先週も同じ言葉から始めたが、今回も。大衆迎合の典型は、減税だろう。これ程に、魅力的なものは無い、と思う人が、殆どだろうから、人気は続く。しかし、そこに潜む問題は、浅薄な人々には、理解できそうにない。一方で、財布の紐を、預かる省庁は、早速、反論を始めた。
その最たるものは、減収だろう。特に、お零れに与る、地方の首長は、即座に、悲鳴を上げ始めた。だが、その一方で、国政に転じた、ある大都市の首長は、自らの減税政策が、増収に繋がったと、持論を展開する。この絡繰りは、経済学者でも、解き明かせぬ、と言われる。風が吹けば、の話の如く、因果を語れば、何とでもなり、現実には、あらゆる可能性が、存在する、とさえ言われるからだ。だが、政を治めるには、不確定では、信頼が得られぬ。その代わりに、ご褒美を、ばら撒くことが、得策と言われるのは、こんな事情がある。ただ、現状の、愚かな人々相手に、そんなやり方だけでは、多分、愚民政治へと、転落しかねない。感染症騒動で、厳しい制限を課す為に、金をばら撒いた時、大衆は、貰えることを、当然と受け止め、その条件としての、義務には目もくれず、もっともっとと、要求し始めた。こういう心理に、危機感を覚える人には、例えば、女性経済評論家のように、増税した上で、低所得者に、補助金を与える制度を、提案する人も居た。この案は、騒動前に、出されたもので、あの為体から、危機を感じる以前に、大衆迎合の過ちを、指摘したものだ。権利のみを、訴えるのではなく、まず、義務を果たしてから、分相応の権利を、満足させるという話だが、筋の通った論理と思う。だが、朝三暮四宛らに、目の前の餌に、飛び付く大衆には、理解の及ばぬものだろう。もう、この勢いは、収まる筈もなく、破滅覚悟でも、断行せざる状況にある。とはいえ、別のばら撒きに、支障が出るのも、ほぼ確実だ。都合が悪くなってから、騙されたでは、もう遅い。どうなることやら。
情報の真偽が、不確かなままに、ある方向に、突っ走り始めた大衆は、民主主義の秤を、一方向に傾ける。それが、明らかとなるのは、結果が出た後であり、まるで、別ごとのように、何方が正しいかを、議論し始めるのだ。だが、決着はついており、それについては、戻せない。
そんなことを、今更、指摘しても始まらぬ。もう、列車は走り始め、行き先も、多分決まっている。それが、大衆が望んだことか、その時が来て、初めて理解できる。そこで、彼らが発する言葉は、「騙された!」だろうか。何をどう騙されたのか。今は、それを知る術は無い。確かに、民意は、ある決定を下した。それも、勢いを増すばかりの、皆の発言の高まりに、後押しされたもので、発言自体の正誤は、二の次と言うより、皆、考えもしなかった。多くの発言は、それ自体が、正しいことを、示している、と信じ込んだからだ。だが、時間が経つにつれ、様々な綻びが、見え始める。その多くは、論争の最中に、指摘されたことで、ここに来て、真偽を確かめる、ようなものではない。にも拘らず、手遅れの検証に、入り始めるのだ。その一方で、新たな体制により、事が始められる。そうなれば、論争そのものの、勝敗ではなく、皆が参加した、論争の的が、どんな姿だったかが、明らかとなる。でも、それでいいのだろうか。本来ならば、選ぶ期間中に、こういった議論は、正誤を含めて、結論を導かねばならない。その筈が、発言の的は、全く別の方に導かれ、その高まりが、大衆の意を決する。情報の正しさは、最中には、検証されることなく、皆が好む意見に、手を挙げるのだ。本当に、それでいいのか。このことに関して、歴史は、様々な事例を挙げ、皆が学ぶべきことを、示している筈だが、実際には、そうなっていない。だからこそ、真偽の議論が、事が終わってから、改めて、始められるのだ。さて、どんな成り行きとなるか。世界中で、そんなことが、始まっている。
世間では、何方が、信頼に値するかの、罵り合いが、喧しい。社会媒体とマスゴミは、所詮、同じ穴の狢に過ぎないが、何故だか、何方がとの議論に、結びついてしまうようだ。これは、世界的な傾向でもあり、特に、海の向こうは、前大統領、今回、選ばれたから、次期大統領だが、彼が騒動の源だ。
任期中に、不都合な情報を、遮断する為に、既存の情報源を、嘘吐きと断じ、自ら、夜中の情報発信に、精を出していた。だが、その内容が、公職にある立場からは、信じられぬ程に、偏ったもので、嘘や誤解が、満載だった結果、頼みの媒体から、追放される憂き目を見た。ただ、その後、例の天才的経営者に、買収された結果、元の席に戻っただけでなく、選挙にまで、勝利したのは、偶然の成り行きとは思えぬ。さて、こちらの状況も、ある意味、似たようなものだ。井戸端会議だったり、野次馬の噂話だったり、その程度のものが、認可を受けた情報源から、発信され続け、その一方で、社会媒体は、正反対の話を、実しやかに拡散する。何方が、信頼に値するか、と問われれば、今は、多くが、社会媒体と答える。民意という、選挙結果が、それを如実に表す、とする訳だ。だが、徐々に、落ち着きを取り戻し始めた、世間の状況は、一層の混迷を来し、互いの媒体内では、互いを、価値なしと断じている。でも、冷静になって、考えてみれば、何方も何方、情報の正誤は、個別に精査せねば、明らかにはならず、その上、上塗りされる内容は、まるで小説の如く、作り物でしかない。特に、選挙期間中に、真相を暴いたとされる、ある小政党の人間は、それを喧伝し、機に乗じて、敵対勢力を、徹底糾弾し続けた。結果を得て、我が意を得たり、とばかりに、浴びせかける姿勢を見るに、詐欺師の言説と、酷似しており、お里が知れる。要するに、こんな勝負は、元から、無意味であり、受け取る側が、情報の真偽を、判断するしかない。こんなこと、当たり前なのだが。
働きたいとか、大学に行きたいとか、そんな話が、時々取り上げられる。望みを叶えられるように、と仕組みを整えるのも、それと共に触れられる話題だ。その理由は、現状では、それぞれの望みを、叶えることができないからで、制度を設けて、支援をする動きだ。
でも、と思う人も多いだろう。働きたい人の、望みを叶えるのは、就労意欲を、高める為には、重要との主張も、話題と共に出てくるが、本当に、そうなのだろうか。説明し易いので、まずは、大学進学の話から、始めたいが、様々な事情から、進学を断念する話が、伝えられる。何かしらの、金銭的な支援を施せば、一気に解決するとして、無料化とか、返済不要の奨学金とか、そんな提案が、なされるようだが、その一方で、大学からは、正反対の事情が、伝えられている。それは、学生の多くが、勉学をせずに、単位を要求し、卒業したいとするもので、彼らは、単に資格を欲しがり、学問を修める、という本来の目的を、無視しているというものだ。こんな輩に、支援が必要と思う人は、全く居ないだろう。だとしたら、安易に、支援制度の整備を、論じることは、誤りとなりかねない。同様に、働きたいとする人の多くは、そのこと自体より、現金を手にしたい、という望みの方が、優先している。就労そのものの、意欲があるのではなく、ただ、何かしらに使う、金が欲しいということだ。その為には、所謂壁が邪魔で、折角働いても、手にするものが減るのは、御免蒙る、ということだろう。だとしたら、少子高齢化の課題が、高くなるばかりの時代に、制度を改正することで、就労意欲のある人間に、働いて貰い、労働力不足を、解決しようとする目論見は、成就する筈もない。不足する現場でも、ただ、数合わせの人数が、必要となる訳でもなく、上質の労働力が、必要となっているのだ。今回取り上げた二つの望みは、まさに、そういう意味で、ぴたりと重なる。人材を求める意味で、育成も、勧誘も、同様に、肝要なものだ。
その程度の人間、と書いてみたが、では、この所の、社会媒体とマスゴミの論争は、どうだろうか。誰が、その程度、に当たるのかは、ここでは、問題にせずに置く。だが、この論争は、民意と称する、選挙の結果として、何かが、断定されたのか。否、そんなことは無さそうだ。
というのも、審議をする場として、議会に設けられたものは、結論に至っておらず、その代わりとして、議会は、首長に対する辞職要求を、全会一致で決議し、そこから、新たな論争が始まった。それも、当初は、誰が代わりになるのか、という論点だった筈が、選挙の最中から、風向きが大きく代わり、前職が、再び選ばれることとなった。だから、審議された話は、冤罪に過ぎず、結論が出た、との論調が、全体に広がっている。しかし、審議の結論は、未だ出されておらず、その上、その場は裁判所と異なり、法的な権限を、有するものではない。だからこそ、議会が、別途決議を行い、結論を導いた、とされたのに、復活となったのは、野次馬から見れば、何が何やら、全く見えていない、としか言いようがない。では、虐めの事実は、あったのか、なかったのか、その結論は、再開される審議で、出されるのだろうか。これもまた、誰にも分からない。何しろ、議会自体は、一つの結論に至り、始末がついているのだ。なのに、再び、審議を始めるとなれば、何をどうするというのか。以前書いた時も、この手の組織で、審議すること自体、無意味ではないか、との考えがあった。本来なら、違法行為か否かを、裁判という形で、法的に判断するのが、妥当なのだろう。にも拘らず、百条がどうこうという、不思議な場が設けられ、そこでの判断を、尊重するという。だが、今回の結論は、まさに、尊重に値しないことを、突き付けた訳だ。だとしたら、同じものを、再開したとしても、何の役割も果たせず、無駄な時間が流れるだけだろう。だとしたら、民意とは何か。また、大元の事件の白黒は、如何なるものか。
最近、週を跨ぐことが増え、最新号を読むなら、問題は起きないが、週毎に分類して、その後に、読み返す場合には、少しの不便を、感じることが、増えるかもしれない。昨日の話も、暴力や虐めに関して、特に、言葉の遣り取りの場合は、録音することで、白黒はっきりさせる、ということだった。
ところが、これも、現実に起きるらしいが、昨日の最後に触れたように、録音したものが、改竄されたと、被害者が訴えることも、あるようだ。そうなると、証拠も何も、あったものではない。昔は、裁判でも、録音は、証拠として採用されない、という話があったようだが、今は、そうでもないらしい。だが、一方で、録音媒体は、その後の編集作業が、行えないものではなく、自在に、変更可能と言われる。だとしたら、やはり、確固たる証拠とは、言えなくなるのでは、と思える。その中、今や、生成人工知能が、録音記録を元に、恰も、本人が話したように、新たな内容を、捏造できるとされ、問題は、拗れている。映像に関しても、同様のことであり、あらゆる記録が、そういう対象となるとなれば、折角、録音したとしても、それ自体は、無駄だったとなりかねない。パンチも、一度だけだが、組織の長から、所謂ハラスメントを、直接受けたことがある。当然、録音媒体を持ち込み、その場の遣り取りは、全て記録した上で、文字起こしもした。何かあれば、と思ったからだが、その後、これも一度だけ、提出を要請された。同様に、対象となった人々が、訴えを起こそうとし、動き始めた時に、証拠の一つとして、求められたからだ。結局、その長は、失職することなく、任期を終えたようで、何かあったのかは、定かではない。だから、証拠となったかも、定かにはなっていない。だが、こういうことは、以前から、行われており、重要な手立ての一つとなる。当然、上に立つ人間も、同様であり、身を守る為に、実行する人も増えた。一方で、改竄とあるように、発言者本人が、記録されても、その内容を認めず、論争となる場合も。所詮、その程度の人間、との解釈が、社会の常かも知れぬが。
買収した本人だけでなく、彼が支持した候補者も、盛んに、嘘や偽情報を、書き立てる場として、信用ならん、と何度も指摘したが、公序良俗に反するものまで、もう、石ころばかりで、消し去るべき、と思うことも屡々だが、今の状況では、如何ともし難い、となるだろう。
それ程に、多くの人々が関わり、多くの人が、情報源と信じている、そんな社会媒体にも、拾い上げれば、役に立つかも、と思えるものも、ほんの偶だが、出会すことがある。先日見かけたのは、所謂、家庭内暴力に関するもので、肉体的な暴力は、歴然としたものだが、罵りや脅しなどの、言葉による、精神的な暴力には、判然としないものが多い、という話だった。それを明らかにする為に、夫婦喧嘩を、録音してはどうか、という助言を与える、という内容だが、被害者が、後になって聞いてみると、自分は、意味のないことを、叫び続けているのに対し、相手が、それを宥めている、という内容が多く、冷静になってみると、これは、暴力でもなく、単に、非論理的なことで、騒いでいるだけ、という結論に達し、その原因は、自分にある、と納得できる、という話だった。成る程、この手の話は、実は、虐めと呼ばれる行為に、頻繁に見られるもので、被害者の、被害妄想の一種、と結論づけるしかない、となる。確かに、虐めの証拠として、その内容を録音して、第三者にも、分かる形のものを、残すべき、という助言には、こんな意図も、ありそうに思える。その結果、被害者の訴えが、却下されたという事件は、表に出ないからこそ、ずっと多くあるに違いない。確かに、怒りに任せて、暴言を吐く場合もあるが、その一方で、冷静で論理的に、相手の問題を指摘したのに、それを、逆恨みするかの如く、精神的な暴力を受けた、と訴える場合も多い。立場が変われば、こんなことが、起きるのは、当然のことであり、それを、第三者が、一方の言い分を、鵜呑みにするのではなく、客観的に判断する材料として、話の内容を、後になってから、調べることには、重要な意味があるのだ。それでも、夫婦喧嘩の録音を、改竄したとして、認めない人間には、何を言っても、通じないのだが。
大衆迎合の典型が、今、政策論争に、見えている。減税は、最も大きな魅力だが、それにより、何がどう変わるのか、読めている人は、おそらく居ない。一方で、給与を増やすことで、次々に立ちはだかる壁が、話題となっているが、こちらは、別の問題をも、提起している。
税金の話は、公的な事柄に、必要最低限の予算を、確保することを、まず考えねばならない。にも拘らず、ただ減らすことだけを、掲げるのは、明らかに間違いだ。一方、それに関わることとして、壁の問題を、引き合いに出して、表向き、減税に繋がるとする、政策論争には、誤魔化し以外の、何も感じられない。その上に、次の壁として、紹介され始めたのは、年金に関する話だ。丁度、将来設計として、変革を提案する、監督官庁の動きに対し、この話が加わることで、状況が、拗れたように見える。だが、現実には、制度そのものへの理解が、全く無いことが、その原因であり、それはつまり、大衆が、如何に愚かか、を表しただけだ。こんな大衆を相手に、迎合するための策を、講じるのは、民主主義の欠陥を、露呈するものとなる。では、どこが、理解不足なのか。これは、報道にも、官庁にも、大きな責任がある。説明不足の上に、報道の得意とする、煽りが加わり、真意が伝わらないのは、単に、受け手が愚か、というのが、理由でないことが分かる。では、年金の話の、どこが説明不足か。説明にあるように、納付金は、雇用者と被雇用者で、折半される。働く人にとり、自分で貯蓄するより、倍の額が、公的年金制度に、注ぎ込まれて、それが老後の資金となる。こんなお得な話はない、と思わないのは、何故だろう。多くの意見は、そんなことより、今、増えただけの額を、手にしたいとする。だが、それは、殆どが無駄遣いされ、貯蓄にさえ回らず、投資などはあり得ない。なのに、今欲しい、と願うのは、朝三暮四と同じ、どころか、損をしているだけだ。確かに、制度への不信は、大きいだろうが、それより、信用ならぬのは、自身であることに、気付かぬ愚かさは、迎合を歓迎する。
昨日取り上げた問題は、無料サーバーの管理人の指摘で、いとも容易く解決した。おそらく、cgiと呼ばれる、サーバーで動くソフトを、動かしている大元のソフトを、サーバー更新の際に、新たにした為と思うが、素人には、皆目見当が付かない。何れにしても、目出度である。
さて、そこで改めて、検索してみたが、「移民」という語では、大元のものには、到達できなかった。その代わりに、表示されたものにも、何種類かあり、この際、紹介しておこうと思う。昨日の話題に、関係するものは、これだろう。多分、今回復活を果たした、あの人物が、提案した極論に対して、意見を述べたのだと思う。その後の展開は、改めて書く必要は無いが、今後再び、同じ問題が、出てくることは必至だ。それ以外にも、多くが表示されたのは、独り言で、好んで取り上げる話題、だからだろう。もう一つは、労働力の問題として、この政策を、どう扱うかについて、論じたものだ。こちらは、少子高齢化を、一大問題として、掲げている、この国にとっても、重要な問題だが、実は、こういう方向に、進むべきとは思っていない。鎖国の時代に戻れ、とは言わないものの、他国からの労働力に、頼らずとも成り立つ、そんな仕組みを、真剣に考える必要がある、と思っている。となると、移民に頼る計画は、一概に、得策とは言えない、となるだろう。しかし、労働力不足に、悩む人々からは、既に、大きな悲鳴が届いている。その解決こそ、喫緊の課題とされ、方策の一つとして、移民歓迎の声が、上がっているのだ。しかし、労働力不足の反面で、多くの人々が、職を得られず、閉じ籠った生活を、続けていることに、目が向けられないのは、何故だろうか。安価な労働力、という意味での、移民歓迎は、上に挙げた、過去の独り言の、論点なのだが、そうすべきは、競争力の維持との、観点によるものであり、自給自足を基本とすれば、的外れでしかない。根本の考え方を、改める必要があるのだ。
以前、書いた気がするのだが、何時のことか、思い出せない。その上、独り言の検索が、動かなくなってしまった。多分、この間のサーバー交換から、システム変更されて、全体が動かなくなったことがあり、同じ原因と思われるが、その時の対処法は、巧く働かなかった。
そちらの解決は、今後に行うこととし、今は、今日の独り言を、書いておこうと思う。話題は、移民に関することで、この所話題としている、大衆迎合主義とも、関係している。移民排斥について、世界的な風潮となりつつあり、今後も続くものと思える。海の向こうでも、不法移民の解決について、選挙の争点ともなっていたが、あの国の繁栄が、移民により、支えられているという話を、以前書いたような気がするのだ。その時の話題は、世界各地で、教育問題が起き始め、その中心が、子供達が恵まれた環境で、現状維持を望むだけで、打破を目指さず、結果として、学力低下などの問題が、顕在化している、というものだった。その際に、海の向こうだけは、例外となっており、その理由は、移民の多さにある、としたと記憶している。その後、世界各地で、移民の増加が、大問題となり、各国は、増え続ける移民を、それぞれの国に、送り返そうとする政策を、作り始めた。極右がその代表らしいが、難民と移民の違いを始め、多くの未解決問題が、ある中での、極端な動きには、強い違和感を覚える。特に、植民地時代から、多くの人々が、移り住んできた歴史をもつ国は、自分の歴史と重ねて、どう考えるのか、という問題があると思う。このことは、合法違法に関わらず、夢と希望を抱き、成功の為の努力を、重ねようとする意欲こそが、国の繁栄を築くのに、不可欠なものと考えれば、今の状況は、由々しきものと思え、別の解決策を、講じる必要があると思える。と言っても、現政権のやり方が、正しいとはとても思えず、両極端ではなく、その間にある筈の、正解の一つを、見つける必要があると思う。
衆愚政治、と書くと、間違いだとされる。確かに、有識者の見解からは、衆愚とは、民主主義の果ての、失敗例を指すものであり、今流行りのものとは、明らかに異なる、とある。同じく、大衆を対象とする、民主主義の一例で、問題とされるのは、大衆迎合主義なのだそうな。
何れにしても、愚かなのは誰か、分かり切ったことであり、そこが、批判の的となる。だからこそ、大衆迎合も衆愚も、結果的には同じで、考えるべきとされるのだ。更に、情報発信が、大衆の手にあり、真偽が、定かでないものが、巷に溢れる中では、民衆の意見が、権力をも、上回る力を、発揮し始めている。一歩間違えれば、賢さよりも、愚かさが、大きくなりかねぬ状況の中、政治は、進むべき道を、見失いかけており、世界的な危機にある、とさえ言われる。独裁者が、大衆に魅力的な言説を、展開することで、権力を、意のままに扱うのは、歴史を振り返れば、数多の例を見ることができるが、現状は、その最中かすぐ近くに、あるとさえ思える。ただ、この国は、そんな時代でも、戦争に突入した、一種の狂気が、蔓延するような事態にはなく、一見、冷静な状況に、あるように思える。だが、政治の不安定が、始まる中、さて何方に向かうのか、民衆は、魅力的と思える、政策ばかりに、目を奪われているのではないか。例えば、年金についても、制度の変更が叫ばれるが、支給年齢に達した時、制度が、継続しているかとの懸念が、払拭されることはない。その中、制度継続の為にも、徴収額や納付期間を、増す提案がなされると、すぐに、反対の声が上がる。だが、税金と折半で、保たれる制度を、保持する為には、人口減少の中では、致し方ないように思える。更に、株式投資への、課税制度の変更で、個人資産運用への、配分を高めるのならば、年金への依存は、下げられるとも思える。魅力的なものは、歓迎するが、そうでないものは、との考えには、愚かという文字が、浮かぶのだが。
歴史上も、また今この時も、成功を手にする為には、それ相応の努力が、必要と言われる。特に、大成功を収める為には、単に、才能や運が必要なだけでなく、その上に、地道で多大な努力が、必要となると言われる。だが、社会全体から見れば、どうだろうか。そんな努力は、御免との声が聞こえる。
成功を手にしたい、と願う人が、殆どだろうが、その一方で、何かしらの努力を、惜しむ人々は、数え切れぬ程に居る。この違いは、何処から来るのか。一つには、以前も書いたが、やればできる、という根拠無き信念が、影響する場合がある。何の準備もせず、何の努力もなく、世界新記録を出せるとか、大金持ちになれるとか、そんな夢にもならないことを、自信たっぷりに語る若者が居る。試しに、やってみたら、と声を掛けると、途端に黙り込んだり、あれこれ、言い訳を並べ始める。要するに、何もしたくないのだ。その一方で、他人より大きな幸せを、手に入れたいと願う。確かに、才能と運だけで、手に入れられる人も、居るだろうが、大多数は、そんな運も、そんな才能も、持ち合わせていない。運も、実力のうち、と話す人々は、それを裏付けられるだけの、努力をした上で、そんなことを思うが、努力をしたことの無い人には、そんな実情など、思いもよらぬことだろう。一方で、努力と言っても、人それぞれであり、四六時中、重ねる人も居れば、ちょっとしたことで、済ませる人も居る。と言っても、後者とて、何もしない訳ではなく、何かしらのことを、行っている。ただ、人に自慢できる程の、時間と手間を、掛けているか否かは、別の話だろう。隠れて、努力する人も居れば、ほんの僅かな時間だけ、何かしらを行う人も居る。だが、何もせずに、やればできるとは、やはり、馬鹿げた発言でしかない。それを平気で、語る人々には、何の成果もついてこない。で、結果として、成功を手にできず、社会や他人の責任、と叫ぶのが精々だ。そうならぬ為に、何かをせねば、ならない。
数字の語呂合わせは、歴史を覚える時に、屡々使ったことと思う。数字を覚えるのは、人により得手不得手があるようで、それを克服する為の、方法の一つとして、こんなやり方がある。学校教育で、生き延びてきた語呂合わせは、覚え易さという意味があるのだろう。
一方で、日付についても、同じような遊びが、様々に行われている。例えば、鼻の日とは、と聞かれれば、多くの人が、即答できる。また、今月の22日についても、よく聞かれるものがある。では、1111とは、何を指すのか。この国ではなく、隣の大国で、いつ頃からか、盛んに持て囃されているが、独身の日なのだそうな。1は石ころを表し、それが並ぶ姿から、という解釈のようだが、はて、そんなものか。こんな日に、大売り出しを始めたのは、彼の国が、他国に追い付け追い越せ、とばかりに、成長を誇っていた頃だが、今は、翳りが見え始めている。1日の売り上げが、とんでもない数字と、なっていた頃には、この機に乗じて、売り込もうとばかりに、国内外を問わず、様々な売り込みが、行われていた。こちらからも、多くの企業が、参加していたのは、ついこの間のようだが、そろそろ、勢いを失い、別の販路の開拓に、乗り出し始めたようだ。報道では、不動産不況が、端緒となったと言われるが、どうだろうか。数字として、そこに、顕著な変化が現れたのは、事実なのだろうが、そこに至る道筋に、どんな変化の兆しが、現れていたかについては、おそらく、分析が行われることなく、このまま、全てが忘れ去られるだろう。この国も、嘗ては、経済における栄華を、誇っていたが、よく似た現象として知られる、不動産の泡が、弾け始めると、途端に、他の経済状況まで、勢いを失い、その中で、企業は、窮地に追い込まれた。今は、その頃に比べると、ずっとましな状況だろうが、にしても、一度失われた自信を、取り戻すまでには、到達していないようだ。何かが、足りないのだろうが、何が?
昨日のような例に対し、何か対策はあるのか。はっきり言えば、何も無い。気を付ければいい、誤解されないように、などと言う人も居るが、長く生きてきた経験からは、どれも無駄と思える。叱責するにしても、噛んで含めるように、一つひとつ理解させて、と言う人も。
確かに、人との接し方によって、誤解の程度は、変わるかも知れぬ。だが、どんな配慮をしても、自分中心の人間には、通じないことが多い。だから、パンチの場合、あっさりと諦める。それにより、自分の立場が、危うくなることも、多々あった。時に、職を失いかけたことも、何度かある。それほどの恨みとは、一体どんなものか、と経験の無い人は、思うだろう。だが、他人から見れば、何と言うこともない、ちょっとした遣り取りが、ある人種には、大きな影響を及ぼす。こちらは、飽く迄、論理に基づき、正論を吐くのみだが、それが、気に障るのだろう。こんな人間に、まともに付き合う必要は、無いと思う。それに、利害を考えれば、確かに、多大の害を被ることも、度々あるのだが、それとて、世間から見れば、結局は、狭量な人間による、横暴としか見えぬ。何とか、切り抜けてきたので、この程度と思えるが、本当に、職を奪われたり、様々な妨害を受けていたら、こんな悠長なことは、言えないだろう。こんな窮地に陥り、精神を病んでしまえば、結局、虐めとして訴え、何かしらの反撃に、出る必要がある。ただ、そこまでに至ったことは、運良く無かった。だから、こんなことを、他人事のように、書いているのだ。だが、こういう害悪は、本来ならば、排除する必要があり、出来ることなら、当事者に、改善を求めるべきと思う。でも、その手立ては、功を奏することは無く、ただ、恨みの大きさを、増すだけとなるだろう。だったら、そんな人間は、居ないものとして、知らぬふりを続けるのが、得策に思える。慮る、という言葉があるが、それの出来ない人間は、相手をする価値が無いから。
恨みを、買ったことがあるだろうか。流石に、無い、という人は居ないだろう。だが、その内容は、様々ではないか。例えば、虐めの結果として、受けた側から、恨まれることは、多々あると思う。でも、その一方で、良かれと思っての行為の結果、逆恨みをされた、ということも。
何事も、論理的に、という信念で動いていると、正論を、打つけることが、殆どとなる。その中で、当然と思う行動が、相手によっては、全く異なる解釈がされる。その結果、恨まれることになるのは、仕方ない部分もある。だが、そんな瑣事を、相手にしても、詮無いこととなる。だから、ほぼ全てを、無視することになるが、それが、恨む相手には、怒りを増すことへと、繋がるようだ。恨んだ相手は、兎に角、何とかして、こちらを貶めようと、躍起になる。こちらは、知ったことではないから、結局は、裏で動いた結果として、逆恨みの果ての、害を被ることとなる。虐めの論理では、正当な反応として、評価される場合もあるが、それは、第三者を巻き込み、虐めが、確かにあったと、結論された場合に限る。ただ、自分の主張のみを、誰彼なく、言い伝えた上で、どんな思惑からか、味方になってくれた人と、裏で画策するのでは、それは、正当とは言い難く、不当行為としかならない。特に、こういう人間に限って、他人が受けた、似たような行為を、全く理解できない人が多く、結局は、自己中心的な考え方しか、できないのだ。今の時代、こういう人種に対して、人の反応は、様々なのだが、多くは、触らぬ神に、という具合に、賛同した振りだけで、そのまま、距離を置くだけだ。ごく最近の例では、業務時間が迫るのに、何の連絡もせず、他の関係者が、やきもきする中、準備をやっと整え、始まるという時間に、謝りながらやってきた、ということだった。こちらは、彼が担当すべき業務に、関わるだけの時間がなく、叱責した所、それが、皆の前での恥となった、という訳だ。誰が悪いのか、よりも、皆の前での叱責が、恥となったことに、激怒したらしい。相手にする価値が、無いとしか言いようがない。
以前から、酷いものとしか、思っていないが、ここ数ヶ月、その酷さが、増しているのでは、と思うことが多い。社会媒体の中でも、匿名性があり、身勝手な発言が、掲げられることの多い、囀りについては、経営者の交代以来、発言の自由の保証と、内容の精査の希薄さが、目立つ。
近年、社会媒体の影響力は、増すばかりだが、その一方で、被害を訴える声も、高まり続けている。偽情報は勿論のこと、差別的な発言も、一層目立っており、その中から、虐めや虐待との関連も、強まっているとの、懸念の声が上がる。自由とは、自らの権利を、主張するものである、と思い込んでいる、著名経営者は、持論を展開するばかりでなく、制限の緩和により、真の自由を、人民に与えることに、主眼を置いているようだ。だが、何の批判も無く、ただの言いたい放題となると、当然のことながら、害悪を感じる人の数も、増えるものだ。元々、海の向こうから持ち込まれた、虐めの定義に関する、新たな考え方は、加害者ではなく、受ける側の感覚を、第一とするもので、こういう場面が増えれば、当然の如く、被害が増えることとなる。先日も、虐めなどと呼ばず、犯罪用語を使うべき、との意見を掲げたものがあったが、暴力や脅しなどに、関連するものならば、当然と思うが、現実の虐めで、最も多く、最も深刻と見られるのは、無視や強い視線など、直接的、物理的暴力ではなく、心理的なものが、多いと言われる中、こんな暴論を、自慢げに書き込むなど、どうしたものかと思う。一方で、心理的なものについては、その前に書いたように、受け取り方で決まる、となれば、その扱いは、困難を極めるだろう。実際には、多いと言っても、その割合は、それ程でもなく、結局、こういう問題の解決には、大多数を巻き込むよりも、少数の問題を、どう取り扱うかが、肝心なのだと思う。学校教育での問題も、集団を対象とするだけに、少数を、殊更に強調しては、道を誤ることになるのでは。
映画を観てきた。選挙が近付くにつれ、悪夢の再現か、と懸念した向きが、制作したと伝えられる。分断の果てに、南と北が分かれて戦った、あの内戦以来のものが、起きたという設定だ。まさに、海の向こうの選挙が、行われる最中に、観に行ったのは、偶然ではない。
それにしても、戦闘の光景が、前面に押し出され、銃撃や爆発の音が、大音響で、館内に鳴り響くのは、とても快適とは言えない状況で、どっと疲れた。想定は、空想の世界であり、現実は一つも無い、と言われるが、映し出される光景は、現実を基にしたもので、絵空事とは、とても思えぬ状況だった。最新技術で、どこからが、絵に描いたものか、という区別は、全くつかないが、やはり、製作者としては、戦闘の光景を始め、ほぼ全てが、創作でしかない、と言うに違いない。しかし、時期が時期だけに、憶測が飛んだのも、当然のことだ。海の向こうでは、半年以上前の公開で、おそらく、政党内の候補者選びが、佳境に達していた頃だろうし、こちらでは、つい先月の初めで、まさに、最終選挙が、佳境に入っていた頃だ。とはいえ、これを、良識による作品、と見るかどうかは、人それぞれだろう。但し、全くの絵空事、と思えないのは、劇中で、この大統領が、3期目に入った所、と設定されたことで、これ自体が、憲法違反となる。しかし、返り咲きを目論む候補者は、その破天荒ぶりから、連続でなければ、と言い出しかねない、と思われたらしく、そこにも、現実の反映が、ありそうにさえ思える。ただ、所詮は空想映画に過ぎず、何かしらの警鐘を鳴らす、と評されたとしても、現実との乖離は、否めないだろう。鑑賞後の感想は、まあ、そんなものか、という程度であり、極端にも思える戦闘光景も、現実感を、喪失させてしまった、とさえ思えてくる。平和な時代が続き、平和な地域が維持される中、分断が起きるのは、こんな背景によるものか。だが、議事堂占拠は、つい4年前の現実だ。
おそらく、皆に当てはまると思うが、最近更に、塵メール、というより、迷惑メール、あるいは、詐欺メール、と直接的に呼んだ方が、いいような気もするが、そんなものが、矢鱈に送られてくる。多くは、銀行やカード決済に関する話で、所謂、フィッシング、と言われるものだ。
フィッシングと言えば、所謂魚釣りを意味する、fishingを連想するが、ここでは、phishingと綴られ、造語と言われる。魚釣りの意味と、洗練の意味を、併せ持つ言葉だとされる。まあ、そんなことは、どうでもいいだろう。職場のアドレスも、無料のアドレスも、兎に角、毎日どんどんと、送りつけられるものが、迷惑の箱に、入れられていく。以前なら、数える程だったが、今や、表示自体が、枠を飛び出しかねず、それも、同じ銀行やカード会社から、と偽ったもので、懲りもせず、としか表現しようがない。その上、表示された件名には、見たことのない漢字が、使われており、以前なら、隣の大国からのもの、と断言できた。ただ、これについても、今や、状況は複雑となっており、一概に、あの国の責任、とは言い難い。元々、装置自体の進歩が、著しくなっており、自動翻訳もそうだが、拙い文章でさえ、修正が入るようになった、とさえ言われる。確かに、生成人工知能と呼ばれる仕組みが、登場して以来、この傾向は、一層強まるばかりで、早晩、本国人が、真面目に記した文書と、何ら変わりのないものが、登場するに違いない。だとしたら、自衛の手段は、無くなるのだろうか。そんなことはない。基本的には、対面でしか、問われることのない情報を、こんな怪しい仕組みの中で、尋ねてくるのだから、そこさえ押さえれば、どうということはない筈だ。だが、それとて、どう変貌を遂げるのか、予想もつかないばかりか、近年は、利便性の追求から、電子情報による、取引が主体となりつつあり、区別は、一層難しくなる。触らぬ神に祟りなし、と思えば、そんなことに関わらぬのが、一番だろう。
連休中に、出かけた人も、多かったのではないか。ただ、今回は、出鼻を挫かれた、という人も居ただろう。近年は、台風の季節となると、暴風雨への警戒から、公共交通機関が、運休となることも、あるようになったが、今回は、それとは違った状況のようだ。予定外は、同じだが。
台風と言えば、当てはまるのだが、勢力を弱めた後で、通常のように、熱帯低気圧ではなく、温帯低気圧となったものが、前線を伴う形で、各地に大雨を降らせた。特に、西の方の被害が、大きくなったようで、新幹線などの交通機関の運休や、高速道路の閉鎖も、起きたとある。出鼻と書いたのは、まさに、連休の初日であり、移動を始めた時に起きたので、遠出を控える羽目に、という人も居たのではないか。計画して、被害を減らす、と言われても、利用予定の人間には、どの道甚大な被害、となる訳だが、今回は、予想を上回る降雨量で、多くの被害に繋がったようだ。公共交通機関は、どうにもならない、という状況に陥り、四苦八苦させられたが、それでも、目的地に着ければ、まだましだろう。そうもいかず、遠出中止となれば、楽しみの旅行も、台無しとなる。とは言え、日帰りなどなら、回復した天気で、楽しんだ人も多い。だが、これもまた、いつもと同じで、車で出掛ければ、行きも帰りも、渋滞に巻き込まれ、という人も少なくない。特に、普段と違う経路で、出掛けるとなれば、不慣れな道で、戸惑った上に、事故に巻き込まれ、という場合もある。渋滞も、単に、交通量が増えたから、だけでなく、事故が原因で、となる。その程度のことは、予想がつくのに、と思うのは、その通りかもだが、実際には、こんなことは、悲観的にではなく、楽観的に考え、自分には当てはまらない、と思うのも当たり前、巻き込まれてから、こんな筈では、となる。だったら、不慣れな道だからこそ、いつにも増して、注意を怠らず、とすればいいのでは、と思う。簡単ではないのだが。
自信を喪失し、自傷を繰り返し、隠れ住むようになる。そんな人々について、報道は、繰り返し伝えるが、その一方で、根拠の無い自信過剰から、別の問題を生じる人が、居るにも関わらず、そちらについては、殆ど伝えられず、放置されている。何方も不幸に違いなく、助けを必要とする。
だが、前者の物語に対し、後者の物語は、多くの人々にとり、理解不能でしかなく、手の施しようが無い、とまで言われる。何方にしても、割合としては、大したことはなく、社会としては、無視するのが、安易な選択となる。だが、家族にとっては、何方も、重大な問題でしかない。だとしたら、どうしたらいいのか。答えが、簡単に引き出せるとは、とても思えない。こんな話題が、出される度に、識者が登場して、問題の深刻さと共に、解決法が披露されるが、何十年も、この状況が続くことから、これらの方法が、何の解決にも繋がらず、結果的に、放置に結びついていることが、分かっている。そんな理解は、実は、何の役にも立たず、新たな発想が、導き出されることもない。とは言え、当事者とその家族にとり、何かしらの道筋を、見つけ出すことが、喫緊の課題であり、試行錯誤が続けられる。教育についても、こういった問題を抱える人についても、専門家の分析は、的外れの場合が多く、結果的には、無駄でしかないのは、何故なのだろうか。彼らの思い込みは、全く別の方に向いており、問題の核心に、近づく気配は、全く見えてこない。だとしても、放置するしかない状況は、どうしたものだろうか、実は、様々な問題の多くは、小さな割合でしかなく、社会全体で、解決せねばならない、という状況にはない。だったら、知らぬふりでも、問題は大きくならない、としていいのだろうか。そこにこそ、問題の本質がある。少数の異端の人にとり、問題が如何に大きくとも、その他大勢には、何の関係もない。だから、そのまま、放置しておけば、としていいのだろうか。面倒には、違いないが。
自分自身に関して、どう評価するのか。重要な問題として、何度も取り上げられるが、唯一の正しい答え、がある訳ではない。一方で、最近の風潮で、気になるのは、自信過剰というか、過信というか、どんな表現が、当てはまるのか分からないが、兎に角、やればできる、という態度だ。
自信が無くて、何もできない、という人が居る一方で、何でもできる、と信じ込む人が居るのは、何故なのだろう。それも、実際に、その事柄をやることは無く、どんな結果が出るかについて、推測するしかない状況で、他のことでも、何の成果も得られなかった人が、矢鱈に、やればできる、と主張する心情は、全く理解できない。その上、自分が、それをやらない理由で、誰もやらせてくれない、とか、機会が与えられない、とか、そんな事情を、付け加えるのを眺めると、この人物は、一体全体、何を言いたいのか、と思ってしまう。自信を喪失して、精神を病む人が居る一方で、こういう自信過剰に出会うと、不思議さばかりが、表面化してしまう。ただ、彼らの自信は、実体が無いだけに、具現化することなく、いつの間にか、忘れ去られる。簡単に言えば、付き合う必要も無く、放置すればいいのだろうが、実は、こういう人々も、精神を病んでいる、のではないかと思う。どんな助言も、頑固ささえ漂う、強固な自信には、何の役にも立たない。仕方なく、叱ったりするが、それは、殆ど逆効果だろう。その叱責も、やらせてくれない、理由の一つとなり、彼らの自信は、揺らぐことなく、続くだけだ。一番の効果は、やらせることで、現れるのだが、これとても、幼稚な精神構造に対しては、別の理由となって、その後の言い訳に、用いられるだけだ。どうにもならぬ、とはその通りであり、自身で気付くまで、待つしかないだろう。こういう人種が、増えたのは、最近のことで、そこに、何らかの理由が、ありそうに思える。まあ、何度も書く必要は、無いだろうけれども。