パンチの独り言
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4月30日(木)

 もう一つ、今月読んだ本を、紹介したい。これも、有名な女性小説家が、著したものだが、彼女が、戦中に、学校に通った時代に、書いたものの紹介と、その頃の心持ちを、書き記した記録だ。正直な気持ち、が現れていて、とても印象的だったし、当時からの創作意欲に、感服する。
 戦後、無謀な戦いに、突入したことへの、反省からか、反戦的な考え方が、主流となり、戦前は、国家挙げての、教育により、子供達の心に、戦争肯定の、考えを植え付けた、と言われ、そのように、教育されてきた。確かに、純粋な心を、弄んだ大人達が、居たことは事実で、それにより、利益を得た輩も、暗躍したのだろう。だが、その最中の、子供達の心の動きは、殆ど伝わらず、一方的な否定が、主流となっていた。その意味で、子供の心が、無視されたのは、今も昔も変わらず、大人の身勝手が、押し通されることに、何の違いも無い、と思えてきた。だが、この本を読み、その当時の、筆者の戦争への、考え方や、自分の心の動きとの、関係が、明らかにされると、ふと、違った考えが、芽吹いてくる。暴挙の全否定により、自らの存在を、肯定しようとする、心の動きを、蔑むつもりは無いが、否定された人の、心持ちにまで、思いを馳せずに、何も知ろうとせずに、否定し続けるのは、どうかと思う。これは、一つには、大衆媒体の、責任問題との、関係から出た、話なのだろうが、それにしても、こういう馬鹿げた、論調に乗せられる、大人達の浅慮に、もっと、思うべきことが、あるように思える。まあ、そうは言っても、今更、どうにもならぬ、との考えも、ある意味当然で、無力感を、抱くことで、責任逃れだろうが、責任転嫁だろうが、そんな言い訳を、せねばならない、事情をも、受け入れるべきかも。ただ、彼女が、戦後何年も経て、こういうものを、著した気持ちは、受け取る必要が、あるのではないか。一人で、できることは、小さいが、一人からでも、始めて欲しい、との思いを。

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4月29日(水)

 暴君の迷走は、止まるところを知らぬ。からか、市場は、右往左往を、止めたらしい。確かに、心理的な動揺は、収まってはいない。だが、日々、猫の目の如く、コロコロと変わる、情勢に対して、動き回れば、損失は、増えるばかりで、何の得にも、ならないからだ。
 当然ながら、彼の言動の、先を読んで、立ち回れば、濡れ手に粟の如く、儲けられるに、違いない。だが、これ程までに、不安定な心理の、先を読むことは、非常に困難であり、火傷をすることも、起きてくる。その上、爆撃が、始まった当初は、早々に、かたがつくと、思われたのに、今では、泥沼化し始め、暴君の言動は、信じるに足らぬもの、となってしまった。毎週末に、不穏当な発言を、続けた結果、はじめのうちは、恐れるような反応が、世界中の市場で、起きていたのだが、いつの間にか、免疫ができたが如く、不感症を、発症したように、なっている。そうなると、先読みも、難しくなるばかりで、そこに、油を注ぐのは、発言自体が、揺れ動くように、なったことだろう。このままでは、儲けと損失が、確率的にしか、起きなくなるから、長く投資に関わった、人々は、手を引くように、なったのだろう。では、次は、何が起きるのか。問題は、解決しておらず、燃料の供給は、不安定なままだから、収束を、期待する訳にも、いかぬ話だろう。その中、次は何、という疑問は、世界中の、誰もが抱くもので、解決法は、見つからぬままだ。ただ、焦ってみても、始まらぬのは、明白だろう。先行き不安から、何でも値上げ、という動きが、起きたのは事実だが、その根拠の薄弱さは、明らかとなった。もし、そうなら、様子を見る中で、米騒動と、同じようなことが、起きるに違いない。ありもしない、市場原理に、縛られるより、市場心理で、慌てふためく、物価の動向は、心変わりの結果、落ち着き場所を、見つけるからだ。泡銭は、何処かに消え、確実な商売への、回帰を、余儀なくされる。もう暫くの、辛抱なのか。

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4月28日(火)

 今月読んだ本は、あと数日で、公開するのだが、中に、興味深いものが、あった。小説家の、小説の書き方は、綴り方教室などで、よく知られた所だが、この本は、少し趣が異なる。自分が、著してきた、作品の内容を、紹介しながら、その時々で、出てきた話題を、綴っていた。
 長編小説では、連載が、基本となるから、締め切りを守るのは、当然のこと、と思われているが、それでも、日が迫り、追い詰められる中、光が見えた、などという話が、実しやかに、語られるものだ。でも、この小説家は、主に、短編、それもかなり短い作品で、名を成した人物で、一作一作が、別々なものだけに、締め切りも、少し違った感覚で、あるのだろう。だが、本人の矜持は、締め切りを守ること、だそうで、その心掛けにとり、重要なことを、説明していた。要するに、最高のものを、書こうと思わず、締め切り優先で、その場その場の、話題を拾い上げ、纏めるものの、必ずしも、満足の行くもの、となるとは限らず、時に、発表後に、下を向くしかない、となる場合も、多かったと言う。とはいえ、人気作家だけに、作品数も、膨大であり、本人曰く、玉石混淆、なのかも知れぬが、にしても、耳目を集めたものも、数え切れぬ程に、残している。高齢だが、まだ、現役を貫いており、最近も、出演したと聞くが、そこでも、不思議な話を、語っていたらしい。先日亡くなった、連れ合いの様子を、伝えるものだった、とのことだが、認知症を患い、看病を続けることを、諦めたことから、施設に、預けたらしいが、本人の動揺を、抑えようと、面会に行かず、知り合いにも、そうして欲しい、と伝えたとのこと。深慮の末、だろうが、人によっては、非情なもの、に見えるかもだが、淡々と、語る姿に、真意が、伝わったのでは、と漏れ聞いた。一方で、先程の話を、続ければ、締め切り第一の考えと、出来の良さに、拘らぬとの姿勢には、大切なことが、あると受け取った。世の中、大した能力も無いのに、締め切りを破り、出来の悪いものさえ、出してこない連中が、一杯居るのだ。

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4月27日(月)

 自分の意見が、世界を駆け巡る。こんなに嬉しいことはない、と思う人が多いのだろう。社会媒体は、まさに、その典型であり、誰もが、手にした端末から、好き勝手なことを、書き連ねている。それが、耳目を集めるかは、内容の質によるらしい。だが、これ、本当か。
 この独り言は、そういった媒体とは、異なるものだろう。運営は、自身で行い、誰もが、接続できる状況だが、その割に、耳目を集めることは、稀でしかない。理由は簡単で、入り口が、違っているからだ。ブログ、と呼ばれた代物も、それを、専門に扱う供給者を、通せば、誰の目にも、触れることができた。ただ、その時代と、今の社会媒体の違いは、供給の仕方、にあるのではないか。特に、最近の傾向は、それが強まっており、何故、と思う程に、ある偏りを持って、日々の書き込みが、表示される。これで、世界中の出来事を、網羅している、と思ったら、大いなる誤解となる。自分の興味に、従う形で、供給側が、仕組んでいるのだ。だから、同じような、考え方や、受け取り方を、する人々の意見が、氾濫することとなる。その上、最近は、言語の壁が、壊されつつあり、どんな言語の意見でも、読み手の言語に、自動翻訳され、供給されることになる。一々、意見の内容を、読み手が翻訳する必要がなくなり、結果として、誰もが、言語の壁を、感じないままに、意見交換できる。便利な時代、になったのだろうか、それとも。こうなると、意見の論理性が、重要になるのでは、と思う。例えば、大学教育に関して、その意義を重視する意見と、そうでない意見が、交錯する中で、それぞれの論理性は、かなり欠落しており、とても、高等教育に、携わる人間が、出したものとは、思えない。社会媒体の問題は、ここにある、とさえ思えるが、当事者達は、互いに、悦に入って、自慢げに、持論を展開する。その論理の綻びに、気付く気配はなく、ただ、耳目を集めさえすれば、それで、勝ち誇ったように、なっている訳だ。子供の玩具、であるまいに、この状況では、先が思いやられる。と書いても、反論を掲げても、誰も見向きもしないのだから、この社会は、所詮、その程度のものか。

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4月26日(日)

 案の定、昨日は、鉄道事故の話題で、持ちきりだった。それに比べ、囀りでは、殆ど話題とならぬ。理由は、おそらく、二昔前の出来事では、囀りの記録が、殆ど無かったからだろう。その5年程後の、大震災では、情報網として、社会媒体が、活躍したのだから、今は昔か。
 何にしても、事故の後には、必ずと言っていい程、安全の話題が、持ち上がる。確かに、この事故の原因は、運転手の過ちであり、その原因が、精神にあったのか、未熟にあったのか、はたまた、社員指導にあったのか、そんなことも、直後は、取り沙汰されたが、そんな人為災害を、防ぐ為の仕組みが、あの路線では、採り入れられておらず、企業責任が、厳しく問われた。それはそれとして、重要な事柄には、違いないのだが、安全安心が、今ほど、強く求められる時代は、無いと言われるが如く、高い要求が、壁となって、聳り立つような、そんな気がしてくるのは、こちらが、心配性だからか。確かに、機械的に、異常を感知して、正常に戻す仕組みが、導入されてさえいれば、防げた事故との指摘は、当然のことと思う。ただ、何処まで、その整備を、求めるかについては、様々な意見が、あるようにも感じる。ある程度の水準までは、費用対効果と呼ばれる、数値が、許容範囲内に、留まるのだが、ある点を超えると、途端に、難しさが増し、費用の高騰が、大きな問題となる。私企業ならば、事業継続の為に、不可欠な要素となるから、覚悟の上で、挑まねばならぬが、大震災後に、問題となった事故でも、同じことが、適用されるのでは、と思えてくる。絶対の安全を、手に入れる為に、という論理は、元から破綻しているが、それに、気付けぬ人の数が、どんどん増えているのでは、とさえ思えるのだ。特に、社会媒体が、日常的なものに、なった頃から、その要求の高まりが、急となっており、そちらの立場の人々は、一層の苦しみを、強いられている。歩留まりは、言い過ぎと思うが、何処迄の要求が、妥当で、何処からが、論外となるのか、目の前の問題を、眺めつつ、考える必要が、あるのではないか。

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4月25日(土)

「忘れない!」、との掛け声が、盛んに繰り返される。事ある度に、と言って仕舞えば、その通りかもだが、それにしても、どれ程のことを、覚えていろ、と言うのか。この国は、自然災害に、襲われることが、度々あり、その上に、人為災害が、加わると、お手上げ状態に。
 と書くと、大袈裟な、と言われるだろう。その通りだろう、と思う。度々、とは言っても、記録に残るものなら、数限りなく、とはいかず、それぞれに、起きた日を、覚えておくのは、不可能ではない。だが、こうも毎日、記念日の如く、訴えられると、いい加減に、と思い始める。でも、画面も紙面も、そういった話題で、埋め尽くされて、嫌になってしまう。PTSDも、屡々、話題となるが、心的外傷後ストレス障害は、確かに、治療が必要となる、病気の一つなのだろうが、それとこれと、どちらを、優先すべきか。思い出させることが、心の不安を、掻き立てる、とする一方で、忘れるな、との言葉が、飛び交っている。何方を選べば、などと言うつもりは、毛頭ないのだが、それにしても、ある意味、暴力的とも思える、やり方と思う。ただ、以前なら、大衆媒体の、専売特許、とまで言われた、この手の話が、今では、社会媒体でも、盛んに、飛び交っている。元々、迷惑千万、と言いたくなるような、ものなのだが、これが、個人の手に渡ると、一層、問題が深くなり、人々の心を、苛むような、ものへと変貌する。手口は、似ているものの、悪質さにかけては、一層、増している、とさえ思えてくる。昔の記事を、何処かに、しまっておき、それを、別に記念日でなくとも、思い出したとでも、言いながら、貼り付ければ、それだけで、ばら撒いてくれる。加担するかは、別として、閲覧数が増え、「いいね」が、悪意のないままに、増えていけば、目に触れる機会も、増し続ける。一度掲げれば、暫くは、そのまま、繰り返されるから、放置すればいい。そんなことに、思い当たる人が、多いのではないか。この話、何処かで見た、という程度から、もっと鮮明な記憶まで、様々だが、影響力は、十分にある。

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4月24日(金)

 三重苦は、言い過ぎだろうが、報道は、まさに、そんな雰囲気で、盛んに煽り立てる。彼らの常道であり、役目と自認する、そんな姿勢なのだが、その中身の軽薄さは、いつものことながら、呆れるばかりだ。大衆媒体の、為体は、そんな形で、取り上げられ、マスゴミと揶揄される。
 この程度なら、社会媒体の方が、ずっとまし、と思う人が、いるかもだが、現実には、石ばかりの中に、正しい情報を、掘り出さねばならず、安易に、賛同しかねるものだ。地震から始まり、それが、後発と呼ばれる、措置へと移った後に、山火事が、起きたとされる。それに加えられるのは、自然災害とは、ちょっと異なる、とさえ思える、熊の出没だ。どれも、避け難いものとして、並べられたのだが、それぞれの事情が、あまりに異なり、一緒に語るのは、いかがなものか、と思えている。後発に関しては、先日も、少し触れてみたが、確率が上がり、注意を要する、という意味で、常に、心に留め置く必要が、あると言われるが、さて、今になって、強調すべきものか、と訝しむ。確率は、確かに、低いものの、以前から、忘れた頃に、やってくるものとして、常に、注意すべきものだった、筈ではなかったか。次の、山火事に関しては、一年余り前に、大規模なものが、発生したことは、記憶に新しく、当時も、勢いが、収まりかけた頃から、断定的なものも含め、様々な憶測が飛び交い、仮説が、積み上げられた。にも拘らず、今回も、同様の調子で、恐怖を煽る内容が、垂れ流される。拡大するか否かには、それぞれの場所での、対応の積み重ねが、重要となる筈で、そのための憶測や仮定だったのでは、と思うのは、こちらだけで、現場も報道も、騒ぎ立てるのみ、にさえ見える。もっと酷いのは、熊の出没だろう。駆除方法に関して、冬眠前に、取り決めねば、と急いだ筈が、またぞろ、同じ調子で、現場の混乱が、伝えられる。駆除せねば、との考えは、どうなったのか、とさえ思えるが、報道の煽り姿勢が、それに加担するからか。何れにしても、三重苦は、暫く続くだろう。懲りもせず、とは言い過ぎか。

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4月23日(木)

 義務教育の義務は、国家に対するものでも、子供達へのものでもない。親の義務だが、誤解する人は、多いようだ。で、国が、こんなことを、決めたのは、家庭の事情、と称して、子供達の権利を、奪うことで、無償の労働を、手に入れる、という考えを、否定する為だ。
 ただ、その交換条件の一つとして、公教育の場合には、ほぼ無償とした。ほぼとは、教育に係る、という範疇であり、食事代や、その他の経費には、適用せずとの意味だ。この辺りから、今の社会に広がる、もう一つの誤解が、生まれている。つまり、給食費の支払いを、拒否する親や、修学旅行をはじめとする、学校行事への、参加の拒否である。食べずに、済ませるのなら、対価を、支払う必要は、出てこないが、他の児童が、食べているから、自分の子も、その権利がある、との主張の一方で、支払い拒否だから、矛盾に満ちている。理由の一つには、貧困があるが、それは、別の形での、支援を請求すべきで、それ無しに、権利としての主張は、誤りと思う。一方で、この貧困社会の問題は、次々に、標的を定めて、要求を増やしている。義務教育期間を超え、進学の自由が、明白な高校や大学にさえ、無償化を求め、それが、当然の権利と、訴えることには、異論を唱えたくなる。平等が、真っ先に、掲げられる権利だが、何をどうすることが、平等へと結び付くのか、理解不能に陥る。人材育成は、国にとっての、喫緊の課題だから、との主張も、実しやかに、論じられるが、誰が、人材となるのか、その資格はあるか、そんな指標で、この議論を、進めることが、起きないのは、何故だろうか。簡単には、今の教育現場の、荒廃ぶりを、眺めれば、明白になるが、その状況から、目を逸らした上に、平等でないから、意欲が上がらず、現状を招いた、とまで言い出す始末には、呆れるしかない。自らを、人材として、確かなものにする。そんな目的で、進学するのなら、その努力を、怠ることは、許されないし、その為の、支払いを、拒む理由など、見つかる筈も無い。だとしたら、無償化は、無意味と思えるが、どうだろう。ここでは、その原資として、税金が使われるが、その意味は、国民全体で、次代を担う人材の育成を、支援することだ。その同意が、得られるかは、対象となる人間の、心掛け次第と思うが、いかがだろう。

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4月22日(水)

 囀りにも、書くようにしている。ただ、反響の有る無しは、実は、誰の囀りに、反応するか、によるようだ。また、内容にも、よる部分が大きい。書く方は、大切なこと、と思っているのだが、その前の反応で、左右される、ということは、多分、読む人の気持ち次第か。
 独り言でも、囀りで書いた意見を、転載したことがあった。こちらへの反応は、訪問者の数しか、知る術が無い。囀りなら、「いいね」の数で、反響の大きさが、分かるだろうし、また、閲覧数も、大きな要素となる。教育について、幾つか書いた時、僅かだが、反応はあったものの、芳しくはない。とは言え、気になることだから、何度も、重ねて書いてきた。今回は、最近、話題になっている、教科書代について、意見を書いてみたが、殆ど反応が無い。まあ、話題とは言え、身勝手な意見が、殆どであり、多くの人には、どうでもいい、のかも知れぬ。こちらが、書いたのは、次のとおりだ、引用してみる。”なんでも無償はどうかと思う。大学教科書は一つの解決法として授業料に含めてとの意見もあるが、もう一歩進めてタブレットで電子ファイルに接続としてはと思う。出版社も最近の書籍は印刷用に電子化しているので。その上で、卒業後に印刷媒体を希望したら、改めて購入を”、とした。以前、授業料についても、講義単位当たりに、してはどうか、と書いたが、それとは、少し違う話だ。ただ、重い印刷媒体を、持ち歩く不便と、最近の、何でも電子化、の流れに乗せて、端末に、教科書のデータを、搭載させて、在学中は、それを参照させ、卒業後に、接続権を喪失した際に、印刷媒体の、購入を検討しては、という意見だ。価格の問題が、懸念材料とされるなら、こういう方式で、時限的な利用で、価格を抑え、それを、授業料に、上乗せさせる。出版業界も、印刷用に、電子化しており、そのまま流用すれば、新たな作業は、不要となるから、皆にとって、有用となる、と思えるのだが。と思って書いたが、何の反響もなく、閲覧数も、増えていかない。無償化ばかりに、目が向く時代に、合理性は、魅力無し、と映るのか。

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4月21日(火)

 0.1%から1%に、変えられて、どう感じただろう。流石に、10倍になった、との報道は無いが、でも、確率的には、まさに、その通りだ。だが、千回に一回から、百回に一回、となった、と言われたら、どうか。どれもこれも、数字なのだが、表現方法で、印象が違ってくるか。
 地震の話は、この手の話題で、事欠かない。正確に、伝えようとする一方、皆の心に、正しく伝わったかは、別の話になるらしく、時に、脅し文句が、並ぶことさえある。典型は、三十年以内に、70%の確率で、巨大地震が、という話だろう。でも、一部の学者は、ある期間に、「確実に」起きる、とまで言ったとある。何方にしても、結構な可能性であり、誰もが、恐れ慄くこととなる。だが、本当かどうかは、誰もが、保証できないこと、なのではないか。特に、「確実に」の一言を、付けた途端に、嘘となりかねない。だが、備えの為には、そうせざるを得ない、とまで、例の役所の人々は、断言しているらしい。だから、地震だけでなく、豪雨などの、自然災害に関しても、避難の必要性を、訴える目的で、過激としか、思えぬ表現が、並ぶばかりか、毎年、新しい表現が、登場する。確かに、災害は、地震にしろ、豪雨にしろ、起きてしまえば、犠牲者が、かなりの数に、上る場合が多い。だから、心配と不安を、募らさねば、安全や安心が、確保できない、と言うのだ。でも、一方で、普段から、心配や不安を、口にし続ける、庶民達の多くは、警報に従うことは、殆ど無いままに、何も起きないことで、安心を、手に入れたと感じる。この遣り取りには、何か、大切なことが、欠けているのか、と思うことはあるが、さて、何をどうしたら、「絶対的な」安全や安心が、手に入れられるか、見つけるのは、難しいようだ。それは、ある意味、当然であり、面倒の一言で、何事も、やり過ごす人々が、災害に遭う可能性が、増えるのだ。本当に、不安や心配に、心が苛まれるのなら、何か起きそう、と言われたら、すぐに対応する筈だが、そうはならない。この心理に対して、責任ある立場の人々が、盛んに、脅しつけるのは、間違いではないだろう。ただ、予想を外すと、罵声が飛び交い、時に、責任問題となる。ここを、解決しない限り、無理難題のままだろう。不可能だろうか。

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4月20日(月)

 いまだに、言われているのか。褒めて育てる、という掛け声が、嘗て、この国に、急速に広がった、ことがある。海の向こうから、押し寄せてきた、間違った考えが、流布されるのは、これに、限ったことでなく、あらゆることに、そんな事例が、溢れているが、それにしても。
 と思うこと、頻りなのだが、これこそが、間違っているのか。褒めて育てる、という考えが、全て誤りだ、とは言わないが、何処まで、そんな戯言が、通用するのか、と思えてしまう。これと並ぶ、考え方の一つに、他人に優しく、というものがある。これもまた、褒めて、という考えと、並ぶものとして、推奨されるが、どうしたものか。他人が、間違いを犯しても、それを、別の人や環境に、責任転嫁する。目の前の人間を、傷つけぬよう、との配慮と言われるが、はてさて、何がしたいのか。子育てを、少ししてみれば、叱ることの大切さに、気付く筈だが、その気配は、全く見えず、ただただ、闇雲に、褒め称える。いや、そんなことしても、悪戯は、無くならない、と思うが、叱ることで、萎縮させるのが、いけないとの考えを、優先させるようだ。そんなこんなで、周囲の人達から、いい人と呼ばれ、安心するらしい。成る程、いい人という言葉を、欲しいだけか、と思えば、納得できる。だが、それが、別の問題を、生じると、今、画面から流れる、話は、伝えている。何故なら、そんなことをしても、自信を持つことが、できないから、困っている、という人が、居るからなのだ。えっ、と思うのは、いつもながらだが、他人には、優しくできるのに、何故か、自分には、厳しくなる、という心情が、あるのだそうだ。全く理解不能だが、大真面目に、そのことを、伝え続ける。その説明を、聞いていても、何も理解が進まぬ。これでは、駄目だとなる、のだろうか。いや、何事にも、冷静に、分析すれば、何も心配なく、自分なりに、できることが、見つけられ、それを、粛々と、こなしていけば、他人の評価は、それなりになり、評価も高まる。と思うのだが、そうではない、と断言している。不思議な世界だが、そちらの方が、当たり前らしい。

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4月19日(日)

 何を信じれば、いいのだろうか。詐欺に、騙される話ではない。ある意味、権威を持った、大衆媒体が、堂々と報じる、出来事の中身だ。何故、こんなことが、と思うような話が、実しやかに、流され続ける。大元を辿れば、恐らく、囀りなどの、社会媒体に、行き着くのだが。
 最近の事件に、興味が湧かないのは、何故か。少し考えて、思い当たるのは、関係の有無だろう。他人事とは、よく言われるが、事件そのものの、凶悪性や重大性が、何処かで、指標のずれが生じ、どうでもいい、と判断する。多額の金品が、白昼堂々と奪われ、それが、同じ人物が、関わる中で、国を跨いで、発生した、という報道に、どれ程の人が、注目しただろう。仮想空間で、集められた人間が、一般家庭に、強盗に入り、時に、住民の命までも、奪ってしまった、という事件に比べ、こちらへの関心は、一向に高まらない。理由の一つは、金額の多寡で、その上、それらを、外国に、運ばねばならぬ、理由も、大きな要因となった。案の定、そちらの世界の出来事、であることが、徐々に明らかになり、所謂、内紛にも似た、現象なのでは、と思うしかない。子供が、行方不明になり、大々的な捜索が、実施されても、一向に、足取りが掴めず、放送は、毎日、あてにならぬ情報を、垂れ流すばかりで、推測は、何の根拠もなく、囀りの世界でも、飛び交い続けた。捜査方針は、当然の如く、明らかにされぬまま、迷走を続ける、と見られたが、その実、犯人の当ては、当初からつき、泳がせることで、証拠を、掻き集めていた、ようだ。異様な状況に、興味を抱いた人も、居たのだろうが、こちらからは、得体の知れぬ話で、何処か別世界の、話にしか、見えていなかった。死体として、発見された状況も、理解不能な情報ばかりで、死因さえ、不明とされた。最後に、関わった親族が、予想通りに、逮捕され、自白を始めた、とされるが、その内容は、警察の記者発表が、操作された、と思えるもので、自白だけでは、覆されるとの、懸念の表れか、とさえ思えてくる。また、すぐ近くの、国と呼ばれぬ、島の報道は、盛んに、外国出身者、と伝えていたが、事実無根と、片付けられつつある。根拠は、週刊誌記事とされたが、そんな記述は、一切無かった、と今更の如く、伝えている。これら、全ての顛末から、信用ならん、と結論付けては、心外と言い返されるのか。

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4月18日(土)

 情報社会である。入ってくる話に、目を光らせ、耳を澄まさねばならない。と言われるが、本当にそうだろうか。これだけ、嘘や出鱈目が、流れてきて、騙されぬよう、心掛けねばならない、のは、どうなのか。情報と言われるが、塵や石ばかりで、拾っても無駄、なのでは。
 そんな思いを、抱きつつも、毎日、新聞を読み、テレビを見て、ネットに接続する。どうせ、無駄に違いない、と思いつつも、何か、大切なことが、あるかも知れぬ、と思いつつ。で、結果は、殆ど変わらず、何も新しいことは、起きそうになく、悪いことも、言われる程には、起きていない。でも、と思うのは、件の暴君を、はじめとして、政治家達の言動が、何とも頼りなく、そして、嘘や出鱈目も、満載ということだ。これでは、任せておけない、のではないか、などと考える人も。だが、民主主義の国で、選ばれた人間を、敢えて、退場させることは、ほぼ不可能だ。一方で、独裁国家では、尚更に、困難な話で、諦めるしかない。連合の中で、異論を唱え、軍事侵攻が、起きた時さえ、同調することなく、連合体制を、危うくさせていた。その人物に関しては、長く続いた政権を、やっと、手放したと伝わる。で、どう変化するのか、まだ分からぬ。特に、暴君との繋がりが、今の混沌状態を、招いたと言われるだけに、あの人物が、退陣したとしても、大した変化は、起きないかもだ。とは言え、これまで、一人の反対により、支援を受けられず、窮地に追い込まれていた、あの国の状況は、好転するのかも知れぬ。まあ、これとて、情報は錯綜しており、軍事侵攻自体は、何の変化も、起きておらず、やはり、このままかも、とさえ、言われている。ただ、季節は変わり、一時に、劣悪な天候は、去っただろうから、資源への懸念は、少し和らぐかもだ。その上で、武力の争いには、どんな変化が、起きるのか。こちらにとっては、石油の問題の方が、遥かに大きく、扱われるが、結局、全部、同じ器の中での、話なのかも、だ。

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4月17日(金)

 教育現場の混乱は、深刻なものらしい。とは言え、混乱するばかりで、解決法が見つからず、ただ叫ぶだけ、と見えるのは、何故だろうか。厳しいかもだが、そんな印象を、覚えている。世の中の変化に、追従することが、叶わなくなり、ただ、あたふたしているだけ、なのかと。
 何が、問題なのか。当初は、従来の課題が、通用しなくなった、と言われた。つまり、人間の頭と手で、与えられた課題の、解決法を、導き出すのが、学習に繋がる、とされていたものが、人工知能の介在で、人間の関与が、著しく薄くなった、からなのだ。だとしたら、何をさせれば、と考えた途端に、戸惑っているらしい。一部には、自分で出したのか、機械が出したのか、その区別を、明らかにする為に、一人ひとりに、説明させれば、という意見があるが、多数を対象とする場合に、時間や手間が、膨大となる、と言われる。一方で、誰かの助けを得て、という形は、以前もあった訳で、それ自体は、悪いこととして、指摘されず、問題視されなかった。何故、友達やら本やらを、頼りにするのは、構わぬことで、機械が、全部やってしまうのは、いけないのか、きちんと、説明できない人が、居るようだ。課題を与える目的は、負荷をかけて、そこでの手続きを、経ることで、何らかの学習効果が、得られる、とされてきたが、その手順の殆どを、機械が代行しては、効果が見込めぬ、と言われる。だが、本当に、そうだろうか。何処まで、依存するかによるが、ある程度の助力は、誰もが、必要とする所で、それを得て、解決策を、講じられれば、それでよし、との考えもある。この二つに、どんな違いがあるのか、今一度、考えてみるべき、なのではないか。だとして、何をどうすれば、という点について、現場が、何も考えないのでは、やはり、大きな問題がある。まして、その人々が、その答えを、人工知能に、尋ねてしまうと、どうしたものか、と思えてくる。世の中、依存ばかりで、自立への道を、目指さぬようでは、もう、おしまいかも、だ。これを読んで、何か、考えてみては、どうだろうか。

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4月16日(木)

 生成人工知能の問題は、当初、学問の世界で、取り上げられた。と言っても、初めに起きた問題は、大学での教育への、悪影響とされ、その直前に、世界規模で起きた、感染拡大から、現場の取り組み方が、通信によるものへと、変貌したことが、強く影響したようだ。
 遠隔講義なるものが、便利なものとして、緊急事態が、収束した後も、継続される中、試験を課したり、課題を提出させたり、などにより、専ら、評価を下していたものが、その仕組みを通せば、誰もが、満点を取れたり、それなりの提出物を、簡単に、手に入れられたり、評価そのものを、蔑ろにする動きが、高まったからだ。その後、悪影響は、絵画などの芸術や、映画の世界へと、飛び火した、と伝えられ、関係者の権利保証が、喫緊の課題、とまで言われた。偽物を、発見する手立てが、講じられる一方で、仕組みを通った作品は、その徴を残す、との取り決めも、大真面目で、検討されていた。だが、それでもまだ、文学作品については、遠い未来、とさえ言われたが、短編で名を馳した、人物の名を冠した、文学賞では、急激に、人工知能を活用した、作品の応募数が、増えたとある。活用の有無を、知らせぬままに、審査を進めたら、受賞作の大多数が、活用したものだったとなり、遂には、審査を辞退する人が、出たとまで伝わる。確かに、大学での騒ぎでは、課題の内容を、伝えただけで、機械が作ったものを、そのまま、提出することが、問題とされたが、文学賞の応募では、そこまで、劣悪な態度で、応募した人は、ほんの一握りだろう。だが、程度の差はあれ、何かしらの助力を得て、書き上げられたものを、自分の作品と、断言できるかについては、一考の余地は、ありそうに思う。だが、そこまで、話が進むと、途端に、嘗ての絵画作品は、工房での制作に、よるものだったとか、一流の小説家も、助手の調査や、数々の助言で、内容が浮かんだとか、そんな話を、持ち出す人が、出てくるに、違いない。何処に、線を引くべきか、現時点では、答えは、見つかりそうにない。その中で、審査という過程があり、受賞すれば、何かしらの賞品と名誉を、授けられる、となれば、どうすべきか、難しい所で、辞退する気持ちも、分からぬでもない。俳句、短歌や標語などの、応募作が、他人のものだった、という時代から、機械の介入となり、評価する側ではなく、作る側の矜持が、試されるということか。

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4月15日(水)

 まだ、早過ぎるかもだが、騒ぎは、収まったように思う。といっても、広い世界の話ではなく、ちっぽけな「独り言」の世界の話だ。以前書いたように、ある日突然、数百の閲覧数となり、徐々に、閲覧は減ったものの、その内、別の場所から、接続するようになった。
 この間、これも書いたことだが、隣の国のある地域から、突然の閲覧が続き、対策を、講じる必要が、あるかもとばかり、検索したら、まさに、そこからの迷惑閲覧が、起きた事件が、報告された。対策は、確かに、講じられるが、とは言え、無制限の措置は、馬鹿げたもので、暫く、様子を見ることとした。すぐに、閲覧数は、数分から一度から、1時間に数回となり、暫くすると、1日に数回となった。何か、特定の目的を、果たすものではなく、単なる愉快犯、と見做せば、その通りかも、と思っていたが、その後、海を渡って、あちらの方から、別の形での、閲覧が増え始め、と言っても、大した数では、なかったものの、暫くの間、続いていた。それも、音無しの状態となり、そろそろ、終わったのかも、と思い始めた所だ。で、何か、目的があったのか、については、不明なままだ。こちらのサイトについて、検索を繰り返したが、何も見当たらず、囀りにも、出てこない。まあ、そんなもの、と思っておけば、いいのかもしれぬが、それにしても、迷惑な話だ。更に、今の社会で、流行っている考え方に、従ってみれば、不安や心配が、募るとでも、言っておけば、とさえ、思えてくる。そういう意味で、この形での、情報社会の構築には、何とも、迷惑千万な、悪影響が、含まれている、と言えそうだ。自分が、書きたいことを、書ける場があるから、それだけの、利益を得ている筈、との見方もあるが、だからと言って、何やら得体の知れぬ、攻撃、とは必ずしも言えぬが、を、受ける必要がある、とは言えそうにない。また、勝手な独り言とは言え、その内容が、誰かにとり、不都合極まりない、となることは、ありそうにもないのだ。ま、とは言え、収まったのなら、それで、終わりとしたい。と願うばかりだ。

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4月14日(火)

 昨朝の経済番組では、「異次元緩和」の継続で、知られた前総裁が、登場していた。交代後、金利を上げる方向に、進み始めたことと、物価上昇との関わり、更には、経済成長への期待、などの話題が、論じられていたが、感じたことが、二つあった。もっと別の感想も。
 緩和を続けた結果、実は、この国の経済は、停滞期から、脱することが、難しくなっていた、との意見が多い。物価上昇の兆しが、見え始めても、一向に、考えを改めないことから、信頼は、揺らいでいたと思うが、その理由も含め、今の状況に、見解を示していた。だが、そこで示された、一つの図表に、強い違和感を、抱いた。同じものではないが、この記事の中の、売上高純利益率の図表が、彼が紹介した、企業収益率の推移と、似たものに思える。違和感は、高度成長期の、率に比べて、停滞期後半の率の方が、遥かに高い点で、そこからは、既に、回復が起きていた、とも言えることだった。にも拘らず、緩和政策を、継続することで、企業の利益が、更に増す方向へと、進めたのは、何の為だったのか。大企業への優遇策、と見做されても、否定できない程だ。これを、正当化したのが、今回の見解の、異様さの一つであり、もう一つは、この人物が、率の推移を、知りつつも、尚、緩和を続けたことが、交代しか、解決の手段がない、という点を、明白にしたことだ。古今東西、この図式に、変化は無く、拘れば拘る程に、方針転換は、期待できなくなり、結果、首を挿げ替えるしか、手立てが残らない。まさに、そのことを、実感させるものだった。だから、今の動きにも、当時の考えを、すっかり忘れたかの如く、平然と、賛同する訳だ。これに対して、囀りでは、呆れたとの反応が、続々と寄せられ、不平不満を、吐き出す人々が、散見された。だが、それとて、身勝手な意見の、表れでしかない。議論は、確かに、大切なのだが、相手を、屈服させて、改めさせる程に、追い詰めるのは、容易なことではない、と解った気がした。

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4月13日(月)

 海の向こうの大統領は、暴君ぶりを発揮して、世界情勢に、暗雲が立ち込める、と言われるが、その一方で、彼の動きを、察知することで、濡れ手に粟の如く、儲けを、産み出す人がいる、と言われる。確かに、暴君の囀りで、相場は、一喜一憂させられ、それが、儲けと繋がる。
 この話を、以前書いたが、ここ数週間の動きからは、全く別の推測が、可能となる。毎週末、世界には、不安と心配が、広がることで、週明けの相場は、下げる傾向にあった。今日も、その一つとなる、との推測が浮かぶのは、交渉が、互いの主張を、突きつけるだけで、不調に終わったからだが、それも、腹心に任せ、自分は、高みの見物とした、暴君のやり方が、大きな要因となった。それも、腹心の中でも、今回の動きに、反対した人物を、派遣するという、異例の判断で、世界の期待を、集めることで、暗礁に乗り上げた場合の、効果を、更に大きくした、とさえ見えてくる。もう一人の腹心である、長官は、今回の敵に対して、厳しい対応を、言い続けており、また、攻撃に加わった国へも、支援を惜しまぬ姿勢を、貫くことから、もし、こちらが派遣されれば、はじめから、成立の可能性が、ほぼ無い状況、となっていた筈であり、期待が、膨らむ筈も無かった。それが、副大統領となれば、正反対の結果を、期待することで、先週末の相場は、好転していたのだが、交渉の結果は、期待外れとなり、週明けは、荒れそうな気配が、漂う。だが、これらの流れは、特段、想定外とも、言えないのでは、と思う。筋書きから見れば、徹底攻撃を、続けることが、攻撃に加わった、二つの国が、想定したものであり、ある程度の、成果は上がったものの、依然として、反撃を続ける、当事国と、その支援を受けた、各地の組織を、徹底壊滅しよう、との思惑は、依然として、大きいままだろう。さて、この不安定の中で、相場が、どう動くのか。不安や心配は、残っているだろうが、結局は、戦地以外では、ほぼ正常な、経済活動が、続くと見た方が、良さそうにも見える。

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4月12日(日)

 不安とか心配とか、何故、そんなことばかり、口にしたり、文字にしたり、するのだろうか。だって、備えることが、大切だと、習ったから、というのなら、肝心の備えは、どうなのか。不安、心配は、分からぬもないが、肝心の備えが、何も無いままに、叫ぶだけなら。
 一生懸命、そんな言葉を、叫び続け、皆の助けを、乞うている人に、備えは、と尋ねたら、その途端に、怒り出す人が、多いようだ。だから、肝心なことは、指摘せずに、ある意味の、無視を続ける。その方が、気楽だし、無理に、面倒を、背負い込むのは、御免蒙る、という人が多い。だから、いつまでも、不安も心配も、無くなることが、ないのでは、と思う。でも、理詰めで、この辺りのことを、追求したら、皆、何処かへ、行ってしまうのでは、と「心配」する人も居る。論理とか吟味とか、感情的になる人に、幾ら言っても、始まらないと言われる。確かに、不安や心配は、極々、感情的なものだけに、その弱点を、指摘されては、堪らない。その位は、気を遣ってやれ、とも言われるが、これ程までに、そのやり方が、横行してくると、どうにかならぬか、と思い始める人が、居るのではないか。そこにも、被害者意識が、働いており、自らを、弱者と決めつけ、被害を受けたから、救われるべき、などと言われたら、手を差し伸べる人も、居るだろう。だが、その実、何の被害も、受けておらず、却って、他の人に、害を及ぼすだけ、となっていたら、さて、どうすべきか。こちらの感覚では、理詰めで、問題点を、指摘することが、手始めと思い、それを、実行に移すのだが、その途端に、激昂されるから、溜まったものではない。間違いを、間違いとすることに、怒り狂うというのは、今の時代の、流行なのかも、などと思ったりも、するのだが、それが、害を産むのなら、やはり、過ちを指摘し、改めるように、と促すのが、当然と思う。この論理が、通用しなくなり、虐めの一種と、断じられたり、差別と、断定されると、はてさて、どうしたものか、と思う。権力を、握る人間が、まともなことを、話すことに対し、感情的になり、差別や虐めと、断じられるのは、間違いでしか無い、と思うのだが、どうか。もう面倒だ、となるのも、止む無し、とすべきか、それとも。

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4月11日(土)

 米騒動は、その典型だったと思うが、今も続く、詐欺話に便乗した、報道の無責任な、垂れ流しの連続には、呆れるしかない。その一方で、庶民は、社会媒体だけでなく、大衆媒体に対しても、吟味を繰り返し、大事な資産を、失わぬよう、注意を払う必要がある。
 先日も、暴君の世迷い事に、便乗としか、思えない値上げが、行われた時、報道は、専ら、それを擁護し、先の見通しの悪さを、盛んに強調した。将来が、見通せないのは、当然のことで、その心配を、繰り返しつつ、その場その場の対応で、生き延びるのが、これまでの常だった。なのに、傾向と対策に、毒された現代社会は、盛んに、警句を飛ばすことで、責任放棄を、繰り返している。これに、庶民が、惑わされるのは、愚かなことだが、その圧力を、政に向けて、吐き出すのは、最悪の衆愚の現れ、としか思えない。その後も、見込みの欠如が、長引く戦いとなり、そこに、交渉術という、自慢の道具を、繰り出したものの、現実には、単なる騙し合いで、その応酬に、振り回される、世界の相場は、一部の人間の、ぼろ儲けに、繋がっただけだ。結局、解決には程遠く、どうなるか、見通せないばかりか、それに加えて、更に、煽りを加え、通行料なるものが、取り沙汰され始めた。確かに、一隻当たりの、金額を示せば、こちらの貨幣で、3億円になると言う。だが、巨大な船舶は、膨大な量の化石燃料を、運搬できる。原油に、当てられる単位では、200万バレル、だそうだが、バレルを、日常単位に直せば、160リットルだそうで、そこから、算出された、リットル当たりの、通行料は、1円となるそうだ。一つの新聞は、それを明記したが、この騒動に、便乗する動きでは、おそらく、末端価格に、その10倍か数十倍を、上乗せするのだろう。市場心理の、表れでしかない、この騒動も、得意とする、悲観論の、格好の材料となる。この馬鹿騒動は、所詮、一部地域の、覇権争いに、端を発したものに過ぎず、こちらにとっての、安定とは、直接的な関係にはない。その中で、暴君の迷走が、不安を煽り、世界規模への転換さえ、危ぶまれつつある。先の二度の大戦を、思い起こせば、対岸の火事と、見做すことは、過ちに思えるが。

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4月10日(金)

 気にもしない人間には、どうでもいいことに、違いないのだが、気になる人間は、手にした端末から、目を離せなくなり、その動向に、寝る間も惜しんで、集中する、と言われる。情報弱者が、損をするとの通説が、溢れ始めた頃から、ネットへの関心が、高まったのは事実だが。
 今の状況は、病的としか、言いようがない。それほどの、魅力があるのか、と疑う人には、そこでの論争は、余りに下らなくて、取るに足りないことを、さも重要かの如く、書き連ねる輩の、知性どころか、品性さえ、疑いたくなるが、大真面目な人々は、そこに、情報の、宝の山がある、とでも信じているのか、必死で、情報収集に、励んでいるようだ。だが、所詮、そこに散らばるのは、嘘や出鱈目ばかりで、さも重要の如くに、言説を連ねる人々は、自らの無知に、気付くことなく、誤った情報に、基づく説明を、続ける。少し、知識があれば、その嘘は、即座に見分けが付くが、傾向と対策ばかりに、目が奪われる人々は、その違いに、気付く気配もなく、深みに嵌まっていく。何故、そんな嘘に、気付けないのか、少し考える力があり、吟味力を備えた人間には、不思議にしか、映らないのだが、正常な人間には、その理由が、全く見えてこない。だが、騙され続ける人は、何度やられても、同じ轍を踏み続け、二進も三進も、行かぬ状況にまで、落とされていく。そんな人々には、こんな便利さは、単に、害悪でしかなく、何の役にも、立たないばかりか、自分の時間や金までも、毟り取られる。無知であることは、普通は、恥でしかないが、この世界では、無知であるが故に、非論理的なことや、非常識さえも、当然のこととして、断定できる。となれば、怖いものなど、ある筈もなく、何度失敗して、何度非難されても、懲りることなく、知らない話に、首を突っ込み、非常識を、晒すこととなる。通常の感覚なら、面と向かって、馬鹿にされたり、罵倒されれば、二度と、同じことを、繰り返さぬものだが、匿名性の確保と、相手の顔が見えぬ状況に、平気の平左を、続けることができる。だから、幸せなのかも知れぬ。