軍事侵攻を受けた国では、当時の各国政府首脳の見込みと違い、一気呵成に攻め込んだ軍隊を、巧みな戦略で撃退し、大統領府をはじめとする、主要な政府機関を、守り抜いた。だが、首都陥落を目論んだ、軍隊の攻勢が、脆くも崩れたとは言え、その後も、火力、兵力共に、圧倒する力で攻め続ける。
その情勢に、僅かな変化が、兆し始めたとして、期待する向きもあり、それに関わる人物への、圧倒的な支持と共に、信頼を寄せる向きもあり、何かしらの変化が、起きそうな気配だが、実態は、依然として、見えぬままでは、何とも評し難い。暫くの間は、傍観を続けるしか、無い様子なのだ。その中で、各国政府は、当初の侵攻同様、暴走してばかりの、別の暴君の、思惑通りには、運ばせぬよう、外堀を埋めることに、専念するように見える。まあ、どう転んでも、賞を寄越せ、との主張は、変わらぬままだろう。さて、一方で、もう一つの紛争地域に関しては、圧倒的な軍事力で、爆撃を繰り返す国の、非人道性ばかりが、取り沙汰されるが、その点についても、もっと深く考えては、と思うことがある。あの地域は、確かに、大国の思惑、あるいは、四枚舌とも言われる、外交の目論見の連鎖から、今の状況へと、関係する人民が、追い込まれた、とも言われるが、既に、その態勢が出来上がり、互いに、自らの権利を、主張するばかりで、議論が平行線を辿るのでは、解決の糸口は、一切見えてこないから、この先も、そのままでは、との思いがあることも、事実ではないか。とは言え、今の状況さえ、非人道を取り上げる前に、もう一つの問題を、真剣に取り上げるべき、と思う。あの国の首相が、盛んに、攻撃の手を緩めず、実効支配を続ける、ある宗教勢力の、殲滅を目指すのも、今回の戦いのきっかけが、そこにあるからであり、その一方で、あの地域に住む難民達も、確かに、あの国の爆撃が、直接的な被害を産むとはいえ、その攻撃対象が、自分らではなく、彼らにあるとしたら、と考えることも、大切に思える。確かに、奇襲攻撃で、これまで抑圧され続けてきた、あの国民に被害が及び、捕虜を確保することで、交渉の手立てを得た時に、歓声を上げていた人々も、ここまでの攻撃に、攻め込む国だけでなく、自分達を窮地に追い込んだ、あの勢力への、別の思いを、掲げる必要が感じられる。あの地域は、混乱の中、暫定自治政府が、存在していた時には、ある意味の安定の中に、あったのではないか。それが、極端な考えで、徹底抗戦を続ける、新たな勢力の登場で、今の状況へと、進んできた。これらについて考えると、今の勢力への、支持の高さが如何程か、知りたい所だ。自分達で決める為にも。
当選前に、公言していたことは、実は、何一つ、実現していない。と、これは、おそらく言い過ぎで、一部の些細なことは、自分の命令で、断行できただろう。だが、その他大勢が関わることや、他の国々との関係では、言い放った言葉は、そのまま、何処かに消し飛んだようだ。
と書くと、また、支援者からは、否、という礫が、飛んでくるだろう。何しろ、あの人物は、出来もしないことを、さも、簡単な如く、安請け合いをした上で、もし、何かしらの不都合が、起きたとすれば、それは、その他大勢の無責任が、招いたことと、言い放つだけなのだ。今回の停戦だか、和平だか、得体の知れぬ交渉も、交渉術に長けた、と自慢する割に、彼方此方へと、右往左往するだけで、向かう方向さえ、見えてこない。それでも、外交には、よくある出来事で、どんな結論でも、導いてしまえば、交渉成立、となるのだ。これ自体が、何か、更に悪いことを、招くのかと問われれば、多くが、これ以上は、とでも答えるだろう。だが、それ以外の部分で、就任以来の、暴君ぶりだけでも、かなりの悪影響が、世界中に広がっている、とする向きは、多数居るに違いない。では、何が、大問題なのか。何度か、書いてきたことだが、好き勝手に振る舞う、というやり方自体が、悪影響そのもの、ということだ。交渉とは、妥協点を見出し、そこに着地する為に、互いの利害の、落とし所を見出す、ということだろうが、今のやり方は、ただ単純に、暴力的な圧力を使い、脅し続けることで、交渉相手が、示す着地点が、気に入るまで、更に脅し続ける、というだけで、これを気に入る人は、沢山居ると思える。何しろ、自分に有利に働く、交渉手法として、確かに、通用するように見える、からなのだ。だが、一般社会で、これが実行されれば、その多くが、犯罪として裁かれる。脅迫とか、恐喝とか、そんな言葉が、当てはまるからだ。では、何故、国際社会では、そうならないか。力こそが、全てだからだろう。そんな時代に、誰が、戻りたいと願うのか、全く理解できない。
連日の、更新の報道を、どう受け止めれば、と考える人が多いのか。確かに、ついこの間までは、海の向こうの暴君の、不確実な政策と発言に、戸惑うばかりとなり、相場は、下げを続けていたが、突然、息を吹き返したが如く、上げに転じた。それも、向こうだけでなく、こちらもが。
不確実な要素は、一つも除かれぬまま、何故、動きを転じたのか、理解できぬ人が、多いのだろう。だからこそ、評論家達は、思い付く限りの、要因を並べ立てる。数打ちゃ当たる、とばかりに、思えるのだが、果たしてどうだろう。そこに、更に、大きな不確実性として、軍事侵攻の解決と、紛争地域の解決に、猫の目外交なのか、真意を出さぬままに、国と国との話し合いを、続けていることが、更なる不安定を、予感させるのに、一向に、相場の勢いが、止まらない様子。それも、今回の騒動で、国内産業の復活が、成し遂げられるか否かで、経済状況が大きく変わる、あちらとは違い、こちらは、更なる圧力を受け、やっと回復した筈の、経済状況に、翳りがさすと言われる中、少数与党へと、成り下がった政府に、打つ手無しとさえ、言われる中での、最高値更新である。何が起きているのか、と思うのも、無理もないことに思える。ただ、相場は、将来への期待を、映したものであり、その意味では、国内事情として、動かぬことが、逆に、慌てふためき、悪手を続けるよりも、ずっとまし、と言われることと、繋がりそうに思えるし、海の向こうの懸念も、極論を出し続けつつ、前言撤回や、何度も繰り返される、実施延期の数々から、結局は、心配や懸念には、当たらないとする判断が、下されつつある、と見る向きもある。政府と独立の、中央銀行が、利下げの要求に、従わぬと見れば、その地位を奪おうと、司法に訴える、と脅す動きにも、自分の法廷闘争と、似て非なる動き、と見れば、心配無用とさえ、思えてくるのでは。その他様々な要素が、積み重なることで、暴君さえも、恐るるに足らず、となっているようだ。では、この勢いは、いつまで続くのか。
節目になると、必ずと言っていい程、歴史を振り返ることが、行われる。大衆媒体では、盛んに、ドラマや特集が制作され、何らかの意図を持って、流されている。確かに、歴史に学ぶことは、多いに違いないのだが、肝心の歴史そのものの、正しさについて、語られることは少ない。
元々、過ちを繰り返さない、という信念から、歴史から学ぶ、と言われ続けてきたが、肝心の歴史は、その殆どが、勝者の記録に過ぎない、と言われている。その意味では、現在の状況からすれば、国際機関の、常任理事国が、記したものとの考えに、行き着くだろう。それが、事実に基づくもの、であることは、当然に思えるが、加害者の立場か、被害者の立場かで、全く異なる解釈が、施される場合も多い。従来であれば、人伝に聞いたことでも、自分の周囲の話を、基にして考えることが、多かったのだが、今では、皆が、手にした端末から、手に入れた情報を発信し、他の人々からの情報を、手に入れる形となる。話の真偽については、相手の信頼度も、重要な問題であり、身近な存在は、その意味で、ある程度の保証が、為されている、と考えるだろう。ところが、端末に流れる情報は、その源が、どの程度の人物か、だけでなく、その人物が、仲介した情報の、送り主についてさえ、何の保証も無い、ものとなっている。にも拘わらず、多くの人々は、どの位の「いいね」が、つけられているかで、その信頼度を測り、興味を抱くだけでなく、次の人々へと、渡そうとしていく。歴史そのものの、信頼度が、揺らぐ中で、このような状況が、構築されていくことに、誰も、懸念を抱かぬのか、と思うのも、ほんの一握りであり、世の中全体に、極端な主張や、傲慢な論理が、蔓延することとなる。ある意味、制作側は、そういう懸念を、払拭したいと願い、番組を作る、のかもしれないが、その中に流れる、情報についても、真偽の確定は、行えないに違いない。さて、そんな状態でも尚、歴史に学ぶべきか、考える必要は無いのか。科学の研究活動とは、明らかに異なる状況に、どう対応したらいいのか。一方で、科学についても、同じような形で、歪曲や捏造が蔓延り、世論操縦が、行われつつある。何を、拠り所にすべきなのか。
不戦の誓い、という話が出ても、虎の威を借る狐、とばかりに、批判を浴びせる。その上、それが、核抑止力の傘の下、などと、国内から、罵られるに至っては、どうしたものか、と思う。その一方で、お手軽な武器だから、核兵器を、保有するのが、などとなっては、お手上げだ。
それにしても、先手必勝とは、よく言ったものだが、核兵器そのものは、守りを固めるのには、何の役にも立たない。明らかなことでも、今の時代は、何やら、屁理屈を捏ねれば、通用するとばかりに、主張を、突き付ける。どうしたものか、と思うのは、こちらが、平和惚けしたからか、はたまた、今や、そんな論理は、通用しないとでも、言うのだろうか。特に、社会媒体の世界では、多数意見が、民主主義の典型であり、論理そのものの、正誤については、殆ど触れられぬままに、暴走を繰り返す。海の向こうの暴君は、民主主義からは、程遠い存在だろうが、その権化の如く、振る舞っており、今回の話し合いも、何をどうしたのか、一言も漏らさぬままに、成功を、高らかに宣言する。副大統領だったか、真の民主主義とは、民衆によって、築かれるものでは、決してあらず、一人か少数の、君主的な存在があり、それに、民衆が従う形こそ、それに適合するもの、と主張していた。あれを聞いた時、ふと思い出したのは、「白熱教室」と称する、ある大学の講義が、世界的に有名になった時、幾つかの国を結んで、各国の大学生が、意見を交換するものが、放映されたのだが、その中で、隣の大国の、有名大学の学生達が、自分達の考える、民主主義について、まさに、同じ趣旨のことを、主張していたのに対し、海の向こうからは、民衆こそが、中心にあるべき、と主張する学生が、大部分だった。今や、あちらは、そんな学生は、社会の屑であり、国家支援の対象でもなく、自由を謳歌する存在では、決して無い、とする政府が、不幸のどん底に居る、白人労働階級の、熱狂的な支援を受けて、あらぬ方へと、突き進む最中にある、と思えてくる。何が、正しいのやら。
終戦と言う人も居れば、敗戦と言う人も居る。何の違いかは、人それぞれだが、責任への考え方の違い、と言う人も居る。確かに、そういう見方の違いが、表現の違いへと結び付く。でも、何がどう違うのか、今一つ、はっきりしないと感じる。特に、戦争を知らない子供にとり。
歴史に学ぶことは、確かに重要なのだが、これ程難しいことは無い。相場を眺めるだけで、そのことを痛感するし、それ以外の経済動向でも、失敗が、何度も繰り返されてきた。その中で、何をどう学ぶのか、果たして、人はそれぞれに、大切なことを、学んでいるのか。怪しげ、と思う人の方が、遥かに多いと思う。さて、はじめの話に戻り、戦争に関して、節目の年と言う人も居るが、改めて考えるべき、とは思わない。日頃から、常に考えておかないと、平和を続けることは難しく、今、紛争に巻き込まれる、地域を見ると、そこに至る道筋にこそ、学ぶべきものが、あるように感じる。少しの啀み合いから、互いの権利を侵害し、相手の力を奪おうとする、そんな流れが、国家間の紛争へと、繋がってきた。一個人の、好悪から始められた、勢力争いの結果が、そんな発展をするのを、眺める度に、何処から、事が大きくなったのか、不思議に思うことが多い。だが、小さなことが、大きく変化するには、何かしらの端緒が、不可欠となるだろう。一方で、そういう流れを断ち切る為に、何が必要なのか、考える必要がありそうだ。確かに、世界的には、大戦に至らずに、ある意味の平和が、長く続いてきたが、それは、大国間の睨み合いが、冷戦という形で、続いた時代と、一方の体制が、崩壊したことによる、経済成長の継続、という形へと、移行してきたのだが、今現在は、再び、啀み合いが強まり、一触即発とさえ、言われる状況へと、突き進んでいる、ように見える。対岸の火事を、眺める度に思うのは、憲法の一文であり、戦争放棄を謳ったものが、今後、どう展開するのか、という点だ。この大切な宣言を、打ち捨てずに済ませることが、今を生きる人々にとり、最も大切なことの一つ、には違いない。
愈々、物価上昇が、当たり前となってきた。値下げ競争が、日常的に行われ、安売りを目指して、市内を走り回る。よく考えずとも、異常な行動だが、実入りが少ない、となれば、他に手段は見つからぬ。そんな様子も、遠い昔へと、流れていきそうだ。でも、そうでもないかも。
物価高騰が、表面化すると、それへの抵抗として、少しでも安い物を、と追い求める。そんな光景も、一時、巷で盛んに見られた。だが、これ程長く、値上げの嵐が続くと、そんな抵抗も、無駄に思えてくる。そうなれば、誰もが、実入りを増やせ、と叫び始める。経営者にとり、困難な時代が、始まった。以前なら、元請けから、経費削減を理由に、仕入れ値を下げよ、との通告が届き、それに応じる為に、人件費を削るのが、当然とされたが、今や、足下から、賃上げの声が、響いてくる。上からの圧力は、依然として、強いままだけに、板挟みに遭っている、感覚なのではないか。でも、経済状況の変化は、それ以前にも、大きなものがあった。高度経済成長で、誰もが、収入増を、当然と捉えていた時代が、別の要因も含め、泡が弾け飛んだ途端に、不況へと落ち込んでしまった。そこから始まった、値下げの圧力に、様々な形で、対応してきた経過が、30年続いたと言われる、不況の流れだった。それが、いつもの如く、外からの圧力とはいえ、国際情勢への不安を、引き金とした、物価上昇の嵐が、あらゆる物品の値上げに、こちらでも、繋がってしまった結果、現状へと流れた。さて、そう考えると、前回の嵐の時、経営に携わっていた人々は、巧く対応できたのか。そう思う人は、おそらく居ないだろう。今回も、その意味では、嵐の最中に、心配することは何か。何も見つけられぬまま、このまま、流され続けるのだろう。ただ、慌てて対応しても、結局は、大切な働き場所を、失ったことを、考えてみれば、何をどうしようとも、何も変わらない、のかも知れぬ。だから、放置すれば、と言いたい訳でも、無いのだが、かと言って、慌てて動いても、と思うこともある。まずは、今、自分にできることを、やり続けてみよう、という考え方が、大切なのでは、と思ってしまう。諦めではなく、別の感情として。
あんなことを書くと、何を惚けたことを、と言われるに違いない。特に、社会媒体の中では、そういった動きが、専らとなり、主張を繰り返し、同意を集めることで、全体が動く、と言われている。だが、今回の結果後は、その思惑が、見事に外れたことを、示す。
で、動くべき時に、動こうともしない、この国の政治に対して、落胆の声が、次々に上がっている。まさに、怒りに任せ、思い通りにならぬ社会に、謀反さえ、辞さないとの空気が、満ち始めている、と思う人が、多いのではないか。でも、この国の動きは、昔から、そんなものだったのでは、と思えてくる。それも、先の大戦へ、突き進む時も含め、大昔の、戦国時代の、天下分け目の戦いでさえ、遠くから、ぼんやりと眺めつつ、勝敗の行方が、決まりかけた頃に、重い腰を上げる、というやり方で。今も、海の向こうでは、暴君が、躍起になって、他国を脅し続け、多くの国々は、恐れ慄き、対抗策を講じる。こちらも、同様ではないか、と思う人が、多いのだろうが、果たしてそうか。ある意味、国内事情と、彼方を相手にした、外交事情を、何方も、どっちつかずの状態を、続けているように見え、はっきりしない、と思えてくる。慌てて、右往左往するのが、確かな道筋、と思う人が多く、特に、社会媒体の閉ざされた世界では、専ら、そんな動きが、当然との考えが、大勢を占めているが、現実には、物事は、そんなに急には、動けないし、もし動かせば、様々な歪みが、噴出することとなり、収拾がつかなくなる。それこそが、他の多くの国々が、今陥っている状況であり、その混乱が、別の多くの問題を、起こし始めている。暴君の不確定要素が、諸悪の根源であることに、何ら間違いはないが、実際には、賢く対応する、というこれまでのやり方が、彼の暴挙を、更に影響の強いものへと、変えていると思える。この所、例えば、自動車の駆動形式の、転換に関する、それらの国々の動きこそが、その典型に見え、賢さより、小賢しさ、あるいは、愚かさの表れと思える。ただ、闇雲に動くことが、正しい判断に結び付く、とは限らぬもので、ここは、暫くの様子見とする、のも一計ではないか。
「訴えるぞ!」、と書いたとのことで、報道が騒がしくなった。同年代の、老人の戯言なれば、皆、無視を決め込むが、海の向こうの頂点に、君臨する暴君では、知らぬふりもできぬ、とばかりに、大衆媒体は、盛んに取り上げる。でも、これこそが、不確実、不安定の源では。
確かに、気に入らぬ人間なら、側近と雖も、即座に首を切る。前の任期では、その繰り返しで、多くの人々が、憂き目を見た。だが、今度は違う。誰もが、擦り寄った上で、ご機嫌伺いしか、口にしない。最初の件も、以前取り上げたように、予算超過の出費について、取り巻きからは、誤報が届いたばかりだ。さて、一説には、今の不安定は、それを目論む輩が、合法的に、選挙で勝ち取ったもの、と言われる。他の国々も、社会媒体により、誤った情報が、流布されることで、極端な新興勢力が、議席を伸ばして、混乱に陥った。これもまた、手続きでは、合法的な訳で、一部の発展途上国や、政情不安に陥った国々のように、選挙での不正が、蔓延った結果とは異なる。だから、この状況は、暫く続くこととなり、大国と同様に、それらの結果に、見舞われた国々も、不安定や不確実に、我慢の時間となるのだろう。一方、こちらの状況はどうか。社会媒体が、選挙結果に、大きな影響を及ぼしたのは、全く変わらぬことだが、結果が出てから、約束を反故にし、期待を裏切った結果、主導権を握る勢力は、一向に、出てくる気配さえ見えない。何と情けないことか、と思う人も、多いだろうし、特に、嘘八百の情報に、乗せられたことで、新興政党に、票を投じた若者は、裏切られた、と思ったに違いない。だが、その中、市場は、活況を呈しつつあり、最高値の更新が、続いている。この様子に、違和感を抱くのは、ほぼ全ての人だろう。何が、どうなったのか、と思うのも、無理ないことだが、不安とか心配とかは、何処かに、消し飛んだのだろうか。否、ただ先送りにされただけ、とも思えるのだが。
半世紀程前には、博士を育成する機関は、旧帝国大学と、一部の国立大学および医学部に、限られていた。それ程に、特殊なものだったが、30年程前には、殆ど全ての国立大学に設置され、当然ながら、有名私立大学も、続々と設置していった。その理由は、監督官庁の政策変更だろう。
海の向こうでは、PhDと呼ばれる、博士達が、大学のみならず、企業でも活躍していた。それを、魅力的に感じたのか、はたまた、多くが大学進学する中、差別化を図りたい、と思ったのか、真意の程は、明らかではないが、突如として、設置認可を出し始め、それも、理系に限らず、文系へも波及した。教員の大部分が、博士だった理系と異なり、文系は、数える程しか、居ない状況で、どう育成を図るのか、現場の戸惑いは、大きくなるばかりだったが、それよりも、大きな問題が、噴出し始めたのは、取得者が、社会進出を始めた頃からだ。全都道府県に、医学部を設置、という時代に、理系博士の多くは、職を得ることができたが、今回は、そのような措置はなく、ただ、取得者を、何倍にも増やそう、という政策だったが、出口が見えない人々には、不安が広がるばかりとなった。大学に口が無い、となれば、他の業界に、道を見つけるしかない。しかし、一般企業では、依然として、頭でっかちは、役立たずで、扱い難いとの固定観念が、強く残っていたから、そちらへの期待は、萎んでしまった。結果として、行き場を失った取得者に、新たな職場として、提供されたのは、海の向こうと同じ、取得後研究者、と呼ばれる立場だ。但し、給与は、研究費から支払われ、正規職員でないから、不安定なまま、となった。その先の、彼方との違いは、一般企業への道が、依然として閉ざされ、そこに、留まるしか、選択肢が無い、となったことだ。となれば、国内での職場を、探している人間には、進むべき道とは、見える筈もなく、結果、進学者は増えず、定員が埋まらず、現場の困窮は極まり、外からの人間で、埋めるしかなくなる。現状は、そんな所だろう。で、支援制度の問題が、再び、取り上げられた。だが、これを読んで分かる通り、根本の問題は、全く別の所にある。その解決を、働き掛けぬまま、小手先の変更では、何も解決しないのでは。
自国第一というのは、海の向こうの例の暴君が、今まさに、主張している所で、人によっては、世迷い言と思うだろうが、実は、40年程前に、同じ政党出身の大統領が、国内生産を、優先するという形で、同様の政策を出した。だから、とは言わぬが、自分中心が、悪いこととは思えぬ。
だが、今回の選挙で、ある新興政党が、突然掲げた政策は、自国民を第一とする、というもので、拠り所を失った、若者の一部には、魅力に映ったようだ。ただ、その極端さは、海を挟んで似通っており、危うさを感じる人も、沢山居た。だから、選挙後に、結果が出たのに対し、全く反対の懸念が、強く押し出され始めた。その機に乗じた、訳でもあるまいが、休日の経済紙に、「優先」への懸念を、教育現場のものとして、主張する論説が、掲載されていた。元々、あの監督官庁には、海の向こうへの憧れを、政策に反映させる、不思議な心持ちがあり、この政策もその一種と、見做され続けてきた。要するに、科学技術の進歩を、支えるためには、高等教育の充実が、最優先の課題であり、その頂点として、博士取得者の育成を、充実させねばならぬ、というものだった。だが、経済界からの反応は、冷ややかであり続け、頭でっかちの社員は、役立たずで、経営の足を引っ張るだけ、との思い込みは、払拭されぬまま、野に放たれた博士達は、路頭に迷うこととなった。となれば、進学希望者は、増えることなく、その一方で、定員を埋めることを、大学側に課す役所から、予算削減などで、強い圧力がかかり、結果として、外国人で、その穴を埋めることとなった。問題の本質を、見誤り続ける役所は、それでも懲りずに、支援さえすれば、希望者が増えると信じ、制度を設けたが、対象を限定せずに、実施したら、予想通り、支援の多くが、外国人へと流れ、期待外れとなった。そこで、限定制度の導入が、決められたことに対し、この編集委員は、苦言を呈した訳だ。登録せねば、ネット上では閲覧できないが、図書館に行けば、読めるだろうが、この記事に対して、有識者と思しき人物が、投稿した内容も、同じ並びであり、的外れとしか思えぬ。需要と供給で言えば、現時点では、需要がないのに、となっているが、この問題を解決する手段は、あるのだろうか。また、役立たずと揶揄されるのは、何故か。その答えを、関係者は、理解しているのか。
警鐘を鳴らしても、何も起きそうにない。それはある意味当然で、こんなに、人が訪れない場所で、少し位鐘を鳴らしても、社会には影響しない。まずは、発言権を得て、対象を広げなければ、事は起こせない。火を見るより明らかだが、そんな努力は、庶民にできる筈もない。
だから諦める、とは決して書かない。諦めはしないが、大切なことは、何処かに書き残したい。そんな思いで、毎日、書き綴っている。それも、繰り返し。昨日の話も、三週間前の選挙後に、同じように、書き綴っていた。そこでは、最後に、「重い病に、罹った社会」と書いたが、今も、そう思い続けている。たぶん、独り言を書き始めた、20年以上前から、いや、それ以前から、そのことが、気になってきた。昔なら、仲間内の話くらいしか、そんな機会が、見出せなかったが、今は、誰もが、どんな人間でも、発言を、世界に向かって発信できる。だから、というのが、書き続ける理由だが、重い病の原因も、同じ所にあることが、何とも情けない。好き勝手に、嘘をばら撒く輩や、それに同調して、不平不満の解消に走る連中、それにも増して、そういった言説を取り上げ、社会に、不安や心配を、広げようとする、情報発信の権利を握った、一部の報道、そんな虫螻どもが、巣食った仕組みは、社会を救うどころか、悪化の一途の勢いを、増すことばかりしている。その原因は、確かに、そういったことに、加担する人々に、あることは事実だが、それを、抑えることができない、愚かなその他大勢こそが、主因となることに、警鐘を鳴らすのが、役割の一つでは、と思うこと頻りだ。だからこそ、何度でも、懲りずに、書き続けてきた。でも、何も変わりそうにない。だったら、諦めては、と思う人もいるだろうが、それは、はじめから、考えない。世の為人の為、と思ったことは無い。重要なのは、自分の為と考えることで、偽善者気取りは、こんな所では、無用なのだ。まずは、自分が気にいるように、働きかけていきたい。そんな思いを、抱き続けないと、止めてしまうからだ。まだ、暫くは、こんな調子が続くだろう。懲りもせずに。
不安と心配を煽る、と執拗に書き続けるが、さて、どう映っているのか。多くの常識的な人々にとり、そんなことは、承知の助であり、何も心配せずとも良い、真偽の程を確かめ、揺さぶられることなど、決して無い、となるだろうか。では、その他大勢の人々は、どうか。
今回の選挙でも、そんな動きが、目立っていた。社会媒体を操作し、それが恰も真実かの如く、世論を導いていった。結果として、既成政党は、その多くが、忌み嫌われ、新興勢力が、票を伸ばした、と言われる。終わってみれば、その通りの結果だが、次に来るのは、始まってみれば、やっぱりとの結果となる。こういう変化は、煽る側にとっては、好都合に映る。変化は、当然ながら、不安定の現れであり、次に、何が起きるのか、不明確となる。まさに、不確実の典型であり、海の向こうの暴君をはじめとして、そんな要素が、世界中に満ち溢れ、明日をも知れぬ、との筋書きに、ぴたりと当てはまる。そこで、弱者を装い、不安を叫べば、権力者は、手を差し伸べるしか、方法が無くなるのだろう。でも、その動きが始まれば、振り子の振れ幅は、徐々に大きくなり、制動が利かなくなる。結果として、不安定は強まり、徐々に、悪化の一途を辿る。それこそが、煽る側にとり、好都合となるから、今の流れは、全くもって、思う壺となっている。様々な事柄に、そのまま当てはまる状況に、呆れるしかないが、放置する気はない。だからこそ、執拗に、この問題を取り上げ、書き続けている。それぞれの事例で、様相は、異なっているものの、基盤となる考えは、同じことだ。不安を煽ることで、利益を得る人々がおり、それを実行し、暴利を貪る。それに、力を貸しているのは、弱者を自認する、浅慮な庶民であり、手にした端末から、発信することで、参加欲求を満たし、結果が出れば、満足する。その後の展開は、知ったことじゃないし、悪化したとしても、責任を感じることなど、ある筈も無い。この繰り返しに、警鐘を鳴らすのだが、聞く耳持たぬ愚民には、届く筈も無い。
束の間、静かになったが、また騒がしくなった。確かに、庶民への税と同様に、税率の上下は、重要なのだろうが、以前書いたように、この暴挙そのものに、どんな意味があるのか、様子を見る必要がある。単に、率の高低が、業績に響くと、決め付けるのは、如何かと。
約束が違う、とでも言いたげに、こちらの政府高官は、発言し続ける。担当者は、慌てて飛んで行ったが、あちらの政府は、主導権を握り続けよう、とするからか、反応は鈍いままだ。で、こちら側は、悲鳴を上げる企業を、殊更に取り上げ、政敵を、追いやろうとする輩は、次々に、批判的な意見を、突き付ける。だが、あの暴君相手に、一旦、合意を得たとして、握手に及んだ直後に、文書で言質をとばかり、署名を求めることが、可能だろうか。更に、元々、議会の決議を経ずに、好き勝手に、決められるものに、本人以外に、手を進められるか、こちらは、もっと怪しげだ。にも拘わらず、言いたい放題を、始める政治家達には、やはり、資質の欠如が、とでも言いたくなる。一方で、関税が即座に、売価下落を、意味するとする、誤った考え方にも、呆れ果てている。前に、書いたように、自分らの首を、絞めかねない政策を、断行したいのなら、まずは、好きにさせたら、と思う。その上で、こちらは、以前同様の価格で、売り渡せば、当然、市販価格は、関税分上昇する。但し、それを支払うのは、彼が頼みとする国民であり、だからこそ、この所の強引な手法に、国内から、異論が噴出し始めている。もし、新たな価格が、受け入れられないとなれば、当然、購入を控えるのだろうが、その物品が、生活に不可欠なもの、となれば、どんな判断を下すのか。その点に関しては、やってみなければ分からず、結論が出たとしても、責任転嫁を常とする、あの人間が言い出すのは、誰か他人の責任、となるに違いなく、結果、更迭やら何やら、尻尾切りが起きるだけだ。今回の導入に関しては、確かに、国内産業の復活が、大目標となるが、税率の根拠が、あれ程に薄弱では、看板倒れに、なるに違いない、との見方が、大勢となるのも、当然のことだ。だからこそ、対岸の火事と、ゆっくり眺めては、と思う。
人間、誰もが死ぬ運命にある。このこと自体に、疑義を唱える人は、当然ながら居る筈もない。だが、死に方に関して、疑問が残ることは、多々あるのでは。だからこそ、遺族が、医師や病院を、訴えたり、感染症騒動でも、あらぬ噂が飛び交い、薬害紛いの訴えも、飛び出す。
この問題は、簡単には、片付きそうにない。何しろ、死に至った要因として、何を挙げるのかが、簡単でないからだ。例えば、脳死という話も、移植関係では、非常に重要なこととして、主張されるが、一部には、あの時点では、真の死には、至ってないとする考えもある。では、生き返るのか、という話は、全く別のこととして、処理されるから、事は複雑だ。一方で、嘗ては、老人の死として、老衰が最多と言われたが、それでは、真の要因が特定できない、とされた後、それぞれに、細かな死因が記録されるようになった。その結果が、先日紹介した監督官庁の、人口動態の表へと繋がる。それでも、まだ、理解に苦しむ点は、多々残っており、例えば、一時的には、肺炎の一括りだったものが、特に、高齢者に多く見られる、誤嚥性肺炎が、別枠として、設けられるようになった。これで、死因の順位に、変更が起きたのだが、所詮、死に行く人々の話では、大差無し、というのが、一般の受け止め方だろう。で、ここ数日話題にする、感染症の話へと移る。当初、騒動の最中には、死後の検査でも、病原体が確認できたら、それを報告せよ、との通達があったようで、死因分類には、混乱が生じたとされる。当時は、項目として設けられず、何か得体の知れないもの、として分類されたが、3年程前に、感染症の分類変更が、あった時だろうか、新たな項目が設けられた。だが、これを主要因とする、死亡事例の場合、その症状が、一般的な肺炎なのか、はたまた、免疫の過剰反応なのか、更には、別の要因なのか、見えてくる筈もない。だから、つい、要求を書いてしまうが、さて、医療の世界では、どうなっているのか。まあ、騒動の総括さえ、終わらない状況で、新たな疑問を呈しても、何ともならぬのは、当然なのだろうが。
感染症騒動が、始まった時、恐れ慄いた人は、沢山居ただろう。兎に角、外から入る情報では、次々と、病院に担ぎ込まれた人々が、死に至り、その周囲に居た人も、次の犠牲者となった。海に浮かんだ、観光船では、客達が、次々に感染し、倒れていった。それも、隔離された空間だ。
暫く前のことだが、伝染病と言えば、隔離が最善策とされ、患者は、病院内に隔離された。船内は、まさに、それと同等のものだが、治療が受けられず、放置されてしまえば、悲劇と呼ぶしかない。結局、港へと係留された後、厳戒態勢の中、感染者は、それぞれ、別々の病院へと、運ばれた。当時、特殊な治療法しか、救う手立ては無い、と言われており、それによって、一命をとりとめた人々は、それぞれに、帰っていったと伝えられた。当時は、それしか、方法が無い、と言われたが、それでも、死んでしまった人もおり、特に、昨日書いたような、過剰免疫反応が、起きた場合には、単純に、呼吸を確保するだけでは、命を救えないから、別の治療法に、期待が集まっていた。一方で、感染そのものを、防ぐ手立てとして、期待されたのが、ワクチン開発だったが、市場に出回ったものは、製造企業によれば、感染そのものは、防げないものの、重症化を抑える、との触れ込みで、世界各地に、接種が広がった。もし、これが、事実であれば、今の状況は、二つの問題を、残したと言える。一つには、ワクチン接種が、全員に行き渡らず、結果として、漏れた人々が、犠牲者となっている、という指摘があり、もう一つは、発症したとして、過剰反応を、鎮める治療法は、依然として、開発されていない、という指摘だ。どちらも、解せない話であり、医療に対する信頼が、崩れる原因となる。接種は、パンチ自身も含め、受けていない人は、多数居る筈で、一つ目の指摘は、全く的外れと思える。なのに、この話にしがみつく人が、居るのは何故か、解せないのだ。総括が、終わってない、と思うのも、この辺りの事情がある。一方、治療法については、ウイルス感染の、治療薬がある、と言われたのに、何故、という話だ。もう一つは、騒動の終盤に、一部の国々で、自己免疫症の治療と似た、方法が試されていたのに、その話が、何処かに消えたように、思えることだ。これらの不思議には、誰も答えてくれない。多分、誰も、気にしていないからだろう。
感染爆発に関して、この病原体によるものは、当初から、数々の誤解に基づき、世論を操作しようとする、大きな動きが、幾つも出ていた。発生源に関しては、今もまだ、燻り続けており、その国に対する、信頼度の低さが、大きな要因となる。科学的な根拠は、脆弱なままだ。
一方で、被害の広がりに関しては、非科学的な言説が、意図的に流布され、以前から、盛んに使われた、科学を装う論理が、展開されてきた。まず、感染予防に関して、都市封鎖こそが、唯一の手段として、先進国の大都市で、実施されたものの、その効果の程は、明らかにされていない。確かに、大規模な実験では、対照を置くことが、不可能だから、残った数値の解析は、困難を極める。だが、にも拘らず、一方の主張を、押し通そうとする、恣意的な意見操作が、盛んに行われたことは、何か大きな力が、世界各地で、働いていたことを、推測させる。当初、犠牲者が急増したのは、確かに、感染抑制が、正しく行われず、感染者を急増させたことが、その一因であることは、その通りなのだが、一方で、感染者との括りではなく、症状の重さで、患者を分類する、救急医療では、常識とされた手段を、下さなかったことに、最も大きな責任があり、それによって、軽症のまま、助かる筈の人々が、重症化することで、犠牲となったことも、指摘されている。この点に関して、また、その他の状況にも、公衆衛生学や疫学で、これまでに開発されてきた、解析手法が、実施されているのか、殆ど、情報が流されていない。また、治療法についても、先月読んだ本が、典型例と思うが、正しく解析されておらず、今でも、患者が重症化し、命を失うこととなる、原因についての分析も、聞こえてこない。元々、肺炎は、死に至る病として、恐れられてきたが、犠牲者の殆どが、高齢者であった為、諦めにも似た雰囲気が、漂っていた。今回の感染症も、確かに、その症状の一つとして、肺炎があるものの、死者の多くは、過剰な免疫反応によるもの、と言われるように、もしそうなら、従来の肺炎とは、異なる治療法が、施される必要がある。これら全ての点において、5年も経つのに、まだ、迷走を続ける現状にこそ、批判の目を向けるべき、と思う。
社会媒体の信頼度は、かなり下がってきている。特に、選挙後、当時出回った情報について、徐々に、検証が行われ、偽情報が、強い思惑と共に、流布されていたことが、明らかとなっている。公約のように、当選後に、守られなかった、というものではなく、単に、嘘塗れだった、と。
そんな媒体だが、頼みの綱、と思う人も多く、依然として、多くの情報が、玉石混淆のまま、流されている。昨日も、その一つと思しきものが、「おすすめ」で、表示されたので、少し調べてみた。その遣り取りは、ここに接続すれば、読めるのだが、Xに登録していないと、表示されないかも知れぬ。そこで、内容の抜粋を、記しておこう。まず、はじめのものは、件の感染症騒動に、関係するもので、当時の現場の混乱を、示した録画を、提示すると共に、それから5年経ち、更に深刻な状況に、陥ったことを訴えている。長文だが、感染者数が激増し、被害が拡大するのに、世間では、対策が講じられず、深刻な問題となっている、とした。それに対して、別の囀りでは、昨年の死亡者数で、この感染症を死因とするものが、交通事故を死因とするものの、十倍以上だったのに、報道が取り上げない、とした。パンチは、以前から、この手の情報を、提供することに、主眼を置いてきた。この流れでも、監督官庁が、人口動態として、発表したものを紹介した。そこにある、円グラフでは、この感染症による死者数が、確かに、2.2%と表示され、もっと下の表から、確かに、交通事故の十倍程、と分かるのだが、一方で、同じ部類の病気として、肺炎、誤嚥性肺炎を見ると、合わせて9%となり、どう見るべきか、と思う。先月読んだ本で、指摘した問題とも、重なり合うが、この感染症の特殊性を、考えてみると、死に至る原因は、免疫の過剰反応と思え、その治療が、及ばないことにこそ、問題があるとも見える。病原体の増殖を抑える薬は、既に、市場に出回り、唯一の頼みとされた、ワクチンも、依然として使われている。にも拘らず、この状況は、果たして、感染防止だけに、責任を負わせるか、考えるべきように思える。こういう問題の捉え方にこそ、本質があり、その対策を、進めるべきとの意見を、出す方が先なのでは、と思うのだが。
交渉術に長けている、と本人は主張する。だが、その実態は、全く違うものではないか。就任以来、誰もが知る所となった話は、数え切れぬ程ある。だが、あの餓鬼大将は、まるで子供の如く、一切の反論を、認めようとしない。その頑なさが、交渉術とでも、言わんばかりに。
ごく最近の話題でも、大統領の主張に、従わない愚か者として、解任を口にする程、見下した議長が、属する組織の建物の、改築現場を訪ねて、如何に法外な費用が、要求されているかを、証拠とも思しき、書類を懐から出し、滔々と述べていた。その光景は、ある報道で、紹介されており、誰もが閲覧できる。ただ、そこでの遣り取りは、彼が主張した、法外な費用に対し、議長が、聞いていないと述べた所で、書類を示し、これが明らかになった、と宣うたのだが、それを受け取り、拡大鏡を目にして、確認した議長は、これは、別の建物の経費が、含まれている、と呟いた。それに対し、今、それが建築中だとの反論に、5年前の話だ、と答えたとある。恥を晒した訳だが、さて、これ、その後、どんな展開となったのか。特に、そのガセネタを、大統領に渡した人物が、どう処されたのか、に関心が残る。処分という意味では、もう一つの報道も、興味深いものだ。最新の雇用統計が、つい先日発表され、雇用者数の伸びが、大きく減速した、と報じられ、景気の減速が、著しいと報じられたことに、自らの功績が、傷つけられたとして、担当局長を解任、と伝えられた。本人は、政治的な操作が、統計結果に加えられ、事実が捻じ曲げられた、と断定したが、さて、どうしたものか。前の任期中も、不都合な解析結果に対して、妄言を繰り返し、担当者を、愚か者呼ばわりしたことは、よく知られたことで、今回も、同じ形の恐怖政治が、続いていることが、明らかとなっている。問題は、暴君を続けるにしても、自分の考えに、沿わないものに対して、全否定をする姿勢であり、特に、科学的な分析に対して、その態度を取ることは、客観的なものへの、罵倒に過ぎず、それが、交渉術だとしたら、嘘でも何でも、押し通せば、それで良しとする、風潮が蔓延しかねない。科学が、全て正しく客観的だとは、誰も思わないだろうが、その拠り所を、完全に否定しては、皆が、根拠を失いかねず、不確実性や不安定が、広がるだけとなる。
情報とは、と考えてしまう。日々点検する、ネット上の掲示は、どれもこれも、不確かなばかりか、時に、相手を騙そうとばかり、嘘を並べ、それが、恰も、真実かの如く、新たな嘘を、塗り重ねる。一体全体、こんなものに、誰が振り回されるのか、と思うばかりなのだが、さて。
という中で、一時的だったのかもだが、大衆媒体が、せっせと、それらの得体の知れない情報を、紹介していた。社会媒体の信頼度は、かなり低いものと、多くの人が、認識しているのだが、それらを、大衆媒体が、まるで、推奨するが如くに、並べるのだ。この状況は、かなり危ないものであり、これが、長く続くと、社会全体が、詐欺師達に、騙されることへと、繋がりそうに思う。そうなってしまっては、どうしようもなくなるが、と懸念を並べる人が居る一方で、一部の人は、それらの判断を、自身でできるように、することこそが、個人の責任だと言う。まあ、勝手な言い分を、並べたとしても、命を奪われることは、無いのだろうが、今の状況は、かなり危険なもの、と言わざるを得ない。だとして、個人は、どうしたらいいのか。不安や心配を、募らせる必要はなく、ただ冷静に、端末に流れてくる、種々雑多というより、殆どがゴミの状況で、兎にも角にも、取捨選択を行うしか、ないのではないか。ただ、社会的な責任としては、今のような状態を、管理する組織が、放置することは、無責任でしかなく、何らかの制限を、かける必要がある。それも、怪しい情報を、削除することは、勿論のことだが、更に、重要だと感じられるのは、偽情報を、何度も頻繁に流す、という仕組みを、再検討すべきと思う。特に、先日あったように、選挙に纏わる話となると、提示頻度が、急激に上昇する現象が、観察されており、その多くが、真偽不確定のものだけに、情報管理を、的確に行うことこそが、喫緊の課題では、と思えてくるのだ。現状では、確実な方法として、無視しかないので、となれば、即座に、情報弱者となる、ということだ。あまりにも、杜撰な管理体制や、提示頻度に関して、もっと厳しい声が、届いても、と思う。
この国は、四季の違いがあるだけでなく、南北に細長いので、各地それぞれに、天候の変化がある。その為、気温にしても、降水量にしても、問題となることが、毎年何処かで、起きているのだ。これはまた、不安を煽ることを、目的としている、報道にとっては、恰好の材料となる。
ということで、毎年のように、夏に入ると、水不足が、話題として取り上げられる。それも、いつもなら、生活に不可欠な水という話題なのに、ここ数年は、稲作に関わるものとして、盛んに取り上げられる。中でも、米どころの話題となれば、米価高騰にも繋がり、不安材料として、最適と見做されるのだろう。以前なら、首都圏の水瓶が、生活を脅かす要素として、専ら取り上げられたが、ここ数年は、殆ど聞かれなくなった。また、降水量が少ないだけでなく、河川の規模が小さい為に、僅かな変動でも、大きく影響される、西の方の地域も、今年は、何の音沙汰もない。それに比べ、一部地方の米どころは、厳しい状況にある、と伝えられる。特に、錦鯉の養殖でも、世界的に有名な地域は、何方も、この時期に、水を必要とするだけに、ダムの貯水量に、不安が膨らんでいるようだ。ただ、これは、農家の問題であり、一般庶民にとり、遠くの話だった。でも、昨年の大騒動から、他人事とは言えぬ、事情が、急激に膨らんでいるようだ。今も、その話題が、連日伝えられている。確かに、出穂と呼ばれる、花が咲き始める時期に、水の存在が、重要となるようで、収穫量へと、直接結び付く要素だけに、安閑とは、していられない、となるのだろう。もし、凶作となれば、また、米価が高騰するに違いなく、以前の水準に、戻らぬままに上がれば、という不安を、様々に、口にさせる報道が、繰り返される。まあ、確かに、そうかも知れぬが、一体全体、全国的に、どんな状況となるのか。北の方の高温を、つい先日も、取り上げていたが、そんな悪要素は、何処にでも転がっており、あの連中にとっては、これ幸いな状況でしかない。でも、こういう話題が、値を釣り上げるのなら、一番の問題は、そこにあるのでは、と思う。