平和が長く続き、この国では、高度経済成長が、続いた中では、皆が、将来への不安を、抱くことなど、無かったに違いない。だが、その中で、企業や組織の、運営にあたる人々は、何処か、漫然と過ごし、同じことを繰り返せば、このまま、成長が続くと信じ、将来に目を向けなかった。
その為か、徐々に、歪みが強まり始め、膨らんだ泡が、弾けた時には、何の対策も講じられず、ただ萎むに任せ、停滞どころか、下降の一途を辿り、四半世紀を超える、長い期間、成長を止めたばかりか、様々なことに、縮小や圧縮が、覆い被さっていた。となると、成長期に、何の努力もせず、傲慢な気分で、騒ぎの中で、踊り狂った人々は、突然、奪われた機会に、恨み節を繰り返し、将来への不安ばかりを、叫び出した。折角築いた、繁栄の数々も、するりと手を抜け、世界に冠たる、最新技術についても、手放すこととなり、不安が膨らみ続けていた。今、やっとのことで、その衰退期を、脱したと思われるが、染み付いた悲観論は、簡単には、拭い去ることが、できないままとなる。この様子に、怒りを覚えつつ、どうすべきか、と悩んでみるが、あの連中の、歪んだ心を、正常に戻すことは、簡単ではない。だが、これから、将来を担うべき若者に、この状況が、どれ程の悪影響を、及ぼしているか、考え始めると、問題の大きさに、どうすべきかと悩むしかない。それがまた、負の連鎖を、広げることとなり、窮地を脱することが、難しくなりそうだ。だが、現実には、この手の問題の大半は、自分達が作り上げ、解決の糸口を見つけたり、良い方向への思考を、始めようとすることを、自身で、妨げているだけだろう。悲観論も、馬鹿げた考え方だが、それを、若い世代に、押し付ける姿には、呆れるしかない。こうしても駄目、ああしても駄目、と繰り返しても、何の解決にもならないばかりか、そんな姿を、若者達に見せて、何の得になるのか、と思う。確かに、厳しい状況に、追い込まれたのは、自分達だけの、責任ではないが、だからといって、今のような、消極的な取り組みでは、何の打開策も、見出だせそうにない。だとしたら、将来への不安を口にするより、どうすべきかを考え、それを実践する方が、遥かに良さそうに思う。
伝えることが、重要だとする主張に、反対する訳ではない。だが、何事にも、万全、万能な手立てが、ある訳でもない。特に、強調すべきことは、送り手の責任ではなく、受け手の心掛けによる、という点だ。話を聞くか否かは、本人の勝手であり、聞かないのも、本人の責任だ。
そんな状況で、送り手の責任ばかりを、問う意見が出てくるのは、馬鹿げたことだ。まるで、商店主が、客から虐められる、あの図式とそっくりで、だからこそ、もっと注意すべきこと、と思うのだ。責任転嫁の典型で、何の責任も果たさずに、知らなかったとか、言われなかったとか、そんな言い訳を並べるのは、如何なものか。まあ、こんなことを、書き並べても、肝心の非常識な連中には、何の影響も及ぼさず、我関せずのまま、相手の責任を、声高に訴える。いつから、こんな具合に、なり始めたのか。定かには、覚えていないが、今の状況は、まさに、その最中に思える。その上、責任ある立場の人々でさえ、同じような形で、他人の責任ばかりを、強調して、追及し続けるから、この状況が、改善される兆しは、全く見えてこない。何しろ、偉い人々でさえ、そんな言動を続けるのだから、自分が、少しくらいそんなことをしても、問題ないと思うからだ。いやはや、どうにもならぬ、と諦めるしかないが、実害が及べば、流石に、何かしらの反撃を、するしかない。でも、こんな非常識連中ほど、自らを、弱者であると演じ続け、被害者然と、相手の責任を問い続ける。こちらとしては、無理筋の論理に対し、筋道を立てて、説明した上で、本人の責任を、問うこととなるが、さて、どんな結果になるか。これまでの経験では、まずは、敵が増えるばかりで、味方となる人は、殆ど現れず、精々、攻撃をしないが、賛同もしてくれず、ただ、黙りを決め込む。触らぬ神に祟りなし、とは、まさにこんな状況で、努力が報われることは、少ない。そんな状況でも、この悪い状態を、少しでも改善させたい、と思うからこそ、こんな所でも、書き連ねるのだが、さて、変わるものか。主張だけは、続けていきたい。
連日で、忘れない、という話題が続くと、考えさせられる。確かに、重要な事象を、記憶に留めることは、災害を避ける為にも、また、戦争などの、多くの人々に、悪影響を及ぼすことを、行わない為にも、不可欠なことだろう。でも、それは、書かれたものを読めば、できるのでは。
教育の重要性でも、触れたことだが、多くの人は、教科書に書いてあっても、それらを教室で習っても、覚えられずに、すぐに忘れてしまう。だから、書いたものではなく、語り部のように、実際に経験した人に、話を聴くことが、重要とされる。だが、百年以上前のことを、実際の経験者に、とは、不可能なことであり、既に、大戦での、大空襲の経験者や、被爆の経験者は、もう居なくなり始めている。そんな時、語り部が重要、と主張する人々は、語り継ぐ為の人材を、発掘しようとする。だが、経験者という括りと、単なる語り部が、同じと言えるのか、と思ってしまう。書かれたものより、語られたものの方が、より強く、心に響くと言われるが、その違いは、理解できない。何方にしても、興味が無ければ、同じ結果にしか、結びつかないのでは、と思うのは、考えが浅いのか。一方で、経験者が、存命中に、撮影された資料も、多くが残されている。これもまた、人が話すことが、重要だとするなら、それを流して、聴かせればいい、のではないか。こんな文句を、書くことに、意味があるとは思えぬが、こんな日が来る度に、繰り返されるのに、辟易としているからだ。教育の重要性を、強調する人も、語り部の重要性を、強調する人も、同じような考えに、囚われている、としか思えない。だが、それが、施策に結び付き、そんな事業に、更なる出費を、注ぎ込むのなら、もうそろそろ、おしまいにしては、と思う。忘れない、という掛け声も、届かぬ人には、何も響かず、少しくらい、働きかけても、無駄かも知れない。それは、あの波が、押し寄せてきた時の、一部の被害者にも、通用することで、厳しい言い方をすれば、自業自得でしかない。それでいいのでは、とは、言い過ぎだろうか。
教育の重要性は、誰もが認める所だが、その一方で、施されたものを、溝に捨てるような話が、沢山あるのは残念だ。確かに、毎日、教室で、大人しく座らされ、無理やり、覚えることを強いられるのは、負担ばかりで、良いことなど一つも無い、と言いたくなるだろう。
しかし、好きなことだったら、何もかも覚えられるのに、それ以外は、とんと駄目となれば、業務に支障を来す。そんな当然を、知らぬふりして、やり過ごすのは、どうだろうか。また、如何に、専門的な知識が、不足していようとも、毎日の生活に、必要な事柄くらいは、誰しも、朧げながら、覚えているものだ。では、真の意味で、最低限とは、どの程度のものか。この問いに対する答えは、無いだろう。確かに、この国では、義務教育期間において、その最低限を、習得させるとあるが、全ての子供らが、その全てを理解し、記憶しているとは、誰も思わない。それより、僅かながらも、痕跡が残れば、それで良いとなる。だったら、皆がその程度で、さっさと終わらせて、残りの時間は、遊んでいるだけで、良いとはいかぬもので、まあ、最低限、中学を出る頃までは、無理でも、授業に出ておけ、となるのだろう。でも、そんな落ちこぼれのような、人間達の話ではなく、政治家となった人や、一国の主人のような、顔をしている人物には、もう少し、ましなことを、喋って欲しいし、まともな意見を、並べて欲しい、と思うのは、当然だろう。ここでも、専門的なことを含め、全てを記憶し、理解せよ、という訳ではない。少なくとも、目の前にあることを、理解しておくべきだし、また、真っ当な主張を、して欲しいと願う。もしできないなら、さっさと、職を辞して、野に下るべきだ。それはまた、非常識な言動についても、当てはまることとなる。自分勝手な解釈を、繰り返すばかりで、社会的道徳も倫理も、持ち合わせていないのなら、公な立場も、責任も、果たせそうにない。どうも、最近の傾向では、誰かが、何らかの形で、賛同してくれれば、それで良いと結論する。非常識な仲間が、そばにいてくれれば、それで、皆の前に立ち、上に立つことができる、などと思うのは、何故だろうか。そんな輩は、殆どが、手に入れた地位に、居座ることが多く、厄介な存在となる。
無償化が進む一方で、多くの物品の値上げが続く。生活が、更に苦しくなれば、庶民の要求は、更に強まるだろうか。だが、この図式は、何となくだが、負の連鎖に思えてならぬ。悪くなるから、もっと助けてくれ、という話は、理解できるだろうか。誰が、誰を、助けるのか。
無償化についても、誰が、その原資を賄うのか、その疑問は、残ったままだ。公的な支援であれば、税金以外で、賄うとすれば、悪名高き国債しかない。だが、既に、借金は膨らむ一方で、孫子に残していいのか、という議論があった。その解決法が、一切出されぬままに、国会の議論は、無償化へと舵が切られた。でも、この話、まずは、原資の問題だけで、理解不能な状況であり、その上、渦中の人々が、果たして、この制度変更で、どんな変化を、手に入れられるか、そちらについても、疑問符は、山のように積み上がる。元々、教育について、この国では、社会全体で支える、という考え方があったが、それは、機会を得る為のことで、そこに、どれだけの経費が、かかることになるか、という点については、全く別の問題とされた。文字が読めるか、という課題でも、この国の文盲率は、かなり低かったと言われ、その理由が、寺子屋にあり、維新後も、義務教育化により、支えられてきた、と伝わっている。ただ、この問題は、今、話題となる無償化の対象とは、全く違うと思う。初等教育ではなく、それ以降の教育であり、要求が、最も高まっているのは、高等教育ではないか。ここまで来ると、社会が支えるべきか、という問題が高まる、と思うのだが、どうもこのままでは、そこまで突っ走るのか、とさえ思えてくる。だが、最低限の教育ではなく、高度な教育を、望むのであれば、それは、自身の為では、という話を出すべきだろう。前にも書いたが、やる気のない人間が、大学に溢れたら、もう悲惨の一言だからだ。
ただになる、という話も、何かしらの金が、支給される、という話も、愚民政治の典型であり、その根拠や理由が、定かでないものは、特に警戒を要する。今、この国で話題となる、無償化という提案も、その点からすれば、何の目的で、何かしらの条件があるか、不明確に思う。
確かに、物価上昇で、生活が苦しくなるから、出費が減れば、それだけで、助かるとなる。その点について、異論はないと思うが、例えば、給食費については、殆どが、義務教育期間に充てられるから、親の義務を果たす為の、一種の補助金と見れば、理解できる、と言えばできる。でも、その分の金が、何処から来るのか、ほぼ誤魔化されている。国や自治体から、出されるものは、当然、税金で賄うのが、筋となるが、そうなった時に、社会全体で、合意が得られているか、という点について、不明確なままだ。特に、自治体が、地方税から出すとなると、ふるさと納税なる、意味不明な納税制度が、歪みを、更に大きくする。何しろ、ふるさと税を、納める人の多くは、その見返りを、期待しており、その分が、住居のある地域での、税収減少に、繋がるとなれば、無償化の恩恵を、受けることが、公金を奪うことに、なるだけだからだ。さて、その一方で、教育分野での、無償化の広がりは、高校以降のものへと、及び始めている。その結果、ただで、教育が受けられることは、貧富の差が、教育の質に、影響するという意見に、対応することとなる。でも、肝心の生徒や学生は、そのことにより、より高い質の教育を、受け止めるだけの、準備ができているかについて、議論されることは、殆ど無い。誰しも、交換条件が、重要と考える時代に、無料という点は、確かに有り難くとも、その結果として、意欲が芽生えず、ただ漫然と過ごすことに、繋がりかねない、という意見もあるのだ。だとしたら、何の為の政策なのか、無意味となるだろう。社会全体で、必要となることを、支えようとするのは、何も間違ったことではないが、だからといって、ばら撒けばいい、とはならないのだ。学校での、無気力な態度や、消極的な態度が、この手立てで、変化が起きるとは、とても思えず、更に、感謝の念も、芽生えないままでは、どうにもならない。どうするつもりなのか。
米の値段は、どうなるのか。外食主体なら、ある意味、関係ないことだが、自分で、食事の支度をする人には、主食たる米の値段は、大いに気になることだ。確かに、物価上昇が、起き始めてから、あらゆる物品の値段が、上がり続けるが、米の事情は、少し違うらしい。
あの、お馬鹿な似非経済学者が、大臣だった頃、怪しげな論理で、社会全体を、混乱に陥れた。「市場原理」なる言葉は、当時、経済界では、自己責任と同様に、殺し文句として、盛んに使われた。需要と供給の均衡、という図式は、確かに、その通りではあるが、供給にしろ、需要にしろ、不安定に違いなく、こんな解釈で説明すれば、どんなことでも、言い包めることが、できる筈だ。今の物価高騰も、まさに、その最中にあり、需要と供給で、説明しようとするが、現実には、既に、論理破綻を来している。一部の野菜は、天候不順を原因に、収量不足が続き、高嶺の花に、なりつつあるが、全てに通用する話ではない。そこで、一部の専門家は、肥料の高騰や、人件費の問題を、そこに注ぎ込む。これは、必ずしも、需要と供給の話ではない。だから、別の説明が、必要となる。これ程簡単なのだが、何とかの一つ覚えの人には、不都合な事象だろう。では、肝心の米は、どうだろうか。こちらも、役所の情報を、鵜呑みにすれば、供給について、何の問題も無い、となる。前の年と違い、猛暑が続いても、それへの対策が、功を奏したとの話で、作柄に関しても、平年並みとある。なのに、収穫が始まる前頃から、前年の不足が、影響したとして、市場に出回る量が、激減したと言われ、店頭から、米が姿を消し、群がる庶民に、米価高騰が、覆い被さった。それも、収穫期には、解決するとの見解は、見事に外れた、と言われ、依然として、高値が続いている。原因は、定かでなく、皆の不安が広がる中、政府は、備蓄米の放出を、決定した。とは言え、やっと準備が整い、入札が始まるそうだが、価格の変動が、起きるかは、定かでない。入札となれば、今の価格との比較で、誰がどう決めるのかが、最大の問題となる。買い占めに走った人ばかりなら、損失を避ける為に、高い価格を、維持しようとする、という話もある。さて、どうなることやら。
出来る筈、と考える人の多くは、同時に、成功体験を、強く欲すると言われる。今の世の中も、こんな傾向が強く、どんなことでも構わぬから、成功を、手に入れさせようとする。だが、整えられた舞台での、成功などというものに、どれ程の意味が、あるのだろうか。
ということで、厳しく対応すれば、嫌われるに決まっている。上に書いた風潮は、まさに、この点から、来ているようだ。嫌われたくないから、優しく対応し、成功を手に入れさせて、誉め上げる。人間関係を、良好にする為の、最低条件のように、思う人も居るらしい。だが、その程度のものでは、自立は、覚束無い。結果的に、周囲から認められず、体調や精神を病むことになる。で、そんなことから、舞台を去った人々も、徐々に、回復し始めて、社会復帰を、果たすことがある。その際に、本人達が、重要と話すことに、何かのきっかけで、他人に手を貸した時に、感謝されたのが、心に響いた、という話がある。承認欲求などと、言われるものだが、だから、褒めることが大事、となっては、また、同じことの繰り返し、となりかねない。実は、この過程で、重要だと思われるのは、周囲の対応だが、それが、褒めるとか認めるとか、そういうことではなく、逆に、除け者にしない、という点ではないか。病んでいく過程で、当初から、影響を及ぼすのが、疎外感、という感覚であり、別の言い方をすれば、仲間外れ、などというものだ。友達が欲しい、と望む人が、世の中には、沢山居ると言われるが、彼らにとって、最重要なのは、仲間外れであり、疎外感なのだ。それを恐れる余り、友達を欲しがり、友人関係の構築に、努力する。でも、その為の行動は、却って、逆効果となり、嫌われる場合もある。適当な距離感が、大切と言われる一方で、離れてはいけない、とばかりに、近づこうとすれば、当然、相手は、遠ざかる。その結果、疎外感が芽生え、思い悩むことになり、結果として、退場を余儀なくされる。でも、この話の底には、相手から嫌われる、ということより、自分が、疎外感を持つということがあり、その原因の殆どが、自分にある、と気づくべきだろう。他人が、どうこうと言うより、自分が、となれば、何か出来そうな気がする。
宥和、という言葉を、知っているだろうか。国家間の話だが、敵対する間柄で、相手の要求を、ある程度受け入れる、という手段により、問題解決を、図る手法とのことだ。抑止、という考えとは、反対の概念となる、とある。核抑止など、今再び、話題になりつつある話と。
平和が、長く続く中、圧倒的な勢力が、保てなくなり、互いに妥協することが、多くなったことから、こんな手法が、注目されてきた。だが、今の状況は、どうだろうか。他国の領地を、いつの間にか、手に入れたことで、紛争へと発展する、と思われたことが、どういう思惑からか、敵対する国々が、敢えて、紛争へと発展しないようにと、だんまりを決めた。だが、その結果か、更なる拡大を狙い、前とは異なる手段、つまり軍事侵攻により、領地拡大を図り、果ては、首都を陥落させれば、国全体をも、占領できるとの判断からか、一気呵成に、攻め込んだのだが、戦略の過ちと、相手国の思わぬ反撃で、この企ては、大失敗に終わった。だが、その後も、依然として、一部地域を占領し続け、更に拡大しようと、他国の支援まで得て、侵攻し続ける。この中で、反撃用の武器を、供給することこそが、撤退を促す手立てとばかりに、支援が続けられてきたが、政権交代により、方針展開とばかりに、当事国を、置き去りにしつつ、新たな停戦策が、講じられているとされる。一見すると、宥和政策としか、思えないものだが、当人達は、まずは停戦とばかりに、攻め込んだ国に対して、便宜を図るかの如く、見えているだけに、簡単には、受け入れ難いものがある。そうでなくとも、移民対策などの、国内政治で、過激な方針が、台頭するのを見るにつけ、宥和そのものが、放棄されつつある中、新政権は、何をどうしたいのか、迷走が続くようだ。一方で、時代的には、多様性とか、少数派とか、配慮すべき問題に、過剰な反応が続いた結果、反対の方向へと、各国が歩み出している、ように見える。その点、こちらは、何処か余所事のように、国際情勢を眺め、我が道を行くように、見えているが、さて、どうなることか。
俺ならできる、と言っても、海の向こうから、毎日のように、押し寄せるアレではない。私はできる、と訴える若者が、物凄く増えている、と感じるのだ。確かに、若気の至り、と言われるが如く、古今東西、若者達の考えは、そんなものに違いない。自信過剰なのか、認識不足なのか。
ただ、一方で、経験値という言葉が、盛んに使われ始め、経験することだけでなく、成果を上げる必要が、取り沙汰される。それこそが、次代を担う人々を、教え育む為の、魔法の一つ、とさえ言われている。だが、その実態として、かけ離れた現実が、目の前に横たわる。特に、できる筈、と主張する一方で、やったことがなく、何が起きるのか、何をすればいいのか、その他様々なことが、全く理解できておらず、周囲を不安にさせる。だが、当人だけは、どこ吹く風といった具合で、我関せずと、やりたがる。と言っても、勝算が無いばかりか、できるという状況が、どうなることかさえ、見えていないことが、余りにも多い。これでは、任せられない、とばかりに、上司や同僚達は、説得を試みるが、そうなると、状況は悪化の一途を辿る。やらせろ、と言っているのに、何もさせてくれない。排除されていると感じ、疎外感が広がる。時に、心を病むこともあり、時に、体調を崩すこともあり、果ては、組織自体を、訴えることにさえ、及ぶこともある。どう対処すべきか、悩み苦しむ人が、居るに違いない。ただ、答えを見つけるのは、容易ではない。何故なら、当人が、このことに、気付くしかなく、多くの場合、こういう思考回路の持ち主は、自分の能力も、見通せないまま、ただ、周囲の問題としか、思わないからだ。その上、責任転嫁が、高じてくると、他人のせいにすることが、常となる。結果、何の解決策も、講じられないままに、組織崩壊に、及ぶことさえある。そこに現れたのが、海の向こうの餓鬼大将だ。彼の発言の数々は、できるという宣言と、その一方で、誰が原因で、できなかったのか、という宣言が、繰り返される。あれでいいのか、と思った人は、数え切れず、支持者になっていった。その程度の話、なのではないか。
収入が増えても、物価高の割合が、それを上回れば、生活は厳しい、と盛んに報じられる。確かに、その通りだが、人それぞれに、購入する物品は異なり、一概には、言えないことと思う。この話と共に、国独自の事情として、手取りが少なくなるものが、あると言われる。
ある人が、そんなことを、顔本に挙げていた。そこには、一定の収入で、国毎に、手取りが異なる、という状況が、表にしてある。本人が、まとめたものなのか、あるいは、何処かに、掲げてあったものなのか、出典が表示されておらず、はっきりとはしない。更に、リンクを張ると、こちらの匿名性が、保てなくなる可能性もあり、その情報は、示していない。ただ、内容から、本人が言いたいのは、この国が、如何に、税金や社会保険などの、公共的な負担が大きく、生活が圧迫されているか、ということだろう。しかし、これは、必ずしも、正しくない。何しろ、手取りを、受け取った後で、出ていく金は、必ずしも、普段の生活だけが、相手とは言えないからだ。例えば、表の一番下にある、海の向こうの国では、年金は、こちらと同様の、仕組みを維持しているが、健康保険は、事情が全く異なる。皆保険として、導入が、検討されつつあるとはいえ、あちらの事情は、健康保険が、強制的なものではなく、自主的なものであり、それも、保険額に、かなりの差異がある、と指摘される。更に、保険が保証する範囲も、保険それぞれで、大きく異なる為に、多額の保険額でも、医療を受けた時に、多額の医療費を、請求される場合も、少なくないのだ。となれば、手取りが多くとも、何か事があれば、多額の負担を、強いられることとなり、困窮状況に、陥る可能性がある。この辺りのことを、何も考えずに、ただ数字だけを、追いかける人々は、視野が狭いのだろうが、それだけでなく、そうなる要因がある、と言えそうだ。自分達が、如何に恵まれない状況にあり、その原因は、国の政治による、との結論を、導こうとする、思惑が、第一にある。だから、多くの数字の中で、その主張を後押しするものだけを、拾い出している訳だ。これでは、正しい議論は、できそうにないが、同じ思いを抱く人々には、好都合なものに映り、盛んに、同じ情報を、共有しようとする。その目的で、社会媒体は、便利な道具なのだ。受け取った側が、注意するしか、この拡散を、止める手立ては無い。
好きだ、という話に、論理もへったくれもない。と言っても、人と人の間に芽生える、あのことではなく、交渉好きの大統領が、派手に何度も叫ぶ、例の「関税」についてだ。自分達が、損をしている、という主張も、いい加減にしろ、と思えるが、それ以上に、その目的が定かではない。
論理的に考えれば、不当な価格で、輸入されるものに対し、関税を課すことで、国内生産物との、均衡を図るとなるが、あの人物が、矢鱈に発するのは、単に、気に入らない相手に、無理難題を、押し付けようとする、そんな思惑しか、見えてこない。本来なら、国内産業の保護、という目的があり、安値競争で、疲弊することから、経営が、立ち行かなくなることを、防ぐ為と言われる。確かに、そんな目的もあろうが、今回の発令で、度々触れるのは、他国生産物が、国内産業に、悪影響を及ぼすことで、雇用を失わせている、という点であり、その代わりに、自分の国に、工場を建てて、生産すれば、雇用の確保も、可能となる筋書きだ。確かに、雇用のみを考えれば、その通りの部分がある。しかし、国内産業、特に、自国の企業の、経営を維持することには、結び付かない。それが、如実になったのは、自動車産業だろう。40年程前、こちらから輸入される車を、公然と破壊することで、自動車産業の窮状を、盛んに訴えていたが、それにより、当時の共和党政権は、高関税を導入し、海外企業の移転を、強要したとされる。確かに、その後、自動車産業は、息を吹き返したが、自国企業は、その後も低迷を続け、今に至っている。他にも、同じようなことが起き、当時、自国生産を、盛んに促進したものの、労賃格差を、克服することができず、海外生産を、続けた例も多数ある。但し、これらは、自国企業によるもので、ある意味で、企業経営としては、良好な状況を、保っていた訳だ。その一方で、雇用確保は、捨て去られたこととなり、自分で自分の首を絞める、といった状況となった。これらを、総合的に考えると、果たして、関税措置が、功を奏するのかは、怪しげに思える。また、最新技術による産業は、この手法では、凋落を続けることとなり、虻蜂取らずとなるかも、だ。まあ、責任転嫁を常とする人物には、そんな憂き目は、見える筈もないが。
ゆすり、たかり、まるで恐喝のようで、それを、交渉とか取引とか宣うのは、本人の自由には違いないが、今の状況は、まさにこれだ、と思った人も、多いのではないか。ちょいと、語源を調べてみたら、ある寺の頁に、その説明があり、役人の業、とまで書いてあった。
強い立場から、強権的な態度に出て、相手に、無理難題を押し付ける、としか見えないが、支持者達には、全く違う姿に、見えているらしい。平和を求め、和平を導く為には、自分のことしか考えず、窮状を訴える人物は、蚊帳の外に置き、黙らせるのが一番、という判断らしい。政府の国務長官は、会談を始めることこそが、何よりも重要であり、その為に、攻め込まれた国の大統領は、邪魔でしかなく、排除の対象だった、ということだろう。それでも、脅しの一つとして、鉱物資源を、取引の対象とし、署名の為に、会談を整えたのに、揚げ足を取るような、発言を繰り返したことが、侮辱であり、それも、我が城の中での、暴挙となれば、軍事支援という、最後の札を、捨て去ることも、やむを得ない、となったらしい。驚くべき進展速度だが、temperと称された遣り取りは、何方の癇癪を、指したものかは、知れないけれど、この展開自体が、表しているようにさえ、見えてくる。これで、弱い犬は、尻尾を巻いて、何かしらの返答を、届けに来るに違いない、というのが、交渉術とでも、言いたいのだろう。その上、件の国務長官は、国際機関の存在意義は、平和を保つことなのに、それをしないまま、軍事侵攻に出た国を、糾弾するばかりとさえ、批判し続ける。だからこそ、その文言を抹消し、新たな提案を、審議したのだろう。確かに、軍事侵攻時に、国際機関が、連合軍を組織して、治安に出るべき、と独り言にも書いたが、それとて、安保理という、捻じ曲がった委員会の、決議が必要となれば、拒否権発動により、成立しなかっただろう。これらを含め、今の状況で、どんな道筋を、つけるべきかは、誰にもわからない。何しろ、あの長官でさえ、和平会談は始められるが、和平に至るかは、分かる筈が無い、と断じたのだ。
海の向こうの、爺いの戯言は、聞く価値が無いのは、勿論のこと、嫌悪さえ催す。だが、熱狂的な支持者達は、彼の全ての言葉を、素晴らしいものと受け止め、一層盛り上がる。亀の甲より、の筈なのだが、そうもいかないのは、含蓄も合わせ、中身が無く、棘しかないからだ。
本来、長い経験を有する人間の、言葉の重みは、かなりのものだ。彼らの話に、耳を傾け、自分にとり、役立つ形で、確かなものにすれば、失敗を減らし、成功を手にすることも、難しくない。だが、実際には、年寄りの冷や水、などと揶揄されるように、それまでに、築き上げたものに、寄りかかるだけで、戯言ばかりを、繰る人も少なくない。海の向こうの大統領は、その典型だと、こちらは思うが、そんなことは、おくびにも出さず、有り難い言葉を、受け取るだけの人も、多いようだ。さて、そんな話は別にして、目上の人間の発言を、どう受け止めるだろう。有り難いは言い過ぎとしても、何かしら、役に立つ部分を、選び出そうと、耳を傾けるか、はたまた、戯言ばかりと、無視を決め込むか、何方だろう。最近の傾向は、年寄りの方の問題も、確かに大きいが、それより、受け取る側の人々の、冷淡な態度の方が、遥かに大きいようだ。何故、こうなったのだろう。一つには、褒められることに、慣れた人々にとり、厳しい言葉が、老人から発せられることに、拒否感を抱くからだろう。その割に、熱狂的になる、あの行動様式は、理解不能なものではないか。不思議、と言えば、不思議なのだが、拠り所を、求める人々にとり、年齢よりも、権力の方が、優先されるから、かもしれない。それにしても、都合の良い言葉だけを、受け取ろうとする態度には、呆れるばかりだ。彼ら自身の問題でもあるが、社会が、全体的に、批判的で厳しい態度を、忌み嫌っている、今の風潮にも、大きな問題がある。何の役にも立たない、賞賛ばかりの話では、自身の成長も、無くなるというのに。
昨日の口喧嘩は、ある意味、公衆の面前で、行われたから、操作のしようも無かった。しかし、それにしても、と思うのは、あの人物の資質である。確かに、罵り合いを始めれば、皆の前で、引っ込みがつかず、また、負けを認めることも、あり得ない話だ。だから、ああなった。
国の頂点に立ち、率いているとの自覚は、ああいう場面では、当然の言動に結び付く。だが、それを、報道陣の面前で、それも、全世界に、配信されていることが、確実な中で、演じることは、かなりの危険性を伴う。結果、厳しい批判が、双方に向けて、浴びせられている。ただ、これまでなら、会談とは、はじめの部分だけ、それも儀式的な所だけ、報道陣を引き入れ、その後は、関係者のみで、密室で行うものだが、そこで交わされた会話は、互いに、都合の良い部分だけを、情報操作して、流すこととなっていた。だから、本当の遣り取りは、そこに居合わせた人間にしか、わからないものとされた。だが、今回の、ある意味、口喧嘩でしかないものは、そうではない。だから、報道も、操作のしようがなく、喧嘩の当事者達も、今の所、発言そのものを、否定することさえ、行っていない。では、報道は、何も操作していないのか。珍しく、決裂する顛末を、全て目撃したからだろう。ある放送局は、全文紹介を、行っている。だが、それ自体が、何の意図か、と尋ねれば、前後関係、文脈を、伝える為、とでも説明するだろう。しかし、今朝の経済紙は、そうではなく、激昂に至った部分のみを、切り取った形で、「主なやりとり」とした。放送局のものでは、後編にあたる部分で、副大統領が、口出ししたことで、話し合いが、いつの間にか、口論となった経緯が、見えてくる。いつも通りとはいえ、海の向こうの餓鬼大将は、口調を荒げて、負けない姿勢を、示すのに対して、もう一方は、ある意味、冷静を保ちつつ、当初からの主張を、強く発していた。ただ、勝ち負けで言えば、はじめから、決まっていた訳で、説得に応じる気は、毛頭ない輩が、怒りに任せて、罵っていただけだ。これとて、何方に与するかで、全く異なる光景に、見えていたようだが。
報道に関しては、何度も取り上げているように、著しい偏りを、見せてはいけない、と思う。中立とは何か。そんな疑問に、答えを出すのは、簡単なことではなく、おそらく、皆が、それなりの中立を、目指しているのだと思う。だが、それが疑われる程に、極端な情報操作も、ある。
今回の、罵り合いについては、何方に与するかで、正反対の見解が、示されるだろう。今までなら、囀りという、間接的な接触の場で、互いを貶める発言が、繰り返されてきたが、流石に、皆の前、それも、記者を交えての場で、相手の発言を、遮ってまで、自分の意見を、出し合うとは、誰も予想しなかった。一つには、餓鬼大将が、自分の住処で、自分の土俵だから、いつものように、好き勝手に振る舞った、というだけかもしれない。それは、まるで、囀りでの発言のように、相手の言葉など、受け止めることなく、言い放つ姿に似ていた。一方、軍事侵攻から、何とか平和を、取り戻したい、と奔走する人物は、何故、自分達を、突き放すような、言動を繰り返すのか、溜まりに溜まった疑問を、吐露したに過ぎない。だが、それが、短気な人間の、気に障ったのだ。ただ、それだけと見れば、どうということはない。だが、全てが録音され、全てが、全世界に向けて、発信されたとなれば、さて、どんな修復が講じられるのか。何しろ、一旦は、独裁者と呼んだことさえ、忘れたかのように、誤魔化してきた人間だ。交渉、取引の場では、その程度の嘘は、何の問題も生じない、とでも言いたいのか。何方にしても、発言の幾つかは、看過し難いものだった。世界大戦を、始めるようなもの、とか、何百万の人々を、犠牲にして、とか、そんな言葉が、勢いに任せて、飛ばされていた。一国の大統領が、発すべき言葉ではないし、公然と言い放つ態度には、嫌悪を催した人も、多いのではないか。今後の成り行きは、誰にも分からない。ただ、侵攻を始めた独裁者だけは、ほくそ笑んでいた、に違いない。
賛否両論がある、と思うだろうが、その実、反対意見の方が、多いのではないか、と思う。パンチは、あの連中には、務まらないと思っているが、どうだろうか。今、海の向こうでは、企業経営者達が、国の政治に、参画している。それも、助言ではなく、中心的役割を。
国を、企業体と見做せば、今の姿は、まさにそのものであり、だからこそ、企業を治めるのと同様に、国を治めることも、できるに違いない、と思うのだろう。だが、明らかな違いが、両者にはある。それに気付かぬまま、あれ程の収益を上げたのだから、国にとっても、そして、国民にとっても、素晴らしい政治を、成し遂げてくれるに違いない、と思うのだろう。でも、国の政治は、企業の収益追求とは、全く異なるものだ。同じとは言えないだろうが、大学運営を、企業経営者に、任せた例は、古今東西様々に、あるだろう。だが、教育は、収益追求ではなく、別の形の寄与の方が、遥かに重要となる。その結果、社会への貢献が、成せるわけだが、利益追求と同じ、と思ってしまうと、とんでもないこととなる。実は、大学を、研究機関と見做しても、同じことで、研究を、業績と利益だけで、評価することは、大きな失敗を、しでかすことになる。でも、国と大学は違う、と言う人がいるだろう。その通りだ。ただ、例として示しただけで、だから、経営者には、国の政治を、行えないとするのは、お門違いとされるに違いない。もう一つ、こちらの方が、遥かに大きな意味を持つが、企業は、社会の中の、一つの組織に過ぎず、国のように、国民全体、つまり、属する人間全てを、相手とするものとは違う、という点がある。にも拘わらず、効率追求を目的として、政府機関の職員を、評価だけでなく、首を切るなどと、言い出すのは、大きな間違いであり、更には、国民には、一部の富裕層を除き、国を去る選択が無いのに、何かしらの、圧力をかけるのは、以ての外だ。この不見識が、極まるばかりなのは、選挙民の選択の、結果に過ぎないが、犯した間違いを、正すことは、任期保証では、不可能だろう。一方で、企業経営でさえ、統治が重視されるのは、何故かを考えれば、今の動きが、如何に危ういものか、わかるに違いない。
半世紀程前に起きた、凄惨な事件のことを、覚えているだろうか。世界的祭典で賑わう、選手村で起きた事件は、今もまだ、紛争が続く地域の、民族間の戦いが、全く別の場所で起きたものだ。最近、これを、事実に基づき制作した、映画が上映され始めた。畑違いの人々を、取り上げる形で。
この話題を、衛星放送の経済番組が、取り上げていた。嘗ての事件と、今も続く民族間の紛争を、結びつける形で、問題提起したのだろう。それと共に、この映画を制作した監督に、話を聴くことで、報道に対する考え方にも、触れていた。事件を伝える映像は、本来、競技を伝える為に、現地入りした、ある放送局の人々が、捉えたものだったが、伝えること自体が、犯人達の動向だけでなく、警察の動向をも伝え、捜査の詳細を伝えることが、事件解決に、必ずしも繋がらない、との批判が、事件発生中も、解決後も、飛び交ったと言われる。そこから、報道姿勢を、考えるべきとの指摘が、噴出していたようだ。このことは、こちらでも、同じ年に起きた、山荘事件でも、盛んに指摘されたが、一部の誘拐事件を除けば、何れの場合も、報道規制は、行われておらず、それによって生じた、問題の責任を、問う声は、収まることはない。番組では、それに加えて、旧来の大衆媒体だけでなく、社会媒体と呼ばれるものが、登場したことで、問題の本質は、伝える側のみならず、受け取る側にも、及ぶことを、伝えていた。今や、一般大衆が、興味本位で、切り取った映像が、臨場感を持って、伝えられる訳で、彼らに、報道姿勢と同様の、考えを抱かせるのは、無理難題でしかない。更に、生成人工知能が、この状況を、悪化させるという懸念も、盛んに伝えられており、伝える側からの解決は、期待できそうにない。となれば、受け取る側の、審美眼やら、吟味力に、期待するしかないが、さて、今の状況では、それこそ、望み薄どころか、ほぼ不可能に思える。どうしたものか。
経済紙夕刊一面には、小説家、大学教授、落語家など、色々な分野の著名人が、思う所を書いている。それぞれに、日々の営みに繋がる、話題を見つけ出し、それに対する意見を書くのだが、面白い時と、つまらない時がある。人間の意見に対し、そんな反応は、当然のことだ。
昨日のものは、以前、隣の大国に、大使として赴いた人が、書いたものだったが、中々面白かった。赴任直後に、あちらの要人に面会した時の、逸話なのだろうが、「説教」をされた、とある。要人と言っても、政府の中枢に居座る、あの手の人々は、大使如きに、無駄な時間を、費やすことはない。相手は、あちらとこちらの関係を、良好に保つ為の組織の長で、重要な役割を果たし、時に、こちらの政治家とも面談する、と書いてあった。だが、威圧的な態度で、自らの国に従わぬ、こちらの国からやってきた大使に、「説教」を垂れるのだ。こんな雰囲気の中、こちらの人々は、その有り難い言葉を、受け止めるだけ、となると思う人ばかり、と政治家や官僚を、馬鹿にするのが、こちら側の意見の、大半を占めるのでは、という憶測を裏切り、彼自身も、他の政治家や要人達も、時間をかけて、一つひとつの説教に対し、反論を並べるのだそうな。だから、単純な挨拶の筈が、思いの外、時間がかかり、1時間程度は序の口、2時間以上もやり合った、ということもあるのだそうだ。見識の無さ、という意味では、まあその程度のもの、と見るべきなのだろうが、相手の土俵で、不見識な発言も、不用意な発言も、ろくな結果にならない、と思えば、流した方が、得策に思える。だが、あの国の人々は、どんな非常識な発言でも、相手が否定しなければ、それが、常識となり、正しいものとなる、と信じている。だから、こちらが、敗戦国になってから、何の証拠も無しに、虐殺や多くの事件を、事実として、世界へ訴えてきた。その度に、否定することが、常となっているが、その理由は、こんな具合だからだろう。外交に関して、無理難題を、押し付けること、と信じる人も居るようだが、現実には、互いの意見、見解を示した上で、妥協案を導くことが、その常道となっている。派手な振る舞いが、常となる人物には、無能な支持者が、群がっているが、どうなることやら。
馬鹿げている、と思うが、その後も、大した進展は無い。米騒動は、依然として、高騰が続く小売価格に、消費者達は、悲鳴を上げているが、重い腰を上げた政府も、備蓄米放出には、暫く時間がかかるとして、即効性は無く、一方で、不埒な輩達は、幕引きを謀り、備えているのか。
それにしても、何故、こんなことが、起きているのか、有識者とか、専門家とか、そんな風に呼ばれる連中から、今回も、まともな解説が、出てくる気配さえない。要するに、こういう事柄を、専門に扱う人間には、想定外の出来事は、解釈不能でしかなく、当然のことながら、解決の手立てなど、浮かぶ筈もない。一部の報道では、新規の業者が、参入したとされ、それも、IT関連や産廃業者、間違っても参拝業者ではなく、産業廃棄物を扱う業者のことだが、こんな余所者達が、暗躍しているとされる。最近は、それに加えて、建設業者も、との話もあるが、彼らに共通するのは、業績不振が続く中、賃上げが加わり、労働力確保に苦しみ、負の連鎖に陥っている、と言われる点だろうか。本業での利益が、上がらないとなれば、何処かに、金が降るようなものが、無いかと躍起になるのは、当然のことだろうが、それにしても、負の連鎖の上に、不慣れなものに、手を出せば、どんな結末を迎えるか、明らかに思える。火の車の経営に、高値で仕入れた上に、高額の利益を乗せて、売り抜けようとしても、さて、そう上手く事が運ぶか。そこに、混乱を強める、政府の動きが起き、どう逃げるのか、容易ではないだろう。だが、始めて仕舞えば、手は引けない。貯蔵庫を確保し、日々の出費が嵩む中、何処で何時、売り逃げるのか、流通の道筋さえ、持ち合わせていなければ、自分の首を、締めることに、なりかねないだろう。こんなことが、起きたのは、この国独自の、流通の仕組みにある、と言われる。仲介業者が、何重にも渡って、存在して、各段階で、収益を上げようと、手数料を取る。直売方式が、一般的となる中、その窓口を、仮想空間に設け、誰もが接続でき、手に入れられる、となれば、新規参入も、難しくはない。でも、だからと言って、誰もが、濡れ手に粟という具合に、できるとは限らない。煮湯を飲まねば、判らぬ連中には、二度も三度も起きることだ。
昨日の今日だが、取引とは名ばかり、と書いたが、それが仮令交渉術だとしても、やり方が、薄汚いと思える。特に、彼特有のやり方だとしても、一方に加担するふりを見せ、自分にとって、有利となる材料を、揃えようとするのは、外交という、均衡を考えるべきものに、そぐわない。
こんな所から、ふと思い当たったのは、別の見方だ。もう一世紀程経つか、列強の国々が、勢力拡大を図って、植民地化を進めた頃、北方民族に支配された、隣の大国は、列強の書いた筋書き通りに、様々な権益を、奪われていった。当時は、それが、正当なやり方で、自国の利益を、最優先にすることが、世界全体の均衡より、重要である、と考えられたからだ。それを、思い出すと、今の状況は、よく似ている、と思えてこないか。列強が、互いの権益を争い、そこで、色々な圧力を、弱小国にかけ続ける。当然、自国の利益を守ろうと、弱小なりに、何れかの列強に、助けを求めるが、それとて、同じ穴の狢であり、交換条件が、様々に示され、結果的に、不利な条件を、飲み込むしかない。今の、軍事侵攻を受けた国が、まさに、その状況に陥っている、と見れば、あの大統領の、身勝手な発言も、類似の筋書きか、とさえ思えてくる。だが、それに対して、今や、先進国の仲間入りをしたと、自負している隣の大国は、どんな態度を示すのか。嘗ての、不当な扱いを、思い起こして、正義を振り翳すのか、あるいは、自らも列強の一つとして、漁夫の利を、得ようとするのか。嘗ての列強国は、今、近隣の紛争を、回避しようと躍起になり、救いの手を、差し伸べ続けよう、としている。だが、それとて、別の権益の移譲が、約束された途端に、掌を返すことに、なりかねない。一方、一世紀前に、列強に与せず、独自の政策を、地域全体に広げた、と言われるこの国は、それが受け容れられず、大戦へと引き込まれた、苦い経験を活かし、消極的な姿勢を、貫くのか、あるいは、正論を掲げ、世界平和の継続を、目論むのか。そんなことを、ふと考えてしまった。