倫理や道徳は、特に、罰を下さずとも、人それぞれに、自覚する筈のもの、との前提で、成立するとされるが、現代社会で、法律が、執行されるのは、それだけでは、秩序が保てぬ、ことを表している。だから、社会媒体でも、同様の制度を、と望む声は、強まるばかりだが。
現実には、犯人を、見つけ出し、厳罰に処しても、次々に、登場する、新たな勢力を、全て排除する、ことは不可能、と言われる。だから、犯人探しも、厳罰も、無駄と決め付けるのは、どうだろうか。極端な場合には、やはり、投獄を含め、罰金刑や、その他の罰を、下すべきなのは、当然のことだろう。だが、現状では、一人二人を、罰したとしても、焼け石に水であり、この勢いは、収まりそうにない。だったら、危害を加える、発言そのものを、消し去ったら、との意見もある。その通りだが、その為の篩が、まだ十分に、整えられておらず、抜けてしまうものが、多いことも、重大な問題だし、例の暴君と、経営者の組み合わせから、発言の自由を、守るべきとの判断が、下されたことから、発言内容による、選別自体は、難しくなった。でも、と思うのは、その考えが、権力者と金持ちの、組み合わせとは言え、ほんの一部の、意見に過ぎぬことから、今一度、整えてみる必要が、あるのでは、ということだ。年齢制限や、参加資格の制限は、確かに、一つの手法だが、現状を眺めると、それらの効力には、期待できそうにない。だったら、掲げられる言葉に対し、制限をかけた上で、発言者への、圧力を高める手法が、ありそうに思える。これもまた、絶対的なものでは、決して無い。だから、所詮、微力ながら、となると思えるが、だからと言って、今のように、手を拱いていては、被害者が、増えるばかりだろう。だったら、まずは、出力自体を、制御したらどうか。その上で、当然のことながら、参加者全員の、倫理観や道徳観を、良い方に、向かわせたら、と思う。ただ、悪貨と良貨のことが、まさに、当てはまるだけに、容易なことではない。でも、ここで、諦めては、今の、便利な発言の場を、永遠に失う、ことになりかねない。手近な所から、始めてみては、と思うのだが。
制限を、掛けようとの動きが、高まっており、国によっては、既に、始められたと聞く。だが、効果の程は、怪しげと言うより、無駄と断じるべき、とされる。本来、知恵の集合、となるべく、期待されたが、その実、浅知恵や猿知恵の塊で、制限を、逃れる手立てが、繰り出される。
一方で、制限の必要無し、との意見も、根強くあるが、こちらについては、時代や風潮の変化に、ついて行けぬ、古い人間、との批判に、晒されている。今、特に、制限への動きが、急となる国々は、西洋と呼ばれた、先進国が、大部分だが、それらの多くは、人を育てる上で、家庭教育を、大前提としており、親から子への、強い圧力が、躾と呼ばれる形で、実施されてきた。ところが、いつの頃からか、圧力は、どんな状況でも、虐めと断じられ、社会での訴えだけでなく、家庭内についてさえ、子が親を、訴えるに及び、躾が、忌み嫌われる存在となり、自由という名の下に、無法地帯が、各国で広がり、倫理や道徳でさえ、蔑ろにされる、状況に陥っている。その中で、まともな心を、育むことは、望めぬばかりか、犯罪に手を染めても、自己主張に終始し、言い訳を並べるだけの、人間が、闊歩することとなった。家庭に、責任を負わせることが、不可能となれば、国を挙げて、取り締まるしかない、との考えに至るのも、当然だろうか。しかし、一度外れた箍を、嵌め直すことは、簡単ではなく、今の状況では、暴走を、食い止めることは、無理難題となる。となれば、社会媒体への、接続を、禁ずることは、社会主義国でも、独裁国家でも、できぬことだろう。社会媒体そのものを、今一度、整えることに、方針変更する方が、まだまし、なのではないか。と言っても、腐った人間を、放置したままでは、何も起こせぬだろう。倫理や道徳を、今更の如く、持ち出すしか、手段は、残っていないが、さて、腐った人間に、それが、通じるのか、怪しいものだ。となると、仕組み自体に、と願う声も、聞こえてくるが、生成人工知能が、嘘や出鱈目を、ばら撒くのでは、自浄作用も、望めぬことか。どうする!
結果が、出ていないのに、あれこれ、書いても意味が無い。確かに、その通りで、特に、最近の、勝ち負けに拘る、下らない風潮では、一時の、情勢に惑わされ、一方に、加担することで、後に、煮湯を、飲まされることに、なることから、不用意な判断は、避けるべきだ。
国の間の、力の優劣は、経済や軍事などの、要素により、判断ができる、と思われてきた。だが、近年の紛争では、そうとは言えぬ、との状況が、続いており、何が、決め手となるか、見えなくなっている。軍事侵攻により、首都陥落まで、間近と思われてから、もう何年も、経過したが、最近の情勢は、攻め込まれた国の、中での戦闘だけでなく、どこ吹く風と、高みの見物とさえ、言われた侵攻した国の、内部での被害が、急速に広がり、日々の生活までもが、脅かされている。圧倒的な、軍事力の差、と見られたものが、重火器の問題ではなく、小型化した、遠隔操縦の、火器による、爆撃が、主体となるに従い、軍隊などの、人間の移動を、伴わぬものとなり、様相が、変化し続ける。もう一つの、紛争地域に関しては、敵対する国の間の、戦闘は勿論、一方の支援国が、強大な軍事力を、行使することで、指導者も含め、多くの要人を、抹殺して、方が付いた、と思われた。だが、軍隊と指導層が、残ったことで、散発的な反撃や、周辺国への、攻撃が続き、結果的に、停戦へと移り、一旦は、決着しただけでなく、攻め込まれた国が、勝利したとの、分析までもが、飛び交った。だが、不安定な情勢は、僅かな動揺で、傾き始め、元の木阿弥、とさえ思える状況に、戻ったとさえ、言われている。実は、元々、革命後の体制が、不安定な状況で、軍隊と、宗教指導者の間で、微妙な均衡が、保たれてきたが、ここに来て、上層部間の、意見の不一致が、露呈した上で、権力だけでなく、窓口さえも、不確かな状況では、安定な状態は、得られそうにない。新たな革命を、促す目論見が、外れたことで、決着は、見えなくなったが、さりとて、失われた均衡は、戻らぬままだ。としたら、何方に向かうにも、止まる選択は、無いだろう。一枚岩に見える、もう一つの状況とは、明らかに違い、行き着く先も、見えぬままだ。
海の向こうの暴君が、何故、庶民に、人気があるのか、理解できぬ、と思う人は多い。特に、二大政党時代が、長く続く中、庶民的な政党の、大統領が、登場する度、もう一方の、支持者は、理解できぬ、と思ってきたが、今回は、それが、著しいと映る。理解不能、だと。
でも、時代は、衆愚政治が、持て囃される。だから、高学歴者が、支持者の大半を、占めてきた政党とて、例に漏れず、人気優先が、主体を形成し、何方も何方、との感が、共有されている。にしても、何故、あのような、暴言や妄言の主が、人気を博すのか、と考えるのは、当然なのかも、と思う。ただ、今回の、世界的な祭典にも、図々しく、口を出す人間は、やはり、その行動様式にこそ、人気の理由がある、のだろう。同じ競技に対し、囀りは、賑やかなものだ。それも、審判の判定に、文句を並べ、その根拠の脆弱性のみならず、作為や思惑が、込められたもの、とまで言い出す。その態度が、まさに、かの暴君と、そっくりと思う。好悪に基づく、判断基準では、何事も、一方的に、判断できる。だから、応援する国が、負けたとなれば、それは、作為的な結果であり、勝った国が、優位になるよう、忖度した結果、と並べ立て、その証拠を、画像などで、明示しようとする。これは、ある意味、審判団にも、同じことであり、球に仕組んだ、位置情報装置を、頼みとしたり、映像から、反則の有無を、判断している。嘗てなら、そんな証拠は、一切無く、審判の判定に、従うしかなかったが、今では、機械的な証拠を、示すことで、判定を覆すことさえ、行われている。人間が、動き回る競技において、何もかも、機械によって、判断するとなれば、つまらぬものに、なるのでは、という懸念は、依然として、残っているが、まずは、正解を求める、ことが優先され、その通りの基準が、決められていく。他の競技でも、次々に、機械化が進み、人の関与は、急速に、無くなりつつある。競技そのものの、機械化も進む、と言われる時代。さて、何を楽しみに、と思うのは、馬鹿げたことだろうか。
先日、紹介した、学芸会の思い出。劇中歌は、思い出せるし、節も、出てくるのだが、本歌が、浮かんでこない。散々、検索を、繰り返しても、別の歌ばかりが、表示され、当たらない。どうしたものか、と思い、一度は、諦めたものの、今朝、もう一度、別の検索をしたら、出てきた。
劇中歌は、「見えない、見えない、見えないぞ、俺は、馬鹿なのか、馬鹿なのか」という詩で、その節で、歌えるのだが、譜に、起こせないので、検索ができず、結局、本歌の、詩の一部を、探ってみたら、出てきた。文部省唱歌で、秋という曲名、同じ、秋の虫を、題材にしたもので、虫の声、という曲があり、そちらばかりが、表示された。途中の詩の、「むし、むしのこえ」という部分で、完全一致を、検索したら、出てきた。映像があるので、興味のある人は、聞いてみて欲しい。当時の、学芸会では、おそらく、学校教材として、この替え歌を含み、台本を揃えて、提供されたのでは、と思う。子供達には、習った曲を、劇中歌として、歌うことで、達成感も含め、意味のあるもの、だったのだろう。当時は、学校でのいじめも、あったにはあったが、その後の、陰湿極まるもの、に比べて、問題視、されるものでは、なかったと思う。更に、その後の、平等感優先の、学芸会での大合唱やら、運動会での、皆で、横一線で走る、徒競走など、下らない行事へと、変貌したのに、比べると、各人に、それぞれの役をあて、皆で、一つの作品を、演じさせる姿勢は、学校教育として、まともなもの、だったと思う。ただ、先生による、依怙贔屓など、時に、目に余るものが、出てくるに従い、平等感優先が、罷り通るように、なっていったのでは。今は、どうなっているのか、全く分からないが、学芸会も運動会も、続いているようで、教育の一環として、尊重されるようだ。子供達の心に、どんな印象を、残すものに、なっているのか。心配しても、仕方ないものだろう。それぞれの、受け止め方があり、それぞれの、記憶がある、のだろうから。
無能な学者は、有用な数式も、役立つ理論も、提案できぬまま、目の前で、起きた事象を、後付けの説明で、実しやかに、予想できたこと、と宣い続ける。果ては、政治家に取り入り、大臣の地位まで、手に入れた挙句、気に入らぬ、競争相手や、企業などを、標的として、打ち壊す。
そんな人物が、好んで使ったのが、市場原理なる妄言だが、ここで、何度も、書いたように、原理どころか、人々の、移り気な心理に、振り回され、その挙句に、煮湯を飲まされる、そんな光景しか、残っていない。需要と供給は、使い古されただけで無く、その頼みとする、図式の如く、市場価格が、動くという話は、今や、嘘でしかなく、何の根拠も無く、あの人物が、得意とした、後付けの説明、にしか、使われない。騒動となった、主食の値段も、報道の煽りが、功を奏したのか、一気に、上がった後は、供給が、如何に整えられても、びくとも動かぬ、高値が続く。この所、報道は、せっせと、値下がりを、叫び続け、このままでは、生産者の生活が、脅かされる、などと、例の如くの、勝手な論理を、展開しているが、それとて、何の根拠も無く、ただ、無責任に、垂れ流すという、いつもの煽りの、典型に見える。改めて、監督官庁が、毎月、発表する、報告を眺めると、ここまで、書いてきたことが、的を射ていることが、はっきりとする。その一方で、では、何が、価格を決めるのか、と問われれば、業者達が、操作した上で、市場が、受け入れれば、と仮定するしか、ないように思う。ただ、それにしても、数年前の、倍を超える、市場価格に、至った後は、僅かな値下がりでは、とても、以前の水準には、戻らぬように、見えてくる。では、何が、何処が、適正価格なのか。改めて、検討するなら、生産者が、経費として、組み込む支出と、彼らの労賃として、時間給ではなく、年間の収入として、算出したものを、足し合わせた上で、単位当たりの、売価を、設定する必要がある。それが、消費者にとり、論外であれば、米離れが、余儀なくされ、最近の、物価上昇と見合う、許容範囲なら、それが、新たな水準と、なるのだろう。さて、そろそろ、新米の準備を、すべきでは。
図星なのだから、誹謗中傷で、訴える。となれば、当然のこと、となるのが、近年の傾向か。だが、書き手が、匿名なのではなく、相手が、特定できぬ場合、それは、誹謗中傷となるか。多数の中で、問題として、捉えられ、改善を促された時、自分のことでは、と思ったからと。
被害妄想が、著しくなり、その上に、被害者保護、弱者保護、という考えの下に、発言者の意図は、考慮されることなく、無思慮のままに、記事の削除や、訂正、時には、謝罪へと、発展することもある。だが、個人を、特定できる形で、謂れのない、批判をされたなら、まだしも、最初に書いたように、図星なのであり、それが、本人も含め、その他大勢に、当て嵌まる話、だったとしたら、それは、削除、訂正、謝罪の必要性を、掲げること、となるのか。最近の状況は、何度も、取り上げてきたように、ハラスメントの如き、理不尽な扱いから、馬鹿げた判断を、導き出すという、愚かな社会の、構築を、せっせと進めている、ようにさえ見える。特に、教育現場では、権利主張により、当人達の、成長を考えて、進められる指導や助言を、いとも簡単に、否定する暴挙が、罷り通っている。すぐに、心が折れる、弱虫どもや、権利ばかりを、主張して、自らの義務や務めを、果たそうともしない、馬鹿者達に、味方する、非常識が、横車の如く、押し通される。このままでは、崩壊するのみ、と思うからこそ、厳しい叱責を、飛ばす場合も、あるのだろうが、それらは全て、暴力と断じられ、弱い者を、虐めるだけ、と否定される。確かに、弱虫は、心も脆く、すぐに、倒れてしまう、のだろうが、では、今のように、放置して、事が済むのか。怪しいと言うより、間違い、と言った方が、正しいと思う。何の配慮も無く、悪を放置する考えには、呆れるばかりだが、こちらも、ただ批判し、虐める訳では、決してない。相手の心持ちから、考えれば、虐められている、と思うことでも、今、必要なことを、伝えた上で、それを身に付けさせて、いるだけのことだ。それが、図星となったとしたら、それこそ、今必要なことで、動かねばならぬ、と思わぬのか。
喉元過ぎれば、とは違う話だが、不足と価格の関係は、何度でも、出てくるものだ。今回のも、突然の爆撃で、紛争地域から、手に入れる原材料が、枯渇するから、中間材料も、との話だった。政府は、正反対の調査結果を、発したものの、中間業者達は、事情が違う、とした。
で、まだ、不安定ではあるものの、協定が結ばれ、供給は、正常に戻る、と言われた。直後の、燃料の値上げも、その後の、中間材料の枯渇も、摩訶不思議な論理で、説明されたが、需要と供給を、見守って来た、政府からは、心配無し、との声明が、発せられた。がしかし、その後も、同様の状況が続き、不安と値上げの波は、収まる気配が、見えない。数年前の、米騒動も、背景は、大きく異なるが、業者の主張が、罷り通ることで、不足と値上げが、押し寄せて、その後、僅かな変化しか、見えていない。ただ、そろそろ、破綻の兆しが、見え始めて、暴利を貪る目論見が、雲散霧消する、とも思われている。今回のものも、早晩、そういう事態を、迎えそうだが、馬鹿騒ぎに、夢中になった、報道は、また、知らぬふりをし、黙り込むのだろう。半世紀前にも、オイルショックなる、言葉が、紙面や画面を、賑わし続け、市民が、何の関係も無い、トイレットペーパーを、買うために、店を走り回った。風が吹けば、の論理は、どうとでも、展開できると、その時も、盛んに、揶揄されたが、人間の頭は、そんな簡単なことでも、学習できぬもので、何度も、同じ過ちを、繰り返す。それに乗じて、暴利を貪る、業者が居るのも、古今東西、変わらぬもので、何を慌てて、喚き立てるのか、という点と、それを使って、国や自治体から、何かしらの利を、得ようとする、愚かで、さもしい、考えに囚われる、庶民には、冷静な判断など、不可能なのだろう。毎回、思うことだが、買い占めする人々も、末端で、慌てて走り回る人も、そんな暇があるなら、もっと、役立つことを、したらどうか。図星は、歓迎されぬもので、また、文句が並ぶだけだろうが。
四年に一度の、お祭り騒ぎ、それも自国を含めた、地域での開催、となれば、愚かな暴君が、何かと口出すのは、当然と見る向きも、あるだろう。だが、権力を笠に着て、周囲を、やり込めるのと、世界的なお祭りを、身勝手に、操るのとは、全く、話が違うだろう。
そんな、絵に描いたような、顛末に対し、皆が、口々に、罵ったのは、当然の反応、だったのだろう。ただ、今回の戯れ事を、眺めていて、思い出したのは、小学校での、劇を演じたことだった。他国から、やって来たのは、著名な織物師で、不思議な服を、織り上げる、と評判だった。それも、人の愚かさにより、愚か者には、見えない服を、織り上げると。城の一室で、織り上げられた、布地は、そこに居た誰にも、見えなかったが、王を含め、誰も、それを口にできない。そんな始まりの、物語を、小学生が演じるが、最後に登場する、子供の役を、やりたいと願ったものの、背の小さな同級生に、割り当てられ、涙を流した思い出が、ある。それでも、見えない服に、どうしたら、と戸惑う役人の役を貰い、劇中歌を、歌ったのは、遠い思い出だ。にしても、その服を、着たつもりになり、城下町を、行列をなして、進む王を指差し、裸だと、声を上げたのは、例の少年だった。見かけの愚かさに、心を奪われ、正直さを、失う人間の、本当の愚かさ、という話なのだが、今回の顛末も、それと似たことでは、と思える。周囲は、愚かな暴君に、嫌われぬよう、様々に、取り入るのだが、実際には、それが、如何に愚かなことかに、気付く気配も無い。その上で、自分が下した判断を、さも、当然のもので、妥当なものか、という点に、言い訳を並べる姿は、あの役人と重なる。ただ、あの物語との違いは、今回の話の馬鹿らしさが、あまりに明白で、誰もが、気付けるだけでなく、その愚かさを、口にしたり、書き連ねたり、とすることに、何の躊躇も、感じない点にある。あの暴君を、大統領に掲げる国は、今回の暴挙でも、恥を晒したが、彼を選んだ責任は、国民全体が、負わねばならぬ。その意味では、あの子供の如く、暴君の愚かしさを、糾弾する人間が、国にも、党にも、出てくる必要が、あるのだろう。
先月読んだ本に、「書店を守れ!」、があった。今までも、この手の本を、読んだが、今回のものは、小説家が、書店経営に乗り出し、業界全体を、盛り上げよう、とするものだった。その意味で、店主や書店員が、著したものとは、随分と様子が、異なっていた。
それも、経営に主眼を置き、何が問題で、どう変えるべきか、などの具体的な、提案をしていたのが、興味深かった。以前、読んだ本にも、小説家が、著したものが、あったが(2024年12月)、期待はずれだった。確かに、誰かを、悪者にして、解決を図る手法は、度々、使われてきたが、現状からは、どれも無駄だった。根本的な、考え方の違い、と言えば、その通りだが、今、進行形で、取り組む姿勢には、大きな違いがあった。ただ、無駄かも、とも思う。何しろ、活字離れではなく、本離れが、深刻だからだ。その中で、特に、面白かったのは、書店を、文化施設と見る、との考えで、一部の自治体が、経営を支援し、書店消滅を、防ごうとする、動きに対する、意見があった。結局、経営と見れば、売り上げが、全てであり、買い手が出ねば、何も変わらぬ。その意味では、博物館等が、今、危機に瀕し、取り上げられるが、これも、文化施設で、税金投入の是非が、問われている。同じでは、と思うが、どうか。更に、拡張すれば、図書館も、同じ状況だが、こちらは、人気本を、多数揃えるなど、出版界からは、批判される。本の売れ行きには、殆ど影響なし、とこちらの本では、結論付けたが、どうだろう。また、以前から、何度か書いたように、購買層として、富裕層が、図書館に、入り浸るのは、どうか、との意見もある。だったら、納税額により、図書館の本の、利用料の徴収も、ありなのでは、とも思う。半世紀以上前には、貸本屋なる商売が、成立していた。子供向けも含め、多くの本が、廉価で、貸し出されていたのだ。業界全体の、金の巡りを、促す為には、何でもただ、という考えを、時と場合に、使い分けることも、必要なのかも、と思う。どうだろうか。
ハラスメントは、忌み嫌うべき、言葉だと思う。入ってきた当初から、その定義に、怪しげな匂いがし、身勝手な論法が、使われていた。元々、差別の観点から、弱者保護が、声高に訴えられ、一方的な、要求ばかりが、掲げられたから、真っ当な考えからは、異常に見えたものだ。
その後、舶来趣味か、西洋礼賛か、そんなことまで、加わったことで、市民権を得た、と言われたが、今でも、まともでなく、歪んだ考えの、表れとしか、見えていない。批判は、幾らでもできるが、矛盾だらけの考えに、満ちていたとしても、自己中心的な風潮では、揺らぐことなく、無理難題を、押しつけ、横車を、押してくる。ペイハラ、についても、従来ならば、権力の集中した環境で、業務にあたる、医師の立場が、頑強であり、揺るがぬもの、と見られたが、ハラスメント風潮から、そんなことさえ、破壊できる、とでも見られたか。有る事無い事、並べることで、反撃にでも、出たつもりなのだろう。確かに、医師の倫理観も、低下が著しく、権力を笠に着て、好き放題を、やり続ける、不埒な輩が、目立つように、なったことから、批判が集まるのも、止むを得ない。だからと言って、何でもかんでも、とはいかぬもので、医療事故が、起きた背景を、無視した挙句に、訴訟に持ち込む、例も、数知れずある、と言われる。地方都市では、産科医院が、消滅した所も、あると聞くが、医療事故が、頻発したのも、その要因と言われる。病気になるかは、時と場合によるが、生き物である以上、次の世代を、産み育てることは、避け難いことで、その場が、失われるのは、尋常ではない。少子化の問題も、こんな所に、影を落とすが、それにしても、何と、生き辛い時代に、なったものだ、と思えてしまう。そんなことの、一方での、ハラスメント騒ぎには、他人事でしか、ないとしても、どうしたものか、と思える。この言葉が、悪い訳では、ないのかもだが、そんなことが、罷り通る社会は、何かが狂っている、としか思えないのも、事実だろう。倫理、道徳、心の問題なのか、それとも、何か、他の要因でもあるのか。
弱者保護、と繋がる為か、嫌いな言葉に、ハラスメント、harassment、がある。虐め、苛めではなく、片仮名語のあれだ。外から入った言葉には、様々な表現が、結合されて、それぞれの状況に、見合うものとして使われ、多くの場合、省略語で、表現される。煩い言葉だろう。
当初は、こちらで、一時期、大問題となった、学校現場に、当て嵌められたが、そこでは、付随する言葉は、使われず仕舞いだった。理由は、力関係により、優位に立つものが、する行為であり、対等である、児童・生徒同士では、通用しないからだろう。多くは、権力関係、性別などにより、適用されてきたが、最近は、店と客の間の、それも、客側が、行使するもの、として盛んに使われる。略語は、別の意味を、想起させるが、それはそれとして、神様と呼ばれた、存在が、ぞんざいな態度で、傲慢な要求を、突きつけるもの、とされる。元々、神仏は、全く別の存在だが、一世を風靡した、表現であり、意味を取り違え、身勝手な言動を、し続ける、心が貧しい人、との解釈もできるが、どうにも、止められぬ人々、といった感がある。別の場面でも、同じような言動が、出ていると言われ、こちらは、まだ、呼称を聞かないが、早晩、名付けを好む、人々の口から、発せられるのかも、と思えてくる。病院で、呼び捨てだった対象が、様を付けて、呼ばれ始めた頃、店と客の関係が、病院と患者の関係に、映し出されたものか、とさえ思えた。決して、そんな考えは無く、単純に、文句を並べる人間を、刺激せぬように、との配慮とも、言われていたが、本来は、病院で、絶対的な権力を、有するのは、医師であり、患者は、治療を望み、その為に、できる限りのことを、しようとやってくる。だが、最近は、医療の質の低下からか、多くの医療事故が、起きることで、訴訟になることも、多くなった。その辺りから、力関係の逆転が、起きたのかも、と思える事件が、度々起き、時に、難癖でしかない、と思えることも、起きるらしい。これを、店と客の関係と、同様と見做すと、そこに、ハラスメントが、当て嵌まりそうだ。この場合、何と呼ぶべきか、カスハラから考えると、患者による、ハラスメントとなり、ペイシェント、patient、ハラスメント、つまり、ペイハラとなる。探してみると、もう、使われ始めているようで、警告が飛び交っている。下らないことと思うが、この調子は止まらぬか。
悲観論を否定し、被害者意識を否定し、弱者保護を否定する。こんな調子だから、余程の楽観論者、とでも思われて、いるのではないか。だが、本人は、全く違う、と思っている。物事を、捉える時には、ほぼ悲観的に、眺めており、一種、最悪の事態を、想定する。
だが、多くの囀りの如く、それをそのまま、書こうとする、過ちは犯さぬ。そこから、一歩二歩、先に進んで、その後、どんな展開が、起き得るのかを、頭の中で、考えるのだ。すると、当初、悲劇としか、思えなかったことも、異なる様相が、見えてくる。そこで、落ち着いて、考えを纏めるのだ。それだけで、全く違う、筋書きとなり、悲劇が、喜劇とは言わぬが、まともな流れに、落ち着くのだ。反射的に、言葉を連ねる、という行為は、確かに、物事を、素早く考える、一種の、頭の良さを、表すように、考える人が、多いのだが、それだけでは、浅慮の果てに、過ちを繰り返し、失敗を続ける。何故、と考えれば、まだましだが、多くは、その過ちや失敗を、周囲の責任に、転嫁することで、自分の立場を、守ろうとする。それでは、自身を、高めることも、他を率いることも、できないだろう。反射的な考えは、確かに、重要なもので、端緒となるが、そこから、何を引き出すかが、現実社会では、重要となり、何らかの務めを、果たすことへも、繋がる。だから、その結果だけを、見た人には、楽観論者と、思えてしまうが、その実は、悲観的なことを、検討した上で、結果的に、導き出せる、先の動きを、論じることになる。これは、結局、悲劇や悲観とは、ならずに、一見、楽観とも思える、そんな結論に、繋がる訳だ。表面的なことしか、捉えられぬ人の多くは、こういう経緯を、読み取ることが、できないままに、結論のみで、何事も判断し、何故、悲観が否定されるのか、と首を傾げる。その奥底にある、深謀遠慮が、如何なるものか、見もせずに、自分が、反射的に思った、下らないことを、口にし、文字にする。ほんの少しの時間を、もう一度考えることに、費やすだけで、様々な場合を、検討できるのに、しようともせずに、他を批判し、悦に入る。まあ、その程度の人間なら、相手にする、必要もないのだろう。
騒ぎ過ぎ、と書けば、分かってない、と言われるだろう。だが、本当に、それ程の力が、あるのか、と今でも思う。人工知能が、皆の目や耳に、触れるようになったのは、前世紀の末頃、だったろうか。得体の知れぬ、存在でしか、なかったものが、徐々に、確かなものと。
元々も、今と同様に、万能の存在、と見做されたが、現実は、甘くなく、何も学ばぬ、記憶装置と、呼ばれていた。それが、勝負の世界に進出し、高段者を、次々に破ると、世間の評判は、一気に変わった。それに関しては、以前書いたが、人間勝負と、機械勝負の違い、に気付けば、また違った様相、になると思う。決まった規則の、中での勝負だけでなく、あらゆることに、口出しできる存在、と言われ始めたのは、つい数年前か。生成人工知能、と呼ばれたものは、あらゆる疑問に、即座に回答するだけでなく、解決法を、尋ねたとしても、いとも容易く、最善策を、提示する、と言われた。教育現場には、激震が走り、課題を与えても、皆が、それに頼り、提示された答えを、そのまま提出する、という事態が、起き始めた。人間の成長より、遥かに速い、進歩の末、今では、何でも、正しい答えを、導き出す、と信じる向きもある。だが、その一方で、嘘や出鱈目が、答えの中に、並ぶことが、増え始めて、疑いが、膨らんでいる。本来、機械は、命令に従い、そのまま、動くことが、約束されるから、機械が出した、答えには、間違いも、嘘も、出鱈目も、ある筈が無い、と思う人が居るが、どういう仕組みか、現状は、捏造さえも、厭わぬ姿勢に、驚く人も居る。でも、何でも、無尽蔵に、編み出すには、嘘や出鱈目も、必要悪だと、する考えが、人工知能への、命令文に、隠されている、のではないか。だとしたら、今の状況は、当然であり、天才と呼ばれた、嘘吐きと、同じ状況に、あるのかも、だ。だったら、依存するのは、止めた方が、いいだろう。ちなみに、独り言は、あくまでも、パンチという人間が、思ったことを、書いたもので、人工知能の助けは、頼んでいない。
囀り界隈では、科学の知識を、ひけらかしつつ、嘘をばら撒く、不埒な輩が、目立っている。先日から、触れてきたように、感染症については、その発症機構だけでなく、抑圧手法についても、諸説紛紛、どころか、嘘八百ばかりで、呆れてしまうが、専門家にも、責任がある。
科学は、元々、確実なもの、と言うよりは、ある程度の確率で、という形を取りつつ、何が、優勢なのかを、示すものだが、無知な人々は、そんな不確かさより、確実なものを、欲しがる。それに乗じて、嘘吐き達は、欲しがったものを、与えることで、混乱を高め、喜びを得る、らしい。感染症の、不確かさについて、何度か、書いてきたが、他にも、不確かさは、沢山あるようだ。その中で、科学者達は、確かな事実を、伝えよう、としているが、どうにも、煮え切らず、信頼回復には、程遠いのみならず、却って、疑いを、高めることになる。同じ、と思い起こすのは、事故後の、混乱状態の中で、一部の科学者が、不確実な話を、垂れ流したことだ。あの発電方式に、反対したい、との姿勢は、勝手にすれば、いいと思うが、その根拠が、脆弱なことに、自身で気づかず、ある意味、暴走を、続ける人達は、知識をひけらすだけに、始末におえぬ、とさえ、思える所業が、目に余る。確かに、一度、管理体制が、崩れれば、今の状況のように、対応の難しさが、極まりそうだ。だが、その勢いで、廃止を訴えるのは、科学的とは、言い難いもの、と映る。同じではないが、核のゴミ、と呼ばれるものの、始末についても、現状では、地下深くに、埋めた上で、管理するとされるが、放射性物質の、管理においては、今の、処理水の放出の如く、希釈が、最善の策とされ、何処かに、強い矛盾を、感じてしまう。元々、燃料獲得には、濃縮を繰り返し、その状態に達する訳だが、その逆転を、ゴミ廃棄に、考えない理由が、浮かばない。事故直後の、汚染地域についても、二つの措置が、対立する形で、実施されており、土壌については、集積したのに対し、一部の、舗装区域では、剥離後に、粉砕、再舗装で、検出外とする、措置が取られた。後者は、希釈と同じ手法であり、前者は、ある意味、濃縮に似ている。科学としての、矛盾を見せられ、はて、そんな科学を、信頼せよと、と問い掛けたくなる。
経済では、歴史は繰り返す、とよく言われる。確かに、株価の暴落や、原油の乱高下など、様々な事象が、幾つかの要因で、同じような動きを、示すことがある。そこから、歴史の話が、紹介されて、その上で、そんな危機への備えも、できるもの、と言われるのだ。だが、本当か。
人間は、学ぶものだ、とも言われ、歴史の話は、その一つとして、紹介される。でも、同じことが、同じように、起きるのは、学んでおらず、懲りていないから、などと言われるのは、何故か。不思議でも、何でもなく、同じことが、表面的には、繰り返され、同じような、暴落や乱高下が、起きているように、見えているが、実際には、それぞれに、微妙な違いがあり、備えとは違う、対応の必要が、取り上げられる。そちらについても、検証が必要だが、一方で、懲りない話にも、目を向ける、必要がある、とも思う。つまり、同じことが、起きつつあるのに、今度こそは、違う展開になる、と信じ込むことで、一時的な安心を、手に入れ、結果として、失敗を繰り返す。本人は、大真面目に、今度こそは、などと言い連ね、ほんの僅かな違いを、殊更に、取り上げることで、繰り返しを、避けられるとする。結果は、悲惨なものとなり、煮湯を、飲まされるが、それでも、次の危機でも、同じことをする。まあ、冷静になれば、そんなことを、する筈も無い、と思う人ほど、同じ過ちを、繰り返すのだから、付ける薬は無い、としか言えない。では、今度のものは、どうか。何十年ぶり、と取り上げられる、為替水準は、数値として、確かに、あの頃に戻ったが、そこまでの動きは、全く違う。逆に言うと、今回の場合、繰り返したのではなく、偶々、同じ数値に、到達した、と言うべきだろう。経済の話で、こんな馬鹿げた、偶然の一致を、歴史の繰り返し、とすることがあり、これもまた、科学とは、全く異なる、心理ばかりの動向を、扱うもの、と言われる、所以となるのだろう。様子見は、当然のことながら、為替水準が、どうあるべきか、少し考えておく必要が、ありそうに思う。
事実を、ありのままに、伝えているだけ、との答えが、返ってくるかも、だが、それでは、科学も医学も、へったくれも、無いことになる。何しろ、病原体の有無を、検査で明らかにし、その結果、一方は、感染源と、責め立てられ、もう一方は、接種により、軽症化した、とだけ言われる。
これでは、非科学的なことを、叫んでいる輩と、何の違いがあるのか、とさえ思えるし、トンデモだろうが、何だろうが、好き勝手なことを、書き散らす人間と、何が違うのか、と言いたくなる。確かに、ある割合で、過剰反応を示し、それによって、感染ではなく、別の要因で、死んだり、重篤な後遺症に、見舞われた人が居て、その原因を、ワクチンの中の、摩訶不思議な物質の、せいだとしたり、ワクチンにより、引き起こされた免疫反応は、自然のものとは、全く異なるもので、危険極まりない、と主張したり、そんな意見には、科学的根拠が、欠けている、と断じる人が居るが、では、こちらの話は、どうだろう。どんな御高説が、飛び出すのか、暫くは、免疫学者が、書くものにも、目を向けたが、一向に、触れる気配は無く、ただ、無闇矢鱈に、新開発のワクチンが、如何に優れたものか、を書き連ねていた。確かに、感染症の診断は、免疫学の、知る所ではない。だが、感染爆発を、引き合いに出し、その恐怖を拡散した上で、ワクチンの効能を、並べるのであれば、結果としての、病原体の保有と、伝染への寄与にも、触れる必要がある、と思う。感染爆発では、8割とか称して、話題となった研究者も、依然として、力を有するようだが、あの結果も、何の検証もなく、総括など、届きそうにない。特に、密室で、感染が広がった、との報道では、その場に居た人々の、どれ程に、感染者が、出たのかも、触れられぬままだ。ここでも、疫学や公衆衛生学が、専ら得意とした、調査手法と、検証法が、用いられてきた、とされたが、はて、どうなったのか。騒動の最中に、治療や対応に、専念せねばならぬのは、当然のことだが、もうすっかり、忘れられよう、としている中で、どうしたものか。誰の責任か、などと言っても、始まらぬことは、明らかだが、あれだけ、声を上げた、研究者達が、何の総括もせず、平気でいられるのは、何故なのだろう。
感染症という観点から、発症せずとも、運び屋になるから、感染という括りを、適用した上で、隔離などの措置を、行うべき、との説明は、妥当に思える。だから、僅かでも、病原体を、保有する人には、発症者と同等に、隔離措置を、行ったとされる。ここまでは、理解できるが。
免疫機能を、発動させて、病原体に、感染したとしても、軽い症状で、済むことで、生命の危険を、回避できる。ワクチンの説明として、この文面には、何の間違いも無い。だが、その一方で、感染爆発を、防ぐという意味では、この文面には、違う意味が、込められている。つまり、感染そのものを、防ぐという作用は、説明文には、含まれていないのだ。その意味で、ワクチンの効果で、軽症で済んだ患者は、病原体を、運ぶことに、なるのではないか。となると、無症状感染者、と呼ばれ、感染爆発を、起こすことになる、と批判された人々と、軽症で済んだ人に、どんな違いが、あるのか、疑問が出てくる。免疫という、生き物が、もつ機能について、多くの人は、疫を免れる、という意味で、感染初期で、病原体を、駆逐することで、その体内増殖を、防ぐことになる、と理解してきた。確かに、以前の検査法では、ある程度以上の、病原体を保有しないと、陽性を示さず、感染を防いだ、とされてきたが、あの感染爆発が、起きる前から、導入された、微量の病原体でも、検出できる方法では、ほんの僅かな数でも、見逃されず、陽性となる。普通に考えれば、当然のことだが、多くの免疫学者を含め、ワクチン開発当時、その接種を、促す為に、感染爆発を防ぎ、周囲の人の命を、守ることに、繋がると訴えた。だが、製薬企業の発表は、少し違い、接種者は、感染しても、重症化しない、となっていた。となると、感染爆発への、関与について、どう考えるべきか。未発症の感染者が、周囲にばら撒く病原体の数と、接種済みの感染者が、ばら撒く数が、違うかどうか、何の話も出てこない。総括を、望むのは、こういう点も含め、全体として、多面的な解析が、必要だからだ。それと共に、表現の問題として、検査陽性と、発症者の区別を、明確にすべき、ではないか。科学や医学が、頼りになるかは、こんな些細なことが、はっきりしないままには、判らないと思う。
天変地異は、人の力では、如何ともし難いもの、と言われる。その通りで、だからこそ、神仏に頼み、様々な関わりが、行われる。ただ、その一方で、災害に、見舞われた時、どう処するかで、展開が、変わることも、知られている。にしても、近年の脅迫にも似た、態度には。
どんな警告を、発しても、逃げも隠れもしない、頑固者達を、どうしたら、との思いからかも、だが、それにしても、毎度お馴染みの、脅し文句の連呼には、呆れるしかない。安全安心を、一つ覚えのように、訴える一方で、これらの警告に、そんなことは、感じなかったとか、もっと強く言ってくれないと、とか、兎にも角にも、愚か者に、つける薬は無い。にも拘らず、社会は、執拗に、要求を高めるが、自分が、動くことは、決して無い。そんな状況に、担当役所は、毎年、手を替え品を替え、新しい脅し文句を、編み出してきた。今回は、全体の仕組みを、総取替する、といった感がある程、大きな変更を、行ったようだが、どうにも、不思議な感覚しか、抱けない。まずは、こういう仕組みが、それぞれの災害が、組み合わさった時に、どう受け取られるか、あるいは、どう受け取るべきか、その点から、戸惑うことが、起きる。一つひとつが、大事であることは、事実として、捉えるのだが、彼方と此方で、矛盾を、感じた場合に、どうしたら、と思うのでは。そんな瑣末なことに、気を奪われずに、重大性を、見極めさえすれば、何を、優先すべきか、すぐに解る、と言われるが、情報過多は、それに対する、妨げになりかねない。今回も、台風被害を、殊更に、予想したが、被害自体は、何かが起きる、に決まっている。それが、其処彼処に、起きるのか、それとも、自分以外に、起きるのかが、肝心となる。何度も、外れてしまえば、結局は、狼少年の逸話となる。どうしたものか、と苦心惨憺、試してみても、大した変化が、起きていない。でも、これらのこと、全てを、自分事として、捉えるかが、肝心であり、個人の問題、とするしかない。責任転嫁など、以ての外、だろう。
やはり、と言おうか、泥沼なのか。互いに、罵り合いながら、周囲からの、圧力によって、合意に至った、とされた。が、その後も、不安定な状況が続き、罵り合いも、続いていた。また、週末が、近づいてきたら、同じことの、繰り返しとなった。さて、あの文書は、無効となるか。
興味深いのは、こんな時に、世間が、呟き続けるのは、何方が、勝ったか、という話だ。総じて、攻め込まれた方が、自国の利益を、確保したとの評価から、勝ったとする向きが、優勢のようだ。だが、岡目から見ると、どうかな、という思いしか、抱けない。元々、国内の体制が、不安定に陥り、爆撃により、主要な人物の、殆どが、消えてしまった。その中で、やっと見つけた人物も、果たして、生きているのかさえ、定かでない、状況にある。ただ、それまで、体制を支えた、軍部だけは、依然として、権力を、握り続ける。海の向こうの暴君は、もう、大した戦闘能力は、残っていない、と断じるが、それとて、怪しげにしか、映らない。そんな不安定な、状況の中で、合意は、戦闘状態にある、勢力の一部により、成されたに、過ぎない。となれば、何時何時、危うい均衡が、崩れるとも知れぬ。と思われる中、案の定、軍部の勇足が、露呈したのだろう。こうなれば、一気呵成に、攻撃を始めるかも、との見方もある。とはいえ、お互いに、戦闘能力で言えば、弾薬不足は、否めず、青息吐息の状況に、あると言われるから、息の根を止める、までには至らず、またぞろ、泥沼化しそうな、状況とも見える。こちらの政府は、一旦の合意から、原油の供給が、回復するとの見込みを、発表したのだが、また、この週末で、同じことが、繰り返され、窮地に陥る、のかも知れぬ。どうしたものか、と思ってみても、当事者でない限り、どうにもならぬ、としか、言いようがない。で、結局は、様子見状態が、続くのだろう。対岸の火事、であることは、今の所、そうだろうから、暫くは、落ち着くべきか。
科学技術の進歩。その恩恵に、多くの人々が、浴している。日々の生活でも、そんなことが、数え切れぬ程にある。これを、否定する人は、居ないと思う。だが、技術の進歩と、その事象への理解に、食い違いが生じると、おかしな状況が、生まれる。どうしたものか、と思う。
何度も、取り上げてきたことだが、感染爆発に関する話だ。感染が、発生した地域から、一報が、届いた時には、多くの人々が、その後の、惨状を想像しなかった。だが、発生国から、何時の間にか、星の反対側へと、飛んだ病原体は、多くの患者を、生じただけでなく、その多くが、死を迎えてしまった。感染症の、恐ろしさを、目の当たりにして、恐怖に慄く人々は、一気に、異常な状況へと、移っていった。だが、その過程で、各国から届く、数値の大きさに、驚いた人が多い。1世紀以上前の、世界的な悲劇を、思い起こした人も、多かったが、死者数でなく、感染者数という、数値に関しては、昔の話とは、大きな違いが、あった。その時も、ここで何度も、指摘したが、この数値は、検査陽性者数であり、一般的な理解の、感染者とは、何処か違ったものだ。従来の感染者は、発症した後で、検査を受けた結果、その病原体に、侵されたことが、確認される。だが、何時からか、感染症の学会が、精密な検査により、病原体の存在が、確認された時点で、感染と判断する、と決めた。それに従い、この場合も、PCRという、病原体数が、僅かでも、検出できる技術を、導入した結果、世界的に、その数値を、発表することとした。その結果、陽性者でも、発症せずに、回復する場合が、指摘され、彼らが、運び屋の如く、批判されるに、至っていた。この点に関して、疫学も公衆衛生学も、確かな情報を、総括として、発出していない、のではないか。もし、そうだとしたら、検査自体の、再検討が、必要となる、とも考えられる。この点は、実は、もう一つの大きな問題を、生じることとなった。それについては、後日、書いてみたい。