パンチの独り言
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6月13日(木)

 多くの人が、あれは何だったのか、と考えているだろうが、馬鹿げた騒動の結果、人の往来は、厳しく制限され、特に、国を跨ぐような移動は、ほぼ不可能となっていた。観光立国を目指す、と謳った途端の出来事で、観光地と呼ばれた地域には、混乱が広がり、皆の心も沈んだ。
 何だったのか、と書きたくなる程、騒動ばかりで、対策の効果の程も、予防接種の効果の程も、何も総括されぬまま、ただ単に、制限が解かれることとなった。それでも、街中を歩く人の中には、依然として、口を覆ったままで、暑苦しさが、こちらに伝わるだけでなく、異様ささえも、及ぼすことに、不快感を催す人も居るだろう。とは言え、人の往来は、以前と同じ程に、戻っただけでなく、観光客の数も、以前と同じ程度には、戻ってきた。喜ぶべきこと、と観光地では、考えているかも知れぬが、現実には、過ぎたるは及ばざるが、と思い始めた人も、多いようだ。確かに、一部の業者にとっては、収入が、以前に近くなり、やっと一息つけるとばかり、次の方策を、と考え始めたようだが、人材の確保が、問題となりつつある。その一方で、都会の有名観光地では、平日というのに、多くの外国人が、歩き回る姿があり、その上、彼らをあてにした、人力車の車夫達が、男も女も、そして外国人でさえ、道端に並んで、誘いの声を掛けていた。以前にも増して、車の数が、と思うのは、当然のことなのだろうが、それにしても、手持ち無沙汰も含め、余りに多い車夫の数に、驚くばかりとなる。これも、問題の一つなのだろうが、多くの飲食店も、同じような状況にある。その一方で、忙しさが増すにつれ、働く人が、戻ってくれたら、と願う店も多いようだ。雇用者と被雇用者の間で、あの騒動は、信頼を失わせる事態を、招いていた。その後の回復で、声を掛けたとしても、取り戻せないものが、そこにあるようだ。さて、この状況は、今後、どう変わっていくのか。

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6月12日(水)

 嘗て、写真フィルムには、ASAなる数値があり、いつの間にか、ISOとなった。前者は、ある国の標準、後者は、世界標準とされる。この国も、嘗て、録画の世界で、世界標準を、国内の二大勢力で競った。最先端技術を、誇る国として、標準となることは、最重要と考えられた。
 当時は、護送船団方式などと呼ばれ、国を挙げて、企業支援を行ったが、海の向こうからの横槍に、国の関与は、百害あって一利なしとばかり、報道は、挙って批判した。だが、その後の展開は、ここ数日書いたように、企業は低迷に陥り、一部産業を除けば、嘗ての栄華は、望むべくも無い。この原因を、そこだけに求めるのは、間違いかも知れぬが、自国政府への批判を、最優先にする報道は、他国政府の戦略に、まんまと乗せられた。権力に与する、という意味では、戦中の為体と、何ら変わらぬ姿に、今の社会媒体に巣食う、無知蒙昧との違いは、何も感じられない。国を挙げて、という意味では、先日共同体の選挙で、惨敗したとして、国内選挙に踏み切った大統領の国は、国内大企業の株を保有し、その国内外の活動を、大使館を先頭に、全面的に支援している。こういう国の存在に、知らぬふりで、触れることなく、海の向こうからの圧力に、加担したことは、大いに恥ずべきことで、今も続く、馬鹿げた批判姿勢も、科学的根拠と、論理的思考で、正すべきものと思う。電気自動車の台頭で、右往左往する中、監督官庁に対し、電池の標準化を、目指すべきとの意見は、各所から寄せられたようだが、何の動きも起きず、今に至っている。充電設備の充実を、目指すことは、確かに必要だろうが、現時点で、最重要なのは、消費者の利便性の追求であり、その為には、充電済みの電池を、交換する方式の標準化である。国内の製造業者が、かなりの世界占有率を誇るのに、そちらに動こうともしない官庁に、嘗ての姿は無いようだ。産業振興への、国の関与は、不可欠と思われるのに、何故か。

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6月11日(火)

 一週間程前、報道放送の見出しには、「不正」の文字があった。昨年末から始まった、自動車業界の激震は、物作り立国と呼ばれた国にとり、危機的状況にある、と見る向きもある。早速、批判の矢が、盛んに飛び交うが、その一方で、異なる様相が展開し、報道の不備さえ、囁かれる。
 確かに、検査項目に合致しないことが、行われていたのは、事実だったのだが、ほぼ同時に流れた詳報からは、全く別の面に注目が集まる。曰く、より厳しい検査を、実施していたのに、規則と合致しないからと、処分をするのは如何なものか、という訳だ。この展開は、報道の問題点と共に、それに振り回される、無垢な人々の、素直さと横暴さの表れ、と見る向きもあるが、何度も触れてきたが、論理性と科学的な見方が、社会全体に、備わっていないことの、弊害の一つと見るべきかも知れぬ。安全・安心が、絶対的な目標となり、製造者の責任が、厳しく問われる中、規制を厳しくするのは、当然の動きなのだが、それに対して、企業がどう従うかは、もっと議論しても良いし、相互の意思の疎通を、もっと図るべきと思える。今回の報道に関しては、監督官庁の言い分ばかりが、先行する形で、伝えたことが、世論操作の一つとなり、やっと閉塞感から脱した、とさえ思えた風潮に、水を差すこととなった。だが、冷静に見れば、何処かの自動車会社のように、検査を擦り抜ける為の、プログラミングを施すという、明らかに悪質な行為と異なり、自らを律する意味での、より厳しい検査の実施という、法外な行為を、罰することには、齟齬があったと見るべきで、過剰反応とか、体面の問題とか、そんな見方が必要かも知れぬ。ただ、その一方で、互いに忙殺された故の、確認の失念だとしたら、それもまた、反省すべきこととなる。自らを律するのは、当然のことだが、それとは別に、全体をより良い方に向ける為には、相互扶助も、必要なことだろう。倫理とは、それも含めてのことなのだから。

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6月10日(月)

 この国が、嘗て隆盛を誇った産業に、再び注目が集まる。世界で独占が続き、日出ずる国、とまで言われて、その状況が、長く続くと思われたのは、四半世紀以上昔のことだ。今や、経済の停滞と同じく、凋落が続いた末に、嘗ての姿は、何処にも見えない、とまで言われる。
 確かに、独占したことより、最先端を走っていたことの方が、今考えると重要だった。先頭から外れ、あっという間に、集団から遅れ始めると、彼らの姿は、遥か彼方へと霞んでしまった。国家事業とまで言われ、その回復に、多くの資金と人材が、注ぎ込まれたが、焼け石に水となり、今に至っている。再び、と言われるのは、国の北と南に、大きな動きが起きたからだ。南では、すぐ隣の島国、と呼ぶと、例の大国が、怒る姿が目に浮かぶが、そこから、大きな工場が、進出したとの話だ。生産拠点を、探し続ける中、例の大国は、別の国々との衝突により、生産制限が、厳しくなりつつあり、先行きは見通せない。その中、今更のように、嘗ての大生産国に、目が向けられたのは、世界情勢と共に、この国の事情もあり、更には、労働者の技術力への、期待の大きさもある。一方、北には、国の梃入れもあり、最先端技術を、取り戻そうとの動きが、大々的に起きている。ただ、業界では、両極端の見方に、分かれているようだ。あの程度の資金では、最先端技術の導入ができたとしても、競争力の確保は、難しいとの見方は、妥当なものだが、それを承知で、まずは技術の確保から始め、先頭集団への返り咲きを、狙っているとの見方も、ある意味的を射ている。ただ、疲弊が続いた社会では、悲観的な見方が、大勢となるから、状況は、楽観視できない。一方で、そんな重い空気を、消し飛ばそうとする、強い意欲も、感じられるのだ。悲観が、簡単なのに対し、楽観は、成果を求められるだけに、困難を伴う。だが、自己評価も含め、正当なものを求めずして、未来は見えてこない。何をすべきや。

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6月9日(日)

「限界!」という悲鳴が上がった、と報じていたが、問題の本質は、捉えていないようだ。それは、悲鳴を上げた方も、同様だろう。確かに、年々、削減が続けられ、人員削減や、経費削減など、減らせる部分には、相応の対策を、講じてきたのだが、これ以上は無理、といった所なのだ。
 その点では、先日、読んだ本で取り上げた、博物館の話も、同じ部類だろう。国からの、運営費交付金を、頼みとする組織では、必要最小限の人員を、確保してきたが、そこに、様々な要因から、経費、特に、組織を維持するのに、必要となる、燃料関係の経費の高騰が、強い圧迫となり、かたや、寄付を募る戦略に出、一方は、悲鳴をあげることとなった。後者が、悲鳴しか上げず、自助努力を怠っているか、と言えば、そうではない。彼らとて、寄付を募るのは当然として、もう一つの本業と言われる、研究経費に関しては、言われなくとも、競争的資金の確保に、奔走しているのだ。だが、もう一方の本業は、競争の世界にはなく、無駄を承知で、施すことが不可欠となる。ある成長都市の首長が、自分の所の大学の、効率化を図る為に、再編を画策した時、自身の大学生活を、遊んでいた、と豪語したと伝えられたが、それこそが、無駄の典型であり、効率化を目指して、必要不可欠のみを、押し付けるのが、教育だとしたら、こんな人間は、さっさと排除されていた。安定した平和な時代には、傾向と対策が、最善の策と言われるが、変化に対応できず、役立たずになるだけの人間を、育てたいのなら別だが、そうでないなら、無駄を承知で、最低限ではなく、余分なことさえも、教え授けたり、活動させたりといった、効率軽視のやり方こそが、重要となる。ただ、現場では、世情に見合う、効率的なものが、好まれる時代であり、正答のみを、欲する人間が、跋扈する時代である。そこへの対応を、迫る社会に対し、正論を貫く覚悟が、彼らにあるのか、見極める必要がある。見守るという意味で。

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6月8日(土)

 国際機関の決定を、どう感じただろう。子どもの権利を侵害した、として、ある国を、厳しく批判した。そのこと自体、何も間違っていない、と思う人が居たら、何と愚かなことか、と思う。独り言を、読んできた人なら、すぐに、判ると思うが、彼らの著しい偏りと無能さに、呆れる。
 大戦後、それまでの国際機関では、世界の平和を保てぬ、ということで、新たな仕組みが始まった。当初は、大きな目標に向かい、世界各国が協力して、という話だった筈だが、拒否権という、絶大的な力を得た、戦勝国の中には、その後の冷戦の状況もあり、身勝手な判断を、世界に向けて、押し付けることに、終始する国が出て来た。それでも、冷戦の時代は、啀み合いが、歴然としており、互いの利益のみを、追求する形とはいえ、ある意味で、均衡が取れていた、とも言われる。その状況に、大きな変化が起きたのは、一方の国々が、それまでの仕組みを、激変させることで、国の繁栄を目指す方に、舵を切ってからだ。その中で、分裂した国々を、今だに、自国の領土と見做し、そこに暮らす、同じ民族の保護と称して、軍事侵攻に踏み切ったのは、ある意味、成れの果て、とも思える行状だ。しかし、そこでも、国際機関は、全く機能を果たせず、口だけの批判を、繰り返すのみだった。少なくとも、多国籍軍を、派遣するなどして、安定を目指すことが、出来た筈なのに、だ。対立の中では、それも不可能、と見る向きもあるが、政情不安の後進国には、さっさと派遣するのに、と思うばかりだ。そこに、別の不安定な地域で、テロ活動が起きた。最初に書いたのは、その後の展開だが、あろうことか、機関の職員が、活動に加担したことが、明らかとなった時、やはり、と思った人も多いだろう。それほどに癒着が続く中で、今回の決定に対して、妥当と見るのは、あまりに無垢だろう。もう、死に体とも言われるが、根本から、改革を迫るしかなさそうに思う、活動費をせびるだけの輩に。

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6月7日(金)

 社会媒体が、持て囃されるのは、多様性の時代だからか。海の向こうの前大統領が、大手の報道を、偽情報ばかり、と盛んに批判し、自分に不都合な報道を、徹底批判したことは、記憶に新しいが、そうでなくとも、大衆は、偏った報道に、嫌気が差していたに違いない。
 その反省でもあるまいが、大手報道も、様々な意見を掲げ、多様な見方を紹介する。典型と思えたのは、衛星放送で流れる、世界各地の報道だ。軍事侵攻が始まり、互いに、自分有利となる情報を、盛んに流し始めた時、件の番組では、双方の報道を、偏りがあるかもだが、そのままに流す、と断った上で、流していた。当時、社会媒体では、各国の報道が、著しい偏りを示し、情報操作を指摘する声が、高まっていた。だが、その批判の根拠として、示された情報でさえ、別の偏りに基づくもので、別の操作としか思えず、信頼は失われていった。結果として、なるべく多くの意見を、掲げることが、妥当との判断だったのだろうが、その後も、偏りは、一向に無くならず、取捨選択を迫られる。軍事侵攻は、相変わらずの状態だが、昨年末に起きた、ゲリラ活動の結果、人質解放を目的として、難民が暮らす地区に、攻め込んだ国は、ある意味、徹底批判の対象となっている。だが、ここでも何度も指摘したが、批判の根拠の多くは、偏った情報によるもので、情報操作の可能性は、否定できない。にも拘らず、国際機関をはじめとして、多くの国々が、攻撃中止を訴えるが、当事国は、聞く耳を持たないように、攻撃を継続している。目的が、はっきりとしており、その達成の為と見れば、当然の判断だが、一方で、人道的な見地から、看過できない状況にある。では、報道の基本である、中立性は、どのように確保されているのか。この点に関しては、指摘してきたように、偏向報道が、繰り返されており、情報源の選択も、客観的とは思えない。人道は別にして、多様な情報を、流すべきと思う。

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6月6日(木)

 安全・安心の話は、重要と思う。だが、巷で言われるのは、全く異なるものとも思う。確保すべき安全や安心ではなく、ただ、絵に描いたようなものだったり、現実味の無いものだったり、その類いが矢鱈に出回る。それを、手に入れることが、全てであるかの如く、幻を追って。
 ここ暫くの間、自動車業界が、揺れ動いた。検査に不正があり、製造した車の安全性が、確保されていない、というものだ。一方で、現場からは、別の声が聞こえてくる。検査は、確かに行っており、手順として、誤ったものではない、というものだ。ただ、難点があるとすれば、二つの方向から、確認すべきものを、一つだけで済ませ、もう一方は、同じ結果とした、ということだろう。これでは、もう一方で、何かが起きた時、安全が確保できるか、と問われれば、答えようが無い、となる。そんなこんなの連続で、大手の企業が、次々と槍玉に上がっている。業界としては、おそらく、対象外となる所は、無いのでは、という憶測も飛ぶが、仮令、対象外だとしても、下請けいじめや他の要因で、批判の対象から、外れることは、困難となるだろう。何故、こんな状況に陥ったのか。評論家は、盛んに、成長を続ける中、気の緩みが溜まったのでは、と指摘するが、それだけならば、企業間で、異なる様相を呈しそうだ。業界全体が、こういう憂き目に、晒されているのは、基準そのものの問題、とは言えないだろうか。乱暴かもしれないが、本当に、不正により、安全確保が、出来ていないのなら、最近の事故を調査すれば、その兆候が見えそうに思う。同じではないが、嘗て、建物の構造計算で、不正が行われた時、建設済みの建物を、即座に取り壊し、再建したという話があった。その時、不謹慎かも知れぬが、耐震性を、確認してはどうか、と書いたことがある。机上の空論とは、言えぬものの、現実のものとして、確認してこそ、と思ったのが、何もされなかった。過剰基準かも、と思ったのだが。

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6月5日(水)

 詐欺は、それをする人間が、悪いに決まっている。だが、電話によるものが、頻発し始め、家族や親族の窮地を、訴えられたことで、手を差し伸べてしまった人が、次々に出始めると、少し状況が変わった。騙される人間にも、問題があるとか、利用される電話が、悪いのでは、などと。
 ここでも、傾向と対策が講じられ、被害を少なくしようと、様々に行われている。だが、その状況は、あちらも同じで、被害者を表にしたものが、出回っているとされる。まさに、鼬ごっこの典型だ。電話によるものは、効率が良いらしく、依然として、止まる所を知らない。更に、人間だけでなく、機械によるものまで、登場するに至っては、どうしたものか、と思えてくる。先日も、国際電話によるものを、取り上げたような気がするが、別の国から、かかってきた。手の込んだ芝居を打つより、薄利多売とは、詐欺には当てはまらないだろうが、そんな様相のようだ。一方、別の媒体によるものも、増え続けている。最大の問題は、ここでも、社会媒体によるもので、そこに登場した、投資話は、その典型だろう。ただ、これと似たもので、興味を惹くような、荒唐無稽話を並べたものは、その中に仕込まれた広告を、収入源とするようだ。一方、媒体そのものへの広告は、運営企業の収入源であり、この業種が、成立する理由でもある。だが、免許や認可を必要とせず、自由さが売りなだけに、詐欺そのものも含め、悪質な広告が、殆どとなっている。投資話同様に、著名人を騙ったり、一流企業を騙ったりと、違法行為丸出しだが、その検証を、運営企業は、参加者に委ねているようだ。しかし、この状況は、まさに、詐欺集団の片棒を担ぐもので、犯罪に加担している。元々、刑法については、国内適用が基本だけに、この手の犯罪が、国際化したことで、後手に回ることが、多くなった。とは言え、運営企業は、拠点を、国内に置かねばならない。だとしたら、そこを取り締まるしかないのでは。

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6月4日(火)

 先月読んだ本の中で、取り上げたいのは、国立科学博物館を、紹介したものだ。何度か訪問したことがあるが、膨大な収蔵品に、全てを眺めることは、不可能と言われている。それ以上に、展示されていないものが、遥かに大量にあり、そちらの管理も、重大な問題、とも。
 そんな調子で、博物館の意義を、紹介するだけなら、それほど、注目されなかったろう。こんな本が、今出版されたのは、例の事件があったからだ。軍事侵攻をきっかけとして、エネルギーの高騰が始まり、それが、電力料金の高騰へと、結び付いたことは、記憶に新しい。ただ、一般大衆が、政府からの補助を受けたのに反し、多くの公的な機関は、自助努力を強いられ、厳しい状況に陥った。その中で、資金獲得の為と、流行の金集めを、断行したばかりか、予想を遥かに上回る、資金を獲得したとして、注目されたのだ。その顛末だけでなく、存在意義などについて、丁寧に解説した内容は、読む価値がある、と思う。ただ、全体を読み通して、賛同できぬ記述も多く、今後については、懸念が残るのだ。特に、資金獲得に関しては、国立以外の公的博物館が、自治体の支援増額で、生き延びたのに対し、今回の成功は、大いに喜ぶべき、とする考えには、基本的に反対する。公的な支援を、必要とするのなら、それを貫くべきで、怠慢ではないにしても、こういう舵取りには、危うさがちらつくからだ。更には、職員の役割分担などにも、仲間意識がちらつき、今後の展開に、懸念が残った。まあ、何にしても、こういう所は、今が一番難しく、国立大学も、酷い目に遭わされている、と言われる。知識を活かす為には、次代を担う人材を、育成する必要があり、それに反対する人は、居ないだろう。にも拘らず、無い袖は触れない、という常套句が、罷り通るのは、何としたことか。税を見限るのなら、寄付を頼るしか無く、その為の法整備も、必要となる。どっち付かずは、破滅への道だ。

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6月3日(月)

 当初、こんな声が上がっていた。何故、あんな非常識に、同調するのか、と。確かに、ある時期までは、そんな声が、大勢を占めていた、と思う。ところが、徐々に、その状況に変化が起き、いつの間にか、大多数が、非常識な意見を、真っ当なものとして、評価するようになった。
 何が、そんな変化を起こしたのか。まず、思い当たるのは、社会媒体の拡大だろう。これも、当初は、意見交換の場として、大いに評価され、多くの論者が、参加しただけでなく、それまで、声を上げなかった、一般庶民も、自分の意見を掲げ始めた。それ自体には、何の問題も無く、媒体は、成長の一途を辿ってきた。ところが、ある時期から、そこに、別の動きが起きた。極端な意見を掲げ、賛同者を募るものだ。最初は、興味本位だったり、面白おかしい場を楽しんだり、その程度の、遊び半分のもので、無害なものだったが、所謂「いいね」を獲得しようと、嘘や出鱈目だけでなく、手の込んだ捏造までも、登場し始めると、状況が、徐々に変化していった。悪意に満ちたものや、荒唐無稽なもの程、耳目を集めるとばかりに、そんなものが、盛んに投稿され、更には、仕組みの問題でもあるが、興味を抱いたものを、引用することも、盛んとなるにつれ、爆発的な広がりさえ、起きるようになった。これを、社会媒体の責任とするのは、間違いではないが、それだけが原因、とは言えないと思う。一方で、件の被告人は、その仕組みを利用し、持論を展開することで、支持を獲得してきたが、そこには、溜飲を下げるだけでなく、何かしらの利益供与が、あったと考えるべきだろう。その根底には、愚民政治があり、その風潮に、社会媒体の仕組みが、乗っかったことが、誤った方向へと、進んだ最大の原因と思う。確かに、この状況を打開する為には、媒体に対して、厳しい制限を課したり、大きな責任を負わせたりが、一つの方法なのだが、大衆の問題は、解決しないだろう。目を覚まさせるには。

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6月2日(日)

 海の向こうだけでなく、こちら側でも、社会媒体に、好き勝手な意見を、書き散らす人々がいる。彼らにとり、同類の中で、絶大な権力を得た人間は、憧れの対象となり、支持する人の数も、多いと言われる。だが、能の無い人間に、何ができるというのか、疑問ばかりが残る。
 彼らの論理では、常に、自分が正しく、他の人間は、間違っているとなる。前大統領は、その代表格であり、就任以前の選挙でも、常識を逸脱した公約を掲げ、何度も苦汁を嘗めさせられた。だが、そんな人間にも、機会は平等に与えられ、何度倒れても、諦めない限り、選挙に出ることができた。その結果、大方の予想を裏切り、当選という褒美を、手に入れた訳だ。だから、自分は間違っていない、と結論付けたのは、まあ、お愛嬌を超えて、傲慢の現れに過ぎなかったが。それでも、任期中に、海の向こうの国が、崩壊することも無く、繁栄を続けている。だから、自分は間違っていない、と再び結論付けたのだろうが、これは、何のお陰か、大方の見方は、民主主義が、暴挙の数々を、打ち砕いたとしている。だが、幼児的な判断が、ある意味、通用することを、明らかにしたことで、彼自身のみならず、その支持者達もまた、勝手気儘な言動を、続ける結果となった。でも、と思うのは、法治国家としての、最低限の縛りが、維持されているか否か、という問題だろう。現時点で、被告人自身は、依然として、無罪を主張しており、謀略の数々を、指弾している。だが、法律に基づき、裁判で決定する、というやり方は、尊重されるべきであり、自分の考えが、全てを排除できる、とするのは、無法者の考えることだ。西部劇の時代でもあるまいに、劇の主人公にでもなったつもりか、勢いは衰えず、傍若無人ぶりも、相変わらずだ。確かに、選挙が決めるかもしれないが、裁判の結果は、法治国家として、厳然とあるべきだ。今や、呆れて物が言えぬ、と言うのでは駄目で、徹底的に裁くべきか。

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6月1日(土)

 海の向こうの国は、どう映るだろう。訴訟社会であり、何事も、裁判で決着させる、と言われるが、その舞台たるや、まるで演劇の如く、お芝居が演じられる。白黒を、はっきりさせる為とはいえ、感情に訴えたり、情報操作したりと、何でもありの状況に、呆れるばかりだ。
 今回も、前の大統領が、裁かれていたが、成り行きに注目が集まった。訴えられる程に、悪行を重ねたのなら、何でそんな人物を、候補とするのか、全く解せないのだが、それとこれは、別の話とのことだ。何れにしても、弁護検察双方が、慎重に選んだ陪審員は、全員一致として、全ての罪状に対して、有罪と断じた。予想通り、被告人は、相変わらずの調子で、自らの正当性を主張し続けるが、あの人物の嘘の数々に、辟易する人間には、何も響かない。だが、支持者と呼ばれる、狂信者達は、全く別の見方をし、何の罪も犯していない、と反論を続け、支持も続けると言う。この断絶は、二つ前の選挙の時と、全く変わらぬ状況だが、それとて、前の選挙では、一人の独裁的な人間の、異常な言動に対して、民主主義の判断が、下されたとされた。ところが、その決定でさえ、不当と訴え、賛同者を募り、議会へと押し掛ける始末、何処まで、無軌道ぶりを発揮したら、気が済むのか。おそらく、独裁政治を手にし、自らの権力を、絶対とするまで、終わることが、無いのかも知れぬ。判決後、控訴が確実とも伝えられるが、一方で、量刑については、ひと月程後に、下されるとのこと。ただ、早速、高齢だからとかで、収監は免れ、執行猶予が、との推測が飛び交う。だが、選挙に出馬し、その先、4年以上の間、居座ろうとする人間を、高齢と扱うのは、失礼千万だろう。さっさと、収監した上で、選挙を戦うのなら、塀の中から、やらせればいい。異常と思えるのは、訴訟だけでなく、こういう人権に関する話で、人種差別の一方で、こんなことが罷り通る。民主主義なら、特別扱いは、必要無い。

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5月31日(金)

 何度も書くが、心配するな、と言うのではない。感情のみに流され、科学的な論理を、打ち捨てて、不安や心配を、口にしたり、書き散らしたりするな、と言うのだ。それも、報道に携わる人々が、次々に書き立てて、大衆の不安を煽るのは、以ての外というものだ。
 大震災により、被害を受けた発電所は、様々な問題を生じている。処理水の問題は、国際的には、反対意見が、依然として残るものの、ある意味、解決の道を歩んでいる。一方、炉心溶融したと言われる、原子炉に関しては、手付かずの状態にある、と盛んに言われる。が、実際には、解決の道筋を、見出そうとして、関係者達は、最新の技術を、注ごうとしている。ただ、世論なのか、別の力なのか、計画を示せという、強い圧力がかかり、一旦は提示したものの、状況把握が進む度に、数々の問題が、噴出することで、それに対する解決策を、講じる必要が出てくる。その為、当初の予定は、狂い続けており、叩くことしか、頭に無い人々には、格好の標的となっている。ただ、現場の状況が、明らかになるにつれ、それに応じた対応策が、講じられており、ゆっくりとだが、進んでいるものと思われる。報道する側は、新たな情報と、画期的な解決策を、期待する為か、兎に角、遅々として進まぬ状況に、批判の声を、上げ続けるようだが、見守る必要がある、と強く思う。何しろ、破壊されたものを、処理できるように、運び出すことも、ほぼ初めてのことであり、軍事侵攻の先で、無知な兵隊どもに、踏みにじられた場所では、蓋をしただけで、周囲も、手付かずの状況にあり、多くの兵士が、被曝した位で、他方、制御された中で、進められている最中、何を焦って、批判し続けるのか、理解に苦しむばかりだ。遠隔操作も、机上の訓練とは、大きく違う状況に、覗き込む度に、新たな障害が、明らかになるのだから、容易では無い。ただ、何処かのように、臭い物に蓋では、解決にはならないのだ。

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5月30日(木)

 伝統文化に、関心があるだろうか。近年、外国の人気が高いとして、錦鯉や盆栽が、盛んに取り上げられ、国内よりも、遥かに盛り上がっている、とも伝えられる。価格の高騰など、別の意味での関心も、高いようなのだが、本質的に、好みの対象として、目が向けられる。
 盆栽をはじめとして、植物については、この国の特徴の一つである、季節の変化との関わりが、非常に強い。春になれば、牡丹や皐月などが、出回り始め、秋に入ると、菊の展示会が、開かれる。それだけ、愛好家が居る訳だが、その辺りの事情には、大きな変化があると言う。先日、近くのさつき祭りに出かけたが、立派な盆栽が、飾られる一方で、愛好家達からは、溜息が漏れていた。嘗ての人気は、全く衰えてしまい、来場者の数も、激減しているとのこと。以前なら、無料バスが運行され、駅からの輸送も、盛んだったものが、今では、数時間に一本の、路線バスが走るのみで、広い会場は、閑散としていた。と言っても、数として見れば、それなりの人が訪れ、出品数も、国内外のものがあり、立派なものと思えた。ただ、嘗ての隆盛を知る人々からは、遠い昔を眺めるような、目が向けられていた。同様に、その土地では、嘗て、石楠花の公園が、設置されていたが、いつの間にか、閉園となったようだ。入園料を払ってまで、と思う人が増え、減少の一途を辿った末のことだ。さて、趣味の世界は、昔から、愛好家だけが理解できるもので、家族を含め、他人には、理解不能と映っていた。今でも、その状況に変わりはなく、おそらく、肩身の狭い思いを、しているのだろうが、その一方で、海外の状況は、どうしたことか。まあ、投資の一環として、との考えもあるようで、一概には、歓迎できない面もあろう。ただ、こういう趣味の世界は、日々の生活に、余裕がなければ、実現しないものである。紛争や戦争などに、明け暮れるようでは、出来る筈も無い。長く続いて欲しいものだ。

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5月29日(水)

 傾向と対策を立て、準備万端の備えをする、という生き方が、今時のものだろうか。だが、実際には、対策は不十分で、万全とは言えない状況に留まり、結果的に、成功を手に入れることが、叶わなくなる。何故、と問われれば、即座に、必要になったらすぐに、と答えるらしいが。
 では、何時が、必要な時なのか。これも、尋ねられれば、その時が来れば、と答えるに違いない。だが、おそらく、彼らにとって、必要な時は、決して訪れないだろう。だからこそ、先送りを重ね、何もせぬままに、時間だけが過ぎて行く。今こそ、と叫ぶ瞬間は、やって来ないのだ。だからこそ、次こそは、と何度でも言い続けられる。平和な時代が続き、そんなだらしない人間でも、生き延びることができる。何とも、安易な時代となったものだ。と言っても、それなりの波風を受けて、やっとのことで、過ごしてきた人間も、大したことは言えない。目の前にある問題に、取り組むことがやっとで、その繰り返しを、生き延びてきただけなのだ。でも、と思うのは、何かしらの機会を、得ることができるのは、口だけの前者ではなく、やはり後者に違いないと。大したものは、手に入らないかもだが、それでも、何もしないで終わるよりは、ずっとましだろう。こんなことを、書き連ねるのは、機会さえ与えられれば、と言いつつ、何も手を付けず、自分から動こうともしない、そんな人間よりは、ましだろうという意味だ。それにしても、氷河期と呼ばれた時代、確かに、それ以前よりは、遥かに多くの若者が、行き先を見つけられず、路頭に迷った。だが、それでも、割合として見れば、ほんの僅かなものだ。なのに、今になって、学び直しもそうだが、定職に就けるように、というような動きが、あると言われる。あの時、機会が与えられなかったから、という理由のようだが、実際には、それを手に入れられなかったのは、本人の問題でしかない。なのに、何度も、与える必要があるのか。解せぬ話だ。

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5月28日(火)

 機会を与える、という意味では、誰もが対象となるが、やはり、話の中心には、若者が来るようだ。学び直し、とは少し意味が違うようだが、そんな方向の動きが、政府をはじめ、強まっていると言われる。だが、何かが違う、と思えてならないのだが、どうだろうか。
 技術革新が、急速な時代に、学んできたことが、古びてしまい、それを補う為には、学び直す必要がある、という主旨の話だが、それ自体には、何も間違いがない、と思える。しかし、今、学ぶ必要のある人間には、どう映っているのか。その点が、気掛かりなのだ。嘗て、自分なりに努力を重ね、ある水準に達したことで、学歴を得て、職を得てきた。そういう人々にとり、日頃から感じるのは、培ってきた技術や知識が、古ぼけたものとなり、若い世代のものと、見合わなくなっているのでは、と懸念だろう。確かに、日々進歩する世の中で、それに追随することは、困難を伴うように思える。でも、今、この独り言を書いている、端末についても、我々の世代からすれば、何も無い所から、急に始まった上に、不可欠なものとして、職場を占領してきたもので、それへの対応を、余儀なくされてきた。でも、何とかなっており、確かに、開発には及ばないが、使いこなす位は、何とかなる。改めて、学び直す必要は、感じたことは無く、単に、次々に登場するものに、適応するだけでも、十分だったと思える。とは言え、人によっては、改めて、本格的に知識を構築する必要を、感じているのだろう。その姿勢自体には、何の間違いも無い。だが、若者はどうか。今、学ぶべきものを、疎かにしたまま、必要になった時に、という感覚を、こういう動きに対して、抱いているとしたら、大間違いだろう。傾向と対策を、厳しく批判するのは、それと同じように見えるからだ。必要となってから、動き出せば間に合う、という考えには、不必要なものに、溺れていることが、あるように見えるから。

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5月27日(月)

 若者達を、勇気付ける意見がある一方で、もう駄目だ、とばかりに、諦めた話がある。この国は、もう貧しい国に、落ちて行くのだ、という話を、何処かで聞いたことが、無いだろうか。あんな話を、公然とすることに、何の躊躇いもなく、自分は、正しい意見を発している、と何故思うのか。
 平和が続き、安定成長が、約束されていた時代には、こんな意見が、出てくることは無かった。仮令、心の中で、思っていたとしても、それを発するのは、憚られたのだ。それが、いつの間にか、躊躇することなく、語る人々が出てきた。伝聞でしかないが、まるで、敗戦後の、目標を失った人々の、意見のように。だが、それを発する人々は、例えば、それなりに高い店で、食事をしながら、こんな話をする。若者からすれば、馬鹿にしている、としか思えぬ話だが、最近の連中は、諦められたと思うからか、そういう老人共に、冷たい視線を送るだけ、で終わるようだ。こんな人間関係は、赤の他人だとしても、不思議に感じる。貧しい国と言いつつ、高級な料理を、何の躊躇もなく注文し、美味そうに頬張る姿は、異常としか思えない。彼らの多くは、若者達の行状に対して、何の疑問も抱かず、注意しようともしない、のではないか。諦め、という言葉が、過るのだが、それだけでは、ないような気がして、こんな所に書いてしまう。勇気付けることも、諦めることも、必要無いと思うのは、こちらの感覚が、ずれているからか。世代間の断絶ではなく、世代を結び付けて、何らかの継承を、続けていく為には、厳しい言葉も、厳しい接し方も、必要だと思う。若い頃に、そんな圧力を受けて、凹むこともあったろうが、それでも、何かしらの力を得て、今に至ったと思えばこそ、こんな感覚を抱くのだ。だが、巷では、全く異なる言動が、満ち溢れているように、思えてくる。世も末と思うのは、勝手なのだが、社会全体のことを、全く考えずに、私利私欲に走っても、ろくなことは無い、と思う。

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5月26日(日)

 塵芥捨て場は、嫌われものである。日々出される、生活塵芥もそうだが、高度な塵芥も、だ。一方で、裁判記録などが、廃棄された問題もあり、保管・管理も、疎かにできない、重大なものとなる。保管・管理や、廃棄の問題が、取り沙汰されるのは、結局、どう扱うか、という話だ。
 高度な塵芥、と書いてみたものの、何のことやら、と思われるだろう。所謂、核の塵芥である。ごく最近も、話題として取り上げられたが、何処に最終処分すれば、という問題が、解決策を見出せぬままに、ある意味、放置され続けている。北欧の国では、処分が始まる一方で、問題となる発電方式を、放棄する動きも、勢いを増している、と言われてきたが、一方で、再生可能と称する方式が、増すに従い、数々の問題が生じたり、脱炭素という掛け声で、削減を加速させた方式も、捨て切れぬようだ。確かに、再利用ができず、一方で、環境負荷の大きい、核の塵芥は、生活塵芥とは、比べ物にならぬ位に、重大な問題とされる。だが、半世紀以上前に、この発電方式が発明され、それが、数を増し始めた頃には、これらの厄介物は、海上投棄が、常識とされていた。「沈黙の春」で取り上げられたのも、この話なのだが、それと、今の三重水素の問題を、同等と捉えるのは、無知の極みだろう。とは言え、その後、環境悪化が、問題視されたのは、一方で、核実験が下火となり、もう一つの汚染源が、取り除かれたことが大きい。その結果、最終処分場なるものを、設けることが、世界の常識となり、今に至っている。だが、三重水素の話で、取り上げたように、放射性物質の処理で、方法の一つとなるのは、希釈であり、高濃度のものを、希釈分散させることで、影響を抑えるのは、科学的にも、妥当と考えられる。元々、原子力燃料に用いられる、ウランは、濃縮することで、利用可能となる。逆に言えば、自然界でも、僅かな反応がある。ならば、分散して、元の状況に近づければ、いいのではないか。

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5月25日(土)

 批判的に、物事を捉える習慣の無い人には、何と、都合の良い時代なのか。などと書き立てると、そりゃ逆だろう、と言われるのか。不安や心配を煽り立て、火を付けておいてから、騒ぎを大きくする。そんな戦略が、報道の常となってから、もう、何年も経過している。
 普通に、物事を考えられるなら、気付いてもいい筈が、次々と騒ぎが起こされるのを見ると、そうでないことが分かる。誰かが起こした騒ぎも、その殆どが、空騒ぎと終わり、忘れ去られるだけだが、騒ぎの最中には、炎上あり、議論沸騰ありと、暇潰しとも思えぬ、何とも精力的な、言動の遣り取りが起きる。だが、所詮、浅はかな考えに基づく、見通しの暗いものだけに、長続きする筈もなく、まして、役に立つ議論へと、発展する筈もない。で、結局は、次の材料を見つけ、そちらに走るだけで、報道は、それで飯が食えており、有る事無い事、書き散らせばいいとなる。今回触れるのも、その一つと思うのだが、例の24年問題、と名付けられた、働き方改革の影響の話だ。陸上輸送においては、様々な仕組みが、世の中にあり、それによって、人々の生活は、恩恵を受けている。その中の、大型自動車による輸送が、問題を抱えている、という話なのだ。長時間労働に、強い規制が入ることで、これまでの長距離輸送が、立ち行かなくなる、との主張が、実しやかに行われてきた。各地からの輸送が、不可能となれば、日々の食品の流通が、滞ることから、大問題へと発展する、というものだが、本当だろうか。半世紀程前には、自動車輸送は、都道府県内に限定され、一部の業者のみが、長距離を扱っていた。当時と同じと見れば、何とでもなる、と思えるのだが、不可能だと断定する。さて、何処に違いがあるのか。規制緩和以来、個別輸送が、当然との風潮となり、今に至るが、経費削減も伴い、全体として、効率化とは裏腹の、経費圧迫のみとなった。この弊害が、除けるのに、何が悪いのか。

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5月24日(金)

 差別の話の多くは、合理的に考えると、矛盾に満ちたものとなる。だが、今の風潮では、本人にとって、どう感じられるかが、肝心であり、他人の印象や感覚は、入り込む余地が無い。その中で、差別を殊更に取り上げれば、別の差別を招き、更に、という具合になる。どうしたものか。
 これも、弱者保護の一つ、と思っているのだが、賛否があると思う。酷い差別を受け、人権蹂躙としか、思えない程の仕打ちを、受けた人間に対して、それは、合理的に考えれば、と始めてしまえば、まさに、差別的な意見として、断じられる。だが、冷静になって、考えてみてはどうか。人権蹂躙とは、何を指すのか、酷い差別とは、何を指すのか。別に、裁判をするつもりはなく、単に、事実を並べた上で、検討してみては、と思うだけだ。その上で、事実として、合理的に考えても、差別と思える言動が、あったとすれば、加害者と思しき人間に、何かしらの措置が、必要となる。一方で、権力を笠に、何かしらの圧力を、受けることは、誰にもあり、それも、度々となることもある。そんな時、確かに、訴えることで、障害を取り除くのは、方法の一つには違いないが、そんな手間をかけるより、別の方策を講じて、やり返すのも、一つではなかろうか。諦めが肝心、などと言われるが、諦めるか否かは、人それぞれの判断で、力関係が、明確だとしても、形勢が変わることも、多々あるものだ。こんなことを書くと、世間知らずの、何も解っていない意見、と言われるかもだが、本当は、そんなことが、数え切れぬ程あり、その中で、人々は、生き抜いているのだ。弱者が全て、と感じるのは、どうだろうか、という話である。しかし、力の弱い者が、何かしらの主張する為には、差別を取り除くのが、第一と考えれば、そんなやり方もあるだろう。でも、と思うのは、弱いことを自覚し、それに甘んじることが、必ずしも良くない、と思うことがあるからだ。まあ、戦ってみるのも、一つではないか。