暴君の話は、何度も書いているが、常に、気になることがある。世界が、彼らに接する、やり方は、何か、飛んでもなく、間違っているのでは、という点だ。絶大な権力を、握っているから、腫れ物に、触れるように、との思いがあるのは、ある意味、当然のことなのだが。
現実には、両人共、小心者であり、何かにつけて、恐れている態度が、端々に、現れている、と思える。これは、細心の注意を、という考え方とは、明らかに異なり、ただ、恐れており、それを、悟られぬよう、虚勢を張ることで、如何にも、権力者の態度を、保っている。だが、その実、目の前の、恐怖を逃れる為に、暴言を吐いたり、周囲の人々に、八つ当たりを、し続けるだけ、のように見える。それを、誰が、どのように、誤解するのか、あるいは、曲解した上で、皆が従い、右往左往させられ、疲れ果てている、ように見える。特に、軍事力の行使においては、絶対的な兵力を、誇る、二つの国を、率いているだけに、手が付けられず、まさに、腫れ物を相手に、慎重な対応が、求められる、と信じ込んでいる。でも、その根底には、単なる恐怖が、横たわるのみで、それを、取り除けるのは、他人ではなく、彼ら自身でしか、ないことに、気付くべき、なのではないか。そんなことを、考えるのは、報道で、盛んに伝える、彼らの言動から、発せられる、警報のようなもの、ではなく、彼らが、そんな発言や行動を、する理由を、考えてみたからで、まさに、弱虫の典型であり、他人を、貶めることで、自分の弱みを、隠そうとする、そんな魂胆が、見え隠れするからだ。その意味では、面と向かって、英語で言う、loserの一言を、浴びせてみたら、と思うのだが、記者達には、そんな勇気も、そんな機転も、無いらしい。取り巻きを含め、確かに、職を失いたくは、無いのだろうが、そろそろ、引き際を、考えさせては、と思ってしまう。どうなることやら。
今の紛争の状況を見て、冷戦期を知る人の中には、東西に分けられた、勢力図を、思い出す人も、居るのではないか。国際機関が、大きく制度を、変えたとは言え、その後、主導権を、握ろうとする勢力が、真っ二つに分かれ、睨み合った、あの時代を、思い出すのだ。
確かに、拒否権を有する国が、大きな権力を得て、その他の国々を、率いていた。それが、主義主張の違いから、二つの勢力に分かれ、互いに、絶対的な力を、得る為に、兵力増強に、走っていた。その為には、強力な爆弾が、必要との考えで、原子爆弾だけでなく、水素爆弾にまで、開発が及び、この星が、消滅する程の威力、と言われた時代もある。ただ、睨み合いに、必要な要素として、互いに、せっせと準備したものの、いざ、使用を考えると、相手国だけでなく、自国にも、甚大な被害が、広がることが、明らかとなり、備蓄を増やす、という方向に、進むしかなくなった。ただ、冷戦が、終わったと言われ、国の成長には、経済発展が必要、という考えが、唯一のもの、となってからは、縮小もあり得る、となりかけていた。だが、先日取り上げた、権力者の欲望は、そんなことでは、消滅しないらしく、二つの大国が、それぞれに関わった、軍事侵攻や紛争が、始められて、終わる気配が、見えてこない。このまま、世界規模での、戦争へと、結びつくかは、依然として、予断を許さず、危ない橋を、渡っているのかも、だが、それにしても、何を、争っているのか。あの土地は、自分らのものだ、とか、あんな危険な連中が、隣にいるのは、気に食わない、とか、そんなことでも、考えるのか。まるで、幼稚園児の喧嘩か、とさえ思えるが、そんなものの、とばっちりを、食らいたくはない。だったら、もっと真剣に、安定を取り戻す、動きが起こっても、と思うのは、国際政治を、知らぬ人間の、浅はかさ、と揶揄されようが、どうでも良い。さっさと、落ち着き先を、見つけたら、と思う。
要するに、言論の自由、の場において、配慮が必要か、という問題なのだろう。確かに、必要論を、掲げる人々は、誰もが、不快な思いを、抱かぬように、気を遣うべき、と主張する。それに対して、不要論では、不快ならば、見ずとも良い。拒絶なり、不表示なり、すれば、と来る。
何方も何方、なのであり、こんな議論は、不毛に違いない。だが、国として、治安を保つ、役目を負う場合、何方に、与みすべきか、簡単な問題ではない。特に、いい大人を、相手にするなら、ご自分で、ご自由に、とでも、書いておけば、いいのかもだが、幼い子供では、どうすべきなのか、今、議論の最中、なのだろう。何でもかんでも、禁じることが、適切とは呼べず、時に、そういう害悪に、触れておくことで、心も体も、強くなる、との意見もある。パンチとしては、過剰反応は、見るに堪えず、いい大人ならば、もう少し、自分自身を、律して欲しい、と思うが、これとて、幼子を相手に、となると、一概には、言えないかも、と思えてくる。ただ、ここでは、社会が、と言い出す前に、家族が、とか、親が、とか、言っておきたい。害悪は、何処にでも、転がっており、それらの影響から、子供を護るのは、親の役目、と思えるからだ。その点、最近は、無責任が、横行している、とも思える。幼子に、責任を負わせ、知らぬ顔で、居る親には、なんのつもりかと、思えることも、度々ある。一方で、最近の、社会が、配慮すべき、との風潮も、不思議に思える、ことが屡々ある。先日も、原爆資料館だったか、展示の中に、衝撃的なものがあり、子供の心に、強い影響を、及ぼすとの話から、展示を、止めるべき、との意見がある、と報道された。それに対し、被爆者から、一種やり過ぎ、との反論が、あったとされたが、どうだろうか。親心から、醜いものを、見せぬよう、という話と、何処か、似通ったように、思えたのだが、箱入り娘じゃ、あるまいし、何の配慮かと、思えた。もし、害と思うのなら、見学させず、大事に育てれば、と思う。それが、どんな心を、育むことになるかは、誰にも、判らないだろう。
囀りを筆頭として、社会媒体の害悪は、指摘する声が大きい。だが、媒体を、幾ら批判しても、それによって、悪影響を受ける人々が、居なくなることは無く、増えているのでは。だからこそ、幾つかの国が、若年層の、接続を制限し、害毒の広がりを、妨げようとする。
これ自体が、権利の剥奪である、との指摘もあるが、果たしてどうか。特に、家族の影響が、ここまで縮まり、更には、親までもが、例の媒体で、罵声を浴びせたり、相手を、罵倒することに、躍起になるのでは、子供の教育は、不可能に近い。一方、害悪の元は、何処にあるのか、定かではない。度々指摘したが、海の向こうの暴君は、その代表と目される。就任前から、暴言を連発し、選挙戦でも、政党の代表となることさえ、難しかった。その理由の一つに、大衆媒体の存在があり、暴言、妄言、その他の発言の、誤りを、一つひとつ指摘し、能力の無さを、糾弾していた。だが、同じ媒体でも、社会媒体は、上から目線で、厳しい指摘や、誤りの指摘を、する訳でもなく、好き勝手な発言が、垂れ流される。その中で、それまでなら、演説会に集まる、狂信的な支持者以外には、影響が及ばなかったものが、新たな媒体で、強い発言をする、姿に対して、憧れたり、好ましく思う人が、徐々に増えたことが、彼の、前回の勝利へと、結び付いた。これだけなら、変な奴の登場、で済むのだが、社会媒体は、それに留まらず、手にした端末から、多くの人々が、同様の、過激発言を、繰り返すこととなり、そのついでで、支持者の数も、急増したのだろう。この悪影響は、敗退した間を挟み、今でも、強く及んでいる。相変わらず、根拠の無い、決め付けを、多用し、批判や指摘に対して、歯牙にも掛けぬ、態度を続ければ、弱虫どもは、強さに憧れ、強者を演じる、極端な考えの、持ち主達も、擦り寄ってきて、依然として、支持者の数は、極端には、減っていない。とは言え、こんな言動が、及ぼす害悪は、実は、全く違う形で、多くの人々の、異常行動へと、結び付いた。無根拠での発言も、頑なな態度も、暴君に、酷似した形で、使う人々が、囀り界隈に、棲みつくことが、諸悪の根源と、なったのでは、と思う。ただの、後追い人が、権力者宛らに、持論を展開するが、読むに堪えぬ、代物ばかりが、端末画面に、表示される。禁じない限り、拡大生産が、続きそうな気配で。
何でも、機械任せ、との話が伝わる。生成人工知能は、その威力が、伝えられる一方、教育現場での、脅威も、指摘される。更に、組み立てなどの、工業現場では、元々、導入されていた、工作機械の、制御に関する部分に、人工知能が、付け加えられる、と言われる。
工業生産における、自動化の脅威は、半世紀近く前から、度々、指摘されていたが、ここに来て、人間の役割は、と問う声が、強まっている。複雑な作業どころか、正確な仕上がりも、人間より、機械の方が、遥かに、上となれば、人間が、活躍する場は、失われる、と言うのも、当然と思える。では、人が活躍するのは、どの場面なのか。もう、見えなくなりつつある。以前なら、心理的な綾を、冷たい感情の、機械では、理解も、扱いも、できる筈が無い、と言われたが、今では、生成人工知能が、人間との遣り取りを、無難どころか、見事に、こなしている、と伝わる。そういう事例が、示された時に、以前よりは、ずっとまし、と思える光景が、見えるのだが、どうだろう。穿った見方からは、何だか、質の悪い対応を、繰り返す人間を、見るような気が、と思えるのだが、それこそ、今や、世間全般が、そんな輩で、満たされるのだから、比較対象として、それで十分、とでも言うしかない、状況にあるようだ。逆に言えば、人間の方の、劣悪化、質の低下が、余りに、著しいので、それなら、機械で十分、となる訳だ。だったら、もう、全て、機械にやらせれば、となりかねないが、さて、どうだろうか。この考え方に、皆が、賛同するようなら、この勢いは、止められない。でも、と思うのは、人と人との関わりで、わざとらしい、褒め言葉や、時宜を得た、返し言葉が、常態化している、とは言え、それで、満足なのか、と思う部分も残る。昔流れた、SF映画と同じ、光景が、目の前で起きるのを、どう思うのか、と似た部分があるが、どうだろうか。暫く、様子を、見ておこう、と思う。
殆ど無視されるが、文書の作り方について、囀りで、指摘する意見もある。その多くが、大学でのレポートからの、話題なのだが、さて、どうしたものか。初等中等教育で、作文の書き方を、習っている筈が、何故、段落を、つけないのか、とか、段落のはじめは、一字下げる、とか。
確かに、作法は、重要だろう。ネット上の文章でも、多くは、そんな指摘がなされ、囀りは、最初に、一字下げて、打ち込んでも、表示される時に、自動修正される。それ程、作法が、蔑ろにされているのだ。発祥の地であろう、英語文化圏では、どうなのか。段落分けは、何とかできても、始まりの部分では、文頭から、となっている。元々は、間違いを避ける為か、3字下げて、タイプしていたが、今は、それも無くなり、おそらく、段落分けも、こちら同様、一行空けを、推奨するのでは。堅苦しい作法より、中身で勝負、と、こういう人々は、返してくるだろうが、中身が、伴わぬからこそ、作法や形式だけでも、と断じられる。特に、大学教員が、喧しく指摘するのは、提出物の文章が、いかにも、読みにくく、更には、ネットからの、コピペの連続、であることが、明白なだけに、その位の手は、入れておけ、と言いたいのだろう。だが、今時の学生には、ただの雑音にしか、響かない。その上、そういう文句が、感情的なものと、映る為に、成績不良も、教員の暴挙、としか、映らないと来る。これでは、駄目だ、と思うのは、ある世代から、上だろうか。にしても、指摘の理由は、読みにくさが、第一であり、それにより、文章の巧拙などは、二の次に、されるということに、書いた本人は、気付かぬものらしい。その調子で、全てを、相手の責任と、言い募り、遂には、虐めなどと、言い出す始末では、社会から、排除されるのも、止む無しとなる。被害妄想は、ここでも、膨らむばかりであり、被害者然とすれば、何事も、押し通せる、との図式が、展開される訳だ。まあ、そこまで、行かずとも、もう少し、謙虚にしたら、と思うのは、高圧的だろうか。囀りでの無視は、そんな世相の現れ、とも思えるが。
情報社会だから、正確な情報を、とある放送局が、流していた。それは、その通りなのだが、今までの状況から、これを、鵜呑みにする人は、殆ど居ないだろう。裏を取らず、情報源の言葉を、そのまま伝えた、というのが、正確な情報、と言うのなら、その通りかもだが。
現状は、情報の氾濫の中で、何が、正しいのかを、自身で確かめる、という手法が、勧められる。正誤、入り混じったものから、正しいものを、抽出すれば、という話だが、無数にある中で、困り果てる人が、多いだろう。だからこそ、そこで必要となる、取捨選択を、機械任せにしよう、との動きが、急激に高まる。それに加えて、人工知能が、正誤を、判断してくれれば、と願う人も、居るのではないか。まあ、その手の考えも、はじめに取り上げた、考え方も、人それぞれで、自己責任、と考えれば、どうと言うことは、無いだろう。信頼できる、とされたものに、任せただけなのに、偽物を、掴まされた、となった途端に、文句を並べても、どうにもならぬ。だったら、さっさと諦めて、となれば、これもまた、どうと言うことは、無い。だが、世の中、そんな風に、考える人は、殆ど居ない。だったら、自分の責任で、やればいいのに、と考えるのは、どうだろう。そんな指摘を、受けると、それはそれで、また、こんな塵の山から、選び出すのは、自分には出来ない、と答えるのでは。だったら、諦めて、誰かの言うことを、信じたら、となる筈だが、さて、どうか。この手の話に、終わりは無い。もう、無理なのだ。日々、手にした端末に、届く情報は、無尽蔵、と思える程で、既に、お手上げなのだ。だったら、どうすれば、と尋ねられても、答えは、無いだろう。損得勘定で、判断するのなら、多少の損失には、目を瞑るしかなく、得したからと、調子に乗って、失敗した人達を、せせら笑っても、何にもならぬ。囀りなどの、社会媒体に、口出しせずに、大人しく、しておくのが、得策だろう。まあ、ここを読む人には、そんな言葉は、無用だろうが。
忘れさせぬよう、手を替え品を替え、話が紹介される。今回、公共放送から、流れてきたのは、著名物理学者と、著名心理学者の、間で交わされた、往復書簡についてだった。二度の大戦を終え、何故、人類は、戦争をするのか、という点について、互いの意見を、交換した。
本になっているので、興味のある人は、読んでみたら、と思うが、こちらは、まだ読んでいない。その解説の中で、人間には、生まれついての、破壊への衝動があり、それに基づいて、一国の指導者が、行動に出れば、戦争へと、突入するものだ、という話が、紹介されていた。同じ欲望が、庶民にもあり、戦争へと、傾いた勢いに、乗ってしまうことが、もう一つの、大きな要因となる、と説明していた。確かに、先の大戦では、政権を獲得した、人物が、徐々に、世論を操作しつつ、政権中枢の、考えを正当化し、他国への侵攻だけでなく、ある民族の絶滅さえ、目論んだと言われる。その際に、常識的に考えれば、常軌を逸した、と判断できる、異常な提案でさえ、庶民の熱狂的な、政権への信頼は、見破ることが、できぬままに、国全体として、破滅への道を、突っ走ったとされる。だから、独裁者だけでなく、支持者にも、破壊への衝動があり、その結果として、往復書簡を交わした、二人は、他国への逃亡を、余儀なくされた。その雰囲気を、後世の人々が、味わうことは、決してできぬから、そんな筈は、と思ったとしても、渦中にあれば、全く異なる展開へと、これは、ある意味、あの時と同じ展開だが、押し流される、と言われるだろうが、だとしても、やはり、根源的には、そうはならぬ、と思わねば、巻き込まれてしまう、と思うのも、当然だろう。で、何が言いたいのか。今、それと似た状況、と思われるのは、番組でも、紹介していたが、二人の暴君が、他国への侵攻や攻撃を、繰り返すことへの、拡大の懸念だろう。そうならぬ、と言うは容易いが、現実に、直面した時に、同じことを、言い続けられるか。強がらずとも、それが当然、と考えることこそ、重要なのだと思う。
昨日の話をしても、でも足らないじゃないか、と答える人が、必ず居る。その通り、皮算用を、幾ら繰り返しても、そんな人間を、満足させることは、決してない。今や、囀り界隈では、毟り取る金の、話題などには、目もくれず、ただ、施しがどうなるのか、それしか気にならない。
税収の変遷を、眺めてみると、ここ数年、極端に言えば、二、三年程か、それ位は、確実に、税収増が続く。だとしたら、一部の税を、減らしても、極端に言えば、公約通りに、無くしたとしても、国家としての、収入は、減るどころか、増え続ける。ただ、新聞記事に、あったように、その行き先が、異なるから、その間での調整が、必要となる。国が、定めた方針に、地方は、従うしかない。だからこそ、問題なのだ、との意見が、強まるのも、当然のこと、と解釈する向きもあるが、現実には、全てが、そういう形で、流れるだけに、逆に言えば、支出に、大きな変化が、起こらねば、結局は、配分を、変えなければ、道理が、通らなくなる。だが、被害妄想に、取り憑かれた人々は、何としてでも、自分の意見を、押し通そうとする。だから、この場合でも、国が、徴収したものを、地方に、配分しなくても、別に構わぬ、という前提が、罷り通ることとなる。確かに、疑心暗鬼に、かかれば、そんな言説も、認められるのだが、現実には、それでは、事が進まず、あらゆる事業が、頓挫することとなる。これこそが、大衆媒体が、両手を挙げて、賛同する事態であり、話題として、庶民の誰もが、理解し易いもの、と映るのだ。だが、実際には、事は、それ程単純ではなく、複雑に入り組み、利害が、入り混じるから、最悪の台本、通りには、ならないものだ。それより、力関係が、明白にあったとしても、末端で、大きな口を、開けて、囀り続ける、雛鳥の如くの、庶民の納得を、得ることは、簡単にはいかない。そうなるとして、同じ財布の中身が、どう変わるのか、を考えてみたら、というのが、昨日の話となる。一方で、将来への借金と、強く批判される、債券についても、その流れを、冷静に眺める必要が、あるに違いない。まあ、金利上昇が、どう関わるかは、また別の問題として、見守る必要はあるだろうが。
確かに、人気商売なのだろう。先日も、金の授受で、槍玉に上がった後、本丸と目された人物が、退くだろう、との噂が、飛び交う。世間一般の常識から、大きく逸脱した話に、本人の人気どころか、組織自体が、揺らぎ始めた。噂は、取るに足りぬ、と突っぱねてみたが。
で、国政においては、迎合主義の典型として、減税の話が、選挙前から、決着がついた後も、続いている。ただ、思惑通りには、話が進まず、公約通りに、ゼロにする、ということは、無くなった、と言われる。その一方で、自分らが、話題に出す時には、無視するのに、敵対勢力が、訴えたことには、いつも通りに、悶着が起きる。曰く、財源は、となる訳だ。殺し文句の如く、飛んできた矢に、結局は、無視を決め込んだ、としか思えぬ展開に、どうしたものか、と思う。その代わり、この約束は、ほんの2年だけのこと、と断言し、不安ばかりを、口にする庶民と、彼らに、寄り添うふりをする、大衆媒体が、要求を、高め始める。いつも通りの展開だが、それにしても、互いに、知恵を絞るどころか、何の考えもなく、互いに、罵り合うのみだ。ただ、税金の話は、もっと落ち着いて、考える必要が、常にある。例えば、官庁のサイトでは、今年度の収入予算が、明記されており、それに対して、今回の措置で、税収減は、4.3兆円に、上ると報じられる。その一方、長く抑えられた、給与については、今回も、約5%の上昇とある。言いたいのは、前にも書いた気がするが、給与が上がれば、所得税収も、自然と上がるから、もし、それが、5%ならば、25兆円から、1.2兆円が増える。ただ、昨年度は、4兆円増だったようで、同様のことが、数年に渡り、起きるとの予想が、あるようにも見える。となれば、確かに、食品への税率低下を、他の税収で、賄うことが、できるかも、と思えなくもない。これが、数年に渡り、給与増と結び付けば、意外に、簡単に、確保できるかも、とさえ思えてくる。捕らぬ狸の、などと言われるかもだが、この程度のことも、考えずに、文句ばかり並べても、と考えても、いいように思う。
この時期、例の如く、忘れない、という話で、持ち切りとなる。確かに、多くの事柄は、繰り返すことが、殆どだろうから、それらを、覚えておきさえすれば、同じ失敗は、繰り返さずに済む。だが、言うは易く行うは難し、だ。今朝の、経済番組でも、そんな話題が。
その番組のサイトに、行ったとしても、精々、お試しで、覗ける程度だから、リンクを張っても、仕方ないかも。だが、まあここは、囀りの方を、張っておこう。で、どんな話題だったか。そこにある見出しは、『「創薬スタートアップ 政府の支援策は」永田町の風』となっていた。内容は、高額な費用が、かかる創薬において、問題となる点を、掲げた上で、政府として、何ができるか、を問い掛けたものだ。一つは、高額な研究機器を、保有する組織を、作ることで、その共用を、進めるとのことで、使用料さえ、支払えば、少額で、開発を進められる、となる筈だ。ただ、最近の、この手の問題で、注目されたのが、大学間の、分析機器の貸し借り、といった話題で、予算が、削減され続けた結果、買い替えや修理にさえ、困窮する事態への、対応とされた。ただ、残る問題は、管理運用にあたる、人材の確保、とされていた。同じ問題が、ここでも、生じるような気がする。もう一つは、創薬の人材確保と、育成に関する話題で、共用機器を、保有するだけでなく、そこで、研究も行わせ、育成を行う、との目論見だった。これもまた、資金不足が、露呈しつつある、製薬企業には、魅力的に映る、のかも知れぬが、現実には、創薬に伴う、特許などの、知財をどう扱うか、が問題となる。ただ、これについても、省庁が異なるが、すでに消滅した、ある庁が運用していた、時限的な研究支援が、同じことを、行ってきた。今も、存続するが、5年間限定で、多額の研究支援を、行った組織は、企業からの参加者を、募る形で、人材育成にも、寄与してきた。一方で、特許については、支援母体が、保有する形で、企業への貸与を、行っていた。となれば、この場合も、となるのでは、と思う。ただ、番組では、その点には、一言も触れず、だったので、また、一から出直しか、とさえ思えてくる。
海のこちら側では、新聞と言えば、全国紙が主体だが、あちら側は、昔も今も、全国紙は、殆ど無く、多くが、地方紙となっている。報道内容は、その地域の話題が、大部分だが、それでも、全国、世界の話題が、無い訳ではない。とは言え、嘗ては、地域限定が、当たり前だった。
それが、電子媒体となり、誰もが、全国どころか、全世界の話題に、触れることが、可能となった。これは、まさに、情報社会の恩恵であり、津々浦々の話題に、誰もが、触れることとなった。でも、海の此方も彼方も、今や、自分達の、身近な話題にしか、興味が湧かず、遠くの話が、巡り巡って、自分達の上に、降ってきた時だけ、理解すれば、いいだけのことだ。手にした端末に、表示される内容は、殆ど全てが、手の届かぬ、遠くの話に過ぎず、知ろうが知るまいが、自分の生活に、影響することは、全く無いに等しい。なのに、端末には、些事から大ごとまで、全てが届けられ、関わりが、あろうがなかろうが、全く無関係に、伝えられる。元々、そこに示された、国が、何処にあるのか、知る術がなく、学校に通った時も、何の関心もなく、過ごしてきた。だから、今更、その国の一大事、と伝えられても、何処か遠くの、見知らぬ出来事にしか、ならないのが、当然だろう。先の大戦では、海の向こうも、ある時期から、関わりを持ち、此方が、攻め込んだ時点から、当事国となっていた。その結果、圧倒的な国力で、相手国に、爆撃を続け、最終的には、新型爆弾による、徹底殲滅が、予想できても、実行に移した。確かに、当初は、本土から、遥か離れた、前線基地が、襲撃を受けたが、本土は、殆ど無傷のまま、終戦を迎えた。その後も、例のテロ事件が、起きた時までは、本土が、外国からの攻撃を、受けたことは無い。どころか、テロそのものも、国の間の戦いではなく、過激集団によるものだったから、国家による攻撃は、本土自体は、全く受けてこなかった。その中で、今、情報社会で、もたらされる情報が、あの国の人々に、どんな影響を与えるのか。判る人が、果たして居るのか。情報は、確かに、届いたとして、さて、どんなふうに、理解されるのか。解らないことだらけ、なのかも知れぬ。
情報社会が、確立されて、誰もが、自由に、情報を、手に入れられる、時代となった。なのに、国際問題は、どれも、解決しそうになく、混乱の極み、とさえ映るのは、何故なのか。誰もが、触れられる情報は、一体全体、何なのか、と思う人も多い。多分、操作の為のもの、なのだ。
こうなると、殆どの人が、何も知らない時代と、何が、違うのか、と思える。当時、多くの人々は、報道という形で、もたらされる情報に、触れるのが、やっとであり、それらも、殆どが、操作されたものだった。だが、国の中枢に、居る人達には、全く異なる内容が、伝えられていた。諜報活動、と呼ばれる、地下活動は、各国が、組織した人間により、相手国の、内部で共有される、情報を、掘り出していた。では、今の状態は、どうなのか。一部の国は、依然として、この手の組織を、保有しており、結果として、隠された話を、手に入れられた。先日の爆撃で、指導者の大部分を、失った国は、何らかの形で、爆撃を決行した、国の政府に、動向が、漏れ伝わり、甚大な被害を、受けたと言われる。だが、その後は、どうだろう。誰が、どのように、国の運営に、携わるのか、明確に見えぬまま、人民の蜂起は、期待通りには、起きなかったことで、今の、歪んだ状況が、出来上がったように、見える。その結果を、攻撃された国の、勝利として、解釈する人も、居るらしいが、どうにも、信じ難い。人民の生活は、逼迫するのみで、精神論で、乗り切ろうとする、動きは、確かにあるが、長期戦となれば、双方が、疲弊するだろう。弾切れと、なるか否かは、見えていないが、生活が、危機に瀕した場合、戦闘そのものよりも、深刻な事態を、招きかねない。なのに、大勝利と、見做すことには、理解を超えた、何かがあるのか。何れにしても、このまま、地域の不安定が、継続して、いい筈がない。国際機関は、煮え切らぬままで、解決策は、出てきそうにない。攻め込んだ側の、二つの国が、相手国の、実権を握る勢力を、排除できるかが、唯一の解決策なのか。はたまた、全く別の話が、これから、出てくるのか。肝心の情報は、何処にあるのか。
80年程昔、世界大戦の終焉が、訪れた。それを、きっかけにか、国際機関の仕組みが、大きく改定されて、戦勝国と、敗戦国に、立場を分けて、その後の運営が、図られた。ただ、その他大勢の国々は、戦争に、直接加担した訳ではなく、中立的な立場の国も、多かっただろう。
で、その結果として、その後、長く続くのが、今の国際機関だ。近年、紛争地域の、問題解決に、殆ど役目を果たせず、存在意義は、ほぼ失われた上に、別の利害からか、次々に起きる、問題についても、解決の道筋を、定められずにいる。これは、確かに、ある会議の、常任国となる国々が、自らの、利益のみを、優先させたことから、特に、利害関係が、明確な事案程、拒否権の行使から、結論を、導けずにいる。その前には、指導的な立場が、存在しなかったことが、幾つかの国の、暴走を招いた、ことから、正反対の仕組みを、作り上げたのだが、今や、崩壊状態にある、とまで言われる。不思議なのは、冷戦と呼ばれた時期でも、何とか、均衡が保たれたのに、何故、今になって、こんなに、釣り合いが、崩れてしまったのか、よく分からないことだ。本来なら、心底、嫌っていた時代の方が、利害としては、遥かに異なる状況に、あった筈が、近年の方が、何事も、平行線を辿り、何事も、自国中心の考え方を、貫こうとする。一見、均衡関係は、保たれているが、そこに、小さなきっかけが、加われば、一気に、崩れかねぬ状況、と主張する人もいる。だとして、今更、何をどうすれば、いいのか。責任者の交代が、近づきつつあるが、果たして、首の挿げ替えが、解決を導けるか、怪しいものだろう。では、どうすれば、と言えば、おそらく、最も簡単なのは、常任国を、廃することで、以前同様の、対等性を重視することだ。だが、これは、前の機関に、戻るだけかも、との懸念がある。だったら、5ではなく、もっと増やせば、となる。その一方で、拒否権は、廃止せねばならぬ。さて、どうなることか。
国際協調は、何の為にあるのか。そんなことを、尋ねられたら、今なら、自分の為とか、自国の利益に、とか、そんな答えばかり、返ってきそうだ。だが、何事にも、自国中心に、考えていては、との考えから、この仕組みが、できたのではないか。今や、そんな話は、忘れ去られたのか。
確かに、政治家が、有権者に対し、利益を振り撒く、という姿勢が、露骨になると、協調でさえ、彼方でもなく、相互でもない、自国中心で、考えることが、第一となる。今の、紛争地域の情勢は、互いに、自己主張を繰り返し、周囲を巻き込み、あらぬ方へと、向かっている、ようにさえ見える。その最中、協議を進める、との話が伝わっても、互いに、自国に有利な話のみ、伝えるのでは、話し合いなぞ、できる筈もない。その上、報道は、双方の不安定を、報じることに、専念するから、協議の内容どころか、その進展への、期待は、裏切られるばかり、と見えている。その中、結果的には、頑なに、主張を続けた勢力が、圧倒的な有利を、誇っている、と伝えるに至っては、もうお手上げなのだ。協調の為の、国際機関も、近年は、その存在意義さえ、失われつつある、とまで、言われており、強大な勢力を、有する国が、自国中心に動き、互いに、理解を進めるより、距離を置くことに、力を入れているから、どうにも、解決への道は、遠くなるばかりだ。ただ、当事国だけでなく、他の国々も、多くの要素で、関わらざるを得ない、状況に追い込まれており、このまま、未解決では、被害が、広がるだけ、とさえ思える。何か、妙案はないものか。こうなると、また、世界的な争いに、向かうしかないのか。そうなったら、戦争放棄を、謳っている国は、どう動くのか。不確かなことばかりで、何とも落ち着かないが、多分、このまま進み、何処かで、真の意味の、協議に入るしか、道は残っていない、と思える。楽観的に過ぎる、と言われそうだが、破壊と破滅にしか、向かわない道を、選ぶとは、思えないのだ。
兎に角、客観的な話が、聞きたい、と思うのだが、今の情報社会では、そんなものは、一欠片も、流れていない、のではないか。そんな話をすると、ずっと前は、大衆媒体が、それらを、操っていて、結果として、彼らの思惑が、反映された情報しか、流れていなかった、と返されそうだ。
それは、その通りだろう。この国でも、戦時中は、その極端さが、際立っており、権力側が、流せと指示したものだけが、紙面や音声として、流布された。では、今の状態の方が、より適切だろうか。誰も、頷かないだろう。日々、手にした端末に、表示される情報も、今、面と向かっている、画面にも、そして、紙面や公共放送でさえ、全面的に、信頼がおける、と呼べるものは、一つも無い。だが、洪水のように、押し寄せる情報は、嘗てとは、明らかに異なる程、膨大なものとなり、一人ひとりには、目に触れぬものが、大部分となる。だったら、それらを、纏めて、情勢を示せば、間違いが、無くなるのでは、と思う人も、居るだろうが、これまでの、人為的な、纏めサイトの多くは、偏りを、一段と高めたもので、信頼度は、高まるどころか、地に堕ちた、と言われる程に、なっている。最近は、人の手を、煩わずとも、機械的に、そんな作業を、行う仕組みが、出来上がっており、人の思惑には、左右されず、もっと、均衡がとれたもの、となっている、と言われたりする。だが、現実には、とても、そんな評価が、できる代物とは、なっていない。理由は簡単で、捏造や嘘が、流される情報の、大部分であり、それに基づいて、纏めたとしても、まともなものが、出来上がる筈が、無いからなのだ。では、どうしたらいいのか。結局、情報の受け手が、自身で、取捨選択を、繰り返すしかない。それが、客観的と、呼べるものか、と尋ねられれば、即座に、否と答える、しかないだろう。だが、それでもなお、他人任せを、鵜呑みにするよりは、ましなことに、なりそうだ。でも、その手間が、との指摘には、所詮、それらの判断は、情報を、眺めつつできるから、大した手間は、かからない、とも言える。この点は、どうも、近年、理解できぬ人が、増えているようで、考えるとか、判断するとか、そんなことに、無駄な時間を、かけたくない、と訴えるのだ。ここに、大いなる誤解があり、そんな戯言を、信じるからこそ、何事も、鵜呑みにさせられる、事態が起きる。
情報社会の不思議は、山ほどあるに違いないが、囀り界隈では、両極端に属する、人間達が、蠢いていて、時に、啀み合っている。片方は、何事も、調べずには、済ませられぬ人で、その中で、垂れ流される情報を、一々確認する。もう一方は、その正反対に位置する、人間だ。
こちらは、無知を、何とも感じず、ただ、そこで、相手となる人間を、罵倒し続ける。相手が、間違いを、指摘しても、その間違いは、実は、正しいことだ、と主張したり、指摘する人間が、非常識だと、決めつける。前者は、実害を、生じないが、後者は、ただ、そこに居るだけで、不快感を催し、時には、無視したり、排除したりすると、別の形で、追いかけてくる。迷惑に、思う人が大部分だが、そういう連中に、同調する輩が、登場するのも、あの世界の、特徴の一つかもだ。別に、無知を、恥じる必要は、無いのだが、でも、知らないことは、認めた方がいい、とは思う。と言っても、この手の人間に、かける言葉は、同調以外には、無いのかもだ。何か、意見をぶつけても、批判的なことを、投げかけても、いずれにしても、攻撃を受けた、と判断する限り、罵倒は止まらない。それにより、不快となる位なら、最初から、無視した方が、無難なのだろう。彼らの多くは、同調は、歓迎するが、異論は、全て排除するし、時には、そこに、暴力的な表現を、付け加えて、相手が、立ち去るまで、し続ける。まあ、それらの遣り取りが、何の役に、立つのかと、問われたら、何の役にも、と答えるしかない。のだったら、初めから、無視するのが、適切かも知れぬ。互いに、激昂するまで、論争を続けても、互いに、何の得も、得られないし、無駄な時間を、過ごすだけとなる。はじめに戻り、無知を、棚に上げる人々は、いつ頃からか、仮想空間に、溢れ始めたが、その原因は、何だろうか。幼い頃から、何の批判も受けず、叱責されることなく、育ったからなのか。それとも、仮想空間だからこそ、その逆の反応が、出てくるのか。答えは、見えてこない。そんな答えを、見つけても、何の役にも立たない、と言われるかもだが。
終活、という言葉が、いつの頃からか、盛んに、使われ始めた。当初は、従来の漢字変換しか、見当たらなかったが、今では、ごく普通に、表示される。それだけ、市民権を、得ているのだろうが、受け止め方は、人それぞれだろう。準備万端で、誰にも、迷惑をかけずに、との思惑も。
確かに、人の死に伴う事柄には、普段とは、全く異なるものがあり、その為に、備えをする方が、良さそうにも、見える。だが、その一方で、死は、予期せぬもので、いつ何時、降りかかるか、分からぬ場合も、多くある。老後、と呼ばれる期間に、入ってしまえば、誰もが、そろそろ、と思い描くだろうが、時に、そんな所まで、寿命が延びぬ場合も、あるだろう。そんな、一種突然の死は、致し方ないものの、高齢となり、そろそろお迎えが、と思い始めると、世間で、騒がしくする、終活というものにも、目が向くのだろう。そこに、様々な手続きや、商売が、提示されると、途端に、心穏やかには、居られなくなる、という人も、居るのだろう。となると、ここでも、情報の収集が、肝心との意見が、出てきて、また、面倒を、背負い込むことに、なるのだ。所詮、商売だから、と思えば、適当に、考えれば、という思いも、過ぎるのだろうが、その途端に、そんなことでは、後で困る、などと、厳しい批判が、浴びせられる。それもまた、適当に、無視すればいい、との思いなら、まあ、大したことも、起こらずに済むが、しかし、世の中、そんなに甘くはない。商売人どころか、今や、役所まで、乗り出してきて、色々と、様々に、口出しされる。家族が居れば、それで安心、などと言えぬ、状況さえ、起きかねない。まあ、自分の人生が、終わってしまえば、それで幕切れ、と思えば、どうということも、ないのだろうが、周囲が許さねば、そうも行かなくなる。どうしたものか、と思い始めたら、思う壺だ。生きている間、精々、楽しめば、と思っておけば、またぞろの、懸念や心配も、起こらずに済ませる、のだが。
大切なことは、誰にとっても、いつの時代も、大切に違いない。皆が、そう思っている、と思うのだが、そうでもないことが、時に、起きる。この季節だから、という訳でもないが、大衆媒体は、専ら、核兵器のことで、持ちきりとなる。確かに、大切なことなのだ。
近年では、だからこそ、平和賞が、と持ち出す。これも、確かに、人類にとり、大切なことだから、という理由で。だが、この時期に、この手の話が、取り沙汰され、人類皆にとり、大切なこと、と連呼される度に、首を傾げるのは、ある世代に、限られたことか。半世紀以上前に、反対運動が、盛んだった頃、理解できぬ内容が、報道されていた。反対運動は、二つの勢力に分かれ、互いに、歩み寄ることなく、時に、啀み合って、非難の応酬か、と思われた。大切なこと、に変わりないのに、何故、互いの主張が、ずれてくるのか、また、政治との関わりが、深まる程に、溝が深まる様子に、子供心に、何故という文字が、刻み込まれた。その歴史に関して、改めて、検索したら、こんな文章が、表示された。今の、輝かしい活動に、暗い影を落とす、そんな印象しか、与えぬものかも、だが、人間の性なのか、あるいは、権力欲求の、成れの果てなのか、そんな姿が、見え隠れする。こんな話を、紹介すると、すぐに、今は違う、との声が飛び、そんな下らない話に、触れる必要は無い、と言われるだろうが、ここにも、人間の性質が、現れており、何事にも、啀み合いが、伴うことに、気をつけるべき、と思えるのだ。実は、多くのこと、というより、ほぼ全てに、こういうことが、反映されており、皆が、大切な主張を、掲げる中で、利害関係が、強い影響を、及ぼしていることに、気付くべきだろう。正論が、嫌われるのも、そういった利害と、馴染まぬからで、決断が、及ぼす影響や、それによって、得られる利益や、被る害こそが、大切との見方も、あるのだろう。だが、こういう背景に、目を向けずに、何事も、鵜呑みにする人は、煮湯を飲まされる。利害を追う人々は、思い通りにならぬと、さっと身を躱し、そ知らぬ顔で、眺める側に、回るのだ。損得で、測るものではないが、利害に拘る、人間を相手にすると、注意を要する。
市場が、高騰を続ける中、一向に上がらぬ、保有株に、不満を、抱いた人も、居るだろう。その後、暴君の、不規則発言が、原因かは、知る由もないが、乱高下が、続いた時には、平均株価とは、全く違う動きを、保有株は、見せたのでは、ないだろうか。となれば、
平均の活況は、その意味では、一部の銘柄に、限られたもので、市場全体、とは言えぬ、状況だったのかも知れぬ。確かに、先進国は、生成人工知能で、持ちきりの状態で、それに関連した、製品や事業に、関するものに、注目が集まる。だが、そんな情勢では、大丈夫なのか、との思いが、過ぎるのでは。確かに、そんな懸念も、あるのだろうが、とは言え、注目が、集まってなくても、十分に、上昇基調にあり、やはり、資産としては、増えている、という人が、多いのではないか。長く続いた、不況の後に、今の活況が、始まったのだが、その一方で、紛争地域の、不安定が続き、果たして、この状況が、長続きするかは、不確かなままだし、いつ、崩れるかも、分からぬままだ。だとしたら、今、どう動けばいいのか。証券サイトとして、考えるべきことは、あまり無いようだが、まずは、長期保有を、基本として、見守るのが、一番楽だろう。その中で、もう少し、別の方法は、と問われたら、そろそろ、長期金利も、上がり始めたから、今更の如く、国債に、注ぎ込むのが、次に来る、投資先かも知れぬ。とは言え、一攫千金を、狙う人には、不向きな運用手法、であることには、違いない。これ程の、乱高下が、続くのなら、やはり、日々の株取引を、繰り返した方が、と思う人は、損失を覚悟しつつ、やってみれば、と思う。資産運用が、本当に必要か、という点には、サイトの都合上、触れずにおくが、今のまま、物価上昇が続くと、年金生活者は、支給額が、増えてくれないと、と思うだろう。その点については、政府任せで、何ともならぬから、やはり、地道な形の、運用を心掛け、少しでも、増えれば、と願うのみだ。それは、株価だけに限らず、配当も含めて、の意味で。
誰もが、できれば、払いたくない、との思いだろう。だから、減らす、と言われたら、喜ぶのは、当然のことだ。ただ、減らして、悪いことが、起きるのでは、との懸念があるのも、当然のことだ。もし、必要ないなら、世界中で、国が、そんなものを、民衆から、毟り取ることなど、無い筈だ。
だから、という意味で、減税は、票を集める道具、として使われてきた。だから、という意味で、反対する勢力は、減らした分を、何処から賄うのか、所謂、財源の提示、を求めるのが、常となってきた。ただ、納税者として、気になるのは、その額の多寡だけでなく、用途だろう。その意味で、今回、話題となる、消費税については、導入時からして、説明不足が続き、今も、納得できぬ、と思う人が多い。その中で、一部の物品とは言え、税を徴収せず、との約束が、掲げられたのには、歓迎の声の一方、猛反対が起きた。特に、その税収が、老後の頼りである、年金の財源、となると信じ込まされ、微々たるもの、と雖も、無くされては、大ごとだと、思う人には、その分を、何処から賄うのか、となるのも、当然だったろう。減らせば、その分を、何処かから、持ってこなければ、との話は、その通りなのだが、税収全体として、考えていない風は、どうしたものか、と思えてくる。この所、物価高騰で、生活が苦しくなるばかり、との訴えが、激しくなるばかりだが、それに沿って、給与が、上がり続けることには、あまり目が向かないらしい。身勝手な考え方、でしかないが、こういう所にも、目を配るのが、大衆媒体の、責務ではないか。もし、同じ所得税率であれば、収入が増えれば、納税額も、自ずと増える。その中で、今回の、減税騒ぎが、起きているが、ここ数年、税収が、増え続けるのを、知らぬ筈はない。だったら、その増えた分で、賄ったらどうか、と言い出せば、それは、別の話、と返ってくるだろう。だが、これまでの流れからも、それが、妥当な考えであることは、明らかなのだ。確かに、物価が抑えられる中、給与が上がらず、生活が、徐々に苦しくなっていた時には、別の財源を、求める必要があり、消費税率が、徐々に上げられた。だが、ここ数年の状況は、全く違っており、それに見合う使い方を、考える必要もある。馬鹿の一つ覚えを、連呼するのは、そろそろ止めにして、税収の見込みでも、計算してはどうか。