職場も学校も、生成人工知能の登場で、大きく変化する、と言われるが、本当だろうか。こんな作業が、できるようになったとか、こんなことは、任せればいいとか、そんな話が、実しやかに伝わるが、遅れた人間にとり、なにそれ、としか思えぬ状況で、呆れてしまう。
そんなことを書くと、途端に、年寄りは、そんなだから、若者に嫌われるとか、棺桶に、足を半分入れた奴が、何をほざくのかとか、そんな戯言が、並ぶに違いない。だが、本当に、既存の知識を、ただ並べて、偉そうに振る舞う機械に、誰もが、ぐうの音も出ぬ程に、やり込められるのか。一方で、利用者が増えるに従い、得手不得手が、漏れ始めて、期待を膨らませた輩からは、落胆の声が、聞こえてくる。ただ、そうなれば、対策が講じられ、不得手を、克服したとの知らせが、届くのだから、ある意味、恐ろしい時代と思う。で、何が言いたいのか。本当に、全ての仕事を、機械任せに、するというのか、という点が、主張したいことだ。職場では、失職の危機が、迫るとも言われ、学校では、今更、何を学んでも、無意味との声が、聞こえてくる。これらのことが、本当かどうか。暫く待てば、見えてくると思うが、どうだろう。期待する側からは、不足の面が、露呈する度に、すぐに対策が、講じられるから、大丈夫との声が、届くのだろうが、果たして、そんな調子で、全てが、任せられるのか。どうしても、怪しいとしか、思えぬ。学校関係者からは、悲鳴に似た声も、届くようだが、その一方で、警告にも似た、意見も出ている。これからの生活で、常に、人工知能に頼れば、その場での緊急対応は、どうするのか、という趣旨だが、これに似た現象は、以前も起きていた。教室で、教師の言葉を、理解できぬと、途端に、検索する学生達。その間に、進む話には、何の注意も払わず、発見して、安心すると。ここでの問題は、時間の進行だろう。ただ、その失敗は、経験せねば、気付かぬもので、失敗を、忌み嫌う人間は、やはり、無能の烙印を押され、舞台を去るしかない、となるのか。
米価は、どうなるのか。田圃はどれも、色付き始め、たわわに実った、稲穂が垂れ下がる。いつもなら、豊作を、喜ぶ声が、次々に届き、明るい笑顔が、画面に、映し出されるのだが、今年は特に、その気配が見えぬ。騒ぐだけ、騒ぎまくった人々は、不安げな顔で、話している。
いつもながら、農業に関して、理解不能に、陥る話ばかりが、流れてくる。不作を、悲しむ声は、誰もが理解でき、同情の声も、聞こえてくる。それについて、文句を並べる人は、殆ど居ない。だが、豊作となると、話が変わる。取り過ぎれば、余ることへの懸念ばかりか、別の問題まで、生じると言われる。今回は、以前から、何度か書いたように、米騒動が起き、政府が乗り出して、解決を図ったものの、さて、何が起きたのか、と思える程に、混沌とした状況で、そこに、放出した筈の、備蓄米は、ほんの一部しか、市場に出回らず、どうしたことか、と思ううちに、そろそろ、新米の収穫が、となったら、古い品物より、新品の方が、安く出回る、という事態が起き始め、政府は、慌てて、古いものを、買い戻す、などと言い出す始末。何れにしても、価格調整の為、と謳った筈の、放出に関しては、中間業者が、損より得を、追いかけ続けて、結局、何処に隠したのか、とさえ言われる始末。こちらは、先日書いたように、もしかしたら、市場どころか、業者の手にも、渡らぬままに、備蓄倉庫から、動かさなかった品物を、買い戻すのでは、との疑いまで、飛び出した。どれもこれも、金儲けを、企む業者が、濡れ手に粟の如く、泡銭を、手にしようとするのに、消費者も、政府も、手を貸したのでは、とさえ思えてくる。そちらの始末は、政府に任せるとして、騒動に巻き込まれた、消費者と生産者は、今年の新米を、どんな価格で、どんな形で、手に入れ、市場に出すのか、そろそろ、見えてくるに違いない。にしても、この所の長雨で、収穫期を、逃してしまうのか、という懸念こそ、もっと取り上げては、と思う。
教育の大切さ、について、何度か書いてきた。だが、一部の教育関係者のように、教育が万能、などとは思っていない。少なくとも、場を設けることで、各人が機会を掴み、それによって、能力を高める、という図式は、必要と思う。その中で、大学教育は、荒廃の一途、と言われた。
原因は、様々にあろうが、最大のものは、予算削減、にあると言われた。ところが、昨年度から、様子が変わり、補正や本予算で、一定の額が、確保され、それまでの、年1%削減、という愚かは、一旦、収まったようだ。今までなら、研究費増額で、お茶濁しを、担当大臣が、行っていたが、今回は、財政を預かる、担当大臣が、直々に、回復を謳ったから、と期待したら、来年度予算の、概算要求では、これまでの減額を、帳消しにする、増額との話が伝わり、一気に、期待が膨らむ。だが、兎に角、政府批判を、続けるしか、能の無い報道は、一切触れることなく、どうなるかは、不明だが、大学関係者の中には、囀りで、それに触れる書き込みを、する人も居る。ただ、諸手を挙げて、とならぬのは、何故だろうか。一つには、削減への対応で、減らし続けた教職員定員を、増やすことが、方策として、考えられるものの、また、元の木阿弥に、との懸念があるやも、知れぬ。にしても、動きが鈍いのは、やはり、高等教育機関として、何を、どう動かすかに、思いが至らぬから、との見方も、ありそうな気がする。研究費なら、一研究者に、任せておけば、よかったものを、運営費交付金では、機関全体で、方策を講じる必要が、出てくる。流石に、そこまで、無能な集団では、と思うのだが、果たして、どうなるのか。少なくとも、一時的とは言え、人件費に、回すことで、充実を図る必要は、あるに違いない。一方で、だからと言って、人材不足が、という問題が、残っている。長年に渡り、首を締め付けられ、育成を、怠ってきたツケ、と言えばそれまでだが、現状打開が、予算確保により、迫られた場合に、どう動けばいいのか、これまでとは、異なる視点を持つ、責任者への、移行を考えるべき、時なのかも知れぬ。
日頃から、社会媒体、特に囀りに対して、批判を書き綴っている。嫌いで、見たくもないなら、相手にせずとも、と思う人が、多いと思う。だが、同じように、批判姿勢を、貫く人の多くは、囀り自体にも、書き込んでいる。好き勝手に、書き殴った意見に、苦言を呈するように。
それはそれで、大切なことと思う。ただ、中には、難癖をつけて、相手を、論破することだけに、一種の喜びを、感じているのでは、と勘ぐりたくなる、人も居る。先日も、ある研究者が、原発事故から、周囲に拡散した、放射性物質が、混じったとして、掻き集められ、ある地域に、集積された土壌の、次の処理に対して、政府批判を、繰り返し始めた。確かに、汚染であれば、それを広げることは、避けるべきだが、それは、処理水の時に、書いたように、除去不能なものを、希釈することで、直接的な影響を、無くす処置が、取られた時と、同じ考え方で、集積や濃縮ではなく、拡散や希釈を、手段の一つとして、考えるべき時が、来ている、と見ることもできる。だが、件の人物は、勢い込んで、その考え方の、危険性を、論じ始めた。そこまでは、批判の一つとして、可能なもの、と見ることも、できたのだが、それが、高じるに従い、科学的に見て、妄論としか、思えぬ解釈に、発展した時点で、研究に携わる、人間として、その資質を、疑うべきとの見方が、強まっていた。論破とは、相手の主張の、綻びを見つけ出し、それを、指摘することで、主張自体を、やっつけることだが、今回の場合は、政府の措置を、批判する中で、自分の主張を、押し通そうと、科学的に、通用しない考えを、持ち出したことに、失敗の原因がある。極みに達した後、暫く、見かけないのは、囀りの仕組みで、排除されたのか、はたまた、本人が、自らの不明を、恥じた結果なのか、知る由もないが、以前同様に、論客として、発言することは、難しくなった、と思える。それにしても、あの程度のことが、理解できぬまま、研究してきたとは、とさえ思えてくる。
一週間、本の話題を、きっかけとして、感染症に対する、疑問を並べてみた。結論は、何も分かっていない、のだろう。それを、報道は、恰も、これが答え、とばかりに連呼する。嘘を並べ、結果が、全く的外れでも、臆することなく、同じことを、繰り返し続ける。社会媒体も。
感染の定義を、変更したのは、ある目論見からだろうが、見事に、外してしまった。病原体の保有、そのものを、眺めてみても、次の感染に、繋がるかどうかは、今の所、知る術がない、ように見える。なのに、言い出したからには、引っ込みがつかず、目論見通りに、事が進むとばかり、一つ覚えを繰り返す。だが、生き物の反応は、絵に描いたようには、ならないようで、お粗末な結果が、闇に捨てられた、と勘繰りたくなる程、何の情報も、流れてこない。確かに、一部の学者が、盛んに、擁護するように、科学的な解析は、なされているのだろうが、それが、社会に反映されず、却って、誤解を招くような、言説ばかりが、流れてくるのは、害悪でしかない。でも、決定打が、放たれないのでは、致し方ない。感染爆発の頃、書いた記憶があるが、前線で活躍する、との評判と共に、出演した医師が、質問を受け、感染がどう起こるのかを、説明していた。身の回りのものを、掴んだ手で、顔を触ると、そこに病原体が付着する。それが、喉の奥に到達すれば、感染が起こる。と、まあ、そんな具合に、大飛躍を含む論理に、ひっくり返った。顔から喉の奥に、どう到達するかは、医師にとり、どうでもいいことなのだ。外から体に、どう付着するか、という、初期段階と、喉の奥で、病原体が、細胞に取り付くことが、感染となる、という、最終段階が、説明できれば、成就する、とでも言わんばかりに。飛沫感染、空気感染、あらゆる感染経路を、考える必要が、と言われるが、大元の感染源は、何なのか。不顕性感染者なのか、接種感染者なのか、両方なのか、それ以外には、と続く。8割おじさんも、忘却の彼方だが、あの話も、怪し過ぎる。3密とて、今も取り沙汰されるが、意味不明だ。SARSの時、封じ込めが、功を奏した、と言われるが、新型の時は、何故、都市封鎖さえ、無意味だったのか。結局、何も分からぬまま、次の襲来に備えろ、と言われる。
確かに、用語の混乱が、起きている、に違いない。だが、だからと言って、制度の運用が、出鱈目でいい、とはいかぬもの。著者が、戸惑ったのは、差別的な措置、だからだったのだが、もし、この混乱から、運用の目的、とされたことが、何の意味も持たぬのなら、愚策でしかない。
こうなると、感染者だろうが、検査陽性者だろうが、お役所的には、同じ人間を指す、ということだ。だが、接種後の感染者と、未接種の感染者に、何の区別があるのか。定義からすれば、病原体を保有するか、という点では、何方も同じ、に見えている。だが、旅券発行の条件は、接種の有無であり、それが、感染拡大を、抑止するとの話は、病原体の保有、という観点からは、成立しそうにない、と思えてくる。だから、執拗に、その点を、明確にせよ、と訴えている。ワクチンの副作用が、などという問題とは、全く無関係であり、その論争と、同じと見るのは、明らかな誤りだ。本当に、接種によって、重症化が防げて、それにより、命が救われるのなら、自分自身だけの問題として、接種すればいい。だが、社会的な問題として、感染爆発を、防ぐことを第一として、その為には、皆が接種する必要が、と論じてしまうと、怪しげなもの、となってしまう。この点を、開発後の報告から、取り上げているが、一向に、新たな見解が、発表されない。その一方で、次の爆発が、と煽り続ける、愚かな報道や、研究機関の動きには、信頼に値する態度が、見えていないのだ。確かに、定義の変更を、決めた時には、その基準により、拡大を抑え込める、との見通しがあった。だからこそ、発症しない陽性者が、巷に出てきた時、それみたことか、とばかりに、一気呵成の批判が、飛び交ったのだ。だが、接種が始まると、情勢に、微妙な変化が、生じてきた。特に、開発過程の、接種の効果が、報告されると、定義が、決定的なものから、怪しげなものへと、変貌したように、感じた人も居る。違いを、際立たせるような、データが出されれば、また、違った展開が、起きるかもだが、現時点では、何方の感染者も、周囲に、病原体を撒き散らす、という意味では、変わらないようにしか、見えないのだ。
そろそろ結論を、と思いつつ、調べ始めたのだが、愕然としてしまった。書きたいことは、感染の定義が、大きく変更され、それにより、感染者の扱いが、複雑になった、ということだが、肝心の事柄について、分かったつもりだったものが、大きく外れていた、からである。
要するに、感染症とワクチンの関係で、感染者の定義が、曖昧なものとなり、扱いに違いが出た、と思っていたが、実際には、出発点からして、全く違っていた、ようだ。改めて、感染の定義を、検索してみたら、監督官庁の資料では、「感染症」とは、病原体が体内に侵入し、増えることで、体に異常が生じる状態、とあった。では、「感染」とは、と調べると、別の情報源には、病原体が、体内に侵入し、発育または増殖すること、とあった。ただ、「感染症」については、内閣の部局には、症状が出る病気のこと、とあって、上に書いた、発病の段階ではなく、病気全体を、指すこととなる。これまでの知識では、後者の定義が、馴染み深いもので、前者の、発症を指す感覚は、理解に苦しむ。ただ、こうせざるを得なかった、理由には、何となく、思い当たる。学会が、感染の定義を、改めることで、病原体が、体内に存在するか否かを、判断の基準と置いたことで、それ自体が、発症とは無関係に、扱われることとなった。つまり、それまでならば、発症して、症状が現れた所から、受診して、症状の診断と共に、検査により、病原体の有無を、確かめるのだが、感染が、症状とは無関係に、扱われると、検査のみが、独り歩きすることとなり、発症の有無は、感染そのものとは、無関係となる。これが、無症状の感染者、という、すぐには理解できない、括りを、表面化させた。保菌者とか、不顕性感染とか、呼び名があるようだが、ここでも、前者は、何となく聞いたことが、あるように思うが、症状が出ない人を、特に保菌者とは呼ばない、ような気がする。何れにしても、従来の理解が、通用しない所から、感染症への対策が、講じられてきて、感染症爆発の当時も、感染者との括りに、違和感を覚えていた。独り言の中では、検査陽性者、と呼ぶことにしたが、おそらく、この呼び名の方が、理解しやすいと思う。その上で、発症するかを、別の用語で、表現すれば、良かったのだろうが、結局は、感染症という、違う意味に、使われた用語を、用いてしまったことが、混乱を招いた。どの道、不確かな定義だから、とでも言うのか、困った話と思う。その上、それらを、旅券の運用に、使ったのだから、迷惑千万だ。
ここ数日、本の話題に繋げて、感染症の問題を、指摘してきた。となると、途端に、運動家が、擦り寄ってくるかも、と思うのだが、今の所、そんなことは、起きていない。こちらの主張は、問題点を、指摘するだけだが、運動は、反ワクチンとかで、もっと過激な展開となる。
体に、異物を入れる、という行為自体を、問題視する動きは、古今東西、続いてきた。医学の進歩に対し、反対運動を起こし、問題を指摘するが、はて、その根拠は、と思うことばかりで、一部には、とんでも、と同じと見做す、動きさえある。確かに、今度の開発では、それまでと、異なる仕組みが、使われており、不思議に思う、人も居るのだろう。だが、それだけでは、根拠薄弱である。危ない、の一言で、何事も済ます風潮は、最近の傾向だが、だからといって、本当に危ない、感染症の問題を、無視する訳にもいかぬ。仕組みや、その為に、注射液に含まれる、ある要素に対して、危険性を、論じるのは、本人の勝手なのだが、危ないとか、何が起きるか分からない、との根拠は、脆弱なままだ。だから、付き合うつもりは、毛頭無い。一方で、こちらが、問題視したのは、本の著者が感じただろう、差別の問題でもなく、その根拠とした要因が、科学的に、矛盾したもの、と見えたからだ。感染、という現象そのものの、基準を変更したことで、混乱を招き、医学的な見解さえ、危ういものへと、なりかねぬ事態、と思えている。現時点では、確かな説明は、施されぬまま、先へと進んだが、結局は、忘却という形で、決着したように見える。だが、それは、また、同じことが起きれば、問題となる。免疫が、感染のどの段階で、効力を及ぼすのかは、何となく、解った気で居た。外から入った、病原体を、やっつける、と信じられたが、発症という意味では、それで、解決済みだった。ところが、感染の基準を、体内の、病原体の有無に置く、となっただけでなく、検査の精度が、恐ろしく高められ、僅かな存在でも、陽性と判断する、となった途端に、訳が分からなくなる。今回の問題は、その上で、陽性者を、感染拡大の元凶、と呼んだことで、あれとこれは、同じか違うか、の問題が出てきた。免疫学者は、感染死を、免れれば、それでよし、とするようだが。
では、問題は、何処にあるのか。旅券は、何かを保証して、それを頼りに、判断するとなるが、今回取り上げたものは、何を基準に、保証したのか。接種した人は、すぐに、感染を広げず、感染爆発を、防ぐ為、と答えるだろう。政府や役所、世界機関でさえ、そんな指針を出した。
でも、開発した企業は、全く異なる報告を、出したのでは。元々、コロコロと、姿を変える病原体を、相手にした時、それに対する免疫を、獲得させることは、難しいと言われた。病原体を、無毒化するか、あるいは、その一部を取り出し、それを、標的とする、抗体を作らせる。免疫という、現象について、そんなことを、誰もが、学校で習ってきた。今回の、爆発的感染を起こした、病原体については、姿を変える速度が、あまりにも速く、折角標的を、用意できたとしても、それを、皆に接種する頃には、違う種類が、流行しており、抗体は、それを認識せず、空振りに終わる、と言われてきた。だが、全く別の手法で、標的を、接種者の体内で、作らせることで、今回は、開発できたという、朗報が、世界を巡った。但し、それに付随した、説明書には、気になる記述が、あった。接種により、感染しても、検査陽性にはなるが、発症しても、重症化しない、と謳ってあった。成る程、接種者の命が、助かる可能性は、確かに、上がっただろう。だが、感染そのものを、防げないとしたら、他の人に、広げる可能性は、どうなったのか。これは、無症状陽性者、と呼ばれた集団と、何処が違うのか。後者は、感染拡大の要因、とまで言われたのに、接種者は、病原体を有しても、他人に、伝染させることは、無いのか。この答えが、いつまでも、得られぬままに、旅券制度が、実行に移された。そこに、大きな問題が、あるのではないか、と思っていて、何度も、指摘してきたが、例の著者は、それとは別だが、拒絶されることを、忌み嫌い、移住を決断した。とはいえ、熱りが冷め、今では、何処も彼処も、すっかり、忘れている。だが、あの感染症と、ワクチンの問題は、片付いていない。
旅券は、本来、国が人物保証し、そちらの国への、入国を、求める為のものだ。それに倣って、ワクチンを、接種した人間が、相手国への、入国を、許可される、という図式だけでなく、店や施設に対しても、入ることを、許可せよ、と定めたものが、ワクチンパスポートだ。
あの本の著者は、何らかの理由で、接種をしなかった、と推測される。すると、国や役所が、旅券に似せた仕組みを、導入することで、入店を、制限し始めた。圏内は、既に、異国ではなく、出入国という、手続きを、必要としないが、国内の、料理店などに、入れない事態が、生じた。それが、差別的な措置、と映るのも、ある意味、仕方ない面がある。ところが、別荘のある国では、この扱いが、かなり異なり、店の判断で、入ることが、認められ、何か、不都合があっても、制度を、曲解することで、すり抜けていた。それなら、もう、住んでいた国を去り、新しい国に、移住しては、との決断を、下したのだろう。心理的なものが、ほぼ全てだから、自己都合が、何とかなれば、障壁は、殆ど無いに等しい。その上、本にあるように、別の問題が、次から次へと、発生しても、何とか済ませられる。そんなことが、綿々と、綴られていた。肝心なのは、国民性の違いだろう。あの地域の、南の方に、住む人々は、何事につけ、楽観的であり、あの感染症騒動でも、何とか、乗り越えてきた。ただ、やはり、感染拡大には、厳格な制限の方が、効果を及ぼし、前に住んでいた国は、比較的、死者数が少なかったが、南の方は、総じて、被害が拡大した。ただ、だからと言って、暮らし方を、一変させる、訳ではない。楽観は、そのままであり、それでも、互いに、気を配ることはする。ただ、その程度であり、政府が決めた規則は、守れる範囲で、守るだけだ。それで、何かが、大きく変わる訳ではない。なのに、彼方の国は、あれ程、圧力をかけた、と恨みつらみが、連ねられていた。ただ、問題の根本は、そこでも、無いと思う。続きは、また。
今月読んだ本で、面白かったのは、在外邦人が、ある国の限界集落に、住んでみた話だ。元々、圏内の、別の国の都会に、その国生まれの、配偶者と、住んでいたのが、ある時、思い立って、限界集落に、古くからある家を、別荘にしよう、と思い立ったことから、始まった。
はじめは、休暇を過ごす、との目的だったが、あることを、きっかけにして、移住を、決断した。こちらの、似た集落を、思い浮かべても、事情が、余りに異なり、想像できぬことが、矢鱈と出てくる。まずは、言語の問題、あの圏内では、協力関係が、構築されたが、共通言語が、ある訳ではなく、互いに、自国語を、操るだけでは、意思疎通が、ままならない。その上、文化的な違いも、かなり大きく、異国人の夫婦でも、何方にも、理解不能なことが、度々起きて、戸惑うばかり、と綴られている。別荘のように、一時滞在であれば、まだ、辛抱できるかも、だが、移住となると、そうも行かぬ。その家の、前の持ち主も、外国人だったらしく、どうしていたのか、と想像しても、答えは見つからぬ。言語の問題は、こちらの限界集落には、起きないのだが、一方で、その土地土地の、文化の違いについては、曲げられぬ事情が、必ず生じてくる。その結果、継続を、断念せざる状況が、生まれることも、度々あるようだが、この著者達は、何とか過ごしているようだ。何故、別荘ではなく、移住となったのかは、詳しく書かれているが、例の感染爆発と、それに続いた混乱が、最大の理由のようだ。ただ、著者は、翻訳を生業にするだけに、何処に住もうが、関係がなく、配偶者は、職業に触れるが、何故、その国で、住み続けられるのかは、見えてこない。長年住んできて、確かに、都会の生活で、便利だったのだろうが、所詮、賃貸では、老後への不安も、出てきたのだろう。だが、決定打となったのは、ワクチンパスポート、なのだそうだ。彼方では、入店制限など、多くの制限が、厳格に実施され、それが、障壁となった。それに対し、移住先では、政府は、謳ったものの、末端の店舗は、さほど厳格でなく、その違いが、大きな魅力となった、とのことだ。此方でも、同様なことが、暫く起きたが、今は、沙汰止みとなった。現地が、どうなのかは、実感できぬが、著者によれば、精神的な抑圧が、強かったとある。理不尽そのもの、と思うが、彼方も此方も、政府は、大真面目で導入し、実施した。その辺りの問題は、明日書いてみる。
社会媒体の功罪を、論じても、意味が無いのだろう。その証拠に、手にした端末に、届いた情報で、命が助かった、という話がある一方で、その他の膨大な、嘘に振り回され、なけなしの財産を、失った話や、精神的に、大きな傷を、負ったという話が、次々に流れてくる。
ただ、どちらの場合も、結果として、どうなったのか、という話であり、取捨選択を、繰り返すのも、時に、功となり、時に、罪となる。その違いを、そこに表示された、情報の内容から、区別することは、容易ではない。だったら、どうすれば、いいのだろう。答えは、見つからない。ただ、あらゆる情報を、その源によらず、鵜呑みにせずに、暫く、様子を見ることが、肝要に、思える。だが、それとて、その場で、災害に襲われている、という事態には、一瞬の躊躇が、命取りに、なりかねぬ。まあ、要するに、運次第、ということだろう。だったら、何の情報もなく、自身で、周囲の状況を、見極めても、同じことに、なるのでは、と思う。それも、その通りだろう。手にした端末に、届けられる、玉石混淆の、情報に惑わされるなら、自身で、勝手な判断をして、自分の力で、生き残るのも、生き方の一つ、となり得る。ただ、今の状況を、全体として、眺めてみると、今更、端末を、捨てる訳にも、電源を、落とす訳にも、いかないのでは、と思える。依存体質、などと言われるが、それに近い状況に、ある場合に、さて、ここまで来て、そんな英断を、下せるか、と問われたら、殆どの人が、否と答える。そんなもの、なのだろうが、それにしても、少しでも、良い方法は、無いのか、と考える人も、居るだろう。でも、そんなものは、無いのではないか。それより、最後の決断を、常に、自身で行う、という感覚だけは、保っておいた方が、いいように思う。仮令、他人の一言や、画面に出た情報で、左右されたとしても、決断は、自分でしたのだと。そんなことは、結果論でしかない、との意見も、その通りだろうが、それでも、と思う。
主食の問題だから、皆が、躍起になる、と伝えられるが、果たして、そうだろうか。離れる人の話題を、盛んに伝える一方で、こういう情報操作を、繰り返すのは、大衆媒体の衰退を、如実に、表すとも、指摘される。それは、その通りだが、それにしても、この為体は、どうすべきか。
それにしても、茶番の連続、と見えるのだが、他の皆んなは、どう思うのか。不足が、盛んに、伝えられた時、備蓄で、穴埋めを、との考えが、出てきたのは、ある意味、当然のものだった。その前の、担当大臣が、不足を否定するのみ、だったのに対し、就任後に、一気に、舵を切ったのは、実態の理解が、不足したのか、はたまた、英断だったのか。何れにしても、その後の展開は、この国の、流通構造の問題を、露呈したのだろう。重い腰は、結局、上がることなく、その後、新政権で、就任した大臣は、監督官庁の、出身とのことで、双方への理解が、あるものと、想定された。が、期待外れ、だったのは、明白であり、この期に及び、慌てふためく、様子のみが、伝えられる。だが、ここまでの経緯でも、疑惑は、何度も、浮かんでいた。例えば、備蓄の放出後、市場に出回らぬ中、経営の立場から、保管場所の確保と、経費は、大きな問題、だった筈だが、一向に、漏れ聞こえぬままだ。穿った見方からは、備蓄庫に、そのまま、据え置かれた、とも見られたが、真偽の程は、確かめようが無い。だが、ここに来て、買い戻しが、論じられると、その考えが、再び、頭に過り始める。まさに、帳簿上の、移し替えで、現物は、其処に置かれたまま、であれば、保管状況への、懸念も、払拭できる。何しろ、備蓄したまま、だったのだから。その上、放出米を、競り落とした業者は、保管場所の変更で、輸送費と保管費を、請求できる、となれば、それこそ、詐欺であり、濡れ手に粟の、典型とさえ、思えてくる。一部流通した、備蓄米も、東へ西への、輸送を伴い、輸送業者さえ、潤わせた。一事が万事、この調子だったとすれば、今回の、米騒動は、まさに、空騒ぎの典型で、そのお零れを、悪徳業者共が、受け取っただけのこと。
白い家の発表には、栄誉の文字が、踊っている。暴君の戯言は、社会媒体に、並ぶだけなら、老人の妄言、と片付ければ、それで済むだろうが、公文書に、載せられたら、話が、違ってくる。だからこそ、世界中で、報道されるのだが、その実、効力の程は、怪しいどころか、無いに等しい。
今朝の経済番組では、海の向こう出身の、お笑い芸人が、盛んに、揶揄していたが、これまでにも、同様のことが、以前の大統領が、行ってきたことに、触れていた。その上で、本人の名前ではなく、国の名前を、使ったことは、まだ良かった、と付け加えたのは、笑止千万を、糾弾したかったからか。ただ、国際的には、この類の話が、何処にも転がっている。こちらも、大陸と列島に、挟まれた海域の、呼称について、隣国が、何度も、懲りずに、改めることを、国際社会に、訴え続けている。自分達で、どう呼ぶのかは、自分らで、決めればいいことで、何の制限も、課されない。だが、国際的に、どう呼ぶかには、様々な手続きが、必要なだけでなく、確固たる根拠が、必要とされる。その度に、こちらは、その名の、歴史的な意義を、何度も、繰り返してきた。結果として、変更が、認められず、あちらの怒りは、収まらぬままだが、どうなることか。一方、はじめに取り上げた、湖の呼称変更は、同じように、国内で、どうするかは、暴君だろうが、別の人間だろうが、公文書で、伝達すれば、変更されるのだろう。だが、これまで同様、それが、国内で、浸透するかも、国際的に、認められるかも、別の話となる。対岸の火事どころか、どうでもいい、瑣末なこと、と断じてしまえば、取り上げる必要も、無いと思えるが、暇な報道は、暴君の動向に、目を奪われるまま、下らない、話を書き連ねる。こちらの海の、呼称については、自分事で、国際的には、所詮、瑣末なことでも、やはり、取り上げるべきだが、あちらの話は、どうでもいい、としか思えぬ。
暴君の話は、何度も書いているが、常に、気になることがある。世界が、彼らに接する、やり方は、何か、飛んでもなく、間違っているのでは、という点だ。絶大な権力を、握っているから、腫れ物に、触れるように、との思いがあるのは、ある意味、当然のことなのだが。
現実には、両人共、小心者であり、何かにつけて、恐れている態度が、端々に、現れている、と思える。これは、細心の注意を、という考え方とは、明らかに異なり、ただ、恐れており、それを、悟られぬよう、虚勢を張ることで、如何にも、権力者の態度を、保っている。だが、その実、目の前の、恐怖を逃れる為に、暴言を吐いたり、周囲の人々に、八つ当たりを、し続けるだけ、のように見える。それを、誰が、どのように、誤解するのか、あるいは、曲解した上で、皆が従い、右往左往させられ、疲れ果てている、ように見える。特に、軍事力の行使においては、絶対的な兵力を、誇る、二つの国を、率いているだけに、手が付けられず、まさに、腫れ物を相手に、慎重な対応が、求められる、と信じ込んでいる。でも、その根底には、単なる恐怖が、横たわるのみで、それを、取り除けるのは、他人ではなく、彼ら自身でしか、ないことに、気付くべき、なのではないか。そんなことを、考えるのは、報道で、盛んに伝える、彼らの言動から、発せられる、警報のようなもの、ではなく、彼らが、そんな発言や行動を、する理由を、考えてみたからで、まさに、弱虫の典型であり、他人を、貶めることで、自分の弱みを、隠そうとする、そんな魂胆が、見え隠れするからだ。その意味では、面と向かって、英語で言う、loserの一言を、浴びせてみたら、と思うのだが、記者達には、そんな勇気も、そんな機転も、無いらしい。取り巻きを含め、確かに、職を失いたくは、無いのだろうが、そろそろ、引き際を、考えさせては、と思ってしまう。どうなることやら。
今の紛争の状況を見て、冷戦期を知る人の中には、東西に分けられた、勢力図を、思い出す人も、居るのではないか。国際機関が、大きく制度を、変えたとは言え、その後、主導権を、握ろうとする勢力が、真っ二つに分かれ、睨み合った、あの時代を、思い出すのだ。
確かに、拒否権を有する国が、大きな権力を得て、その他の国々を、率いていた。それが、主義主張の違いから、二つの勢力に分かれ、互いに、絶対的な力を、得る為に、兵力増強に、走っていた。その為には、強力な爆弾が、必要との考えで、原子爆弾だけでなく、水素爆弾にまで、開発が及び、この星が、消滅する程の威力、と言われた時代もある。ただ、睨み合いに、必要な要素として、互いに、せっせと準備したものの、いざ、使用を考えると、相手国だけでなく、自国にも、甚大な被害が、広がることが、明らかとなり、備蓄を増やす、という方向に、進むしかなくなった。ただ、冷戦が、終わったと言われ、国の成長には、経済発展が必要、という考えが、唯一のもの、となってからは、縮小もあり得る、となりかけていた。だが、先日取り上げた、権力者の欲望は、そんなことでは、消滅しないらしく、二つの大国が、それぞれに関わった、軍事侵攻や紛争が、始められて、終わる気配が、見えてこない。このまま、世界規模での、戦争へと、結びつくかは、依然として、予断を許さず、危ない橋を、渡っているのかも、だが、それにしても、何を、争っているのか。あの土地は、自分らのものだ、とか、あんな危険な連中が、隣にいるのは、気に食わない、とか、そんなことでも、考えるのか。まるで、幼稚園児の喧嘩か、とさえ思えるが、そんなものの、とばっちりを、食らいたくはない。だったら、もっと真剣に、安定を取り戻す、動きが起こっても、と思うのは、国際政治を、知らぬ人間の、浅はかさ、と揶揄されようが、どうでも良い。さっさと、落ち着き先を、見つけたら、と思う。
要するに、言論の自由、の場において、配慮が必要か、という問題なのだろう。確かに、必要論を、掲げる人々は、誰もが、不快な思いを、抱かぬように、気を遣うべき、と主張する。それに対して、不要論では、不快ならば、見ずとも良い。拒絶なり、不表示なり、すれば、と来る。
何方も何方、なのであり、こんな議論は、不毛に違いない。だが、国として、治安を保つ、役目を負う場合、何方に、与みすべきか、簡単な問題ではない。特に、いい大人を、相手にするなら、ご自分で、ご自由に、とでも、書いておけば、いいのかもだが、幼い子供では、どうすべきなのか、今、議論の最中、なのだろう。何でもかんでも、禁じることが、適切とは呼べず、時に、そういう害悪に、触れておくことで、心も体も、強くなる、との意見もある。パンチとしては、過剰反応は、見るに堪えず、いい大人ならば、もう少し、自分自身を、律して欲しい、と思うが、これとて、幼子を相手に、となると、一概には、言えないかも、と思えてくる。ただ、ここでは、社会が、と言い出す前に、家族が、とか、親が、とか、言っておきたい。害悪は、何処にでも、転がっており、それらの影響から、子供を護るのは、親の役目、と思えるからだ。その点、最近は、無責任が、横行している、とも思える。幼子に、責任を負わせ、知らぬ顔で、居る親には、なんのつもりかと、思えることも、度々ある。一方で、最近の、社会が、配慮すべき、との風潮も、不思議に思える、ことが屡々ある。先日も、原爆資料館だったか、展示の中に、衝撃的なものがあり、子供の心に、強い影響を、及ぼすとの話から、展示を、止めるべき、との意見がある、と報道された。それに対し、被爆者から、一種やり過ぎ、との反論が、あったとされたが、どうだろうか。親心から、醜いものを、見せぬよう、という話と、何処か、似通ったように、思えたのだが、箱入り娘じゃ、あるまいし、何の配慮かと、思えた。もし、害と思うのなら、見学させず、大事に育てれば、と思う。それが、どんな心を、育むことになるかは、誰にも、判らないだろう。
囀りを筆頭として、社会媒体の害悪は、指摘する声が大きい。だが、媒体を、幾ら批判しても、それによって、悪影響を受ける人々が、居なくなることは無く、増えているのでは。だからこそ、幾つかの国が、若年層の、接続を制限し、害毒の広がりを、妨げようとする。
これ自体が、権利の剥奪である、との指摘もあるが、果たしてどうか。特に、家族の影響が、ここまで縮まり、更には、親までもが、例の媒体で、罵声を浴びせたり、相手を、罵倒することに、躍起になるのでは、子供の教育は、不可能に近い。一方、害悪の元は、何処にあるのか、定かではない。度々指摘したが、海の向こうの暴君は、その代表と目される。就任前から、暴言を連発し、選挙戦でも、政党の代表となることさえ、難しかった。その理由の一つに、大衆媒体の存在があり、暴言、妄言、その他の発言の、誤りを、一つひとつ指摘し、能力の無さを、糾弾していた。だが、同じ媒体でも、社会媒体は、上から目線で、厳しい指摘や、誤りの指摘を、する訳でもなく、好き勝手な発言が、垂れ流される。その中で、それまでなら、演説会に集まる、狂信的な支持者以外には、影響が及ばなかったものが、新たな媒体で、強い発言をする、姿に対して、憧れたり、好ましく思う人が、徐々に増えたことが、彼の、前回の勝利へと、結び付いた。これだけなら、変な奴の登場、で済むのだが、社会媒体は、それに留まらず、手にした端末から、多くの人々が、同様の、過激発言を、繰り返すこととなり、そのついでで、支持者の数も、急増したのだろう。この悪影響は、敗退した間を挟み、今でも、強く及んでいる。相変わらず、根拠の無い、決め付けを、多用し、批判や指摘に対して、歯牙にも掛けぬ、態度を続ければ、弱虫どもは、強さに憧れ、強者を演じる、極端な考えの、持ち主達も、擦り寄ってきて、依然として、支持者の数は、極端には、減っていない。とは言え、こんな言動が、及ぼす害悪は、実は、全く違う形で、多くの人々の、異常行動へと、結び付いた。無根拠での発言も、頑なな態度も、暴君に、酷似した形で、使う人々が、囀り界隈に、棲みつくことが、諸悪の根源と、なったのでは、と思う。ただの、後追い人が、権力者宛らに、持論を展開するが、読むに堪えぬ、代物ばかりが、端末画面に、表示される。禁じない限り、拡大生産が、続きそうな気配で。
何でも、機械任せ、との話が伝わる。生成人工知能は、その威力が、伝えられる一方、教育現場での、脅威も、指摘される。更に、組み立てなどの、工業現場では、元々、導入されていた、工作機械の、制御に関する部分に、人工知能が、付け加えられる、と言われる。
工業生産における、自動化の脅威は、半世紀近く前から、度々、指摘されていたが、ここに来て、人間の役割は、と問う声が、強まっている。複雑な作業どころか、正確な仕上がりも、人間より、機械の方が、遥かに、上となれば、人間が、活躍する場は、失われる、と言うのも、当然と思える。では、人が活躍するのは、どの場面なのか。もう、見えなくなりつつある。以前なら、心理的な綾を、冷たい感情の、機械では、理解も、扱いも、できる筈が無い、と言われたが、今では、生成人工知能が、人間との遣り取りを、無難どころか、見事に、こなしている、と伝わる。そういう事例が、示された時に、以前よりは、ずっとまし、と思える光景が、見えるのだが、どうだろう。穿った見方からは、何だか、質の悪い対応を、繰り返す人間を、見るような気が、と思えるのだが、それこそ、今や、世間全般が、そんな輩で、満たされるのだから、比較対象として、それで十分、とでも言うしかない、状況にあるようだ。逆に言えば、人間の方の、劣悪化、質の低下が、余りに、著しいので、それなら、機械で十分、となる訳だ。だったら、もう、全て、機械にやらせれば、となりかねないが、さて、どうだろうか。この考え方に、皆が、賛同するようなら、この勢いは、止められない。でも、と思うのは、人と人との関わりで、わざとらしい、褒め言葉や、時宜を得た、返し言葉が、常態化している、とは言え、それで、満足なのか、と思う部分も残る。昔流れた、SF映画と同じ、光景が、目の前で起きるのを、どう思うのか、と似た部分があるが、どうだろうか。暫く、様子を、見ておこう、と思う。
殆ど無視されるが、文書の作り方について、囀りで、指摘する意見もある。その多くが、大学でのレポートからの、話題なのだが、さて、どうしたものか。初等中等教育で、作文の書き方を、習っている筈が、何故、段落を、つけないのか、とか、段落のはじめは、一字下げる、とか。
確かに、作法は、重要だろう。ネット上の文章でも、多くは、そんな指摘がなされ、囀りは、最初に、一字下げて、打ち込んでも、表示される時に、自動修正される。それ程、作法が、蔑ろにされているのだ。発祥の地であろう、英語文化圏では、どうなのか。段落分けは、何とかできても、始まりの部分では、文頭から、となっている。元々は、間違いを避ける為か、3字下げて、タイプしていたが、今は、それも無くなり、おそらく、段落分けも、こちら同様、一行空けを、推奨するのでは。堅苦しい作法より、中身で勝負、と、こういう人々は、返してくるだろうが、中身が、伴わぬからこそ、作法や形式だけでも、と断じられる。特に、大学教員が、喧しく指摘するのは、提出物の文章が、いかにも、読みにくく、更には、ネットからの、コピペの連続、であることが、明白なだけに、その位の手は、入れておけ、と言いたいのだろう。だが、今時の学生には、ただの雑音にしか、響かない。その上、そういう文句が、感情的なものと、映る為に、成績不良も、教員の暴挙、としか、映らないと来る。これでは、駄目だ、と思うのは、ある世代から、上だろうか。にしても、指摘の理由は、読みにくさが、第一であり、それにより、文章の巧拙などは、二の次に、されるということに、書いた本人は、気付かぬものらしい。その調子で、全てを、相手の責任と、言い募り、遂には、虐めなどと、言い出す始末では、社会から、排除されるのも、止む無しとなる。被害妄想は、ここでも、膨らむばかりであり、被害者然とすれば、何事も、押し通せる、との図式が、展開される訳だ。まあ、そこまで、行かずとも、もう少し、謙虚にしたら、と思うのは、高圧的だろうか。囀りでの無視は、そんな世相の現れ、とも思えるが。
情報社会だから、正確な情報を、とある放送局が、流していた。それは、その通りなのだが、今までの状況から、これを、鵜呑みにする人は、殆ど居ないだろう。裏を取らず、情報源の言葉を、そのまま伝えた、というのが、正確な情報、と言うのなら、その通りかもだが。
現状は、情報の氾濫の中で、何が、正しいのかを、自身で確かめる、という手法が、勧められる。正誤、入り混じったものから、正しいものを、抽出すれば、という話だが、無数にある中で、困り果てる人が、多いだろう。だからこそ、そこで必要となる、取捨選択を、機械任せにしよう、との動きが、急激に高まる。それに加えて、人工知能が、正誤を、判断してくれれば、と願う人も、居るのではないか。まあ、その手の考えも、はじめに取り上げた、考え方も、人それぞれで、自己責任、と考えれば、どうと言うことは、無いだろう。信頼できる、とされたものに、任せただけなのに、偽物を、掴まされた、となった途端に、文句を並べても、どうにもならぬ。だったら、さっさと諦めて、となれば、これもまた、どうと言うことは、無い。だが、世の中、そんな風に、考える人は、殆ど居ない。だったら、自分の責任で、やればいいのに、と考えるのは、どうだろう。そんな指摘を、受けると、それはそれで、また、こんな塵の山から、選び出すのは、自分には出来ない、と答えるのでは。だったら、諦めて、誰かの言うことを、信じたら、となる筈だが、さて、どうか。この手の話に、終わりは無い。もう、無理なのだ。日々、手にした端末に、届く情報は、無尽蔵、と思える程で、既に、お手上げなのだ。だったら、どうすれば、と尋ねられても、答えは、無いだろう。損得勘定で、判断するのなら、多少の損失には、目を瞑るしかなく、得したからと、調子に乗って、失敗した人達を、せせら笑っても、何にもならぬ。囀りなどの、社会媒体に、口出しせずに、大人しく、しておくのが、得策だろう。まあ、ここを読む人には、そんな言葉は、無用だろうが。