パンチの独り言
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6月1日(日)

 最近の話題の、もう一つは、米騒動だろう。擦った揉んだの挙句に、大臣の交代となり、そこから、新たな手立てが、講じられて、今は、一つの解決を見た、と思われている。だが、不安と心配を、手放す気の無い人々は、別の問題を、次々に取り上げ、安心を渡さぬつもりらしい。
 競争入札と、随意契約には、何の違いも無く、何方も、肝心の物品が、出回りさえすれば、問題解決となる、筈だった。ところが、この世界を、牛耳り続けてきた、ある組織は、依然として、その権利を手放さず、牛歩の如く、一向に進まぬ、手続きの数々を、まるで、人質に取ったが如く、価格の下降も、流通さえも、滞ったままに、操作を続けたようだ。豪を煮やした、新大臣は、親と同様に、業界に居座る組織を、破壊しようとばかりに、競争相手の参入を、手助けする形で、止まった歯車を、動かし始めた。その甲斐があり、市場に出回り始めた、米の袋に、群がるように、殺到する消費者を、不安と心配の権化は、盛んに取り上げ、競争を煽ることで、別の問題を、声高に訴える。と同時に、一部の政治家の、失言としか思えぬ、妄言の数々も、この時ばかりと、何度も繰り返し、流し続ける。家畜の餌に、なる筈のものを、大切な国民に、配るとは何事か、とは、言うに事欠いて、としか、言い表しようのない、馬鹿げた論法でしかなく、無知と共に無恥を晒し、売る程ある、と称した上で、受けを狙ったとまで、告白する始末の、前大臣と、何ら変わらぬ、愚か者ぶりだ。にしても、この一連の流れに対し、例の如く、総括するつもりは、毛頭無く、喉元過ぎれば、となることが、ほぼ確実となっている。米は、足りているのか、足りていないのか。監督官庁でさえ、実態を掴めぬままに、業界最大の組織の、主張のままに、鵜呑みにしており、ずっと昔の、年貢の時代のように、役人自ら、領地内を歩き回り、確かめる必要が、あるのではないか、と思える。その上で、減反政策一辺倒だった、愚策の連鎖から、抜け出す道を、見つける必要がある。その際に、現大臣が、活躍するとは、とても思えぬから、何か、新たな手立てが、必要となりそうだ。

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5月31日(土)

 独り言では、批判的なものの見方を、紹介しているが、それは、悲観論とは、全く異なるものだ。悲劇的な筋書きを、紹介することで、人々に、不安や心配を煽り続け、自らの存在価値を、見せつけようとする、一部の識者や、マスゴミとは、全く違う考えに、基づいている。
 だから、ここで書き続ける、批判の数々は、多くが、悲観論に向けてのもので、安心していい、とは言わないまでも、過剰な心配や不安で、身動きが取れなくなる、という事態を、避ける為のものだ。だからと言って、何もせずに、好き勝手に振る舞うことが、いいという訳ではない。自分ができることを、しっかりと行うことで、社会全体が、支えられる、という信念に基づくもので、一人ひとりが、責任感を持ちつつ、日々の生活を送れば、何の心配も要らない、と言っているだけだ。例えば、多くの識者が、少子高齢化が、このまま進めば、労働力が不足し、その分を、外国からの人材に、頼らざるを得ない、と主張するが、現実には、多くの労働力が、余っている状態で、一方で、高度成長の果てに、効率化が高められ、様々な現場で、省力化が進んだお陰で、識者が叫ぶ、人材不足は、それらの殆どが、心配無用と思えてくる。にも拘わらず、人が足らないとばかり、言い続ける人々は、状況判断が、明らかに誤っており、今、国内で、余っている人材を、如何に活用するかを、論じないことに、知恵の無さが、露呈していると思う。そんなことを書くと、主婦がとか、子供がとか、そんな方にしか、目が向かないようだが、実際には、今、非正規雇用とされる、人材の多くが、正しく活用されず、本人も含め、悲惨な状態にある、と信じ込まされ、世間的には、誤解を招くように、誘導されている、と思う。それ以外にも、障害者と呼ばれる、人材の活用も、不十分な状態にあり、いつものように、不幸な人への支援ばかり、声高に訴えるだけで、本質的な解決を、目指さぬ姿勢に、呆れるばかりだ。支援も重要だが、それより、遥かに大切なのは、活用なのだと考えれば、使いようは、一変するに違いない。こんなことの積み重ねが、解決への道筋となる筈だが、どうだろう。

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5月30日(金)

 何度も書いてきたように、海の向こうの餓鬼大将の、迷走ぶりには、呆れるばかりだろう。ただ、彼程の極端さは、無いにしても、同様の政策は、同じ党からの、大統領を見れば、納得できる部分もある。関税も、最近は、盗聴事件で、失職した人物も、やっていたことだから、とされる。
 で、その観点で眺めると、無軌道ぶりは、説明できぬまでも、高学歴の人間を、仇の如くに扱う、あの手法は、独自のものとは、思えてこない。だからこそ、多くの経営者や、大学関係者は、敵対する政党を、長く支持してきた。ここに来て、論理が通じない、政策の数々や、研究や高等教育を、罵倒する態度が、際立つようになると、高学歴の人間から、改めて、現職のみならず、あの政党への、批判の声が高まる、と思える。減税や雇用など、即効性の政策を、好んで打ち立てるのも、あの政党の常だが、ここに来て、度が過ぎるとさえ、思える程となると、長い目で見る必要がある、人材育成や研究などへの、資金投入が、滞ることが、明らかとなり、経済のみならず、様々な方面に、停滞が起きる、と予期される。特に、問題を大きくするのは、多くの点で、過度な変化を、起こしていることで、傾いた勢いを、戻すことが、難しくなる、とさえ思えてくる。再選は、もう無いと、制度上からも、言われているが、それとて、転覆させようと、動くかもしれず、懸念は、大きくなるばかりだ。一方で、次の候補と、見做される人物も、一見、論理性を有する、とも思えるものの、この所の、支える姿勢からは、逸脱の気配さえ、感じられている。二大政党制が、大切にされるのは、振り子のような、動きをするからであり、結果的には、何処か遠くに、飛んでいくことがない、と思われるからだろう。一方で、民主主義が、守るべき権利を、保証することも、重要なもので、今の急変についても、個々に対応され、落ち着きを、取り戻すかもしれない。何にしても、海のこちらからは、見守るしかないのだ。

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5月29日(木)

 排斥により、閉鎖的な国を、築き上げる、というのが、あの人物の目標だったら、まさに、今の状況は、その途上にある、と言えそうだ。関税の導入で、国内産業を、保護しようとするのも、その一つと考えれば、腑に落ちるだろう。だが、その将来性は、如何なものか。
 こちらの大企業が、あちらの、凋落が続く、嘗ての重工業の花形だった、企業を買収する話は、自由主義、資本主義から言えば、当然の成り行き、と見えたが、前大統領も、その後を継いだ、候補も、そして、今のあの人物も、選挙期間中には、反対を唱えていた。禁止という判断を、下した挙句に、退任する態度には、責任とは思えぬ、別の感情が、働いているように、見えたものだ。その後、天邪鬼ぶりを、発揮し続ける人間に、前と同じは、納得がいく筈がなく、結局、買収を、認めることに、なりそうな気配だ。但し、つけるべきいちゃもんを、次々と繰り出し、与党の幹部でさえ、何やら、不穏な武器を、持ち出す始末に、また、市場が騒然となる。ただ、政府の関与を、確かなものとする手法は、別の先進国では、当然のものと見做され、発行株式の、かなりの部分を、政府が保有する、という国も珍しくなく、それによって、発言権を維持すると共に、海外進出などにおいて、支援を惜しまぬ姿勢が、維持されている。こちらは、海の向こうからの圧力に、屈する形で、政府主導の、経済発展や科学技術振興を、手放すこととなり、官僚にとって、国を率いる誇りが、失われたことで、役人になる夢は、失われてしまった。その後、優秀な学生の、就職先としての地位は、脆くも崩れてしまい、今に至っているが、近年の、能力不足の嘆きは、まさに、その辺りから、始まっている、と見ることもできる。公僕たる存在が、高い能力を発揮し、国を率いてきたことが、敗戦後の、高度成長を支えたのだが、その後の凋落ぶりは、別の要因を挙げる向きもあるが、現実には、国政に携わる人々の、問題と見るのが、正しいのではないか。今更ながら、嘗ての立身出世物語を、復活させることが、必要に思えてくる。

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5月28日(水)

 ここを書き始めた当初から、時代の問題を取り上げてきた。世界各国で、若者達の意欲の減退が、問題視されていることに、触れたのだが、各国の中で、唯一の例外は、海の向こうのあの国で、その理由は、移民の受け入れ、と結論づけていた。嘗ては、そうだったのだ。
 となってしまいそうな勢いで、あの大統領が、次々に繰り出す、移民排斥の政策に、どう対処するのか、当初は、労働移民が、その中心となっていたが、今や、学問の世界にまで、及び始めている。ここまで、極端な変化が起きたのは、実は、その他の国での、移民政策の変化が、きっかけになったと思われる。冷戦時代には、東西に分かれていた国が、壁が崩れたことで、統一された時に、西側の人間達は、一気に流入する、安い労働力に、懸念を抱いていた。それが、杞憂となり、落ち着くにつれ、高い工業力を誇る国に、戻り始め、東からの人間が、宰相になった頃から、移民政策の転換が起き、多くの国々から、豊かな生活を夢見る人々が、流入し始めた。同じ地域の国々が、同等とは言えないまでも、似た政策を始めたことで、確かに、安い労働力を、手に入れたのだが、その代わりに、多くの労働者が、仕事を失い、徐々に、問題が広がった。その結果が、移民排斥へと繋がるのは、ある意味、当然の道筋だろう。ただ、それ以前から、移民大国だった所では、それでも、変更されることなく、維持してきたが、前の任期の時に、国境に壁を築き、流入を止め始めたのに、驚いた人は多い。それが、返り咲きとなると、更に、状況悪化が進み、まさに、移民排斥への道を、突き進み始めた。国内産業の保護と、労働の確保が、確かに、公約だったのだから、その通りの道筋だろうが、さて、このままで、繁栄を続けられるのか。最初に書いたことからすれば、危ういと言わざるを得ない。今しか考えられぬ、頭の悪い人間には、先のことなど、眼中に無いのは当然で、そんな人間を、選んだ人々は、彼の任期が終わった時に、何を考えるのだろう。

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5月27日(火)

 言葉の問題は、難しいことだが、その流れを眺めてみると、あのことが、気になってくる。それについては、後半で書くが、まずは、どんな言葉が、という所から、始めてみよう。手にした端末で、撮影するのが、当たり前となったが、それ以前には、皆、写真機を、持ち歩いていた。
 その後、高価なものは、と思う人が増えたからか、あるいは、多くの物品が、一度きりの使用、となったからか、所謂、使い捨てカメラが、登場して、一世を風靡した。軽くて使い易く、高価なものと、変わらぬ画質が、手に入ることは、ある意味、画期的だったが、勿体無いとの意見が、社会に広がるにつれ、呼称に、いちゃもんが、ついたのだろう。いつの間にか、レンズ付きフィルム、と呼ばれるようになった。写真機を、知る人間には、フィルムにレンズが付くとは、異様としか、思えないものだが、こういう変更は、圧力によるものとして、多くありそうだ。これが登場した時、誰でも綺麗な、という意味を込めて、「バカチョン」という言葉が、使われていたが、その当時、最近、とんと見かけなくなった、ある女性論客が、言葉の問題として、「チョン」が、ある国を侮蔑するもの、と紹介して、放送で、使用が禁止されたことを、紹介していた。検索してみると、実は、維新前から、使われていたようで、語源も異なる、との意見が出ており、さて、あの話は何だったのか、と思える。先日の話に戻すと、優劣が、誤解を招く、とのことだったが、意味を含めて、解説することが、重要と思う、と書いた。しかし、学会が、乗り出してまで、変更を強いたのは、受け手の問題、とされている。嫌な思いとか、嫌悪感とか、差別とか、そんなことが、理由となったが、受け取り方が、肝心とされていた。学問の立場から、その意味を、丁寧に説明するより、安易な変更を、決断したようだが、新たな用語は、別の問題を生じている、と思う。さて、これらの経緯において、問題となったのは、やはり、虐めについての解釈に、始まりがある、と思えるのだ。いじめっ子ではなく、いじめられっ子に、主眼を置くべき、としたことは、ある意味、画期的だったのだろうが、それにより、様々な皺寄せが、社会で起きている。その一つなのでは、ないだろうか。

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5月26日(月)

 差別的な言葉に対し、配慮せねばならぬ時代、と言えば、その通りかも知れぬ。だが、差別という括りが、どのような形で、規定されるかで、この話は、解釈が大きく異なる。痴呆と認知、直接的な表現から、穏当な表現へと、変更されることが、重要との見方があるが。
 現実には、真の問題は、そこには無いと思う。医学の世界では、症状を表す為に、様々に工夫された、表現が用いられ、それが、病名として、一般に知られることとなる。妥当な手続きに、思えるようだが、現実には、それによって、様々な誤解を招き、病名の一人歩きが、時に、治療を困難とさせ、社会問題となる。的確な表現であれば、と思う人も多いが、一方で、病名を告げられたことで、安心したとの声も、届くようだから、一概に、弊害とは言えぬ、との意見もある。本来、説明を尽くし、誤解を招かぬよう、配慮することの方が、大切だと思うのだが、多くの人々は、自らの直感に基づき、誤った解釈で、全てを片付けてしまう。これは、遺伝用語でも、同じことであり、表現を変更するより、真の意味を、伝えることに、力を入れるべき、と思うのだが、現代社会では、安易な方に流れる。また、こういう動きは、人権派が、得意とする所で、その圧力や運動に、学会が屈した結果、と見ることもできる。ただ、有識者を、自認する人間が、実際には、正しい対処をせず、安易に流れることが、問題を複雑にする。人権派も、有識者も、単に、装っているだけで、本質的な問題解決を、目指さぬのは、どうしたものか。懸念が、広がる訳ではないが、こういう動きが、盛んとなると、学問の世界へも、圧力が高まりそうに思う。差別表現の典型として、古くから使われてきた、生き物の名前、それも通称ではなく、和名という正式なものまで、変更せよとの意見が、出るのでは、とさえ思えてくる。著名な植物学者が、もし存命なら、何と評するのか。言葉そのものの、差別感については、こちらも著名な作家が、断筆宣言をして、世間を騒がせた。本人の意見は、少し違ったようで、所謂「言葉狩り」ではなく、時代背景を、とのものだったようだ。真意を、知る術は無いが、さて、言葉の問題を、どう考えるべきか。

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5月25日(日)

 先日、昔の番組を流す中で、今とは異なる表現に、断りを入れていたが、どうなのかと思う。確かに、制作側は、以前の表現が、一部の人々に、嫌悪感を催させる、との理由などから、言葉を変えた経緯があり、それを反映したものだが、その変更自体、首を傾げる向きもあった。
 高齢化が進み、その中で、奇行が目立つようになると、それを指す言葉が、使われるようになった。痴呆老人、痴呆症、恍惚の人、など、様々に呼ばれたものだが、印象として、馬鹿にしたもの、との受け取りがあり、不快だとされ、学会が率先して、認知症という呼称を、使うようになった、という経緯があるようだ。この病態自体に、疑問の余地が、かなり残っており、更には、命名者と言われる人物が、自らが発症した時、初めて、違和感を覚えた、とあるように、言葉の印象は、強い影響力をもつと言われる。ただ、印象は、それまでの経験と知識から、出てくるものであり、呼称についての、説明を施せば、印象を変えられる、とも思う。こんなことを、書き始めたのは、誰もが、学校で習った、ある遺伝法則で、使われてきた用語が、変更されたと聞いたからだ。優性と劣性、として、二つの遺伝子が、同時に存在した時に、どちらが、形質として現れるかを、表現する用語は、元々、翻訳により作られたが、この優劣が、遺伝形質が、優れているか、劣っているかを、表すような印象を、与えるとの観点から、学会が率先して、顕性と潜性、という用語への変更が、提案された上で、数年前から、学校教科書でも、使われるようになった、とのことだ。前者の誤解は、差別的な考えに、繋がるとの解釈からだが、後者については、理解を妨げるのでは、とも考えられ、変更自体を、誤ったものと考えたい。重要なことは、現象の説明と、それを表現する用語の説明で、正しいことを伝えることであり、言葉の一人歩きを、許さない姿勢だろう。優劣は、ここでは、二つが同時に存在した時、何方が優勢となり、何方が劣勢となるか、という意味であり、顕と潜で表そうとする、現象、あるいは結果とは、全く異なる観点だ。こういう判断を、有識者と思しき人々が、下したことを、言葉狩りの風潮、と見るのは間違いだろうか。

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5月24日(土)

 辞任に伴う交代から、突然飛び出した、随意契約の話に、驚いた向きもあるだろう。だが、所詮、役所のやること、上が代わったから、とは限らず、待てど暮らせど、一向に下がらぬ市場価格に、痺れを切らした結果、なのかもだ。にしても、競争入札と随意契約、例の如くの話か。
 国や自治体が、契約を結ぼうとする場合、競争入札が、絶対条件となる。でも、その為に、現場が大混乱となった、という話の、何と多いことか。確かに、税金の使い道として、適正な価格が、設定されることは、当然である。が、その取引が、適正な価値となるかは、全く別の話だ。落札した業者が、設定通りの業務を、果たさなかった場合、結果は無価値となり、競争入札で、最低金額を、示したからといって、要求通りの結果が、導かれるとはならない。大昔には、どんな業務に対しても、1円という、最低金額を提示し、落札後の業務で、別設定のものを、導入することで、追加を請求したり、完成後の維持を、長年に渡り担当し、その収益で、利益を出す方式が、取られていたが、最近は、最低金額を提示しても、設定通りの業務を、果たせないままに、無駄となった上で、再度の契約を、余儀なくされる場合も、出ており、最悪の例としては、ある大学が、産業廃棄物の処理で、競争入札を実施し、落札業者に依頼したら、結局、処理に困った挙句に、不法投棄となり、発覚後に、大学が回収した上で、再度の手続きを、する羽目に陥った、というものさえある。結局、今回の騒動も、その範疇となるかもだが、馬鹿の一つ覚えで、競争入札を、実施する方式は、設定そのものが、整備不足だと、思い通りに運ばぬこととなる。役所の勉強不足や能力不足が、要因だろうが、本来は、結果こそが全てで、そこに向けての動きが、不可欠となる。失敗したから、随意契約で、とは安直過ぎはしないか、懸念は残るが、市場目標価格を、設定することで、目標達成となるかもだ。業者の無能さを、嘆いていても、何の役にも立たず、それを、吟味できる仕組みを、導入しない限り、入札は、こんな騒動へと、繋がるだけだろう。暫くの様子見が、必要なようだ。

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5月23日(金)

 若い人以外は、「今時の若い者は」、と思うことが、度々あるのではないか。こんなことを書くと、歌にあるように、自分の時よりはまし、と考えるべき、などと言い出す人も居る。だが、やはり、若い世代が、自分の考えとは、異なる言動を繰り返すのに、違和感を覚える。
 比較などしてみても、何も始まらない、のだろうが、気になることはある。人生を、などと宣う若者に、何かしらの助言が、必要かどうかは、誰にも分からない。何の根拠もなく、悩み続ける人々が、沈んでいくのを眺めると、何か、助けが必要なのかも、と思ったりするが、さて、どうしたものか。それとは、全く違う話だが、最近の若者を、たまに眺めていると、ふと、気付かされることがある。この連中の目標とは、何だろうか、という疑問だ。節目節目で、選択を迫られるのは、当然のこととして、その選択自体が、何の目的で、行われたのか、という点と共に、選択した後、どうなるのか、ということに、思いを馳せるのだ。例えば、最高学府と呼ばれる、学校に進学する時、そこを選んだ理由は、どこにあるのか。一番の理由は、合格できるかどうかであり、そこを選んだ理由は、自分の順位との関わり、とされることが多い。だが、そうは言っても、その進路を選ぶ理由には、就職に有利とか、そういう分野が好きとか、そんなことも、あるに違いない。で、いざ、そこに進んだ時、別の思いが出てくることになる。主たるものは、こんな筈では、なかったということだが、予想と違う現状に、違和感を覚えて、悩み始めるらしい。だが、出直すのか、そのまま留まるのか、それだけでも、難しくなるようだ。今時、という所以は、そんな所にあり、特に、情報過多の状態で、事前に、様々なことを、知ることができるだけに、期待外れ、となることが増えた。一方で、嘗てなら、大した情報も無いから、期待と違っていたとしても、留まってみるか、という選択をしたのが、今は、情報過多の中で、膨らんだ期待を、萎ませることができず、悩み続けるようだ。不幸だと思えるが、現実には、期待すること自体に、問題があると気付かねば、いけないような気もする。誤解に基づく期待ほど、扱いにくものは、無いだろうから。

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5月22日(木)

 この星は、恒星の周りを、巡るだけでなく、自身も回転する。だから、明るい時間と暗い時間が、繰り返され、人間の指標では、24時間で、一回りする。星の上では、何処にあるかで、昼夜が異なり、今、この時間であれば、海の向こうは、夕刻、日が沈み始めている。
 そんな時間に、あちらから、再び、馬鹿げた話題が、流れてきた。覚えているだろうか。軍事侵攻を受け、武器供与を依頼する為に、訪ねてきた大統領に、喧嘩をふっかけ、罵声の飛ばし合いに及ぶばかりか、腹心までが、口を出して、決裂する姿を、報道陣に晒したことを。今回は、別の腹心の出身国の、大統領が、表敬訪問し、経済支援について、話す筈の場で、あろうことか、相手国の、自分の仲間が、虐殺されたとの報道を、紹介し始めた。それも、普段なら、fake news、所謂偽報道、と馬鹿にする態度を、示すだけの、現地の新聞と思しき、報道の束を見せ、皆に配るという、用意周到ぶりを、見せつけながらだ。大洋を挟んだ、二つの報道、一つは新聞、もう一つは放送局だが、それらが、早速伝えた内容には、おそらく、何の意義も無い、だろう。それは、話を始めた、餓鬼大将が、自慢げに、相手国の惨状ぶりを、説教でもするが如くに、振る舞う態度そのものに、原因の大半はある。今回は、同じことをして、喧嘩に参加すれば、再び、謂れ無い批判を、浴びせられるばかりか、罵声まで飛ばされて、大国にあるまじき言動を、繰り返されることが、明白だったからか、相手国の責任者は、反論は無駄とばかりに、相手にせずとの方針を、貫いていたようだ。その結果、何が起きるのかは、これから、追い追い知られることとなる。何れにしても、この仕掛け方には、現政権の方針が、露骨な形で、現れていると思う。件の人物の、経営方針そのもので、腹心どもも、同列に並ぶだけだ。好き勝手な振る舞いが、いつまで続くかは、誰にも分からぬ。ただ、いつも通りに、中間選挙が、とはいかないのでは、との見込みさえ、囁かれていることに、注意を要する。暴走を、止める手立てが、無くなるかもだからだ。

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5月21日(水)

 政治家の失言は、今に始まったことではない。馬鹿げた発言に、振り回された挙句、本人が、大臣を辞めたり、時には、国会議員を、辞めざるを得なくなる。でも、それは、本当に、責任を果たす、ことになるのかと思う。発言内容を含め、個別の事情があり、一概に扱えない、と。
 今回の発言は、報道によれば、党内のある会合で、大臣が行ったものとされる。全文が、披露されることは、決してないと思うが、党内での発言、という点にも、注目した方が良さそうだ。誰もが、録音機器を身に付け、あらゆるものを、記録しようとする中、不穏当な発言は、慎むべきとも言われる。だが、その内容を、新聞記事から引用すると、「コメは買ったことがない。支援者がたくさんくださる。売るほどある」、とある。この発言が、担当大臣として、国民の窮状を、愚弄するものであり、責任を追及する声が、野党から上がった、とされる。でも、発言自体が、事実だとしたら、どうだろうか。釈明の中で、自ら、事実ではなく、受けを狙った、かのように語ったが、それ以前の状況で、伝わった当初、事実か否かを、問う声は上がらず、単に、逆撫でするもの、という指摘だったと思う。失言、という意味では、事実でないもの、という前提があるが、この点が、気になるのだ。その意味では、少し前に、騒ぎを起こした、ある議員の発言は、事実でない、と引き合いに出された、施設からの指摘があり、「失言」そのもの、であったことが判る。こちらは、経緯を含めて、発言者本人の、思い込みによるもの、と断じられるが、指摘後も、反論するなど、例の如くの、驕りによるもの、と結論付けられる。これら二つの場合に、失言と括るのは、どうかと思うのだが。何れにしても、あるまじき発言、という意味では、時と場合も弁えず、好き勝手に発言する、そういう習慣を、恥じるべきだろうし、慎むべきだろう。これは、海の向こうの、あの人物にも、当てはまることで、間違いを認めず、主張し続ける姿を、尊敬するなどという風潮が、蔓延してしまっては、困り果てると思うのだ。

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5月20日(火)

 平日の早朝に流れる、経済番組は、投資家にとって、最低限の情報を、収集する為に、役立っていると思う。特に、報道が得意とする、不安や心配を煽るのに対し、相場の専門家の多くは、常に長い目で眺め、巷に溢れる、馬鹿げた情報とは、全く異なる見方を、紹介する。
 先日は、海の向こうで、投資会社を経営する、人物が登場して、現状分析を行った。国内投資会社の、現地法人とは異なり、あちらで立ち上げた、企業だけに、報道とは異なる、見方を示すことで、人気のある人物だ。今回の内容は、その録画を、眺めて貰えば、すぐに分かるが、三つの話題となっていた。特に、彼が強調したのは、向こうの大統領が、進めている政策が、選挙公約に沿ったもので、何の変化もない、といった点だろう。国内生産を、優先させる為に、他国からの輸入を、制限するという手立てとして、関税導入があるが、これは、約束通りのもので、目新しさはない、と断言する。その上で、これらの新政策が、軌道に乗った暁には、中間選挙に向けて、更に魅力的な、減税などの政策を、打ち出してくる、という見込みであり、想定通り、という分析なのだろう。ただ、ころころ変わる、朝令暮改が問題、と他の論者が指摘し、まあ、長い目で見れば、日々の変化に、一喜一憂するより、落ち着いて、見極めることが、大切という意味なのだろう。但し、公約という意味では、和平は、約束通りには、実現できておらず、結果がどうなろうとも、短期間での決着、という約束は、実現できなかった、というのは事実だ。確かに、この大統領については、ある意味の、過大評価が付き纏い、市場も含め、世界中が、過剰反応を繰り返し、一部の市場関係者のみが、暴利を貪っているのでは、という疑いもある。ただ、一般投資家としては、日々の売買より、長期投資に重きを置き、そこから、運用益を出すことが、重要であることに、違いはない。その意味では、この人物の立ち位置は、明確であり、驚いて、狼狽してはならぬ、ということだろう。ただ、比較的、安定した相場が、続く時代には、何とかなろうが、さて、本当に、あの餓鬼大将が、引き金を引かぬものか、誰にも、判らないことも、確かなのだ。

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5月19日(月)

 日々流れてくる社会媒体を、眺めていると、同じものが、繰り返し表示されることに気付く。情報の重要性、という観点からすれば、それによって、流される回数も、決まるというのだろうか。でも、検索同様、大した基準も無く、垂れ流されている、だけではないだろうか。
 検索の、表示優先順位は、独自の基準に従い、決定される、と所有企業は、繰り返し表明する。それに対し、表示回数が、広告収入に直結すると、基準を見破り、上位になるような、仕掛けを講じよう、とする人間達が、登場するのは、資本主義の基本、なのかも知れぬ。鼬ごっことなる、馬鹿げた遣り取りに、関わることは、決して無いけれども、訪問者数が、増えてくれれば、注目を浴びれるのに、と思うことが、無いと言ったら、嘘になるだろう。だが、それを決めるのは、内容でしかなく、嘘や偽情報を、含めることで、耳目を集めるのではなく、真に、役に立つ情報を、掲げることが、基本だと思う。それにしても、社会媒体の仕組みは、検索の表示順位と、似たような収益性に、縛られているようだ。だから、無料で利用する人間には、矢鱈と、広告ばかりを表示し、それを妨げる為には、一々、手続きを踏むことを、要求している。無料なのだから、その位の手間は、当然のこと、とでも言うように。一方、同じ話題を、蒸し返すように、掲げる人々は、当然ながら、それによって、広告収入を得よう、とする場合もあるし、注目を浴びる為に、使い古された、嘗ての、所謂、バズった話題を、再掲載する。これらを、表示するか否かは、各社会媒体で、異なる仕組みとなっているが、どんな頻度で、どんなものが、表示されるかは、余程に手の込んだ、調査をしない限り、見えてきそうにない。まあ、そんなことは、時間の無駄に過ぎず、そんなことで、社会媒体を批判しても、無駄にしかならないだろう。情報社会と言われてから、随分と、時間が経過したけれど、この辺りの事情には、殆ど変化が無い。利用者が、無料ならば、我慢を強いられ、嫌だったら、払うものを、払う必要が出てくる。時間を、金に換算すれば、ただより高いものは無し、となるのだろう。と言っても、無視するのには、金はかからないのだが。

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5月18日(日)

 詐欺メールに、引っかかるのは何故か。被害を、受けたことの無い人には、理解できない、何かがあるのだろうか。でも、と思うのは、被害者達に、改めて尋ねてみても、答えが見つからず、警察などが指摘する点にも、はてという反応しか、返ってこないことだ。
 メール初心者が、全文を読むことなく、途中で反応しそうになることに、注意を促すことは、度々あるのだが、最近の例では、本文どころか、はじめに掲げられる、件名の部分に、異常さが出ている。にも拘わらず、騙されるとしたら、一体全体、どこをどのように、読んでいるのだろう。もしかしたら、この手の人々は、自分が、読みたいようにしか、文章を読めないのでは、とさえ思えてくる。まともな教育を受けずに、いい加減な評価で、学校教育を、通過した結果なのか、とさえ思えるが、こちらについても、真相は、闇の中だろう。本人さえ、説明できないものを、説明してやる必要もなく、何度も、被害を受けるのさえ、自己責任を持ち出すまでもなく、懲りないのなら、手の施しようは無い。社会の中で、そんな形で、掠め取っていく輩が、暗躍するとしたら、必要も不要も無い、単なる悪として、発覚した所で、厳罰に処すくらいしか、手立ては無いのだろう。にしても、いつから、こんなことになったのか、とさえ思う。教育の責任、を問う声は、常に出ているけれど、押し付けならまだしも、機会均等の結果として、今ある教育が、存在するのなら、それを、正しく理解し、応用できないことにも、自己責任を問うしか、あり得ないと思う。一方で、こんな詐欺が横行するのは、何故か。何故騙されるかが、定かでないのに、分かる筈がない、とするのも、一つだと思うが、まあ、一般的な傾向として、どんな騙し文句が、使われているのかを、眺めておくのも、一興ではないか。当初、電話詐欺が、横行した時には、家族の危機といった、不安を掻き立てる、連絡が多用された。まさに、心配や不安が、大事とされた時代の、反映だったのだ。使い古された、言葉の数々も、人によっては、通用するようで、未だに、減らぬ詐欺事件の、基本となるものだ。そのうち、還付金なる、報酬のようなものが、餌としてぶら下げられ、誤送金を、行わせる詐欺が、横行し始めた。こちらは、心配・不安とは、異なる心情を、操ったものだ。何れにしても、電話では、即断を迫られ、過ちを犯すことがある。しかし、メール文は、何度でも読み返せる。対応までの時間も、それなりに使える。なのに、なのである。人間の理解力が、減退したからか。はたまた、それは、元から決まったものか。まあ、どうでもいいことだが。

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5月17日(土)

 これは、前にも書いたことだが、この所、電子メールが、異常なのでは、と思う。届いた数のうち、迷惑メールに、振り分けられるものの方が、多数を占めているのだ。多分、誰もが、同じ状態なのではないか。パンチの場合、手持ちのうち、半分がその状態にある。
 そんなことが、起きているのは、何かに登録してあったり、ある場所に掲げてあったり、そんなものであり、例えば、独り言のサイトに掲げてある、punchで始まるものには、何も届かない。多くの場合、ロボットのように、ネット上を走り回り、@マークのあるものを、拾い上げて、そこに届けるのだろうが、今や、そんなものも、無数と思える程に、増えているだろうから、無駄との判断を、下しているのかもだ。一方で、以前は、@マークが目印になるので、漢字の一つとして、認識される、@の方を書き入れ、防ぐようにされたが、そんなものも、また、atとするものも、自動的に選別し、送り付けるのだろうから、何の区別もなくなっている、に違いない。迷惑メールも、以前は、電子マネーと呼ばれるものや、キャッシュレス決済なるものが、送り主になっており、それぞれの口座を、乗っ取る為の糸口として、送りつけられていた。景品が当選したとか、不正な手続きがとか、その手の話ばかりで、誰もが、飽き飽きして、振り分けられずとも、相手にする筈が無い、といった代物だった。その後、銀行口座が、増えたのは、端末で取引する人が、増えたからだろうが、引っかかるのは何故か、と思うのは、そんなことを、普段行っていないからか。最近は、証券口座絡みが、急増しているが、これは、現実に、乗っ取られたものがあり、常套句の自己責任で、片付けられたものが、補償することになったそうな。役所も、漏れることなく、税金還付は、電話詐欺の常道となっていたが、税金納付を迫るものまで、登場するに至り、脱税という違法行為に、恐れを抱く人々が、引っかかるのだろうか。ただ、この件に関しては、余りの馬鹿さ加減に、呆れるものまで登場し、件名に、隣の大国で使われる文字が、使われていることだ。最近は、生成人工知能の登場で、おかしな言葉遣いが、激減したと言われるが、さて、この事態は、何を示すのか。所詮、こんな詐欺に、引っかかるような愚か者は、そんなことにさえ、気付かぬとでも、思っているのか。

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5月16日(金)

 教育現場から届く、悲鳴にも似た、改善要求は、静まる気配を見せない。その中で、採用状況の逼迫が、極まっている、とも報道される。実は、今の時代には、このような状況は、当然のもの、と見做される。3Kと呼ばれ始めてから、中でも、きついと思われる職業は、敬遠されるのだ。
 業務が多過ぎて、就業時間内に、片付くことは無く、一方で、残業は認められず、時間外で片付けようにも、別の問題が出てきて、達成できぬまま、となっている、と言われる。確かに、教育は、重要な業務であり、次代を担う子供達を、育てる役割は、不可欠なものだが、その一方で、親をはじめとする、世間からの外圧は、異常な程に高まっており、それだけでも、精神的な抑圧が、限界を越えるとさえ、言われている。まあ、非常識な連中の、理不尽な苦情や文句の数々は、所詮、取るに足らぬもので、無視するのが、最善の策と思われるが、それを支援するものとして、社会媒体があり、同調圧力が、拍車を掛ける程だから、逃れることは、難しいのかも知れぬ。まあ、それは、棚に上げるとして、別のことは、どうだろうか。教育現場だけで無く、他の職場でも、最近は、効率化が、強く叫ばれており、その為の道具が、様々に登場している。複雑な業務を、代行するものや、整理整頓を、進める為のものも、あるようだが、同等のものが、学校にあっても、いいように思える。ただ、最近の予算状況では、収益追求を、最大目標とする、企業とは異なり、そのような道具に、費やすべき、先立つものが、無いと言われる。更に、この問題を、複雑にしているのは、一般企業の業務とは、大きく異なる業務内容であり、それらへの対応が、著しく遅れていることも、あるのだろう。従来は、現場での解決が、最善の道として、各学校で進められた、改善に関しても、時間不足が、その余裕さえ、無くす方に働くから、解決への道は、殆ど見えない、とさえ言われる。これでは、手の施しようが、とさえ思えるが、この負の連鎖を、解決する手段は、本当に無いのか。どの学校でも、同じ状況だから、おそらく、解決には、監督官庁からの、働きかけしか、無いように思える。現場対応ではなく、根本解決を、目指して欲しいものだ。でないと、人材不足にまで、襲われることになる。

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5月15日(木)

 矢鱈に増えた、と言われる、外国人観光客。確かに、報道で、盛んに取り上げられる、一部観光地での、異常な状況は、見るからに、常軌を逸している、と思えるが、これらとて、海外の著名観光地と比べて、異常とは言えない状況、なのではないか。でも、多過ぎるとしか思えぬが。
 誰もが知る、そして、誰もが行く場所、という意味での観光地は、これまでも、そして、これからも、覚悟を決めて、対応し続けるだろう。だが、ある水準を超えた辺りから、趣向を凝らし、全く別の観点で、新たな経験を、という外国人が、増えているとも聞く。十分な調査に基づき、新たな知識を、採り入れようと、努力する人達に、文句を並べても、無意味なことと思うが、それにしても、この国の人さえ、訪ねてこない、片田舎に、見たこともない人々が、どっと押し寄せると、如何なものか、と思えてくる。この国の人々が、高度成長の果てに、そんな観光志向が、大きく進んだことも、あったように思うが、ある意味、それと同じ現象、なのだろう。それにしても、当時、見ず知らずの人が、突然訪問することに、それらの観光地では、どんな印象を抱いたのか。今になって、初めて、何となくわかり始めた。と言っても、それは、歩き回ることで、新鮮な体験を積んだ人、のことであり、訪問地となった地域の、海外に出かけたことさえ、全くない人々には、奇異にしか映らない、現象に違いない。では、この事態、今後、どのように対処すべきか。答えは、何処にも無い。訪問者は、それぞれに、違う目的を持ち、違う予備知識に基づき、その地域を訪ねる訳で、楽しみ方も、それぞれだろう。まあ、こんな状況の変化には、慣れるしかない、と言うくらいが、精々なのだろうが、このままでいい、と言ってしまっては、いけないように思う。だからといって、被害者意識を、強めることで、またぞろ、弱者保護を、謳ってしまっては、馬鹿げた騒ぎに、なるだけだろう。様子見、しかないのは、まあ、当たり前のことに思える。

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5月14日(水)

 多くが、忘れてしまったろうが、生成人工知能が、話題に上り始めた時、激震が走ったのは、産業界ではなく、教育界だった。どの段階でも、学習効果を測る為に、課題を与えるのだが、その作成に、新しい道具が使われ、効果の程を、測ることが不可能となる、と言われた。
 典型的なのは、試験問題だろう。入学試験と異なり、厳重な環境管理下ではなく、ある意味、緩い状態で、実施されることも、問題だったのだが、例の騒動以来、対面ではなく、通信を介するようになり、更に、管理が困難となる中、こんな道具が出てくれば、不正が行われるのは、確実と思われたのだ。一方、文章作成などの課題についても、人工知能に向かって、問い掛けるだけで、一見、まともと思えるものが、送り返されると、無知な学生程、そちらに走ったらしい。初期段階では、低水準の学生と、同等程度のものしか、作れなかったものが、学習効果が上がり、頼みとする、既存データへの、接続が可能となると、かなりの水準となった、とさえ言われた。一方で、不正を見過ごすのは、教育現場として、看過できない、とする向きは、人間が作成したか、人工知能が作成したか、を見極める手立てを、講じ始めてきた。従来から、剽窃点検を、目的としたものが、存在したから、その延長線上に、と思われたが、現実には、生成人工知能では、単純な剽窃とは、少し異なるものを、作成させる仕組みが、備えられていたようで、少し工夫が必要だったようだ。それでも、慣れた教員には、区別ができる、と言われていたので、そんなものが、現場に導入され、不正防止に、役立てられている、と言われる。ただ、こちらから見ると、この話自体は、鵜呑みにできぬ、と思えている。篩い分けの手段として、使うことは、誤認へと繋がりかねず、不慣れな教員まで、軽軽に使うのは、問題を大きくしそうだからだ。では、どんな手立てが、適切なのか。前にも書いたような気がするが、課題設定や、問題作成において、本人の思考力や、論理性を問うものを、作ることから、始めるべきと思う。最近では、難関大学の入試問題でさえ、合格水準に、到達したとされ、脅威は高まるばかりだが、この堂々巡りに似た状況は、根本問題を、示しているのではないか。

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5月13日(火)

 前にも、何度か書いたが、生成人工知能の登場が、様々な場面で、大きな変化を、及ぼしているという。ただ、疑い深い人間としては、本当にそうか、と思う場合が、多々ある。そんなことを書くと、また、現実から目を逸らし、準備を怠ることで、窮地に陥るのでは、と言われそうだが。
 だが、登場当初から、素晴らしい能力、と称賛されたものの、実際に、使った感想は、それらの多くが、期待外れ、というものだった。そんな指摘も、その後の進歩から、的外れとの指摘を、受けそうに思えるが、それとて、まだ、期待し過ぎと思えるが、どうだろうか。これから、働き始める人には、人工知能との関わりが、不可欠となる筈で、それを仮定した上で、自分が、何ができるのかを、考えるべき、という意見も多い。当然、そういう将来を描く中で、教育現場でも、同様の指摘が、盛んに出されるが、その見方を、鵜呑みにするつもりは無い。確かに、単純作業の殆どは、そんな存在によって、代わられるだろうが、それも、全てかと問われると、怪しいと答えたくなる。更に、そんな状況となれば、人間がすべきことは、一変するだろう、との意見もあり、学び始めた人々には、大きな圧力となっている。だが、その見通しも、甘過ぎるのでは、と思っている。確かに、多くの作業が、人工知能によって、行われるように、なるには違いないが、多種多様な作業のうち、どんなものが、置き換わるのか、その見込みについては、まだまだ、怪しいと言わざるを得ない。でも、将来を見据えて、と思う人程、教育現場で、過度な負荷を、掛け始めているように、思えて仕方がない。これはこれで、また、そういう勢力からは、怠慢さの現れ、と指摘され、更には、正しい道筋を、示さぬ態度に、批判されそうな気配さえある。だが、それも含め、ほぼ全てのことが、過剰反応によるものに過ぎず、人の能力を伸ばす為の方策には、妨げとしかならない、と思えるのだ。先人のすべきことは、以前同様に、次代を担う若者達に、自らの努力と成長を、促すことであり、それを忘れて、今すぐにすべきこと、として、誤った方向に、歩ませてはならない。気を付けねばならぬ。