パンチの独り言
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1月25日(日)

 世の中には、古今東西、何の区別も無く、絶対的な、安全・安心を、保証することは無い。ということは、皆承知している、と思い込んではいけない。何しろ、社会媒体が、これ程までに、浸透してくると、身勝手な発言を、端緒として、そこから、あり得ない話が、展開する。
 何事にも、そんなことが、あるのが当然、と思っておけば、大抵の不規則発言にも、対応できる筈だが、それが、有識者、特に、ある学問を極めた、学者と呼ばれる人々から、発せられると、意見を出すことは勿論、反論するのは、憚られる、と言われている。その一方で、媒体の中には、全てを罵倒することに、悦びを感じる、人種が巣食っており、正論だろうが、誤謬だろうが、何もかも、全否定される。こんな世界では、深慮の上の意見も、浅慮の意見も、同等と見做され、看破される。いや、それは、明らかな誤りだろう、と思うことも、学問的に正しい意見も、同等に扱われる。そんなことは、無視したらいい、と思う人が、多いのだろうが、今の状況は、結構拗れている、と見えている。それはそれとして、例の発電方式について、一部の学識経験者から、猛反対が寄せられたのは、あれ程の事故で、命の危険を感じ、その上、事故後の処理に、要する経費が、莫大となったからだ。ただ、その論拠を眺めると、偏ったものでしかなく、彼らの専門分野にしか、目が向いていないことが、判明する。放射線の影響は、物理学、化学、生物学の各分野から、全体として、眺める必要があるが、それぞれの専門家は、他の分野に、目が向かぬまま、持論を展開する。結果、偏った結論が、導かれ、恐怖を感じている、庶民にとり、好都合と思える、意見が出てくる。特に、人間という、生き物を考えた時、事故直後の影響も、流布された説のように、展開することなく、大戦時の原爆の影響同様、理解不足からくる、妄言となってしまう。例えば、ここでも以前、書いたことがあるが、人間も、誰もが体内に、放射性物質を、保持しており、日々、被爆するし、隣に居る人間を、被曝させている。その中で、ある程度の健康を保ち、命を長らえている訳で、単純な仕組みではないことがわかる。そちらの危険性を、過大評価し、発電方式に反対するのは、全く別の要素からくる、利益を無視し、他の方式との比較も、できていないだけだ。何事も、できる限り、広範囲で見渡すことが、必要なのだと思う。

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1月24日(土)

 先日、再稼働、と書いていた頃には、既に、停止に向けての作業が、始まっていたようだ。企業体質、と書いたけれど、まさに、その懸念が、現実に、と見る向きも、あるだろう。その上で、だから、あの発電形式は、断念すべきだ、と結論づけようとする、動きは、高まりそうだ。
 だが、問題は、そこには無い。安全な運転を、実現させる為に、制御や安全装置があり、それが、ある意味、作動したからこそ、暴走することなく、無事に元通りへと、作業が進められた。そこでも、またぞろ、水温上昇が、止まらなかったとか、大震災後の事故を、彷彿とさせる、文言が、囀りの中でも、踊っていたが、仮令、その数値が、正確な情報としても、その後に続く、悲観的な筋書きは、勝手な解釈によるもので、不正確極まりないものだった。何度も、こんなことが、繰り返されるのは、まさに、企業体質によるもので、異常を検知しても、その原因を、確認することなく、同じ過ちを、繰り返そうとする、何とも、理解不能なことが、行われたからだ。そんな組織に、こんなことを、任せるのは、如何なものか、との意見が、あるのも、ある意味当然だが、だからと言って、国を挙げて、あの発電形式を、放棄せよとするのは、愚かなことにしか、思えない。今度こそは、原因を、徹底究明し、それへの対策を、十分に検討した上で、実施することが、求められる。やったふり、は許される筈もなく、担当者の処分も含め、組織改革を、進める必要がある。その一方で、あの事故以来、初めての再起動で、運転に携わる社員にも、未経験者ばかりが、目立つという状況は、看過できない。まずは、退職者からでも、当時の経験を、有した人々を、呼び戻すなりして、未経験者の再教育も、再稼働の中で、行うべきと思う。老害と言われようとも、その類の継承が、抜け落ちたままでは、確かなことが、行えないだろう。何を、優先すべきか、考えるべき時と思う。

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1月23日(金)

 泡が弾けてからずっと、この国には、低い黒雲が、立ち込めている。そんな言いようが、したくなる程に、皆の意見は、悲観的であり、自分が、如何に、被害者の側に、居るのかを、主張し続ける。だが、日々の生活は、倹しくとも、過ごせている、のではないか。
 そんなことを、書いていると、すぐに、今は何とかなるが、将来は、と返してくる。だが、それとて、どうかと思う。日々が、それなりに送れれば、自身の健康に、気を配れば、何とかなる、と思える。だが、収入を失った後の、老後の生活には、不安が付き纏う、となるのだ。先日も、あるお笑いタレントが、年金を受け取る年齢に、達することで、その額に驚いた、との報道が、スポーツ紙を中心に、あった。実名は挙げないが、皆が知る人物であり、ある劇団を、仲間と立ち上げた頃は、活動できる喜びだけで、生活は苦しかった、と言っていた。それが、ある頃から、売れ始めて、今の地位を築いた、と言われる。当初から、国民年金を納め、自身の事務所を、立ち上げてからは、厚生年金にも加入し、積み上げてきたのに、この額とは、と嘆いていた、と報じられた。確かに、国民年金は、最低限の納入額だから、貰えるように、なったとしても、少額となるのは、よく知られた所だ。でも、彼女の場合、劇団は、会社形態であり、40年以上前から、属していたのに、厚生年金には、加入していなかった。この辺りに、問題がありそうに、思う所だが、それとて、庶民的な振る舞いを、前面に出す中では、被害者的な、扱いとなるのだろう。結局、手取りは、大したことない、と断じるのだが、その実、今でも、多額の収入が、確保される中で、何をか言わんや、との反応が、当然と思える。黒雲は、依然として、青空を、見えぬものに、していると思うが、それは、この国の上ではなく、彼らの心の中に、あるものでは、と思う。皆で、悲劇を演じて、悲観に浸れば、確かに、仲間意識は、出来上がるのかもだが、そんな心持ちで、幸せな老後は、訪れる筈もない、のではないか。

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1月22日(木)

 再稼働の報道があった。ここを読んできた人は、もう気付いているだろうが、基本的には、あの発電方式には、反対していない。大震災後の津波で、起きた事故の深刻さに、多くの人々が、反対を唱えた時も、その論理に、全く賛同できなかった。絶対の安全は、無いのに、と。
 それでも、廃炉に向けての準備は、遅々として進まず、嵩む経費は、膨らむばかりで、見合わぬもの、と見る向きは、依然として、多数派に思える。その中、政府は、再稼働を促進する方に、舵を切り、徐々にだが、稼働数も、増えてきた。だが、事故の当事者が、動かすとなると、様々な意見が、改めて出される。原因を、明らかにできず、補償も、不十分なままで、何故、暴挙に走るのか、とさえ言われるのだ。失敗の経験を、生かすなどという、ふざけた話は、通用しそうにない。だが、このまま、止めてしまえば、供給への不安は、膨らむばかりとなる。政府の後押しも、政局が不安化すれば、梯子を外され、孤立無援となりかねず、安心など、できる筈も無い。だが、その中、意を決して、再稼働したのは、様々な事情を、考慮した上で、今後の対策も含め、準備が整った、と判断したからだろう。反対派は、この方式そのものが、危険極まりない、とするばかりで、普段の運転での、安全性に関して、理解を示すつもりは、毛頭無い。科学とか論理とか、そんなものが、全く通用しない世界で、自分達の生活を、どう維持するのか、感情でしか考えないのでは、結論は出てこないのに。ただ、そうは言っても、好き勝手に、やればいいとは、決して思わない。企業の問題も、当然のことだが、あの発電所は、以前から、度々事故を起こし、原因不明とされたことが、多くあった。そこにきて、先日の点検で、警報が鳴らず、再稼働が、延期されたのは、またかと思わせる、ものだった。何しろ、稼働停止の前と、何も変わらなかったのだから、当時も、その仕組みが、動いておらず、事故が起きても、気付かぬまま、となりかねぬ状況だったのだ。これきりに、して欲しい、と願うばかりだが、体質だとしたら、次もある、かもだ。

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1月21日(水)

 囀りに書いた話題、第三弾。ここ数日の話題とも関連する。その書き出しは、前回も転載したが、次のようだった。気になる話題は、論文のピアレビュー、学会運営、学生指導、研究室運営、大学運営など、学問の世界も様変わりしつつあるが、その一方でSNS世界の歪みも。
 三番目は学生指導。まずは講義だろうか。研究がやりたくて大学に残った人にとり、講義は難物なのだろう。あまり触れる人がいない。まず第一に講義の仕方を教えてくれる所が無い。だから文句の一つ二つを並べたくなるのかも。でも大学教育の中心をなすのは講義に違いない。では、何をどうしたら。答えは無いと思う。各担当者がその講義科目で何が大切で、どうすれば学生が習得できるか、工夫するしかない。当然だが、やる気のない学生を相手にする必要は無い。だが、今の時代、そんな連中にも何かしらを習得させ、単位を与える必要がある。理不尽そのものだが、何とかせねばならぬ。科目による違いもかなりある。数学系なら教科書通りに進めればいい。が、やり方は様々。解説中心か演習中心か。最近は演習、それも全員に取り組ませるのがいいのでは。他の理系科目も、教科書がある分野ならそれに沿って。ただ、これらは演習が殆ど無い。なので解説中心しかない。としても、評価を試験で行うか、レポートでやるかで、随分違う。試験は、中間期末の区別なく、課題を示し論述させるのが確実だ。採点は大変だが、暗記させるのは理解に繋がらぬ。論述なら教科書ノート持ち込み可か。判断し纏める力を測る。レポートは課題次第。最近は生成AI対策が必要か。でも、対策はどうだろうか。Xで書かれる様子は難しそうだ。だがそうとも限らぬ。課題の内容次第で、生成AIがそれらしい答えを示す場合もある。単純なものでは学生の実力は測れない。教員の実力が試される、のかもだ。でも、ものを書かせるという方式が大学以降の評価では基本となる。どんな科目でも基本は同じ、教える内容とともに評価方法に教員自身の工夫が反映される。講義、演習も、同じだろう。学生指導では学部なら卒業研究も含まれる。こちらは分野ごとの違いが大きく、一概には言えそうにない。理系であれば卒業研究で、実験を中心としたものとなる。ただ研究となれば研究室運営につながる。一方で講義で習うことについて、幾つか指摘しておく。教科書の内容は暗記するものでなく、理解するものが基本。その上で、何か知りたいことがあったらどの本に当たるのがいいのかを知っておくことが大切。適切な本を開けば適切な情報が手に入る。当然理解できねば役立たず。学習はその為のもの。

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1月20日(火)

 昨日取り上げた、催しに関して、どんな印象だろう。子供の数が、減り続ける中、行き先の空間が、そのままだとしたら、もう既に、全てが受け入れられる、と言われる時代に、わざわざ、面倒なことを、と思う人が居る一方で、いや、誰もが入れるにしても、厳選は必要、との意見も。
 少なくとも、受け入れ側からは、選びたいとの声が、上がるに違いない。義務教育期間のように、選ばれること無く、全員が、同じ教育を受けられる、という制限があれば別だが、高等教育では、それぞれの素質を伸ばし、社会で活躍する為に、必要となる知識や知恵を、身に付けることが、要求されている。本来なら、義務教育でも、そういう目標を、設定する筈だが、現実には、全体を、一つの目標地点まで、到達させることが、役割のように、考えられており、それこそが、教育荒廃の元凶、と見る向きもある。多様性を、優先させるのなら、違うのは、当然のことであり、特に、最近問題視される、外国人児童の、教育についての、行き過ぎとしか、思えない対処には、異論が噴出している。どの児童、生徒にとっても、ある程度の、最低限の到達点を、設定することが、必要としても、全員が同じ水準に、とする、今の目標設定は、無理や無駄としか、思えないからだ。さて、高等教育の入り口で、全てではないにしろ、多くが、同じ試験により、優劣を判定し、合否を決定する仕組みは、妥当なのか。そんな疑問を、出す人も居るが、どうも、焦点が定まらず、主張も、二転三転する。少なくとも、資格試験の一種として、実施することは、構わぬと思うが、どうか。その上で、現行の試験が、受験生に対し、何を求め、何を基準に、優劣を決めているのか、妥当なのか、という問いには、答えるのが難しい。習ったことを、確かめている、とする向きには、まさに、その通りと思うが、優劣を決められる側には、不平不満が、あるようにも聞く。ただ、次の段階に入って、何をどう学ぶのか、という問題を、論じることなく、その場の判定のみに、目を向けるのは、明らかな過ちとなる。それだけは、注意すべきかも、だ。

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1月19日(月)

 この時期、毎年恒例の、と言ったら、何を思い浮かべるか。毎年、忘れないとされ、悲惨な光景が、次々と映し出される、大震災を、思い起こすか。これも既に、30年を経ているが、それより長い、恒例の出来事は、若者達に、圧迫感を、与えるものの代表として、知られる。
 まもなく、半世紀を迎える、全国的な催しは、大学入学の為の、最低限の知識を、問うものと言われる。それまでは、国立大学が、二つの群に分けられ、異なる日程で、入試が実施されたが、この導入を機に、別の方式が、始められた。全ての大学が、複数回の入試を、実施するものとされ、機会均等や、機会を増やす、と言われたものだ。現実には、掛け声とは異なり、それぞれに、独自の方式が、導入された。推薦入試も、その一つであり、国立大学ならば、一発勝負の入試で、といった感覚とは、明らかに異なる方法で、青田買いを、始めた所もある。ただ、早めに確保しても、合格した人間が、期待に応える、とは限らず、合格から入学までの、怠惰の結果、回復不能な痛手を、負う人間も、出てくるものだ。教育には、絶対的な手法が、無いということが、実感される。さて、名称を変えた共通テストも、五回を超えて、実施されており、問題作成にも、新たな工夫が、導入されつつある、と聞く。毎年、新聞に掲載される、出題を、試しに解いてみる、という人も、居るに違いない。だが、今年は、明らかな違いが、起きた。翌朝に届いた、新聞には、解答が、示されるのみで、問題が、見当たらないのだ。現場でも、関係者に対し、不用意な公開発言を、避けるように、との注意が出された、との報道もあり、何か、それと関係することか、と思ったが、現実には、経済紙では、電子版での周知、となったようだ。印刷媒体は、かなりの経費が、かかるからだろう。こんな所にも、何かしらの圧力が、かかるものか、と思った。さて、そんな中、解いてみた人は、どの位居るのか。

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1月18日(日)

 囀りでの遣り取りを、読んでみると、何故だろう、と思うことが、屡々起こる。書いてあることに、腹を立てて、一方的に、その怒りを打つけたり、自分の意見を、否定された途端に、罵声を浴びせたり、時に、それが募ると、相手を排除して、二度と出会わぬようにする。
 実社会では、できないことを、仮想空間に、求めている、と言って仕舞えば、その通りだろうが、こんなやり方を、自分の時間の一部ででも、していることで、歪みは膨らまないのか。そんな心配さえ、出てくるのだが、どうだろうか。いや、実社会こそ、間違っており、自分の心が痛むのに、我慢する必要はなく、相手に、罰を与えて欲しい、と言い始める。だが、そこでの遣り取りは、必ずしも、相手の落ち度とは、限らず、こちらの過ち、となる場合も、かなりあるのだろう。そんな状況で、一方的な措置を、望むこと自体が、社会性の喪失、あるいは、放棄を、表すことにならないか。実は、囀りは、ほんの一欠片であり、それ以前も、手にした端末だけでなく、机上の入力装置から、仮想空間での、遣り取りを、繰り返してきた。掲示板と呼ばれた、議論、情報交換の場は、まだ、一部の参加者の、集う所だったが、そこでの遣り取りは、今と変わらず、一方的なものであり、相互に理解を心掛ければ、穏当な話し合いや、有用な情報交換が、行われる場となったが、何事にも、自分の正しさを、主張する人や、他人の批判しか、書き込めない人間が、入ってくると、秩序が乱れ、罵り合いの場と、化していた。興味深いのは、それまで、穏当な発言しか、していなかった人間が、好戦的な人間が、入ってきた途端に、豹変することだった。これは、今も変わらず、品位や品性を、投げ捨てる人間の、多さに呆れる。議論は、結論に至るまで、徹底的に行えば、と思うのだが、こういう人種の殆どは、兎に角、勝ち負けに拘り、より良い結論には、目もくれないのだ。まあ、相手を拒否するより、自分が退いた方が、楽なのでは、と思う。

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1月17日(土)

 囀りに書いた話題、第二弾に移りたい。前回同様、短文の投稿を、繰り返すことで、主張したものだ。その書き出しは、前回も転載したが、次のようだった。気になる話題は、論文のピアレビュー、学会運営、学生指導、研究室運営、大学運営など、学問の世界も様変わりしつつあるが、その一方でSNS世界の歪みも。
 次は学会運営について、今は昔とでも言うか、学会の賑わいは大きく変化した。一つには科研費の分野区分の役割が無くなった。以前は区分に従い応募する一方で審査はその学会関係者に委ねられた。今だと嫌う人が多いが、昔は学問分野との関わりが強かったからだ。今でもかも知れぬが、数学では翌年の配分を受ける研究者を学会が決めていたと聞く。その上で、その研究者が協力者を募り再配分をした。実験研究と違い、学会や集会の運営や情報交換が主体で問題なかったのかも。実験系は共同研究が主なのでそうはいかぬ。かつては総合研究だったものが、名称が次々変更された。今のことは以前紹介した本で読んだが、ある学問分野が始まった頃、総合研究が立ち上がり参加者を募集した。要点はその学問の実験研究をやる、と宣言すればよく、採択されたと言う。長閑な時代だったらしい。今はそんな区分も廃止され、学会との関係は癒着と断じられた。まあ良し悪しだろうが、どうか。で、学会の運営は一部を除き厳しいようだ。会員数が減り続けるようで、存続が危ぶまれる所もあると聞く。以前と違い、学会誌は電子化され印刷物が届かぬ所もある。コロナ禍では年会もオンラインとなり、人と会う機会も減った。その代わり旅行に出ずともよくなり、仕事場を離れる必要もない。さてそんな年会を続ける必要はあるか。一部の分野では修士の審査要件に発表があり、無くすのは無理だろう。でも学会じゃなく、会費を徴収しない研究会でいいのではとの意見もある。これでは、学会の存在そのものが不要かもだ。一方、会員数の減少の一番の要因は高齢者の退会のようだ。学生は必要な時だけ会員(無料が多い)となり、不要になれば退会する、という循環を繰り返す。その中で、就職後も一般会員(有料)で続けたとしても退職後は継続しない。減るのは当然と見えるがどうか。一方で、会員である利点はどこにあるか。情報収集だろうか。ネットで検索すれば、不要と判断するだろう。ある海外の学会は長年会員だった人には名誉会員の称号を与え、会費無料とする。大概の経費が要らなくなったから当然かもだ。有料会員は、投稿できるとかその他の利点あり、らしい。この方法は国内学会ではあまり聞かない。属していた所の多くは、退会を連絡すると受理されただけで、そのままだ。一つだけ、3年間の会費を納めたら永年会員にする、と言われたが、断った。意味不明に思ったが、そこは雑誌を送ってきていた。で、まあ学会運営に何が必要か。これという妙案はない。研究費が枯渇する時代に、余計なことはと思われるだけだろう。年会の意義も消えつつある。

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1月16日(金)

 囀りの書き込みに、反応していると、不思議な感覚に、陥ることがある。真面目に、対応しているのに、不真面目に、反応されたり、大真面目に、怒りをぶつけられたり、そんなことが、度々起きるのだ。確かに、仮想空間での、戯言に過ぎない、のかも知れぬが、どうだろうか。
 先日、反応したのは、ある人が紹介した、物理学実験の、シミュレーションだった。simulationとは、今は、カタカナで表記されることが、多いのだが、敢えて翻訳すれば、模擬実験だろうか。最近は、計算能力の向上から、殆どのことが、再現可能となるから、一見、正しいことが、画面の中で起きている、と思う人が多い。教科書や、専門家の話から、すぐに、光景が思い浮かばない、そんな人にとっては、理解の為に、大いに役立つもの、と解釈する人も多い。今回の話題も、そういう人の一人が、紹介していた。当然、量子力学の原理や理論から、明らかな間違いが、指摘できる状況で、光の性質が、粒子としてのものと、波としてのものがあり、その結果として、この話題である、光の干渉縞、の解釈がなされた。こちらの反応は、そういう学問からのものと言うより、実験での証明が、行われた話であり、例の宇宙の彼方から、やってきた粒子を、大きな水槽で、計測した実験の、計測機器を、開発した企業が、提供したものだ。シミュレーションでは、その観点からの、実験は、一切行われず、結局、学問的な批判を、浴びる結果となった。でも、批判する人々も、実は、本質的な理解が、欠けており、改善の方向には、進みそうにないのが、残念至極なのだ。囀りが、議論の場として、成立する為には、そんな心掛けが、投稿者全員に、必要なのでは、と思っている。だからこそ、実験結果として、企業が示したものと、シミュレーションの違いを、提示したつもりだが、どうも、伝わらないようだ。主張ばかりが、前面に出る人々に、そういう発展的な議論は、馴染みのないもので、取っ付き難いもの、なのかもだが、そろそろ、何とかしては、と思う。

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1月15日(木)

 少し前から、囀りに、書き込むようになった。一度の投稿では、字数が限られており、不便を感じる人が、多いらしい。なので、ある金額を、納めることで、長文の投稿も、可能にあるとの仕組みが、使われているらしい。しかし、ほんの思い付きを、書き込むだけで、必要と感じない。
 とは言え、何かしらの主張を、説明しようとすると、長くなるのは、ある意味当然だろう。仕方なく、何回かに分けて、書き込むこととなるが、読む側は、どう感じるのだろうか。仮想空間では、こういう手法は、既に確立されており、スレッドと称するものとして、皆が使っている。一連の投稿を、同じ画面に、流れるように示し、それを読み進めば、内容把握ができる、というものだ。それはその通りだが、やはり、気の短い読者には、面倒と思えるようだ。また、表示の仕組みも、どう調節しているのやら、こういった一連のものは、省かれる傾向にある、とさえ思えてくる。誰かの囀りに対して、応答する形で、書き込んだものは、比較的、目に触れやすくなるようで、今は、殆どを、その形で書き込んでいる。だが、昨日の独り言に、転載したものは、自分が、書き始めたもので、誰とも繋がらず、その意味では、不特定多数の、目に触れる機会は、かなり少なくなる。不利は不利だが、繋がりだけを、頼りにすると、話題が限定され、自身の主張を、発する場が、無くなってしまうので、少なくなることを、覚悟の上で、そちらの選択をした。案の定、訪れる人の数は、殆ど増えず、今も少ないままだし、まして、「いいね」の数が、増えることも無い。長文を、書き込む権利を、得る方法を、選んだ場合には、収益配分がある、と謳っているが、果たして、どれ程のものか、知る由もない。暫くは、この形の投稿を、独り言も囀りも、続けていこうと思うが、どうも、肝心の原稿書きが、滞っているから、そろそろ潮時かも知れぬ。

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1月14日(水)

 今回は、試しで、囀りに書いたことを、転載してみよう。折角書いたのだから、囀りだけでなく、こちらの読者の目にも、触れさせたい、との思いがある。だが、短文を重ねることで、完成させる論法が、転載してみたら、意外に、上手くいかず、論点が、ぼけるかも、と思う。では。
 気になる話題は、論文のピアレビュー、学会運営、学生指導、研究室運営、大学運営など、学問の世界も様変わりしつつあるが、その一方でSNS世界の歪みも。まず、ピアレビューについて、英語ではpeer reviewでwikiにはその歴史も含め論文以外も紹介される。一方、論文のピアレビューについてはこんな論文がある。専門家同士が互いに審査し合うことを意味するが、その対価を求められるか、話題に。経験した人であれば、無償なことが当然と思うだろうが、今の世の中は違う考えもある。多くの雑誌は基本無償とし、報酬を支払わない。もし、多忙で時間が無く、報酬が無いなら拒否、というなら依頼時点で断ればいい。でも、職場の業績に数えられるから、という考えはそれが報酬の一つとすればいい。一方、一部の雑誌には金銭的な支払いではなく、別のもの(品物、音楽CDなど)を与える仕組みがあった。今もあるかは知らないが、そんな配慮がある場合も。ただ、音楽に興味がない人には報酬とはならぬだろう。論文審査だけでなく、研究費申請書の審査も、多くの労力を要する。これも基本は無償。この界隈の話に関係あるかどうか。興味深い論説を見つけたので、気になる人は読んでみて欲しい。少し前のものだが、逆に今では当たり前の部分があるかも知れない。意外に短く終わっている。独り言の方が長いんだ、と改めて思う。

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1月13日(火)

 意思の疎通が不可欠、と言われる中、意味が通じないのでは、と思った人が多いだろう。確かに、その通りなのだが、本人達は、大真面目で、間違った意味を、正しいと信じ、仲間内で、確かめ合っている。そこに、問題の根源が、あるのだと思うが、違うだろうか。
 では、そうなった、根本原因は、何処にあるのか。確実なことは、言えそうにもないが、少し、感じたことを、書き記しておこう。いつだったか、ある媒体の登場で、一億総白痴化が、始まると称した、評論家が居た。それまでにも、ラジオという媒体が、世に広がっており、それが、テレビに置き換わったとしても、何も変わらない、と思う人が多い中、そう称した訳だ。理由は定かでないが、多分、それまで、耳だけに届く、情報伝達に対し、耳と目の両方に届く、情報の氾濫により、人々の考える力が、急激に衰える、と考えたのではないか。それも、人間同士の話し合いなら、双方向なのだが、媒体を通したものは、一方通行になるからだ。その結果は如何に、と考えた時、人によっては、その通り、白痴までは行かずとも、かなりの知能低下が、見られている、とするだろうが、その一方で、大した違いは無い、と断ずる人も居る。ただ、近年、その傾向が高まったのでは、という意見もあり、誰もが、手にした端末で、何処かから送られる、情報に接しており、時に、同じものを、繰り返し再生し、楽しんでいる姿から、白痴化の速度が、高まったと見る向きもあり、それが、低年齢化することから、危惧する向きも、少なくない。確かに、幼児の頃から、端末に慣れ親しみ、操作も、巧みになっているが、肝心の、脳の活動は、一部に限られ、所謂、意思の疎通、という観点からは、かなりの劣悪化が、進んでいる、との見解もある。それぞれの意見が、正しいのか、間違っているのか、現時点で、確かめることは、できないものの、一部の限られた世界に、生きるのみとなる、若者達の、言語能力の低下が、著しいことからは、心配する必要が、とも思えてくる。だが、ここまで、端末の影響が、著しくなると、手の施しようは、無いのかも知れぬ。

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1月12日(月)

 言語の乱れ、と称して、本来の意味と、異なる意味で、使われるようになった、言葉の紹介が、毎年末辺りに、行われるが、これは、それとは違う話題だろう。囀りでも、少し触れてみたのだが、その繋がりは、算数や数学に、苦しむ子の中には、言語理解の問題がある、との発言だった。
 確かに、教科の得手不得手が、実は、そのものではなく、問題文の理解に、根源がある、という話は昔からある。成績優秀者の特徴として、出題者の意図を、汲み取る力、という話もあって、出発点から、間違ってしまえば、問題を解く力とは、違うものを、測っている、となるとの話も。ただ、今回取り上げられたのは、意味不明としか、思えないものであり、そんな誤解を、どうやって、と思った人も多いだろう。この原因を、日常会話の不足とか、世代間の情報交換不足とか、そんなものに、求める人も居るだろうが、果たしてどうか。特に、近年、際立っている、と思えるのは、同世代の中の、了解事項の存在、というもので、それによって、同世代であれば、互いに、知っていることは、何の説明も無しに、理解できる、という話だ。これは、全世代に通じるものなら、問題は起きないが、その世代にしか、理解できぬものだと、異世代との会話や情報交換では、誤解を産んでしまう。その上で、自分達は、仲間内で、それが常識と思い込み、間違いに気付かずに、話を進めてしまうから、後々、大ごとになることもある。ここで、取り上げられた、1,000円弱という話も、俄には信じ難い、解釈を当然として、互いに、何の疑いも抱かず、話が進んでいく。逆に言えば、時に、本当の意味を、知る人間にとり、そんな仲間内では、無知として断じられ、肩身の狭い思いさえ、強いられることが起きる。何とも、不可思議な状況だが、この現象、今や、巷に溢れるもの、となっているようだ。その上で、間違いを、正しいものと主張し、それに拘る人間こそが、正常と思い込むのは、どうしたものか。今や、囀りは、そんな連中の、集会所と化しており、あらゆる事柄について、誤った解釈や、極論が、罷り通る世界で、反論は、無視されるか、徹底糾弾されるのだ。狂った世界が、築かれつつあるが、仮想世界の特徴かも、と思ったりもする。

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1月11日(日)

 高齢者の、交通事故の報道が、連日続く。それも、被害者としてではなく、加害者としてのもので、車の運転を、誤ったことが原因、と綴られる。途端に、免許返納の話が、持ち出され、まるで犯罪者の如く、扱われる場合もある。人間に、間違いはあるもの、と思わないのか。
 とは言え、車は、扱いを誤れば、凶器と化す、と言われる。それだけに、危険を感じたら、運転を止めるのも、と繋がる論理には、異論を唱え難い。だが、公共交通が、不便な過疎地に住むと、移動手段が奪われると、明日どころか、今日の生活でさえ、立ち行かなくなる、との意見も出る。確かに、都会ならまだしも、田舎では、本当に困りそうだ。また、都会でさえ、駅や停留所までの、移動でさえ、困難を伴い、買い物した物を、下げての移動となれば、なお一層難しくなる。だから、運転する機会を、奪わないで欲しい、との論理も、理解できぬものではない。だが、この手の話で、いつも、何かが欠けている、と思うのは、日々の生活費との比較、なのではないか。自家用車は、確かに便利なものだが、それだって、維持費が必要となる。どの位か、調べたことのある人は、少ないのでは。試しに、保険会社などが、調べた結果を、示してみたい。一つは、外資系の保険会社だが、普通車で、月に2万円強となる。もう一つは、カード会社のものだが、幅があるものの、同じ車種で、比較する為に示すと、そちらは4万円強となる。駐車場代や、その他の経費は、住居地により、かなり異なるから、一概には、言えぬものだが、中間をとって、3万円程度とすれば、1日千円掛かる。買い物だけに、使うとして、タクシーなどで、代わりをさせると、どうだろうか。使い方によるが、大した違いは、なさそうである。だとしたら、命の綱を奪うのか、という論理は、どうなるのか。確かに、過疎地では、遠過ぎて、タクシーの送迎は、とか、そんな交通機関が無い、という所も、あるかもだが、自治体からの支援を、期待せざるを得ない、としたとして、交換条件に、ならないだろうか。合理性は、時に、無情なもの、と言われるが、落ち着いて、考えたら、と思う。

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1月10日(土)

 この所の、海の向こうの政府の、やり方は、目に余るものが、と思う人が、多いのだろう。どの媒体も、その賑わいで、活況を呈している。で、やはり、暴君の暴れぶりが、と思うのが、筋だと感じるが、本当にそうか。今、読んでいる本では、陰謀論が、取り上げられているが。
 その意味では、彼の暴君は、不都合なものを、全て陰謀論で、片付けてきて、それが、不平不満の溜まった、庶民の共感を、産んだと言われる。だが、ここで、触れてみるのは、全く別の陰謀論だ。彼こそが、その渦中にあり、それも、権力を笠に着て、国内ばかりか、国外にまで、触手を伸ばす、不埒な存在、というより、単なる傀儡であり、その背後には、彼を操る、闇の存在が、潜んでいるのかも、という話になる。確かに、暴力的な発言や、その挙動に関して、批判の矢が、向けられているが、極端な物言いに対して、多くの論理的で、穏当な批判は、全く効果が無く、結局、言いなりになるしか、方法が無い、とさえ見えている。だが、そのすぐ傍で、説明を繰り返す、腹心達は、論理の飛躍は、著しいものの、非論理的とまでは、言えない程度の、知恵を、見せているように、見えてくる。全体としては、国際法に、沿わない行為だし、何らかの、処罰の対象となる、とさえ見えるが、腹心どもの説明は、それさえも、無駄にするような、小賢しいもの、と見えている。その裏には、巨悪の存在が、見え隠れし、これは、ひょっとすると、陰謀の塊なのでは、とさえ、思えてくる。まあ、そこまで書くと、何と馬鹿げた、と言われるのだろうが、その位、どうにもならぬ話が、世界を、駆け巡っており、何か言わねば、と思う人が、巷に溢れているのだ。この荒唐無稽ぶりは、常軌を逸したものだが、民主政治の下では、何をも恐れぬ、存在となるのだろう。陰謀論程、下らないものは、無いと思うのだが、彼の言動からは、そんなことさえ、あり得ると見えてくる。後3年、辛抱するしかない。

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1月9日(金)

 少子化の最大の要因は、金がかかること、という意見がある。確かに、子育てには、様々に金が必要で、試算すると、とんでもない額になる。だから、子供を産み育てるのは、無駄となるらしい。これは、本当だろうか。何でも、無駄とする考えは、効率優先らしいが、これも怪しい。
 何をもって、効率を測るのか。ここにも、大きな疑問点がある。第一、誰もが、自らの存在を、考えた時に、本当に、社会に役立ち、社会から見て、効率追求が、なされているか、「その通り」と答えられるか。まずは、そんな所から、始めてみるべきだろう、と思う。社会の構成員として、効率最優先で、認められる存在は、ほんの一握りに過ぎない。にも拘らず、最近は、まるで、最重要なことのように、効率を、前面に打ち出す。愚かさの表れ、としか思えない。まずは、その点を、否定しておきたい。その上で、子育ての話を、眺めてみると、今や、恐ろしい時代、と思えることが、山のように、積み上がっている。最初、驚いたのは、子ども食堂なる存在だ。家庭が貧しく、十分な食生活を、送れていない子供を、救う手段として、考えられたもの、と言われるが、そういう施しが、悪いとは言わぬが、何故、これ程までに、大事となっているのか、首を傾げてしまう。その上、それに必要な食材や、食事の準備を、施して欲しい、との訴えが、山のように押し寄せる。どこか、狂った社会なのでは、と思うのだが、当事者達は、大真面目であり、有名人も、次々に登場する。そんな家庭状況が、どれ程まで、溢れているのか、とさえ思えてくる。これに似た状況は、学校の無償化だろう。貧しい環境では、十分な教育が受けられず、だから、社会的弱者から、脱することが、できない、と断定する意見には、賛同できない。教育は、誰もが受けるもの、という解釈は、義務教育課程に、当てはまるが、その後は、全く別の観点が、必要となる。自らが、必要とし、それを糧に、活動を続ける為、と考えれば、その為に必要となる資金は、当然、自らが用意すべきだ。明白なことを、論点を摺り替え、社会で支える、という方向に、進むことには、反対したい。基本的な支援が、税金で行われるのは、全てを、自分で用意する、という意味でないことから、明らかなのだが、それが、無償とまで行くと、過剰としか思えない。税金を納め、社会をよくすることを、優先に考えずして、どうするのか。

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1月8日(木)

 ただ、正しい議論の場に、したいと願うのみ、という話は、何度か書いたが、もう一度、書いておこう。何度も、書きたくなるのは、社会媒体で、こちらが、何かしらの意見を、書いた途端に、意味を取り違え、勝手に歪曲して、自分の誤った意見を、正当化しようとする、からだ。
 こんな不埒な輩は、実社会でも、数え切れぬ程、居るに違いない。その中には、大衆媒体に、顔を出して、俄には、信じ難いような、極論を展開する。その後は、社会媒体での、激論へと移り、我が意を得たり、という連中が、せっせと同意を表明するのだ。もう、どちらの媒体も、腐っている、と見る向きがあるが、それでは、社会が崩壊するのみで、救いようのない時代へと、移っていくしかない。残り少ない人生を、そんな居心地の悪い、座りの悪い所で、過ごしたいとは思わぬ。だったら、無視すれば、と言う人も居るが、現実には、身の回りの人々が、そんな汚れた空気に、触れることで、どんどん腐っていくのを、眺めるのさえ、許せないと思うのだ。だったら、もっと強力な武器を手に、戦いを挑めば、と言う人も居る。これも、分からぬは無いが、だからと言って、暴力に訴えたり、徹底的に糾弾するのは、まさに、人権の問題となるし、自分自身の存在をも、危うくしかねない。だから、議論の土俵の上で、その規則に従い、正論を突き付け、相手の発言の誤りを、指摘し続ける。暇な年寄りの、戯言と思われても、それはそれで、構わぬことと思う。所詮、悪質な人間が、大手を振って歩けるような、世の中には、まだなっておらず、良識は、何処にでも、転がっている。その中で、論理的に、議論を進め、不用意な、間違った主張を、指摘し続ければ、それなりの成果が、上がるのではないか。一部には、そんな人も、発言しているのだが、その他大勢が、兎に角、どうにもならぬ状況に、陥っている、としか思えぬ。普段なら、面倒なだけ、と思うのだろうが、一度、こういう遣り取りを、始めたからには、とことん付き合うのだろう。

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1月7日(水)

 所詮、対岸の火事に、過ぎないことだ。大国が、小さな資源国に、攻め入って、その国の大統領を、拉致して、本国で裁く、という図式は、国際法では、決して許されぬ暴挙で、そのこと自体を、議論することは、確かに重要だろうが、何処か、的外れの感がある。何処が、だ。
 この暴挙の理由は、自国の民が、麻薬に苦しめられ、その供給源を、断つべきとの判断から、その後ろ盾の一人、と目される、大統領の排除に、乗り出したと言われる。その上、これらの活動資金の、源となるのが、肝心の化石資源であり、それを餌として、軍事などの活動の、資金を稼ぐ、対抗する大国を、黙らせたい、とする動きがあった、とされる。確かに、多くの被害者が、街頭で苦しむ姿が、囀りでも取り上げられ、如何に大きな問題か、世界に問い掛けている。だが、その原因が、海外から押し寄せる、麻薬だとしても、結果として、起きているのは、国内問題に過ぎない。供給源を、断つことこそ、重要と見るのは、正当に思えるが、その実、まずは、足下から、という意味では、国内の流通経路を、厳しく取り締まるべき、と考えることを、何故、放棄したのか、と見るべきかと思う。にも拘らず、その他の要因も、合わせることで、今回の暴挙に、至ったとしたら、一国の大統領として、その見識を、疑わざるを得ない。そんなことは、あの暴君であれば、当然の成り行き、と見る向きもあろうが、現実には、責任転嫁に、終始することで、経営においても、国の政においても、人気を誇ってきた、そんなやり方が、何処でも彼処でも、通用すると、決めつける動きには、もっと的確に、厳しい指摘を、すべきではないか、と思う。上手くいかぬから、仕方ないとする、一部の安易な考え方が、最近の揉め事の、主要因である、と見るべきなのでは。

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1月6日(火)

 暴挙の報道が、大衆媒体で、殆どされず、やはり駄目だ、という意見が、囀りで語られていた。でも、今更、そんなものに、見向きもしないくせに、そんなことを綴っても、と思ったりする。批判だけが、生き甲斐なのか、判る筈も無いが、でも、正月三ヶ日は、こんなものの国だが。
 海外では、年末が近付く、感謝祭や生誕祭が、宗教背景から、主な休みとなるが、一方で、正月は、新たな年を、迎えた瞬間のみに、意味があるとされ、その後は、普通の生活に戻る、のが常とされる。だが、この国では、外から来た、それらの祭りに比べ、新年を迎えることこそ、大きな意味がある、とされるだけに、殆どの社会活動が、休止状態に陥る。情報収集に、休みは無い、とすれば、どちらの文化においても、収集のみならず、報道という形で、伝達することを、忘れてはならない、ということだが、まあ、それはそれとして、今の時代には、新聞が休刊日でも、何らかの形で、報道が続けられるから、何も止まることは無い、と見るべきかも、だ。まあ、それにしても、大衆媒体でも、画面を使って、伝えるものには、制作経費だけでなく、準備などの手間も、かなりかかるのだろう。一度、準備した番組編成を、変更したくない、気持ちも、わからなくもない。とはいえ、2年前の地震では、国内の出来事だけに、何処も彼処も、その報道ばかり、となっていて、それに対する批判が、囀りにも溢れていた。兎に角、気に入らねば、批判の発言を繰り返し、ああだこうだと、文句を書き並べる。見方次第で、様々に論じられるが、国際情勢などでは、評論家を集めることも、松の内では、難しいのかもだ。世界情勢、と言ってみても、所詮、他国間の遣り取りなら、静観しても、との判断もあり得るし、また、どんな言い訳が、出てくるかを、待ってみても、大差ないかも、と思う。何にでも、首を突っ込むのも、全てを、無視するのも、適当な加減が、必要なのではないか。

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1月5日(月)

 暴君が、暴挙に出たのか。それとも、正義の味方が、鉄槌を下ろしたのか。皆の反応は、3年前の軍事侵攻の、直後のように、様子見ではなく、まずは、国際法違反を、前面に押し出した。だが、それとて、正義の前では、霞んでしまいそうだ。冷戦期とは、全く違う展開なのか。
 巨大勢力が、厳しく対立する中、ある意味では、何方に与するかを、表明しさえすれば、互いに、手を出せぬ状況が、続いてきた。しかし、勢力図に関しては、壁が崩壊した後も、大した変化が無く、その中で、こちらの隣国が、面積や人口だけでなく、経済的にも、大国の仲間入りをした、ことだけが、大きな違いだった。ただ、それにより、力の均衡は、以前に比べて、複雑な様相を、呈しており、何方に与するかだけでなく、その他の要素も含め、複雑な力関係の中で、それ程の力を、有さない国や地域は、巧く立ち回ることが、求められている。おそらく、今回、大統領が拉致された国も、その点では、強力な後ろ盾を、得たと思い込んでいた、のだろう。しかし、大国が、ちょっとその気になるだけで、こんな暴挙が可能となる、その状況には、全く変化が無い。ただ、一方で、例の軍事侵攻の際には、当初、様子見を続けた国々の、政府においては、所詮、抵抗は長く続かず、占領された後に、交渉を始めればいい、との判断があったようだ。しかし、結果は、大きな見込み違いで、拙い戦略で、侵攻の勢いを失い、結果的に、退却せざるを得なかった、軍事大国は、面目を失い、その後の長い戦いが、続くこととなった。それに比べ、大見得を切っていた、今回、拉致された大統領は、戦略的にも、軍事力的にも、見掛け倒しとなり、主を失った政府が、今後どう動くのかに、注目が集まる。とは言え、他国への侵攻は、決して許されるものではなく、交渉術を誇ったにせよ、この流れは、信頼さえも、失いかねぬ話となる。これでは、今年も、混迷続きになるのだろうか。