1%、と聞いて、どう思ったろう。百回に一回、と思ったとすれば、逆に言えば、九十九回は、何事も起きない、となる。たったそれだけ、と思った人がいる一方、では、今回の地震が、起きる前と比べて、どうなったのか、と冷静に分析する人は、思ったのではないか。
こんな数値を、担当庁の役人が、示したのには、理由がありそうだ。注意情報は、住民への注意喚起を、目的としたものだが、前回、もう一つの巨大地震が、予想される地域で、比較的小さな、地震が起きた直後に、発出された情報では、その地域だけでなく、周辺地域にまで、警戒が広がり、数日間の活動停止、を招いたと批判された。起こる、という情報は、それが、どの位の確率で、起きるかにより、受け止め方は、大きく異なるし、当然ながら、備えへの意欲も、全く異なってくる。夜中の、寝入り端を襲った、大きな地震は、直後の、津波警報の発出により、沿岸部に住む人々は、安全地帯への避難を、余儀なくされた。街灯以外は、真っ暗な中、高台に向けて、多くが、徒歩での避難を、行ったと思うが、その後の発表で、注意情報が発出され、1%という数字が、報道で飛び交った。だが、この僅かな確率に、どう対処すればいいのか、直後の報道は、何も伝えなかった。その原因は、記者会見場に居た、多くの記者達が、問い質さなかったからだ。初めの報道で、そう受け止めたが、ここで紹介する新聞記事は、直後にも、それを伝えていた、こととなる。地震発生以前は、千回に一回、だったものが、十倍になった、という話なのだ。成る程、と思いつつ、記事を読むと、そこには、0.01%と表記され、簡単なことでさえ、間違える記事に、更に、信頼は低下した。まあ、そんな過ちは、こちらで、修正するとしても、大元の取材の姿勢は、大いに批判されるべきで、特に、数値が示された場合の、その扱いには、送り手の立場から、どう処理すべきかを、平時から、検討しておく必要がある。担当庁も、ある意味では、慎重さに欠け、説明不十分となることが、多々あることから、ただの脅しではなく、説得力のある、表現の検討を、繰り返す必要がある。人間の心理を、読み取ることに、腐心するだけでは、誤解を招くだけとなるからだ。
女性差別と聞いて、何を浮かべるか。抑圧されてきた人には、そんなことは、大昔からある、と言われるが、世間的に、大きな問題として、取り上げられたのは、海の向こうの、ウーマンリブ(women's liberation)だろう。1960年代に始まり、70年代には、世界に飛び火した。
でも、それで、変わったことは、殆ど無い、と言われる。その後、こちらでは、40年前に、男女雇用機会均等法なる法律が、制定され、女性の社会進出を、促したと言われる。が、これも、差別解消には、至らなかった。実は、雇用だけでなく、他の生活全般に、問題がある、と指摘され、四半世紀前に、男女共同参画社会なる言葉が、高々と掲げられ、法律も制定された。その後、国だけでなく、地域も挙って、この言葉を用いて、社会の構成員に、老若男女を問わずに、意識改革を促したが、さて、どんな具合だろうか。生物学的には、男女、雌雄の区別は、明確になっており、その役割分担も、はっきりしている。だが、生殖に関する以外には、時代、社会など、様々な要素で、それらは、大きく異なり、労働でさえ、女性が大半を担う、という所さえある。そこでは、戦いのみが、男の役割で、平時には、ただ、食って寝るだけ、とのことだ。何事にも、男女の区別なく、という考え方が、市民権を得てきたが、実情は、かなり難しい状況で、はっきりとはしない。一方で、推進の為と称して、雇用機会を均等にするのではなく、優先的に採用するなどの、措置が取られるようになり、逆差別などの言葉も、飛び交い始め、混乱の最中といった感がある。一方で、多様性の時代なる話が、徐々に大きくなり、男女以外の区別を含め、種々雑多な分類法が、採り入れられると、ただでさえ、落ち着かぬ状況が、更なる混乱を、招いているように映る。そこには、当然ながら、少数派や弱者といった、擁護される存在が、加えられることで、差別感は、却って強まった、ようにも映る。以前、強面俳優が、妊娠・出産を経験する、という喜劇映画があったが、性の区別を、排除して、神の思し召しは、正確ではないが、生物としての役割を、打ち砕くような考えには、賛同しかねる。自分さえ、という考えでは、社会は、成立しないからだ。
情報交換の場、だった筈だが、現実には、独り善がりの意見を、書き散らすばかりで、数としては、圧倒的に、そんなものが多いようだ。その上、反論が書き込まれると、途端に、火がついたように、その主張は、極論へと発展し、敵対視するだけでなく、反論を曲解する。
情報交換や議論には、基本的に、冷静な対応が、必要となるのだが、上に書いた人々は、そんなことが、不可能であるばかりか、相手の人間性を、全否定してみたり、反論を曲解することで、貶めたりする。所詮、そんな人間性は、こういう場には、馴染まないもので、排除できれば、するのだろうが、そういう精神性の人間は、自らの立場を、守る為と思い込み、攻撃性を維持し、立ち去ることは、選択肢に出てこない。そうなると、独壇場となり、皆が、見て見ぬ振りをするか、或いは、拒否することで、目に入らぬように、するしかなくなる。自由な、情報交換の場、と目された筈が、当てが外れて、時に、心に傷を負い、退散した経験を、持つ人も多いだろう。勝手なことを書く、という意味では、独り言は、まさに、その典型であり、批判されても、と思ってきたが、これほど、耳目を集めぬと、そんなことさえ、起こらない。そんな見方もあるが、実は、はじめに紹介した、情報交換の場、とは大きく異なる仕組みが、ある。独り言は、自ら、接続しないと読めないが、囀りでは、おすすめと称して、矢鱈と、悪質なものが、送りつけられるのだ。それは、接続数や、「いいね」の数など、何かしらの数値を、基として算出された、ものなのだろうが、悪質であればある程、嘘や出鱈目が、極端である程、表示される可能性が、増すのだから、困ったものと思う。その上、悪質性を、感じない人だからか、そんな発言ばかりに、首を突っ込み、同意を表したり、煽ったりする輩が、居るのも困ったものだ。方法には、触らぬ神に、とばかりに、接続しないことや、そんな発言に、心を乱されぬ、ある意味の強さを、獲得するしかない。反論は、重要なことだが、面倒は、背負い込まぬ方がいいようだ。
情報伝達の道具として、社会媒体は、優れたもの、と言えるだろうか。手にした端末で、誰もが、情報を受信でき、発信できる仕組みは、確かに、伝達速度を、大きく上げた。それにより、手間のかかった作業も、一斉送信だけでなく、手から手へと、伝えられることで、満遍なくなった。
ただ、この手法は、ずっと遅かった昔と、なんら変わらぬ問題を、積み残すこととなった。情報の真偽が、伝達の過程で、確かめられることなく、耳から耳への、伝達遊戯さながらに、途中で、挟み込まれる、伝達者の感想や、悪意に満ちた、改竄なども、そのまま、拡散されることとなった。所詮、人間の手が、関わるものでは、そうなるのが、当然と言えば、当然のことだ。結局、判断は、受け手に委ねられ、騙され易い人々が、起こしてしまった、大騒動が、急速に広がる、問題を起こした。となれば、仕組みを考案した人や、その伝達に携わる、管理者に、責任が問われることとなり、問題の核心は、永遠に、解決されぬまま、となった。本来、人間にも、何種もの人が居て、彼らの関わりが、社会を形成することとなる。となれば、鵜呑みにする人も、悪意に満ちた人も、そこに居るのが、当然として、考える必要がある。彼らの、誤った行動に対し、その他の人々は、どう対処すべきか、改めて、考える必要が出ている。と言っても、多くは、防ぐ為の手立てであり、受け手が、吟味するしか、手段は残っていない。逆に言えば、それさえ、十分に整えられれば、間違いを犯す人々の、過ちの殆どは、次の段階で、排除されることとなる。それでいいのでは、と思うこともあるが、今、手にした端末に、次々に送られてくる、玉石混淆の情報に、嫌気がさしてくると、もう少しどうにか、と思うことも、屡々なのだ。自分のことは、自分で、とは言うものの、その他大勢が、こんな状況では、と思うと、何とかならぬか、と考えたくなる。答えは、見えてこないし、おそらく、解決法は、無いのだろう。人間の性と見れば、それまでだが、それしか無いのだろう。
今だと、悪意の塊は、そして、彼らの発言の場は、社会媒体だろう。大衆媒体も、今や多くは、当てにならぬ噂ばかり、弱い者を見つけては、集中攻撃を繰り返す。ただ、こちらは、世間体を気にして、弱者保護を、札に掛ける。ただの弱者には、手を差し伸べても、突き放しはせぬ。
とはいえ、大衆媒体も、盛んに、社会媒体の話題を、引き合いに出し、俎上に載せる。こうなると、ぐるではないか、とさえ思えてくるが、支援企業の顔色を、盛んに窺う大衆媒体と違い、社会媒体は、所詮、個人の集まりであり、耳目さえ集めれば、それで満足なのだ。立ち位置としては、かなりの違い、とも見えるが、どうだろうか。にしても、話題の中心は、社会媒体にある、とも見えて、書き散らかしを、拾い集めてみる。するとその中に、面白い遣り取りが、散らされていた。今、軍事侵攻の挙げ句、仲介国から、横槍とも思える、提案が寄せられたが、どうにも、不可思議にしか、映らなかった。だが、その中で、何方の勢力に、与するかにより、学識経験者と思しき人々が、その発言を、批判されたり、明らかな過ちと、指摘されている。その遣り取りが、ある意味興味深いが、さて、何方が、どう正しいのか。学界では、暫く後には、決定されるだろうが、現時点は、混乱の中と思える。ただ、その序でで、面白いのは、彼らの著したものが、真偽如何なるものか、指摘があり、所謂、学会誌の如きもので、普通に行われる、査読なる、検査方式において、偽と断じられた、論文の書き主として、批判を受けた話まで、出てきている。ふと、思い当たるのは、歴史の世界での、その手の出来事で、旧石器は、よく知られたところだが、別にも、古文書を引用した話があり、古文書自体が、捏造とのことらしく、学問の世界の、不思議を痛感する。誰が、どのような利益を、求めてのことか、とも思えるが、この話、上の話と、似て非なるものか。世間的な地位は、確かに重要だが、それで、学者生命を失うのは、何なのか、と思えてしまう。もっと汚れた世界、かもなのだが。
弱者に対する配慮、の問題は、かなり拗れている、と思う。実際に、害を被っている人々からの、訴えは、重要な事柄として、扱われる。それが、問題解決に、繋がっているなら、良いことなのだろうが、現実には、問題解決には程遠く、却って、善意の人々が、危機に陥っている。
それ自体も、解決への道筋で、不可欠なこととして、今は、取り扱われている。だが、それによって、弱者とされる被害者だけでなく、善意の人々までもが、被害を受けることとなると、とても、看過できぬ話となる。そんな所から、ここ数日の独り言を、書いてみたのだが、一方で、安易に取り上げると、自分の所にまで、害が及びかねない、と見る向きもある。だからこそ、誰もが、口を噤み、触らぬ神に、といった姿勢を取る。でも、それでは、何も解決しない。だから、恐れることなく、口を出して、実際には、書いてみた。すぐには、反応は出てこないし、ここ数日、囀りで、働きかけたからか、少しは、訪問者が増えたとしても、別の興味からだろうし、時には、こんな戯言には、関心を抱かぬ、という人も多いのだろうから、何も起こらない、と見るのが、妥当には違いない。仮令、そうだとしても、やはり、書いておきたいから、書いてみたが、どうだろうか。確かに、悪意に満ちた、書き込みを繰り返し、苦しむ人の姿を、見ることに喜びを得る、という類の人も、ある程度の数が、居るのはそうだろうが、かといって、弱者であることを、公にしながら、そういう発言を、徹底的に駆逐しようと、躍起になる人も、居る訳だろうから、何方も、居なくなる気配が、見えない中では、解決への道は、閉ざされた、と見るしかないように思う。だから、悪意の送り手の問題だけでなく、受け手の問題としても、考えてみては、と思うのだが、どうだろうか。感じない人には、理解されない、と苦しむよりも、どう処せば、そういった被害を、受けずに済むか、という点についても、考えてみるべきと思う。強制するのは、以ての外だろうが、自ら、解決の道を、探る為にも。
弱者に対して、あなたも、と言った途端に、激しく罵られた、という経験を、持つ人も居るだろう。だから、それ以降は、口を噤むようになり、一切、関わらぬようになった。という人も、居るのではないか。それが、望んだ展開なら、だが、そうとは思えぬ状況で、未だ、満たされぬまま。
そうなっているばかりか、依然として、悪意に満ちた暴言を、浴びせられるのを、見ていると、どうしたものか、と思う。強くなれ、という言葉は、元気づけるより、突き放すように、受け取られるのは、近年の風潮であり、このままでは、強い者と弱い者が、分断したまま、となるように思う。その上、海の向こうの暴君は、強い者の典型で、悪意に満ちた、と受け取られる発言を、盛んに繰り返す。その中で、人気は、相変わらずのようで、何故、と思う人も多いようだ。だが、それ自体は、何も不思議なことはない。彼の支援者は、その大部分が、不平不満を抱きつつ、力を誇示することを、常としており、その意味で、自分の味方として、強さを表現し、強弁を繰り返すのは、尊敬に値するからだ。だが、標的とされた、弱者や少数派は、何も利益が得られず、その上、罵倒されたり、支援を打ち切られたりと、良いことは、全くないと映る。だとしたら、もう、何かの利益を受けようとしても、支援を得ようとしても、無駄なのだろう。自分なりに、生き抜くことが、必要となり、多様性を、主張したとしても、権利が与えられず、冷遇されることが、続きかねない。おそらく、守るべきは、最後の一線であり、社会の一員として、存在することだけは、残さねばならぬ。特に、周囲の人々も、新たな支援を、模索することより、自分なりの生き方を、侵害されない範囲で、状況を保つことを、最優先とする方が、良いように思う。こう書くと、おそらく、多くの人々が、それでは、権利が得られず、存在さえ、消されかねない、と思うだろう。でも、権利とは、存在とは、どうあるべきかを、議論した上で、次の動きを、決める必要がありそうだ。その為に、必要なことは、何だろうか、と考えた時に、思ったことを、書いたのだが、無配慮となるのだろうか。
今の仕組みは、悪意に対して、効果が無い、と言われる。なのに、社会的には、弱者保護が、喫緊の課題となり、少数派への配慮が、当然のこと、となっているから、歪みは、強まるばかりとなる。このまま行けば、社会の分断は、強まるだけで、施政者は、板挟みとなる。
と考えつつ、昨日の話を、引き合いに出すと、どうも、仕組みの整備だけでは、事が片付かない、ということが、明らかになりつつある。問題の本質を、被害者に落とし込むのは、泣きっ面に蜂、でしかないと思われるが、本当に、そうだろうか。弱者の多くが、感受性は強い、と言われるのに、それを、一種の褒め言葉として、弱者でも、そういう能力がある、とさえ言い出す人が居るが、これは、大いなる誤解でしかない。弱者が、弱者たる所以が、そこにあるのだと見れば、褒めるよりも、すぐに手を付けるべきことが、あるのが分かってくる。何でも、鵜呑みにすることも、自分の弱点を、攻撃された時の、衝撃の強さも、全てが、弱者保護や少数派擁護の、根源とされる、出来事へと繋がる。そうなると、何をどうすべきか、自ずと明らかになる。それらを、精査した上で、どう対応すべきかを、考える必要があるのだろう。単なる保護や擁護では、ここから先、増え続ける少数派と弱者に、社会全体が、混乱を来すこととなる。元々、こういう仕組みが、先進国で採り入れられたのは、優位に立つ人々が、それを重視したことに加え、現実には、それが、自分達にとり、有利に働くことが、あった。確かに、この繰り返しにより、弱い者や、小さな集団が、世間的にも、社会的にも、認識されることとなり、彼らの存在そのものが、認められた。だが、それにより生じた歪みは、その後の展開から、大きくなり続け、問題も、大きくなっている。そろそろ、手の付け所を、考え直す必要があると思う。弱者や少数派も、そんなことに、気付いている筈で、相互理解の一手として、考えてみてはどうか。
何事にも、正解を求める、という声がある。特に、若い世代に、顕著と言われるが、何か、課題となるものが、与えられると、すぐに返ってくるものは、正解は何か、という話だ。確かに、高校までの学習では、唯一無二の答えを、求めさせる作業が、主体だったから、なのだが。
それにしても、社会に満ち溢れたものには、そんな正解は無い。だから、幾つか並んだものの中から、良さそうなものを、選び出すことで、次の段階へ、進もうとする。後になって、あれが正しかったのか、と思うことは、屡々起きるが、だからといって、その場で、立ち止まっていては、何処にも進めず、解決どころか、それに向けての道筋さえ、見つけられず、困り果ててしまう。だから、経験を積むにつれ、徐々に、その場の正解の一つを、見つけることで、次へと向かう、という手法を、身に付けていく。こんなことを、改めて考えたのは、ある本を読んだからだ。先月の読んだ本の中に、題名からでは、内容が推測できず、どんなものだろうか、と注文を出した時も、思ったものがあった。実際に読んでみると、そうだったのか、と一つ思い当たる所が、出てきた。この著者は、子供の頃に、壮絶な体験をした、として、その後、苦しんだ過程が、綴られているのだが、その体験そのものが、如何に壮絶だろうとも、そこには、驚きを感じなかった。それより、この人物が、本を読んだり、人の話を聞いたりした時に、どう感じたのか、という点に、驚きと共に、そうだったのか、と思う所があった。それは、あくまでも、受け身で、それらをすることで、本に書いてあることを、そのまま受け取り、言われたことを、そのまま受け止めた、という点だ。本の読み方に、決まりは無い、と思うが、それにしても、何故、こんなに素直に、書いてあることを、鵜呑みにできるのか、という点が、彼らのような人々が、社会で苦しむ存在となる、原因の一つ、と思えてきた。こちらは、本を読む時も、批判的な姿勢を貫き、対話を重ねる、という形式を取る。それに対して、こういう人々は、そこに書いてあることを、そのまま受け取り、心の奥底に、深い傷を負ったり、誰かに言われたことに、深く傷ついたりする。成る程、それでは、耐え切れぬかも、とさえ、思えてくるが、悪意に対して、どう処すべきか、と考えると、これでは駄目だ、と思える。彼らを保護するやり方も、実は、善意を退けるのみで、悪意はそのまま、となっているのも、だからだ、と思えた。
先週一週間、例の新型感染症について、覚えている範囲で書いてみた。読んだ人の感想を、聞いてみたい所だが、ここも、訪れる人が、殆ど居ないので、そんなことを、やろうとしても、無駄となる。まあ、それはそれとして、今回、一週間、書き続けたのには、目的があった。
これから、アップするのだが、このハンドル名で、流している囀りに、リンクを貼り付けよう、と考えている。そちらも、大した人数が、覗きに来る訳でもなく、また、フォロワーも、少ないので、効果の程は、あまり期待できないが、それでも、偶々覗く人が、居るかも知れぬ、との期待からだ。最近は、社会媒体で、盛んに発言する人がおり、その上、話題となれば、バズると言われて、万単位の人々が、閲覧することとなる。ただ、その内容は、と言えば、こちらの期待とは裏腹で、耳目を集めるだけの、乱暴な書き込みや、隣国への反発から、攻撃的な表現を、繰り返すものが、数多くある。また、分断と言われる時代に、海の向こうもこっちも、ほぼ同じ状況だろうが、政敵を、貶めるようなものや、書いても居ないことを、書き連ねることで、個人攻撃を、繰り返すものが、目立つように思う。それに比べ、などと書くと、同類なのに、とでも揶揄されそうだが、こちらは、大真面目に、あの当時の狂騒ぶりを、書いたに過ぎない。また、その内容も、確かな検証の上、とまでは言い切れぬが、少なくとも、論理性や科学的な確かさに、十分なものがある、と自負している。と言っても、誰かに読んで貰った訳でも、何処かで、点検を受けた訳でも、ないだけに、当然、誤りの指摘や、批判なども、押し寄せる可能性は、皆無とは言えぬ。ただ、落ち着いて考えれば、この程度のことは、思い当たる筈なのに、当時の喧騒ぶりは、制御不能に陥っており、それにより、罵声を浴びせ続けた人や、相手を貶めようと、躍起になった人まで、暗躍していたと思う。それはそれとして、立場がある人なら、今更でも、当時の過ちは、認めるべきだろうし、それにより、利益を得たのだとしたら、その点に関して、厳しい批判が、突きつけられても、いいのではないかと思う。とは言え、所詮、こんな所に、書いているだけだから、公的なものでも、社会的圧力でも、そんなものにはなり得ない。ただ、こんな考えもあるのだ、ということだけは、理解して欲しいものだ。
当時の混乱は、そんなものではない、と言われそうだ。だが、世界的にも、国内も、地域でも、それぞれに、現場の混乱は、高まるばかりで、特に、医療関係者は、勿論のこと、役所の混乱も、極まっていた。ただ、流行病は、一種の終息を、迎える。死者数も、陽性者数も、激減した。
この変化が、ワクチン開発による、と言いたい人は、言っておけばいい。総括が、為されぬ限り、詳細が、明らかになることは、決してなく、逆に言えば、何が功を奏したのか、誰にも分からない。確かに、重症化は、防げたのかも、だが、肝心の感染拡大は、なぜ終息したのか。生物体の免疫機能が、発揮された為、と見ることもできるが、相手は、次々に、姿を変える代物、理由は定かにならぬ。姿を変えるに従い、発症後の重症化に、影響されると言われる、毒性が、低下したのでは、との憶測もあるが、分からぬままだ。とは言え、結果良ければ、という具合で、いつの間にか、忘れ去られた。と言っても、残ったものがある。一つは、発症後の後遺症であり、深刻とも伝えられるが、感染爆発に比べ、被害が限定されるだけに、これも忘れられそうだ。もう一つは、ワクチンの副反応、と呼ばれる現象で、接種直後に、体調異変で、死亡する例だけでなく、発症による後遺症とは、全く別の形の、後遺症が残る場合がある。こちらは、人為的な要素が多く、人災へと結び付けられるが、因果関係として、確定できぬだけに、有耶無耶にされている。ただ、開発手法との関係から、今後、この方法が、一般的となれば、見過ごせぬこと、と思われるのも、無理はない。兎に角、一つの病気が、膨大な数の感染者を、出したことで、起きた事象は、数え切れぬ程だ。今後の展開として、やはり、重要と思えるのは、総括の実施だろう。流行時も含め、疫学的な調査が、的確に行われず、また、公衆衛生でも、同じような状況で、将来への備えが、不十分なまま、と思える状況だ。この病気に限らず、医療や科学の知見が、活かされていない、と思えることが、増えている。囀りのような、社会媒体が、賑やかになったのと、逆行するように、信頼性が、失われつつあるのは、何故だろうか。臨床研究そのものも含め、多方面からの解析が、必要に思う。
ワクチンができた、の報を受けて、多くの免疫学者が、周囲の為に、社会全体の為に、接種しよう、と訴えた。確かに、従来の知見からは、接種により、感染が防がれ、感染者が居なくなれば、拡大も爆発も、起きないと思える。だが、その後の知らせに対し、首を傾げた。
開発した製薬会社は、当然のことながら、その効果を、解析した結果を、発表した。その内容に、驚いた人も多い。何しろ、感染防止の為、と思われたのに、そこには、感染は防げなかったが、重症化を防ぐ効果が、確かめられた、と発表されたのだ。一般庶民の戸惑いより、免疫学者の混乱の方が、遥かに大きかった、のではないか。何しろ、他人に移さぬ為に、接種を推奨したのに、それはできぬが、本人の症状を、軽くするとなったのだ。これでは、利他的ではなく、利己的でしかなく、自分さえ良ければ、と言われそうだ。ここまで、読んできた人には、この原因に、思い当たるのではないか。つまり、感染の有無、という基準において、発症するか否かは、全く無関係に、病原体を保有するか否かが、肝心となり、それを指標とすれば、ワクチンの効果は、病原体が、感染者の体内に入り、ある程度、増殖したとしても、その後の発症へと、繋がる過程において、発揮され、発症や重症化を、抑制することとなる。接種した人の、免疫反応が、どのように起きるのかは、この報告により、かなり大きな変更を、余儀なくされた、と思える。それ以外にも、首を傾げざるを得なかったのは、通常なら、複数回と言っても、2、3回の接種で、免疫力が定着する、と言われたのに、何度も何度も、接種が勧められた。これも、不思議だったが、その理由は、明らかにならない。その後の、情報の錯綜では、最適の回数について、異論が噴出して、現場の混乱は、高まるばかりだ。当時は、分類の問題から、厳しい管理が、敷かれており、検査は、接種者に対しても、実施された。結果は、陽性者となり、未接種者の陽性と、どう区別すべきか、これも混乱要因となる。今は、分類変更から、騒ぎは収まり、重症者の話も、殆ど聞かれぬ。だが、検査は、依然として、実施され、無症状陽性者、あるいは、感染者は、相変わらず多数居るとされる。さて、どうなる。
救世主は、ワクチンと呼ばれた。ウイルスを病原体とする、流行病に対して、為す術無く、死に行く人や、重篤な後遺症に、苦しむ人を、見守るだけだったものが、ワクチンの登場で、感染を防ぐことが、できるようになった。免疫学の根幹を成す、治療法の一つ、と呼ばれた。
方法には、幾つかあり、病原体の一部や、感染力を失ったものを、接種したり、感染性が、僅かに残るものの、発症の可能性が、著しく低いものを、接種する。死亡率が高く、恐れられていた、天然痘では、牛の類似の病気から、効果のあるものを、選んで使ったと言われ、後遺症に苦しむ、小児麻痺では、生ワクチンの登場で、患者数が激減した。確かに、接種により発症する、危険性は皆無では無く、犠牲者も居るが、集団として、考えることで、適用範囲は、急速に広がった。細菌性の感染症でも、抗生物質で治療できるが、その過程で、悪影響を及ぼす場合には、ワクチン開発が成された。だが、正体を、次々に変える、ウイルスの一部には、ワクチンの開発が、追いつかず、問題が残っている。毎年恒例の、流行性感冒は、その典型の一つで、籤引きのよう、と揶揄されることもある。新型コロナについては、感染拡大当時も、その変化ぶりに、驚かされたが、従来の開発法では、とても間に合わぬ状況だった。そこに、登場したのが、従来のウイルスタンパク質を、抗原とするのではなく、それを作り出す、遺伝子産物を、直接接種することで、そこから産生される、タンパク質への抗体を、体内で作らせる、戦略が、実行された。未だに、研究段階にある、と思われたものが、緊急事態だからと、各製薬会社に、開発を依頼した。通常なら、費用を賄うのは、企業自体だが、世界的な緊急事態で、各国政府が、それを出し合う体制が、整えられた。目出度く、開発されたワクチンは、先進各国に、配布された後、開発途上国へも、広がることで、感染爆発は、一時の危険性を、脱したと言われた。これだけなら、目出度目出度、となる筈だったが、幾つか、問題点が出てきた。結果良ければ、それで良し、となったかならなかったかは、どうも、人によるらしい。それらについては、明日以降に書く。
当時、報道は勿論のこと、一部の専門家までもが、感染者と呼んだ人々は、正確には、検査陽性者であり、病原体の有無を、調べた結果として、保有が確認された、というものだった。学会が、感染の有無を、検査の結果で判断、としても、現実には、病気の有無は、発症したかどうか、で決まる。
ここに、混乱の原因があった。とは言え、世界機関をはじめとして、各国の研究機関が、学会の決定を、根拠として、検査に踏み切った以上、そのこと自体を、批判しても無駄だった。一方で、そんなことに、拘る遑は、現場にはなかった。発生源と、目された地域から、広がった結果として、ずっと西の方の地域に、感染が広がり、犠牲者が出始めた。都市封鎖により、感染拡大を防ぐ、との手立ては、掛かった労力と、経済停滞の被害の割には、全く効果を見せず、死亡者の数が、急増し始めた。特に、初期段階で、その傾向が顕著となったのは、それ以前に、国家予算の削減から、診療施設の撤廃を、進めていた国で、対症療法の極致、と呼ばれた、人工呼吸器の一種も、最先端施設にしか、準備されておらず、連合内の、他国への患者移送で、対応する程の混乱に、陥った。こちらでも、クルーズ船、と呼ばれる観光船で、船内感染が、急速に広がり、隔離する一方で、一部の重症患者を、最先端医療施設に、移送していた。あちらでは、連合から離脱した国で、様々な事情から、治療現場の崩壊が、起きたとさえ、伝えられたが、結局は、その中で、対症療法の一つとして、自己免疫疾患に、適用される、免疫グロブリン療法が、試されたことで、光明がさして来た、とも伝えられた。だが、結局は、流行性感冒のように、病原体ウイルスの、増殖や活動を、抑制する特効薬は、見つかっておらず、重症化した場合には、多くは、諦めるしかない、とさえ言われていた。細菌による感染症と違い、ウイルスには、抗生物質が効かず、特定のものに、効果を示す薬も、今回の新型には、当然効果を示さなかった。そこに、新たな救世主が、現れたのは、よく知られた所だ。感染そのものを、防ぐ為の手立てとして、免疫反応を利用する、従来からある手法だが、このウイルスに対するものは、開発できない、と言われていた。それが、できた、とされる。さて、次は。
では、何故、感染の基準が、変更されたのか。一般庶民にとり、流行性感冒にせよ、何かしらの、新しい感染症にせよ、その典型的な症状を、自分が示せば、感染したかな、と察して、診察を受け、診断を下される。自分のことなら、それで、何の問題もなく、対症にせよ、治療が受けられる。
だが、感染症の専門家には、そんな一人の人間の、問題なぞは、どうでもいいことだ。社会全体、地域全体、世界全体にとって、どんな変化が起きるか、こそが最重要であり、もし、感染爆発が起きれば、人類滅亡も、視野に入るだけに、未然に防ぐことが、最重要課題となる。その意味では、仮令、症状を呈してなくとも、感染病原体を、保有する人々の存在は、感染拡大の源と、なり得ると考えたのだろう。理論上の問題が、実現可能なもの、と変わったのは、検査手法の発達であり、病原体の遺伝物質を、何千、何万倍も、増幅する手立てが、確立されたことが、決定的となった。できるなら、やってみよう、となるのは、当然の流れであり、今回の騒動では、史上初めてだろうか、世界規模で、大量の検査が、実施された。結果は、皆が知る所で、無症状感染者、という新たな言葉が、認知されることとなった。検査が、可能となる前は、推測でしかなかったものが、実数として、公に発表されると、報道は、無知なまま、それらの情報を、垂れ流し始めた。一種の恐慌が、広がったのは、当然の成り行きだが、さて、それによって、何がどう変わったのか。社会的な反応は、急速に広がり、多くの人々が、恐れ慄くこと、となったのは、ある意味、当然のことだが、それに対して、国や自治体は、どんな備えを、進めていたのか。今、振り返れば、殆ど何の準備もなく、日々伝えられる情報に、右往左往するばかりで、肝心の数値を、どう扱えばいいのかさえ、判断がつかぬまま、社会的には、感染者という札を、付けられた人々が、制裁を受けるような、暴挙さえも、起き始めていた。さて、改めて、見返してみて、無症状感染者が、感染源となることは、確認されたのか。そんな疑問さえ、浮かんでくる。研究の最前線が、如何に曖昧なものか、そんな印象だけが、残ったのではないか。次は、何だろう。
流行性感冒と、当時、大騒動となった、新型と呼ばれた、感染症と、何が違うか、お分かりだろうか。ウイルスが違う、は当然として、医療現場での、対応の違いは、歴然としていた。前者は、症状を呈した、患者を検査するのに、後者は、患者と接触した人全てを、検査していた。
病気として見れば、症状を呈する、つまり、発症するか否かは、重要なこと、と思われる。だが、専門家による判断は、ある時期に、大きく変更された。感染の定義、とも言うべきものが、発症から、病原体保有に、変更されたのだ。以前なら、発熱、倦怠感、関節痛、咳や痰など、症状を示す指標があり、そのうち一つでも、当てはまれば、受診するように、と言われていた。ところが、何の症状も示してなくとも、喉などに、病原体が存在すれば、それを感染と見做す、となったのだ。その上で、分類の違いから、検査対象を、発症者とするか、接触者とするか、を決定していた。更に、検査自体も、大きく変更され、その感度が、格段に向上した、と言われる。学会では、兎に角、感染爆発を、防ぐ手立てとして、病原体保有者を、特定することで、健常者から、隔離してしまい、封じ込めを、達成することが、最優先とされた。特に、感染力の強い、病原体の場合、水際作戦が、最重要と見られた。その結果、巷には、無症状感染者が、溢れることとなり、社会活動が、立ち行かなくなり、先進国各地の、経済活動が、停滞してしまった。ここで、問題は、二つある。一つは、保有者全てが、感染拡大に、関わるか否かの、検証が不十分に思える点、もう一つは、学会が示した、感染状態から、その個人が、発症するか否かは、どう決まるのか、についての見解が、殆ど出ていない点、だろう。今回の騒動が、いつまでも、総括されないのも、これらの点について、疫学的、公衆衛生学的な、調査が、実施されたとは思えず、また、それらの研究の進展も、見えてこないことが、原因と思われる。確かに、騒ぐには騒いだが、その原因を、追及しようとする、科学的な検証が、行われていない、と見えていることが、最大の問題なのだ。この話は、もう少し続く。
その季節が、今年もやってきた。流行性感冒の患者数が、急増していることを、報道は、盛んに伝える。と共に、見慣れた人達が、画面に登場し、専門家と称して、解説を繰り返す。他の人は、どうか知らぬが、こちらは、信用ならぬ人物、としか見えない。当てにならぬのだ。
その中で、感染症騒動では、度々登場したのに、最近は、とんと見かけぬ、という人物が、三人居る。二人は、あの感染症への対策を、講じるための政府委員会に、属しており、当時の役目を終え、退いた訳だから、見かけぬのも、当然と思える。ただ、彼らの当時の弁も、当てにならぬものとして、強く記憶に刻まれた。最後の一人は、研究者であり、特に、感染拡大の数値予測の、専門家として、その分析結果が、屡々引用された。一方で、社会媒体では、8割おじさん、などと揶揄され、彼が出した結果が、如何に、信用ならぬものか、と受け取った人が、多かったことを、思い出す。蔓延当時、恐怖に駆られた人々には、まるで、彼の分析が、天の声のように、響いたのかもだが、実体は、単なる計算結果であり、数式の係数や、入力数値の、操作により、如何様にも、結果を導けることや、新たな調査結果が、届く度に、コロコロと変わる、結果の数々に、疑いを抱くのも、無理のないことだ。特に、賞金稼ぎならぬ、研究費稼ぎには、あの研究手法は、抜群の効果を表し、一部の研究者からは、羨望の目で、見られたものだ。ただ、単純に考えても、ライブ会場のような、密室での、感染状況と、必ずしも合致しない結果には、首を傾げるしか、ないと見えた。世界最速の、計算能力を誇る、超高速計算機を、使った解析結果も、所詮、同じ穴の狢であり、計算式と係数を、操りさえすれば、それなりの結果が、導けた。何故、このように、仮想計算は、的外れな結果を、導くのか、と不思議に思う人が、居るかもだが、現実には、感染源の広がりと、感染そのものとの間に、生体反応があり、そこでの、幾つかの段階が、計算式に、導入されぬままでは、当然の帰結と言えよう。その辺りは、明日のお楽しみに。
再稼働の遣り取りで、最も気になったのは、未熟さと無知の、誤解とでも、言うべきものだった。事故が起きた時、多くの人々は、これまでの事故から、学んだことから、あんなことが起きる筈は無い、と思った。だからこそ、こんな災害は、防ぐことができぬ、と信じたのだ。
だが、これは、全く異なるものを、同等と見做すことから、始まった過ち、と思えて仕方がない。前者は、経験に基づき、あらゆる危険性を、回避する手立てが、講じられる筈、との思い込みと共に、科学の力に対して、過度な期待を抱く、傲慢さの現れ、と見ることができる。一方で、後者は、災害そのものへの、無理解と共に、その仕組み自体を、依然として、理解できぬままに、過剰に恐れる、そんな心理の現れ、と見ることができる。何を偉そうに、と言われても、どうということはない。客観的に、物事を眺めぬままに、愚かに、騒ぐだけなら、何の知識も判断力も、必要とはならない。そんな状況が、一部に現れ、それを歓迎する空気が、社会媒体を、満たしているのでは、とさえ思えるのだ。それほど、愚かなのか、と断じてしまえば、却って、楽になるかもだが、物事は、それでは、片付きそうにない。だからこそ、十分な議論をして、その場その場での、結論を導く必要がある。なのに、互いに、相手の無理解を、攻撃することに、終始するばかりで、何の結論も、出せないでいる。主義主張を、できる場が、全ての人々に、与えられた、と見るのも一つだが、一方で、何の確認もなく、ただ、言いたい放題を、続けるだけの場が、構築されてしまった、と見ることもできる。これでは、成長も何も、起こり得ないのでは、と思うのだが、どうだろうか。それでも、時に、冷静な声が届き、一瞬だけでも、我を取り戻す。そんなことの繰り返しが、地道に行われれば、もしかしたら、ずっとましな社会が、実現できるかも、だが、さて、どうだろうか。
再稼働、という話が、流れてきた途端に、囀りでは、両論が飛び交っている。不安を口にすれば、それで、なんでも叶う、と思う人が居る一方で、安全性には、懸念があるものの、経済活動を、保つ為には、不可欠との意見も。特に、諸手を挙げて、歓迎された新技術に、危うさが見えるだけに。
確かに、世界的に見ても、あの大震災後の、大津波の襲来で、危険な状態に、陥った発電所が、以前の事故同様に、かなりの放射性物質を、拡散しただけでなく、発電所の反応炉自体が、暴走するとの懸念も、広がっていた。そうなれば、制御不能に陥り、周辺のみならず、国内どころか、世界さえも巻き込む、大惨事へと繋がる、とも言われた。それだけに、物理学者出身の宰相が、国内の発電所を、全て閉鎖する、との決断も、当然と受け取られた。だが、その後の展開は、どうか。確かに、軍事侵攻に踏み切った、狂気の暴君を有する国から、化石燃料ガスを、供給する手立ては、断ち切られ、再生可能、と呼ばれた資源にも、翳りが見え始める中、隣国から、その仕組みで発電された、電気を輸入せねばならず、再検討の声も、出始めている、と聞く。物理学者は、確かに、科学の原理について、深い理解がある、のかもだが、彼女だけでなく、世界中で、あの発電形式に、反対を唱える学者達は、理解の及ばぬ、生物自体の反応には、目を向けようとせず、持論を、押し通そうとする。嘗て、量子力学が、勃興する中、研究対象を、極微の世界から、移そうとした人々は、生物の営みに、目を向け始めた。そこに、別の法則が、横たわるのでは、との期待からだったが、今見ると、本家の学問分野は、広がるのを止め、狭い中での解釈に、走っているように見える。科学の学問分野は、ここ二世紀程、急速な発展を、遂げてきたが、その一方で、人智が、及ばぬ範囲が、広がったように、見えている。狭量で、傲慢な考えに、拘るのではなく、もっと、広がりを持って、見つめるべきだろう。その意味で、再稼働は、期待を抱かせる。とは言え、制御可能との慢心も、傲慢の現れであり、あらゆる危険性を、列挙することが、必要だろう。
情報媒体が及ぼす、社会への悪影響は、今に始まったことでなく、遠い昔から、問題視されてきた。政に携わる人々には、治安を乱すものと映り、極刑を下した歴史は、古今東西、あらゆる場面で、起きていただろう。ただ一方で、媒体の多くは、正義感を振り翳し、大真面目だ。
昨日の宗教団体にしても、大衆媒体は、権力への反発、という名の下に、彼らの暴走が、極みに達しても、擁護に走ったが、そのこと自体を、すっかり忘れ去り、罪人と断じて、社会的な抹殺さえ、厭わない。こんな極端が、良い影響を、及ぼす筈が無いが、彼らは、その時その時の、正義として、毅然とした態度で、過ちを繰り返す。それは、戦時も同じで、黒歴史として、残っていても、今度は違う、とばかりに、誤りを掲げ続ける。彼らは、明らかに、違う立場にあり、報道を、生業とするから、多くの場合は、慎重な検討を重ね、それこそが、過ちを繰り返さぬ為の、唯一の方法、と信じ込んでいる。だが、歴史は繰り返し、彼らの反省は、何度も重ねられる。一方、社会媒体の多くは、そんな仕組みも無しに、単なる思い付きを、書き殴る場であり、口喧嘩のようになるのは、止むを得ぬこと、と見做されたりする。普段、大人しく、慎重な人物が、何故、そんな極論を、展開するのか。と不思議に思う人も、居るだろうが、現実には、こういう仕組みが、始められてから、こんなことが、急速に、増え続けている。その原因の一つは、誰とも相談せず、自分だけで、反論を綴ることにあり、そこに、酷い思い込みや、誤解の数々が、あったとしても、当人は気付かず、当初の主張を、繰り返し続ける。根源にあるのは、自ら書いたものを、検証する能力の欠如で、議論が盛り上がると、それは更に悪化し、喧嘩の熱気は、増すばかりとなる。掲示板が、登場した頃も、そんな傾向が、目立ち始め、冷静に対応すると、馬鹿にしたとさえ、罵られる始末だ。日中は、冷静で、有能な人でさえ、夜中には、画面に向かって、不満を呟きつつ、こんな代物を、書いてしまう。人間の心理とは、脆弱で貧しいもので、その過ちを、犯さぬ術を、身に付ける必要が、あるに違いない。大昔は、手紙を認めて、情報交換を、行ったものだが、そこでは、構想を練り、下書きを作った上で、清書してから、投函した。そこには、時間がかかるだけでなく、心の移り変わりの中で、何度も読み直すことが、できたのだ。今、困っている人には、そんな形で、時間を置くことを、勧めたいものだ。
30年前の春、朝の会議中に、飛び込んできた話は、耳を疑うものだった。当初、都心で、事件が起きたらしい、とされ、その内に、毒ガスか何かが、漏れることで、多くの犠牲者が出た、と変わっていった。画面に、映し出される光景は、俄には、信じられぬものだった。
その後も、何が起きたかについては、定まらぬままに、毒ガスの正体さえ、伝えられぬ中、不安が広がった。と言っても、都心から離れた場所では、何処か遠くの事件であり、その後の展開から、明らかになったことの方が、遥かに、不可思議なもの、となっていったのだから、何とも、訳の分からない話だ。ここでも、読んだ本で、紹介したように、その正体は、サリンと呼ばれる、戦時中に開発された、毒ガスであり、その致死性から考えるに、製造自体が、困難というより、危険過ぎて、誰も手を出さぬもの、との受け取りが、広がっていた。その後、宗教団体が関わった、テロ事件と紹介され、例の代弁者や支援者達が、盛んに、否定する中、多くの幹部や信者が、逮捕されていき、拠点の捜索から、製造が、ほぼ確定されたものの、現物が、差し押さえできぬ中、これもまた、不思議としか、表現できない遣り取りが、画面に映し出された。犯罪が確定し、死刑が執行されると、皆の記憶が、薄れ始めた、とも指摘されるが、まだ、疑問を指摘する人々が、沢山残っているようだ。今月読んだ本で、後程紹介する書籍は、当時、警察組織の中で、最重要な立場に、あったと言われる、人への直接取材で、多くの内幕が、明らかになった、と帯では謳っていた。だが、読んだ感想は、落胆一色であり、結局、何も明らかにならず、事件の核心は、依然として、霧の中にある、としか思えない。本人の弁で、防げなかったのは、自分の「覚悟」が足らなかった、としていたが、そのこと自体でさえ、何も明らかにせず、誰に対する、どんな「覚悟」なのか、明確にされなかった。取材は、弁護士と、当時、取材に当たった新聞記者が、中心となっていたが、こちらから見ると、当時の遣り取りで、最も重要な役割を、果たしたのが、報道であった筈で、その立場の人間が、何の関わりも、触れぬままとは、呆れるばかりだ。世間とか、世情とか、そんな言葉で、誤魔化す人々は、自分が、何をどのように歪曲したかに、触れぬままに、他人事のように、扱う態度を、何と思うのやら。