パンチの独り言
思いつきを書きつづったものです。ご意見はメールでお願いします

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10月26日(日)

 どの国でも、国を治める人間が、変わった瞬間には、期待度も含め、支持率が高くなる。海の向こうでは、直接ではないが、候補に投票するのではなく、それを支持する選挙人に投票する形で、結果的に、候補を選ぶこととなる。一方、こちらでは、多数を占める政党が、権利を持つ。
 その為、その政党の総裁や代表が、治める人間となる。彼方では、大統領と呼ばれる人物が、力を有するが、一部の国では、その地位ではなく、首相が、その任にあたる。此方では、大統領は、元々存在せず、全ての権利は、首相、つまり宰相が、有することとなる。ただ、世界的な混乱と同様に、此方も、二大政党制ではなく、多くの政党が、乱立する中、混沌とした状況が、形作られ、ある意味、歪んだ状況にある。その為、多数であることは、変わりがないものの、過半数には至らず、混沌とした状態に、陥った。それを決める前に、政党の総裁を、決める過程が来たから、従前通りに、その人物が、自然と任にあたる、と思われたが、近づいてくると、様々な憶測が、飛び交い始めた。政治に対する、意見となった途端に、賑やかとなる、媒体界隈は、何方も、好き勝手な意見が、飛び交うようになり、不安定感が、漂い始めた。だが、結局、何の話し合いからか、落ち着き所が、見出されて、今に至っている。さて、そうなると、以前とは異なる、変化への期待と共に、そのまた前の、経済活況を、思い出す向きもあり、株式市場は、活況を呈し始めた。ただ、よく見てみると、宰相の交代は、確かに、政策転換の始まり、と思えなくもないが、細かな点では、結局は、官僚政治の典型、とも思える動きが、始まったように思える。掛け声は、確かに、宰相から発せられるが、何時、どのような変化が、起きるかについては、それぞれの役所の、上に占める人物達が、考えたように、動き始めており、財務にしろ、農林水産にしろ、従来から、監督官庁が、進めてきたことが、実現するように思える。所詮、この国は、そんなものだ、と諦めの声が、聞こえ始めるだろうが、それこそが、良い意味でも悪い意味でも、安定の源と思え、それが、庶民達の望む、安全安心への、道筋とも思える。動きが、重くなるのは、止むを得ないことだが、それだけ、暴走が少なく、安定が手に入る、と見るべきだろうか。

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10月25日(土)

 偽物ばかりに、満ち溢れる世界、どう見るべきなのか。嘗ては、地面師の如く、現実の世界で、対面する中、相手を騙すのが、詐欺師の常道、と言われてきた。しかし、それが、情報社会の発展から、仮想世界のものへと、移りつつある。現実ならば、大丈夫と思っても、そうも行かぬ。
 機械が作り出したものなら、機械に見分けさせれば、との考えもあろうが、事は、それ程には、単純ではなさそうだ。初期の画像などは、欠陥だらけで、子供騙しと揶揄され、この程度なら、懸念の必要なし、とさえ言われた。が、その後の発達から、一目では、区別が付かず、様々に、検討する必要がある、と言われる。そこに、見破る為の人工知能まで、登場すると、何だか、マッチポンプの様相、とさえ思えてくる。作る側も、騙す側も、暴く側も、全てが、機械となり、それが無ければ、騙すことも、見破ることも、できないとなる。本当に、そんな世界を、望んでいるのか。ここでも、資金力の差が、実力の差となり、貧富の格差は、広がるばかり、となりかねない。改めて、問いたくなる。本当に、そんな世界、そんな時代を、望んでいるのか、と。最近の、偽情報に関しても、多くの媒体が、社会と大衆に関係なく、取り上げており、実情の報告が、行われている。確かに、嘗てと比べれば、遥かに、整えられたもの、に見えなくもないが、実際には、そう思って見るから、ということもあるが、何となく、怪しげに見えてくる。だったら、自分でも、何とかできる、と思うのは、構わないことだが、で、結局、騙されてしまったとしたら、どうなるだろう。そんな心配に、苛まれる人が、居るのだろうか。周囲を、見渡す限りにおいては、そんな人を、見つけることが、できない。だが、媒体は、そんな人ばかり、と伝えてくる。本当なのか、と疑っても、他人事だけに、如何ともし難い。まあ、自衛を心掛け、口車なのか、別のことなのか、何れにしても、騙されぬよう、備えねば、と思う。何しろ、転ばぬ先の杖に、見破る仕組みを、購入しませんか、などと売り込まれては、面倒なだけだから。

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10月24日(金)

 迷惑メールの数が、どんどん増えている。以前も書いたことだが、日々送られてくる、確かな送り主のものに比べ、遥かに多くなっている。無駄、と言って仕舞えば、その通りなのだが、この無駄、必要悪とでも見るべきか。そんな筈は無い。単なる無駄であり、撲滅すべきものだ。
 それでも、メールを管理する仕組みは、総じて、それらの殆どを、塵と片付ける。一目で、それと分かるから、と言って仕舞えば、その通りだが、事は、簡単ではない、と思う。例えば、多くの人々が、私用で用いる仕組みは、経験豊かとでも、言うべきだろうか、ほぼ的確に、仕分けをしてくれる。それに対し、同様に、検索などで、使われることが、多い仕組みの方は、目溢しが、目立っている。届いたものから、こちらの判断で、報告した上で、捨てるのが、習慣となる。同様のものが、度々届くだけでなく、報告後も、変化が起きないので、仕分けの仕組み自体が、未完成なのかも、とさえ思いたくなる。こんな状況で、一般庶民は、どうしているのか。何度も、騙されて、なけなしの金を、失い続ける、という人は、流石に居ないだろうが、少し心配になる。一方で、迷惑メールと断じられたものに、送り主の変化が、起き始めた。税務署や警察などの、公的機関が、目立ち始めていたが、それに加えて、宝くじに関連するものが、急増し始めたのだ。中身を、見る気も起きないが、件名だけでも、その異常さが、垣間見える。ただで、くじを配布する、とか、そんな馬鹿げたことが、書かれているのだ。一体全体、こんな話に、誰が乗せられるのか、と思うのだが、世の中は、理解不能に溢れている。ひょっとすると、そんな与太話でさえ、騙されて、個人情報を、書き込む輩が、居るのかも、だ。少し前、株取引の口座が、乗っ取られる話が、流れていたが、その後、接続法が、厳格化されて、収まったように見える。でも、最近、接続時間が、管理されるようになり、無操作時間が、続いた結果、切られることが、増えたように見える。ここも、管理を厳密にした為か。再接続が面倒だが、安全確保と諦めるか。

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10月23日(木)

 新政権が動き出し、停滞していた政策が、出始めると言われる。例えば、暫定税率の廃止も、懸案の一つであり、物価高対策の目玉として、注目が集まるが、同様のものとして、庶民が期待するのは、各家庭への現金給付、なのではないか。施しばかりを、期待する人には、特に。
 その効果の程が、如何なるものか、誰にも判らぬ、とも言われるが、これまでの実施では、当然、歓迎の声で迎えられたが、その後の状況には、殆ど効果が無かった、とも言われる。にも拘わらず、繰り返し検討するのは、票集めの効果を、期待するからであり、経済対策とは、とても呼べない代物、となっている。その場凌ぎに過ぎず、長い目で見たら、ただ単なる無駄遣いを、増やすのみ、とさえ言われるが、では、長い目で見て、どんな経済政策を、講じるべきなのか。中央銀行の前総裁が、先日の講演会で、指摘したのは、意外なものだった。それは、大学や研究機関への、支援に回すべき、というものであり、他の先進国に比べ、その額が、異常に低いことが、発言の発端となる。また、偶々だろうが、先日の受賞発表で、二人の研究者が、栄誉を受けたことから、そこに注目が集まったことも、関係するだろう。ただ、どのような支援が、必要なのかについては、様々な考えが、交錯している。財政当局は、相も変わらず、競争的資金一辺倒であり、説明の手立てを持たぬ、教育や研究の監督官庁は、従うばかりで、新たな方策を、講じる気配も無い。だが、先進国の中で、見劣りする補助金は、教育や研究に対して、大学や研究機関に、出される基盤的なもので、先端をいく研究への、期待を込めた、競争的なものとは、明らかに異なる。そう考えた時に、前総裁が発言したように、家庭への給付より、大学や研究機関への、補助金に回すとしたら、どんな額が、配付されるのか。給付の予算は、記事によれば、八千億から一兆五千億円と言われ、最低の水準で考えても、八百弱の大学に、均等に配付したとして、一つ十億円となる。それだけあれば、将来の人材を、育成する為に、十分な投資ができる、と考えられるが、どうだろうか。

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10月22日(水)

 季節の変わり目、体調管理に、気を使う人も、多いのではないか。確かに、つい先日までは、猛暑の名残のような、高温が続いていたのに、急に、寒さを感じ始めた、とさえ言われる。温度の変化を、眺めてみれば、まさにその通りで、夏日さえ、何処かに行ってしまったか。
 で、そうなると、途端に、騒ぎ出す人が居る。気温が下がり、不快に感じる、とばかりに、叫び声を上げる訳だ。それも、致し方ない、とも思えるが、それにしても、上がればああだ、下がればこうだ、という具合に、文句ばかり並べて、何が楽しいのか、とさえ思えてくる。季節の変わり目に、気温が上下するのは、春でも秋でも、よくあることだが、極端な気温だけを、取り上げて、騒ぎたい人には、そういう季節が、無くなることが、一大事とばかりに、騒ぎ立てる。先日も、長期予報で、冬の訪れに関して、報じていたが、その中では、秋が短い、との話が、実しやかに語られていた。冬から夏にかけても、同じような話が、流されており、春は短い、と強調していた。その途端に、あっという間に、夏本番の気温となり、ほらみろ、と言わんばかりに、繰り返していた。猛暑や極寒は、誰にとっても、不快なものだろうが、その一方で、快適な気温、というものは、これと決まった範囲が、無いように感じられる。気温の変化において、昨日と比べて、と置いてしまうと、確かに、同じ気温の数値でも、上がったか、下がったかで、全く異なる反応を示す。絶対的な値を、正確に測定できる、温度計と異なり、人の体は、そういう具合には、働かないからだ。そんなことは、当然なのだが、安全安心を、求める人々は、ここでもまた、快適という感覚を、最優先に考えるから、温度変化による、反応の違いに、振り回されるのだ。四季の変化を、楽しめることが、この地域の特長であり、それを、良いことと捉えているが、その一方で、体は、その変化に、対応できないまま、ああだこうだと、文句を並べる。まあ、所詮そんなもの、と思えば、納得できる筈だが、要求ばかりが、高まる人には、満足など、ある筈もない。

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10月21日(火)

 この所、大企業が、攻撃に晒されている、という話が、頻発している。情報社会において、このような攻撃は、大きな被害を、生じるとともに、流通社会の混乱から、日々の生活までもが、危機に瀕する、と言われる。ただ、一般庶民にとり、その詳細は、全く見えない。
 企業を管理する仕組みに、直接攻撃を加え、正常な機能を、失わせることで、業務を滞らせる。ただそれだけなら、まあ、目を瞑っておけば、とも思えるが、伝えられる情報では、仕組みそのものの、機能を失わせるだけでなく、機密情報を、外部に持ち出して、それを公開することで、企業の経営そのものに、甚大な被害を、及ぼすこともある。その際に、金銭を要求するから、犯罪集団は、それにより、利益を上げる、となる訳だ。ただ、多くの事件で、情報を、人質の一種として、身代金の要求をしても、応じないように、との指示が、政府や警察関係から、出されるようで、公式には、そのような取引は、なかったとされる。と言っても、裏での取引が、無かったとの確認は、取れていないから、何とも言えぬ状況、にあるとされる。それにしても、このような犯罪が、横行することに、企業関係者は、次は、との懸念を抱き、危機感を、募らせているだろう。企業経営にとり、情報の流通は、欠くことができぬもの、となっているだけに、この手の脅威が、及んでいるとしても、外部への接続を、遮断する訳にもいくまい。だから、この手の犯罪は、次々に起き、仕組みそのものの、脆弱性に付け込んだり、社員や職員の、軽率な対応を端緒として、その手のウイルスを、仕組みの中に、入り込ませる。接続が、不可欠なものだけに、防ぐ手立ては、構成員全員の、確実な業務執行と、仕組みに接続した、機器の脆弱性の除去しか、無いと言われている。ただ、手口の巧妙さは、上がるばかりとなり、単純な保守点検だけでは、不十分となりかねない。多くの事業所は、構成員の教育に、更に力を入れ、軽率な行動を、避ける手立てを、講じるが、さて、どうなるか。素人考えだが、接続の方法そのものを、工夫することも、必要なのでは、と思える。孤立するものと、接続するもの、その間を繋ぐ、厳しい制限を課した、仕組みがあれば、と思うのだが、どうだろうか。

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10月20日(月)

 偽情報も、自分で集めたもの、となれば、少しは、責任を感じるが、押し付けられたものだと、かなり、違った感覚を、抱くのではないか。これも、以前、書いたことだが、手にした端末で、受け取る情報の中には、社会媒体だけでなく、電子メールという、通信手段がある。
 社会媒体も、電子メールも、情報の受信だけでなく、送信もできるから、場合によっては、犯罪に加担、という事態に陥ることもある。だから、注意せねば、などと書いても、多くの人は、自分には、当てはまらぬ、と思うだろう。それより、被害者になることを、専ら、恐れているのだ。その中で、自業自得とも、言われるのが、社会媒体に広がる、詐欺に騙される、という事件だろうが、如何に巧みに、仕組まれていても、接する機会がなければ、何の問題も起きない。だから、変な所には、訪問しない、という人が多く居る。確かに、その通りだし、自衛手段として、最良のもの、と見る向きも少なくない。でも、情報収集と考えると、遮断することは、折角の情報に、出合うことなく、千載一遇の機会を、失うことになる、と言う人も居る。まあ、何方を選ぶかは、本人次第だろう。だが、電子メールでは、自分の宛先さえ、知られてしまえば、何かしらが、送られてくる。その中に、詐欺が入っていれば、時に、騙されることもある。こちらは、誰か別の人の、記録から盗まれたものが、発信先として、使われるから、自業自得とはならず、まさに、典型的な被害者、となる訳だ。だったら、どう防ぐのか。これもまた、怪しいものは、開かずに放置する、という手段が、推奨されるが、手口が巧妙になるに従い、怪しさだけでは、区別がつかぬ、という場合が増えてきた。それでも、メールソフトが、怪しいものを、選別して、ゴミ箱に捨ててくれるから、まだ安心、だと思う人も、多いだろう。それは、本当だろうか。ソフトによる、としか言いようがないが、やはり、最後は、自分で何とかするしかない。とは言え、肝心なメールの数十倍の数が、日々送られており、念の為とは言え、確認せねばならぬ、となれば、かなりの手間となる。もう、この世界は、そんなものだと思えば、そろそろ手放す時かも、とさえ思えてくる。さて、どうなるやら。

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10月19日(日)

 物価高騰に、何か救いの手を、と思う人は、多いだろう。だが、何をどうすれば、役に立つのだろう。一部には、減税の声が、あるようだが、懲りもせず、としか思えぬ。物価は、確かに、日々の生活に、密接に関係するが、それだけでなく、公共事業にも、当てはまるのだ。
 なのに、そこに、税収を減らしたら、何が起きるか。こんな想像さえ、出来ぬ程に、政治家の頭は、鈍っている。兎に角、票を稼ぐには、何が魅力と映るか、という点にしか、目が向かぬのだ。そんな愚か者に、政を任せるか、少し考えれば、判ることだろう。確かに、燃料費に、課された税金は、手っ取り早さから、導入された後、その使途さえも、限定を外され、流用自由となった。原点に戻り、使途の制限を、掛け直すか、あるいは、思い切って、廃止するかが、今決めるべきこと、なのかも知れぬ。だが、そうすれば、税収は、確かに減る。その分、どこから補えば、という問題に、真剣に取り組まねば、公共事業自体が、回らなくなり、住民に提供できるものは、減り続ける。だとしたら、どうすべきか。前にも書いたが、法人税を、まずあげることから、始めるべき、と思う。企業流出が、止まらなくなる、との見解を、大真面目に主張した、人々が居たことは、よく覚えているが、その通りになるかは、定かでない。その上、世界的傾向からは、本社のある地域での、納付ではなく、各地域での、収益に対して、税額を聴取する、という仕組みが、採り入れられようとし、全体の構図が、大きく変わり得るのだ。その意味では、法人税は、今より税率を上げ、その上で、納税を同額に、保とうとすれば、収益を減らす為に、従業員の給与を、あげる努力を、すべきと考える。こうすれば、物価の上昇分を、ある程度賄えるから、生活は苦しくならず、満足が広がるだろう。更に、所得税の収入は、税率を上げずとも、増えることになるから、公共事業も、十分に行える。当然、ふるさと納税なる制度は、廃止すべきで、残すなら、故郷への寄付、とすべきだろう。それこそが、本来の姿であり、餌で誘う、納税制度ではない。ここまで考えれば、妥当な政策とは、如何なるものか。解る筈ではないか。

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10月18日(土)

 偽情報に、惑わされぬよう、どんな備えが必要か。などと、考えたくなる程に、嘘や捏造が、情報社会に、満ち溢れている。だが、備えようにも、何をどうしたら、と思う人の方が、遥かに多いだろう。愉快犯として、嘘や捏造を、撒き散らす輩でさえ、結果として、騙されるのだから。
 他人を、騙すことにより、喜びを感じる、という劣悪な人間にとり、今の時代は、楽しくて仕方ない、のではないか。だが、自身が、被害者になったら、どう考えるのか。そんな心配は、しても意味が無い、と思うだろうか。詐欺電話が、横行する時代には、それに加担する人が、必ず必要となる。ただ、彼らの多くは、それによって、泡銭を、手に入れられることは、殆ど無いまま、監禁状態に置かれ、奴隷のような、扱いさえ受けている。最近の、海外拠点の話では、そんな様子が、伝えられるが、彼らも、被害者である、という意見さえ、出てくる。様々な犯罪で、裏で糸を引き、暗躍する首謀者以外は、所詮、金に目が眩んだとはいえ、大した分け前も受けずに、半分脅されながら、使われたり、海外拠点に、監禁状態で、命令に従うしか、方法が無かった、とされる。だから、被害者の一人、と見做す意見もあるが、加担する限りは、どんな状況でも、加害者でしかない。別の考えが、実しやかに、論じられるのは、今の時代の、物事の考え方が、如何に歪んでいるかを、表しているに違いない。責任の問題を、矢鱈に取り上げるのも、自分の責任を、棚上げにする為で、所詮、責任逃れの、言い訳に過ぎず、こんな論法が、通用すると思うこと自体、社会全体に、真っ当な論理が、通用しなくなりつつある、ことを表している。その上で、海の向こうの暴君の如く、好き勝手に振る舞っても、権力さえ握れば、という馬鹿げた例が、通用するとなると、まともな考えを、主張する気持ちも、失せてしまいそうだ。でも、屈してはいけない。主張すべきは、しつつ、相手の過ちを、糾弾せねば。

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10月17日(金)

 仕組み自体に、問題がある、という意味では、何方の媒体にも、当てはまる話だ。管理体制として、参加者が、それぞれに責任を持ち、健全な環境を、構築すると言っても、所詮、悪意の人々は、どんな社会にも居て、排除できないし、一方で、認可を受けたと雖も、信用ならぬ点も。
 これらの点に関しては、送り手の問題、だけではなく、受け手の問題でもあり、自分の身は、自分で守る、という点からは、仕組み自体の問題、とするのではなく、それはあるものとして、皆が注意する必要がある、ということだろう。では、仕組みではなく、内容についてはどうか。ここでも、かなりの違いが、指摘されており、一長一短なのか、はたまた、全く別のことか、まだ定まらぬ、という状況か。ただ、多くの人々が、個別に参加し、その中での、意見交換が行われるから、社会媒体の方が、何かと盛り上がり易く、時に、議論沸騰となる。その点では、情報伝達という面でも、ある見方からは、優れている、と見る向きもある。一方的で、一方通行な、大衆媒体では、権威の意見のみが、掲げられることとなり、大衆の考えが、盛り上がることは、少ないようだ。ただ、玉石混淆となるのは、やむを得ないことで、その点を含め、読む側が、注意をした上で、自分の意見を、掲げることが、要求される。それが、上手く運ばぬと、軍事侵攻直後の、かなり偏った盛り上がりの如く、一部の事実のみを、取り上げて、さも正しいかのように、扱う意見が横行し、収拾がつかなくなる。結果として、歪み合いを含め、対立が高まり、分裂が進みかねない。一方、大衆媒体は、確かに、権威ばかりが、目立つのだが、彼らが、慎重に検討し、練り上げた意見であれば、偏りは少なく、俯瞰的なものが、掲げられる。軍事侵攻に関して、攻め込まれた国が、どう対処してきたかを、解説した記事が、経済紙に掲載された。要するに、攻め込んだ国が、圧倒的勝利を、主張しているが、その実、軍隊の犠牲は、非常に大きく、安泰と思われた、国内の施設さえ、被害が及ぶ事態に、攻められた国こそが、勝利を収めつつある、との見解が、示されている。最近は、社会媒体では、とんと噂を聞かなくなり、どうしたものかと思うが、ひょっとすると、飽きただけかも、とさえ思えてくる。それに加え、情勢が膠着し、勝利も怪しくなりつつあるのが、影を落としたのかも。

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10月16日(木)

 情報源として、何を頼りにするのか。時々、世論調査のようなものでも、尋ねられる問題だが、嘗ては、専ら大衆媒体と、友人、知人だったのが、今では、社会媒体が、加わっている。組織内とは言え、自らが確認して、記される大衆媒体や、人としての信頼に基づく、人間関係に対し、
 社会媒体は、その基本となる部分が、大きく異なっている。一人ひとりが、違う考えを持ち、それらを、表明することで、接する人々は、その中から、共通項を選び出し、自分なりの、結論を導くことが、想定されている。だが、現実は、大きく異なる状況で、一人ひとりが、勝手に考えたことを、好きなように表現し、同調者を集めると、より大きな意見となり、それが事実かの如く、扱われるようになる。実は、そこに、自分なりの判断が、入り込む余地はなく、ただ、盲信的に受け入れる、という形式しか、使えない人が、多く居るのだ。そこから、種々雑多な問題が、噴出することとなり、一部から、厳しい批判が、浴びせられている。にも拘わらず、鵜呑みにする人は、その習癖を、改めることができず、何度も、騙されることになる。その上、匿名性の有無に関わらず、社会媒体の仕組みでは、対面性の出会いと異なり、相手の確認は、仕組みそのものが、行っている、と想定されるので、成り済ましなどが、横行することとなり、その持ち主が、詐欺の片棒を担ぐ、ことになってしまう。現実には、仕組み自体も、持ち主自身も、自らが、管理を、責任を持って、行うべきだろうが、誰もが使い易く、という仕組みでは、安全性の担保は、覚束なくなる。結果として、被害者が、出てくるわけだが、片棒を担いだ人間は、加害者ではなく、彼ら自身も、被害者なのだ。先日も、実名での付き合いのある人物が、乗っ取りに遭い、成り済ましにより、投資顧問の偽広告を、掲載させられていた。本人曰く、この所の状況から、そろそろ、社会媒体から、手を引く潮時か、と思っていたようで、もしそうなれば、折角の結び付きも、途切れてしまい、残念に思う。手にした端末から、世界中の誰にでも、発信できるという、便利な仕組みも、こうなって仕舞えば、悪党の便利な道具、に過ぎないものだ。利用者自身も含め、関わる人々が、それぞれに、役割を果たさねば、この道具は、打ち捨てねばならぬ。まあ、情報そのものでさえ、使いようで、何とでもなる訳だから、こんなことは、当然なのかも、だが。

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10月15日(水)

 政局の不安定は、相場にも、影響を及ぼした。その場の問題より、将来への期待や不安に、強く影響されるから、この動きは、当然のもの、と見る向きもある。ただ、自分達の長を、決める前の不安から、続いていた下げが、決まった途端に、一気の上げとなったのだが。
 いざ、協力体制が、崩れた途端に、それまでの上げを、吐き出すこととなった。長い目で、見た時とは異なり、こういう激しい動きは、ある時期から、多くの参加者が集まった、日々の売り買いで、儲けを出す動きに、大きな影響を、及ぼすのだろう。だが、今回のものは、その後の動きとして、少し落ち着きを、取り戻しただけに、一部の投資家は、一息ついているだろう。その上、短期の運用でなく、長期での運用を、続ける人にとっては、上下するとは言え、ある程度の範囲に、留まっている限りは、その後の上げ相場への、期待が膨らむ、というものだ。ある意味、資産運用の世界では、経済の成長が、続くことが、想定されており、その中で、株価の上昇だけでなく、配当などの分配が、大きな要素となる。現時点では、世界的な不安定が、続いているだけに、長期を主体とする、資産運用方針には、何かしらの、安定を手にしたい、と願う声が、強まっている。ただ、今の不安定を、産み出している、三極については、安心できぬ、と見る向きが、多数だろう。とは言え、その他の国々にとり、この不安定は、ある意味、想定されたもの、と見ているだろうから、その中で、如何なる経済活動を、続けていくのか、更には、それぞれの国民の、生活を守るには、何をすべきか、考えていかねばならぬ。さて、どうしたものか。ここ暫くは、様子見となるのだろう。

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10月14日(火)

 札を使う遊びでは、切り札の存在が、重要とされる。世界が、侵攻やら紛争やらで、不安定になる中、紛争が激化する、端緒を与えた動きは、人質という、切り札を手に入れ、それにより、係争地の交渉を、有利に運ぼう、とするものだった。だが、目論見は、大きく外れた。
 地域には、確固たる政府が、存在しない中、地下活動を、主とする勢力が、実効支配を、していた訳だが、彼らの急襲により、人質を取られた国は、断固とした態度に、出ることで、裏交渉には、応じない姿勢を、貫いた。それにより、地域は、苛烈な爆撃に、晒されることとなり、市民は、家や人命を、失うばかりか、定住さえ覚束ぬ、明日をも知れぬ、窮乏状況へと、追い込まれた。本来なら、市民の代表となる、暫定政府は、この交渉では、蚊帳の外に置かれ、権利を守る為の、活動が一切できず、無力な存在と、見做されてきた。一方で、実効支配を続ける、地下活動組織は、爆撃による被害を、声高に訴えることで、世界の同情を得ようと、活動を続けてきたが、その一方で、市民を盾にして、隠れ続ける姿勢には、人質をとる行為と共に、批判が強まっていた。このまま、膠着状態が、続くかと思われたが、海の向こうの大統領は、ある意味の、脅しに似たやり方で、強制力を行使し、生き残った人質の、解放へと漕ぎ着けた。これを、素晴らしい行為、と見る向きがあるが、それ自体が、無価値とは、誰も思わないだろう。ただ、今後の展開は、依然として、複雑怪奇なままで、今回の紛争の、最大要因である、地下組織の解体は、望めそうにない、と言われている。だとして、どんな展開が、起きるのだろうか。変化は、今回のようには、急なものにはならず、おそらく、ゆっくりとだが、確実に、組織の無力化を、進める必要があり、その中心となるのは、頼りない暫定政府ではなく、市民の一部が、中心となって活動する、何らかの組織が、担うしかないように思う。一部の発展途上国で、政府の転覆が起きた後、その力の中心となった、若者達が、政治参加することで、徐々に、再構築が進むが、それと似たことが、起きることに、期待が集まる。ただ、何も無い所には、何も起きず、何も変わらないのは、当然のことだ。次の展開に、外力への期待は、困難に思える。

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10月13日(月)

 混迷の時代、少数派の台頭が、どの国でも、目立ち始め、半数を超える勢力が、存在しなくなると、途端に、数合わせなる操作が、加えられ始めた。二大政党制を、採用する国では、そんなことは、起きる筈もないが、政党乱立が、際立つ国では、まさに、右往左往の状態に、陥っている。
 それらと比べたら、遥かに安定的、と捉えられてきた、この国でさえ、若者達の動きが、他の世代へも、影響を及ぼしたからか、不安定な時代へと、突入し始めた。前々回の、政権交代では、与党が惨敗し、野党の中の、一つの政党が、圧倒的な勝利を、収めたことから、当然の交代、となった訳だが、世界中で、蔓延する混乱では、どの政党も、過半数に達せず、結果として、共闘を組むしか、方法が残らぬこととなり、寄せ集めの集団は、共通理念を有さず、付いたり離れたりを、繰り返すことで、混乱が、更に増すことへと繋がった。では、こちらは、どうなるのか。ついこの間までは、身内の頂点を、決めることだけに、躍起となって、やっと決めたと思われたが、その過程で、身内の闇を、暴くことは、どの候補もせずに、浄化が進むとは、とても思えぬ状況を、露呈した。その為か、協力関係が破綻し、安定が崩れることで、他国の混乱と、同じになるのでは、との懸念が広がっている。どう転ぶかは、今後の、数合わせの作業に、よるものと考える人が、多いようだが、それでは、何も変えられず、ただ右往左往するのを、続けるだけとなる。鶴の一声、を待つ意見もあろうが、現状では、それほどの胆力を、有する人物は、政治の世界には、存在しない。ただの権力争いに、終始するだけの、心持ちでは、舵取りも、心許なし、としか言いようが無い。だとしたら、何をどうすれば、と言っても、勝手なことを、書き並べるだけの、社会媒体も、政治の予想屋だけで、根幹にあるべき考えを、議論しようとしない、大衆媒体も、何の役にも立たない。まあ、政の混乱とは、無縁な形での、官僚による、国の舵取りに、期待するしか、無いのかもだが、こちらも、惨憺たる状況で、困ったものだ。いやはや、どうなることか。

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10月12日(日)

 変化について、大きな影響を及ぼしたのは、どの国でも、移民の問題だろう。経済停滞が続き、生活が逼迫する中、労働の機会を奪う、人の流入や、皆が納めた税金を、元手として、施される難民支援など、どれも、悪い面ばかりが、目立つものとなっている。嘗てとは、違う姿だ。
 典型的なのは、海の向こうの国で、今の国の形を、取ることになったことも、その後の繁栄も、ほぼ全てが、外からの人の流入、つまり移民により、支えられてきた。奴隷制度は、全く異なる話で、依然として、暗い影を落とすが、その廃止後も、政情不安定の国や、貧しい国々から、多くの移民が訪れ、自らの努力で、成功物語を、達成してきた。その過程では、時に、経済停滞が起き、戦争が起きることで、外からの人に対し、厳しい政策が取られたことも、あったには違いないが、総じて、正の効果を、及ぼしてきた、と言えるだろう。だが、安定が長く続き、ある意味で、成長が望めなくなると、そこに住む人々の感覚に、大きな変化が起きた。植民地からの流入、に限られていた国だけでなく、海の向こうでさえ、排斥運動が、盛り上がるのは、自らの出自を、棚に上げた上で、現状維持を、貫こうとする動き、なのではないか。だが、これまでの成長が、如何に保たれていたかを、考えてみると、かなり危険な考えとも、思えてくる。こちらでは、かなりの昔に、大陸からの人々が、流入したことが、確認されているが、その後は、他民族の割合は、あまり増えずに、国の繁栄を築いてきた。ただ、少子高齢化は、労働力不足に、繋がるとの見方から、外国人の労働力を、取り込む必要性が、取り沙汰され、一方で、経済停滞が、一時の低迷を、脱したとは言え、依然として、厳しい状況に、あることから、世界と同様に、排斥への方向に、舵が切られ始めた。その中で、ある政府機関が、特定の国と特定の自治体を、結び付ける動きを、発表したことから、極端な意見ばかりが、社会媒体に、流れ始め、その勢いが、急激に増した。ただ、極論の多くは、まさに、極端そのもので、単純な誤解や、恣意的な曲解に、基づくものであり、良識を疑うものとなる。横並びが、普通だった時代なら、こんなものは、すぐに忘れられるが、今は、正反対とも見える時代、このままでは、暴走しかねぬ話だ。ただ、単純な嘘に、騙されたり、あり得ない展開を、信じ込むのは、やはり、判断力、吟味力の不足、としか思えぬ。高等教育に、過半が触れる時代に、なんたること、と思えるのは、やはり、その教育が、目的を果たしていない、証左なのではないか。

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10月11日(土)

 変化に関して、この所、書いてきたことに、違和感を抱かなかったか。変わる、変える、とは、自分事として、何をどう変えるのか、が肝心となる。だが、今の世界的状況は、自分達ではなく、政治家やその他の人々に、変化を強いており、彼らが変われば、自分に利がある、と信じている。
 これは、責任転嫁の典型であり、自分だけは、問題とならない、と思うからこその、考えなのだと思う。でも、誰もが、これまでの人生を、顧みてみれば、自身の問題の方が、遥かに多かった、と思うのではないか。だとしたら、まずは、自身に、変化を促すのが、先となりそうだ。だが、現実には、正反対のことが、起きている。ここでも、海の向こうの暴君の、言動が、深く関係しており、自分の所業について、何の反省もなく、ただただ、自画自賛、否、自画自慢を続けており、異論が出れば、その発信源を、徹底的に、糾弾することを、続けている。確かに、閉塞感が、広がる時代には、自信を保つことは、更に困難となり、皆で、落ちて行きかねない。だからこそ、過信でしかない、自信の塊こそが、人気を博す訳だ。でも、本当に、閉塞感が、世の中に満ちているのか。その点に、もっと目を向け、自身ができることを、見つけ出すことが、余程重要なのではないか。そんなことを、書き連ねるのは、他人のせい、国のせい、政治のせい、などの言葉を、並べ立てるばかりで、より良くする為に、自分にできることは、何か、という重要な課題に、真摯に取り組もう、としないからだ。一方で、悲劇の主人公に、なることばかりを、優先に考えるから、こんな問題でも、自分ではなく、他の人間に、解決策を考えさせよう、とする傾向がある。これは、今、先進国の多くで、問題化している、移民・難民の事柄にも、通用すると思う。発展途上国で、恵まれない生活を、強いられる人々が、何かしらの理由を、掲げることで、先進国へと向かい、そこで、申請することで、豊かな生活を、手に入れようとする。特に、恵まれぬからこそ、救われるのが、当然という態度で、本来の、移民特有の、努力に基づいた、成り上がり根性が、全く見られないのが、最大の問題となる。弱者保護が、安定した時代に、大きく捻じ曲げられ、こんな姿に、なってしまったことに、違和感を覚える人は、少なくないと思う。だったら、自分も、責任転嫁ではなく、自身を変えること、から始めるべきだろう。

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10月10日(金)

 今の時代、変わること、変えることが、当然と思われている。だが、昨日書いたように、どう変えるかについては、殆ど議論されず、一部の人が、勝手気儘に、変えたことに対し、次々と、不平不満を並べる、という遣り取りが、行われる。結果として、何も変わらず、次を、と動く。
 だが、ほんの四半世紀前、世紀の変わり目の頃は、全く違う状況だった。経済停滞が始まり、天井知らずだった成長に、翳りが見えるどころか、坂を下り始める中、先行きへの不安が、広がりつつあったが、中枢に居る人々が、変化を起こそうと、動き回るのに対し、若者達は、現状維持を、強く求めていた。今から見れば、何と先見性の無いこと、と思えるだろうが、当時の若者は、全く別の考えに、取り憑かれていた。ここでも、何度か指摘したが、平和が長く続く時代には、傾向と対策が、最善の策であり、それを繰り返せば、先行きは明るく、自身の成長も、約束される、と思われていた。その中で、変化は、歓迎できぬものであり、何としてでも、阻止すべきもの、と受け取られたのだ。では、その後、どんな変化が起き、何が、今のような流れを、始めさせたのか。変化は、止むを得ないもの、として、新たに始める人に対し、適用されるようになり、一部の職場では、雇用自体が、定年までの終身制ではなく、ある期限をおいた、任期制となることで、望んできた、安定が手に入らず、常に、不安定な状況に置かれ、努力や成長を、続ける必要が出てきたのだ。ここでは、従来の傾向と対策は、通用しないものとされ、自ら変えていくことが、必要とされた。だったら、一層のこと、変化そのものを、想定した方がまし、とばかりに、全てを変えようとする、動きが始まったらしい。ただ、より良くする、という考えなしに、変えることから始めると、結果は、惨憺たるものとなる。それでも、変化そのものは、望み通りに、行えたのだから、満足すべき、とされてしまっては、元も子もない。だから、次の変化を、と繰り返せば、ただの不安定に、押し込まれるだけだ。解っている筈、と書いたのは、このことであり、何をどうするのが、より良くすることなのか、考えるべきだし、百も承知なのだと思う。

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10月9日(木)

 変えたい、と願ったのは、何故なのか。今になって、思い出せるだろうか。悲惨な状況が続き、閉塞感が増すばかりで、このままでは、落ちていくのみ、となりそうだ、と感じたからこそ、現状を打破するには、変化を求めるしかない、となったという訳だ。本当なのだろうか。
 まず、悲惨な状況、と盛んに訴えるが、どう悲惨なのか、何処に問題があるのか、十分に説明できず、本質を捉えぬままに、周囲が盛んに言うから、などと言い出す始末。自分から、問題に取り組み、その解決を、模索しようとする、そんな心の動きは、一向に感じられない。だから、こんな連中の相手は、御免蒙る、と言ってしまっては、やり過ぎとなる。それよりは、相手の問題を、聞き出した上で、その解決法を伝授する、となれば、良さそうに思える。ただ、この状況では、問題が不明、となるだけで、結局は、それが見えてくるまで、待つしかない、とならざるを得ない。その中で、社会媒体を通じて、不満分子が、盛んに発言するようになり、勢いを得て、変化を望む大合唱となり、今の世界的な、混乱状態へと進んできた。ただ、変えること自体は、然程難しくなくとも、変化の方向は、必ずしも、望んだものとはならず、変わった後で、慌てふためくこととなる。だからこそ、後になって、元のままの方が、遥かに良かった、と言い出したり、一方で、更に別の変化を、望む声を出して、混乱に、拍車をかけることとなる。変わってばかりでは、落ち着き処がなく、右往左往するばかりで、結局、何も手に入れられず、溜息のみが、残ることとなる。落胆のみとなれば、次の展開を、考えることにも、気が向かぬままに、意欲減退となるから、却って、悪化の一途を辿る。何の為の動きだったのか、さっぱり理解できぬが、さりとて、別のやり方を、思い付く筈もなく、結局、そのまま、時が流れる訳だ。今の世界的状況は、それに近いもの、と思えるがどうか。何を、どの方向に、動かすのか、を考えぬままに、ただ、変えようとすれば、精々、この程度に終わる。皆が動いたから、という理由だけで、一緒に動くことは、実は、危ういものだろう。では、何から始めれば。もう、解っているのではないか。

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10月8日(水)

 想定の内か外かに関係なく、愈愈、変化が、と思った人が、多かったに違いない。だからこそ、週明けの相場は、急騰を始め、その勢いは、暫く続きそう、と思われる。ただ、変化と言っても、良いものも、悪いものもあり、期待通りに、進むとは限らず、多難の道かも知れぬ。
 そんな所から、改めて、世界の変化を、見直してみよう。何が始まりか、については、諸説あるだろうが、ここでも、海の向こうの動き、を指標としてみる。今の大統領の、前任期の前、あの大統領が、就任した時には、人種初となり、選挙中の掛け声で、盛んに使った、変化との言葉が、若者を魅了し、勝利を手にした。その後も、人気は続き、思いがけなく、あの賞までも、手にしたのだ。だが、変化は、全国民にとり、思い通りには運ばず、特に、異なる人種の、中高年は、不平不満を鬱積して、後任の選挙では、硝子の天井に、阻まれた候補を、前評判を裏切り、破ることで、前回の勝利を、手にした訳だ。ただ、極端な政治による、変化の効果は、すぐには現れず、そこに、世界的な、感染禍が襲ったことで、安定を求める票に、破れ去った。そこからの復活で、更に強化した、極端政策は、世界を巻き込み、今の混乱に至っている。ただ、あの賞を渇望する、お山の大将は、自慢の交渉術で、活躍しよう、と目論むのだが、まだ、掌中にできそうにない。あの人種が、支配続けた国に、別人種の大統領が、登場したことは、大きな変化だったが、皆が歓迎する、ものではなかったようだ。で、元に戻そうと、躍起になるものの、簡単には、事が運ばず、苛立ちが募っている。で、世界に目を向けると、やはり、大きな変化が、起き続けており、移民が増え続けたことで、あの島国は、多国間の協力から、離脱することを、選択した。確かに、豊かな生活が、続くのなら、寛容性を、維持できたろうが、窮乏するに従い、敵対視が強まり、他国に先駆けて、離脱の選択を下したが、他の国々も、他人事ではなく、今や、移民排斥へと、舵を切り始め、極右勢力が、台頭することとなった。ただ、俄勢力に、施政能力が、ある訳でなく、ただ、混乱が広がり続けている。今の世界状況は、そんな所に、あるのではないか。若者にとり、変化は、大歓迎なのだろうが、それが、望み通りのものに、なるか否かは、定まらぬまま、不安定を強いられている、という。

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10月7日(火)

 驚いた人が、多かったのではないか。それ程の上げが、株式市場に広がり、最高値の更新となった。ただ、見方を変えれば、先週後半は、それまでの、上げ一辺倒が、姿を変えて、調整局面に、入っていたから、上げ幅に比べ、状況としては、単に、好感したというべきか。
 皆が驚いたのは、上げ幅に関してもだが、前評判とは異なる結果に、こんな反応が、起きるとは思わなかったから、ということからかもだ。ただ、元々、市場の反応は、期待へのものであり、実態が伴うかは、今後の成り行き次第、となるだろう。期待としては、名を捩られた、元宰相の派閥、という点からと、この所、世界を席巻する、自国第一主義への、回帰への期待、もあったのかも知れぬ。それにしても、勢いがついた相場は、この先、どう動くのか、見守る必要がある。ただ、投資家の視線では、少し異なる感覚が、漂っているように思える。特に、今回の上げの中心は、新総裁が、これまでに触れてきた、業種に限ったもので、個人的には、長い目でしか、見ていないから、蚊帳の外、とは言えぬまでも、上げ幅は、然程のものでなく、購入時の値に、戻していない銘柄については、まだ、先は長いぞ、という思いが過ぎる。その意味で、傍観を、続ける必要があり、ここ暫くの間の、動きに関しては、要注意なのかも、とさえ思えてくる。まずは、総裁の座を、手に入れたとはいえ、また、政治自体が、混乱の淵にあるからこそ、この先、どう転がるかは、不確定なままだ。その中で、次の段階が、どう展開するかが、まずは、注目の的だろうし、それが、ある意味で、予想通りの展開となったにしても、期待通りとは、なり難いもの、と見ておくべきだろう。その上で、更にその先は、内政のみならず、外交での動き、へと繋がっていくだろう。何れにしても、傍観とは、言い過ぎに思えるが、個人的には、慌てず騒がず、様子見の姿勢を、続けることとなる。老後の資金に、期待する人々には、心穏やかには、居られぬ話だろうか。

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10月6日(月)

 予想通りかは、人それぞれだろうが、自分の家の話は、これで決まったとなる。ただ、それが、今後、どうなるかについては、誰も予想できず、楽しみでさえない。元々、激昂し易い人間で、売られた喧嘩は、買うとの評判で、一部には、懸念が広がっている。さて、どうなるか。
 海の向こうは、まさに、同じ性癖の人間であり、交渉と言いつつ、恫喝やら、脅しやら、何だか、時代遅れの、任侠映画を、眺める気分だ。その意味では、こちらは、壺振りの、女任侠だろうか。流石に、そこまでのことは、無いと信じたいが、予想不能だとか、不確実とか、そんな言葉が、飛び始めたら、末期症状へと向かいそうだ。とは言え、お手並み拝見、という気分が広がるのは、当然のことだろう。但し、政治の話になった途端に、雄弁になる、媒体の人々は、喧しくなるに、違いない。有る事無い事、などとは、言っておられず、おそらく、思いつくままに、無責任な発言や、書き込みが、繰り返されるに違いない。それも、嘘や出鱈目どころか、捏造が横行しそうで、既に、懸念が広がりつつある。だからと言って、情報を遮断する訳にも、いかない事情も、多くの人々が、抱えているから、取捨選択が、唯一の手立て、となりそうだ。さて、そう考えた時、何をどう選べばいいのか。論理破綻が、起きている主張には、簡単に、対処できるのだが、今や、全てを、芝居の台本の如く、仕上げた上で、並べ立てることが、可能となるだけでなく、それに対する、反応までも、整えることも、可能となっている。社会媒体については、まさに、その状況となり、世論操作は、容易いこととなり、詐欺師同様に、騙しの手口も、多様化しているから、対処は、容易ではない。だったら、無視しか無い、と思うのも、無理もないことだが、情報収集を、放棄する訳にもいかず、さて、どうしたものか、と悩む人が多いだろう。信頼できる人間を、頼るしかない、との意見も多いが、そんなに単純な話、でもないようだ。では、どうしたものか。まあ、ゆっくりと構えて、落ち着いて、慌てずに、判断することが、第一なのだろう。