パンチの独り言
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8月13日(木)

 国際協調は、何の為にあるのか。そんなことを、尋ねられたら、今なら、自分の為とか、自国の利益に、とか、そんな答えばかり、返ってきそうだ。だが、何事にも、自国中心に、考えていては、との考えから、この仕組みが、できたのではないか。今や、そんな話は、忘れ去られたのか。
 確かに、政治家が、有権者に対し、利益を振り撒く、という姿勢が、露骨になると、協調でさえ、彼方でもなく、相互でもない、自国中心で、考えることが、第一となる。今の、紛争地域の情勢は、互いに、自己主張を繰り返し、周囲を巻き込み、あらぬ方へと、向かっている、ようにさえ見える。その最中、協議を進める、との話が伝わっても、互いに、自国に有利な話のみ、伝えるのでは、話し合いなぞ、できる筈もない。その上、報道は、双方の不安定を、報じることに、専念するから、協議の内容どころか、その進展への、期待は、裏切られるばかり、と見えている。その中、結果的には、頑なに、主張を続けた勢力が、圧倒的な有利を、誇っている、と伝えるに至っては、もうお手上げなのだ。協調の為の、国際機関も、近年は、その存在意義さえ、失われつつある、とまで、言われており、強大な勢力を、有する国が、自国中心に動き、互いに、理解を進めるより、距離を置くことに、力を入れているから、どうにも、解決への道は、遠くなるばかりだ。ただ、当事国だけでなく、他の国々も、多くの要素で、関わらざるを得ない、状況に追い込まれており、このまま、未解決では、被害が、広がるだけ、とさえ思える。何か、妙案はないものか。こうなると、また、世界的な争いに、向かうしかないのか。そうなったら、戦争放棄を、謳っている国は、どう動くのか。不確かなことばかりで、何とも落ち着かないが、多分、このまま進み、何処かで、真の意味の、協議に入るしか、道は残っていない、と思える。楽観的に過ぎる、と言われそうだが、破壊と破滅にしか、向かわない道を、選ぶとは、思えないのだ。

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8月12日(水)

 兎に角、客観的な話が、聞きたい、と思うのだが、今の情報社会では、そんなものは、一欠片も、流れていない、のではないか。そんな話をすると、ずっと前は、大衆媒体が、それらを、操っていて、結果として、彼らの思惑が、反映された情報しか、流れていなかった、と返されそうだ。
 それは、その通りだろう。この国でも、戦時中は、その極端さが、際立っており、権力側が、流せと指示したものだけが、紙面や音声として、流布された。では、今の状態の方が、より適切だろうか。誰も、頷かないだろう。日々、手にした端末に、表示される情報も、今、面と向かっている、画面にも、そして、紙面や公共放送でさえ、全面的に、信頼がおける、と呼べるものは、一つも無い。だが、洪水のように、押し寄せる情報は、嘗てとは、明らかに異なる程、膨大なものとなり、一人ひとりには、目に触れぬものが、大部分となる。だったら、それらを、纏めて、情勢を示せば、間違いが、無くなるのでは、と思う人も、居るだろうが、これまでの、人為的な、纏めサイトの多くは、偏りを、一段と高めたもので、信頼度は、高まるどころか、地に堕ちた、と言われる程に、なっている。最近は、人の手を、煩わずとも、機械的に、そんな作業を、行う仕組みが、出来上がっており、人の思惑には、左右されず、もっと、均衡がとれたもの、となっている、と言われたりする。だが、現実には、とても、そんな評価が、できる代物とは、なっていない。理由は簡単で、捏造や嘘が、流される情報の、大部分であり、それに基づいて、纏めたとしても、まともなものが、出来上がる筈が、無いからなのだ。では、どうしたらいいのか。結局、情報の受け手が、自身で、取捨選択を、繰り返すしかない。それが、客観的と、呼べるものか、と尋ねられれば、即座に、否と答える、しかないだろう。だが、それでもなお、他人任せを、鵜呑みにするよりは、ましなことに、なりそうだ。でも、その手間が、との指摘には、所詮、それらの判断は、情報を、眺めつつできるから、大した手間は、かからない、とも言える。この点は、どうも、近年、理解できぬ人が、増えているようで、考えるとか、判断するとか、そんなことに、無駄な時間を、かけたくない、と訴えるのだ。ここに、大いなる誤解があり、そんな戯言を、信じるからこそ、何事も、鵜呑みにさせられる、事態が起きる。

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8月11日(火)

 情報社会の不思議は、山ほどあるに違いないが、囀り界隈では、両極端に属する、人間達が、蠢いていて、時に、啀み合っている。片方は、何事も、調べずには、済ませられぬ人で、その中で、垂れ流される情報を、一々確認する。もう一方は、その正反対に位置する、人間だ。
 こちらは、無知を、何とも感じず、ただ、そこで、相手となる人間を、罵倒し続ける。相手が、間違いを、指摘しても、その間違いは、実は、正しいことだ、と主張したり、指摘する人間が、非常識だと、決めつける。前者は、実害を、生じないが、後者は、ただ、そこに居るだけで、不快感を催し、時には、無視したり、排除したりすると、別の形で、追いかけてくる。迷惑に、思う人が大部分だが、そういう連中に、同調する輩が、登場するのも、あの世界の、特徴の一つかもだ。別に、無知を、恥じる必要は、無いのだが、でも、知らないことは、認めた方がいい、とは思う。と言っても、この手の人間に、かける言葉は、同調以外には、無いのかもだ。何か、意見をぶつけても、批判的なことを、投げかけても、いずれにしても、攻撃を受けた、と判断する限り、罵倒は止まらない。それにより、不快となる位なら、最初から、無視した方が、無難なのだろう。彼らの多くは、同調は、歓迎するが、異論は、全て排除するし、時には、そこに、暴力的な表現を、付け加えて、相手が、立ち去るまで、し続ける。まあ、それらの遣り取りが、何の役に、立つのかと、問われたら、何の役にも、と答えるしかない。のだったら、初めから、無視するのが、適切かも知れぬ。互いに、激昂するまで、論争を続けても、互いに、何の得も、得られないし、無駄な時間を、過ごすだけとなる。はじめに戻り、無知を、棚に上げる人々は、いつ頃からか、仮想空間に、溢れ始めたが、その原因は、何だろうか。幼い頃から、何の批判も受けず、叱責されることなく、育ったからなのか。それとも、仮想空間だからこそ、その逆の反応が、出てくるのか。答えは、見えてこない。そんな答えを、見つけても、何の役にも立たない、と言われるかもだが。

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8月10日(月)

 終活、という言葉が、いつの頃からか、盛んに、使われ始めた。当初は、従来の漢字変換しか、見当たらなかったが、今では、ごく普通に、表示される。それだけ、市民権を、得ているのだろうが、受け止め方は、人それぞれだろう。準備万端で、誰にも、迷惑をかけずに、との思惑も。
 確かに、人の死に伴う事柄には、普段とは、全く異なるものがあり、その為に、備えをする方が、良さそうにも、見える。だが、その一方で、死は、予期せぬもので、いつ何時、降りかかるか、分からぬ場合も、多くある。老後、と呼ばれる期間に、入ってしまえば、誰もが、そろそろ、と思い描くだろうが、時に、そんな所まで、寿命が延びぬ場合も、あるだろう。そんな、一種突然の死は、致し方ないものの、高齢となり、そろそろお迎えが、と思い始めると、世間で、騒がしくする、終活というものにも、目が向くのだろう。そこに、様々な手続きや、商売が、提示されると、途端に、心穏やかには、居られなくなる、という人も、居るのだろう。となると、ここでも、情報の収集が、肝心との意見が、出てきて、また、面倒を、背負い込むことに、なるのだ。所詮、商売だから、と思えば、適当に、考えれば、という思いも、過ぎるのだろうが、その途端に、そんなことでは、後で困る、などと、厳しい批判が、浴びせられる。それもまた、適当に、無視すればいい、との思いなら、まあ、大したことも、起こらずに済むが、しかし、世の中、そんなに甘くはない。商売人どころか、今や、役所まで、乗り出してきて、色々と、様々に、口出しされる。家族が居れば、それで安心、などと言えぬ、状況さえ、起きかねない。まあ、自分の人生が、終わってしまえば、それで幕切れ、と思えば、どうということも、ないのだろうが、周囲が許さねば、そうも行かなくなる。どうしたものか、と思い始めたら、思う壺だ。生きている間、精々、楽しめば、と思っておけば、またぞろの、懸念や心配も、起こらずに済ませる、のだが。

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8月9日(日)

 大切なことは、誰にとっても、いつの時代も、大切に違いない。皆が、そう思っている、と思うのだが、そうでもないことが、時に、起きる。この季節だから、という訳でもないが、大衆媒体は、専ら、核兵器のことで、持ちきりとなる。確かに、大切なことなのだ。
 近年では、だからこそ、平和賞が、と持ち出す。これも、確かに、人類にとり、大切なことだから、という理由で。だが、この時期に、この手の話が、取り沙汰され、人類皆にとり、大切なこと、と連呼される度に、首を傾げるのは、ある世代に、限られたことか。半世紀以上前に、反対運動が、盛んだった頃、理解できぬ内容が、報道されていた。反対運動は、二つの勢力に分かれ、互いに、歩み寄ることなく、時に、啀み合って、非難の応酬か、と思われた。大切なこと、に変わりないのに、何故、互いの主張が、ずれてくるのか、また、政治との関わりが、深まる程に、溝が深まる様子に、子供心に、何故という文字が、刻み込まれた。その歴史に関して、改めて、検索したら、こんな文章が、表示された。今の、輝かしい活動に、暗い影を落とす、そんな印象しか、与えぬものかも、だが、人間の性なのか、あるいは、権力欲求の、成れの果てなのか、そんな姿が、見え隠れする。こんな話を、紹介すると、すぐに、今は違う、との声が飛び、そんな下らない話に、触れる必要は無い、と言われるだろうが、ここにも、人間の性質が、現れており、何事にも、啀み合いが、伴うことに、気をつけるべき、と思えるのだ。実は、多くのこと、というより、ほぼ全てに、こういうことが、反映されており、皆が、大切な主張を、掲げる中で、利害関係が、強い影響を、及ぼしていることに、気付くべきだろう。正論が、嫌われるのも、そういった利害と、馴染まぬからで、決断が、及ぼす影響や、それによって、得られる利益や、被る害こそが、大切との見方も、あるのだろう。だが、こういう背景に、目を向けずに、何事も、鵜呑みにする人は、煮湯を飲まされる。利害を追う人々は、思い通りにならぬと、さっと身を躱し、そ知らぬ顔で、眺める側に、回るのだ。損得で、測るものではないが、利害に拘る、人間を相手にすると、注意を要する。

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8月8日(土)

 市場が、高騰を続ける中、一向に上がらぬ、保有株に、不満を、抱いた人も、居るだろう。その後、暴君の、不規則発言が、原因かは、知る由もないが、乱高下が、続いた時には、平均株価とは、全く違う動きを、保有株は、見せたのでは、ないだろうか。となれば、
 平均の活況は、その意味では、一部の銘柄に、限られたもので、市場全体、とは言えぬ、状況だったのかも知れぬ。確かに、先進国は、生成人工知能で、持ちきりの状態で、それに関連した、製品や事業に、関するものに、注目が集まる。だが、そんな情勢では、大丈夫なのか、との思いが、過ぎるのでは。確かに、そんな懸念も、あるのだろうが、とは言え、注目が、集まってなくても、十分に、上昇基調にあり、やはり、資産としては、増えている、という人が、多いのではないか。長く続いた、不況の後に、今の活況が、始まったのだが、その一方で、紛争地域の、不安定が続き、果たして、この状況が、長続きするかは、不確かなままだし、いつ、崩れるかも、分からぬままだ。だとしたら、今、どう動けばいいのか。証券サイトとして、考えるべきことは、あまり無いようだが、まずは、長期保有を、基本として、見守るのが、一番楽だろう。その中で、もう少し、別の方法は、と問われたら、そろそろ、長期金利も、上がり始めたから、今更の如く、国債に、注ぎ込むのが、次に来る、投資先かも知れぬ。とは言え、一攫千金を、狙う人には、不向きな運用手法、であることには、違いない。これ程の、乱高下が、続くのなら、やはり、日々の株取引を、繰り返した方が、と思う人は、損失を覚悟しつつ、やってみれば、と思う。資産運用が、本当に必要か、という点には、サイトの都合上、触れずにおくが、今のまま、物価上昇が続くと、年金生活者は、支給額が、増えてくれないと、と思うだろう。その点については、政府任せで、何ともならぬから、やはり、地道な形の、運用を心掛け、少しでも、増えれば、と願うのみだ。それは、株価だけに限らず、配当も含めて、の意味で。

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8月7日(金)

 誰もが、できれば、払いたくない、との思いだろう。だから、減らす、と言われたら、喜ぶのは、当然のことだ。ただ、減らして、悪いことが、起きるのでは、との懸念があるのも、当然のことだ。もし、必要ないなら、世界中で、国が、そんなものを、民衆から、毟り取ることなど、無い筈だ。
 だから、という意味で、減税は、票を集める道具、として使われてきた。だから、という意味で、反対する勢力は、減らした分を、何処から賄うのか、所謂、財源の提示、を求めるのが、常となってきた。ただ、納税者として、気になるのは、その額の多寡だけでなく、用途だろう。その意味で、今回、話題となる、消費税については、導入時からして、説明不足が続き、今も、納得できぬ、と思う人が多い。その中で、一部の物品とは言え、税を徴収せず、との約束が、掲げられたのには、歓迎の声の一方、猛反対が起きた。特に、その税収が、老後の頼りである、年金の財源、となると信じ込まされ、微々たるもの、と雖も、無くされては、大ごとだと、思う人には、その分を、何処から賄うのか、となるのも、当然だったろう。減らせば、その分を、何処かから、持ってこなければ、との話は、その通りなのだが、税収全体として、考えていない風は、どうしたものか、と思えてくる。この所、物価高騰で、生活が苦しくなるばかり、との訴えが、激しくなるばかりだが、それに沿って、給与が、上がり続けることには、あまり目が向かないらしい。身勝手な考え方、でしかないが、こういう所にも、目を配るのが、大衆媒体の、責務ではないか。もし、同じ所得税率であれば、収入が増えれば、納税額も、自ずと増える。その中で、今回の、減税騒ぎが、起きているが、ここ数年、税収が、増え続けるのを、知らぬ筈はない。だったら、その増えた分で、賄ったらどうか、と言い出せば、それは、別の話、と返ってくるだろう。だが、これまでの流れからも、それが、妥当な考えであることは、明らかなのだ。確かに、物価が抑えられる中、給与が上がらず、生活が、徐々に苦しくなっていた時には、別の財源を、求める必要があり、消費税率が、徐々に上げられた。だが、ここ数年の状況は、全く違っており、それに見合う使い方を、考える必要もある。馬鹿の一つ覚えを、連呼するのは、そろそろ止めにして、税収の見込みでも、計算してはどうか。

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8月6日(木)

 今回の騒ぎは、前回とは、違うものだったらしい。昨日の独り言を、書き上げて、掲げた途端に、接続は収まり、何事も無いかの如く、の状態となった。日が変わり、点検にでも、訪れているのか、数回の接続が、残されたが、それだけとなった。何の目的で、何が達成で来たのか。
 とは言え、怪しげな行動、であることには、変わりがない。同じ業者を、介した接続でも、国も地域も、次々と変え、何度も接続するのは、管理する側から見れば、不気味な存在、でしかないからだ。別に、みんなの掲示板や、チャットに、書き込んで欲しい、と思う訳ではない。足跡を、残すことを、嫌うからこそ、接続経路を、次々と、変えたのだろうし、正体を、見破られぬよう、細心の注意を、払った上での、ことだろうから。だが、匿名性が、高まる程、相手をする、人間には、不気味な存在、としか映らなくなる。だから、敢えて、書いてみたのだが、その途端に、反応が起きたのは、中身を、読んだからなのか、はたまた、単なる偶然、にしか過ぎないのか、それさえも、定かにはならず、不完全燃焼なのか、消化不良なのか、そんな心持ちに、ならざるを得ない。今の、情報社会の、典型なのかもだが、こんなことを、書き連ねることで、相手に、何かが伝われば、などという思惑が、無い訳ではない。どうだろうか。こんなものばかりが、情報社会では、巷に溢れ、皆が、ビクビクしながら、過ごさねばならぬ、というのか。こちらとしては、実害さえなければ、このまま、毎日、独り言を、書き綴るだけのことだ。迷惑千万、となるのならば、掲示板でも、チャットでも、はたまたメールでも、書いてくれればいい。この独り言も、匿名での書き込みで、偉そうなことは、言えないのだが、一方的に、知っている、という状況は、有り難くない。何かあれば、書いて欲しい。

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8月5日(水)

 夜半過ぎから、接続が続く。今回は、前回のような、連続的な接続、ではなく、時間を空けて、接続が、繰り返される。もう一つの違いは、経由する、接続業者が、前回とは違い、時差で見れば、丁度反対側の、国々からのもの、となっている。にしても、迷惑千万だ。
 おそらく、6時間程で、30を超える程度だから、平均すれば、10分程度の間隔で、接続してくる。それも、業者としては、同じなのだが、国が異なり、その中でも、地域が違う場合も、ある。何が面白くて、こんなことを、繰り返すのか、こちらには、理解する術も無い、のだが、彼方は彼方で、何かしらの、意図があるのかも知れぬ。何れにしても、できることは、全く無いから、飽きて去る、といういつもの形に、なるのを待つのみだ。普段、静かな所だけに、こういう騒動は、単なる迷惑、としかならない。多分、ある意味の、愉快犯なのだろうが、何が愉しくて、こんなことを、繰り返すのか、理解できる筈がない。まだ、直接的な、被害が出ておらず、サーバーの管理者にも、何も伝えないが、もし、もっと激しくなったら、接続拒否の、手立てを、講じる必要が出る。と言っても、今までの、記録を見る限り、通常の、拒否の仕方では、全てを、排除することは、不可能だろう。前回も、少し調べてみたが、一般的な、拒絶命令文を、設定するしか、方法はない。だとしたら、毎回、異なる所から、接続を繰り返す、このような行為を、管理者が、妨げることは、殆ど不可能だ。まあ、実害がないから、今のうちは、傍観を、続けるのみだが、もし、害が及べば、何かしらの措置を、下さねば、ならなくなる。他の利用者に、迷惑がかかることは、避けねばならぬから、現時点では、鼬ごっこと承知の上で、拒絶命令文を、書き込むしか、方法がない。これはこれで、面倒でしかなく、できれば、避けたいものだ。一日二日で、飽きてくれたら、と願うばかりだが、どうなることやら。

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8月4日(火)

 大災害の度に、被災者の状況を、伝えることは、報道の重要な責務だ。が、内容については、いくらなんでも、と思うことが、一杯ある。特に、脚色を、効果を上げるのに、必須である、と考える、責任者は、驚くべき、捏造さえ、不可欠とばかり、連呼する。いやはや。
 先日、気になったことは、口中の問題で、それに必要な、日用品を、自宅に置いたまま、との窮状(?)を、訴える人が、との話だったが、はて、と固まったまま、忘れようとした。寄り添う、の意味を、取り違えたまま、言われたことを、そのままに伝える、のが報道の責務、である筈がない、のだが、今の時代、こんなことは、山のようにある。現場の、被災者達が、冷静さを失い、慌てふためくのは、よくあることだが、そこを訪ねた、報道関係者が、一緒になって、騒ぎ立てては、物事を、円滑に進めるのに、妨げとなる。大人の病気、として、中年に達した位から、盛んに、喧しく、厳しく、戒められた病気は、今は、生活習慣病、と呼ばれる。習慣から来るもの、という意味だろうが、その中にある、高血圧は、この国では、特に注意を要する、として、盛んに取り上げられる。今回も、その一環なのか、と思えるのだが、被災地で、配給される食事に、即席麺があり、その塩分量が、高いことから、不向きとの指摘を、盛んに取り上げていた。だが、習慣から来るものと、避難中の一時的な食事と、どの観点から、一緒くたにするのか。確かに、塩分量が、重要な要因と、何かにつけて、習ってきたが、それは、総じて考えることと、長期摂取の問題として、学んだことだろう。こういう無知を、真実が如くに、報道で扱うのは、彼らの、愚かさの表れだが、それが、誤解を招き、現場の、更なる混乱を、招くことに、何の責任も、感じないのは、愚の骨頂なのだ。直接、聞いた訳ではないが、この繋がりで、おにぎりの具を、食べないように、などと、言い出す始末に、呆れを通り越し、言葉を失った、という話が、囀りにあった。一事が万事は、例の如くだが、学ぶことも、反省も、全て投げ出した輩に、こんな責務を、負わせることは、止めねばならぬ。

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8月3日(月)

 物価高の、要因の一つに、為替安がある、と言われる。確かに、輸入品に、溢れる生活を、していれば、こちらの貨幣価値が、下がってくると、そのまま、価格に反映される。それは、破綻寸前の国には、通用する話だが、さて、こちらについては、どうだろうか、と思う。
 これと、同じ線上として、給与の話も、度々取り上げられる、こちらは、暴論に過ぎず、貨幣価値では、説明できぬ程の、差ができている。それはそれとして、兎に角、様々な不都合が、あるとの判断から、今回の、協調介入が、行われた、と言われる。それにより、確かに、変化が起きて、先週末は、大きな動きを、見せていた。しかし、市場関係者は、総じて、焼け石に水、と表現し、早晩、元の価値に戻る、と言い続ける。どう動くかは、暫く、様子を見るとして、海の向こうの事情、について、見てみたい。以前から、あちらでは、市場介入は、禁忌とされ、市場の、自由な動きに、任せるべき、と言われてきた。しかし、今回は、例外的、と見たとしても、年初にあった、異様な動きには、介入ではなく、単なる、口先でのもの、との報道が、なされていた。それが、協調しての、となれば、現実の売買に、政府自らが、乗り出したことで、圧力をかけた、には違いない。物価高そのものに、影響を与える、かも知れぬが、実際には、要因の一つ、に過ぎないから、他要因が、解消されぬ限り、勢いは、無くならない、と見るべきだろう。その上、紛争などの不安要素は、依然として、大きく、影を落としており、問題解決には、道半ばどころか、遥か彼方にある、と見るべきかも知れぬ。政治による、問題解決については、介入などの、実弾によるものより、合意や約束などの、口だけのものの方が、効果的と言われ、それが、続けられてきた。だが、最近の情勢は、その難しさが、露呈している、ようにも見える。相手が誰か、も含めて、不確定要素ばかりで、暴君とて、容易なことではない。

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8月2日(日)

 昨日のようなことを、書くと、そんな面倒は、気になる人が、それぞれに、やればいい、と思う人がいるようだ。確かに、嘘八百を、平気で書き込み、騙される人々を、せせら笑うのが、生き甲斐なら、そうかもだが、認可の有無だけでなく、報道に携わるなら、許されぬことだ。
 もう、これもまた、死語となっただろうが、報道での基本で、「裏を取る」が、煩く言われた、時代もあった。特に、事件報道では、情報源は、警察当局が、大部分となるが、時に、情報操作を、目論んで、真偽入り混じる、話を伝えることが、起きていた。今時の、冤罪騒動で、この手法は、憚られるが、それでも、警察発表を、鵜呑みにして、誤った情報を、伝えることは、報道では、恥ずべきもの、と言われていた。だが、最近は、一方で、情報が、氾濫する中、真偽の見極めは、受け手が、行うべきとの、見解が、出ているようだ。呆れるばかりだが、不安や心配を、煽る為の、情報操作も、愉快に、楽しく、生きる為の、情報操作も、自在に行える、と思い込む、不埒な輩が、闊歩するのが、あの世界なのだろう。となれば、やはり、受け手が、情報を受け取る度に、せっせと、真偽を確認し、取捨選択するのが、今の時代に、賢く生きる術、となる、という訳だ。ご冗談を、としか思えぬが、大真面目で、そんなことを、宣う識者まで、現れるとなると、お手上げなのかも、とさえ思えてくる。何度も、書いてきたように、批判的、論理的に、読んだ上で、吟味することは、常に、必要なのだが、それは、何も、送り手が、嘘を並べても、構わぬ、という意味ではない。また、事前に用意した、筋書き通りに、展開できるような、事柄だけを、並べてもいい、という意味でも、決してない。改めて、こんなことを、書き綴らねばならぬ程、世の中が、腐っていることは、認めたくないが、事実なのだろう。その中で、一般庶民としては、受け手として、吟味力を、磨かねばならず、送り手、あるいは、伝達者として、軽率な、思い込みや、垂れ流しに、加担することも、控えねばならぬ。

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8月1日(土)

 天変地異が、起きると、途端に、喧しくなる。あれが心配、これが不安、と並べ立て、煽りまくるのだ。昔は、もっと冷静だった、と思うが、報道は、何時から、こんなに、愚かになったのか、と思う。と書くと、愚かなのは、マスゴミだけでなく、庶民と呼ばれる人も、と返ってくる。
 これも、その通りであり、だからこそ、耳目を集め、存在価値を、世に認めさせたい、とでも願う輩は、盛んに、叫び続けている。それが、何の役に立つのか、と思うことが、殆どであり、時間の無駄、でしかない。それも、口煩く、連呼されても、その場では、心配や不安を、示す人々が、肝心な時に、そんな警告は、すっかり忘れて、勝手な行動を、起こすのだから、堪らない。学校が、休みに入り、子供の過ごし方に、大きな変化が、訪れる。海外では、長期の休みを、親も取って、遠出するか、子供らだけを、催しに送り出す、こともあるが、こちらは、そんな習慣は無い。だから、変化に適応できず、体調を崩す、という不安を、口にするかと思えば、最近は、貧乏暮らしが、深刻なようで、金の話に、終始するようだ。昨日も、ある民放で、驚くべき話が、語られていた。夏休みで、給食がなくなり、出費が、5万円増える、と言うのだ。はて、どういう計算、と思うのは、何時もの、批判癖による、ことかもだが、本当に、どう考えれば、と思って、少し調べてみた。確かに、ある所に、そんな話を、にしたものがあり、一人一日500円増える、と書く。根拠は、常識とでも、言うのか、理解不能だ。一方で、給食費は、調査によれば、月5千円とある。でも、施し好きの時代は、無償化があるようで、そんな記事もあった。何にしても、自宅で食べて、一食500円は、高過ぎるし、仮令、共働きでも、宅食であれば、同じことだ。その上、夏休みに、給食費は、徴収されず、その差額が、必要となるだけだ。最初の図には、あれこれ、並んでいるが、やれやれ、細かく計上して、心配を増やすとは、何のつもりかと、思えてくる。その上、根拠不明、出所不明の数字を、実しやかに、伝えるだけの、無知な報道は、無価値でしかない。この手の矛盾に、気付けぬのは、やはり、無知蒙昧であり、そうならぬよう、備えねば、と思う。

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7月31日(金)

 何方も、泥沼化している。何度も、書いてきたように、当初の目論見は、外れてしまい、当事者は、新たに起きる、事変の数々に、対応を、余儀無くされる。だが、何方も、解決への道筋は、全く見えず、日々、爆撃に曝される、地域に住む人々は、不安な日々を、送っている。
 その一方で、遠く離れた場所に、住む人々は、対岸どころか、何処か遠くの、知らぬ場所での、紛争や戦争に、実感ないままに、好き勝手なことを、書き綴っている。意見の場、であることは、間違いない。だが、誰もが、意見を綴れる、と言っても、それは、勝手なことを、書いてもいい、という訳でも、あるまい。先日も、宗教的な諍いから、長く紛争が続く、地域での、突然の爆撃で、指導者の殆どが、失われた国が、交渉の末に、圧倒的な勝利を、手に入れた、との見解が、一部の人々から、示されたが、今回、その交渉により、互いに、合意に至った、と思われた話が、何方の責任か、反故にされたことで、再度、爆撃を受けた国が、周辺地域への、攻撃を開始したことで、圧倒的な優位を、手に入れた、との見解が、囀りの中で、飛んでいた。ただ、その発言者ではなく、その囀りを、再掲させた人は、その見解を、信じているようで、ちょっと読んだだけでは、その根拠は、脆弱なもの、にしか見えない。特に、引き合いに出した、もう一つの、軍事侵攻により、泥沼が長く続く地域で、攻撃側の国の、施設の多くが、爆撃を受けて、国内の燃料事情が、危うくなった、との報道が、すぐに、生産再開を、した程度の、軽微なもので、取るに足りぬ、と断じた上で、こちらの、周辺国への爆撃は、大規模なもので、殲滅させた、と言える、と結論づけた論理には、話のすりかえと、思えただけに、妄論の一つ、としか思えなかった。一事が万事、こんな調子で、遠く離れた所から、自分の考えに、合う話を見つけて、再掲を続ける人に、この手の媒体は、確かに、有用に見えるだろうが、そうではない、と思えてくる。批判的、論理的、そんなことを、主張するにつけて、自分の考えとの、合致が、最優先となると、どうにも、捻じ曲がったもの、にしか見えてこない。そういうことの、点検には、ネット上の意見は、確かに、役立つのかも、だが、そんな無駄が、本当に必要か、とさえ、思えてくる。

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7月30日(木)

 判った、かの如く、書いているが、その中味は、どうにも、支離滅裂で、何が言いたいのか、分からない。そんなものが、手にした端末に、次々に、届いている。情報社会だから、何も、逃したくない、と思う人も、いるのだろうが、こんな塵の山に、一体全体、何の世話になろうと。
 これらの塵を、せっせと、届けているのも、媒体、と呼ばれる代物だ。参加者から、最近、届くのは、何やら、仕組みが変わり、何の役にも、立たないものが、どんどん届けられる。自分の行動が、反映されたもの、との解釈が、なされているが、身に覚えがなく、自分の考えが、崩壊したのか、とさえ、思えてくる、と書いてある。元々は、顧客への奉仕、という形で、様々に、工夫が凝らされた、仕組みが、届けられ、欲しい物が、突然、画面に現れて、驚いた、という話や、納得できる、話に触れられて、良かった、という話が、綴られてきた。しかし、人間の関与、ばかりでなく、人工知能が、無数に転がる、データを、分析した結果として、編み出された、新たな工夫は、どうにも、人間離れ、したもののようだ。深層心理、という言葉が、時々、使われるけれど、本人が、意識していない、所謂、意識下の欲望を、実現したもの、とでも、言われそうな、気配もあるが、どうだろうか。それより、真偽入り混じった、ものを、提示することで、こちらの心理さえ、操ろうとする、そんな動きを、懸念すべき、かも知れぬ。今や、老いも若きも、性別に関わらず、興味の対象は、手にした端末に、操られている、とさえ、思えてくるが、さて、この後に来る展開は、どんなものと、なるのだろう。といっても、こちらは、媒体も含め、様々に、情報収集、と言える程でなく、単に、目に触れるものに、色々と、注文や文句を、投げ返して、いるだけだが、素直に、信じ込む人には、怖い存在と、なり始めたのかも、だ。

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7月29日(水)

 何でも、媒体の責任、にするのはおかしい、と思う。だが、今の状況では、被害者意識に、取り憑かれた人達が、誤った認識を、吐露する場として、格好の機会を、提供するが、そこで得られる、同意の多くは、同様に、間違ったものであり、当人には、何の役にも立たない。
 中でも、攻撃性が、大きな問題を、生じている。誰彼なく、相手の言葉尻を、捉えて、それらを、批判することで、溜飲を下げる、という図式は、決して、生産性のある活動、とは言えぬ代物だ。何処の馬の骨、とも知れぬ人間が、鬱憤ばらしに、明け暮れるのは、無駄が、無駄になる、だけのことで、本人以外には、毒にも薬にも、ならぬものだろう。一方で、こういう過激発言を、煽る輩は、単なる愉快犯でしかなく、批判とも、論理とも、結び付かぬ連中だ。そんな人間が、活動の場を、見つけたから、今の賑やかさが、あるのかも、知れないが、現実には、何の役にも立たず、無駄なだけのものなら、余計なことは、しないほうがいい。一方、攻撃性については、責任ある立場でも、目に余るものが、あると言われ、これも、大きな問題と、言われている。ここでも、被害者意識が、双方向に、展開されており、何方も、自分こそ、被害者である、と言わんばかりの、主張が繰り返されるが、実際には、お互いに、加害者であり、意思の疎通が、円滑にできぬ、欠陥をもつ、人間なのだ。誰しも、子供の頃には、自己中心的な、考え方しか、できないもので、身勝手な論理を、展開することが、多くあるが、成長すれば、相互理解を保ち、全体を、より良くしよう、とする考えから、交渉を行う。その結果が、相互に、利益となることが、条件となるが、攻撃的な考え方では、そんなものは、投げ捨てられる。これでは、仕事も何も、進まぬままで、不利益ばかりが、残ってくるのだ。だが、そうなると、こういう人の多くは、囀りなどの、社会媒体で、不平不満を、吐露し始め、助言を、与える人より、単なる賛同を、得たいと願う。精神衛生上は、確かに、好ましいかもだが、業務などは、滞るだけで、何にもならない。

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7月28日(火)

 施しばかり、求める人には、対価は勿論、納税も、邪魔なものでしかなく、また、文化が、失われる話も、自分に無関係なら、全然気にならぬ、というものだ。愚民政治は、民衆の望むものを、与えることで、人気を集めるが、その最大欠陥は、税収不足だろう。
 だが、長く続いた不況が、いつの間にか、活況へと、転じた途端に、税収も増し、別の施しを、考えねばならぬ、事態となった。だったら、これまで、縮小の連鎖で、首が回らぬ事態に、陥ったものに、注ぎ込めば、と思うのは、的外れなのか。公的な施設の多くは、非常に厳しい状況に、追い込まれており、死に体とまで、言われてきた。そこに、追い討ちをかけたのは、自立化を、目指せという、大臣の方針だろう。だが、それらの施設が、公に運営される、意義は、何処にあるのか。短い任期しか、持たぬ大臣には、考える気配さえ、見えてこない。だが、国政に携わる限り、座っている間だけ、などという考えに、囚われていては、無能でしかなく、役立たずでしかない。少なくとも、予算を、増やせる状況に、変わりつつある中、国の在り方を、考えることなく、縮小ばかりを、口にするのは、愚かとしか、言いようが無い。その中、どう舵取りするのか、宰相をはじめとする、政権幹部の、思慮次第だが、今まで通りだと、期待薄となる。ただ、大学への予算確保は、随分と、違う様相となり、少しずつだが、正常化に向かうかも、という、淡い期待を、抱かされる。文化や教育は、国の在り方の、中核を為すもので、蔑ろにしては、滅びるしか無い、となってしまう。本当に、すべきことは、施しではなく、優先順位を、つけた上で、長い目で見て、支えるべきものに、予算を、注ぎ込むことだろう。こんな、当たり前のことを、敢えて書かねばならぬ程、今の世界の様子は、荒れ放題となっている。田畠を、耕すように、考えれば、すぐに分かることだろうに。

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7月27日(月)

「文化軽視の政治」の文言が、紙面に踊っていた。その見出しでは、「日本美術館」は不要か、との言葉もあり、政治への不信が、こういう面でも、進んでいる、と感じさせるものだ。確かに、文化という意味では、美術だけでなく、他の分野でも、強い圧力が、かかっている。
 ただ、記事では、何やら、美術品の価値を、競売での、落札価格で、表現した上で、それを、観覧する為に、世界各地の美術館を、訪問することが、紹介され、国ごとの事情の違いを、表に纏めていた。来館者数、収蔵品数、職員数などが、表示されていたが、本文も併せ、入館料に、一言も触れないのは、強い違和感が、残った。ちょっと、調べてみよう、とも思ったが、検索してみると、古い資料しかなく、世界的に、比較することが、重んじられず、ある意味、どうでもいい、かの如くに、扱われている、とさえ、思えてきた。また、料金については、ある貨幣に換算して、比較しても、各地の物価との、比較が落ちては、ほぼ無意味だけに、単純な比較は、難しいのだろう。それに、この記事の目的は、観光との関連もあり、身近な文化、との結びつきには、ほぼ触れていない。一方、政治不信の、原因の一つは、博物館も含めた、この手の施設の、自立に関する話だろう。これについては、監督官庁が、資料を掲げており、その中での、運営状況の数値は、何らかの意図で、纏められた、とも思えるが、会議自体の、議事要旨を眺めても、何も触れられておらず、意図を、読み取ることは、できない。こんな状況で、重要な会議が、進められるのかもだが、さて、文化に関する政策は、何方に向かうのか。納税者に対する、説明責任ばかり、問うてきた報道も、こういう形で、批判するのは、勝手だろうが、税金にせよ、入館料にせよ、何も、出したくない、と叫ぶ人々を、相手にしても、無駄に思える。享楽主義が、駄目だとは、言わないけれど、こういうものを、どう扱うべきかは、別の観点から、考えるべきかと。かつて、地方の旦那衆が、訪ねてきた、文化人を、支えてきた、と言われるが、その形では、それらが、民の目に、触れることが、無かった。それを、公の財産として、と見做すのなら、その対価は、人民が、担うべきかも、だ。

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7月26日(日)

 批判的に、文章を読んだり、人の話を聞いたり、することの、重要性は、何度も、説いてきた。確かに、疑いを、抱きつつ、内容を、確認しないと、簡単に、騙されたり、話に乗せられ、騒ぎに、巻き込まれたりする。現代社会のように、情報が重要、となれば、より一層のことだ。
 で、日々の報道や、評論本などに、触れるのだが、小説は、少し事情が、異なると思う。推理小説は、例外かも知れず、筋道を、辿りつつ、誰が犯人か、どんな手口か、について、考えを巡らす。その時、著者は、少しのヒントを、残す場合と、逆に、誤解を、植え付けるような、罠を、仕掛ける場合がある。何方にしても、それらを、見つけ出して、展開に、乗ることが、楽しみの一つ、になるのだろう。一方、この所、毎月紹介する、時代小説は、事情が異なる。時代考証が、重要となるものも、あるのだろうが、人物も内容も、架空のもの、である場合には、そんなに、粗探しを、必要とせず、出てくる、当時の風習や、料理の数々を、楽しめばいい。ある意味、気楽なものだが、著者が、何故ここで、このことに、触れるのか、といったことには、目を向けることが、多くある。現代小説は、著者にもよるが、あまり、楽しめぬことが、多くある。どうも、人物描写や、心理描写に、違和感を、覚えるようで、物語の中に、入り込めぬ、といった感覚が、残ってしまう。大した読書量、でもないから、飛ばし読みは、殆どしないし、買った本は、全て読もうと、心掛けている。仕事関係以外には、図書館で、借りることは無く、それらの読書は、記録には残らない。本好きな、性格でも無く、子供の頃は、専ら、自宅にある、漫画本を、読むだけだった。それでも、仕事に、暇ができると、他にすることが無く、結果的に、読書をする羽目に、陥っただけだ。ものを書くことは、面倒でもなく、困ることは少ない。ただ、話すように書けば、それでいい、と思う。まあ、人によることだが。

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7月25日(土)

 何方の戦いも、泥沼に嵌まっている。当事者達の、思惑がどうかも、見えなくなって、このまま、ただ続けるだけ、となるのでは、とさえ思える。それぞれに、大義があった筈が、いつの間にか、そんなものも、何処かに消し飛んだか、と見えるに至り、お手上げなのかも、と思う。
 他国を、手に入れようと、首都陥落間近、まで至ったものの、思わぬ反撃で、絶好の機会を、逃したばかりか、それでも、軍事力の、絶対的な差で、占領間近、と思ったものの、結局は、何年も経過し、最近は、前線での反撃どころか、逆に、首都近郊に、攻め込まれたり、資源施設を、破壊されており、形勢が、測れなくなっている。それでも、国力の差は、歴然としており、窮鼠猫を噛む、程度の話に、終わるのだと、あの独裁者は、信じているのだろう。これでは、まさに、あの国の春の訪れと共に、進軍の妨げとなる、泥沼に、嵌まったかの如く、にあるようだ。巨人と雖、泥で、動きが鈍れば、小人達の攻撃に、曝される、とでも言うが如くに。一方、紛争地帯の、問題解決を企てて、政府転覆を、狙ったと言われる、大々的な爆撃は、確かに、指導者群を、ほぼ壊滅させたものの、他国のゲリラを、支援する軍隊は、そのままの勢いを、保ったまま、反撃に出た。その上、互いの協議で、覚書を交わしても、どこ吹く風と、素知らぬ振りで、海峡閉鎖を続け、依然として、地域の権利を、手放す気配さえ、見えぬ状況に、こちらの暴君は、徹底殲滅を、目指すが如くに、要衝への爆撃を、続けている。ただ、政府内の勢力争いや、他国のゲリラ支援が、複雑に、入り乱れる中では、早期の解決は、望めそうにない。何方の戦いも、世界中に、悪影響を、広げてきたが、ここまで来ると、解決せねば、という勢いは、殆ど見えない。それより、継続が、当然と見て、その中で、どんな解決策が、あるのかを、見極める必要が、あるのだろう。毎週末の、不規則発言も、当初は、振り回されたが、今や、不安定が当然、と見て、他の均衡点を、探し続け、安定を目指す。と見れば、対岸の火事に、騒ぐのも、無駄と見るべきか。

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7月24日(金)

 教育の話題は、尽きることがない。確かに、そうなのだ。人間自身のことだけでなく、社会として、国として、考えた時に、教え育むことが、如何に重要か、という問題に、直面する。では、教え育むとは、どんなことか。こちらについて、論じているようで、そうでもない、という気が。
 子供の頃、色々と学んだ、と考える人は、多いだろうが、その多くは、押し付けられ、それを、消化した、という形だった、のではないか。教え育むという意味では、見守ってやり、道を示した上で、そちらに向かわせる、といった形になる。だが、ある年齢を超すと、自分自身で、道を見定めて、そちらに向かうには、どうすべきかも、自分で、決めねばならなくなる。いつまでも、手を取り足を取り、教わり続ける、とはいかぬもので、その中で、重要となるのは、答えが、与えられるか、自分で、見つけるか、という点だろう。そういう過程を、経てきた人は、そこに、唯一無二の、正解がある訳でなく、時と場合により、答えは、違ったものになるし、その時、正しいと思われても、後に、間違いとなり、別の正解が、見えてくる場合も、増えてくる。この過程も、ある意味で、教育の一環として、見做されており、ある程度の、助言が与えられ、自分で、軌道修正する、という形に、変化していく。人の成長に、合わせて、そういう転換が、図られるが、その中心となるのは、当然ながら、自分自身で、周囲が、あれこれ、注意をしてくれ、助言を与えてくれても、結局は、どれを、受け入れ、何方に向かうかは、自身で、決めるしかない、と言われる。初等中等教育では、正しい答えを、示すと共に、それへの道筋を、教え込む訳だが、その後、高等教育に、進んだ途端に、様相が、一変する。答えが、無い問題を、解きなさい、と言われて、何処を、進んでいるのか、見えないままに、次の段階へと、向かわねばならない。以前なら、教師が、何らかの答えを、示してくれたのに、突然、それは、自分で決めること、と言われた途端に、戸惑う人が多い。でも、そちらの方が、当たり前では。だとすれば、やはり、そういう模索を、含めた形で、悩み考えて、自分なりの答えを、導く必要がある。誰もが、通る道として。