パンチの独り言
思いつきを書きつづったものです。ご意見はメールでお願いします

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6月4日(木)

 昨朝、書こうと考えたのは、相場の変動だった。だが、市場が、開いた途端に、予想外の動きが、始まることで、書き難くなった、と思った。ただ、実は、その動きとて、これまでの、相場の上昇に比べれば、僅かなもので、今の平均の上昇とは、比較にならぬものだ。
 書こうと思ったのは、今の宰相に、交代した頃から、始まった、平均の上昇が、相場の活況を、反映したものか、はたまた、一部の値嵩株だけが、他とは違う、動きをした結果、なのか、という点だった。相場全体を、表す指標は、別に示されており、そちらは、上がるには、上がっているものの、大した数値には、なっていない。では、何故、平均と呼ばれる、数値が、異常な程の上昇を、示しているのか。答えは簡単で、その算出に関係する、企業の株価が、目立って上昇したからだ。その中でも、ごく一部の銘柄に、限られた現象で、だからこそ、株主とか投資家とか、呼ばれる人々の、反応は、鈍いものとなっている。このサイトに、関わりを持った頃から、ずっと、投資を続けているが、今回の上昇では、前半は、同じような動きを、呈することで、急激に、資産が増え続けた。しかし、年が明けた頃から、様相は、徐々に変わり始め、以前の値からは、程遠い水準に、留まっている。理由は、上に書いた通り、相場変動を、示す指標として、使われるものに、保有株の銘柄が、採用されておらず、蚊帳の外に、置かれているからだ。それでも、昨日は、概ね上げていた。で、書き難いな、と思ったのだが、資産は、期待程には、膨らまずに、相変わらずの低迷を、続けている。今の世界的な活況は、どの国においても、同じような状況にあり、地道な運用で、参加する人間には、概ね、大した影響が、及んでいない、と思われる。では、このまま、蚊帳の外に、置かれ続けるのか。さて、どうだろうか。不安ばかりが、膨らむ中で、期待とは異なる、動きを続ける相場は、今後、どう動くのか。誰にも、分からぬ話か、それとも、徐々にでも、上昇へと結び付くか。どうなるにしても、地道に、しかないのだが。

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6月3日(水)

 誰が、嘘を吐いているのか、と考えるのが、普通だと思うのだが、どうしたものか。今回は、例の爆撃から、地域の流通経路への、不安に端を発して、供給自体への、懸念が表面化して、そこから、様々な問題が、表面化した、ということに、なっている筈、ではないのか。
 だが、その遣り取りの中で、報道が、盛んに、煽り立てるように、原材料不足が、そこから産み出される、様々な製品の、品不足へと、繋がるとされる。確かに、店の棚から、品物が、姿を消して、現実のものと、なっている、と伝えられる。だが、その一方で、政府は、宰相を始めとして、担当大臣までもが、一つ一つの供給量の、変遷を明言し、何処にも、品不足の兆候は、見られぬものと、断言した後に、報道姿勢への苦言を、付け加えた。そのまま、伝えることは、伝えたのだが、まだ、不足は事実、と報じ続けるのに、誰が、嘘吐きなのか、と思うのが、普通の考えと思う。だが、報道は、この期に及んでも、事実を伝えている、との姿勢を崩さぬ。要するに、ここでの嘘吐きは、流通過程の、何処かの段階が、出し惜しみを続け、品不足と叫んでいるか、あるいは、調査をした上で、不足は無い、と明言した政府関係者か、何方か、と見るべきと思える。ただ、流通関係者は、一つ、大きな失態を、犯しているので、不利な情勢だ。それは、爆撃直後に、供給不安からか、突然の値上げを、表明したことで、供給量の変化に、兆しさえ見えぬ中、そんな行為に、信頼は、地に堕ちたと見える。一方、その後も含め、供給源の工面や、備蓄の放出など、対策を、講じ続ける政府には、普段よりは、信頼の声が、強まり続ける。政治家は、嘘吐きの代表、と見る話は、これまでに、何度も聞いたことだが、今回の話は、別なのかも、と見る向きもある。ただ、同じように、流通の問題として、取り上げられた、米騒動でも、供給不足の指摘が、あったのだが、それとて、不足分と、値上げの関連は、弱いと思える。政治家の嘘には、何らかの思惑があり、国の安定も含め、重大だったとの解釈が、これまでにもあったが、流通業者の嘘には、単に私服を肥やすのみで、私利私欲の塊、としか見えぬ。さて、今度は、どんな話になるのやら。

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6月2日(火)

 本の感想でも、書いたことだが、今の世の中、他人の責任に対して、厳し過ぎる、と思う。特に、囀りなどの、社会媒体界隈では、相手の顔が、見えないことを、いいことにして、言いたい放題どころか、人格否定を始めとした、完全否定の姿勢が、目立つと感じる。
 その一方で、自身の権利に関しては、何と寛容なことか。全ての要求が、当然の如く、押し通せるとでも、信じているのか。そこまで、要求するか、と思えることが、屡々ある。こちらは、弱者が、典型の役柄であり、責任云々は、強者が、典型の役柄となる。この二極化が、何故起きるのか、それ自体も、摩訶不思議ではあるが、どちらの立場にしても、それぞれが、どんなものかを、想像できないからこそ、好き勝手な言い草が、書き連ねられる、のではないか、と思う。想像力の欠如は、今や、大きな問題となり、相互理解も、ほぼ不可能となる。互いに、理解できないのに、立場に見合う、考え方をすべき、などという話は、通じる筈も無い。だから、無駄なのだ、と切り捨てるのは、自由なのだが、媒体を通じて、他人を、貶める行為に、耽る人々には、どんな考えがあるのか、想像もつかぬ。こちらは、想像力の欠如、ではないと、思うのだが、今や、多勢に無勢の如く、そちらの方が、常識と化している、のかも知れぬ。もし、そうだとしたら、今、ここに書いていることは、何と下らぬ、誰にも通じぬ、与太話でしかない、となるだろう。それは、ある程度、致し方の無い所として、もう少し、踏み込んで、考えてみては、どうかと思う。自己中心的で、被害妄想的な、心の持ち主が、蠢く世界の中で、自分が、どうあるべきかを、自身に、問いかけても、何も始まらぬ、と思うか、はたまた、馬鹿げた騒ぎを、横目にしながら、自分自身は、と考えることで、少しは、身の回りが、綺麗になると、考えるべきか。答えは、何処にも無い。だが、他人に厳しく、自分に優しい、そんな人間ばかりで、社会の仕組みが、回る筈もない。だとしたら、少しでも、動くように、手を貸してみては、どうだろう。

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6月1日(月)

 戦争責任は、確かに、重いものだが、誰が、どう取るべきか、との話になった途端に、他人事のように、振る舞うのは、如何なものか。ただ、虐殺事件や、爆撃等による大量殺戮など、個々の問題で、考え方は、それぞれとなり、一様の結論には、至らないのが、当然では。
 戦争自体は、始めた人間に、最大の責任が、あるとの意見も、その通りなのだが、合議だった場合、その結論を導いた、会議の参加者全員の責任か、はたまた、それを導いた人間が、負うべきものか、などについても、一概には、言えないとされる。一方で、最近の軍事侵攻やら、紛争地域での、突然の攻撃やら、これらの場合には、時の、国の権力者が、下した命令に、基づくものであり、責任の所在は、明らかと言われる。でも、と思うのは、このような例でさえ、そこに至る道筋で、その結論に繋がる要素は、どうだったのか、などについて、後年、検討されると、別の解釈が出て来て、ある意味、驚かされる。今、この時に、彼らの責任、との結論が、出ているにも関わらず、その決断に、影響した事柄が、詳らかになると、一個人の責任ではなく、もっと多くの人々の、関わりがある、とされる訳だ。軍事侵攻では、直後から、攻め込まれた国が、他国との関係を、変え始めたことが、端緒となった、と言われたが、間接的なものを、含めれば、きりが無くなる。紛争地域も、長く続いた睨み合いに、最終決断は、爆撃を決めた、二つの国の長に、責任があるのは、当然だが、そこに至った、攻撃された国の、長年に渡る、核兵器開発の、歴史に加え、一つの国と、敵対する地域での、ゲリラ活動への支援が、強く影響した、と既に言われている。単純に、思えたものが、複雑に入り組んだ、関係の末、との見方がなされると、国際関係が、二国間の問題だけでなく、多数の国や地域や、人々までも、含めた問題から、成立することが、見えてくるが、だからこそ、単純な解決法が、ある訳ではなく、絡んだ問題を、どう解きほぐすかが、肝心に思える。となれば、あの暴君が、自慢げに語ったことなど、成し遂げられる、筈もないことに、気付けるのでは。まだ、暫く、様子見が必要で、一旦、解決を見ても、火種は、燻り続ける、と見るべきか。

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5月31日(日)

 読む本は、新聞書評を頼りに、探し出し、本屋に注文を出す。子供の頃から、立ち読みの習慣はなく、図書館にも、本屋にも、縁遠い生活を、してきた。大学時代、出版された、乱歩全集を、毎月買い続けたが、結局、最終配本まで続かず、例の如く、完成せぬままだ。
 とはいえ、仕事上の問題から、時間を潰す必要が、出てきた頃から、乱読を始めた。積読は、なるべくせずに、買った本は、全て読むことに、している。その後、独り言を、書き始めてから、読んだ本として、毎月、紹介し始めた。今月は、偶々だが、主題が似た本、と言っても、小説と記録という、全く異なる、範疇のものだが、先の大戦に関わる、責任の所在と、それに関わる人物を、描いたものを、二冊読んだ。前者は、解説によれば、著者自身の、父親の記録に、基づくものらしいが、戦犯として、逃亡を続けた人間の、心の機微を、綴ったものだが、中で、戦争責任に触れる、部分が、度々出てくる。今や、象徴となった、人間の責任も、軍の幹部達の責任も、力関係や、その他諸々の、関係から、有耶無耶に、処理されたのに、対して、一部の幹部と、下級軍人らが、厳しい処分を、下されたことへの、不条理が、綴られていた。新聞等の、報道に対しても、厳しい目が、向けられたが、何処か、弱者への目が、際立つ感覚が残った。後者は、ある参謀の、戦中から抑留期の、歩んだ道筋と、戦後処理と呼ばれた、占領国への、賠償に関わる、国家事業への、深い関わりに、光を当てたものだが、記録として、強い偏りが、感じられ、客観的とは、思えぬ内容に、強い違和感を、覚えた。そこでも、責任問題と、それへの反映として、無責任な、戦後処理への、関わり方への、強い批判が、綴られていたが、過剰な拘りが、偏見や、非論理的な解釈へと、結び付く様に、自らの、戦争への関与と併せ、正当化という、独特な手法が、潜む気配を、感じるばかりだった。戦争反対は、誰もが、主張するものだが、その背景として、こういう反省を、持ち出す心持ちには、実は、責任転嫁と、弱者保護の、考えが、横たわる。どうにも、受け入れ難いもの、と思えてくる。

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5月30日(土)

 半世紀程前にも、同じような危機の話が起き、市民が、店に押し寄せ、紙製品の棚に、殺到していた。あの時も、風が吹けば、との図式に、首を傾げた人が、多かったが、騒動は、あっという間に、国中に広がり、物不足から、物価高騰へと移り、更には、不況へと移った。
 あの時も、騒動を広げたのは、大衆媒体である、新聞やテレビだった。騒動を、映した画像を、紹介すれば、それだけで、不安が募り、店へと走る。群集心理を、そのまま、反映させた現象に、驚く人が、居たのだが、彼らとて、対岸の火事を、眺める気分では、居られぬまま、列に並んだという。そこには、論理も、分析も、一切無いままに、不安という、正体不明のものに、人が、追い詰められる、そんな心理現象が、あった。今回は、どうか。同じ図式だが、半世紀前とは、大きく異なる、部分がある。それは、物不足から、騒動が起きる、という形ではなく、物不足を、装う形で、買い占めや供給不足を、起こすことで、混乱を広げる、ということに、目が向いている、という部分だ。流通過程の、何処かが、そういう操作を、行うことで、物価高騰を招き、その利を掠め取る、という儲け話は、つい先日の、米騒動でも起きた。今、その後始末とも、言える形での、供給過剰と物余りが、起き始めることで、儲けは、損失へと、姿を変えつつある。今回のも、大衆媒体は、せっせと、不安を煽る姿勢を、続けており、その過程で、意味不明な、データ提示を、繰り返す。例えば、物価上昇について、価格の変動を、語る場合に、金額そのものではなく、変化量の提示に拘り、実態を、掴めぬように、心掛ける。同様に、製品価格の上昇も、割合として、提示することで、心理的効果を、上げようとする。例えば、今朝のニュースでは、アイスクリームの値上げを、報じていたが、13%の値上げで、その要因に、容器の値上げがある、とした。容器は、20%の値上げで、それが、今回の値上げの原因とすれば、容器代が、最終製品価格の、6割を占める、となる。いくら何でも、と思うのは当然だが、こんな数字の提示が、恰も、説明になっている、との思い込みが、誤魔化しとなる。同様に、卵価格も、最近、別の要因で、上がり続けるが、そこでも、容器代が、今回の騒動で、1.5倍になるから、と伝えていた。で、最終価格が、どうだったかは、伝えぬままで、不安心理を煽る。こんな誤魔化しが、通用するのは、国民の多くが、真面目に学ばぬ結果であり、その是正が、重要なのは、当然のことだが、その判断力が、身に付いてしまったら、愚民政治は、不可能となるから、触れてはならぬ、ことなのだろう。

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5月29日(金)

 社会媒体は、所詮、下らないもの、と断じてもいいし、一部の人間が、不平不満の捌け口として、有る事無い事、書き連ねる場であり、存在価値さえ、認められぬ、としてもいい。それは、飽く迄、受け手の問題で、自身で、判断すれば、済むことなのだが、一方で、金銭的な損失は、とも思う。
 ただ、今回の、家庭内暴力の問題で、意外と、まともな意見が、掲げられたり、理不尽な処分に、反対の声が、上がる点に、見直した、との意見もあるらしい。だが、無駄は、無駄であり、半減期の問題で、意味不明、理解不能な主張を、滔々と述べる人間が、巣食う世界には、やはり、制限が必要、との意見も出る。ただ、少し前から、参加した人間には、真っ当で、論理的な意見を、掲げたとしても、何の反応も、示さぬ人々、特に、こちらが、返信として、掲げた意見に、反応しない発言者には、どうしたことか、と思うこと頻りだ。ここ数日も、最近の若者の傾向に対し、掲げられた書き込みに、次のような返信を、送ってみたが、反応は鈍いか、全く無い。一つは、「生徒が先生に慣れているでしょうから、心配ないかもですが、最近の生徒、学生は正答は何か、を気にすると聞きます。先生を納得させるとは、どんな表現、どんな事柄を含むのかを示すと、生徒が納得するかも、と思います。」と書き、もう一つは、「当事者にとり「わかる」という現象が自分の中で何が起きることなのか、理解できないのでは、などと思います。大学に入るまでは正答を求めることが目標だったが、「わかる」とは何がどう起きるのか見えていない。少し別の表現では他人に説明できるとはどういうことなのかと。」と書いたのだが。前者は、ある高校教師が、「化学基礎のテスト全部記述にしました!」から、「記述なので僕が納得すればOKです(笑)」とあったものへの、返信だが、どうか。もう一つは、おそらく大学研究室で、論文紹介において、ただ、図や表を、貼り付けたものを、示すだけで、論文の中身を、和訳して読んだだけ、という書き込みへの、返信だった。どちらも、今時の生徒学生が、正答にしか、目が向かぬことへの、警鐘かと思ったのだが。子供だから、幼いから、という言い訳は、通用しない。子供の世界でも、唯一無二の答えしかない、そんな世界は、存在しないのだから。大人としての対応を、考えるべきと思う。

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5月28日(木)

 今回のは、ほんの一例に過ぎず、馬鹿げた騒動は、尽きることなく、続いているが、その元凶は、大衆媒体にある、と言っていい。本来、正確な情報を、偏りを入れずに、伝えることが、認可を得た組織に、課されたものだが、程遠い状況に、呆れるどころか、諦めしかない。
 先の大戦でも、長い物に巻かれる、その行状は、戦前、戦中は、一部の識者だけが、指摘していたが、戦後は、本人達も含め、大いに、反省する対象となった。と言われたが、その実、反省など、何もせずに、自分達の行状を、正当化する為に、要職にあった人々を、批判することに、精を出しただけだった。その後も、権力に与せず、との厳然とした、方針がある、と装いつつも、実際には、一部の人々の、利益になるように、世論を、操作することに、腐心し続けている。古くは、総背番号制の、導入への反対は、闇や裏の世界で、私腹を肥やす人々に、不利にならぬよう、制度導入を、国民全体の不利益、として紹介し、猛反対を続けた。今では、皆が、番号をもち、多くの手続きで、統一的な処理が、可能となっている。その利益は、大きいものと、今更ながらに、伝えているが、その実、裏では、欠点や欠陥を、暴くことで、基本姿勢として、反対を続けており、何も、変えていない。憲法に関しても、戦争反対を、前面に、打ち出しつつも、実際には、世論誘導へと、精を出しており、誰の利益になるか、という点のみに、目が向いている。この、誰とは、決して、国民全体ではなく、彼らが、権力と目する、政府以外の、経済を牛耳る人々を、見つめるのみだ。最近は、社会媒体が、力を得るに従い、嘗ての、絶対的な、操作能力には、見る影もないが、依然として、警察権力には、圧力を掛け続け、個人情報保護や、スパイ対策について、誤った情報を、流し続ける。これらもまた、誰か、一部への便宜なのだろう。呆れたもので、無用論が、聞かれるのも、止む無しだろう。

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5月27日(水)

 下らぬ話ついでに、他人の家のことに、何故、と思った話を、しておきたい。確かに、暴力沙汰は、良くない、との意見がある。その通りだし、被害者になれば、他人事ではない。だが、夫婦喧嘩は、と言われるが如く、身内の間のことは、との意見も。何方が、正しいのか。
 はじめに、知っておかねば、ならないことは、被害の程度だろう。暴力沙汰、と言えば、まずは、怪我の程度や、容態を知りたい、と思った人が、多かった筈だ。だが、そんな情報は、はじめから、何も届かず、ただの一言、「逮捕」の文字が、画面に、映し出された。内容が、徐々に、明らかになるにつれ、最初の印象とは、全く異なる話に、驚いた人が、多かった。だからこそ、そんな話に、野次馬の如く、群がる囀り界隈も、過激な表現より、意外との印象が、大半を占めていた。もう一度書くが、暴力沙汰は、確かに良くない。その上、最近は、家庭内暴力が、DVとの表現で、皆の知る所となり、その過激化に、驚く意見が、寄せられるから、今度も、それに違いない、と受け取ったのも、当然だったろう。だが、一夜明けて、本人談として、発表されたものに、おやとの思いが、強まったのは、何故だろうか。仲介者を、批判する声も、高まるばかりで、以前なら、梃子でも動かぬ、として、批判の矢が、放たれる標的だった、公的機関は、迅速としか、思えぬ動きが、不可解と断じられ、警察さえも、過剰反応では、と批判される始末。不思議でしかない。のは確かだが、何故、こんな不思議が、何の躊躇いもなく、行われたのか、という点には、疑問しか残らぬ。そうなれば、皆の批判が、押し寄せる、との見通しからか、辞めるのも、当然の帰結なのだろう。いや、以前なら、感情的と、断じられた蛮行が、今は、被害者保護の、見地からか、評価されるのかも、となる。でも、こりゃおかしい、と思う人ばかりでは、やはり、見直すべきでは。人工知能が、導き出した答えは、所詮、こんなものとは、あまりの展開でしかない。

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5月26日(火)

 昨日の話は、下らない、と思った人も、居るのだろう。誰が、どう判断するかは、それぞれの勝手で、その判断に、責任を負うのなら、それでいい、という訳だ。一見、妥当に思えるが、これ、本当だろうか。多くの人は、確かに、自己責任で、判断を下しているが、実は。
 自己責任、という言葉が、出されているのを、眺める限り、それが、実行に移されず、何もかも、他人の責任に、転嫁する人が、一杯居るようだ。だとしたら、社会全体として、何が必要となるか。責任について、その所在を意識し、自分に落ちるものなら、自身で、責任を取る、姿勢が必要となる。だが、それとて、今の、囀り界隈では、そんな状況には、なっていない。誰か別の人に、責任を押し付け、それによって、受けた被害を、請求しようとする、そんな姿勢に、溢れている。これでは、自分の発言に、何の責任も負わず、その一方で、相手の発言には、自分のものも、含めた責任を、押し付ける訳で、相手をするのは、たまったものではない。だったら、相手にせずとも、と思うのは、当然のことだが、現実には、そういう無責任発言程、共感を得て、拡大する傾向にあり、それに、乗っかる人々も、同様に、責任を感じることは、全く無いままに、敵対する人々を、罵倒し続ける。これでは、媒体を通して、形成された社会は、その秩序を失い、早晩、消滅することとなる。筈なのだが、現実には、雨後の筍の如く、次々と、別の集まりが、形成されて、無責任な攻撃と、無思慮な同調が、繰り返される。相手にする、価値が無い、と決めつけるのが、最善の策なのだが、無垢な人々は、こんな遣り取りに、振り回された挙句、心を痛めたり、時に、精神を病むこととなる。そんな時に、手を差し伸べるのも、彼らの得意技の一つで、無責任な同情や、根拠のない助言を、繰り返すことで、病状を、悪化させるだけだ。所詮、この世界は、その程度のもの、と見做して仕舞えば、それで済むことだが、どっぷり浸かった人々は、抜け出すことが、できぬまま、悪化の一途を、辿ることとなる。これも、自己責任の一つ、なのだが、簡単に、切り捨てることは、憚られるだけに、面倒極まりない。

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5月25日(月)

 今に、始まったことでは、ないのだが、権力者への、批判の数々は、留まる所を、知らないようだ。特に、責任問題には、自分のものは、棚に上げて、他人に対して、厳しい目を向ける。そんな傾向は、昔から、強いものがあった。今は、更に強くなっているようだが。
 理由の一つは、社会媒体の存在だろう。仲間だったり、同類だったり、そんな人々が、互いに、同調を高め、日々刻々、同じ論調で、権力者の不手際を、指摘し続ける。だが、その多くが、的外れなのは、元凶は、そこに在らず、全体の流れの中で、一部の人々が、私腹を肥やすことに、躍起となることで、全体の、需要と供給の均衡が、崩されることで、歪みが、強まっている。それを、政府や宰相の、責任として捉え、盛んに、批判を行うのは、所謂、左翼の得意とする、戦術と言われるが、盲目的な繰り返しには、信頼を失わせる、自業自得の、行状が溢れている。突然の攻撃から、一部地域に広がった、混乱は、化石燃料の供給に、世界的な問題を、生じている。そこから、派生すると言われる、他の原材料の、供給も滞り、将来への不安を、報道は盛んに、口にしているが、政府や宰相は、その可能性が、少ないことを、訴えている。それに対し、信頼ならぬ、との主張をする主は、多くが、嘘であると断じ、その理由として、米騒動の原因が、政策による減反が、供給不足を、招いたとする考えを、展開するが、今の状況において、その話は、確定したものではなく、市場で、余剰米が、徐々に、姿を現す現状からは、疑わしい、との見方が、強まり始める。権力さえ、批判しておけば、自分らの役割が、果たせるとの姿勢は、彼らが、古今東西に渡り、抱き続けてきたものだが、その脆弱性は、この所、驚くほど強まり、何方が、信頼ならぬ、と見るべきかも、状況の変化が、著しいと思う。その一方で、海の向こうの暴君については、別の意味で、信頼ならぬ、と見るべきで、この混乱も、彼に与する人々の、私利私欲によるもの、とも見える。彼の使用も含め、あの媒体は、鵜呑みにせぬこと、だけは確かかもだ。

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5月24日(日)

 常識と非常識の間には、歴とした違いが、あると思うが、どうだろうか。こんなことに、疑問を挟まねばならないのは、世間の考え方が、ある偏りを、見せ始めたから、なのではないか、と思う。これは、また、主観と客観の違い、にも通じるのでは、と思うが、どうだろう。
 子供は、育つにつれて、考え方を、徐々に変える必要に、迫られる。自分の周囲、だけに目を向け、その中で、通用する考え方で、全てのことが、片付く年代から、周囲との違いを、意識し始め、全体として、どう考えるかが、重要になり始める、年代へと、移り変わるからだ。これは、まさに、主観と客観の違い、であるに違いないが、多くの子供達が、その違いについて、誤った受け取り方を、させられている。これは、主に、大人の責任なのだが、それにより、子供達が、成人した後も、同じ拘りに縛られ、客観は、周囲に押し付けられるもの、主観は、自分自身の自由な考え、という区別を、信じ込んでしまう。未熟なだけ、として、ある時代までは、若気の至りと、片付けられたものが、今や、市民権を得るばかりか、大勢を占める、ようになってしまった。今、社会媒体などで、盛んに、展開される考えには、そんな形式のものが、溢れている。当人達は、至って大真面目に、この考え方が、正当なものと、主張し続けるが、ぱっと見だけで、綻びが見えている。それ程に、明らかな過ちを、強く主張し続けるのは、あの世界の中で、同調者が、すぐに集まるからだが、だからといって、それが、正しいものとは、限らない。ただ、それをきっかけとして、常識と非常識の区別が、あらぬ所で、つけられてしまい、非常識が、当然の常識と、姿を変えてしまう。同様に、強い偏りに基づく、主観的な考えを、当然の如く、主張し続ける。これでは、話にならない、とほんの一握りの人間が、断じたとしても、あの社会の中では、多勢に無勢に思われ、集団的な虐めの、対象とされてしまう。仮想空間だからこそ、身勝手な主張が、まかり通るのだが、今の所、実空間では、通用しないとされる。だが、早晩、立場の逆転が、起きかねぬ、との懸念が、広がっている。杞憂に終われば、との淡い期待も、この時代、弾け飛ぶ可能性が、無い訳ではない。

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5月23日(土)

 昨日の続き、のようなものだが、理解不能なのを、非常識と呼びたい、所なのだ。だが、今の時代、それが、憚られることが、殆どではないか。非常識、と呼んだ途端に、それは、お前だけのことで、世間的には、極極当然の、常識なのだ、と断じられる。おかしいと思うが。
 特に、子供の行動には、常識を外れた、そんなものが、目立つように感じる。それも、最近の傾向では、非常識ではなく、当たり前のものであり、親も公認の、行動だと返される。確かに、時代の変遷と共に、世間の考えが、変わることは、多々あるのだが、昨日のようなことに、非常識が、当てはまらぬのは、納得がいかない。貧困の中、困り果てた子供らが、常軌を逸した行動に、出るのも、やむを得ぬ、とする人がいるが、今回の例が、それに当てはまるのか、怪しいと思う。また、仮令、貧困の中でも、許されぬことは、歴然としてあり、それを、背景を事情として、許そうとする、そういう心持ちは、理解に苦しむ。不適切なものが、目立つからこそ、そんな指摘を、するのだが、それ自体が、批判の対象となる。他人の行動を、縛ることは、けしからん、と言わんばかりの、論調が目立つが、それもそれとして、意味不明に思う。社会の秩序、を考えれば、すぐに、理解できる筈だが、それ自体が、難しくなっている。それに対して、何故、と問いかけても、結局は、跳ね返されるだけで、理解できぬ人間が、非常識だとさえ、断じられる。この異常事態に、どう対処すれば、いいのだろう。凶悪な事件が、起こる度に、その犯人を、捕まえて、厳罰に処せば、それで、良い方に向かう、とでも、言うのだろうか。現状を、見る限り、とても、そう思える状況には、ない。何しろ、異常な行動を、非常識と決めつけられず、理解を示すべき、と叱責する場合さえ、出てきている。そろそろ、他人の行動も含め、自分で自分を、制御できぬ人間を、厳しく扱う必要が、あるのではないか。バレなきゃ、何をしても構わぬ、という、社会媒体の常識は、小さな箱の中の、話でしかないのだから。

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5月22日(金)

 ここを、読んでくれる人に、尋ねてみたい。兎に角、理解できないことが、あり過ぎるのだ。それらの中から、話題を拾い上げ、何処がどう、理解不能なのか、道理が通らず、理不尽と映るのは、何故か、について、書き綴ってきた。こちらには、変だな、としか思えぬが。
 他の人々が、どう感じるのかは、尋ねてみなければ、解らぬ話だ。だから、はじめに書いたように、尋ねてみたいのだ。その一つ、ごく最近に、起きた事件の話で、この所、大衆媒体は、持ちきりとなる。あの媒体の、常として、解釈なるものが、展開されるのだが、それが、どうにも、理解不能である。事件とは、ここ数年、詐欺に続く、大事件として、盛んに取り上げられる、強盗事件の数々だ。それも、以前なら、単独犯であり、こそ泥と呼ばれる、留守宅に侵入して、金品を奪うのが、頻々と起きていたのに対し、強盗と呼ばれるように、住民が、寝入っている中や、昼日中に、堂々と侵入する、凶悪事件のことで、時に、傷害や殺人にまで、至ることがある。ただ、これも、単独か集団か、だけでなく、特殊な事情が、あるものであり、仕組みとして、詐欺事件とも繋がる、とされたものだ。社会媒体を介して、募集されたとされる、強盗集団は、その多くが、金に困ったとされ、多額の報酬に、引き寄せられた、とされるが、その考え方自体も、信じ難く、理解不能となる。詐欺事件でも、同様の図式が、あると言われるが、今回のものは、更に、異常性が際立ち、高校生が、バイトと思った、などと報じられる。常識的には、俄かに、信じ難いと思うのは、真夜中に、高校生のバイト、という話そのもので、その時点で、普通の感覚では、理解できぬ。なのに、報道は、それが、当然の如く、伝える訳で、意味不明としか、思えない。「闇バイト」や「トクリュウ」などという、呼称に関しても、異常性を、強調する為で、何の意味も、持たぬ筈だ。ある意味、茶番としか、思えない事件が、殺人を、安易に起こす、までに至る理由は、同じく、理解不能でしかなく、理解しよう、という気も起きない。人間として、無意味な存在、とは、余りにも、劣悪な表現だが、そんなことしか、感じられない。

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5月21日(木)

 先日の、嫌がらせやいじめ、についての考え方は、今では、受けた側の感覚が、優先される、とのことだが、少々、拗れる所もある。同じ、とは言わぬが、差別についても、似た考え方が、適用されるようで、差別を、受けた側が、どう受け取ったかが、肝心となる、らしい。
 だが、何方の場合も、やはり、簡単には、決められそうにない。だからこそ、嫌がらせやいじめについては、最近では、受けた側の主観だけでなく、客観的な観点から、判断することが、多くなっているようだ。これは、時代の趨勢で、そんな考えが、尊重される前には、加害者の意識が、第一とされていたのだから、大きく変わったとも言える。ただ、受けた側のみを、尊重することが、続く中で、様々な問題が、生じたに違いなく、余りに、偏った見方が、採用されるのに、異論が出たからだろう。差別についても、よく似た状況だが、こちらは、もう一つ、大きな問題が、出てきたように思う。差別の解消は、喫緊の課題となり、それを、最優先とする、制度の改正や、新たな方策が、講じられた結果、立場の逆転が生じ、所謂、逆差別なる状況が、生まれたことにある。それまで、虐げられた人々を、救済する為、と称する措置は、その多くが、差別を受けた人を、優先的に、扱うものとなったが、時に、一つの席を、競う場合には、それにより、他の人々を、排除することとなり、別の差別、所謂逆差別を、招いたとされた。これ自体を、悪いこととすると、結局は、差別の解消が、行えぬこととなり、全体が、停滞することとなる。だから、多くが、一度決めたことを、貫くことで、はじめの目的を、果たそうとしてきた。だが、それが、重なると、差別された側ではなく、差別した側が、虐げられることとなり、別の形の不平不満が、蓄積することとなる。では、どうすれば、いいのかと、議論が進められるが、どうにも、結論が出そうにない。更に、問題を、拗らせるのは、差別解消が、次の世代で、行われる場合で、結局、被害者は、救済されず、何の関係もない人間が、運良く、利を得る、こととなる。それにまた、差別の根源は、取り除かれず、解決には、結び付かぬ。ただ、最後に挙げた状況は、時間の流れの中で、措置が取られる以上、他に、選択の無いもの、と見るべきかと。所詮は、根本解決ではなく、応急措置の如き、ものであるだけに、この辺りが、精々かもと思う。ただ、本当に、実力主義なら、こんな誤魔化しは、不要の筈と思う。

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5月20日(水)

 日々、何故とか、どうしてとか、思ったことを、独り言に、綴っている。読む人が、どう思うかは、誰も、反応を、示してくれないので、全く分からない。でも、こちらとしては、同じように、疑問に思っているのでは、という感覚で、思うこと、思いついたことを、書き連ねる。
 で、何故、そんな印象を、抱くのかについても、重要なことが、あるように思う。こんな印象が、浮かぶのは、実は、誰かと話して、というわけでなく、毎朝届く、新聞を読んだり、画面から漏れる、話を聞いたり、そんなことをして、起きることだ。多分、これについても、多くの人々が、同じ感覚を、受けていると思う。それ程に、世の中で、流されている、情報には、首を傾げたくなることや、疑問に思うことが、溢れている。ここでは、論理的に、物事を考えるとか、筋道を立てて、話をするとか、そんなことを、盛んに、書いてきているが、その立場から見て、おかしい、としか思えぬ話が、実しやかに、新聞などの、大衆媒体から、流れてくるのだ。普通の感覚では、そうはならぬ、としか思えぬ話や、それは、非論理的でしかない、と思える話などが、次々に流され、誰が、こんな愚かな話を、自慢げに、滔々と、語っているのか、とさえ、思えてくる。最近は、長く続いた、物価を抑える経済が、正常に戻り始め、何もかもが、値上がり続きで、将来の生活に、不安が過ぎることが、多くなったが、それとても、異常な話、としか思えぬ話題が、満載なのだ。原油を、掘り出すことで、豊かさを、享受する国々が、集まる地域で、突然の、攻撃が始まった時、確かに、供給への不安が、取り沙汰されるのも、当然と思えるが、それにしても、攻撃の翌日に、ガソリンの値上げ、となるのは、意味不明であり、理解不能に陥る。それに続き、あらゆるものが、値上げへと、舵を切ったのは、運送費の高騰、との解釈が、施されたが、これとて、すぐにか、と思うのが、普通の感覚だ。その上、原油から生産されるもの、ナフサと呼ばれるが、それの供給が、不安だからと、川下の製品が、軒並み、値上げとか、不足とか、そんな論理を、展開されると、驚くしかない。笑うしかないのは、シンナーが、棚から消えた、との話で、誰が、何を企むのか、としか思えず、取って付けたが如くの、解説には、耳を疑うばかりだ。経済の正常化とは、ただ、金儲けを企む輩に、好都合なもの、でしかないのか。だとしたら、悪巧みでしかなく、異常としか、思えぬ状況だろう。

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5月19日(火)

 便利な時代である。手にした端末で、世の中の動きを、ほぼ全て、把握できるだけでなく、過去の出来事や、一般的なものだけでなく、ごく限られた人しか、身に付けていない、知識でさえ、眺めることができる。情報社会、と呼ばれる状況だが、便利なだけだろうか。
 先日の、接続業者の変更は、特に、確かな目的を、持ったものでも、なかったのだが、変えてみたら、突然、不便さを強いられた。困った挙句に、これもまた、社会媒体を通して、友達に尋ねたら、解決法が見つかり、便利さを、痛感した。ただ、本当に、それだけか、と問われれば、否と答えるしかない。便利とは言え、思いつく限りの、方策を提示され、それら全てを、試みた挙句に、上手くいかねば、更なる提示が、行われる。一見、有用な情報が、もたらされるのだから、幸いでは、と思う人も、居るだろうが、現実には、そんな当てのないものではなく、接続業者そのものが、確かな情報を、提供すべきと思う。逆に言えば、こういう収益追求の人々は、例外的な障害には、全く興味が無く、多くの利益こそが、顧客の求めるもの、と勝手に断言して、不便を被り、さっさと、別の所に乗り換えたり、元の所に戻ったり、そんな人々の、相手をする気は無い。問題が起きたとしても、大多数の利益が、優先されるだけで無く、ごく少数の問題は、放置した方が、全体の利益になり、自らの収益も、伸ばせるという訳だ。確かに、利潤追求の基本では、その通りに違いない。だが、損して得とれとか、顧客への奉仕を、基本とすることで、収益を伸ばした企業も、あるのではないか。ここまで、高度に進んだ、情報社会では、顧客の大多数は、その仕組みに、興味が無いばかりか、理解しようとする、気持ちも失っており、おんぶに抱っこ、という状況にある。その中で、障害に直面したら、多くは、諦めるばかりで、損失が、膨らまぬ限り、放置するだけだ。本当に、こんな状況で、いいのか、と思う。

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5月18日(月)

 ハラスメント、という言葉は、今や、日常的に聞く。ある意味、市民権を得た、のだろうが、どうも、その使い方については、首を傾げることが、多いのは何故か。こんなことを、書くこと自体、何を、無思慮なことを、と批判されそうだが、皆は、そう思わぬのか。
 ハラスメントが、海の向こうから、届いた頃、一番の話題は、その判断基準、にあったと思う。harassmentは、検索すると、「嫌がらせ」や「いじめ」などの、迷惑行為を指す、と表示される。迷惑は、受けた人間が、抱く感覚だから、それこそが、判断の基準になる、という訳だ。嘗て、「いじめ」とは、する側の意識が、第一とされたのとは、全く異なる話で、それが、届いた時に、多くの人々が、戸惑いを覚えた。誰しも、身に覚えが、無い訳では、ないのだから、もし、被害者が、そんな訴えを、掲げてきたら、と思ったに違いない。だが、その後の展開は、当時、想像もできなかった、ものとなった。次々に、新種のものが、掲げられて、理解不能に、陥ったからだ。「いじめ」とは、学校で行われる、陰湿な行為、との思い込みが、社会全体にある中、あらゆる場面で、適用できるとなれば、被害者ではなく、加害者と目された人々に、恐れ慄きが、広がる結果となった。短縮形で、表現されるのも、日常化を、促進する要因だが、パワハラとセクハラは、当初から、大人達の世界で、蔓延る風習を、批判する為に、盛んに持ち出された。そこに、一部の社会への限定として、アカハラなるものが、登場したまでは、何となく、理解できたが、マタハラ、カスハラ、と来てしまうと、行き過ぎか、との見解も、聞かれるようになった。この辺りに、到達すると、要因を指すものから、場所へと移る所までは、飲み込めても、「いじめ」の対象から、加害者を指す、とまで、移ってくると、もうお手上げだろう。何でもあり、という状況には、危うさしか、感じられないのは、言葉遊びに、興じる人々に対し、こちらが、大真面目に、問題を取り上げよう、とすればする程、問題が拗れる、からなのではないか。当初、主観的な判断を、尊重したものから、客観的へと、移り変わったのも、身勝手な連中の、暴挙が続いた、からなのでは、と思う。どうしたものか、なのだ。

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5月17日(日)

 研究不正の話題は、ここ数十年、絶えることが無い。真っ当に、生きている人間には、信じられぬ話だが、張本人達は、大真面目に、不正に精を出し、人を出し抜こうと、躍起になると言う。だが、そんなことで、築き上げたものは、簡単に、瓦解するのではないか。
 結果として、そうなることは、運次第、との声もある。他人を、突き落としてでも、自分の地位を、高めようとする、そんな心の持ち主には、何も聞こえず、反省などは、あり得ないものとなる。一方、それに、手を貸した人々も、同じ穴の狢であり、圧力に屈したとは、何たる言い訳か、と思える。所詮、私利私欲の結果でしかなく、恥を晒すだけだが、社会的制裁は、その罪に比べ、遥かに、軽いものなのは、信じ難い。特に、恥を知らぬ人間には、本性を晒しても、何も感じず、そのまま、平気の平左で、暮らし続けるからだ。通常の企業では、同じような形で、不正を働く場合、例えば、営業での、帳簿の改竄で、業績を、粉飾することで、昇進を手に入れた、とすると、それは、業務上の、違法行為となり、それが、企業にとり、損失を、被らせるから、横領や偽造、といった類の、罪を問われ、解雇だけでなく、社会的な制裁も、刑事罰として、受けることとなる。これに対して、研究不正は、その類の罪を、問われることなく、単に、懲戒免職などの、処分を受けるだけ、だったり、時には、それさえも、処分として、下されることなく、昇進の道を、絶たれる、という形の処分、に終わることが多い。「あります!」、と言ったとされる、女性研究者も、その世界から、追放されたとは言え、文筆業に、誘われるなど、理解不能な、手が差し伸べられ、今だに、名誉回復を、訴える向きが、囀りで叫ぶ。不正が、発覚しても、単純に、退職するだけで、その後に、一流企業の、研究担当として、迎えられた、という話も、随分前に、新聞沙汰となった。これも、結果の報告のみであり、それに至った、原因に触れられず、不正からの、何かしらの、裏工作が、続いたとさえ、思えたものだ。これら全てに、言えることは、ただ一つ、人の心の問題であり、そんな心には、手当の手段は、無いということだ。自戒を込めて、思う所があれば、近寄らぬことだ。

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5月16日(土)

 便利さは、有り難いものだ。でも、今回のような、騒動に巻き込まれると、どうしたものか、と途方に暮れる。だから、別の便利さに、手を出すべき、との指摘も、あるのだろう。でも、やはり、そちらに関しては、依然として、敬遠したい、と思っている。理由は、特に無い。
 頑固者とか、頑固爺いとか、そんな呼び方を、されたとしても、何も変わらない。確かに、仕事をする上で、必要となれば、何かしらの、対処が必要となる。今、作業を行っているのも、その一つに、違いないし、それに、適応できたのだから、今度も、難しくはない、との意見があるのも、十分承知している。だが、創作そのものに、他人の手を借りるか、機械頼みとするか、と問われれば、やはり、御免被る、となる。今、書いていることも、人工知能に任せれば、時間短縮ができる。また、材料が、見つからずとも、何かを、書き始めることも、可能となるだろう。だが、それは、本当に、自分自身が、望むことか。これは、仕事か趣味か、との違いとも、違っていると思う。自分自身が、何かを、行う上で、必要か不必要か。また、それを、受け入れるか否か、そんなことが、関係するのでは、ないだろうか。いや、効率を、最優先に考えるべき、とか、より良いものを、作り出す方が、良いに決まっている、とか、そんな意見も、あるに違いない。だが、効率とは、より良いとは、と問うてみれば、それ自体に、然程、大きな意味が、無いことに、気付くに違いない。仕事の時も、そんな感覚だった。最善の策を、講じるべき、との意見はあるが、何が最善か、そこに、答えは見出せない。それより、自分が、良いと思うことに、力を入れたり、それを選ぶことにこそ、自分という存在が、関わる部分が、あるのではないか。簡単なこと、と思うのだが、今、そういう判断に、自信が持てぬ人が、増え続けている。このまま、全てを、機械任せにしたら、と思うと、嫌になるからこそ、頑なに、なっているのでは、と思う。

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5月15日(金)

 今回の騒動では、確かに、人工知能の指摘が、功を奏した。で、今後は、どうするか。何を、と思った人が、居るかもだが、これまで、遠ざけてきた、人工知能との付き合いを、変えるべきか、ということだ。今の所、何も、変化は無く、何か、変えようとは、思っていない。
 確かに、通常の検索では、あの操作を、見つけ出すことは、できなかっただろう。時間さえ掛ければ、という言い訳を、書こうとは思わない。一つには、今回の問題は、多くの利用者には、無関係のものであり、また、関わることさえ、無かったものと思う。だから、何かを、書くにしても、当たらずとも遠からず、というより、ある意味、掠りもしないこと、となっていたからだ。でも、何かしら、手当たり次第に、やっておけば、同じ答えに、行き着いたかも、とは思う。但し、おそらくだが、その前に、この接続業者では、今後の作業に、支障が出る、との判断が、先に立っていた、と思う。で、結局、答えは、見出されず、そのまま、昔のやり方を、続けるだけだったろう。確かに、新しい物の方が、低価格だったから、節約になっただろうが、それでも、今回の場合は、工事費の請求で、微々たる節約では、それを、取り戻す為に、結構な時間が、必要となった。どうも、この手の話が、巷に溢れている、ような気がしてならない。例えば、携帯電話やスマホの、使用料に関しても、接続業者により、かなりの額の差があり、それこそ、節約との観点からは、乗り換えが、適切とも思えるが、実際に、使ってみると、繋がらなかったり、遅かったり、と様々な障害に、出会すこととなる。金銭的なものが、最優先となるのは、ある意味、当然のことだが、それでも、通信費そのものだけでなく、今後の経費全体として、考えてみたり、使い勝手の問題が、立ちはだかることになる。便利さは、確かに、一度手に入れると、手放せなくなるから、次に来るのは、止めることより、乗り換えとなるのは、当然だろう。まあ、それでも、経費を、考えるべきなのは、変わらぬままだろう。ま、それはそれで、もう、障害は、御免被る。