パンチの独り言
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9月22日(金)

 脅しに、屈しない為に、論理的思考が、重要となる。それには、情報を集めることが、最も大切であり、それらに基づき、論理を組み立てていく。だが、肝心の情報が、操作されては、如何ともし難い。では、その正誤は、何をもって、判断すればいいのだろうか。
 社会媒体が、整備されたことで、確かに、日々流される、情報の量は、格段に増加した。では、増えればいいのか、と言うと、そうでもない。確かに、多種多様なものに、接することで、吟味を繰り返せば、論理に役立つものを、選び出すこともできる。だが、何から何まで、全てが、偽物となると、どうにもならない。軍事侵攻を、行う国で、政治的な発言が、繰り返され、国民を、誘導しようとする動きは、まさに、その典型だろう。ただ、今は、公共放送などの、操作可能な媒体だけでなく、多様なものが、全く異なる情報源から、流されているから、冷静に分析をすれば、取捨選択は、可能となる。一方で、大多数の、高齢層の国民は、放送を受信するしか、情報収集の方法を、持ち合わせておらず、国外から見たやり方は、できないということらしい。旧共産圏では、そんな古臭い方法が、今だに、通用しているが、多くの西側諸国では、冷静に行えば、取捨選択は、簡単にできるし、妨害されることも無い。但し、現状を見れば、多くの人々が、可能である筈のことを、一切しないままに、脅され、惑わされている。比較対象を、見つけ出すだけで、簡単に、見破ることができる、嘘でさえ、いとも簡単に、騙されてしまう。根本的に、物事の考え方に、欠陥があるとしか、思えないのだ。だからこそ、こういう場を使い、どう振る舞うべきかを、重ねて論じているが、大勢に、影響は無い。というより、誤った方向に、走り出した勢いが、どんどん増すように見え、様々な指摘に対して、耳を傾けることさえ、やめてしまった、愚かな人々に、届けることができない。では、どうすべきなのか。おそらく、何の手立ても、残っていないのだ。波に乗れば、それで大丈夫、と思う人には、何も聞こえないから。

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9月21日(木)

 情報社会では、大量の情報を、収集して、それを基に、賢く、効率よく、生きることが、大切だと言われる。だが、昨日の話のように、公的機関が、供給する情報に、間違いがあると、無駄なものとなる。技術の進歩から、多種多様な情報源が、作られているのだが。
 感染症騒動でも、世界機関を筆頭に、あらゆる専門機関が、情報収集に尽力し、それに基づいて、指針を決めていたが、結局は、徒労に終わったと言える。原因は、様々にあるのだろうが、根本として、対象に対する、理解不足と共に、収集能力が、明らかに不足していたことが、原因だろう。要するに、情報社会と雖も、肝心の情報が、正確に、的確に、集められなければ、何事も、正常に、動くことがない。その上、誤った情報が、垂れ流されると、混乱が、強まるだけで、収拾がつかなくなる。特に、大多数の人々が、情報端末を手にし、それぞれに、必要な情報を、掻き集めた上で、行動決定すると、理路整然として、行動が行き渡る、と思われたが、現実には、その大部分が、嘘や出鱈目に満ちた、偽情報に、振り回されたり、時に、権威ある筋の情報が、間違った為に、あらぬ方へと、誘導されることとなる。最近の集団行動における、事故の多くは、こんな傾向を、示しているようだ。集団行動では、情報の多寡が、重要となると信じられ、情報社会の確立こそが、問題解決に、結び付くと思われたが、現実には、百年前の大震災後の、デマに振り回され、暴動に走った人々と、何ら変わらぬ、誤った判断と暴走を、繰り返している。情報は、状況把握の為に、重要な要素に違いないが、一方で、その真偽を、確認する方法は、あまり無い。その為に、多数の情報源を、確保することが、肝心と言われてきたが、もし、源の部分で、操作されたり、誤認があれば、その後に続く、情報の流れは、全て間違いとなる。逆に言えば、鵜呑みにせず、疑うことが、肝心となりそうだ。

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9月20日(水)

 厳しい制限が解かれ、人々が、街に繰り出すと、各所に、混雑が戻ってきた。列車は、満席となり、押し合い圧し合いの状態で、移動の最中、心も体も、休めることができない。一方、車の往来も、以前と変わらぬ状態に、戻りつつあり、動脈の多くは、渋滞となった。
 研究者や評論家は、渋滞の原因を、運転者の技量、と決め付けているようだが、本当に、それだけだろうか。今回、巻き込まれた渋滞は、確かに、その要素も感じられたが、どう見ても、管理側の問題、としか思えぬものがあった。以前なら、車の中で、手に入る情報は、ラジオからのものに、限られていた。しかし、今では、殆どが、ナビと呼ばれる、情報端末を装備し、更に、手にした端末から、他の情報も、手に入れている。前者は、交通情報に、特化したものであり、進行方向に対して、必要な道路状況を、逐次伝えるのに対し、後者は、それ以外の情報や、一個人の見解が、多く含まれるので、信頼性に欠ける、とも言われる。だが、お墨付きの筈が、どうも、前者の誤った情報が、渋滞を悪化させた、としか思えないのだ。この連休に、二つの渋滞に、巻き込まれたが、どちらの場合も、その中を、のろのろと移動する中、渋滞表示に、誤りがあった。一つは、突然、渋滞が消え失せたもので、当然、突然、再表示され、何事かと思わされた。ただ、どの道、状況に変化はなく、それ以上の実害が、生じた訳ではない。もう一つは、酷いもので、渋滞表示の誤りが、更なる渋滞を、誘発させたと思われた。発端は、あるICを越えた所での、工事だったらしいが、原因が、事故でもあると伝え、その地点が、表示されないままで、憶測を呼んだ。ただ、渋滞表示は、そのICの前後に、移動を繰り返し、ICを過ぎれば、解消している、と思った人が多いだろう。だが、現実には、工事現場での渋滞であり、情報を信じ、安心して、侵入してきた車が、巻き込まれていた。誤表示が招いた、人災だった。

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9月19日(火)

 物価上昇が続き、庶民の生活は、厳しさを増している。理由は違うものの、つい先日も、百貨店の店員が、労働争議の一環を、実施したとあった。一方、海の向こうでは、更に、急激な上昇率に、労働者から、悲鳴が上がっている。で、一斉争議が、始まったようだ。
 あの業界の争議は、以前から、よく知られており、40年程前にも、こちらから、大量に届けられる、新車の山に、痺れを切らした、労働者達が、過激な運動を、起こしていた。自動車の街では、各所で、輸入車の破壊が、見せ物となり、労働条件の改善に、業務停止に、踏み切る所が、沢山あった。当時は、強力な組合として、名を馳せていたが、その後は、状況が変わってきた。輸入が駄目なら、現地生産を、という方針転換で、各社が、現地工場の開設と、労働者確保に、進み始めていた。その後、競争の相手が、変わったものの、依然として、厳しい労働条件が、残っているのだろうか。この所の、物価上昇から、賃金上昇を、望む声が高まり、遂に、労働争議が、復活したようだ。しかし、以前とは、状況が一変しており、同じ考え方は、通用しそうにない。だとしたら、どんな運動を、実施するのか。と言っても、業務停止以外に、方法は無いだろう。だとすると、今回の目標は、何処にあるのか。輸入車に、押された時代、結局、開発競争に敗れ、経営陣を、厳しく批判することで、納得していたようだが、その元凶の一端は、組合にもある、との批判が強まった。では、今回は、何処に争点を、見出すのだろう。物価上昇に見合う、収入確保は、確かに、その一つだろうが、それだけでは、長続きしそうにない。だとしたら、再び、新興の大国を、対象とした何かしらを、持ち出すのだろうか。何れにしても、組合活動そのものは、あまり効果的で無い、とも言われる中、どんな展開が待つのか。暫く、眺めておくのだろうが、あまり、期待できないようだ。

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9月18日(月)

 街中に、人々が、戻ってきた。制限を、大幅に緩和し、恐怖も、一旦は、鎮静化した、となることで、以前の明るさを、取り戻したように見える。ただ、心底から、その通りに、なっているか、と尋ねたら、どんな返答が、届くだろうか。あれ程の圧力を、かけたのに。
 当然、人の往来が、国内で戻れば、国を跨ぐ往来も、戻ってくる。確かに、街角で見かける、外国人の数は、急激に、増え始めている。その上で、彼らに対する、おもてなしを、どうすべきかが、議論に上り始めた。常識とは、自分達のものであり、必ずしも、他の国で、育った人にも、適用できる訳では無い。これこそが、多様性の問題であり、多文化共生なる言葉が、使われるようになり、深刻に考えられるようになった。だからといって、来る人数は、減る気配も見せず、問題は、一つひとつ、解決されるどころか、山のように、積み上げられる。どうしたらいいのか。答えは、簡単には、見つからない。だが、問題を抱えた人間を、目の前にして、無視する訳にも、いかないのだ。規則は規則として、一方で、習慣は、それぞれのものとして、別々に、扱うしかないだろう。そこには、ある程度の論理を、展開する必要がある。感情だけで、議論をしても、結論は、決して導かれないし、自分だけの習慣を、持ち出しても、理解されることは無い。だったら、互いに理解できる、論理を立てて、結論を導くしかない。なのに、世間では、問題を掲げるだけで、何の議論もせず、感情に訴えることが、続いている。これでは、流れを起こすことは、できない。自明とも思えるが、騒動の時も、その後も、同じ状況が続き、困るのは、自分なのに、改めようともしない。まあ、そんなもの、と諦めるしかないのか。そうなのかも知れず、困り顔の人々に、どう処すべきか、考え所なのかも。でも、自分ができることを、考えれば、まずは、自分の前や周りから、手をつけていくしか、ないのだろう。だったら、何から始めますか。それとも、さっさと諦めますか。

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9月17日(日)

 騒動が、去ってしまい、皆の恐れも、静まったように見える。しかし、感染症の専門家は、全く懲りておらず、再来を、事ある毎に、叫んでいる。その上で、対策に関しては、決定打が無いまま、警戒心だけを、強調する。片手落ちとは、こんなものか、と思えてくる。
 では、現状は、どうだろう。まず、感染拡大を、防ぐ手立ては、唯一、人の行き来を、遮断するしかない。兎に角、接触さえ、無くせば、伝染は防げる、と言われるが、完全に遮断するのは、不可能とも言われる。特に、病原体が、騒動の最中に、盛んに喧伝されたように、何かしらの物体に、付着する形で、移動した上で、次の人間に、接触することを、考えると、この手法では、不可能でしかない。その一方で、何度も、取り上げてきたが、奇跡の救世主と呼ばれた、ワクチン接種は、どうだろうか。効用についても、盛んに議論されるが、そこに副作用の情報が、加わり、選択の余地が、あるような、無いような、不思議な状況にある。その上、流行性感冒で、これまでに、何度も議論されてきたように、病原体の変異が、効果の程度に、大きく影響するとしたら、鼬ごっこと言われる、捕まえきれない、競争のような状況に、なるかもしれない。現時点では、的確性だけでも、怪しげな状況にあり、絞り切れぬまま、議論が進まぬ。そんな状況では、次々と、繰り出される、新手のワクチンが、登場する度に、人々に、死への恐怖を、植え付け直し、接種者を、増やそうとする。こんな実験が、いつまで、続けられるのか、知る由も無い。その中で、本当に、この騒動が、再び起きたら、人々は、何をすれば、いいのだろうか。多分、何をしても、無駄かも知れず、一方で、何もしなくても、何のこともなく、無事に過ごせるかも知れない。さて、どうすべきか、今更、迷っていても、仕方ないのだ。日々の生活を、普段通りに、送るだけのことだ。雑音に耳を貸さず、に。

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9月16日(土)

 科学も合理も無く、ただ、感情に押し流される。そんな状況が、あの騒動の最中には、巷に溢れていた。その中で、人々は、惑わされ、あらぬ方へと、導かれていた。そんな光景を、どうやれば、科学的合理性、などと評せるのか、さっぱり理解できない。論理の欠片も、無しに。
 その中で、末期的と思われたものが、いつの間にか、平常へと戻り、皆の心が、落ち着きを、取り戻した。こうなると、誰もが、恐れを無くし、無謀な行動へと、回帰していく。折角、操作が行き届き、恐れをなして、従っていたのに、何故、と思うのも、無理もない。だが、所詮、無知蒙昧のすることは、その程度なのだ。表面的には、制御可能と、映っていても、現実には、都合の良し悪しで、ころりと変わり、暴走へと移っていく。仕方なく、制限を緩めた限りは、その中で、恐怖を煽るしか、手立ては残っていない。そこで、波の襲来を、訴えるのだが、その材料となるのが、定点観測での、数値しかない。ただ、その変動だけでは、大波の来襲を、表現するのが、難しいらしく、別の手法を、専ら使っているようだ。それは、以前の波の際に、定点観測だったら、どんな数値に、見做せるかという、数値操作を施し、その比較から、襲来を、表現しようとするものだ。しかし、この変換は、どの程度、正しいものなのか、誰にも、わからない。何故なら、数値を収集する条件が、大きく異なるからで、以前は、全数調査が行われ、その中で、今の定点に当たる、病院の患者数へと、数値の収集を行う。それに対し、今のやり方は、ごく単純に、自覚症状を、感じた人々が、患者として、その病院で、診察を受ける。この二つの数字が、互いに、同じ基準の下で、集められたのなら、今の脅しも、真実味を、帯びてくるのだが、どう考えても、そうは見えてこない。その中で、煽り続ける人々は、以前と同じ調子で、波の襲来を、訴えている。統計的には、同一条件と、見做せぬ中で、収集されたものは、比較できない、となっているが、そんなことは、知ったことではない。ただ、脅せればいいのだから。

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9月15日(金)

 科学的合理性、という言葉に、耳を疑った人が、多かったのではないか。確かに、待てど暮らせど、届かぬ情報に、痺れを切らした場面も、一度や二度では無い。その上、感染症の病態自体、軽度から重度まで、余りの違いに、驚かされ、救世主と目された、ワクチンへの落胆も。
 定まらぬ正体に、四苦八苦していたことは、誰もが認めるが、その上で、編み出した対処法が、果たして、科学的であり、合理的だったか。その問いには、否という答えが、山のように、飛んできそうだ。対策を、決定する機関が、十分な情報を、得ぬままに、決断せねばならぬのは、ある意味、致し方のない所だ。だが、その結果を、鑑みながら、総括として、科学的合理性を、高々と掲げるのは、如何なものか。それこそ、科学を理解せず、合理の欠片さえ、持ち合わせぬ人の、発言としか、思えない。まして、興が乗ったからか、現状分析まで、口出しする始末、さっさと退場せよ、と思った人は、同じ位居ただろうか。決定のみを、役割と任じ、調査解析の指針を、示すことは、業務外と決めたのか、情報不足に対して、何も口出しを、しなかったのは、何かしら、別の事情があったのかも知れぬ。にしても、その状況が、長く続くことで、苦境に立たされたのは、事実だったに違いない。にも拘らず、知らぬ存ぜぬを続け、結果として、実態調査に対して、大きな禍根を、残すこととなった。これは、何も、この国に限ったことではない。国際機関自体が、まさに、その極みとなり、他国の機関も、同じ病に冒され、綿密な調査解析を、投げ出してしまった。そうなれば、病魔再来となっても、何の対抗措置も成せず、徒手空拳で、立ち向かうしかない。特に、救世主と目された、ワクチンの効果たるや、何の確証もなく、次々に、新手を繰り出す始末。所詮、生き物として、先天的に、獲得した力で、対抗するしかない。淘汰とは、これを指すのか、とも思えるが、個人には、宝籤の類いなのかも。

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9月14日(木)

 最近、薬屋で、呼び止められた経験は、無いだろうか。医師の処方とは関係なく、ごく一般に、市販された薬を、購入しようとすると、何かしらの説明を、受けるのだ。販売の規則で、定められたものだが、暫く前までは、そんなことがなかった。突然、始まったように感じる。
 実際には、規則の変更ではなく、徹底ということらしい。それも、あの騒動の最中、様々な事情で、受診できない患者が、市販の風邪薬や解熱剤、果ては、痛み止めなどを、大量に、そして、頻繁に、購入する事例が、出てきたから、との説明がある。症状に合わせて、薬を選び、その効用で、緩和を図る、という、ごく常識的な方法が、混乱の最中、極端な方に、動いたようだ。薬の注意書きには、服用量や期間への、指針が示されている。それを守れば、問題も起きないが、非常識な上に、恐怖に駆られる中で、大量、頻繁に、服用した人間が、救急搬送されたらしい。そこで、指導を徹底せよ、との通達が、届いたのではないか。この状況では、藁にもすがる思いで、あらゆる市販薬を、試した人も、居るだろうし、例の如く、社会媒体を通して、嘘や出鱈目が、ばら撒かれたのだろう。所詮、注意深い行動を、怠ったという点では、自業自得に違いない。では、何故、量や期間への注意が、必要なのか。効き目の強い薬は、当然ながら、それなりの効果を有する、化学物質を含む。中には、多量に摂取すれば、副作用を及ぼすものや、依存性を、生じるものもある。国内で、市販される薬にも、他の国では、規制対象となる成分を、含むものもあり、注意を要するのだ。一方、大量服用に関しては、海の向こうでも、以前、話題になったのは、解熱剤の一つで、特に、強力なものが、市販されていたが、これを、効果を期待して、大量服用して、死に至ったという事件が起きた。常識とは、自己防衛の為でもあるが、恐怖との天秤は、どうだろうか。まあ、普通に生活すれば、起きないことだが。

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9月13日(水)

 塵と揶揄される、情報機関は、大衆を対象としており、報道機関とも称される。騒動の最中、情報統制を計り、操作のための偽りを、盛んに流した人々に、与するように、大衆を扇動し、恐怖を煽っていた。興味が無い、と断言した話題では、自らの所業を、棚に上げてもいた。
 良識ある市民からの信頼を、完全に失ったのは、自業自得なのだが、懲りない連中は、次々に、新たな問題、と称する、瑣末な事柄を、引き合いに出し、自らへの批判の矛先を、躱そうと躍起になる。感染症騒動は、ある意味、既に、終わったことなのだが、それでは、人心を弄ぶことが、できないのか、ここでも、あらゆる手を尽くして、情報操作を、繰り返している。定点観測は、長く続く、流行性感冒の、感染状況を把握する為の、簡便法として、使われてきた。これにより、流行の気配を、感じ取ると共に、どの種類のウイルス株が、中心となるかを、確定させようと、編み出された手法だ。分類変更により、死の病とまで、伝えられた感染症も、同様の調査手法が、適用されたが、この動向に関して、不正確な情報が、流され続けている。それも、恐怖を煽る為に、欠くことのできない、大流行の兆しを、示す数値の変化を、把握したとの報道が、盛んに行われる。流行性感冒は、何年にも渡り、同様の調査が、実施されており、その動向は、前年との比較においても、信頼し得るものとして、評価されるが、全数調査を終了し、定点観測に、切り替えたものでは、前年との比較が、妥当なものかの保証は、一切無い。にも拘らず、ここぞとばかりに、大きな数値を掲げ、既に、流行が始まった、とさえ言い募る。だが、それ自体の信頼性は、ここでもまた、未検証であり、確率的にも、怪しげなものでしか無い。その上、感染症自体が、当初の恐怖とは、比べ物にならぬ程にまで、威力を失いつつある。としたら、一体全体、何を主張したいのか。もう、誰も、注視していないのに。

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9月12日(火)

 早朝から、目が覚めるような話、というのは言い過ぎだが、目を疑う話が、流れてきた。南米の国の選挙で、また、極端な流れが、起き始めた、と伝えたのだが、その中身に、驚いたのだ。有権者、と書かれた項には、18-69歳とあり、高齢者の権利は、と思ったのだ。
 慌てて調べてみると、状況は、全く異なるものだった。彼の国では、投票の義務が、国民に課されており、その年齢が、上に書いたものなのだ。現実には、選挙権は、16歳以上に適用され、18-69という年齢層(画面ではそうなっていたが、引用する所は70歳まで、とある)に対して、義務が課されている。いつまでも、投票率が上がらず、国民の意識の問題が、取り沙汰される国では、義務化も、議論されていると聞くが、さて、どの程度の効果が、あるのだろうか。義務と称しても、その罰則は、どうも、国ごとにバラバラで、意に介さぬ場合も、多いようだ。70年前に、女性の参政権が、認められた時、このような状況を、想像した人は、皆無だったろうが、今では、投票率は、半分にも満たず、その内の半分以上で、当選となると、一体全体、どれ程の支持か、と思えるが、内閣や総理大臣の支持率から、何となく、思い当たる節もある。所詮、その程度のもの、との見方もあるが、一方で、全員が、賛否を表明したとして、どんな結果になるのか、それはそれで、全く異なる状況、ということが、彼の国の話から、想像される。民主主義とは、どんな代物か。最近は、誰もが、発言する権利を、有するだけに、種々雑多な意見が、巷に流されている。その中で、どれが妥当で、どれが不適切か、という問題も、あるだろうが、その一方で、何方の勢力に、与するかにより、状況が、一変する事態は、海の向こうの大国でさえ、まざまざと、見せつけられた。その後も、不安定な状況が、続くとなれば、さて、政治への関与は、国民の義務なのか、はたまた、と考える余裕は、無いように思えるのだが。

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9月11日(月)

 街ゆく人の姿に、変化は、あったのだろうか。騒動の真っ只中、口と鼻を、覆うものを、着けていないと、街を歩くことは、憚られた。だが、今は、そうではない。でも、と思う人が、多いのではないか。何故、いつまでも、外さずに、歩いているのか、と。
 反対派にとっては、やっと、溜飲が下がる思い、となった筈だが、どうも、全てにおいて、とはいかぬものらしい。何故、と思う人が多いだろうが、では、別の質問をしたら、どうだろう。何の目的で、着用していたのか。感染症の原因である、ウイルスと呼ばれる代物は、一部の人によれば、生物ではないとなる。何故なら、宿主となる生き物に、感染しなければ、自らの命を、保つことも、次の世代に、繋ぐことも、一切できないから、と言われる。まあ、それはそれとして、その大きさから、かなり目の細かい、物を通さないと、取り除くことが、できないと言われる。更に、口や鼻を覆う場合、何処にも、隙間ができぬように、装着しないと、効果が無くなるとも。これらの点が、反対派が、主張してきた論点であり、その難点故に、余程注意深く、行動しないと、効果無しとなる、という訳だ。当初、専門家達も、異常な程の厳しさで、注意点を、並べていたが、肝心の彼らでも、普段の行動からは、失格の烙印を、押されていた。では、猛暑の続く中、何故、何時迄も、覆い続けるのか。人それぞれの、理由があるらしいが、最中と同様に、不確かなものばかりで、すっきりしない。外国からの旅行者も、当初は、物珍しい視線を、送っていたものの、ずっと以前と同様に、そんな人種としか、思わなくなったようだ。だったら、この国の人々も、同じようにすれば、と思う人も居るが、そうではないだろう。論理からすれば、非常識の極み、とも思える行動に、何かしらの反応を、示す必要があるのではないか。何方の方向にも、強制する動きに、実は、確たる理由は無い、とは言えぬだろう。

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9月10日(日)

 世界中が、一本の線で、結ばれている。そんな時代には、情報は共有され、互いに、強い関係で、繋がれている。だったら、一つの単位として、考えればいいのでは、とも思えるが、現実には、そんな具合には、進んでいない。人間の欲は、様々な形で、互いを侵略する。
 仮想空間での話、と思った人も居るだろうが、現実には、軍事侵攻を見れば、現実空間で、侵略が起きている。但し、その最中にも、仮想空間では、情報操作が行われ、何方が、正当なのか、決めつけようとする動きが、盛んに起きていた。結ばれているからこそ、偽の情報も、事実も、入り混じって、一本の線の上を、巡っている。どう判断するかは、個人に任されており、その中で、議論が戦わされる。でも、事実とは何か。歴史上では、記録されたものが、事実として、認められているようだが、それは、所詮、勝者の論理に過ぎず、敗者の論理は、全て排除される、と言われている。現状では、勝ち負けが決した訳でもなく、互いに、自分の主張を、押し通そうと、論理を展開している。この状況では、どれもが、事実かも知れず、全てが、嘘かも知れないのだ。にも拘らず、ある意味、躍起になって、何方に与するかを、盛んに、論じ合っている。そこに、意味があるのか、誰にも分からない。ただ、利害が、複雑に絡み合い、結果として、何方に転ぶかも、分からぬ中では、誰も、正しい判断など、出来る筈もない。だとしたら、この中で、何をしたらいいのか。そんなことに、悩む人が、本当に、居るのだろうか。俄かには、信じ難いが、利害の為か、はたまた、大真面目で、白黒を付けようとするのか、何かしらの結論を、導こうとする。議論自体は、何も悪いことでもないだろうが、それにしても、こんなこと、いつまで、続けるのだろうか。無関係な人間には、何の意味も無いことに、思えてくる。だったら、暫く、知らぬふりも、いいのではないか。日々の生活に、追われているのだから。

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9月9日(土)

 先日、手にした端末の、不審な挙動について、書いてみた。画面上の、釦に触れて、目的の頁に、飛ぼうとすると、全く別の所に、飛ばされる、というものだ。これ自体で、こちらが、被害を受けることは、殆ど無いのだが、広告主は、微々たるものとは言え、何某かを請求されるかも。
 特に、接触により、操作する仕組みでは、それが、どんな動きをするかを、事前に知ることは、難しいようだ。以前から、パソコンの画面では、接触ではなく、その場所を、所謂クリックして、次の操作を行うが、そこでは、長押しすれば、どのような操作を、行おうとしているのか、知ることができる。便利さを、追求した結果、こういう問題が、生じる訳だが、不正なことを、仕組まなければ、何の問題も起きない。そこに、悪意があるからこそ、問題と思って、書いてみたのだ。一方、別の形の不正が、今、盛んに行われている、と報じていた。携帯端末だけでなく、通常のパソコンでも、同じことが、起きているから、悪意による罠を、その場所の管理者が、仕掛けていると言われる。以前から、広告では、見えるか見えないか程度の、小さな文字で、何かしらの注意書きを、施すことがあり、場合によっては、詐欺の一種、と見做されていた。これと、同様の行為は、今も盛んに行われ、取り締まられているが、今回のものは、少し違う代物だ。相手の指示に従い、頁を進める度に、複雑な文言が、現れてくる。これにより、混乱を招くことが、第一の目的であり、その上で、訪問者の操作により、罠に嵌める手口で、自主的で能動的な操作の上、との主張となるらしい。報道では、多くの場合が、紹介されていたが、問題は、単純ではなく、複雑な事情も加わり、詐欺との断定が、より難しくなるようだ。ダークパターンと呼ばれる手口は、様々な業界で、見られるようだが、個人を相手にしたものだけでなく、企業相手までとなると、どうしたことか、と思うしかない。詐欺は、詐欺なのだから。

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9月8日(金)

 はっきり言って、何の興味も無い。何故、電波でも誌面でも紙面でも、皆が挙って、取り上げるのか、さっぱり理解できない。それだけの一大事、と言われるけれど、だとしたら、何故、これ程の長期間に渡り、皆が、無視したり、蓋をしてきたのか、それが分からぬ。
 今回の騒動は、いつもと変わらぬように、外圧により、始められたと言われる。だが、その肝心の外圧さえ、数十年も、知らなかったのか、そんな筈は無い。外圧とて、"Me too"に始まった、醜聞が広がり、あちらでも、大騒ぎになったが、それとて、何年もの間、知らぬふりをしていた。同じような業界と、それに対する報道関係の、不思議な関係が、こんな状況を、産み出したと言われる。だが、あちらの話は、加害者が、生きている間に、始まった。こちらは、加害者も、その隠蔽に動いた、関係者も、どちらもが、死んでから、始まったのだ。死人に口無しとは、よく言うものの、この状況で、何をどうしたいのか、やはり、理解に苦しむ。但し、被害者にとっては、やっと、日の目を見た、という状況であり、愈々、核心に、触れることができる、となるのだろうか。それとて、やはり、死人に口無しであり、他の関係者にとっては、言い訳だろうが、何だろうが、知らぬふりしか、できることは無い。そんな状況で、批判も償いも、どうでもいいと思えてくる。海の向こうの告発は、2017年に起きた。一方で、こちらの関係者は、加害者が、2019年に、その協力者が、2021年に、死んでいる。その後に、調査が始まり、加害認定が、なされたとあるが、この時系列は、何を意味するのか。外圧も含め、蓋をしてきた人々が、今更、何を言い出すのか、とも思う。また、前者は、異性行為であるのに対し、後者は、同性行為である。ここにも、問題ある、と言うべきなのか、それも、不明確なままだ。それや、これやで、興味が無い、となる訳だが、これは、無責任なのだろうか。

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9月7日(木)

 薄めたとしても、残存しているのなら、汚染されたと言うべきだ。という主張、かも知れぬ。確かに、燃料棒に、直接触れることなく、強い放射線により、三重水素が生じた、という一般の原子炉の話と異なり、事故後の破壊された原子炉では、燃料棒そのものから、核種が放出された。
 そこに、違いがあるのは、科学的にも、正しいことだろう。仮令、処理しても、残存するなら、明確な違いがある、との主張なのだ。それに与するように、昨日の話が、紹介された。だが、残存する核種について、環境中に、存在しないとは、言えないのだ。核実験でも、その他の要因でも、様々な形で、環境に放出されたものが、存在している。例えば、海水中の濃度についても、長年の調査が、報告されており、そこには、事故直後に、近海で、百倍以上の上昇が、あったことが示されている。それでも、今では、ストロンチウム90(Sr-90)の場合、リットル当たり、数ベクレルの濃度となっている。これに対して、2013年度の処理では、処理後の数値が、2900ベクレルで、当然大きな数字だが、現在の希釈の、百倍以上という話からは、この時期のものでも、かなり低いものとなる。ただ、それだと、海水中の十倍以上だ、との主張も出てくるだろう。2014年度からは、高性能処理が、導入されており、環境海水の濃度より、遥かに低い値、となっている。これらの話は、公開された数値から、十分に、算出可能であり、何も、驚くほどでもなく、また、人為的操作が、入っている訳でもない。科学的に、とする所以は、この辺りからくるもので、国際機関が、同意したのも、当然と言える。さて、ここまで来て、何を、どのように、説明すれば、いいのか。これに対する、正しい答えは、おそらく、存在しないだろう。ただ、震災から、十年以上を経過し、その間に、様々な議論が、ある中でも、納得という目標は、達成されておらず、課題が残っている。冷静で、論理的な思考が、求められる。

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9月6日(水)

 扇動に、最も有効な手段の一つに、悲劇的な筋書きがある。人々に、不安を掻き立て、ある方向に、導く為には、恐怖を催させる、悲劇が不可欠なのだ。そう考えると、この間までの騒動は、まさに、その典型だった。専門家と称する輩は、盛んに、死の恐怖を煽っていた。
 どんなに少数でも、被害者に、光を当てれば、悲劇は、作り上げられる。本来、公衆衛生や疫学では、多数の人間に、どんな傾向が、現れるかを扱うが、恐怖を持ち出せば、たった一つの事例でも、話が出来上がるのだ。だが、過ぎてしまえば、取るに足らぬこと、と平穏に戻る。この繰り返しが、長い時間の中で、様々な事件として、記録に留められる。但し、何度も繰り返すのは、大衆が、経験から、何も学ばないことを、如実に表している。処理水の問題は、見方によって、全く異なる筋書きが、展開される。貯め続ければ、その内減衰する、という見方と、膨大な容積に、十分に希釈すれば、危険性が、ほとんど失われる、という見方で、何方も、譲る気配が無い。だが、前者は、限界を超して、別の被害を生じる、という可能性が、懸念されるし、後者は、総量として、問題となる、という可能性が、懸念される。そこに、「科学」を翳して、反論を展開する国が、登場し、輸入禁止を掲げて、圧力をかけてきた。まさか、と思ったが、それに対して、与する意見を、盛んに論じる人々が居た。根拠は、処理が不十分で、除去しきれぬ核種が、残存している、というものだった。少し調べると、公開された数値が、見つかった。確かに、処理が始まった、早い時期には、核種により、除去効率が低く、残っているようだ。だが、そこにある、三重水素を、想定通りの濃度まで、希釈すると、残存した核種は、測定限界以下となる。この論理が、絶対とは言わぬが、彼らの論理は、明らかな誤りであり、まるで、大国に擦り寄るかの如く、見えてくる。当然、被害者然とする人々にも、好都合となる。

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9月5日(火)

 まだ兆しが、見え始めた所、結論を、急ぐ必要は無い。だが、悲観的な筋書きを、好む人々は、早速、隣の大国が、経済破綻を、来した時のことを、論じ始めている。それも、傾く大船に、小さな国が、巻き込まれるという、悲劇を、描くことに、躍起となっているのだ。
 前にも書いたように、あちらでは、急速な成長を遂げていた、経済に、翳りが見え始めた。特に、不動産不況は、深刻であり、映像でも、建設途中で、投げ出された、高層建築が、映し出される。その光景が、嘗てのこの国の姿と、似ていると見る向きもあるが、果たして、そうだろうか。こちらで、風船が弾けたのは、不動産が、高騰を続ける中、借入金の返済が、滞ったことから、始まったと言われる。同じ、不動産という言葉でも、土地を対象とした話と、建物を対象とした話では、事情は、かなり異なっている。理由は単純で、あちらでは、土地の個人所有は、不可能だからだ。その代わり、その上に建てられた、高層建築の各部屋は、所有物とすることができ、新たな投資先を、求める人々が、高騰する住宅を、買い漁ったと言われる。ここでも、少しだけ、事情が違うのでは、と思えるのは、高騰を続けた不動産が、価格崩壊を起こし、借金返済の目処が、つかなくなった、という嘗ての話と、売り出す為に、新たな建築を続けた、高層住宅の買い手が、見つからなくなり、不動産会社の資金繰りが、滞り始めた、という今の話には、違いがありそうだからだ。とは言え、経済の循環が、何処かで滞ると、全体の金の流れも、円滑さを失う。その上に、感染症騒動での、厳しい規制の後遺症か、他の先進国に比べ、回復が遅れている、という状況が加わり、全体として、経済破綻もあり得る、との見方が、出されているのは、事実であり、それによる大波を、こちらが受けるとの見解が、実しやかに語られる。だが、そんなに単純なのか。世界の工場が、閉鎖したら、別に作ればいいだけ、では?

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9月4日(月)

 電話による詐欺は、今も絶えないようだが、状況は、かなり変化したようだ。特に、振込詐欺と言っても、窓口で、手続きをさせると、行員に気付かれ、見破られるようになると、機械を通しての、振込へと、切り替えられた。だが、これとて、限界があるのだ。
 機械の扱いに、不慣れな人間を、相手とする詐欺では、一つひとつ指示を与え、騙す手法が用いられる。その為、携帯電話での指示が、不可欠となるが、これも、銀行内やコンビニでの、不審な行動から、見破られることが、増えてきた。次々に、繰り出される新手の詐欺では、一々対策を、講じることは難しい。根本的な問題は、別の所にあり、そちらの解決こそ、課題と思われるが、個人の認識の違いから、決定的な手段は、講じられそうにない。一方、携帯電話の機能が、格段に向上するにつれ、別の詐欺事件まで、生じ始めている。以前から、ネットに繋がった、パソコンを経由した、詐欺事件は、多発していたが、それが、手にした携帯端末に、及び始めたのだ。ただ、そこには、電話による事件とは、異なる事情が、あるようだ。電話は、元々、誰か知らぬ相手から、掛かってくるから、防ぎようが無い、と言われたが、端末から、接続するのは、所有者が決める訳で、相手を知ってのことだ。しかし、知る知らぬは、不明瞭なもので、興味本位に、訪れた場所で、被害に遭った、という場合が多い。ただ、その手口には、共通点があるように思える。作為的とは言え、本人が、その場所への接続を、任意で、決めていることだ。受動的ではなく、能動的な点に、騙されたことへの、感覚の違いが出てくる。だが、それとて、精査すると、少し違うと思える。つまり、本人の意思とは、異なる場所に、飛ばされている、という点だ。表記とは、異なる場所に、飛ばされた場合、能動とは言えぬ、別の行為に思える。最近、携帯端末で、戻る釦が、別の場所への入口になっていた。詐欺ではないが、さて。

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9月3日(日)

 では、電動自動車に関して、何が問題なのか。隣の大国は、率先して、その開発を進め、生産を伸ばしている。遅れてはならじとばかり、先進各国も、そちらの開発や生産に、舵を切っているが、そこでの論理に、綻びは無いのか。実は、多くの課題が、山積している。
 何度か、取り上げたが、この駆動方式に関して、海の向こうでは、数回、取り沙汰になった。西海岸のある州では、その方式の車を、販売しなければ、全ての方式の車の販売を、禁止する、との動きがあった。しかし、余りに早過ぎたのか、どの企業も、本腰を入れられず、そこに混合方式という、新手が登場して、導入の勢いが、失速した。だが、環境悪化に対する、対策の必要性に関して、何も変わらず、燃料方式には、限界があるとの見方に、変化は無い。再び、火がついた開発競争は、単に、現時点での、保有台数の首位だけでなく、他の先進国にも、飛び火していった。だが、一部の国を除けば、電力供給に、化石燃料を使わぬ所は、殆ど無い。この矛盾への答えを、出さぬままに、勢いのついた開発競争は、激化の一途を辿るが、規制を導入する国々は、解決の糸口を、見出せぬままに、突き進んでいるように見える。隣の大国は、多くの事柄について、自己満足の答えを、示すだけで、将来への課題には、蓋をしたまま知らぬ顔だが、その他の先進国は、そういう訳にも、行かぬ事情がある。さて、この顛末は、どうなるのか。再生可能と称するもので、発電すれば問題無し、とする論理も、多くの矛盾を、抱えているように見える。慌てて、対策を講じたつけが、将来に渡る大問題を、産み出す可能性も、十分にあると思える。論理的思考とは、そんな矛盾を、一つひとつ解決し、全体として、整合性を重視することが、大切なのだが、どうも、考えの浅い人々には、似合わぬものとなる。どう進むかは、もう暫く眺めねば、判断が付かないだろうが、その為にも、猪突猛進は、控えたいものだ。

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9月2日(土)

 論理的な思考を、重視しているから、絶対的なもの、と思っているのでは、と考えるかも知れないが、そんなことは、決して無い。論理を構築するには、前提や仮定など、多くの要素が、絡んでくるからだ。間違った前提を置けば、折角の論理も、あらぬ方へと向かうのだ。
 この国では、西洋の考え方の一つとして、論理的思考を、挙げる人が多い。確かに、議論をすれば、ある道筋に沿って、説明がなされ、自らの主張を、押し通そうとする一方、こちらの説明に対して、論理の綻びを、指摘しようとする。それによって、論破しようとする意図が、見えてくる。だが、論理そのものは、整然としたものだろうが、前提や仮定は、必ずしも、整っておらず、出発点で、破綻しているものも多い。注意を要するのは、この点であり、論理そのものを、検討する前に、前提や仮定が、間違っていないかを、点検する必要がある。例えば、自動車の駆動方式でも、ガソリンではなく、軽油が好まれたのは、燃費の良さだったが、その一方で、大型の輸送車などで、排気ガスの規制が、遅れたことがあった。全体に、厳しい規制が、かけられ始めると、製造会社は、合格を目指して、新たなエンジンを、開発したと言われる。だが、規制の厳しさから、達成不可能と見るや、別の手立てを、講じたようだ。検査に合格する為に、その条件でのみ、規制値を下回る、排気をするように、仕掛けられた車は、確かに、合格はしたものの、通常の条件では、以前と変わらぬ、劣悪な数値を、示していた。世界最大の企業の一つが、そんな小賢しい手段を、取ったことは、社会に衝撃を与えたが、役員が、知らなかったとの報道には、疑いが残る。一方、同じ規制に、こちらでは、合格する車を、生産していたことは、努力不足を、強く感じさせた。その後、燃料系の駆動方式そのものが、禁止予定となり、電気駆動を、最優先させるが、これとて、論理的には、可能でも、多くの問題を、抱えている。