批判的に捉えよ、論理的に考えよ、そんなことを、事例を挙げながら、書いてきたが、さて、最近の変化には、どう対応すべきか。生成人工知能が、登場して以来、皆の戸惑いは、大きくなるばかりだが、少し落ち着いてきたか、と思えるのは、使いようの話題に、移りつつあるからだ。
だが、そうは言っても、何でも鵜呑みにし、心配や不安を、口にしていれば、それで安心という、馬鹿げた考えが、社会を満たす以上、ちょっとやそっとでは、何も変わらないのでは、と思えてくる。先日も、囀りの動向を、検索によって、眺めていたら、呆れる話題が、続々と、寄せられていた。社会媒体では、大衆媒体を、批判したり、馬鹿にしたり、ということが、続いているが、それも、偽情報満載と、自分に不都合な情報を、流す大衆媒体を、偽物や塵の如く、批判し続ける、海の向こうの餓鬼大将を、真似するだけでは、と思えるものばかりだ。今回の話題は、通信社として、この国で、二大と評される、ものの一つが、ある調査結果を発表し、懸念を伝えたからだが、あそこは、これまでにも、大誤報を、流したことや、情報操作を、繰り返したことで、批判されており、今回のも、その見方からすれば、恣意的なもので、中身の詳細を、確かめよう、という気さえ、起きなかったものだ。高校生が、勉強に苦しむ姿は、悲観的な筋書きに、格好の話題だろうが、逃避心理の表れを、将来役に立たない、という言い訳で、表現させて、何の意味があるのか。囀りでは、躍起になって、否定する意見や、批判的な意見が、連なっていたが、そんなことを、すること自体、単なる時間の無駄、とさえ思える。嘗て、ある小説家が、理科ではなく、数学の無意味さを、訴えた時に、その夫君が、国の役所の委員を、任じられていたことから、それを伝え、ゆとり教育への、流れに乗って、愚かな変更が、断行されたのは、その愚かさから、今でも記憶される所だが、似たり寄ったり、と思える話だろう。特に、今の教育現場では、役に立つか否かが、最重要かの如く、扱われているようで、その反映だろうが、にしても、馬鹿げた話に過ぎず、鬼の首を取ったよう、という通信社の姿に、流石に、理系が、冷遇される業界だ、とさえ思えてくる。躍起になって、相手をする、価値さえ見出せず、こんな所に、書くくらいのものだが、役に立たぬのは、そんな話題に関わる人間かも、とさえ思えてくる。
前にも、少し書いた気もするが、今の社会情勢について、体制への不満が、蓄積することで、現状打破の動きが、高まっていると言われ、その中で、海の向こうの大統領は、返り咲きを果たし、多くの無名候補が、突如として、人気を集め、時に、その勢いのままに、権力を握る、と言われる。
だが、その多くのなりの果ては、馬脚を現し、魅力的と言われた、政策提言の数々は、雲散霧消する。確かに、現状を批判し、今とは異なる、提案の数々は、表面的には、魅力的と映る。だが、政は、単純でも、簡単でも、決してない。実際には、政に限らず、物事の殆どは、裏と表、右と左、正と負、正反対なものが、入り混じったものであり、それが、天秤に載せられ、一種の均衡が保たれる中、その状態が生まれる。だから、少しでも、均衡が崩れると、別の所に、新たな問題が生じ、それに取り組む為に、また別のことが、という連鎖が生まれる。ごく当然のことだが、不安と心配に、苛まれた人々や、弱者を装う人々は、何かが手に入る、と言われると、すぐにそれに飛び付く。税金の話は、その典型であり、収支が、保たれる中で、公共的な仕組みが、運営されることに、気付かぬ人々の、不平不満は、歪曲されたものに過ぎず、手を差し伸べる必要は、全く無いと思える。だが、この勢いに、乗っかって登場した人間は、結局は、私利私欲に満ちた、自己満足だけの政を、行うだけとなる。更に、この状況を、悪化させるのは、この類の輩は、政敵を追い落とす為に、犯罪紛いのことも、厭わない点だろう。件の大統領は、何度も、対抗馬を、犯罪者呼ばわりし、「逮捕せよ」とまで、言い募ってきた。その一方で、自らが行った犯罪には、言い逃れを連ね、保身に走る。規模が違うものの、こちらのある政党の党首は、まさに、その小型版と思える。多くの制度が、性善説に立ち、悪意に満ちた行為は、恥を知る人間なら、行う筈がない、との前提が、否定された時、懲罰による排除は、実行され難い。このこと自体、社会秩序の維持、という観点から、道徳的、倫理的な感覚が、通用しない人間には、為す術無し、となるのも、やむを得ないことだが、にしても、と思う。その上で、あんな狂人じみた輩を、支持する人間が、居ること自体に、現代社会の病の重さを、痛感させられる。
昨日の朝、いつも通りに移動していると、暫く前から建っていた、掲示板に、候補者のポスターが、貼り出されていた。帰りに、同じ道を通って、車窓から眺めると、他の掲示板には無かった、新しいポスターが、目立つ黄色で、加わっていた。そこには、党首の名が、でかでかと。
告示日当日に、貼り出されるのは、当然のことだが、首都では、多過ぎる立候補者数に、追加で建てられた掲示板に、空きが目立つのが、何度か報じられた。それが、いつの間にか、別のものが貼られて、話題になったのも、ついこの間のことだ。いつから、選挙が、遊びの一つとなったのか、と呆れるばかりだが、大真面目に、商売の如く、扱う人が出ているらしい。で、帰ってから、夕方のニュースを、ある意味真剣に、眺めていたのだが、その報道は、全く無く、今朝の新聞を見て、やっと、理解できた。あの党からの候補者は、党首ではなく、別の無名の人物だった。だとしたら、あのポスターは何か。選挙は、様々な制限が課せられ、使える道具も、配布するものやポスターの内容も、公序良俗に反しないか、点検される、と聞いていたのだが、この所の選挙では、まさに、違反するとしか、思えないものが、公共の場で、晒されている、と聞く。これもまた、その一つだろうが、それにしても、こんな暴挙が、罷り通るような国に、成り下がったのだろうか。様々な規則は、関係する人々が、守るのは当然で、敢えて、注意を促さずとも、誰もが、当然のこととして、守る筈のもの、との常識は、あの犯罪者紛いの政治家だけでなく、多くの人々に、通用する筈だったのだが、今や、そんな常識は、何処かに、打ち捨てられたのだろう。政治家の非常識を、今更、取り上げたとしても、何の役にも立たず、時間の無駄、なのかも知れぬが、社会媒体をはじめとして、非常識が、公然と貼り出され、反論にさえ、一切構わずに、過ちを繰り返す、そんな社会の状況では、自分達で、浄化しようとしても、成り立たぬのかも。こうなれば、公民権の剥奪など、あらゆる手段を講じて、これらの反社会的人間を、片付ける必要がありそうだ。
株式相場は、今と近い将来の、経済状況を、反映すると言われる。でも、と思う人が、多いのではないか。最近の相場の動きには、経済状況とは、全く関係の無い要因が、強く影響している、と思われるからだ。それは何か、という話の前に、別の要因の話から、始めたい。
嘗て、場立ちで、売買が行われていた時とは、全く異なる、売買方式が、今では、殆どとなっている。機械が関与し始め、その制御にも、機械的なものが、主流となり始めると、一瞬の差の遅れが、莫大な損失を招く、などと言われるようになり、方式の整備が、急速に進んだ。その結果、予め定められた、売買の基準に従い、機械は、指示通りの動作を、繰り返す。ところが、この方式では、一度動き始めた、勢いは、加速度的に、その動きを増し、買いは買いを呼び、売りは売りを呼ぶ、という結果が頻出することとなった。遅れによる損失は、確かに、素早い反応から、避けられるようになったが、人間の判断より、素早く動く方式では、人間が、勢いを止めることは、不可能となった。ここで、重要となるのは、設定した基準の問題も、確かに当てはまるが、以前から問題視されてきた、心理的な動きが、制御不能となる、という点だったのだろう。改善は、確かに、図られつつあるが、現実には、この手のことは、殆ど変化が起きておらず、今後、更に問題が大きくなるのでは、と思われている。その理由の一つが、海の向こうの妄言癖の影響だ。あらゆることに、発言を繰り返すが、前言撤回は、日常茶飯事であり、正反対の予言にも似た、爆弾発言を、繰り返すことで、注目を浴びるのも、彼の性癖の一つだろう。だが、市場は、日々の発言に、右往左往しており、経済状況とは無関係な、迷走を繰り返している。流石に、三つの指標が、全て下落した時には、その責任を、追及されるとの恐れからか、撤回を余儀なくされたが、そんなことで、懲りる人間では、決して無く。責任転嫁を繰り返し、自らの責任については、一切触れようとしない姿勢は、保たれたままだ。利益追求の結果としての、売買行動なのだろうが、そろそろ、相手にするのを、止めた方がいい。でないと、彼奴らが、濡れ手に粟と、なるだけだろうから。
世の中、理不尽なことも、理解不能なことも、山のようにある。なのに、人々は、手にした端末から、世界に向けて、不平不満を発信し、それで、満足しているらしい。でも、そんなことでは、何も変わらず、何の意味もない、と思うのだが、どうか。まあ、ここもその一つだろうが。
最近の話題の中でも、最も理解に苦しむのは、海の向こうの暴君が、大好きな言葉、と断言した、関税の話だろう。不公平な貿易を、解消させようと、大きな板に、表を貼り付けて、仰々しく発表した内容に、世界が驚いたのは、就任後まもなくのことだった。小学生にもわかる、という算出のための数式について、あの程度の知能の人に、何を言っても始まらず、また、自己中心的な考えにおいて、損を解消する為には、その分に見合う税金を、設定すればいい、という解決策は、古くから、使い古された手法の一つだ。ただ、その宣告から、こちらでは、大騒動が続いている。まるで、商売が、成り立たなくなる、とでも言いたげに、悲鳴にも似た要望が、多くの企業から届き、既に、崖っぷちに追い込まれていた、政府も、盛んに活動し始め、あちらの高官と、会合を重ねているようだ。でも、理解に苦しむのは、関税がかかると、何が問題なのか、という点である。税関によれば、関税の支払いは、輸入者が行い、輸出する国にも企業にも、更なる経費は、生じない。なのに、この騒ぎは、想像するに、あちらでの販売価格に、関税分を上乗せせずに、今と同じ価格で売るなら、出荷の時点で、値下げを強いられる、という話になる、ということだろう。でも、何故、そんなことをせねば、ならないのだろう。売れなくなるから、と叫ぶ人が居るが、本当に必要なら、25%上がっても、買うのでは、と思う。その上、あちらの仕組みで、その分、税金や他の、国に納めるものを、減らす形で、還元すれば、問題無しとなる。所詮、その程度のまやかしに、これ程に、騒ぐことには、解せないというより、馬鹿げているとしか、思えてこない。その他の疑問についても、せっせと答えているようなので、こちらも参考にしては、と思う。
社会媒体にせよ、大衆媒体にせよ、毎日毎日、下らない話題ばかりで、情報社会とは、こんなものか、と思う人が多いのではないか。いや、肝心な情報は、塵の山の中に、埋まっている訳で、それを掘り出すには、まず、塵をかき分けねば、ならないのだ、と言われそうだが。
米騒動も、そろそろ、どうでもいい話に、なり始めたようだ。備蓄米の放出が、大臣の交代から、一気に勢いを増し、それによって、市場に、米が戻り始めると、ついこの間まで、姿を消していた、銘柄米と呼ばれるものまで、店頭に並び始めた。と言っても、価格は相変わらずで、何としてでも、利鞘を稼ごうと、躍起になっているようだ。それにしても、ある政党代表が、備蓄米、特に古いものを、家畜の餌と発言し、撤回した話は、あの手の輩の、無能さを、露呈することになった。何しろ、毎日、美味い美味いと言いながら、食べている豚の飼料は、その多くが、食べ残しのもので、新鮮なものも、食卓から戻れば、餌と化すのだ。その意味で、何の知恵も無い、妄言の典型、と思える話だ。さて、これ程までに、不足しているなら、とばかりに、交渉ならぬ、脅迫じみた調子で、海の向こうの大統領は、自国生産米を、買えと言い始めた。半世紀近くに、食べたことのある銘柄で、確かに、炊き立ての味は、こちらの、所謂短粒米と、同程度と思える、食味だったのだが、如何せん、中粒米の特徴は、冷えた時に、現れるとのことで、お握りにしたら、がっかりさせられた。その話は、全く出てこず、ただ、安いものを掴め、との話に、乗せられるのは、とも思えるが、そう言えば、備蓄米の食味の話は、その後、殆ど触れられなくなり、どうでも良くなったのか。この国では、大多数が、意見を出さぬのは、ある意味当然であり、一方で、これ程多くの、備蓄米、それも数年前に、収穫されたものが、出回り始めても、当初、専門家と称する、評論家達が、盛んに、味の違いを、訴えていた話が、聞かれなくなったのは、何故なのか、いつもながら、不思議なものだ。新米の美味さ、を訴える人が、多いのは知っているが、こちらは、それ程の違いを、感じることもなく、いつもながらの美味さ、と思うだけだから、まあ、その程度のものだろう。どうでもいい話、と言ってしまえば、まさに、そうなのだ。
隣の大国に関して、少し思う所を、書き加えておく。こんなことをすると、今度、あの国に旅行したら、逮捕されそうだけど、多分、そんなことは、起きそうにない。彼らの小心ぶりは、大袈裟な表現にも、表れており、例えば、何千年とかの主張も、その一つと考えられる。
何しろ、その長い歴史の中で、何度となく、国の治世が変わり、前の歴史を、完全否定することが、度々行われた。その中で、歴史を誇る態度には、二重の基準が、如実に現れている。一方で、こちらは、どうだろうか。実態がどうかには、触れぬことにして、少なくとも、国を治める仕組みに、大きな変化は、長い期間、起きておらず、君主の家系も、保たれてきた。それが、理由の一つかも、と思うこともあるが、多くの人々は、そんなことを意識せずに、ある程度の誇りを、抱いていることから、随分の違いを、感じるものだ。その上で、今の国になってからの、隣の変化を眺めると、自信の無さに、時に襲われて、無謀な政策に走った、歴史が見えてくる。あの、革命と呼ばれた、前史の否定と、時の支配者以外の、地位の高い人物の排斥は、まさに、そんな心の動きの、表れだろうし、そんな危機が、再び訪れたのが、あの広場での事件だった、と思う。特に、二つ目の事件では、前の支配者から、粛清された人物が、復活を遂げた後に、起きたこととして、あの国の人々が、抱える問題の大きさを、表していると思える。その上で、これらの事件を、二つ共、経験した人物が、規定以上に長く、治世を続けようとする、今の状況は、まさに、三度目の正直の如く、同じ心持ちが、表面化しそうな気配を、感じさせるものだ。大人を装う態度には、心理の裏返しが、見え隠れしており、これまでも、そして、これからも、何が起きても、不思議はないと思える。同様に、今、侵攻や紛争に、関わる他の二つの大国も、暴君にも似た、人物達が頂点に立ち、力を誇示している。どうするのが、適切なのかは、誰にも分からないが、はじめの国を除けば、国民の総意が、反映される仕組みであり、少しはましなのかも知れぬ。
海の向こうの暴君は、その非常識ぶりを、発揮し続けている。前言撤回は、当然の如くであり、過ちを犯しても、他人や他国の責任を、追及することで済ませる。その背景には、経済大国、軍事大国としての、国の指導者たる、誇りがある、と信じるのか、はたまた、単なる驕りなのか。
でも、と思うのは、隣の大国の状況を、見るにつけてである。何千年か知らぬが、長い歴史を誇示し、それが、自らの能力を、高めている、とでも言いたげに、繰り返す姿には、一種の誇りがある、と思う人もいるが、その一方で、相手の国名に、「小」の文字をくっ付けて、蔑もうとする、心持ちには、余裕は全く感じられず、どちらが小心者なのか、と思えるのだ。このことを、実感させる出来事は、数え切れぬ程に、転がっているが、瑣末なこととして、紹介したいのは、片田舎にある、絶滅危惧種の、繁殖成果で、世界に誇れる施設からの、その動物一家の引き上げ、だろう。確かに、契約上のことで、それが、終わったからという、理由があるものの、その裏には、あの国の、度量の狭さが、表れている、とさえ思える。子供の数で、世界一と言われた、オスに関しては、帰国後すぐに、寿命を全うした。次に、一家あげての帰国、と言っても、彼らは全て、こちらで生まれたのであり、帰るとの表現は、当てはまらぬのでは、と思えるが、それが起きたのも、自国の繁殖施設を、上回る成果を、上げた者達への、妬みややっかみか、とさえ思える。確かに、世界の動きに合わせ、希少動物の保護に、国を挙げて乗り出したのは、事実であり、他国への貸与も、その一環として、続いている。だが、全てを知る、と自慢したいのに、それを否定されたような、そんな成果は、目の上のたん瘤、そのものではないか。これ幸いに、契約終了を告げ、皆を、取り戻すのは、我を通すようで、実は、誇りを傷つけられ、それを、取り戻す為、とさえ思える。それこそが、自信の無さの表れ、であり、度量の狭さが、表れたのでは、と思うのだ。こちらを挟んで、あっちと向こうで、同じ心持ちの人間が、我流を押し通す、他国にとり、横車を押されるのは、面倒でしかない。
生活保護は、困窮した人々が、最低限の生活を、続ける為の、社会保障の一つ、と言われている。物価の上昇が無くなり、収入も増えない時代、横並びの感覚では、支給額が減るのも、当然のこと、との役所の判断が、行き過ぎとの判決が、昨日出たらしい。どう感じただろう。
もう一つ、今月読んだ本を、紹介したい。社会保障に関する、問題を紹介したもので、中でも、生活保護に関して、何故、多くの人々が、明日の食べ物さえ、手に入れられぬ程に、困窮を極めてもなお、保護の申請を行わないのか、という問題を、提起していた。帯には、「働かざる者食うべからず」とあり、この国に巣食う精神、などと謳っているが、社会媒体が、世の中を席巻し、自分達の主張が、全て正しい、と信じる人々が、弱者保護どころか、弱者の名を騙り、社会の恩恵に浴すことで、私服を肥やしている、との主張が、罷り通る国が、如何に異常なのかを、訴えるものとなっている。ただ、中にある主張の数々には、諸手を挙げて賛成、とは行かぬものが多く、確かに、生活に困ったり、介護などの負荷に、押し潰されそうになったり、そんな人々が、最低限の生活を、続けられない社会構造に、改革を求める気持ちは、解らなくもないが、一方で、仕組みの不備を、指摘する意見には、かなり強い偏りと、仕組みへの理解不足が、強く感じられて、これらの社会問題を、取り上げる人々が、今抱えている、大きな課題を、実感させられた。著者が、強く主張した、国民年金のみと、厚生年金を加えたものとの、国民の区別に関しても、成立の過程から、反対しきれず、全面的な改正が、望めないという現状に対し、提案が出せないままでは、何の為の本なのか、と思えてしまう。強制的な加入を、条件とする仕組みでは、当然の結論だが、一方で、任意保険の如く、別立ての年金を、提案してもいいのでは、と思えてくる。国頼みを、当然とする社会制度では、こんな展開が当然だが、真に、保身に走るのなら、自分なりの設計を、試みる必要を、訴えかけてもいい、と思う。
敬語が使えない。若者向けの言葉、と思う人も多いが、本当にそうか。どうも、怪しげな言い様に、首を傾げることが、増えている、ような気がする。まあ、政治家が、何を言っているのか、解らない、という話は、昔からあったものの、馬鹿丁寧な話ぶりに、呆れることも。
で、そんな大人達を、普段から見ているからか、子供達の言葉も、大いに乱れている、と見る。それも、敬語という、立場の違いを意識して、使われるべき言葉だけでなく、何か別のことに対して、気になることが多くある。本人が、何を意識して、話しているのか、それ自体が、定かでないだけに、周囲も、注意のしようがない、のかもしれないが。例えば、議論をする場で、自分の意見を、紹介する機会を得て、さて、話し始めてみると、何が主張したいのか、全く見えてこない。原因は、ある意味、はっきりしている。賛成や反対を、主張する場面で、「間違っているかも」、とか、「理解できていないかも」、とか、言い訳じみた言い様が、前置きとして、延々と続けられるのだ。で、肝心の本論は、どうだろうか。さて、賛成だったのか、反対だったのか。結局、よくわからなかった、となる。そんな議論が、続けられるのを見て、こちらは、苛苛してくる。はっきりせよ、と言いたくなるが、どうすれば、とも思う。彼らにとり、態度を明確にするには、賛成にせよ、反対にせよ、はっきり言わねばならず、その為には、時に、厳しく聞こえる言い様を、せねばならなくなる。そうすると、周囲の皆から、嫌がられるとか、喧嘩腰なのかとか、そんな受け取り方を、されるのでは、と心配になるらしい。でも、話の真意が、伝わらなければ、議論は、始めようがなくなる。もしかしたら、それこそが、この国で、議論が嫌われる理由なのか、と思ったりもするが、どうも変だな、とさえ思う。政治家に、話を戻せば、何事も、直截に話す人は、確かに嫌われている。上から目線とか、傲慢とか、批判ばかりだ。でも、だからこそ、議論は進む、と見るべきではないか。敬語云々は、確かにあるが、それ以前に、言うべきことは何か、気にした方がいい、と思う。これからの人生の為にも。
身近な所から、手が届く範囲から、始めてはどうか、と書いてみた。ある意味、楽観的な捉え方だが、今、社会に蔓延する、不安や心配の濃い霧から、抜け出す為には、重要なことと思う。何故、こんな考え方に、固執するのか、とか、拘るのか、とか、言いたいのだが、どうか。
一つには、情報の流れが、大きな影響を、及ぼしている。それを、専ら、司ってきた、報道と呼ばれる輩が、耳目を集めたいのか、あるいは、注目を浴びたいのか、真意は計りかねるが、兎に角、そんな動きに、精を出し続けており、その結果として、多くの人々が、不安や心配を、口にすることで、他と同じという感覚を、抱くことが出来、他人と同じとか、同調しているとか、そんな安心感が、得られるという話だ。不安や心配が、安心に繋がるとは、何と皮肉なことか、と思うのは、こちらが、世の通性とは異なる、異常な感覚を有する、ということだろうが、どちらが、異常なのか、とさえ思えてくる。その上、不安や心配が、中心となる場合に、それを解消する為の手立ては、講じる必要はなく、決して、解決に導いてはならぬ、とさえ言われるのだから、何のことか、と思えてくる。普通の感覚、などという括りは、こんな状況では、使える筈のないもので、皆と同じという感覚、でしかないのだろう。それが、普通なのか、異常なのか、本人達には、問題とはならず、横並びこそ、全てとなる、という考え方だ。これが、特に、若い世代に、顕著となってきたが、そんな世代が、齢を重ねるに従い、こちらでも、高齢化が顕著となり、結果、ほぼ全ての世代に、蔓延しているように見える。恐ろしい伝染病の如く、こんな病が蔓延する世界に、どんな未来が待つのか、誰にも見えてこない。その代わり、皆で、不安や心配を、叫んでいれば、安心ということなので、もう、それでいい、となるのだろう。馬鹿げている、と思うが、そんなことを書いても、そんな連中には、届く筈もないのだ。
若い人が、ここを読みに来れば、昨日の話題など、何か感じる所が、あったのでは、と思う。でも、逆に、社会に出るという不安ではなく、社会で活躍した、という経験を済ませ、今、別のことを考える人には、どんな響き方を、しただろうか。人それぞれ、には違いないのだが。
成る程、と思ってくれれば、それでいいと思う。もっと早く、そういうことを、知りたかった、と思う人も居れば、そんなに簡単では、と思う人も居るだろう。でも、何れにしても、済ませた人々にとっては、どうということもなく、何か新しい刺激となった、とはいかないだろう。他人事でしかなく、それを、自分事として、考えられたとしても、大勢に影響は無い、今更、何かを身に付けても、それが、今後の人生に、新たな刺激となる、とは思い難いからだろう。でも、こういう話をきっかけに、誰か、周囲の若い人に、接する機会を見つけ、一言二言、会話を交わせたら、と思う人が、居るのかも知れぬ。ただ、気を付けねば、と思うのは、こういう時に限って、相手の為と、思って話したことが、却って、逆効果となり、反発を招くことが、多いのも困りものだ。確かに、こうしたら、とか、ああしたら、とか、そんな助言を、与えられても、素直には応じられず、反発しただけという、経験を持つ人も多い。本当に、必要なものは、必要になった時にしか、役立たないもので、予め、備えておく、などという話も、すぐには、飲み込めないものだ。でも、その場ですぐ、は無理だとしても、後から、思い出すと、という場合もあり、そんな経験を、何度かしてみると、何となく、分かり始めることも、あるのだろう。ただ、時間の無駄、としか言えぬ場合も、沢山あるから、すぐに始めよう、とはいかないのも事実。さて、どうしたものか。まあ、何でもいいから、手近な所から、始めてはどうだろうか。老若男女、無関係に、そんなものだろう。
社会に出てから、役立つ能力とは、何だろうか。十数年前に、政府が、その育成を、大学に任せようとする、動きが始まった。就業力と呼ばれる、その力とは何か、そんなものに、答えがある筈もなく、現場は、混乱したようだが、それ以上に、混乱した所があった。
それは、言い出しっぺの、政府だった。時に、大衆の不満が鬱積し、大衆の力として、選挙での投票行動に、大きな変化が起き、結果として、政権交代が、なされたのだ。新政権は、国家の財政が、逼迫するのは、予算削減が、十分に行われておらず、その結果として、赤字国債の発行などで、一時凌ぎを繰り返すのは、誤った政治と断じ、自ら乗り出して、各省庁の予算の吟味を、行ったと言われる。一番じゃないと、と言い出した、あの女性政治家は、今は、静かにしているようだが、あれに代表されるように、多くの事業に対して、縮小あるいは廃止が、提案されたとされる。結果、就業力の事業は、たった一年で、木っ端微塵に砕かれ、現場の混乱は、極限に達したと言われる。しかし、世間で、必要とされる力を、社会に出る人々が、身に付けねば、何も始まらず、まして、入社後の研修を、多くの企業が、廃止か縮小してしまった後では、頼る所は、最高学府しかない。若手の経営者が、訳知り顔で、無用説を展開したが、経験不足を露呈するだけで、結局、その後も、即戦力を欲する動きは、無くならなかった。結局は、どんな力かを、見定めることなく、何をどうしたらいいのか、傾向と対策に、精を出してきた若者に、何の手立ても、思いつかず、そのまま放置、となったようだ。ただ、一部の大学では、入学後の対応力に、懸念を抱いており、結局、「大学の歩き方」のような、入門編の講義が、準備され始めた。では、就業力は、どうなのか。結果論としては、おそらく、入学後に必要となるものの、大部分が、所謂就業力と、重なり合うようで、まずは、大学での学習で、十分な成果を上げられるよう、働きかけることや、必要となる能力を、明示することから、始められたようだ。さて、それから、十年ほどが経過するが、何か変化はあったろうか。何方の現場も、混乱したままなのだろうか。
選挙がある度に、大衆の力に、注目が集まる。確かに、投票行為は、ほぼ唯一の参加方法であり、その結果が、市町村、都道府県、そして国の、行く末を決める、と言われる。が、果たして、本当だろうか。この所の結果の数々から、この話に、疑いを抱く人が、増えていると思う。
海の向こうの結果は、その典型だろうが、就任から、半年もせぬ内に、馬脚を現し始め、交渉とは名ばかりの、脅迫じみたやり方の数々に、呆れるばかりか、落胆を隠せぬ人が、急増していると思う。でも、それは、自分達の愚かさの、反映ではないか。同じようなことは、こちらの、ある県の首長にも、当てはまることだ。県職員に対する、多くの横暴な行為に対し、訴えを起こしたことに、端を発する、不祥事としか思えぬ事件は、その後の、不手際の数々から、最終的に行われた、選挙の結果が、まるで大衆の総意の如く、直後は扱われ、総攻撃に出ていた、報道への反撃は、最高潮へと達した。だが、その後の展開は、思わぬ方へと進み、今や、諸手を挙げて賛成した人々が、騙されたと叫び出す始末。大衆政治の典型が、これら二つの例だけでも、明確に表れており、その片棒を担いだと言われる、社会媒体への信頼は、失墜したと思われる。だが、これは、媒体自体の問題ではなく、単に、それを使う人間の、愚かさの表れ、と見るべきものだ。騙された、と簡単に言い出す人間は、相手の言葉に対し、何の疑いも無く、鵜呑みにするばかりで、自身の判断を、下そうともしない、愚か者でしかない。物事を、批判的に捉える、と言われても、一方的な判断に、与するばかりで、賛否両論があれば、その何方にも、批判の目を向けるべき、という基本を、全く身に付けておらず、悪い結果が出たとしても、自業自得でしかない。一部には、社会への不満が、こういう形で現れるのだ、と分析する人も、居るようだが、そんなものでは、決してなく、何かしら、有利になりそうなものに、飛びついているだけ、なのだろう。思考力も、分析力も、ほぼ無いに等しく、にも拘わらず、誰かの意見を、そのままに、写し取るだけで、下らない主張を、繰り返すのみだ。その果てで、騙されたは、愚の骨頂でしかない。反省すべきは、誰なのか、考えるべきだ。
週末、朝から、物価上昇についての、討論会が放映された。でも、何やら、中身のない話を、専門家と称する人々が、延々と続けている。物価上昇が、引き起こしている、生活困窮に対し、どんな手立てが、効果を上げるのか、誰にも分からず、ただ、漫然と話し続けるが。
と、そこへ、全く関係のない、報道がもたらされる。海の向こうの大統領が、正式発表に先駆け、例の如く、囀り始めた、という話だ。猶予を与えた、けれども、何時決断するかは、分からない、という話の内容に、誰がどう反応すれば、いいのかと訝った人も、多かったろうが、ここまでであり、一週間前に、広げられた紛争地域は、もう一段の、危機の上昇を、迎えたようだ。世界情勢に関する、一時の分析の後、また、再び、自国の経済状況へと、話が戻ったようだが、その後の成り行きは、眺める価値も薄れ、皆、別の局に、切り換えたのでは、ないだろうか。何れにしても、経済状況は、不確定な要素が、満載となりつつあり、誰が何を言おうが、大勢に影響は無い。買い物に出たら、店の中には、多くの買い物客がおり、つい先日まで、空っぽだった、米の棚には、溢れんばかりの品が、並んでいた。どこをどうして、やってきたのか、消費者にとって、知る術も無いが、さて、報道は、どうだろうか。喉元過ぎれば、と言うが如く、落ち着きを、取り戻してしまえば、どうでもいいことで、次の作柄の心配や、米農家の経営状況の心配を、並べるのが役目とでも、言わんばかりの論調だが、依然として、倍以上の相場であり、それでも、生計は成り立たぬと、代表チームの監督を、嘗て務めていた、農家の代表は、宣っていた。たった一つの組織でさえ、収支に関して、正体の見えぬ話が、展開できるのなら、国家全体として、どうあるべきかなど、論じるまでもなく、不確定に違いない。その中で、自分達の生活を、如何に守るかを、本当に考えたいのなら、馬鹿騒ぎは止めて、さっさと、普通の生活に戻ればいい。それだけなのでは、と思えてくる。
外国人旅行者にとり、この国の魅力は、何だろうか。嘗て、「おもてなし」、などと言われたけれど、そんなことは、どうでもいい、と思う旅行者も、沢山居そうだ。今時は、何より、安いの一言が、全てとも言われる。同じ製品でも、この国にくれば、恐ろしく安価になるらしい。
とまで書いてしまうと、やはり、大嘘になりそうだ。国内のものは、確かに、輸送料も含め、最近話題の関税が、加えられれば、当然の如く、割高になるから、こちらで買う方が、遥かに安くなる。だが、外国製のものは、そうもいかぬだろう。それ以外には、どんな違いがあるか。最近、特に、強調されるのは、人件費の問題だ。給与水準が、長年続いた物価据え置きの影響からか、他国に比べると、かなり低く抑えられ、それが、最大の要因となり、人の手で提供されるものは、殆どが、安価に感じられるらしい。そこでも、別の仕掛けがあり、例えば、海の向こうでは、人の手が入ると、それに対して、何かしらの謝礼をする、という習慣がある。チップと呼ばれるもので、嘗ては、海外旅行に行くと、食事をすれば、必ず支払わねばならず、時には、宿泊先での、部屋の片付けなどにも、必要との話もあった。ただ、後者に関しては、別の問題だろうか、枕元に置いても、そのままとなるらしく、最近は、そんな話は無くなったようだ。一方で、前者の方は、嘗ては、食事代の1割くらいが、相場と言われたのだが、今では、2割どこか、それ以上となり、さらには、現金払いや、クレジット払いでないと、支払う際に、額を記入するまでもなく、自動的に繰り込まれ、勝手に、支払われるらしい。確かに、嘗てのように、幾ら支払えば、笑顔を返してくれるかと、悩む必要は無くなったが、勝手に決められるのは、如何なものか、と思える。何れにしても、人件費の問題は、格差が広がり過ぎて、もしこのまま、物価上昇が続くなら、それに合わせた、昇給がなければ、生活できなくなりそうだ。ただ、この問題は、ある年齢以上の人々には、別の形で、深刻化しそうな気配がある。受給額を決めるのは、政府なのだろうが、その決め方には、大きな違いがあるからだ。詳しく書くつもりは、無いのだけれども、解せない話ではある。
流通の問題は、米に限らず、この国では、あらゆる物品に、適用される、と言われる。確かに、中間搾取が、度々取り上げられ、それぞれの段階で、利を得る為に、様々に仕掛けを講じ、私腹を肥やしている、と言われる業者は、数え切れぬ程居る。でも、本当に、それだけか。
米についても、昨日の疑問は、すぐに答えが出ないだけでなく、ひょっとすると、全体の仕組みにとって、永遠に解明されないもの、なのかも知れぬ。還暦を過ぎた世代には、米に関する騒動は、おそらく、自主流通米辺りから、始まったものとして、記憶されているのかも知れぬ。米穀通帳が、各家庭にあり、それを使って、配給米を買う、という仕組みが、いつ始まったものか、検索しても、どうもはっきりしない。確かに、制度上では、いつ始まったものか、明確に示されるが、その一方で、通帳が有名無実化したとか、米の不作と豊作の間で、揺れ動いた結果が、示されることで、その時代ごとの実態が、見えにくくなるからだ。自主流通米、という制度自体は、半世紀以上昔に、始まったとされるが、ほぼ、全体に浸透したのは、およそ半世紀前で、その後、さらなる法改正で、今の状況に落ち着いた、と言われる。その流れに関しては、監督官庁に、資料が転がっていたので、それを紹介するが、そこに流通経路の変化が、図示されている。でも、改正法の下で、定着した筈の仕組みも、今眺めてみると、破線で囲まれた中が、闇の中、とさえ思えてくる。確かに、改正前より、単純化された、と見えなくもないが、現実には、多段階だったものが、少なくなったとはいえ、そこに中間業者が、入っていることが、今回明らかになったように、同様の問題が、残されているようだ。でも、それが、既存のものだとして、何か不都合があるのか。確かに、末端消費者にとり、高い品物を、買わされる原因は、そこにあるのだろうが、働く立場で見ると、間に入る業者に、関わる人間も、多く居る筈で、それにより、生活が成り立つ。最近のような、直接販売は、確かに、安価かも知れぬが、別の危険性が増す。信用という意味では、何の問題も無い、直接販売も、今の時代、詐欺の横行を考えると、どうだろうか、と思えてくる。さて。
米騒動は、様々な問題を、表面化した。その中で、新大臣は、例の如く、自分の手柄のように、新提案を、次々に繰り出している、ように見えるが、その実、一体全体、どれ程が自分からで、どれ程が役人からなのか、一切見えてこない。親譲り、という指摘は、どうなのだろう。
市場の闇、などと大袈裟に、表現されるけれど、闇どころか、白日下で、顔色一つ変えずに、平気でやっていることが、まだまだ沢山あるように思える。確かに、流通の仕組み自体が、複雑なように感じられるが、中間で搾取する人々は、実際には、米というものを、動かすことなく、仮想空間で、転がしているのではないか。それを、最近問題視される、流通の問題へと、責任転嫁するだけで、責任逃れの典型、としか思えない。これは、備蓄米と呼ばれる、最近の話題についても、同様だろう。政府が、危機に備えて、蓄えておくという、理念そのものに、反対する気はない。例の長粒米が、無理矢理輸入され、料理法さえ、思いつかずに、我慢を強いられたことを、思い出すまでもなく、備えておけば、と思うのは、当然のことだ。だが、その為の施設は、誰がどう用意したのか。今回の問題で、誰も触れないのに、驚くばかりとなる。当然、公的施設の建設は、予算のことから、あり得ない話だろうから、誰かが、恒常的な使用を目的に、作った所へ、保存を依頼する、という形をとったのだろう。さて、だとしたら、その誰かさんは、誰だろうか。何となく、思い当たる所がある。国内で、最大量を、扱う組織が、その提供を申し出て、これもまた、経費を請求してきたのでは、と考えられる。そこにきて、備蓄米の入札は、専ら、その組織が行ったとなれば、入札前後で、米の輸送は、殆ど無用では、と思う。なのに、いつまで待っても、物が流通せず、原因を尋ねられても、流通や精米作業の遅れ、の一点張りだ。確かに、入札後は、国からの備蓄手数料は、入ってこなくなるが、安い米を、高く売りつける、大いなる機会が、訪れたように見えるのは、当然のことだろう。ただ、随意契約への転換と、取引相手の変更は、大きな変化となった。さて、どうしたものか。というのが、現時点の、関係者達の悩みだろう。庶民にとり、知ったこっちゃないが。
人間は、欲深いもので、無いものねだりを、繰り返すようだ。ただ、それ自体は、決して悪いことばかりでなく、向上心や努力に、結びつく場合も多い。自分自身に、向けられたものなら、確かに、その通りなのだが、これが、他の人に向けたものとなると、状況が違ってくる。
その典型が、親子関係にある、と言われる。高度成長期を挟んで、数世代が、同居していた時代には、親より上の世代は、様々な事情から、思い通りの人生を、歩めなかった、と言われてきた。確かに、戦時においては、勉学よりも、別のものが優先され、戦後の貧しい時期には、食うことが、何よりも最優先された。学問などと、大袈裟に扱わずとも、上の学校に、進学すること自体が、難しい時代でもあったから、その子供達が、平和な時代に育ち、高等教育の整備に従い、進学率が向上すると、親の知らぬ世界へと、歩み出す事例が、急激に増加していった。高い教育を、受けることは、彼らにとり、より良い労働条件を、手に入れられるとして、この勢いは、増すばかりだったが、いつの間にか、皆が、その環境に慣れてくると、意欲は減退し、マンネリ化していった。その結果が、今、世の中に溢れており、以前の、無いものねだりから、子供達を、進学させようとする、親の意欲でさえ、ある意味、失われつつある。一方で、自身が、身につけられなかった、能力の数々は、依然として、子供への、獲得目標とされ、例えば、英語力の獲得などは、その典型として、紹介されることが多い。だが、これを、学校教育の役割、と見ることには、少し違うのでは、と思うことが、屡々ある。そんな中で、中学では遅過ぎる、との意見が通り、いつの間にか、小学校で、始めることになったようだ。だが、言語能力の育成、という観点からすると、一部の子供を除き、全てに、多言語の獲得を、強いるのは、どうかと思う。自分ができなかったことを、子供達に、との思いは、理解できることだが、そのやり方については、英語に限って言えば、大きな過ちを、犯しつつあるように、思えてならない。
悪文のことを、取り上げた上で、それをより良くする為には、という観点で、今月取り上げる本は、著されたのだと思う。ただ、その目的を、理解しないで読むと、大いなる誤解を、招きかねない。それは、つまり、実用的な文章を、書く上でのことで、芸術とは違う、という点だ。
だからこそ、著者は、文豪の記したものでも、大鉈を振るう。その辺りに、少し違和感を覚えるが、ご本人は、そんなつもりはなく、ただ、単純に、意味が、間違いなく伝わるように、という観点で、手を入れただけだ。確かに、実用的な文章で、誤解を生んでは、間違いを起こす。その意味で、意味が正しく伝わることと、単純で読み易いことが、不可欠な条件となる。ただ、そこまで考えても、この本の役割は、十分に果たせないのでは、と思えている。それは、つまり、世に言う悪文とは、その程度までも、到達しておらず、単純に、何を言いたいのか、何を伝えたいのか、さっぱり、理解できないもの、ということだからだ。独り言は、断定的に書くことを、敢えて、避けている面があり、固有名詞は、なるべく避けるし、意見も、唯一無二の、断定的なものとは、ならないように、配慮しているつもりだ。だから、どっちつかずの、優柔不断なものに、映ることは、度々あるだろうし、時には、何を言いたいのか、わからないとさえ、思うことが、あるかも知れぬ。でも、こちらの意図を、書いてしまえば、それは、つまり、読み手に任せ、読み手が、読みたいように、読んで貰えば、それで結構、というだけとして欲しい。それでは、何の役にも、立たないのでは、と思う人が、居るかも知れぬが、それは、逆に、何も考えずに、他人の意見を、鵜呑みにする人間だから、となるのでは。で、悪文は、と言えば、そんな意図も、そんな目的も、一切無いにも関わらず、伝えるべきことも、言うべきことも、明確にせぬままに、報告したとする、そんな文章のことだ。少々の手入れでは、何の解決にもならず、ただ、論理の構築が、不十分なままで、書き連ねるばかりで、起承転結が、成立しないもの、となっている。こういうものに、度々出会すと、世の中には、そんな類の人間が、如何に多いか、と考えさせられる。
今月の読んだ本で、紹介するつもりだが、まだ暫く時間がある。その意味で、書名も知らせず、内容もわからぬままに、これを読むハメに陥るのは、あまりよろしくない、と思うが、ご勘弁願いたい。さて、どんな本か。悪文を、如何に減らすか、という内容のものだ。
いい文章を書く為に、多くの人々が、「文章読本」なるものを、著してきた。何を、どう書けば、読み手に、わかって貰えるか、という観点から、書かれたものが多いが、今回、読んだ本は、その意味では、少々趣が異なる。兎に角、事例を引き、その問題点を、指摘することで、より良い文章を、書き上げよう、とするものだからだ。確かに、その効果は、あるだろう、と思われる。しかし、読む前と違い、読んだ後では、少し印象が変わってきた。何が、どう、変わったのか。この著者が、取り上げた悪文の事例が、実は、それほどの悪文でもないのでは、と思えてきたからだ。より良くする、という意味では、問題点を指摘して、それを、どう直せばいいのか、的確に指摘すればいい、となるのだが、元々の文章を、ざっと読んだ時に、抱いた感想は、どこが駄目なのか、といったものばかりで、その意味では、題材の取り方や、話の展開そのものには、何も問題がなく、更には、多少の問題が、含まれていても、大意は伝わるもので、少し位の曖昧さは、問題とはならない、と感じられた。一方で、今世の中で、問題とされる、悪文の数々は、そんな程度のものではなく、何故、そんなことを、論じているのか、とか、ここで言いたいことは、何なのか、とか、そんな基本が、欠落していることに、問題の核心があるように、思えてならない。その上で、それらをどう変えたら、という点に、こういった指南書が、応えなければ、ならないのでは、と思えるのだ。戦後の泰斗として、著名な小説家は、くどい文章で有名で、それが屡々指摘されていたが、この本では、長い文章だが、構文も的確で、問題無しと断定していた。但し、誰もができることではなく、やはり、万人にとっては、短文で表現することが、第一となるというのが、結論だったようだ。その点は、おそらく、誰にも当てはまることと思う。