囀り界隈では、科学の知識を、ひけらかしつつ、嘘をばら撒く、不埒な輩が、目立っている。先日から、触れてきたように、感染症については、その発症機構だけでなく、抑圧手法についても、諸説紛紛、どころか、嘘八百ばかりで、呆れてしまうが、専門家にも、責任がある。
科学は、元々、確実なもの、と言うよりは、ある程度の確率で、という形を取りつつ、何が、優勢なのかを、示すものだが、無知な人々は、そんな不確かさより、確実なものを、欲しがる。それに乗じて、嘘吐き達は、欲しがったものを、与えることで、混乱を高め、喜びを得る、らしい。感染症の、不確かさについて、何度か、書いてきたが、他にも、不確かさは、沢山あるようだ。その中で、科学者達は、確かな事実を、伝えよう、としているが、どうにも、煮え切らず、信頼回復には、程遠いのみならず、却って、疑いを、高めることになる。同じ、と思い起こすのは、事故後の、混乱状態の中で、一部の科学者が、不確実な話を、垂れ流したことだ。あの発電方式に、反対したい、との姿勢は、勝手にすれば、いいと思うが、その根拠が、脆弱なことに、自身で気づかず、ある意味、暴走を、続ける人達は、知識をひけらすだけに、始末におえぬ、とさえ、思える所業が、目に余る。確かに、一度、管理体制が、崩れれば、今の状況のように、対応の難しさが、極まりそうだ。だが、その勢いで、廃止を訴えるのは、科学的とは、言い難いもの、と映る。同じではないが、核のゴミ、と呼ばれるものの、始末についても、現状では、地下深くに、埋めた上で、管理するとされるが、放射性物質の、管理においては、今の、処理水の放出の如く、希釈が、最善の策とされ、何処かに、強い矛盾を、感じてしまう。元々、燃料獲得には、濃縮を繰り返し、その状態に達する訳だが、その逆転を、ゴミ廃棄に、考えない理由が、浮かばない。事故直後の、汚染地域についても、二つの措置が、対立する形で、実施されており、土壌については、集積したのに対し、一部の、舗装区域では、剥離後に、粉砕、再舗装で、検出外とする、措置が取られた。後者は、希釈と同じ手法であり、前者は、ある意味、濃縮に似ている。科学としての、矛盾を見せられ、はて、そんな科学を、信頼せよと、と問い掛けたくなる。
経済では、歴史は繰り返す、とよく言われる。確かに、株価の暴落や、原油の乱高下など、様々な事象が、幾つかの要因で、同じような動きを、示すことがある。そこから、歴史の話が、紹介されて、その上で、そんな危機への備えも、できるもの、と言われるのだ。だが、本当か。
人間は、学ぶものだ、とも言われ、歴史の話は、その一つとして、紹介される。でも、同じことが、同じように、起きるのは、学んでおらず、懲りていないから、などと言われるのは、何故か。不思議でも、何でもなく、同じことが、表面的には、繰り返され、同じような、暴落や乱高下が、起きているように、見えているが、実際には、それぞれに、微妙な違いがあり、備えとは違う、対応の必要が、取り上げられる。そちらについても、検証が必要だが、一方で、懲りない話にも、目を向ける、必要がある、とも思う。つまり、同じことが、起きつつあるのに、今度こそは、違う展開になる、と信じ込むことで、一時的な安心を、手に入れ、結果として、失敗を繰り返す。本人は、大真面目に、今度こそは、などと言い連ね、ほんの僅かな違いを、殊更に、取り上げることで、繰り返しを、避けられるとする。結果は、悲惨なものとなり、煮湯を、飲まされるが、それでも、次の危機でも、同じことをする。まあ、冷静になれば、そんなことを、する筈も無い、と思う人ほど、同じ過ちを、繰り返すのだから、付ける薬は無い、としか言えない。では、今度のものは、どうか。何十年ぶり、と取り上げられる、為替水準は、数値として、確かに、あの頃に戻ったが、そこまでの動きは、全く違う。逆に言うと、今回の場合、繰り返したのではなく、偶々、同じ数値に、到達した、と言うべきだろう。経済の話で、こんな馬鹿げた、偶然の一致を、歴史の繰り返し、とすることがあり、これもまた、科学とは、全く異なる、心理ばかりの動向を、扱うもの、と言われる、所以となるのだろう。様子見は、当然のことながら、為替水準が、どうあるべきか、少し考えておく必要が、ありそうに思う。
事実を、ありのままに、伝えているだけ、との答えが、返ってくるかも、だが、それでは、科学も医学も、へったくれも、無いことになる。何しろ、病原体の有無を、検査で明らかにし、その結果、一方は、感染源と、責め立てられ、もう一方は、接種により、軽症化した、とだけ言われる。
これでは、非科学的なことを、叫んでいる輩と、何の違いがあるのか、とさえ思えるし、トンデモだろうが、何だろうが、好き勝手なことを、書き散らす人間と、何が違うのか、と言いたくなる。確かに、ある割合で、過剰反応を示し、それによって、感染ではなく、別の要因で、死んだり、重篤な後遺症に、見舞われた人が居て、その原因を、ワクチンの中の、摩訶不思議な物質の、せいだとしたり、ワクチンにより、引き起こされた免疫反応は、自然のものとは、全く異なるもので、危険極まりない、と主張したり、そんな意見には、科学的根拠が、欠けている、と断じる人が居るが、では、こちらの話は、どうだろう。どんな御高説が、飛び出すのか、暫くは、免疫学者が、書くものにも、目を向けたが、一向に、触れる気配は無く、ただ、無闇矢鱈に、新開発のワクチンが、如何に優れたものか、を書き連ねていた。確かに、感染症の診断は、免疫学の、知る所ではない。だが、感染爆発を、引き合いに出し、その恐怖を拡散した上で、ワクチンの効能を、並べるのであれば、結果としての、病原体の保有と、伝染への寄与にも、触れる必要がある、と思う。感染爆発では、8割とか称して、話題となった研究者も、依然として、力を有するようだが、あの結果も、何の検証もなく、総括など、届きそうにない。特に、密室で、感染が広がった、との報道では、その場に居た人々の、どれ程に、感染者が、出たのかも、触れられぬままだ。ここでも、疫学や公衆衛生学が、専ら得意とした、調査手法と、検証法が、用いられてきた、とされたが、はて、どうなったのか。騒動の最中に、治療や対応に、専念せねばならぬのは、当然のことだが、もうすっかり、忘れられよう、としている中で、どうしたものか。誰の責任か、などと言っても、始まらぬことは、明らかだが、あれだけ、声を上げた、研究者達が、何の総括もせず、平気でいられるのは、何故なのだろう。
感染症という観点から、発症せずとも、運び屋になるから、感染という括りを、適用した上で、隔離などの措置を、行うべき、との説明は、妥当に思える。だから、僅かでも、病原体を、保有する人には、発症者と同等に、隔離措置を、行ったとされる。ここまでは、理解できるが。
免疫機能を、発動させて、病原体に、感染したとしても、軽い症状で、済むことで、生命の危険を、回避できる。ワクチンの説明として、この文面には、何の間違いも無い。だが、その一方で、感染爆発を、防ぐという意味では、この文面には、違う意味が、込められている。つまり、感染そのものを、防ぐという作用は、説明文には、含まれていないのだ。その意味で、ワクチンの効果で、軽症で済んだ患者は、病原体を、運ぶことに、なるのではないか。となると、無症状感染者、と呼ばれ、感染爆発を、起こすことになる、と批判された人々と、軽症で済んだ人に、どんな違いが、あるのか、疑問が出てくる。免疫という、生き物が、もつ機能について、多くの人は、疫を免れる、という意味で、感染初期で、病原体を、駆逐することで、その体内増殖を、防ぐことになる、と理解してきた。確かに、以前の検査法では、ある程度以上の、病原体を保有しないと、陽性を示さず、感染を防いだ、とされてきたが、あの感染爆発が、起きる前から、導入された、微量の病原体でも、検出できる方法では、ほんの僅かな数でも、見逃されず、陽性となる。普通に考えれば、当然のことだが、多くの免疫学者を含め、ワクチン開発当時、その接種を、促す為に、感染爆発を防ぎ、周囲の人の命を、守ることに、繋がると訴えた。だが、製薬企業の発表は、少し違い、接種者は、感染しても、重症化しない、となっていた。となると、感染爆発への、関与について、どう考えるべきか。未発症の感染者が、周囲にばら撒く病原体の数と、接種済みの感染者が、ばら撒く数が、違うかどうか、何の話も出てこない。総括を、望むのは、こういう点も含め、全体として、多面的な解析が、必要だからだ。それと共に、表現の問題として、検査陽性と、発症者の区別を、明確にすべき、ではないか。科学や医学が、頼りになるかは、こんな些細なことが、はっきりしないままには、判らないと思う。
天変地異は、人の力では、如何ともし難いもの、と言われる。その通りで、だからこそ、神仏に頼み、様々な関わりが、行われる。ただ、その一方で、災害に、見舞われた時、どう処するかで、展開が、変わることも、知られている。にしても、近年の脅迫にも似た、態度には。
どんな警告を、発しても、逃げも隠れもしない、頑固者達を、どうしたら、との思いからかも、だが、それにしても、毎度お馴染みの、脅し文句の連呼には、呆れるしかない。安全安心を、一つ覚えのように、訴える一方で、これらの警告に、そんなことは、感じなかったとか、もっと強く言ってくれないと、とか、兎にも角にも、愚か者に、つける薬は無い。にも拘らず、社会は、執拗に、要求を高めるが、自分が、動くことは、決して無い。そんな状況に、担当役所は、毎年、手を替え品を替え、新しい脅し文句を、編み出してきた。今回は、全体の仕組みを、総取替する、といった感がある程、大きな変更を、行ったようだが、どうにも、不思議な感覚しか、抱けない。まずは、こういう仕組みが、それぞれの災害が、組み合わさった時に、どう受け取られるか、あるいは、どう受け取るべきか、その点から、戸惑うことが、起きる。一つひとつが、大事であることは、事実として、捉えるのだが、彼方と此方で、矛盾を、感じた場合に、どうしたら、と思うのでは。そんな瑣末なことに、気を奪われずに、重大性を、見極めさえすれば、何を、優先すべきか、すぐに解る、と言われるが、情報過多は、それに対する、妨げになりかねない。今回も、台風被害を、殊更に、予想したが、被害自体は、何かが起きる、に決まっている。それが、其処彼処に、起きるのか、それとも、自分以外に、起きるのかが、肝心となる。何度も、外れてしまえば、結局は、狼少年の逸話となる。どうしたものか、と苦心惨憺、試してみても、大した変化が、起きていない。でも、これらのこと、全てを、自分事として、捉えるかが、肝心であり、個人の問題、とするしかない。責任転嫁など、以ての外、だろう。
やはり、と言おうか、泥沼なのか。互いに、罵り合いながら、周囲からの、圧力によって、合意に至った、とされた。が、その後も、不安定な状況が続き、罵り合いも、続いていた。また、週末が、近づいてきたら、同じことの、繰り返しとなった。さて、あの文書は、無効となるか。
興味深いのは、こんな時に、世間が、呟き続けるのは、何方が、勝ったか、という話だ。総じて、攻め込まれた方が、自国の利益を、確保したとの評価から、勝ったとする向きが、優勢のようだ。だが、岡目から見ると、どうかな、という思いしか、抱けない。元々、国内の体制が、不安定に陥り、爆撃により、主要な人物の、殆どが、消えてしまった。その中で、やっと見つけた人物も、果たして、生きているのかさえ、定かでない、状況にある。ただ、それまで、体制を支えた、軍部だけは、依然として、権力を、握り続ける。海の向こうの暴君は、もう、大した戦闘能力は、残っていない、と断じるが、それとて、怪しげにしか、映らない。そんな不安定な、状況の中で、合意は、戦闘状態にある、勢力の一部により、成されたに、過ぎない。となれば、何時何時、危うい均衡が、崩れるとも知れぬ。と思われる中、案の定、軍部の勇足が、露呈したのだろう。こうなれば、一気呵成に、攻撃を始めるかも、との見方もある。とはいえ、お互いに、戦闘能力で言えば、弾薬不足は、否めず、青息吐息の状況に、あると言われるから、息の根を止める、までには至らず、またぞろ、泥沼化しそうな、状況とも見える。こちらの政府は、一旦の合意から、原油の供給が、回復するとの見込みを、発表したのだが、また、この週末で、同じことが、繰り返され、窮地に陥る、のかも知れぬ。どうしたものか、と思ってみても、当事者でない限り、どうにもならぬ、としか、言いようがない。で、結局は、様子見状態が、続くのだろう。対岸の火事、であることは、今の所、そうだろうから、暫くは、落ち着くべきか。
科学技術の進歩。その恩恵に、多くの人々が、浴している。日々の生活でも、そんなことが、数え切れぬ程にある。これを、否定する人は、居ないと思う。だが、技術の進歩と、その事象への理解に、食い違いが生じると、おかしな状況が、生まれる。どうしたものか、と思う。
何度も、取り上げてきたことだが、感染爆発に関する話だ。感染が、発生した地域から、一報が、届いた時には、多くの人々が、その後の、惨状を想像しなかった。だが、発生国から、何時の間にか、星の反対側へと、飛んだ病原体は、多くの患者を、生じただけでなく、その多くが、死を迎えてしまった。感染症の、恐ろしさを、目の当たりにして、恐怖に慄く人々は、一気に、異常な状況へと、移っていった。だが、その過程で、各国から届く、数値の大きさに、驚いた人が多い。1世紀以上前の、世界的な悲劇を、思い起こした人も、多かったが、死者数でなく、感染者数という、数値に関しては、昔の話とは、大きな違いが、あった。その時も、ここで何度も、指摘したが、この数値は、検査陽性者数であり、一般的な理解の、感染者とは、何処か違ったものだ。従来の感染者は、発症した後で、検査を受けた結果、その病原体に、侵されたことが、確認される。だが、何時からか、感染症の学会が、精密な検査により、病原体の存在が、確認された時点で、感染と判断する、と決めた。それに従い、この場合も、PCRという、病原体数が、僅かでも、検出できる技術を、導入した結果、世界的に、その数値を、発表することとした。その結果、陽性者でも、発症せずに、回復する場合が、指摘され、彼らが、運び屋の如く、批判されるに、至っていた。この点に関して、疫学も公衆衛生学も、確かな情報を、総括として、発出していない、のではないか。もし、そうだとしたら、検査自体の、再検討が、必要となる、とも考えられる。この点は、実は、もう一つの大きな問題を、生じることとなった。それについては、後日、書いてみたい。
感染爆発で、世界が、恐れ慄く最中、何が、起きているのか、誰にも分からぬ状況が、続いた。確かに、被害が、急拡大する中、目の前の問題に、対処することしか、できなかった。だが、徐々に、死者の数が、減り始めて、現場の混乱が、収まり始めると、大凡の把握が、出来始めた。
最中と、その後では、何が、変わったのか。単純には、全体を、見渡す暇が無く、目の前の問題さえ、把握できぬ中、何かを、落ち着いて、調べることさえ、不可能だった。それに対し、その騒動が、落ち着きを、取り戻すと、少なくとも、何処に問題があり、何が、以前と変わったのか、を点検できるようになった。この手法は、疫学や公衆衛生学が、主たる分析法として、長く用いてきたものだ。それが、可能となったら、総括は、容易いもの、と思えるのだが、一向に、出てくる気配さえない。これでは、問題の核心を、追及することは、不可能だし、何が、起きていたのかを、知ることさえも、できそうにない。そんな状態が、もう、長く続いてきて、知りたい、と思う人は、殆ど全てが、不満を募らせる。だが、何が足りず、何から、始めたらいいのか、そんなことは、情報を、欲しがる人には、知る術がない。いつまでも、この状態を、続けるのなら、政策に、批判を投げる人は、不確かなものも、含めて、真偽入り混じった、話をするだろうし、衛生措置に、異論を唱える人は、治療法への疑義を、持ち続ける。それが、科学的だろうが、非科学的だろうが、総括無しでは、反論もできない。今は、そんな状況にある、と思う。その中で、先週取り上げた、本が出版されたが、著者らも含め、主張が繰り返されるだけで、何の解決にも、至らぬままだ。この悪循環の、主原因は、総括の欠如にある。だが、それは、単に、政府や世界機関の、問題だけで無く、学界全体が、抱えるものではないか。科学か否かについては、論理のみでは、検証不能だ。なので、全否定する人も、妄論を発する、と言われても、仕方ないと思う。
騒動が起きて、役所等が抱える、問題の数々が、噴き出てきた。政策は、確かに、国民全体の利益を、求めるものだが、一度、綻びが見えると、修復不能な程に、傷が広がる。米不足、と言われた途端に、慌てふためき、備蓄米の放出を、決めたことに、間違いは無かったが。
その一方で、何故、不足に陥ったのか、について、すぐには、答えが示されず、首を傾げるのみだった。とは言え、その後、明らかになったのは、役所等の調査が、不十分だったのか、生産量の概算が、間違っていた、とのことで、「はっ?」と思った人が、多いのでは。毎年、豊作か凶作か、をはじめとして、作況指数や収穫量が、発表されてきた。一喜一憂するのは、当然だろうが、この発表からすると、一体全体、あれらの数値は、信頼に値せぬ、ものだったのか、とさえ、思えてくる。嘗て、この国では、豊作、凶作に関することだけでなく、様々な要因から、庶民の生活を、守る為と称して、配給制度が実施され、公平性を、確保してきた。この状況では、当然のことながら、政府の関与が強く、管理体制が、整備されたから、生産量の把握も、難しくは、無かったと思う。戦前から続いた、この制度が、破綻を来し始めたのは、自主流通米、という代物が、登場した頃で、もう半世紀以上昔の、こととなった。意欲とか、努力とか、そんな言葉が、飛び交い始め、手をかけた米の、値段が、他と同じなのは、おかしいとの考えから、品質と価値、価格が、結びつくとの考えが、米以外も含め、労働対価として、反映すべきとの、考えが出てきたのだ。そうなると、政府の管理は、行き届かなくなる。結果、自由経済の名の下に、米価についても、味を含めた、数々の要素が、影響することとなった。だが、銘柄やら何やら、怪しげな名称や、噂話に過ぎぬことに、振り回される、消費者の数が、増えただけ、だったのかも、だ。そこに、この騒動が、起きた。途端に、様々な問題が、今更の如く、指摘され始め、恰も、悪者のように、扱われた。当然、権力批判は、常套手段であり、攻撃の手が、厳しくなった。でも、今に始まったことでなく、以前から、知られたことだ。もし、管理ではなく、綿密な調査、というのなら、追跡方法を、整備すれば、それで済む。密輸で、話題となる、金塊についても、消費税制度に、目を向けるより、追跡を、義務付けた方が、遥かに効果的だ。ただ、金持ち連中は、監視されては、堪らないのだろう。
誰が何と言おうが、米は主食である。騒動が起きた頃、多くの人々が、強く発言したのは、その為であり、日々の食生活で、肝心要のものが、不足しては、安心していられない。だからこそ、慌てふためき、小売店を、走り回る人が、出た。これも、当たり前、と言えるのか。
こちらは、当然とは、言い難い。冷静になれば、明日の米が、無くなるわけでも、自宅の備えが、即座に、消え失せることさえも、あり得ないからだ。だが、煽るばかりの報道や、不安材料ばかりを、見せつける、専門家と称する人々が、あれ程に、騒ぎ立てたら、考えることを、忘れた人々は、慌てふためき、走り回ってしまう。数々の物品で、同じことが、同じように、起きたことを、見れば、現代の一般庶民が、如何に、考えようともせず、ただ、闇雲に、動き回るのかが、簡単に理解できる。では、何を、どうすればいいのか。簡単には、暫く様子見して、その後の成り行きを、見守ればいい、となる。昨年の騒ぎが、まだ続くことを、眺めていると、この問題が、拗れたことが、よく分かるし、その上で、加担した人々が、総括も始末も、つけようとせず、困り果てるまで、知らぬふりを、続けている、ことが分かる。備蓄米の騒動も、拠出されたものが、どこに消えたのか、誰にも分からず、相場の変動が、何の反応も、示さなかったのは、何故か、説明は、一切無い。その一方で、穿った見方からは、放出後も、倉庫に、置き去りにされた米が、どうなったのか、また、それに係る経費が、どれ程で、誰が、負担したのかさえ、何も見えてこない。数えれば、限りなく出てくるのは、明白なのだが、それを、一つひとつ、検証する気配は、見えそうにない。あれも、これも、騒ぐだけ騒いで、施しを、待つだけとの姿勢は、末端消費者から、流通業者、生産者まで、皆、同じなのだろう。総生産量さえ、定かでないのでは、手の施しようもない。お手上げ、では、済まぬ問題の筈だが。
米騒動は、解決していない。一方で、報道は、盛んに、末端価格の変動を、伝えている。僅かな変化を、さも大ごとの如く、伝える姿勢には、感染爆発の時と、同じように、疑いを抱くしか、ないのだが、当事者達は、大真面目に、取り上げる。騒動前の価格が、どれ位だったのか、忘れたように。
確かに、その後も、様々な要因で、物価の上昇が、続いている。だから、同じ水準に戻る、などとは、誰も思わぬ。だが、ほぼ倍となった、価格が、僅か1%程度、変動したとして、何の意味があるのか、呆れるしかない。一方で、輸入品の多くは、恐ろしい程に、値を上げており、例えば、パンチが、日々愉しむ、珈琲に至っては、嘗て、と言ってもちょっと前、と思う頃の、倍どころか、3倍近くにまで、値を上げている。だから、物価上昇は、確実に、日々の生活を、脅かすまでに、至っている、と言えるのだ。だが、国内で、生産される物に、同じ圧力が、掛かっているとは、信じ難い。ここでは、別の要因が、被さっており、一部の業者が、私腹を肥やしている、と見るべきだろう。米騒動の、初め頃は、少し違っていたが、政府が、重い腰を上げた頃から、儲け話に、群がる人々が、急速に増えた。値上げの論理は、当時までは、需要と供給という、市場原理なるものが、あると信じられたが、今では、幻に過ぎず、市場心理を、操作することで、流通に携わる業者が、上前を跳ねる、という図式が、確かなものとなった。その上、裏で暗躍する人々は、情報操作にまで、手を伸ばしており、それに、加担する報道が、自らの役目を果たそうと、躍起になっている。先日、精米を買ってみたが、近県の生産物を、遠くの業者が、独自の精米技術で、仕上げた、と袋に印刷していた。それだけで、地産地消とは、全く異なる、流通業者の、関与が見えるが、それにより、運輸業が、厳しい状況下で、どんな無駄が、行われたのか、と思えてくる。付加価値とは、消費者にとり、利益をもたらす、と思われるものだが、ここでは、単純に、価格上昇へと、繋がる仲介者の、存在を意味しており、それにより、潤う業者達が、急増したと思える。元々、流通が、首を絞める、と言われてきたが、その最たるもの、と言えそうだ。
本の企画が、台無しとなった、とは思わぬ。あの騒動で、暗躍したのは、政府関係者とマスゴミ、と言われるが、マスゴミの中も、それぞれで、少し様子が、違っていた。その結果、劣悪なる反応を、招いたのは、電波媒体による、情報伝達だった、と思われる。
だが、著者達が、頼りにしたのは、調査結果で、渦中で、最も頼りとしたのは、民放との数値だった。意外だったのは、彼ら自身も、そうだったろう。玉石混淆、真偽入り混じった、情報さえも、何も無いよりまし、との見解かと、思える程だが、この数値だから、自らを高め、正当化せねば、となったのでは、と思う。印刷物が、衰退するのに比し、驚くべき評価、とでも受け取った結果、この本の内容へと、傾いたのだろう。情けない、という気分と、科学に立脚することを、基本とする、仲介者の役割を、歪めても構わぬ、との態度に、呆れてしまった。これらのことは、自身にも、通じることで、最近の、他人の評価を、過度に気にし、その数値だけが、全てとの思い込みに、警告を発する。一方、こんな為体を、招いた最大の原因は、総括の欠如、にあると言って良い。本の中でも、専門家が、それぞれに、独自の解釈と纏めを、表明していたが、これが、可能となるのは、肝心要の、政府による、客観的な評価と総括が、全くと言っていい程、行われなかった、からだ。多くの、出鱈目な解釈が、依然として、皆の口に上るのも、不確かなデータが、独り歩きするのも、全て、全体を見渡す形の、総括が、行われぬままに、目の前の問題へと、話題が移った結果なのだ。感染による死者数は、依然として、高いままとの主張が、専門家から、発せられたが、独り言でも、何度か取り上げたように、統計による数値で、感染の結果として、死因となるものの、数値の変遷が、どうだったかの、検証は一切無い。にも拘らず、高いままとの主張は、科学者として、あるまじき態度で、それに対して、何も指摘しないのは、科学的意思疎通に、携わる人間の、態度ではない。この繰り返しが、頁を繰る度に、現れるのは、読者にとり、不快でしかなく、無意味な時間が、過ぎていく。そんな感想しか、残らぬ読書は、一種、苦痛でしかない。さて、これ位にして、次は、総括と共に、問題として残ったことを、書くことにするが、暫く間を空けたい。
件の本については、帯によれば、次の爆発に備える、との掛け声で、科学的意思疎通の、必要性を、訴えるものらしい。だが、内容は、昨日書いたように、杜撰なもの、と言わざるを得ない。企画にも、聞き取りにも、携わった人々の、意気込みは、理解できるが、空振りだった。
まず、当人達が、意識する、科学的意思疎通とは、どんなものか。元々、科学者などの専門家は、難しい言葉を並べ、時に、意味不明とも映る、拘りや主張を、展開する。学者様、として扱われた時代とは、大きく異なり、理解できぬ話を、偉そうに語る人間は、価値が無い、とさえ断じられる、そんな時代となり、俄を交えて、そんな連中が、有る事無い事を、囀りなどの社会媒体に、書き殴るのが、当たり前となる。その中で、大衆媒体が、牛耳ってきた、情報伝達の世界を、多勢に無勢の状況で、荒らされており、危機感は、膨らむばかりとなる。特に、感情的な意見が、大多数を占める世界で、何が正しいかを、論じることの必要性が、高まっており、科学的意思疎通として、それらが、活躍する場に、注目が集まる。その中で、感染爆発で、一部捻じ曲げられ、誤解に基づく、反論が飛び交った、混乱に対して、危惧を訴える動きは、当然のことに違いない。だが、だからと言って、軽率な態度で、自己主張を繰り返し、正当化を目論むのは、明らかな過ちであり、取り返しのつかぬ、信用失墜さえ、招きかねない。そんな思いを、抱きながら、全体を読んでみて、報道に携わる人々の、無知蒙昧ぶりに、呆れただけでなく、そんな人間が、寄ってたかって、敵対する人々を、感情的に批判し、有識者の見解を、都合よく解釈する、という、馬鹿げた本に、著したことは、恥ずべきことと思う。科学的意思疎通は、確かに、難しく理解困難な話を、分かり易い形に、翻訳することが、第一の役割、と考えられるが、この本では、その役割を、自負する人々が、自分の解釈を、被せる形となり、科学を、愚弄するものに、してしまった。自らの、重要な役割を、曲解したことは、このような企画を、的外れなものに、してしまった。
感染爆発について、皆、忘れてしまったのだろうか。一部には、そんな意見もあるが、こちらは、そんなことは、微塵も感じていない。だが、報道に携わる人の、一部には、そんな意見が、あるのだろう。だからこそ、今、こんな本が、出版されたのでは、と思うのだ。
まだ、月半ばだから、読んだ本で、皆さんの目に、触れるまでには、暫く時間がある。だから、書名を明かさずに、意見を書いても、よろしくない、のかもしれない。だが、ここに書くことで、書名については、心当たりが、出てくるだろうから、直接書くことは、控えておく。でも、それにしても、こんな駄本を、世に問うて、何がしたいのか、と思ったのが、読後感だ。感染爆発が、世界を覆った、と言われた頃、この国でも、多くの人々が、政府と力を合わせて、対応に、腐心したと言われる。一部に限られ、全ての見解が、書き記された訳ではないが、少なくとも、改めて、当時、画面を賑わせたり、誌面に見解を、発表した人々が、何を考えたかを、伝えようとする、意図があったことは、簡単に分かる。しかし、その内容に、偏りが目立つのは、個人の見解だから、致し方ないとはいえ、一方で、聞き取りにより、正確な情報を、引き出したとでも、著者達や、編集に携わった人々が、断言したとしたら、何をか言わんや、と返すしかない。ある大学教授が、政治家などの、口述記録を、続けたことは、よく知られるが、今回のこの本は、それとは、似て非なるもの、としか、言えない代物だ。口述を、どの程度、正確に、文字起こししたか、という点にも、疑義があるが、それ以上に、問題なのは、複数人で、一個人に質問し、その遣り取りを、記録したことで、事実と異なる、内容へと、変えられたのでは、と感じたことが、大きい。誰が何を、と書名に、記したのに、実際には、聞き手の意見ばかりが、書物の中に、残ることになり、肝心の、現場での問題より、報道が、如何に関わったのか、だけに、光が当てられ、正当化への苦心が、露わとなってしまった。こんな本、読む価値は、無い。
陰謀論を、馬鹿にしていないか。いや、馬鹿げた妄論を、真面目に、取り上げるのは、愚の骨頂だろう、と思う人が、大部分だと思う。でも、海の向こうの暴君の、発言の多くは、彼が、表舞台を去ってから、実しやかに、陰謀の数々として、取り上げられるのだろう。
で、彼自身は、それまでの、庶民の情報源だった、大衆媒体を、偽り、フェイクと断じ、好き勝手な振る舞いを、続けている。ただ、あの批判の、殆ど全ては、自己中心的な、評価基準に基づき、自分に、不都合なもの、だっただけなのだ。それを、陰謀と片付けるかは、一概には、決め付けられない。でも、はじめに書いた、陰謀論は、まさに、その典型であり、それを、主張する人にとり、不都合極まりない、邪魔なものなのだ。あの暴君が、これらの意見を、書き始めたのは、社会媒体であり、政権を去ってから、権利を失ったのも、権力に、君臨するからこその、暴挙の数々が、看過できぬ程、と判断されたからだ。しかし、その企業を、買収した人間が、擦り寄った結果として、権利を回復し、それと同時に、妄論を掲げることが、自由の名の下に、認められたことが、今の混乱を、招いたと思える。実しやかな論理を、展開する為に、必要となるのが、誰か、特に権力を握る、人間達の、陰謀によるもの、という展開だろう。どんなに、突拍子もない、奇天烈な、話でも、それが、権力者の、深謀遠慮による、としさえすれば、何事も、通用するとなる。いや、論理の欠片も、ないのでは、との指摘も、だからこそ、力による行使が、必要なのだ、と断じる。もう、手が付けられず、好き勝手な、話にしか、ならないもので、聞いたり、読んだり、する価値も無いが、今や、それらが、大真面目に、社会媒体で、囀られるのだ。特に、最近、目に余る、と映るのは、専門家の世界での、妄言の応酬であり、非論理的な、意見の遣り取りが、実名、匿名に関わらず、衆人環視の下、いつまでも続き、人格否定へと繋がり、当事者の、人格自体が、毀損することだ。人間の、卑しさを、見る思いとは、言い過ぎだろうか。
ちょっと、考えてみたら、と思う。軍事侵攻が、始まった時、世界の穀倉地帯が、焼け野原になり、食糧不足が、起きると報じた。爆撃が、始まった時、世界の石油基地が、紛争に巻き込まれ、原油不足が、起きると報じた。で、結果は、どうなったろうか。皆が、飢えに苦しみ、凍えただろうか。
悲観論者にとり、真に、都合のいいことが、立て続けに、起きている。材料に、事欠かないとは、まさに、この状況を言う、とさえ、思えてくる。それに加え、どちらの紛争でも、今の農業にとり、死活問題へと、結び付く、肥料不足が、起きたと報じる。最後の問題は、効率的な、農業の確立に、不可欠なもの、とされるが、一方で、人工的なものとして、一部の人々に、忌み嫌われる話だ。にも拘らず、大ごとのように、扱われるのは、まさに、資本主義の時代、当然の成り行き、なのだろう。だが、どれもこれも、死活問題とは、言い難い、展開が、その後続いており、あれは、狼少年の物語と、同じことだろうか、などと思えてくる。警告を発すれば、それに対して、対策が講じられ、障害を、未然に取り除くことが、できると言われるが、今の展開を眺める限り、とても、そんなことは、言えない程に、下劣な情報操作と、一部の収益獲得ばかりが、目立っている。警告は、単純に、値上げの根拠となり、あろうがなかろうが、そんなことには、無関係に、流通を含め、それらの製品を、扱う人々の、収益獲得へと、繋がってきた。それこそが、需要と供給による、資本主義の姿、と見るのは、各人の勝手だが、現実は、全く異なり、どこにも、不足はなく、どこにも、困り果てた人は、出ていない。それでも、対策が、功を奏したとして、自慢げに、触れ回るのは、どうしたものか、とさえ、思えてくる。経済の理論とは、単に、嘘を塗り固めた、虚像の姿であり、そこには、実体も、実態も、何もなく、誰かが、組み立てた、張りぼてに過ぎない。それに、加担しているのが、情報を伝達する、役目を追う組織と、人々であり、今では、その他大勢も、社会媒体を介して、せっせと、嘘をばら撒き続ける。悲鳴を上げれば、救いの手が、差し伸べられる、という図式も、この茶番劇に、不可欠な要素で、そこへの加担も、重要な役回りだ。ま、そんなもの、ということで、騒ぎが、収まるのを、待つしかない、のだろう。
何度目の正直か、合意との報道に、多分、皆の疑いは、解けていないだろう。まあ、海千山千の争いに、二つだけでなく、もう一つの勢力が、加わっているだけに、解決への道は、近くはない、と思える。その中で、資源枯渇の話は、どうなったのか。誰にも、分からぬ。
で、この国では、資源不足ではなく、そこから、産み出される、原材料の枯渇が、深刻化している、と言われる。でも、庶民の目からすると、今回もまた、一時の儲けに走る、不埒な連中の、思惑の表れ、と映るのだが、どうだろうか。米騒動でも、様々に、憶測が飛び交った。不足から、枯渇へと、話が移る中、行き詰まったのか、遂には、政府の調査自体が、誤っていた、という結論まで、飛び出す始末だったが、今になって、米余りが、深刻な問題として、取り上げられ、あの話は、何だったのか、などと言い出す始末。こんな調子の、大衆媒体なのか、マスゴミなのか、信頼に値しない連中が、今回の騒動にも、加担している。その手法は、いつもと同じで、何度、騙されたら、気が済むのか、と思うのだが、当人達は、大真面目で、買い占めに、走り回り、窮状を、叫び続ける。だが、末端でさえ、買い占めを、唯一の手立て、と見る程なのに、何故、流通の中途で、同じことが、起きぬと思うのか、不思議で、仕方がない。爆撃が、始まった時、あっという間に、燃料の値上げが、報じられた時、首を傾げたのに、同じ嘘で、騙されるのは、知恵が足りないのか。漸く、話題になり始めたのは、価格操作が、報じられた時に、問屋などの段階で、買い占めに、走った所があった、という話であり、それが原因で、末端の店の棚から、全てが、消えてしまった、とされる。だが、それとて、それを防げぬのは、政府の責任、などと言い出す始末では、如何ともし難い。儲け話に、群がる人々が、こういう行動に、出てくるのは、常道であり、それにより、一時の儲けに、ありつくだろうが、それが、信頼を失い、次の商売では、損をするのが、常ではないか。と、考えれば、この騒動も、対岸の火事、でしかない。
人工知能が、脅威となったのは、盤上の競技だろう。実力が、伴わぬ時代には、誰も、見向きも、しなかったが、徐々に、力が蓄積されると、その速度が、武器となり、実力者さえも、凌駕するように、なったと言われる。確かに、そうかもだが、かなりおかしいと思う。
今の時代に、そんなことを書くと、無知との指摘が、飛んできそうだ。どの盤上競技でも、実力者が、敗退したとの報道は、誰もが知る所だ。でも、と思うのは、彼ら実力者達は、人間との戦いで、力を見せてきて、速度優先の、機械を相手にしたことは、殆ど無い。心理戦、というと、語弊があるかもだが、実力拮抗の中、心理的な揺さぶりが、効果を上げることも、あると聞く。将棋の世界では、嘗て、絶対王者と呼ばれた存在は、意外な手を、指すことで、知られていた。一人は、その勢いで、当時の全冠制覇を成し、もう一人も、同様の成果を上げた。でも、その後は、徐々に失い、絶対的な存在、とは呼べなくなった。それは、結局、彼らの戦略が、対戦相手に、通じ難くなった、結果と思える。これらの競技では、唯一無二の勝利手筋が、存在する訳でなく、対戦相手との、遣り取りの結果、勝敗が決する。この点は、仮令、人工知能でも、同じことであり、最善手の繰り返しで、勝利を得ることに、変わりはない。だから、相手の出方次第で、こちらの手も、変わることとなる。となれば、人間相手に、通用した戦略が、機械にも通じる、とは限らない。逆に、機械だからこそ、通じるものが、あっても不思議はない、と思う。これが、脅威として、恐れるだけでは、と思う理由だ。そこで、最近の生成人工知能が、万能かの如く、評価される中、各企業の仕組みの、脆弱性が、攻撃対象となる、との話が、紹介される。が、これ、例の如くの、不安を煽る話、でしかないと思う。もし、そんなものが、存在するなら、さっさと、自分達で、その欠陥を見つけ出し、対処すればいい、だけのことだ。何を、大ごとのように、取り上げるのか、と思う。それこそ、開発者や開発企業の、思う壺なのでは、とも。高を括る、のは幾ら何でも、だろうが、過剰に恐れるのは、却って、損失を被るからだ、あの競技のように。
不幸話も、差別の問題や、制度や権力の問題に、すれば、如何にも、筋が通ったものに、映るらしい。社会媒体で、そんなものが、盛んに、取り上げられるのは、本質的な部分に、目を向けると、単に、他人事だから、だったり、責任転嫁として、だったりする。つまらぬことだ。
そのくせ、こういった意見の多くは、大上段に構えて、何かを、ぶった斬るような、雰囲気を漂わせ、それに乗じて、下らぬ意見を、添える人々も、中身の無い話を、実しやかに、語っている。これらの媒体が、無駄ではないか、と揶揄されるのも、この類の人々が、巣食っていて、蠢いているからで、相手にするのも、無駄と断じる、意見も多くある。だが、今の社会媒体の仕組みは、これらの意見を、取捨選択することなく、と言うより、作為的に、それらの意見を、優先的に掲げている、としか思えぬ。この問題の本質は、下世話な話ほど、耳目を集め、媒体の優先順位は、以前の検索の仕組み同様に、下劣な心の持ち主が、関わった意見程、同じ水準の人間にとり、興味が湧き、目を向けることで、決まっている、という点にある。下らぬなら、相手にせずに、無視し続ければ、と言われるが、それが、可能とはならぬ、仕組みの、頑なとしか言えぬ、大欠点となっており、一人の参加者が、自身の判断で、変更できるものでは、ないことにある。この状況では、悪貨が悪貨を、産み出すことにしか、ならずに、それこそ、悪化の一途を、辿ることとなる。それでも、様々な魅力が、劣悪なる人間を、誘き寄せて、水準低下の勢いを、増し続ける。どうすれば、いいのか、と戸惑うこと頻りだが、かと言って、真っ当な意見を、書き連ね、誤った意見を、否定し続ける人が、実は、かなりの数に、上るのだが、彼らの行為が、功を奏することは、殆ど無い。これもまた、仕組みの問題で、ほんの一握りが、浄化を心がけても、その後を、追いかけるように、馬鹿げた意見を、山のように、投げ込む人の数は、まさに、多勢に無勢を、表すものとなる。で、別の形で、個人的に、管理できる媒体で、警告を、発する人も居るが、それも、焼け石に水、といった感しかない。ま、所詮、その程度のことが、仮想空間で、盛んに起きており、誰も、消し去ることが、できぬのだ。そんなことを、思いつつ、日々、表示される、愚かな意見を、無視し続ける。
何故、人は、他人の不幸話を、喜ぶのか。確かに、蜜の味、とも言われるが、それにしても、囀り界隈では、そんなことで、花盛りになり、皆が、競い合って、不幸の程度を、言い争う。多分、勝ち組負け組、の考えも、背景にあるのだろうが、蜜の味の逸話からは、もっと昔のことだ。
人間は、所詮、絶対的な指標を、持ち合わせておらず、また、その尺度で、物事を測ることも、できない。だから、相対的な比較が、単純で分かり易い、ものと見做され、せっせと、比較対象を、掘り出す訳だ。だが、その場合にも、より高いものを、見つけ出すより、低いものを、せっせと見つけ出し、その度合いを、競い合うことに、精を出すようだ。何故、と思うのは、庶民的な感覚ではなく、おそらく、高みから、眺める気分であり、底辺で、蠢くことを、意識する人間には、理解できそうにない。それより、自分より下の、人間を発見し、その悲惨さを、揶揄することこそが、第一の目標となり、それが、満足感を得る、唯一の方法となる。情けない、の一言で、片付けようと思えば、できるには違いないが、それもまた、何の意味も、持たないものだ。だったら、どうすれば、いいのだろうか。他人のことなど、目もくれず、ただ、自分の可能性を、広げることに、専念すればいい。簡単な、ことではないか。なのに、何故、囀り界隈には、そういう人が、出てこないのか。実は、確かに、そういう存在が、居るには居るのだ。にも拘らず、それが、目立たぬ存在に、終わっているのは、その他大勢が、挙って、不幸に目を向け、それぞれの成長を、無視し続けるからだ。こんな無駄は、他に無い、と思うのだが、世の中は、そんな風には、流れていない。兎にも角にも、上下関係を、詳らかにして、その上で、自分の立ち位置より、自分より下に、ある存在へと、目を向ける。それが、安心感に、繋がることで、自分を、安全な場所に、置くことができる。何とも言えぬ、違和感に、満ちた状態だが、当人達には、そうは見えない。それより、何より、不幸を見つけたい。ああ、どうでもいいことだ。
賃金は、何に対するものか。労働への対価、という理解が、一般的だろう。となると、学生の身分に対し、賃金が、支払われるとしたら、その労働とは、となる。確かに、学生実習の、補助として働く場合、それは、その学生には、自分の利益ではなく、他人の利益の為のものだ。
だから、TAと呼ばれる、立場においては、謝金が出されている。これは、海の向こうも、同様の仕組みだが、ずっと昔には、その為の原資がなく、タダ働き、と言われていた。これだけに、限ったことなら、何かを学ぶ過程で、収入を得ることも、当然に思える。だが、給与、賃金、という形で、一定の収入を、確保する話となると、別に思える。特に、博士課程の学生は、自身を磨き、将来への展望を、開く為に、日々研鑽しており、それは、あくまでも、自身の為でしかない。その過程で、手に入れた業績は、確かに、学界の、共通財産、時には、人類の、などと大袈裟な、表現も聞かれるが、その手のものとなるが、それでも、それに対する、報酬は、働き場所を、与えるという形でしか、支払われない。この考えの、何処がおかしいのか、最近の囀りでは、極端な意見のみが、共感を呼ぶだけで、真っ当な意見は、無視されたり、炎上したりして、非常識と、片付けられる。だが、教えを乞う間、誰が、得をするのか、と考えれば、その答えは、明白なもので、その人間自身でしかない。その結果として、この人物が、他を教える立場に、身を置けるように、なった時に、初めて、他人の利益、が出てくる訳だ。こういう流れと循環で、これまでの、大学の役割が、果たされてきたが、今は、随分と違う、考え方が、当然の如く、語られている。確かに、何故、指導教員の、指示の下に、研究を行うのに、タダ働きを、せねばならぬのか、と思うのだろうが、これを、労働と見ること自体が、誤りである、としか思えぬ。人から、何かを教わり、その過程で、鍛錬を積むのは、人材育成において、当然の事柄であり、それを経て、初めて、自立が可能となり、自身で考え、動くことが、できるようになる。その過程を、労働と見做し、対価を支払う、という考えには、納得できる筈がない。