パンチの独り言
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4月3日(木)

 主導権を握ることは、経営の鉄則の一つ、なのだろう。交渉事を進める上で、こちらに優位な条件を、設定できれば、その後の取引も、思い通りに進められる。実は、外交においても、同様のことが、当てはまると言われる。確かに、海の向こうでは、経営者達が、国政に携わり、交渉を進める。
 だが、主導権を握るとは、時に、暴走を招くことがある。自己中心的となり、利己的な外交や内政を、推し進めることが、国内紛争のみならず、国際紛争へと、結び付くからだ。そんな事情から、国の間での紛争を、解決する手段の一つとして、国際機関が、設置されている。それも、大戦前の組織では、不十分だったとの反省から、戦後は、戦勝国を中心として、敗戦国が、再度の過ちを、犯さぬように、との配慮から、仕組みが設けられた。だが、ここに来て、肝心の戦勝国が、暴走にも似た行動を、起こし始めて、国際紛争は、どれも、解決には程遠い状況に、追い込まれている。その一方で、貿易戦争なる言葉が、盛んに使われ、被害を受けたとの主張から、関税導入を、ちらつかせていた、海の向こうの大統領は、ついに、相互関税なるものの導入に、踏み切ったとある。以前から、不公平だとの主張から、貿易赤字の削減に、関税が、最大の武器となる、との主張を、繰り返してきたが、遂に、その率を、国や地域毎に定め、公表した。この国も、長い付き合いや、数々の優遇措置にも関わらず、対象から外される訳もなく、貿易額に応じて、厳しい関税率を、当てはめられた、と言われる。公表の中で、彼が使ったのは、従前から、報道官が、盛んに出していた、ある物品への関税の数字だが、その度に、報道では、算出の根拠が示されず、法外な数字との解説が、加えられていた。更に、非課税対象として、34万トンも輸入している。だが、政府からは、確かな反論がなかったからか、今回の発表でも、同じ数字が示され、不公平の証左として、高らかに宣言された。実際には、あちらの市販価格と、こちらの関税を比較すれば、正しい率は、簡単に算出できる。kgあたり、円換算で、103-285円のものに、341円の関税が、かけられており、割合としては、120-330%程度となる。確かに、あちらの主張の700%には、程遠いもので、反論の余地は、たっぷりありそうに見える。だが、こちらの役人は、それを示せば、高い関税をかけていることが、明らかとなる、と思ったようで、何の反論もしなかったらしい。やれやれ、こんなことでは、交渉事は、有利には進まない。仲良しだった、元宰相だったら、どうしただろうか。で、現宰相は、如何にするか。示した根拠が、根も葉もないなら、別の示し方を、せねばならない。

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4月2日(水)

 需要と供給の均衡から、流通量が決まり、それによって、価格が決定される。単純化し過ぎだが、市場原理とは、このようなもの、と思われている。だが、現実には、全く別の要素が、強く反映され、価格の操作や乱高下が、引き起こされる。最近の動向について、考えてみたい。
 海の向こうの暴君が、日々発する、妄言の数々は、脅しに似たものから、二転三転するものまで、様々あると伝えられる。一方、こちらの調査資料から、需給均衡が崩れたのは、流通経路が、変わった為と、官庁や新聞の解説は、結論付けた。これらの二つの事象と、株式市場や物価における、相場価格と米価格は、強く結び付くが、それが、市場原理によるものとは、どうにも解せない。どちらも、相場における、心理的要素が、強く反映され、不確実性と称する、何が起きるか、見えていない状況に、慌てふためく、株式市場と、前年の不作から、不足への懸念を、強めた人々の、不安心理からの、農家からの直接仕入れ、という買い占め行動の一種が、末端での商品不足を、引き起こした、米市場が、ある意味、同じ図式の上で、動き回った訳で、これらを、市場原理で、理解しようとするのは、無理筋に思える。他方、市場原理は、所詮、需給に関わる人々の、心理が映し出されたものに過ぎず、商品の流通は、二次的なものとの見方もある。何れにしても、末端においては、株の乱高下にせよ、米価の高騰にせよ、迷惑なものに違いなく、被害甚大とも言える。だが、その一方で、これらの事象の殆どは、投資家にしても、消費者にしても、直接関わることで、その変化に、何らかの影響を、及ぼしていることも、確かだろう。だとしたら、株の暴落も、米不足も、知らぬふりをして、嵐が過ぎ去るのを、待てばいいだけかも、だ。株は、徐々にしか、上がらぬものだが、下落は、一気に起きる。物価は、一方的に上がるのみで、下がることは、ごく稀に過ぎない。とはいえ、そこにあるものが、無くなる訳でもなく、今、手に入れなければ、という類いのものでもない。だとしたら、騒動が、過ぎ去るのを、待つのみだろう。心配や不安を、盛んに口にする人々は、安全・安心を、矢鱈に求めるが、それらの要因は、所詮、一過性のもので、喉元過ぎれば、となるだけだ。慌てず、騒がずを、基本とすれば、心の平安は、容易く手に入る。

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4月1日(火)

 米騒動の続報である。今朝の経済紙、5面に、監督官庁の調査結果が、発表された、という記事が掲載された。5面の記事なんて、普段なら、気付く筈もないが、重要との判断からか、1面最上段に、見出しを掲げて、知らせていた。それが無ければ、飛ばしていたに違いない。
 監督官庁の公表資料には、記事にある通りに、通常経由する筈の、集荷業者ではなく、農家から直接に、小売りや外食に、多くのコメが流れていた、とある。記事では、資料の最終頁に、掲載された流れが、纏めて示してあり、調査の結果を、すぐに理解できるようにしてあった。説明として、農家から、通常ならば、集荷業者に流れた後に、届く筈のもの、何と44万トンが、飛び越して、卸や小売り、外食業者に、直接流れたとある。理由は、前年の不足があり、懸念を抱いた業者が、農家に直接交渉して、手に入れたようだ。だから、通常の流通経路は、不足の状態となり、末端の商店に、見当たらぬ事態となった。まあ、その通りなのだろう。これにより、需給均衡が崩れ、結果として、他の食品同様に、高値となった訳だ。市場原理から言えば、これもまた、その通りに違いない。だが、本当に、そうなのだろうか。疑いの余地は、まだまだありそうに思う。何しろ、末端消費者にとり、競争相手となる筈の業者が、既に、手に入れた状態であれば、需給均衡は、大して崩れていない、と見ることもできる。何れにしても、こんな具合で、米不足が起き、消費者の狂乱が、起きたと言う。となれば、一部の憶測の、騒ぎに乗じて、儲けを企む悪徳者は、存在しなかったとなる。これもまた、怪しいものだが、この調査結果自体が、やはり、誰も悪くない、との結論ありきの、ものだったとも思える。だとして、備蓄米の放出は、何を引き起こすか。足りていたなら、余ることになり、また、お役所攻撃が、起きそうに思える。こちらはこちらで、筋書き通り、とも思えるが、さて、どうなるのか、見守るしかない。一方で、記事では、専門家の発言として、「供給が足りていない」とあったが、こちらも、相変わらずの、愚かな意見だろう。騒動は、騒動でしかなく、何ともなかった、となりそうだ。

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3月31日(月)

「不確実性(uncertainty)」という言葉が、おそらく今は、大流行りなのだと思う。海の向こうのあの人物と、その取り巻き達が、盛んに続けている、不規則発言、不穏当発言、更には、前言撤回などで、迷走が続く状況を、表す為に使われ、世界情勢の不安定を、解説する。
 確かに、あっちへ、こっちへと、引き摺り回される現状に、辟易とすると同時に、あたふたするばかりで、心が落ち着かず、将来への懸念が、積み上がるばかり、という人が多いようだ。でも、そんなことは、ある意味、当たり前なのでは、とも思う。世の中には、確実なことなど、一つも無いし、そんなことの連続に、一喜一憂していては、心も体も、持ちそうにない。前にも書いたが、一つだけ、人間、というより生き物にとり、確実なことがあるとすれば、それは、死を迎える、ということだ。それ以外は、夢も希望も無く、期待は裏切られ、予想外、想定外のことばかりが、起きてきた。と思う人が、殆どだと思うが、実際には、結果的に考えれば、予想できることの、一つが起きたに過ぎず、不確実性という意味では、可能性のあるものの中で、それに至ったのが、確率の一つに過ぎない、ということなのだ。夢や希望は、その人の心の中で、芽生えてくるものであり、こうあればいいのに、と願うことだろう。でも、その通りになることは、殆ど無いに等しく、それ以外に、落ち着いたとしても、次は、それに対して、応じることが必要となる。人々の普段の生活でも、こんなことの連続であり、一喜一憂する人は、居るには居るだろうが、そんなことでは、すぐに対応できず、負の連鎖に陥ってしまう。だからこそ、これもまた、可能性の一つとして、ある意味の諦めに似た気持ちで、新たな方向に、進んでいく訳だ。では、最初に書いた、今の状況は、どうだろうか。彼に投票した人達は、確かに、期待とは異なる、別の言い方をすれば、約束とは違う、経過に対して、不確実性を実感、と思っているかもだが、現実には、人間のやることには、こんなことが当たり前で、期待する方が、間違っている、と思うべきだろう。地球規模での、長く続いた平和のお陰で、人の心は、確実を求める方に、動いてきただろう。でも、そんなことは、決して実現しないし、あり得ないと思っておいた方が、遥かに気楽ではないか。不確実性、何するものぞ、と思いながら、対応しよう。

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3月30日(日)

 安全を保証し、安心を伝える。子供に対する、親の言葉として、重視されることだが、それを、社会が行うべきか、話は、かなり変わってくる。にも拘わらず、いつの頃からか、そんな風潮が広がり、当たり前の如く、扱われるようになった。困ったことと思い、何度も書いてきたが。
 これも、何度も書いたが、何故、こんな考えが、広まったのか。第一にあるのは、はじめに書いたように、子供に対する親の姿勢、つまり、弱い者を、保護すべきとする、考えだろう。だが、これについても、社会が個人に対して、すべきこととするのは、どうだろう。誰が、弱き者で、誰が、強き者なのか、どう決めるべきか。個人を尊重する考えは、あって当然と思うが、それが、擁護するか否か、となるとどうだろう。何かしらの権利を、求める人の多くは、その権利が、弱者に与えられるもの、と考えるようだが、その為には、弱者であることを、社会が認める必要がある。でも、そんなものは、固定されたものでも、保証されたものでもなく、時と場合によることだ。だとしたら、誰もが、対象になる筈も無く、社会を支える人間として、寄与が求められるとしたら、尊重されたからであり、役割分担の一つとして、求められるからだ。そこには、強弱の区別はなく、誰もが、対等な立場として、助け合うこととなる。なのに、弱者であることを、主張する人が、余りに目立っている。その一方で、彼らを、弱者として尊重し、助けてやる必要を、説く人々が居る。こちらもまた、何の目的で、そんなことを、思うのかは、はっきりとはしない。人道上の問題として、それを取り上げ、支援するとの主張も、あるにはあるのだが、人道とは何か、殆ど見えないばかりか、そこに、何らかの利害が、介在することの方が、多いように感じられる。で、これらの結果として、安全・安心が、取り沙汰される訳だ。人道云々を、引き合いに出されると、拗れてくるように、見えているので、確率の問題や、妨げとなる行為を、紹介してきたが、肝心の人々には、何も伝わりそうにない。でも、このような指摘を、繰り返しておかねば、社会の歪みは、深まるばかりとなり、溜まりに溜まったものは、捌け口として、戦争などの国際紛争へと、繋がりかねない。安全・安心を求めたことが、戦争に繋がるなどと、ふざけた話と受け取るかもだが、大真面目で、書いておこうと思う。

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3月29日(土)

 安全・安心を希求する人の問題は、何だろうか。これまでに、何度も触れてきたことで、改めて、書く必要は無い、と思う人も、沢山居るだろうが、今、思い付く所を、書いておこうと思う。世間は、これから指摘することに、殆ど気付かぬままに、相変わらずの主張ばかり、だからだ。
 まずは、そんなものは、存在しない、という点だろう。安全と安心を、求めるばかりの人々は、それによって、自分の人生が、素晴らしいものになる、と信じて疑わぬようだが、そんな夢のようなものは、何処にも存在しない。反論は、一杯寄せられるだろう。だが、100%、つまり、完全な「安全と安心」の世界など、ある筈もない。と書くと、そんなものは、要求していない、とまずは言い返す。確かに、なるべくの安全と安心を、目指しているのだ、と思う人も居るには居るが、要求のほぼ全ては、まさに、全ての危険を、取り除いた上で、絶対の安心を、与えて欲しい、というものだ。だからこそ、そんなものは、存在しない、と断じているのだ。まずは、確率で、物事を考える必要を、説く必要があるが、これとて、すぐに、自分に当て嵌めて、どうなるかを教えろ、と返してくる。まさに、お手上げ状態、なのである。だから、この点に関しては、説明はするものの、説得しようとは、こちらも思っていない。理解には、程遠い状況であり、歩み寄りなど、以ての外なのだ。だから、次へ移ろう。次は、こういう要求を、突き付ける人の殆どが、自分が、安全・安心を、整えようとする仕組みに対して、邪魔をしている、という点だ。昨日書いたものは、その一例だが、日々の交通状況は、そんな事例に、溢れている。だから、その中で、求めることは、やめて欲しいし、無駄だから、捨てておけ、と思うのだ。この遣り取りの中で、重要となるのは、要求する人々を、弱者と見做し、彼らへの擦り寄りと同情から、支援する人々が居る、という事実だ。馬鹿げた言動を、大いに褒め称え、支援することの、意図は何か、全くわからないが、弱者保護という、考え方そのものが、間違いだとすべきだろう。説明するが、説得しないのも、その表れの一つだが、どうだろうか。

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3月28日(金)

 何かある度に、安全・安心を、訴える声が上がる。では、その一方で、この声を上げる人々は、自身では、どんな形で、安全・安心を心掛けているのか。そんな疑問を抱く人は、現実に、かなりの数居るように思う。何しろ、日頃から、運転をしていても、法規を守らぬ人を、毎日見るからだ。
 囀りに関して、何度も、否定的な意見を、掲げてきたが、この問題に関しては、事例提示という点で、あれ程に、活発な媒体もないだろう。頁を繰る度に、次々に表示される、逆走の車や、信号を守らぬ車、煽り運転などの例は、数限りなくある、ようにさえ思える。免許という形で、運転を許された人が、法規を遵守するのは、当然のことに思えるが、その一方で、高齢化社会では、認知機能が、衰えるにつれて、覚束なくなる人が、増えているとも言われる。これも、重大な社会問題として、今後、解決の道を見つけていかねば、安全・安心は、手に入れられそうにない。その意味で、自動運転や、運転支援などの、新たな技術開発にも、期待が膨らんでいる。では、運転しない人については、どうだろうか。自転車などの、軽車両に属するものは、免許を必要とせず、正しい技術や知識が、身に付いている保証は、全く無いから、法律上の制約で、安全・安心を、確保することは、難しいだろう。当然、歩行者に関しても、同様のことが、当てはまる。弱者、という見方からすれば、これらの人々については、保護が必要、と考える人が多いが、現実には、交通法規という点で、多くの人々が、誤った行動をしている。ただ、事故が起きた場合に、弱者保護から、責任が問われぬ場合が多く、真の意味での、安全・安心の妨げとなる。先日も、駅で電車を待つ間、入線した時に、隣接する踏切が、閉まり始めた。ところが、歩行者が、そこに侵入し、おそらく安全装置が、感知した為か、入線してきた電車が、緊急停車した。この装置は、安全・安心の為のものだが、一方で、件の歩行者は、身勝手な行動をした訳だ。結局、こういう行為が、遅延に繋がり、それが、別の事故を、誘発する場合もある。関わる人全てが、何らかの形で、影響を与えるのは、こんな事例を見れば、すぐにわかる。でも、自分は関係ない、と思う人が居て、別の危険を招く。どうすればいいのか、答えは簡単なのだが。

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3月27日(木)

 推移や現状を眺めても、ただ、摩訶不思議なこと、としか思えないけれど、日々の生活への影響は、大きいに違いない。ただ、大衆媒体の情報操作から、多くの人々が、懸念を抱くことについては、これまた、単なる不思議でしかなく、おそらく、何の結論も出ないまま、例の如く、雲散霧消しそうだ。
 それにしても、人々の考えとは、何と不安定なものか、ほんの少しのきっかけで、皆が、同じ方に向かい始め、騒動は、広がるばかりとなる。百年程前に、起きた大震災後の、噂話の数々について、放送や報道の重要性を、認識させる動きが、出ているようだが、その一方で、現状は、そんな媒体の問題ではなく、そこに漂う、人々の不安定な心理と、それを操る不穏当な動きという、問題の方が、遥かに大きく映る。だとして、どうすればいいのか。本来は、関わる人々、それぞれに、状況の認識や分析を、正しく行えるように、教育することこそが、最重要とすべきだが、現状から、見えてくるのは、その手の方策では、何の効果も及ぼさず、却って、悪くする場合さえ、ありそうに思えてくる。だとしたら、お手上げとなるか。そうもいくまい。となれば、国として、何らかの方策を、講じる必要があり、それは、おそらく、若年層への働きかけ、という形になるに違いない。一度固まってしまった、大人達の考え方を、変えようとしても、殆ど無駄に終わることは、明白であり、無駄な努力と見えるからだ。だとしたら、まだ、純粋無垢な子供達を、教育する方が、遥かに効果的なのだろう。でも、これもまた、この百年の歩みを、顧みるに、ほぼ全ての試みが、失敗に終わったことに、気付かせられる。興味本位で、動くだけの子供達に、落ち着いて、物事を考える必要を、説いてきたようだが、それを、受け止めるだけの、受容力は、子供には、無いに等しいからだ。とは言え、ここで、諦めても仕方ない。何らかの関わりを、持ち続けることこそが、今後の展開に、不可欠な要素となるだけに、関係者達は、諦めることなく、継続する必要があるだろう。どうなるか。

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3月26日(水)

 米騒動は、どうなったのか。大衆媒体は、依然として、盛んに、高値を煽るかの如く、報じ続けているが、政府が、対策として、渋々打ち出したと言われる、備蓄米放出も、先週、入札が行われ、平均落札価格も、公表された。ただ、それらが、市場に出回るのは、来週以降とのこと。
 だが、報道は、相変わらずの高値を伝え、一向に、騒動が収まる気配がない。何が問題か、誰にも、わからぬままだが、さてどうしたものか。ここでは、少し、価格の推移を、眺めてみたい。監督官庁は、その手の情報を、公表しており、それを、まずは、正しく伝えることを、大衆媒体も、社会媒体に関わる人も、行うべきと考えるからだ。上に掲げた、平均価格は、全ての銘柄についてであり、銘柄毎に、価格は大きく異なる。市場原理と言ってしまえば、その通りだが、人気などというものは、信用できぬものだけに、なんだろうか、とさえ思えてくる。そちらに関しても、各地の銘柄別に、価格が発表されている。更に、銘柄毎では無いが、ここ12年程の相対取引価格なるものも、推移がグラフで示されている。このグラフが、興味深いと思われるのは、今年度のものだけが、異常な推移を示し、何かしらの力が、かけられた結果、と思えることだろう。その上で、自分自身の経験を、照らし合わせると、この状況が、更に複雑なもので、ある種、原因不明のものに、思えてくる。これまで、農家から直接、買い付けてきた玄米は、30キロで8千円で、それが、今回は、9千円となっていた。但し、農協では、1万円で買い取られた、と言われたから、それよりは安い。一方で、農協は、それまで8千円だったものを、1万円にして2割増となる。だが、官庁発表の資料では、60キロ2万2千円強で、銘柄や地域の違いで、異なるとは言え、これらの数値が、鵜呑みにできぬことを、示しているようだ。さて、その上で、小売りでは、昨年は、10キロ4千円程で、それでも前の年より、2割強値上がりした。物価上昇が、続いていることが、分かるけれど、グラフからすると、その年、2千5百円のものが、4千円になった訳で、如何に中間業者が入り、手数料が嵩んだとしても、と思えてくる。この手の話を、じっくりと解説することが、大衆媒体の役割と、思えているが、テレビも新聞も、煽ることばかりで、そんな気は起きないようだ。さて、小売価格は、何処に落ち着くのやら。

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3月25日(火)

 知り合いの一人が、突然、海の向こうの片田舎に、引っ越した。国際活動の一つ、との話だったが、どういう意図なのか、さっぱり読み取れなかった。渡る前の、暫くの間、電力会社の実情に対し、抱える問題に、触れていたと思うが、それと、片田舎との対比が、不思議だったのだ。
 この国は、多くの技術者を、嘗ての後進国、今で言えば、発展途上国に、送り込んでいる。技術移転が、主たる目的だろうが、場合によっては、子供の教育や、技術そのものではなく、考え方全般を、伝えるものだったりする。受け入れ側の、期待通りとなるかは、定かではなく、単純に、それをきっかけに、投資が届けば、と思う人々も、居るに違いない。一方で、派遣される人間にとり、現地の状況を、十分に理解できぬままに、生活を始めることは、ある意味の、不安が伴うのだろう。当初は、驚きの混じった内容が、次々に掲げられて、こちらの驚きも、重なっていた。ただ、今回、新たに記されたものは、やっと、当地の生活に慣れ、現地の人々と、意見交換が行えるように、なったことが理解できるものだった。気候変動は、地球規模で、大問題として取り上げられるが、世界会議などの場ではなく、片田舎の現地で、そこでしか、生活したことのない人にとり、どんなふうに受け取られるか、あまり知られていない。世界的には、大問題の解決において、対立軸が、設定されており、善と悪の二つに分け、関わり方が大きく異なる、とされてきた。ところが、知り合いが、現地の人の議論から、理解したことは、片田舎でさえ、温暖化を問題視し、その上、自分達の生活の糧である、農業における、焼畑方式が、悪影響を及ぼすのでは、との見解に、驚かされたことだ。何も、そんな考えを持たずとも、ただ単純に、豊かな生活をする、先進国の人々が、加害者として、被害者たる自分達に、厳しい生活を強いている、と考えれば、と思ったようだ。だが、この考え方、捻じ曲がった、今の対立軸に毒されず、単純に、目の前の問題に取り組めば、当然出てくるものではないか。純粋無垢とはいかぬまでも、何かしらの真っ当な考え方に、意外さから、驚いたのだろうが、その半面、彼らの考え方を、素直に受け入れて、自分に、何ができるかを、考えたらいいのに、と思う。その一方で、片田舎にまで、気候変動の話題が、持ち込まれたことには、正直、驚いた。

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3月24日(月)

 毎月、経済紙で楽しみにすることの一つは、「私の履歴書」である。それなりに、名を成した人が、自らの履歴を、詳らかにするもので、出生から今までの、出来事を語ると共に、親や家族、友人の話題を、紹介するというものだ。成る程と思えることが、多くある。
 だが、今月は、一瞥もくれていない。理由は、簡単で、人物は、件の感染症騒動で、政府への答申を、続けた人だからだ。読まずとも、自慢話にしか、ならないだろう、という勝手な言い訳と共に、失敗の数々を、正当化するだろう、と見込まれるからだ。確かに、あの集まりの中心人物が、どう語るかを読み解き、真意を探ることは、重要に思えるかも知れぬ。だが、世界機関の失策にもあるように、真意がどうあれ、実態を見極め、それに対する、適切な対策を講じる、という役目に関して、十分な責任を、果たしたとは思えぬ。それも、国民と政府の間に、板挟みにされたことで、失敗に関して、何らかの責めを、負わされたと言われても、ここで何度も書いたように、冷静で論理的な、分析の上で、どうすべきかを、判断してきたとは、とても言えぬ状況では、読む価値も無い、と断じるのみとなる。これは、世界機関でも、同様であり、専門家を自認する人々が、寄って集って、何を為したかは、暫く時間を置いた、今となっても、とても褒められるものでなく、厳しく批判されるべき、と思うからだ。その上、その後の総括は、一切されること無く、忘れ去られようとなりつつある。その中で、陰謀論などの、下らない言説ばかりが、社会媒体という、何の保証もない世界で、盛んに語られるようでは、何ともならない。こうなりつつあるのは、まさに、詳細を分析し、何をどうすべきかを、後世に残す動きが、世界機関でも、また、各国の研究機関でも、更には、政府自体の判断についても、進められないままに、今の紛争問題ばかりに、目が向くことで、それぞれの責任回避が、平穏に進められ、誰の責任でもない、となっている。これを、自然災害による、津波などの被害や、発電所に絡む、数々の問題と、同様とする考え方には、同意しない。確かに、これらは全て、人災と言えるのかもだが、それなりの成果を上げたものと、そうでないものを、同等に扱うことは、できないからだ。

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3月23日(日)

 教育の本質、と言っても、時と場所により、異なるものだ、と考える人は多い。親が学んだことは、子が学ぶものとは、違っている。そんな見方をすれば、その通りなのだろうが、現実には、本当の核は、変わらないものだろう。事柄一つひとつは、違っても、本質は同じ、と。
 個性という言葉が、無闇に使われ、押し付けられた頃、自主性が、重んじられる、と言われたものだ。だが、当時の教育では、自主性とは名ばかりで、ただの押し付けでしかなく、子供達の考え方は、それに従うものだった。「ゆとり」の問題は、そこにあったのだが、当時の教育界では、それを見極める人は、少なかったのだろう。現場での混乱は、そのまま放置され、お仕着せの自由は、単なる足枷となった。評論家は、見抜けなかった人の、生き残りのようなもので、相変わらず、指導が肝心、と訴えていた。そこに問題がある、と指摘したが、記事の内容では、もう一つ、現場の問題を、指摘していた。それは、活動において、不安を抱く教員が、救いを求めて、依頼をした相手の、的外れな評価だ。大学からやってきた、専門家と称する人が、ただ褒めるだけで、何の問題も指摘せず、丸く収めようとする、という態度を、厳しく批判していた。でも、これは、現場を映す鏡でしかなく、厳しい批判を、生徒に浴びせる人間は、殆どの場合、二度と呼ばれない。生徒自身も、時に立ち会う、保護者からも、叱られたことに、恨みつらみを抱き、先生達に、文句を並べるからだ。無難な言葉を、並べてくれ、時に、的外れな褒め言葉さえ、与えてくれる人間を、望む人間が、如何に多いことか。そこに問題がある。しかし、それでも尚、厳しい言葉を、探究活動における、対等な立場として、浴びせることは、本質を考える上で、重要ではないか。それを、理解しないまま、忖度の上で、優しく対するのは、大間違いでしかない。それを、現場に理解させる為に、彼ら専門家が、居るという事実を、理解しない社会であり、時代なのだろうか。だとしたら、今の、探究を促す方針は、頓挫してしまうだろう。だからこそ、評論家は、その点を突いて、真面目な専門家を、応援せねばならない。期待できそうにないかも、だが。

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3月22日(土)

 教育において、最重要なものは、教え込むこと、指導すること、と考える人は多い。特に、最近の子供達は、巣の雛鳥の如く、口を開けて、親が運ぶ餌を貰うように、与えられるのを、待つだけと言われる。その中で、指導法や教育法が、重要となると考え、その技を磨くのだと。
 だが、教科書にある事項のように、選び抜かれたものを、正しく説明するならまだしも、生徒達が、自分の力で、調べたり、確かめたりしたものに、何かしらの助言を与え、先へ進めるように、となると、道や内容が、決まっている、教科書のようには、事が運ばない。そこに、昨日の話のように、教育評論家が、正しい指導法とは、などと宣うのだから、現場の教員は、たまったものではない。だが、教育の世界では、そんなことが、信じ込まれており、足らない部分を、どう補えばいいのか、悩み苦しむこととなる。決まりきったことで、答えが決まっていれば、それを、指し示すことこそが、唯一無二のものだろうが、何が答えであり、どう挑むべきかが、定まっておらず、自らの努力で、克服しようとするのに対し、正しい答えは、ある筈も無いし、また、そんなものが、あったとしても、生徒各自に、それを与えることが、必ずしも、正しいとはならない。それより、各人独自の、道を拓かせることこそが、重要なのではないか。でも、この手法は、教育に携わる人間には、不慣れで、不確かなものと映る。結果、実しやかに、王道を示すふりをして、馬鹿げた押し付けと、強制的な矯正を、施そうとするのだ。記事に関しては、経済紙のサイトでは、読むことができないので、今回は、撮影したものを、掲げておくが、著作権からすると、好ましくはない。ただ、問題の本質を、伝える為には、不可欠な材料となるので、敢えて、掲げておくのだ。さて、それを読めば、こちらの意図することは、伝わるだろう。一方で、こんな愚かな圧力を、かけ続けることや、それを受けて、真面目に取り組もうと、無駄な努力をする現場は、何とも情けなく映る。まずは、生徒の自主性に期待し、それを促すことこそが、第一であり、その為に、詳細な知識と理解を、求めようとせずに、無垢な疑問を、与えることこそが、重要なのだと、理解せねばならぬ。

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3月21日(金)

 教育の重要性に、異論を唱える人は、居ないだろう。だが、海の向こうでは、その監督官庁が、閉鎖の憂き目にあると言う。ただ、こちらの役所とは違い、あちらは、初等中等教育では、全て州任せで、進化論の採否さえ、異なると聞く。とは言え、何を根拠の決定か、疑わしいものだ。
 公教育に関しては、この国でも、長く続いた伝統を、時勢に合わせて、改めようとの動きが、四半世紀程前に起きた。「ゆとり」と呼ばれる代物は、不可欠なものを除き、子供らの自由に、任せた形に改め、自主性を育む、と言われたが、10年程で廃止され、目論見通りには、成し遂げられなかった。それと同時に始まった、「総合的な学習の時間」は、自主的な学びを、促すものとして始められ、今も、小中学校では続く。しかし、高校では、単なる調べ学習に、終始する傾向が強まり、自主性重視の見方から、探究なるものへの、転換が進められている。だが、現場の混乱からか、従前通りに留まり、掛け声通りには、進まぬ状況が、深刻となると伝わる。一方で、監督官庁からの、教員派遣が、進められるようで、その活動でも、探究として、自分の意見を纏めさせる、時間を設けるとの報道があった。自主性の観点から、評価する人も居るだろうが、これだけでは、「学習の時間」からの脱却は、望めそうにない。感染症騒動でも、冷静に数値を眺めることが、殆どの国民で、不可能なのが、露呈していたが、それを改善する目的も、探究には含まれ、数値解析と共に、分析的な論証に加え、それらを、発表する力の醸成が、目論まれている。現場の混乱は、これらの過程全てに、悪影響を及ぼすと、盛んに批判され、先日も、経済紙に、ある教育評論家が、実情と問題点を、取り上げていた。教育の重要性を、鑑みる上で、確かに、高度な水準を、目指すことは、不可欠となるが、研究を専門とせず、教え方を、学んだ過程でさえ、探究活動に似たことを、行わなかった教員に、水準を求めるのは、過度な圧力は勿論、無駄としか、思えぬものとなる。自主性という意味からは、子供らが、自分で気付けば、それでいいとして、注意喚起で十分と思うが、どうか。

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3月20日(木)

 公開が、請求される度に、ほぼ全てが、黒塗りされたものが、「公開」される。請求した人物の目的は、黒塗りの下に、記された内容を、公開することだが、請求された組織は、公序良俗を保つ為、と称して、請求を受け入れる代わりに、こんな措置を施したものを、「公開」する訳だ。
 これは、この国に限ったことではなく、他の国々でも、同様のことが、行われている。ただ、大きな違いは、その内容を、全面公開するまでの、期間を定めているか、否かであり、その結果、殆どの機密文書が、最終的には、公開されるとある。だが、それでも、例外があるもので、陰謀論信者達は、それこそが、陰謀の証拠だ、と訴え続ける。海の向こうで、ある大統領が、暗殺された事件は、こちらでは、丁度、衛星中継が始まった、その日に起きたことから、衝撃を受けたり、記憶に留めたり、する人も多い。だが、その後の捜査には、異議を唱える人も多く、特に、犯人が、逮捕後の移送中に、銃撃を受けて、死亡したことから、疑いが膨らんだままだ。その過程で、捜査資料の多くは、機密文書となり、公開されないままに、半世紀を超えており、陰謀論信者達は、それこそが、陰謀によるもの、と断じてきた。彼らが、崇拝するうちの一人に、今の大統領がおり、今回、これらの文書の公開を決めた。今後、次々と、それらの内容が、明らかになるのは、当然のことだが、もう既に、暗殺が、謀略によるもの、と決めつける、囀りが、出回り始めた。文書の分析を、望んだ研究者らが、今後、結果を発表することが、期待されるものの、どうも、不確かな情報が、満載された内容では、との懸念も多くあり、結果的には、何事も起こらずに、済まされる可能性が、大きいのではないか。まあ、どうなるにせよ、皆が知りたいと思えば、さっさと公開すれば、と思う人が多いだろうが、現実には、文書として残されたとしても、その確実性が、保証されるものでなく、所詮、噂話の一つに、過ぎないことも、多くあるだろう。半世紀も経てば、再検証も、容易ではない。だとしたら、こんなことは、単なる見せ物かも、と思えてくる。

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3月19日(水)

 もう四半世紀を超えて、毎春に作り続けているものがある。この国でも、ある限られた地域で、それも家庭料理として、盛んに作られるが、いつ頃から始まったものか、よくわからない。何しろ、長く続いた幕府の時代に、その地域から、わざわざ職人を移住させた、という話とも関わる。
 佃煮の一種だが、材料が限定され、内海で獲れる、ある小魚を使う。同種のものは、幾つかあるが、その大部分は、佃煮ではなく、釜揚げとして、茹で上げたものが、食される。それに対して、この魚は、この地域特有のもので、茹で上げる前の、生のものが出回ることが、必要条件となる。だから、同じ大きさの小魚が、獲れる地域は、沿岸に数多あるにも関わらず、この文化は、この地域特有のものとされる。市販の商品も、出回っているが、何故か、各家庭で作られたものが、知り合いに配られ、春の風物詩となる。始めた頃は、比較的、手に入れ易いもので、量も値段も、手の届く範囲だった。興味本位で、始めたのは、その地域出身でないからで、多くの家庭で、作られるものは、母親から引き継がれた、ものとされる。近くの店で、初めて見た時には、これが噂の、という程度の感覚だったが、そのうち、自分でも作ってみよう、と思い立ち、その後、四半世紀を経て、何となく、作らないと落ち着かない、という地域の人と、同じ感覚が身についてしまった。しかし、当初の価格に比べ、昨年は、4倍程の高値となり、漁獲量も、激減する中、ある地域では、休漁となってしまった。今年も、昨年同様、試験操業では、芳しい結果が得られず、その地域では、2年連続の休漁となった。ほぼ、諦めかけていたが、結局、最終の試験操業で、兆しが見えたことから、解禁が決まり、漁が始まった。だが、浜値の高値は、小売にも反映され、昨年の更に倍となる、高値で売り出されたが、長蛇の列で、待ち侘びた人々は、そのまま買い込んでいった。需要と供給と言われるが、果たして、その通りに、値が決まるのかと、不思議に思う人も多い。それは、まさに、今の米価と同じ、かも知れない。手が届かなくなるのが先か、はたまた、作りに出掛けられなくなるのが先か、何れにしても、まだ、暫くの間は、と思う。

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3月18日(火)

 陰謀論程、馬鹿げたものは無い、と思うのだが、世の中には、その為に、番組を作ったり、雑誌などで特集を組んだり、そんな具合で、耳目を集められる、と信じる向きは多い。確かに、策を弄して、敵対する勢力や、時には、味方までも、陥れることは、歴史上、度々起こった。
 だが、結果論として、陰謀を論じるのは、確かな証拠を集め、関わる人々の、それぞれの思惑を、読み解くことで、可能となるが、今、巷に溢れるものは、如何にも浅薄で、思い込みだけで、物事を語るのだから、論と言える代物にも、なり得ない。その上、それを好んで騙る輩は、元々、自己中心的で、責任転嫁に終始し、成功は、自らの力、失敗は、他人のせい、とする考え方に、固執する人間ばかりだ。この程度の知能では、何事も、成し遂げられない、と思うのだが、世の中には、例外が、数多あるものだ。海の向こうの大統領は、その典型であり、それまでの企業経営でも、一期目でも、その態度に終始し、自らを、顧みることさえ、一切無かった。結果、復活を遂げた後も、反省の気配も無く、学んだことさえ、殆ど無く思える。一つ、違いがあるとすれば、取り巻き連中の、目論見の違いだろう。君臨する人間にとり、自分の利益が、最優先となるから、それにそぐわぬ部下は、切り捨てるに限る。まさに、その連続となった、前回の任期に比べ、今回の取り巻きは、それに対する、心の準備が、整っているように見える。と言っても、ほんの二か月に満たない期間で、まだ、逆鱗に触れることは、殆ど起きず、更には、今後重なるに違いない、失敗の数々も、まだ、頭を出していない。あんな人物でも、国の頂点に立てる、と見れば、大した考えも、持たない若者には、世の中は、ちょろいものとしか、映らないだろう。この状況が続くと、組織の序列も秩序も、乱れるに違いない。そんな懸念を抱く人は、従来通りに、次世代を担う人々に、厳しく対するだろうが、相手は、そんな邪魔者を、排除しようと躍起になる。問題は、取り巻きのように、今の空気を読み、駄目な若者達に、擦り寄る人間だろうか。触らぬ訳にも、いかぬかもだが。

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3月17日(月)

 何事も、批判的に捉えるべき、という話は、以前から何度も、書いてきた。だからと言って、海の向こうの大統領のように、大衆媒体の報道を、偽物と断じたり、敵対勢力の言動を、嘘吐きと断じたり、そうすることが、正しい訳ではなく、また、彼の話を、鵜呑みにする信奉者になれ、でもない。
 批判的に捉えるとは、まずは、疑ってかかれ、という意味であり、その為には、内容の精査が、欠かせないという意味だ。では、そういう観点で捉えると、彼の言動は、どう解釈されるか。まずは、十中八九、誤りであり、誤解に基づく、偏った意見と見るのが、妥当だろう。とは言え、全てが、という訳ではなく、殆どが、ということだ。その点検を怠らず、彼自身の言動の不一致を、見破るべき、となる。以前からだが、今は、もう頂点に登り詰めている、とさえ思えるのは、彼のような、敵対する人の発言に対して、悪意に満ちた、態度を示し、それらを、全面否定する時、盛んに使われるのが、陰謀論だろう。何事も、思惑に満ちたもので、目論見通りに、事を運ぶ為に、様々な仕掛けを弄し、蠢く人々の動きを、表したものと言われるが、これは、決して、批判的な思考、とは言えないものだ。批判的思考に、最も重要となるのは、常に、客観的な立場を貫き、あらゆるものに対し、どちらの勢力にも与せず、その正誤を判定し、結論を導く姿勢である。その意味では、偏った考えは、その根本から、逸脱したものに過ぎず、取るに足らぬ、唾棄すべきもの、となる訳だ。興味深いのは、この手法が、宗教の場で、盛んに使われてきたことで、大昔からだが、つい30年程前にも、その典型と言われる、過激活動を断行した、団体の例がある。この国の首都で、政府を転覆させようと、企てられたテロ活動は、多くの被害者を出した。その中心となった人々が、まさに、信者達を操ろうとするのに、使ったのが、陰謀論である、とある人物が、紹介していた。彼は、信者の呪縛を、解く為の活動を、しているとのことで、その過程で、大きく立ちはだかるのが、陰謀論であり、それを除去することが、最も困難と言う。批判的思考が、不可欠なのは、まさに、このことの為と思える。

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3月16日(日)

 平和が長く続き、この国では、高度経済成長が、続いた中では、皆が、将来への不安を、抱くことなど、無かったに違いない。だが、その中で、企業や組織の、運営にあたる人々は、何処か、漫然と過ごし、同じことを繰り返せば、このまま、成長が続くと信じ、将来に目を向けなかった。
 その為か、徐々に、歪みが強まり始め、膨らんだ泡が、弾けた時には、何の対策も講じられず、ただ萎むに任せ、停滞どころか、下降の一途を辿り、四半世紀を超える、長い期間、成長を止めたばかりか、様々なことに、縮小や圧縮が、覆い被さっていた。となると、成長期に、何の努力もせず、傲慢な気分で、騒ぎの中で、踊り狂った人々は、突然、奪われた機会に、恨み節を繰り返し、将来への不安ばかりを、叫び出した。折角築いた、繁栄の数々も、するりと手を抜け、世界に冠たる、最新技術についても、手放すこととなり、不安が膨らみ続けていた。今、やっとのことで、その衰退期を、脱したと思われるが、染み付いた悲観論は、簡単には、拭い去ることが、できないままとなる。この様子に、怒りを覚えつつ、どうすべきか、と悩んでみるが、あの連中の、歪んだ心を、正常に戻すことは、簡単ではない。だが、これから、将来を担うべき若者に、この状況が、どれ程の悪影響を、及ぼしているか、考え始めると、問題の大きさに、どうすべきかと悩むしかない。それがまた、負の連鎖を、広げることとなり、窮地を脱することが、難しくなりそうだ。だが、現実には、この手の問題の大半は、自分達が作り上げ、解決の糸口を見つけたり、良い方向への思考を、始めようとすることを、自身で、妨げているだけだろう。悲観論も、馬鹿げた考え方だが、それを、若い世代に、押し付ける姿には、呆れるしかない。こうしても駄目、ああしても駄目、と繰り返しても、何の解決にもならないばかりか、そんな姿を、若者達に見せて、何の得になるのか、と思う。確かに、厳しい状況に、追い込まれたのは、自分達だけの、責任ではないが、だからといって、今のような、消極的な取り組みでは、何の打開策も、見出だせそうにない。だとしたら、将来への不安を口にするより、どうすべきかを考え、それを実践する方が、遥かに良さそうに思う。

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3月15日(土)

 伝えることが、重要だとする主張に、反対する訳ではない。だが、何事にも、万全、万能な手立てが、ある訳でもない。特に、強調すべきことは、送り手の責任ではなく、受け手の心掛けによる、という点だ。話を聞くか否かは、本人の勝手であり、聞かないのも、本人の責任だ。
 そんな状況で、送り手の責任ばかりを、問う意見が出てくるのは、馬鹿げたことだ。まるで、商店主が、客から虐められる、あの図式とそっくりで、だからこそ、もっと注意すべきこと、と思うのだ。責任転嫁の典型で、何の責任も果たさずに、知らなかったとか、言われなかったとか、そんな言い訳を並べるのは、如何なものか。まあ、こんなことを、書き並べても、肝心の非常識な連中には、何の影響も及ぼさず、我関せずのまま、相手の責任を、声高に訴える。いつから、こんな具合に、なり始めたのか。定かには、覚えていないが、今の状況は、まさに、その最中に思える。その上、責任ある立場の人々でさえ、同じような形で、他人の責任ばかりを、強調して、追及し続けるから、この状況が、改善される兆しは、全く見えてこない。何しろ、偉い人々でさえ、そんな言動を続けるのだから、自分が、少しくらいそんなことをしても、問題ないと思うからだ。いやはや、どうにもならぬ、と諦めるしかないが、実害が及べば、流石に、何かしらの反撃を、するしかない。でも、こんな非常識連中ほど、自らを、弱者であると演じ続け、被害者然と、相手の責任を問い続ける。こちらとしては、無理筋の論理に対し、筋道を立てて、説明した上で、本人の責任を、問うこととなるが、さて、どんな結果になるか。これまでの経験では、まずは、敵が増えるばかりで、味方となる人は、殆ど現れず、精々、攻撃をしないが、賛同もしてくれず、ただ、黙りを決め込む。触らぬ神に祟りなし、とは、まさにこんな状況で、努力が報われることは、少ない。そんな状況でも、この悪い状態を、少しでも改善させたい、と思うからこそ、こんな所でも、書き連ねるのだが、さて、変わるものか。主張だけは、続けていきたい。

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3月14日(金)

 連日で、忘れない、という話題が続くと、考えさせられる。確かに、重要な事象を、記憶に留めることは、災害を避ける為にも、また、戦争などの、多くの人々に、悪影響を及ぼすことを、行わない為にも、不可欠なことだろう。でも、それは、書かれたものを読めば、できるのでは。
 教育の重要性でも、触れたことだが、多くの人は、教科書に書いてあっても、それらを教室で習っても、覚えられずに、すぐに忘れてしまう。だから、書いたものではなく、語り部のように、実際に経験した人に、話を聴くことが、重要とされる。だが、百年以上前のことを、実際の経験者に、とは、不可能なことであり、既に、大戦での、大空襲の経験者や、被爆の経験者は、もう居なくなり始めている。そんな時、語り部が重要、と主張する人々は、語り継ぐ為の人材を、発掘しようとする。だが、経験者という括りと、単なる語り部が、同じと言えるのか、と思ってしまう。書かれたものより、語られたものの方が、より強く、心に響くと言われるが、その違いは、理解できない。何方にしても、興味が無ければ、同じ結果にしか、結びつかないのでは、と思うのは、考えが浅いのか。一方で、経験者が、存命中に、撮影された資料も、多くが残されている。これもまた、人が話すことが、重要だとするなら、それを流して、聴かせればいい、のではないか。こんな文句を、書くことに、意味があるとは思えぬが、こんな日が来る度に、繰り返されるのに、辟易としているからだ。教育の重要性を、強調する人も、語り部の重要性を、強調する人も、同じような考えに、囚われている、としか思えない。だが、それが、施策に結び付き、そんな事業に、更なる出費を、注ぎ込むのなら、もうそろそろ、おしまいにしては、と思う。忘れない、という掛け声も、届かぬ人には、何も響かず、少しくらい、働きかけても、無駄かも知れない。それは、あの波が、押し寄せてきた時の、一部の被害者にも、通用することで、厳しい言い方をすれば、自業自得でしかない。それでいいのでは、とは、言い過ぎだろうか。