ら、貶めているとしか見えない。そこに、社会媒体が、根も葉もないことを、書き並べて、一層の混乱を招く。
どうしたことか、と思いつつ、こんなことばかり、書いているのだが、自らの愚かさに、気付かぬ人々は、まるで他人事のように、他人の批判を続ける。手にした端末は、思いつきを、世界に向けて、発信するのにも、手の込んだ嘘で、大衆を騙そうと、発信するのにも、大いに役に立つ。こんな時代となり、端末を無くしたり、忘れたりすると、途端に、窮地に陥る。何しろ、発信ばかりか、日常生活に、必須の持ち物だからだ。何処かに出掛けて、買い物したり、食事をしたりすれば、その度に、端末を操作して、支払いを済ませる。以前なら、財布から、カードを取り出し、署名したり、暗証番号を入力したり、と、ある意味、面倒なことがあったが、今なら、ただ翳すだけとか、入力装置と、接触させれば、全てが終了する。一方、出掛けずとも、銀行との取引も、端末から、全てが済ませられる。便利と言えば、その通りなのだが、それが無くては、何もできず、買い物どころか、食事もできなくなる。現金を、と思うかもだが、そんなものは、財布の中に、入っておらず、場合によっては、財布さえ、持たぬ人が増えた、と言われる。こんな時代に、それに関する詐欺も、増え続けている。特に、端末でも、他の電子機器でも、電子メールを、使う人の数は、もう限界に達しているが、そこに、膨大な数の、詐欺メールが、送り付けられる。最近は、自動的に、判断されるようになり、未然に防ぐようだが、網の目を潜り抜ければ、被害者は、続出しかねない。最近の傾向は、端末利用の決済や、新規の機能を宣伝する、銀行関係のものが、急増している。世相の反映、でもあるまいに。
今朝の経済番組で、取り上げていたのは、昨日の経済新聞の記事。衰退が続く、国内経済状況が、好転し始めた、という話についてだ。そこには、「お上」の文字が、踊っており、経済活動においては、政策との決別こそが、重要となる、との主張が展開されていた。そうなのか。
記事で、取り上げられていたのは、泡が弾けた後で、多くの金融機関に、注ぎ込まれた公的資金と、その悪影響によって、衰退が、これほど長く続いた、という話だった。思い当たるのは、「護送船団方式」と呼ばれるもので、少し調べると、全体の中で、最も劣ったものに合わせ、全体を導く戦略で、それを、国を挙げて行った、という話だった。確かに、成長が止まり、坂を下り始めると、経済状況は、悪化の一途を辿り、その中で、泡銭に群がった、金融機関は、特に大きな損失を、被ったとされる。その中で、政府が下した決断は、明らかな過ちであり、それこそが、長期の衰退を、招いたとの意見は、特に、海の向こうの経済界から、出されてきた。だから、「お上」とは決別せよ、というのは、これもまた、海の向こうの意見で、国の関与を、徹底否定することで、自由経済は、繁栄を謳歌できる、とされる。だが、何度か触れたが、別の国では、全く異なる政策で、国内企業の、海外活動を、支援している。この国でも、高度成長を支えたのは、国をあげての、産業振興政策が、実施されたから、とも言われるから、何方が、優れているかを、軽々に判断できぬ、と思うのだ。当時の成長を、支えた政策に関しては、こんな文書が、出されているから、そちらを参考にして欲しいが、特に、60、70年代に、監督官庁が、どんな施策を行うことで、国内産業を、支えてきたかを、今一度、見直す必要がある、と思う。ここまで、衰退した結果、簡単には、元の成長状態には、戻せないことは、明らかなのだが、この間、何処かの国の、脅迫に従った結果、今があることも、事実だと思うのだ。
国家間だけでなく、身の回りも、物騒な時代になった、と感じる人が多い。連日連夜、強盗の話が、続けられるし、それが、組織的なもの、と伝えられる度に、治安の良さを、世界で誇った国が、一体全体、どうなってしまったのか、と思うこと頻り、となっているのでは。
確かに、凶悪な事件が、増え続けているように思えるし、そうでなくとも、高級車が、尋常でない方法で、盗まれた話も、様々なところで、銅製品が、奪い去られる話も、どれもこれも、異常としか、思えない。確かに、件数は、急増しており、この国にとり、異常事態と思えるのも、無理はない。しかし、この傾向は、国内に限らず、どの先進国でも、現れているようで、その点については、何かのきっかけが、あるように思える。銅製品の場合は、盗品を捌く道筋が、存在していることが、最大の要因であり、世界的な傾向は、そんな背景から、引き起こされているようだ。高級車も、同様の状況で、根本的な解決は、その手の闇市場を、どう取り締まるかに、かかっているように見える。一方、強盗に関しては、全く別の事情がある。とは言え、こちらも、どうやら、世界的傾向になりつつあり、その原因として、考えられるのは、連絡媒体がありそうだ。ただ、媒体の整備で、確かに、そういうことが、世界的に起きつつあるが、一方で、加担する心理については、国毎、地域毎に、かなりの違いが、ありそうに思う。特に、治安の良さを誇った、この国に関しては、住民の心持ちが、強く影響していた、と言われるだけに、他国とは、大きな違いとなりそうだ。となれば、何を考えるべきか。自由と責任、の二つが、大きく影響しそうだが、近年、自由ばかりが、強調される中、責任を感じないままに、勝手気儘に過ごすのが、当然と思う、世代が増えてきた。恵まれぬのは、社会や周囲が悪いから、という考えに、取り憑かれた人々が、打開を目指して、強盗に加担するのも、そんな背景がありそうだ。一方で、国民性を見ると、制限、規制、罰則などを、厳しくすることが、単純な解決へと、繋がることも、何となく解る。
政情不安、と書いた途端に、大袈裟な、と言われそうだが、その気配を、感じる人も居るだろう。百年前と言えば、二つの世界大戦に挟まれた時代で、一つ目に疲れ、荒れ果てていた世界は、二つ目に向かって、突き進んでいった。状況は、全く異なるが、不安という意味では。
先の大戦が終わり、80年が経つけれど、その間、紛争地域や内戦など、世界の一部では、戦争と名のつく戦いが、繰り広げられていた。その一方で、世界機関の役割は、国対国の揉め事を、未然に防ぐことだったが、この所の情勢は、とても、役目を果たしている、とは言えぬものだ。冷戦が終結した後、多くの国々は、資本主義や自由主義といった、以前の西の仕組みを、取り入れることで、ある程度の贅沢を、手に入れることができた。しかし、その過程で、広がり始めた貧富の格差は、広がるばかりとなり、貧しい者の台頭より、富める者の独占を、強めることとなった。特に、解体した国々で、その問題が、拡大することで、遂に、他国への軍事侵攻という、暴挙が行われた。だが、その布石は、今考えれば、幾つもあったようだ。西と東の併合により、誕生した、工業先進国は、東出身の女性宰相が、率いるまでとなり、理想に近づいたように、見えていたが、そこに、問題の発端があったようだ。一方、長年に渡る紛争が、続く地域には、海の向こうの次期大統領が、前任の時に、英断したと伝えられる、一方への加担こそが、きっかけとなり、危機感を募らせた側が、暴挙に出ることで、一線を越えてしまった。それぞれは、一地域での問題に過ぎず、世界機関が、調整を図れば、解決に至る筈、との期待は、消滅しかかっている。となれば、先の大戦の如く、不満を抱く国々が、連携することで、より大規模な戦争へと、発展しかねない状況、とも言えそうだ。本来、有事に備え、回避することを、目的とした筈の機関は、今や、張りぼての如く、役立たずの体でしかない。次に、何が起きるのか。
決まったことは、仕方がない。諦めて、4年間を過ごそう、と思った人がいる一方、この際、移住をしよう、と決めた人も居るだろう。だが、対抗馬に投票した、7千万を超える人々が、全て、他国に移住するのは、あり得ない話だ。だったら、何が起きるのか、眺めるしかないか。
8年ぶりに、そんな思いに駆られた人も、多いに違いない。だが、前の時との違いも、数多くありそうだ。巷では、前回との違いとして、側近に、支援者ばかりを、採用する企てを、伝えているが、その理由として、本人が、前回の、思いがけぬ勝利から、慌てて、見栄えの良い陣営を、採用したのと違い、今回は、用意周到に、実質を求め、自分の指示に、従う人間を、用意したと言う。真偽の程は、さておき、何方にしても、前回同様、迷走が続く、と予想する向きが、殆どとも伝える。ただ、一方で、前回の、大混乱の予想は、思いがけず、無難な域に、留まったことから、今回も、と予想する向きもある。確かに、民主主義の国では、独裁が実現しない限り、様々な制動が利く、とも言われるから、その表れとの分析も、なされていた。しかし、今回は、議会も、赤一色であり、均衡を保つ、力の行使は、望めないとの声もある。さて、どうなることか。海の向こうのことを、過度に、心配する必要は、おそらく無いだろう。ただ、当選が決まった途端に、極論を、披瀝し続ける態度に、強い懸念があるのも、事実には違いない。大好きな言葉を、繰り返し、叫び続ける姿勢は、前回と同じで、就任後は、毎晩の不規則発言が、続けられることも、予想されているから、側近も含め、周囲は、振り回されぬよう、心の準備を、整えなければならない。そうでなければ、イエスマンよろしく、全ての指示に従い、例え、崩壊の憂き目が、明白となったとしても、泥舟が沈むのに、任せるしかない、となる。何れにしても、国民達は、自分の生活にしか、興味は無い。どんな展開となるか、見守るだけのことだ。
此処も含めて、発言に、気をつけねばならない、と言われる時代だ。嘗て、ある私立大学の、女性教授が、盛んに、捲し立てていたのは、放送で禁じられる、用語の数々だったが、幼少時、何の意識もなく、使ったものが、殆どだった。それらが、禁止されたのは、時代の変化か。
特に、その当時、海の向こうから、新たな考え方が、押し寄せてきた。苛めは、する側ではなく、受ける側が、どう感じるかで、認定されるべき、というものだ。同じことが、差別用語にも言え、受ける側が、どう感じるかを、発する側が、理解することが、必要というものだ。一民族で、成り立つ国家と、思われてきた国では、他民族への理解が、不十分なのは、当然のことであり、その上、戦争を挟む形で、強い圧政を、敷いてきたから、当然の結果ともなる。だが、その後の変遷は、ある意味、予想外のものだった。差別意識は、優越感の表れ、とも言われるが、一方で、その奥底には、劣等感があるから、と言われる。個別の問題であり、一概には言えぬ、と思われてきたが、手にした端末から、発せられるものの多くには、まさに、これが当てはまるようだ。優劣を、明確にすることで、優位側が、安心感を得る、という図式は、確かに、多くに当てはまる、と思われてきたが、実際には、劣等側に属すると、潜在意識で、認めているからこそ、相手の劣った部分を、殊更に強調し、貶めようと言い募る。その意味では、そんな輩は、相手にする価値も無く、無視するのが、最善の策なのだが、端末から発せられる、社会媒体での発言は、同類の、劣悪人種にとっては、便乗し易いものと映る。結果、炎上に似た、爆発的な閲覧が、起きることで、社会的な制裁と、似た現象が起きる。これは、どの立場の人間にも、起きることであり、王室や皇室なども、例外ではない。苦言を呈するのは、これまでの手立ての一つだが、通用しない相手には、無駄でしかない。匿名性を、悪用するのは、自身の価値を、無にするのだが。
差別の問題が、盛んに取り上げられる。一方で、多様性の時代と言われ、違うのが当然とされるが、こちらはこちらで、上辺だけの、正論を翳す人が、何と多いことか。優劣の問題は、何かしらの評価基準から、起きるのが当然だが、そこから生まれる、差別感は、別物だろう。
能力の上で、走るや跳ぶといった、体力に関する話は、差別の対象とされず、ただ単に、優れているか否か、の問題とされる。だが、それが、学力となった途端に、何やら、不思議な解釈が、施されるのだ。何方も、先天的なものがあり、その上で、努力の積み重ねが、影響を及ぼす。先天だろうが、後天だろうが、差別の問題となると、委細構わず、苛めの一種として、取り上げられるが、何故だろうか。そこには、障害者の親の、心持ちと似た、感情の表れ、と見るべきものがある。褒めて育てる為に、必死で、優れた点を探したり、劣った人間を、蔑む気持ちが、ふと湧いたりする。人の心は、所詮、その程度のもの、と諦めてしまえば、どうということのないものだが、これが、論争の対象となると、躍起になる人が居り、心穏やかには、いられない人も居る。だが、そんなこと、声高に訴えるものでもなし、また、罵り合う対象でもない。ただ単に、多様性の一端、と見れば済むことで、論争は、無意味としか映らない。だが、差別に遭った人、障害を抱えた人、その他、特別な環境に、置かれた人から見れば、只事ではなく、重要な事態、と映っているのだろう。しかし、そんなことで、優位に立とうとする人や、蔑むことで安心する人には、何を言っても通じない、のではないか。だったら、知らぬふりが、一番に思える。所詮、その程度の人間なら、相手にする価値もない、と心の中で決め込み、無視するのが、一番だろう。それでも、追いかけてきたら、どうしたらいいのか、と思う人も居るだろう。でも、それでも尚、知らぬ顔をして、逃げるのが、勝ちなのではないか。劣った人間は、彼方だから。
障害についての話が、あった。障害を持つ子供が、何かしらの才能を見せた時、多くの人々は、ある意味、感動するのだが、同じような子供を持つ親の中に、全く異なる反応を、示す人が居る、という話だ。凄い、という言葉の後に、うちの子は、と続けるのだ。羨ましげに。
自閉症と呼ばれる、人との関わりが、難しいとされる中に、特異な才能を見せる子供が居る。別の名前の症候群で、呼ばれるようだが、その原因は、よく知られていない。しかし、一度聞いただけの音楽を、即興で演奏したり、電話帳の文字と数字を、暗記したり、一般の子供や大人が、どんなに努力しても、できないことを、やってのける。先日の話では、立体的な物体を、木片や紙切れを使って、精密に再現できる、という才能だった。自動車の外形だけでなく、車内の構造までも、再現する能力に、驚嘆の声が寄せられる。確かに、それも特異な才能の一つ、に違いないが、この子供ができるのは、再現であり、何かを新たに作り出す、という能力ではない。だから、という訳ではないが、演奏も、暗記も、確かに、驚異的な能力に違いないが、さて、どう発展させられるのか、考えてしまう。神童と呼ばれた、ある音楽家は、確かに、幼少の頃から、他人が演奏した楽曲を、再現する能力を、発揮していた。だが、彼の凄さは、その後に、それを、より良い楽曲に変え、即興演奏したことだろう。才能とは、どんなものか、と考えてみると、この逸話は、重要な示唆を含んでいる。一方、親の漏らした言葉にも、重要な意味が、含まれていると思う。羨ましい、という感情は、誰もが持つものだが、その中に、差別感のようなものが、含まれるということだ。障害という言葉自体、忌み嫌う人が居て、差別的と批判されるが、そんなことと関係する人が、こんな感覚を、抱いていることに、目を向けるべきではないか。区別と差別、同じものを、どう見るかの違い、と言われるが、本性が違うように思う。
嘗ての大名が、保管してきた、戦国武将の書状を、眺めてきた。維新前には、大名屋敷が並んだ地域に、今も残る広大な敷地の中、その文庫は、ひっそりと建っている。周囲には、閑静な住宅街があり、観光地の喧騒とは、かけ離れた場所、とも言えるようだ。だが、内部は、違っていた。
元宰相の住宅も、その地域にあり、相続税の納入で、物納の為に、半減したとは言え、荘厳な門構えは、そのまま残されている。文庫以外にも、同じ大名屋敷だった、敷地には、学生用宿舎や、様々な建物があるようだが、文庫の周囲は、庭園となっており、静かなものだ。だが、内部は、この展示からか、多くの高齢者が、訪れており、皆静かに、書状の内容を、読み取ろうとしていた。こちらは、そんな教養は無く、武将の直筆とか、新発見とか、そんなものばかりに、目を奪われていたが、中でも、興味を惹いたのは、朱印と黒印の違いだ。予備知識無く、眺めているのだから、何ともはやだが、公文書と私文書の違い、とされるようで、ただ、その当時は、区別は、明確ではなかったようだ。戦乱の時代に、互いに、腹の探り合いをし、協力関係が、築かれたり、離れたりと、不安定だったようだが、その中で、あの「変」が起き、その後の展開は、混沌としてくる。起こした側の、娘を嫁に取り、濃密な関係と思われたものが、どういう訳か、敵味方となり、その後の流れは、歴史から学んだ人も、多いだろう。それにしても、よくこんなものを、保存できたものだ、と感心するばかりだが、目的を持ち、号令をかけた人物は、やはり偉大だったのだろう。書状の殆どが、重要文化財に指定され、歴史上の、重要な証拠として、認められている。今回は、それに加えて、新発見があり、それが、人を集める要因と、なったのだろうが、それにしても、予想外に多かった。興味を惹いたのは、もう一つ、あの所蔵庫から、武将が、許可を得て、持ち出した上に、切り取ったとされる、香木二片のうちの、一片が展示されていた。収蔵庫の中では、香りを確かめることも、できなかったが。
今、減税話で、話題となるのは、壁の問題だ。だが、この壁、何だろうか。税制は、複雑で、理解し難い、というより、毟り取られるものに、有無も無い、と思うのが、正直な所だろう。ただ、この仕組みは、海の向こうでは、大きく異なり、そちらはそちらで、理解に苦しむ。
後者の話は、以前も取り上げた気がするが、記憶は不確かだ。だから、という訳でもないが、ここでは、壁の話だけを、取り上げてみる。今回の見直しでは、壁の存在のみが、注目されている。しかし、この国の税制で、何故、壁と揶揄される、給与水準が設けられたのか、すぐには理解できない。とはいえ、壁の線引きについても、幾つもの不思議が、存在している。何故、103万円、となったのか。それは、いつから変わっていないのか。後者について、検索してみると、こんな記事に当たる。その他の多くの情報は、全くの役立たずで、皆の期待通りに、将来の何時になれば、壁が変わるのか、ということだけを、取り上げている。さて、元の記事では、103万円になってから、およそ30年の時が、流れたとある。元々、この水準は、物価の動向に従い、変更されるべき、との考えがあったようで、この期間、物価の変動が、それ以前と比べて、緩やかだった、と見ることができる。これは、今回の物価上昇から、給与水準の変更が、多くの企業で、行われたことと、ある意味、似たことのように思える。つまり、国の財布の紐を、預かる省庁からは、この期間、物価も給与も、殆ど変化がなく、却って、値下げを善とする、考え方が、社会全体に広がり、それに、甘んじていた、と見ることもできる。それが、事実かと言えば、そんなことはなく、物価は確実に、上昇を続けていた。しかし、一家の大黒柱を含め、給与水準は、一定に抑えられたままで、目減りさえ、感じられる状況にあった。そんな事情から、閉塞感が強まり続け、国民の生活は、厳しくなり続けた、とされるが、本当だろうか、と思う。
信憑性、という点で、最も重要なのは、誰の発言か、だろう。だが、自分と相手の間に、媒体が介在すると、話は複雑になる。誰かが、間に入っても、何かが、間に入っても、それは、一次情報ではなく、二次的なものとなる。それに加えて、発言者が、嘘吐きなら、信憑性は皆無と。
こういう話を、冷静に、分析的に、語る限りは、何の間違いも起きない。しかし、今の状況では、そんな雰囲気は無い。興奮した人々が、自らの主張を、声高に訴える中、誰が、冷静に、対処できるか。特に、近年は、心理的なものだけでなく、物理的なものも、暴力が、横行しているからだ。陰口を叩かれる、位ならば、それまでに築いてきた、確固たる信頼度は、揺らぐことはない。だが、身体的な暴力を、振るわれた結果、黙らされるとなれば、それを、回復する手段は、容易ではない。だからこそ、発言に注意したり、発言する場を選んだり、人は、それぞれに、自衛手段を講じる。でも、と思うのは、社会媒体は、どういう代物か、ということだ。慎重な発言を、繰り返したとしても、無知な人間や、悪意に満ちた人間が、溢れる世界では、思い通りにはならない。特に、誤解を招くというより、曲解することを、常とする人間を、相手とした場合には、どんな言葉も、無力となり、無駄となる。結局は、その場を去るしか、方法が無くなり、その結果、負けを認めた、とまで断じられる。これを避ける為に、何をしたらいいのか。最も単純なのは、触らぬ神に、よろしく、そんな媒体と、接触しないことだ。だが、そこでも、最近の様子では、誰かとの会話が、勝手に投稿され、批判の対象となったり、場合によっては、言ってもいないことを、伝聞として、書き込まれた挙げ句、炎上する場合もある。ここでも、人間関係が、重要な要素となる。相手を選ばずに、軽々に話した結果が、そうなったとしたら、人を見る目が無かった、となる。恨みつらみも、その一つだろう。知らぬ相手に、売られた喧嘩も、そんなものかも。
情報源の信頼度で、今話題となるのは、既存の媒体か、あるいは、社会媒体か、といった所だが、以前なら、人と人との関わりが、情報伝達の手段だったから、その人間が、信頼できる人か、あるいは、何度も騙されてきた人か、という違いから、判断が行われてきた。
そんな環境で、既存の媒体は、新聞にしろ、テレビラジオにしろ、ある程度の検証に、晒されるものとして、信頼を築いてきた。だが、近年、その地位が揺らぎ、危うさが増しており、そこに加えて、煽りの姿勢や、話題性優先の姿勢が、情報の確認を、怠る体制を、築いてしまっている。こうなれば、冷静に観る人間には、信頼に値しないものとして、鵜呑みにせずに、確認を常とする姿勢が、築かれるものだが、そうできない人間の方が、遥かに大勢居り、それが世論となるだけに、警戒を要する時代、と言えるのだろう。だが、今の論争は、二つの媒体が、互いを貶し合い、事例を挙げながら、信頼度の低さを、競っているように見える。こんな中、愚かな民衆、と呼ばれてもいる、大勢の人々は、何方に与みすべきか、見守っていたり、中には、論争に加わり、自身も、根も葉もない噂を、撒き散らすことに、気付かぬままに、当てもない論争に、熱中している。だが、冷静に、議論に加わる人とて、大袈裟に、持論を展開するが、さて、その主張が、どれ程に信頼できるのか、怪しいものと映る。昨日も、公共放送に乗り、その論争を取り上げた、討論番組が、放映されていたが、その中で、社会媒体を、擁護する人間が、主張した内容は、冷静な話ぶりに反して、浅薄な論理に基づく、事実誤認でしかなく、所詮、この程度の輩が、こんな時間を使って、既存媒体で、話し合う内容とは、とても思えないものだった。紹介したリンクからは、契約者しか、視聴できないが、12分過ぎに、その主張が流れるから、可能な人は、眺めて欲しい。社会媒体は、捏造や嘘に溢れるが、一次情報を、流す限りは、そうでないとの主張だが、復活を果たした、海の向こうの人物は、「移民が犬を食う」、と明言した。が、当地の市長は、それを否定していた。発言は、一次情報だが、彼は、これまで何度も、同じ過ちを繰り返している。
情報の信頼性や正誤を語る前に、と思うのは、馬鹿げた議論が、社会媒体で飛び交うからだが、無知を棚に上げて、誤りばかりを主張したり、理解する気も無しに、教えてくれないと訴えたり、世の中には、呆れるしかない人が、一杯居るようだ。何故そんなことを、と思うのは、普通の感覚からだが。
ただ闇雲に、減税に飛び付くのは、その典型だが、この手の話は、まさに五万とあるものだ。例えば、今は、個人情報保護の観点から、一切、詳しくは伝えられなくなったが、嘗ての、高額納税者は、その額ばかりか、棲家まで公表されていたらしい。国への寄与から、褒められるべきもので、感謝を込めて、のつもりだったのかもだが、現実には、庶民の多くは、その輩が、不法行為によって、暴利を貪った結果、としか受け取れず、恨みつらみばかり、だったともされる。ただ、彼らの多くは、不動産管理や企業経営によって、それらの資産を築き、そこから、更なる利益を産み出した、という結果とも伝えられる。一方、最近の減税話との繋がりからか、嘗て、「トットちゃん」なる自伝を上梓し、今と違って、図書館も大量購入せず、ある程度の収入の人々は、自身で購入するのが、当然という時代だったからか、爆発的な売り上げを誇り、当然、印税も、莫大なものとなった、今では、司会者として著名な人物は、そこから、異常な程の納税を迫られ、業界の頂点を極めた。その後、国の税制の会議で、意見を求められ、収入の9割までもが、徴収された点を、累進課税の欠陥と、訴えたようで、その後、税率の改正が行われたとして、最近も、社会媒体で、取り上げられていた。感謝の声や、称賛の声が、寄せられたようだが、この仕組み、多くの庶民には、無縁なものだし、彼女の事例では、給与に対するものと、印税などの収入に対するもので、経費などの申告の可否が、異なる点に触れることなく、無理解の典型としか、思えないものだ。さて、この手の話、五万とあるのだが、どうしたものか。
先週も同じ言葉から始めたが、今回も。大衆迎合の典型は、減税だろう。これ程に、魅力的なものは無い、と思う人が、殆どだろうから、人気は続く。しかし、そこに潜む問題は、浅薄な人々には、理解できそうにない。一方で、財布の紐を、預かる省庁は、早速、反論を始めた。
その最たるものは、減収だろう。特に、お零れに与る、地方の首長は、即座に、悲鳴を上げ始めた。だが、その一方で、国政に転じた、ある大都市の首長は、自らの減税政策が、増収に繋がったと、持論を展開する。この絡繰りは、経済学者でも、解き明かせぬ、と言われる。風が吹けば、の話の如く、因果を語れば、何とでもなり、現実には、あらゆる可能性が、存在する、とさえ言われるからだ。だが、政を治めるには、不確定では、信頼が得られぬ。その代わりに、ご褒美を、ばら撒くことが、得策と言われるのは、こんな事情がある。ただ、現状の、愚かな人々相手に、そんなやり方だけでは、多分、愚民政治へと、転落しかねない。感染症騒動で、厳しい制限を課す為に、金をばら撒いた時、大衆は、貰えることを、当然と受け止め、その条件としての、義務には目もくれず、もっともっとと、要求し始めた。こういう心理に、危機感を覚える人には、例えば、女性経済評論家のように、増税した上で、低所得者に、補助金を与える制度を、提案する人も居た。この案は、騒動前に、出されたもので、あの為体から、危機を感じる以前に、大衆迎合の過ちを、指摘したものだ。権利のみを、訴えるのではなく、まず、義務を果たしてから、分相応の権利を、満足させるという話だが、筋の通った論理と思う。だが、朝三暮四宛らに、目の前の餌に、飛び付く大衆には、理解の及ばぬものだろう。もう、この勢いは、収まる筈もなく、破滅覚悟でも、断行せざる状況にある。とはいえ、別のばら撒きに、支障が出るのも、ほぼ確実だ。都合が悪くなってから、騙されたでは、もう遅い。どうなることやら。
情報の真偽が、不確かなままに、ある方向に、突っ走り始めた大衆は、民主主義の秤を、一方向に傾ける。それが、明らかとなるのは、結果が出た後であり、まるで、別ごとのように、何方が正しいかを、議論し始めるのだ。だが、決着はついており、それについては、戻せない。
そんなことを、今更、指摘しても始まらぬ。もう、列車は走り始め、行き先も、多分決まっている。それが、大衆が望んだことか、その時が来て、初めて理解できる。そこで、彼らが発する言葉は、「騙された!」だろうか。何をどう騙されたのか。今は、それを知る術は無い。確かに、民意は、ある決定を下した。それも、勢いを増すばかりの、皆の発言の高まりに、後押しされたもので、発言自体の正誤は、二の次と言うより、皆、考えもしなかった。多くの発言は、それ自体が、正しいことを、示している、と信じ込んだからだ。だが、時間が経つにつれ、様々な綻びが、見え始める。その多くは、論争の最中に、指摘されたことで、ここに来て、真偽を確かめる、ようなものではない。にも拘らず、手遅れの検証に、入り始めるのだ。その一方で、新たな体制により、事が始められる。そうなれば、論争そのものの、勝敗ではなく、皆が参加した、論争の的が、どんな姿だったかが、明らかとなる。でも、それでいいのだろうか。本来ならば、選ぶ期間中に、こういった議論は、正誤を含めて、結論を導かねばならない。その筈が、発言の的は、全く別の方に導かれ、その高まりが、大衆の意を決する。情報の正しさは、最中には、検証されることなく、皆が好む意見に、手を挙げるのだ。本当に、それでいいのか。このことに関して、歴史は、様々な事例を挙げ、皆が学ぶべきことを、示している筈だが、実際には、そうなっていない。だからこそ、真偽の議論が、事が終わってから、改めて、始められるのだ。さて、どんな成り行きとなるか。世界中で、そんなことが、始まっている。
世間では、何方が、信頼に値するかの、罵り合いが、喧しい。社会媒体とマスゴミは、所詮、同じ穴の狢に過ぎないが、何故だか、何方がとの議論に、結びついてしまうようだ。これは、世界的な傾向でもあり、特に、海の向こうは、前大統領、今回、選ばれたから、次期大統領だが、彼が騒動の源だ。
任期中に、不都合な情報を、遮断する為に、既存の情報源を、嘘吐きと断じ、自ら、夜中の情報発信に、精を出していた。だが、その内容が、公職にある立場からは、信じられぬ程に、偏ったもので、嘘や誤解が、満載だった結果、頼みの媒体から、追放される憂き目を見た。ただ、その後、例の天才的経営者に、買収された結果、元の席に戻っただけでなく、選挙にまで、勝利したのは、偶然の成り行きとは思えぬ。さて、こちらの状況も、ある意味、似たようなものだ。井戸端会議だったり、野次馬の噂話だったり、その程度のものが、認可を受けた情報源から、発信され続け、その一方で、社会媒体は、正反対の話を、実しやかに拡散する。何方が、信頼に値するか、と問われれば、今は、多くが、社会媒体と答える。民意という、選挙結果が、それを如実に表す、とする訳だ。だが、徐々に、落ち着きを取り戻し始めた、世間の状況は、一層の混迷を来し、互いの媒体内では、互いを、価値なしと断じている。でも、冷静になって、考えてみれば、何方も何方、情報の正誤は、個別に精査せねば、明らかにはならず、その上、上塗りされる内容は、まるで小説の如く、作り物でしかない。特に、選挙期間中に、真相を暴いたとされる、ある小政党の人間は、それを喧伝し、機に乗じて、敵対勢力を、徹底糾弾し続けた。結果を得て、我が意を得たり、とばかりに、浴びせかける姿勢を見るに、詐欺師の言説と、酷似しており、お里が知れる。要するに、こんな勝負は、元から、無意味であり、受け取る側が、情報の真偽を、判断するしかない。こんなこと、当たり前なのだが。