今回は、試しで、囀りに書いたことを、転載してみよう。折角書いたのだから、囀りだけでなく、こちらの読者の目にも、触れさせたい、との思いがある。だが、短文を重ねることで、完成させる論法が、転載してみたら、意外に、上手くいかず、論点が、ぼけるかも、と思う。では。
気になる話題は、論文のピアレビュー、学会運営、学生指導、研究室運営、大学運営など、学問の世界も様変わりしつつあるが、その一方でSNS世界の歪みも。まず、ピアレビューについて、英語ではpeer reviewでwikiにはその歴史も含め論文以外も紹介される。一方、論文のピアレビューについてはこんな論文がある。専門家同士が互いに審査し合うことを意味するが、その対価を求められるか、話題に。経験した人であれば、無償なことが当然と思うだろうが、今の世の中は違う考えもある。多くの雑誌は基本無償とし、報酬を支払わない。もし、多忙で時間が無く、報酬が無いなら拒否、というなら依頼時点で断ればいい。でも、職場の業績に数えられるから、という考えはそれが報酬の一つとすればいい。一方、一部の雑誌には金銭的な支払いではなく、別のもの(品物、音楽CDなど)を与える仕組みがあった。今もあるかは知らないが、そんな配慮がある場合も。ただ、音楽に興味がない人には報酬とはならぬだろう。論文審査だけでなく、研究費申請書の審査も、多くの労力を要する。これも基本は無償。この界隈の話に関係あるかどうか。興味深い論説を見つけたので、気になる人は読んでみて欲しい。少し前のものだが、逆に今では当たり前の部分があるかも知れない。意外に短く終わっている。独り言の方が長いんだ、と改めて思う。
意思の疎通が不可欠、と言われる中、意味が通じないのでは、と思った人が多いだろう。確かに、その通りなのだが、本人達は、大真面目で、間違った意味を、正しいと信じ、仲間内で、確かめ合っている。そこに、問題の根源が、あるのだと思うが、違うだろうか。
では、そうなった、根本原因は、何処にあるのか。確実なことは、言えそうにもないが、少し、感じたことを、書き記しておこう。いつだったか、ある媒体の登場で、一億総白痴化が、始まると称した、評論家が居た。それまでにも、ラジオという媒体が、世に広がっており、それが、テレビに置き換わったとしても、何も変わらない、と思う人が多い中、そう称した訳だ。理由は定かでないが、多分、それまで、耳だけに届く、情報伝達に対し、耳と目の両方に届く、情報の氾濫により、人々の考える力が、急激に衰える、と考えたのではないか。それも、人間同士の話し合いなら、双方向なのだが、媒体を通したものは、一方通行になるからだ。その結果は如何に、と考えた時、人によっては、その通り、白痴までは行かずとも、かなりの知能低下が、見られている、とするだろうが、その一方で、大した違いは無い、と断ずる人も居る。ただ、近年、その傾向が高まったのでは、という意見もあり、誰もが、手にした端末で、何処かから送られる、情報に接しており、時に、同じものを、繰り返し再生し、楽しんでいる姿から、白痴化の速度が、高まったと見る向きもあり、それが、低年齢化することから、危惧する向きも、少なくない。確かに、幼児の頃から、端末に慣れ親しみ、操作も、巧みになっているが、肝心の、脳の活動は、一部に限られ、所謂、意思の疎通、という観点からは、かなりの劣悪化が、進んでいる、との見解もある。それぞれの意見が、正しいのか、間違っているのか、現時点で、確かめることは、できないものの、一部の限られた世界に、生きるのみとなる、若者達の、言語能力の低下が、著しいことからは、心配する必要が、とも思えてくる。だが、ここまで、端末の影響が、著しくなると、手の施しようは、無いのかも知れぬ。
言語の乱れ、と称して、本来の意味と、異なる意味で、使われるようになった、言葉の紹介が、毎年末辺りに、行われるが、これは、それとは違う話題だろう。囀りでも、少し触れてみたのだが、その繋がりは、算数や数学に、苦しむ子の中には、言語理解の問題がある、との発言だった。
確かに、教科の得手不得手が、実は、そのものではなく、問題文の理解に、根源がある、という話は昔からある。成績優秀者の特徴として、出題者の意図を、汲み取る力、という話もあって、出発点から、間違ってしまえば、問題を解く力とは、違うものを、測っている、となるとの話も。ただ、今回取り上げられたのは、意味不明としか、思えないものであり、そんな誤解を、どうやって、と思った人も多いだろう。この原因を、日常会話の不足とか、世代間の情報交換不足とか、そんなものに、求める人も居るだろうが、果たしてどうか。特に、近年、際立っている、と思えるのは、同世代の中の、了解事項の存在、というもので、それによって、同世代であれば、互いに、知っていることは、何の説明も無しに、理解できる、という話だ。これは、全世代に通じるものなら、問題は起きないが、その世代にしか、理解できぬものだと、異世代との会話や情報交換では、誤解を産んでしまう。その上で、自分達は、仲間内で、それが常識と思い込み、間違いに気付かずに、話を進めてしまうから、後々、大ごとになることもある。ここで、取り上げられた、1,000円弱という話も、俄には信じ難い、解釈を当然として、互いに、何の疑いも抱かず、話が進んでいく。逆に言えば、時に、本当の意味を、知る人間にとり、そんな仲間内では、無知として断じられ、肩身の狭い思いさえ、強いられることが起きる。何とも、不可思議な状況だが、この現象、今や、巷に溢れるもの、となっているようだ。その上で、間違いを、正しいものと主張し、それに拘る人間こそが、正常と思い込むのは、どうしたものか。今や、囀りは、そんな連中の、集会所と化しており、あらゆる事柄について、誤った解釈や、極論が、罷り通る世界で、反論は、無視されるか、徹底糾弾されるのだ。狂った世界が、築かれつつあるが、仮想世界の特徴かも、と思ったりもする。
高齢者の、交通事故の報道が、連日続く。それも、被害者としてではなく、加害者としてのもので、車の運転を、誤ったことが原因、と綴られる。途端に、免許返納の話が、持ち出され、まるで犯罪者の如く、扱われる場合もある。人間に、間違いはあるもの、と思わないのか。
とは言え、車は、扱いを誤れば、凶器と化す、と言われる。それだけに、危険を感じたら、運転を止めるのも、と繋がる論理には、異論を唱え難い。だが、公共交通が、不便な過疎地に住むと、移動手段が奪われると、明日どころか、今日の生活でさえ、立ち行かなくなる、との意見も出る。確かに、都会ならまだしも、田舎では、本当に困りそうだ。また、都会でさえ、駅や停留所までの、移動でさえ、困難を伴い、買い物した物を、下げての移動となれば、なお一層難しくなる。だから、運転する機会を、奪わないで欲しい、との論理も、理解できぬものではない。だが、この手の話で、いつも、何かが欠けている、と思うのは、日々の生活費との比較、なのではないか。自家用車は、確かに便利なものだが、それだって、維持費が必要となる。どの位か、調べたことのある人は、少ないのでは。試しに、保険会社などが、調べた結果を、示してみたい。一つは、外資系の保険会社だが、普通車で、月に2万円強となる。もう一つは、カード会社のものだが、幅があるものの、同じ車種で、比較する為に示すと、そちらは4万円強となる。駐車場代や、その他の経費は、住居地により、かなり異なるから、一概には、言えぬものだが、中間をとって、3万円程度とすれば、1日千円掛かる。買い物だけに、使うとして、タクシーなどで、代わりをさせると、どうだろうか。使い方によるが、大した違いは、なさそうである。だとしたら、命の綱を奪うのか、という論理は、どうなるのか。確かに、過疎地では、遠過ぎて、タクシーの送迎は、とか、そんな交通機関が無い、という所も、あるかもだが、自治体からの支援を、期待せざるを得ない、としたとして、交換条件に、ならないだろうか。合理性は、時に、無情なもの、と言われるが、落ち着いて、考えたら、と思う。
この所の、海の向こうの政府の、やり方は、目に余るものが、と思う人が、多いのだろう。どの媒体も、その賑わいで、活況を呈している。で、やはり、暴君の暴れぶりが、と思うのが、筋だと感じるが、本当にそうか。今、読んでいる本では、陰謀論が、取り上げられているが。
その意味では、彼の暴君は、不都合なものを、全て陰謀論で、片付けてきて、それが、不平不満の溜まった、庶民の共感を、産んだと言われる。だが、ここで、触れてみるのは、全く別の陰謀論だ。彼こそが、その渦中にあり、それも、権力を笠に着て、国内ばかりか、国外にまで、触手を伸ばす、不埒な存在、というより、単なる傀儡であり、その背後には、彼を操る、闇の存在が、潜んでいるのかも、という話になる。確かに、暴力的な発言や、その挙動に関して、批判の矢が、向けられているが、極端な物言いに対して、多くの論理的で、穏当な批判は、全く効果が無く、結局、言いなりになるしか、方法が無い、とさえ見えている。だが、そのすぐ傍で、説明を繰り返す、腹心達は、論理の飛躍は、著しいものの、非論理的とまでは、言えない程度の、知恵を、見せているように、見えてくる。全体としては、国際法に、沿わない行為だし、何らかの、処罰の対象となる、とさえ見えるが、腹心どもの説明は、それさえも、無駄にするような、小賢しいもの、と見えている。その裏には、巨悪の存在が、見え隠れし、これは、ひょっとすると、陰謀の塊なのでは、とさえ、思えてくる。まあ、そこまで書くと、何と馬鹿げた、と言われるのだろうが、その位、どうにもならぬ話が、世界を、駆け巡っており、何か言わねば、と思う人が、巷に溢れているのだ。この荒唐無稽ぶりは、常軌を逸したものだが、民主政治の下では、何をも恐れぬ、存在となるのだろう。陰謀論程、下らないものは、無いと思うのだが、彼の言動からは、そんなことさえ、あり得ると見えてくる。後3年、辛抱するしかない。
少子化の最大の要因は、金がかかること、という意見がある。確かに、子育てには、様々に金が必要で、試算すると、とんでもない額になる。だから、子供を産み育てるのは、無駄となるらしい。これは、本当だろうか。何でも、無駄とする考えは、効率優先らしいが、これも怪しい。
何をもって、効率を測るのか。ここにも、大きな疑問点がある。第一、誰もが、自らの存在を、考えた時に、本当に、社会に役立ち、社会から見て、効率追求が、なされているか、「その通り」と答えられるか。まずは、そんな所から、始めてみるべきだろう、と思う。社会の構成員として、効率最優先で、認められる存在は、ほんの一握りに過ぎない。にも拘らず、最近は、まるで、最重要なことのように、効率を、前面に打ち出す。愚かさの表れ、としか思えない。まずは、その点を、否定しておきたい。その上で、子育ての話を、眺めてみると、今や、恐ろしい時代、と思えることが、山のように、積み上がっている。最初、驚いたのは、子ども食堂なる存在だ。家庭が貧しく、十分な食生活を、送れていない子供を、救う手段として、考えられたもの、と言われるが、そういう施しが、悪いとは言わぬが、何故、これ程までに、大事となっているのか、首を傾げてしまう。その上、それに必要な食材や、食事の準備を、施して欲しい、との訴えが、山のように押し寄せる。どこか、狂った社会なのでは、と思うのだが、当事者達は、大真面目であり、有名人も、次々に登場する。そんな家庭状況が、どれ程まで、溢れているのか、とさえ思えてくる。これに似た状況は、学校の無償化だろう。貧しい環境では、十分な教育が受けられず、だから、社会的弱者から、脱することが、できない、と断定する意見には、賛同できない。教育は、誰もが受けるもの、という解釈は、義務教育課程に、当てはまるが、その後は、全く別の観点が、必要となる。自らが、必要とし、それを糧に、活動を続ける為、と考えれば、その為に必要となる資金は、当然、自らが用意すべきだ。明白なことを、論点を摺り替え、社会で支える、という方向に、進むことには、反対したい。基本的な支援が、税金で行われるのは、全てを、自分で用意する、という意味でないことから、明らかなのだが、それが、無償とまで行くと、過剰としか思えない。税金を納め、社会をよくすることを、優先に考えずして、どうするのか。
ただ、正しい議論の場に、したいと願うのみ、という話は、何度か書いたが、もう一度、書いておこう。何度も、書きたくなるのは、社会媒体で、こちらが、何かしらの意見を、書いた途端に、意味を取り違え、勝手に歪曲して、自分の誤った意見を、正当化しようとする、からだ。
こんな不埒な輩は、実社会でも、数え切れぬ程、居るに違いない。その中には、大衆媒体に、顔を出して、俄には、信じ難いような、極論を展開する。その後は、社会媒体での、激論へと移り、我が意を得たり、という連中が、せっせと同意を表明するのだ。もう、どちらの媒体も、腐っている、と見る向きがあるが、それでは、社会が崩壊するのみで、救いようのない時代へと、移っていくしかない。残り少ない人生を、そんな居心地の悪い、座りの悪い所で、過ごしたいとは思わぬ。だったら、無視すれば、と言う人も居るが、現実には、身の回りの人々が、そんな汚れた空気に、触れることで、どんどん腐っていくのを、眺めるのさえ、許せないと思うのだ。だったら、もっと強力な武器を手に、戦いを挑めば、と言う人も居る。これも、分からぬは無いが、だからと言って、暴力に訴えたり、徹底的に糾弾するのは、まさに、人権の問題となるし、自分自身の存在をも、危うくしかねない。だから、議論の土俵の上で、その規則に従い、正論を突き付け、相手の発言の誤りを、指摘し続ける。暇な年寄りの、戯言と思われても、それはそれで、構わぬことと思う。所詮、悪質な人間が、大手を振って歩けるような、世の中には、まだなっておらず、良識は、何処にでも、転がっている。その中で、論理的に、議論を進め、不用意な、間違った主張を、指摘し続ければ、それなりの成果が、上がるのではないか。一部には、そんな人も、発言しているのだが、その他大勢が、兎に角、どうにもならぬ状況に、陥っている、としか思えぬ。普段なら、面倒なだけ、と思うのだろうが、一度、こういう遣り取りを、始めたからには、とことん付き合うのだろう。
所詮、対岸の火事に、過ぎないことだ。大国が、小さな資源国に、攻め入って、その国の大統領を、拉致して、本国で裁く、という図式は、国際法では、決して許されぬ暴挙で、そのこと自体を、議論することは、確かに重要だろうが、何処か、的外れの感がある。何処が、だ。
この暴挙の理由は、自国の民が、麻薬に苦しめられ、その供給源を、断つべきとの判断から、その後ろ盾の一人、と目される、大統領の排除に、乗り出したと言われる。その上、これらの活動資金の、源となるのが、肝心の化石資源であり、それを餌として、軍事などの活動の、資金を稼ぐ、対抗する大国を、黙らせたい、とする動きがあった、とされる。確かに、多くの被害者が、街頭で苦しむ姿が、囀りでも取り上げられ、如何に大きな問題か、世界に問い掛けている。だが、その原因が、海外から押し寄せる、麻薬だとしても、結果として、起きているのは、国内問題に過ぎない。供給源を、断つことこそ、重要と見るのは、正当に思えるが、その実、まずは、足下から、という意味では、国内の流通経路を、厳しく取り締まるべき、と考えることを、何故、放棄したのか、と見るべきかと思う。にも拘らず、その他の要因も、合わせることで、今回の暴挙に、至ったとしたら、一国の大統領として、その見識を、疑わざるを得ない。そんなことは、あの暴君であれば、当然の成り行き、と見る向きもあろうが、現実には、責任転嫁に、終始することで、経営においても、国の政においても、人気を誇ってきた、そんなやり方が、何処でも彼処でも、通用すると、決めつける動きには、もっと的確に、厳しい指摘を、すべきではないか、と思う。上手くいかぬから、仕方ないとする、一部の安易な考え方が、最近の揉め事の、主要因である、と見るべきなのでは。
暴挙の報道が、大衆媒体で、殆どされず、やはり駄目だ、という意見が、囀りで語られていた。でも、今更、そんなものに、見向きもしないくせに、そんなことを綴っても、と思ったりする。批判だけが、生き甲斐なのか、判る筈も無いが、でも、正月三ヶ日は、こんなものの国だが。
海外では、年末が近付く、感謝祭や生誕祭が、宗教背景から、主な休みとなるが、一方で、正月は、新たな年を、迎えた瞬間のみに、意味があるとされ、その後は、普通の生活に戻る、のが常とされる。だが、この国では、外から来た、それらの祭りに比べ、新年を迎えることこそ、大きな意味がある、とされるだけに、殆どの社会活動が、休止状態に陥る。情報収集に、休みは無い、とすれば、どちらの文化においても、収集のみならず、報道という形で、伝達することを、忘れてはならない、ということだが、まあ、それはそれとして、今の時代には、新聞が休刊日でも、何らかの形で、報道が続けられるから、何も止まることは無い、と見るべきかも、だ。まあ、それにしても、大衆媒体でも、画面を使って、伝えるものには、制作経費だけでなく、準備などの手間も、かなりかかるのだろう。一度、準備した番組編成を、変更したくない、気持ちも、わからなくもない。とはいえ、2年前の地震では、国内の出来事だけに、何処も彼処も、その報道ばかり、となっていて、それに対する批判が、囀りにも溢れていた。兎に角、気に入らねば、批判の発言を繰り返し、ああだこうだと、文句を書き並べる。見方次第で、様々に論じられるが、国際情勢などでは、評論家を集めることも、松の内では、難しいのかもだ。世界情勢、と言ってみても、所詮、他国間の遣り取りなら、静観しても、との判断もあり得るし、また、どんな言い訳が、出てくるかを、待ってみても、大差ないかも、と思う。何にでも、首を突っ込むのも、全てを、無視するのも、適当な加減が、必要なのではないか。
暴君が、暴挙に出たのか。それとも、正義の味方が、鉄槌を下ろしたのか。皆の反応は、3年前の軍事侵攻の、直後のように、様子見ではなく、まずは、国際法違反を、前面に押し出した。だが、それとて、正義の前では、霞んでしまいそうだ。冷戦期とは、全く違う展開なのか。
巨大勢力が、厳しく対立する中、ある意味では、何方に与するかを、表明しさえすれば、互いに、手を出せぬ状況が、続いてきた。しかし、勢力図に関しては、壁が崩壊した後も、大した変化が無く、その中で、こちらの隣国が、面積や人口だけでなく、経済的にも、大国の仲間入りをした、ことだけが、大きな違いだった。ただ、それにより、力の均衡は、以前に比べて、複雑な様相を、呈しており、何方に与するかだけでなく、その他の要素も含め、複雑な力関係の中で、それ程の力を、有さない国や地域は、巧く立ち回ることが、求められている。おそらく、今回、大統領が拉致された国も、その点では、強力な後ろ盾を、得たと思い込んでいた、のだろう。しかし、大国が、ちょっとその気になるだけで、こんな暴挙が可能となる、その状況には、全く変化が無い。ただ、一方で、例の軍事侵攻の際には、当初、様子見を続けた国々の、政府においては、所詮、抵抗は長く続かず、占領された後に、交渉を始めればいい、との判断があったようだ。しかし、結果は、大きな見込み違いで、拙い戦略で、侵攻の勢いを失い、結果的に、退却せざるを得なかった、軍事大国は、面目を失い、その後の長い戦いが、続くこととなった。それに比べ、大見得を切っていた、今回、拉致された大統領は、戦略的にも、軍事力的にも、見掛け倒しとなり、主を失った政府が、今後どう動くのかに、注目が集まる。とは言え、他国への侵攻は、決して許されるものではなく、交渉術を誇ったにせよ、この流れは、信頼さえも、失いかねぬ話となる。これでは、今年も、混迷続きになるのだろうか。
とはいえ、正論を書き綴られても、それは、単純に、耳が痛いだけで、迷惑千万、と思う人の方が、多いかも知れぬ。だからこそ、教育の場は、ただ煩いだけで、何の役にも立たぬ、と言われる訳で、別の見方からは、そんな場に居る人間も、同じ考えで、囀りに接するから、駄目なのだろう。
これは、その人間が駄目、という意味ではなく、こういった、囀りのような、議論の場が、成立する筈がない、という意味での、駄目ということだ。その結果として、誰かが、苦しんでいれば、そこから逃れる方法より、ただの慰めの方が、遥かに、有り難いもので、問題解決より、一時の救いの方が、遥かに大きく感じる、となる。そういう姿勢で、相互に慰め合い、同情や同意に、溢れる場こそが、今の時代に、必要とされるのだ、と言われたら、もう黙るしかない。だったら、勝手にしたら、ということなのだが、それが、社会が抱える問題の、解決には繋がらず、何の救いも、もたらさない、となるからこそ、面倒と思いつつも、しつこく、執拗に、書き続けるのだ。拒否されたり、拒絶された場合には、追い続けずに、そのまま放置となるが、遣り取りが続く限り、何らかの助言や指摘を、続けていくこととなる。それが、邪魔と思う人は、相手にせずとも良い。無理に追いかけて、説得するのは、教育の場の、本来の姿と思うが、それさえ、成立しない時代に、相手の顔も見えず、気持ちを表すことも、不可能となれば、致し方が無い。例の感染症騒動から、対面方式でなく、端末を通して、直接的な関わりを、排除することで、心の安定を得た人々が、多数派となってからは、こんな場こそが、役に立つと思われ、有用な情報が、交換される場として、評価が高まる。でも、と思うのは、こちらが、そんな世界から、排除された存在だから、当然のことだが、果たして、このまま進むことが、より良い世界を、築くことになるか、については、疑問を感じる。そんな気持ちで、この独り言も、最近の囀りでの投げかけも、行ってきたのだが、どうなのだろうか。
昨日のようなことを、書いてみても、所詮、社会媒体を賑やかす人々は、他人事に首を突っ込み、勝手な批判を繰り返し、実生活では、自分の周りのことしか、眼中にはなく、更には、自分の理解にしか、興味は無い。そんな輩を相手に、大真面目に、議論しても、無駄か。
となってしまうのが、関の山だろう。となれば、媒体の存在自体、無駄なものとなり、議論に至っては、身勝手な意見の、打つかり合いに過ぎず、時間の無駄、となってしまう。これが、仮想空間の話で、終わって仕舞えば、そんなものは、遊びの一種となり、時に、鬱憤晴らしで終わり、時に、罵り合いに終わる。相手を、言い負かせば、それで満足、という人々が、居座る空間が、果たして、どんな役に立つのか、取り上げるのさえ、無駄と思う人も、多いのではないか。特に、遣り取りの末に、痛手を負った心を、回復することが、叶わなくなった人には、忌み嫌うべき存在、となるだけであり、そんな人々への同情は、仕組み自体の破壊を、望む声に繋がる、ことさえある。だが、こんな状況は、人間社会を考える上で、百害あって一利なし、となりかねない。確かに、法律なりで、禁じて仕舞えば、それで済むことだが、本来の目的である、情報収集の場、という存在意義は、どうなるのか。種々雑多な人が居る世界で、こんな野放図な仕組みが、適切に自己管理される、可能性は皆無にも見え、皆が、その害悪に、晒されるとなれば、やはり、禁じるのが、唯一の手立て、となるのかもだが、果たして、それが、正しい答えと、言えるのだろうか。この所、せっせと、正論を書き記し、反応を眺めているが、都合のいい解釈で、罵倒し続ける、不埒な輩が、姿を現すかと思えば、ただ、漫然と、読み過ごすのみ、という人の数の、何と多いことか。所詮、その程度のもの、と解釈すれば、もっと気楽に、都合のいい情報を、手に入れられるのかも、なのだが。
実世界の課題は、解決されそうにない。と言うか、何が課題なのか、相変わらず、社会媒体では、議論する人がおり、混乱するばかり、とも見える。まあ、暇潰しの連中が、面白がって、横槍を入れる、だけのようだから、無駄な騒ぎ、と見るべきだろう。で、課題は、何か。
国際機関の長は、戦争を止めろ、と言ったらしいが、彼らの活動の原資は、何を元に、もたらされるのか。以前の、感染症騒動でも、機関の中の、保健に関わる部門の、長の発言が、他人事のように、響いていたことから、所詮、あの手の組織の、活動の意義は、分断の時代に、消え去りつつある。世界的な課題には、事欠かない時代、と見るべきだろうか。特に、分断が取り沙汰される中、一国の独裁者が、身勝手な解釈から、隣国への侵攻に、乗り出した所で、大国間の拮抗で、世界機関からは、何の提案も出されず、もうすぐ3年となる。この背景には、先の対戦後、新たな組織が、始められた時に、定められた大国の論理が、破綻を来しつつある、ことを表している。一方で、その馬鹿げた力比べ、とは全く異なる事情から、保健機関の為体も、顕在化している。世界的な、感染症騒動では、本来なら、専門家としての、助言が出される筈が、混乱の極みから、科学的にも、論理的にも、杜撰な結論しか、出されぬままに、各国の利己主義が、露呈することとなり、解決どころか、総括さえ、実施できぬ状況に、恥を晒すこととなった。戦後、80年を超え、平和な時代が、続いたように、見えていたが、現実には、その下での活動が、歪みを強めていた。力の均衡が、ある所で、保たれていたが、何処かで、崩れ始めた途端に、こんな事態に陥る。一方で、均衡だけに、期待する仕組みは、この状況では、機能しそうにない。一旦、御破算で願うのか、はたまた、小手先の誤魔化しで済ますのか、考える必要が、出てきそうな気配だ。この国は、その中で、どんな対応をするのか。
年が明けたが、何も変わっていない、ように見える。和平はすぐそこ、と豪語した大統領は、各紛争地域に対し、解決手段を、講じているように見えるが、得意とする、交渉事も、個別でさえ、解決できない状況に、関係国の落胆は、隠せない。その他にも、火種は、数多あるようだ。
とは言え、遠く離れた国では、日常の瑣末事に、煩い程、文句が並び、囀りなどの社会媒体は、賑やかさを見せている。ただ、質はどうか、と眺めれば、的外れな指摘や、歪曲した根拠、更には、飛躍ばかりの論理と、議論の場に、相応しくない、妄言の数々が、並べられる。少しは、ましな議論を、とばかりに、正論を投げてみるが、腐った考えに、群がる蠅どもには、何の影響も、及ぼしそうにない。愉快犯、と断じるのも、無駄としか思えず、まずは、正論を突きつけ、どんな反応が、返ってくるかと、静観するものの、僅かな反応が、出てくるだけで、炎上さえ、しそうにない。個人攻撃が、突き付けられれば、また違った反応が、起きるのだろうが、その手法は、相手に合わせた、愚かさの極みでしかなく、媒体自体の、腐敗を招くだけだろう。では、どうしたら、まともな情報交換、まともな議論が、この場でなされるのか。まだ、答えは、見えてこない。こういう場の典型は、嘗ての2チャンネル、と呼ばれた場だったが、そこでも、良識が感じられる、遣り取りが、見えたこともあった。と言っても、おそらく、大衆の目には、届かぬもので、荒れたとしても、展開次第で、耕されることもある、と見えたことも、全体としては、欠片にも、感じられぬ程の、ものだったに違いない。その傾向が、更に強まった、多くの社会媒体は、誰も、制動をかけぬまま、暴走が続けられる。にも拘らず、多くが、好んで参加するのは、何故なのか。その点に、目を向ける必要が、あるのかも知れぬ。自浄作用は、始まる気配もなく、外圧が、功を奏するとは、思えぬ状況で、さて、何が、効果を及ぼせるか。それとも、大衆文化とは、所詮、そんなものに過ぎぬ、と見るべきだろうか。年の初めから、何とも情けない話だが。
朝刊の見出しに目がいき、記事を読んでみた。内容は、確かに、見出し通りだが、さて、その財宝を、預けたのは誰か、その点が、全く書かれていない。最近の報道は、こういうのが多い、と文句を並べてみても、何の役にも立たず、それこそ、一部は、囀るのだろう。
仕方なく、検索してみたら、何と、情報源は、ひと月前の記事のようだ。それ自体も、驚きなのだが、それから、一ヶ月も経つというのに、記事の内容は、増えるどころか、減っている。そこに、書かれていたのは、恐らく、嘗て栄光を誇った、国を治めた名家の末裔が、先の大戦で、略奪を繰り返した、独裁国家の魔の手から、逃れようとした、結果のようだった。興味深いのは、その後、国の形も大きく変わり、名家は、既に没落したことで、誰が、その財宝の権利を、持つのか、ということさえ、議論されている、という話だ。そんなことは、決まっている、と思うのは、素人考えらしく、最近は、どの国も、その財宝が、見つかった場所とか、関わった人間が居るとか、その他様々な要因を、持ち出して、権利主張を繰り返す。まさに、大航海時代や、植民地支配の時代に、勝手に持ち出した財宝に、返還の要求が、出されているのだ。確かに、大元の権利は、その通りに、存在するのだろうが、その後の歴史を辿れば、場合によっては、失われたに違いない、と思えることの、何と多いことか。まさに、宗教の問題から、ごく最近でも、異教徒の仕業と称して、徹底破壊に、勤しんだ場所も、数え切れぬ程にある。そんな事情が、見え隠れする中、いざ、世紀の大発見となると、この騒動が、例の如く、起きる訳だ。下々の者にとり、どうでもいいことだが、さて、どんな解決が、図られるのか。というより、どんな落とし所を、見つけるのか、といった方が、適切かもだ。年の瀬に、そんなことを、わざわざ取り上げる程に、この国の報道も、暇を持て余している、のだろうな。これで、今年も最後です。お世話になりました。来年もよろしく。
皆が、どう思うかは、知る由も無いが、独り言は、毎日、せっせと、考えて書いている。当然ながら、機械の助けに、頼ることもなく、その時その時に、思いついたことを、ただ綴るのみだ。一部の人の如く、日々の業務や勉学に追われ、文章作成は、機械任せ、などとはならぬ。
でも、その人達を含め、一部には、機械に任せた方が、遥かに良い文章が、書けるのでは、との意見がある。確かに、その人達にとり、自分で書いたものより、遥かに読み易く、内容も豊かなものが、機械に問い掛ければ、一瞬の後に、出てくる。だったら、そちらの方が、遥かにましでは、と言いたくなるのだろう。だが、それは、その人の勝手に過ぎず、他人にまで、その便利さを、押し付けるものではない。更に、分かり易い文の方が、読み手にとっても、有り難いものでは、というお節介な意見さえ、突き付けられる。これこそが、迷惑千万であり、劣化の一途を、辿る人々の、戯言に過ぎない、と思っている。確かに、簡単に理解できる、ということは、効率を最優先にする、時代には、最重要と思えるのだろうが、これこそが、劣化を早める悪行の典型、としか思えぬ。一読では、理解できぬものを、そのまま、投げ出すのは、以ての外だが、その努力を、惜しむことで、自身の思考能力を、低下させるかも、という疑いさえ、挟めなくなる、そんな生き方にこそ、最大の問題がある。相互理解を含め、目の前にあることを、理解した上で、それへの対応を、考えることは、思考活動において、非常に重要なこと、と見るべきだろう。にも拘らず、ただ面倒と考え、分かり易さに、飛び付いた挙句、何か面倒なことは、すぐに投げ出すという、最近の風潮には、こんな人々の、安易な考えが、強く影響している。その手間を、面倒と考えず、様々な方向から、考えることにより、問題解決の手段を、多く思い付くことが、実は、重要なのだ。それを、安易に走り、無駄と投げ捨て、効率を追求する。その結果、誰も何も思い付かず、解決の糸口さえ、見出せなくなったら、どうするのか。文句を並べるのは、簡単だろうが、それは、解決には結び付かない。
騒動が、始まってから、2年程経過したか。人工知能の存在は、ずっと以前から、注目されていたが、その時、現れたのは、生成人工知能、と呼ばれるものだった。何も無い所から、何かを産み出す、という仕組みだが、あらゆるものの作成に、応用できるとの話だった。何故、騒動なのか。
幾つか理由があるが、まず、警戒が強まったのは、教育界だろう。それまで、児童生徒学生を、対象として、何をどう覚えたか、何をどう考えるか、を問うことが、教育の基本、とされてきたのが、この仕組みの登場で、本人に代わって、人工知能が、作り出したものが、提出される、と懸念されたのだ。当初は、人間の成長と同じく、見栄えのしない、一目でそれと分かる、程度のものだったのが、いつの間にか、人間が作成したものと、見分けが付かぬ、と言われる程まで、成長してきた。これでは、対象者の学力を、推し量ることが、できないと言われ、本人が作成したかを、識別する手立てを、求める動きが、高まった。ただ、この対応法は、明らかな間違いで、本来なら、提出文の内容から、誰が作成したかを、判断せねばならぬ。それが、できないことこそが、深刻な問題であり、教える側の資質が、問われると見做される。それは、以前から、様々な情報源から、単に書き写すのみで、提出されたものを、どう見分けるか、という点と同じで、剽窃などを、問題視する動きが、誤った方に、進められたのと、同じと思われる。質の向上が、著しく思われるに従い、他の場でも、問題視する動きが、高まっている。公や私に、無関係に、この仕組みを使って、作成した文書が、次々に、出現するに従い、果たして、この動きは、歓迎すべきか、それぞれの場で、議論が始められている。単純に、禁止すべき、と定めてみても、安易に、代行に頼む人々は、ばれなければ、と身勝手な行動に出る。それを妨げるには、どうすればいいのか、戸惑う所だろう。でも、ここでも、同じ水準で、判断するしか、手立ては無い。要するに、人間の見破る力が、測られているのだ。さて、どうする。
不埒な連中は、一時の鬱憤晴らしで、満足するのだろうか。それとも、執着心で、何時迄も、相手を追い続けるのか。囀りでの騒ぎから、巷では、後者を思い浮かべるようだが、現実には、ほんの一握りに、過ぎないだろう。理由は様々だが、所詮、反射的な反応で、深い考えなど無いのだろう。
だから、此処に、少し位書いても、何も起きないのでは、と思っている。ただ、時には、別の心持ちの、不埒な連中が、居るかも知れず、油断大敵かもだ。江戸の仇を、という八つ当たり、ではないものの、筋立てして、論理で遣り取りしたい、と思う。それにしても、知らないことを、書かれたら、それだけで、差別だの、馬鹿にされただの、との大騒ぎが始まり、考えても、思いつかないと、腹を立てて、罵倒の言葉を並べる。何時頃から、こんなことが、始まったのか、と言えば、おそらく、ネット上の掲示板が、始まった頃、という見方を、したくなる。そこにあるのは、面と向かっての文句から、匿名という形で、自分の姿を隠し、互いに見えぬ相手に、どれ程の罵声を、浴びせられるかを、競っている、という絵だろうか。一部には、無駄なこと、取るに足りぬ、塵だらけ、などと揶揄する、声があるが、それにより、心を蝕まれる人が、出てくる事態には、何らかの措置、を望む声がある。だが、こんな連中は、決して居なくならず、却って、逆効果となる、場合も少なくない。はじめに書いた、後者の方も、実は、愉快に思う連中が、次々に、襲いかかってきて、結果として、何時迄も、追い続けるように、見えることが、遥かに多く、それで、悩まされるのは、やめておいた方が、いいのだろう。特に、囀りなどの仕組みでは、嘗ての記事が、どこかに残り、それを掘り出して、何度も晒すことも、愉快の根源となる。匿名なら、自分に戻ることは、決してない、とする人々は、都合が悪くなれば、そんな姿を消し去り、別の存在に、すりかわる。何とも、無駄な仕組みだが、それに頼る人も居て、何かの役に、立つのかも、とさえ思える。暫くは、相手をしてみよう、と思う。
案の定、と思う。ある国の王が、国民に向けて送る、恒例の発言で、「多様性の中の結束」を、訴えたとある。それに対して、無関係な国の、下々の者が、この発言が、国を滅ぼす、とまで書き連ねる。自由な発言の場、であることは、保証されるが、といって、これはと思う。
この国も、前回の選挙から、外国人排斥や、異端の人々の排除、などが、声高に、主張され始めた。今の歪みを、眺めれば、当然の意見、とも言える。だが、その論旨は、脆弱な根拠と、捻じ曲がった論理に、満ち溢れており、多くは、自分に戻り、自滅への道を、驀地、となりそうに見える。排他主義、という言葉が、何を意味するのかは、定かではないが、それこそが、愛国主義の典型、と信じ込む人々には、何の違和感も無く、妥当な意見、と見えるようだ。上に立つ人間が、どんな意図で、発言したかについて、思いを巡らす気配は、全く無く、ただ、自分の考えと、違うものへの、反射反応として、書き殴るに過ぎない。取るに足りない、と捨て置けばいい、と言われてきたが、現状は、その方が、多数派を占め、発言権も、絶大となる。社会媒体では、そんな極端な意見に、賛同する者が、多数を占める、とさえ思える現状だが、無言の多数派は、表に現れることが、決してない。この勢いは、戦争へと突入した、あの時代の風潮を、思い起こさせるが、当時、権力に与することを、選んだ報道は、今では、権力の犬だったり、陰謀の主だったりして、社会媒体に、巣食う人々からは、唾棄すべき存在や、無視すべき者、として扱われ、本来、あるべき筈の、制動力は、微塵も感じられない。そこに至る道筋を、思い起こせば、自業自得でしかなく、更に、状況を、悪くするのは、どちらの媒体も、自浄作用が、働くように、見えないことだ。多勢に無勢だったり、付ける薬がなかったりと、救いようの無さを、見る材料には、困らぬが、反対のものは、見えてこない。こんな独り言に、その力は無いだけに。
社会媒体が、存在感を強める中、多様性という言葉は、難しい立場に、追い込まれている、ようにも見える。確かに、社会には、多様な意見が、あるべきだろうし、弱者は、保護されるべきだろう。だが、それによって、何かしらの害を被ると、手にした端末から、過激な意見を送る。
それが、すぐに、大きな影響を及ぼす、とは言えないだろう。だが、海の向こうの暴君が、盛んに、偏った意見を、送るようになってから、そんな勢いが、急速に増している。他人の為に、という社会活動は、自分を殺してでも、行うべきなどと、言う人は居ないが、でも、何となく、我慢しながら、同調してきた、という人は、確かに居るだろう。そんな不平不満が、心の何処かにある中、国の頂点に立った人間が、そんな気遣いを、見せることなく、平気で、極端な意見を、掲げていく。偉い人でも、という思いや、彼こそが、国の救世主だ、と信じることが、そういった動きを、強めてきたように思う。そこで、勢いを増すのは、所謂、同調圧力であり、同じ考えへの、賛同こそが、力という考えだろう。自分達は、恵まれぬ環境に、追い込まれており、その不平不満を、吐き出したいという、思いに駆られる中、言いたいことを、言えばいいという、そんな考えが、何の問題も、生じないばかりか、大きな賛同を得て、頂点に立つことさえ、可能となる、となれば、誰もが、自分中心の考えで、反対者を罵倒し、同意を得れば、尚一層、勢いを増す、との連鎖が起きる。普段の生活では、大人しく、余計なことも、言わない人間が、端末からは、過激な意見を並べ、同意を得て、満足する。こんなことの為に、媒体が作られた訳では、決してないが、今の状況は、そんな印象にある。様々な意見は、無駄なもので、自分の意見こそが、重要との考えは、多様性には、結び付きそうにない。でも、今の、幼い心の参加者達は、そんな考えを、無駄と断じて、自己満足に走る。言い過ぎを、承知で書くが、そうでないと、言い切れるだろうか。
慰め合い、と言ったら、過ぎるだろうか。囀りをはじめとした、社会媒体の有用性で、確かに、情報収集は、最大の要因に、違いないが、実は、多くが、全く別の目的で、書き込んでいるらしい。実生活で、辛い経験をした、とか、厳しい叱責を受けた、とか、そんな時に。
その状況を、書き綴ることで、誰かから、慰めて貰うのを、待つのだ。そんなことを、書いた途端に、弱り目に祟り目、泣き面に蜂、の如くに、罵声を浴びせる書き込みが、急増するに違いない、という反論が来そうだ。ただ、この仕組みの便利な所は、と言っても、こういう使い方にとっての、便利さにすぎないが、登録した者同士の、秘密会を、設けることができることだ。これにより、味方以外には、読みもできず、書きもできず、何の心配も要らず、となる。でも、と思う人が多いだろう。それは、情報交換であれば、門戸を広げ、不特定多数からの、情報を、待つ方がいいからだ。でも、傷付きたくない、とか、突き落とされたくない、とか、そんなことを、考える人の方が、遥かに多いのだろう。先日も、少し意見を書いたら、途端に、戸を閉じてしまった。居心地のいい所に、留まりたい、という気持ちが、優先され、その上、耐えたり、堪えたり、といった苦行は、真っ平御免となる。まあ、勝手にしたら、と思うのだが、そうでないと、壊れてしまう、脆い心の、持ち主が増え、そんな人々が、自分は当然だが、相手も傷付けぬよう、慎重な書き込みを、心掛けている。それが、自分の心を、蝕むことへと、繋がりかねない、などとは、考えもしないのだろう。強さは、手に入らぬもので、弱さこそが、武器となる、と信じているのか、理解不能に陥る。社会全体に、そんな風潮が、高まるばかりで、正しい意見は、相手を傷付けるもの、と断じられるし、その発言者は、犯罪者の如く、扱われることさえある。このままでは、自己崩壊へと、向かうのではないか、と思うこと頻りだが、当事者達は、何処吹く風とばかり、自分だけは、となるようだ。触らぬ神に、とすべきだろうか。