パンチの独り言
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6月6日(火)

 老後の備えは、十分だろうか。そんな不安に、襲われる人が、多いと言われる。確かに、年金が破綻する、という話は、何度も取り沙汰され、真偽の程は、どうにしろ、不安を煽る材料に、事欠かない。政府は、盛んに、保証すると言うが、政治家の言葉には、嘘が多過ぎるのだ。
 破綻の話は、確かに、作り話が多く、不確かな数値や、いい加減な見込みが、並ぶばかりで、最近の報道の為体が、如実に、現れている。一方、政府の試算から、不安を煽る意見も、急増したようだ。老夫婦の家庭で、月に、25万円の生活費が、必要とのことだ。だが、多く見積もっても、年金は、21万円しか、支給されず、足らない分は、どうするのか、という意見だ。でも、退職を迎える頃に、預貯金も、株などの資産も、一切保有せず、その日暮らしを、しようとする人は、殆ど居ない。時には、住宅ローンの残金で、借金生活を、余儀なくされる場合も、あるのだろうが、それはそれで、無謀な計画の末、と見るべきだろう。では、月々の不足分、4万円は、どの位積み上がるのか。年間、50万円弱で、老後が、今、取り沙汰されるように、人生百年として、40年近くあれば、確かに、二千万円必要、となる。それだけの、備えをしておけば、十分とは、簡単には、言えないだろうが、少なくとも、その程度の額を、備える必要がある、という訳だ。これが、政府の試算として、示されたものだが、この程度の額は、どの程度の人々が、用意しているだろう。預貯金に関しては、実は、それ程でもない、との調査が、あったような気がする。では、他の資産は、となる訳だが、このサイトが、当初、泡が弾けた後に、証券社員を、応援しよう、と始められたことから、元々は、多くの参加者は、株などの金融資産に、興味を持っていた。今は、彼らの姿は、見えていないが、さて、国民全体として、どうだろうか。優遇措置が、始まったことから、当時よりは、増加したには違いないが、さて、どの程度か。

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6月5日(月)

 相場が、活況を、呈している。理由や原因は、様々なのだろうが、結果として、暗い時代が、過ぎたかの如く、見える程だ。その中、証券社員達は、どんな動きを、しているのだろう。以前なら、悪い景気で、株に手を出すのは、御免蒙る、との返事が、出ていたのだろうが。
 相場の格言には、色々あるけれど、如何に、先を読むか、という点と、動きの逆を、行うという点が、強調される。上げてきた時に、手を出すのは、下がり始めを、掴むだけと言われるし、下がっている時に、手を出すのは、何処が底かが、知れないと言われる。その一方で、上げた時こそ、売り時であり、下げた時は、買い時とも言われる。相場では、安い時に買い、高い時に売る、のが鉄則なのだろうが、そう簡単には、事は運ばない。狼狽、などと言われるように、動きに惑わされ、失敗を繰り返し、塩漬け、と言われるように、売り時を、逸したことで、放置するしかない、との判断を下す。損切りなどという言葉も、気軽に使える程、心穏やかには、居られないものだし、売り抜けなどと、思い通りに、進まぬものだ。だが、それにしても、この活況は、どうしたものか。確かに、感染騒動で、金が市中に、ばら撒かれた結果、余ったものは、市場へと流入した。そこに、一部の投資家が、出遅れ感の強い、こちらの市場に、目を向けたことが、理由とも言われるが、真偽の程は、定かではない。とは言え、こういう動きの中、興味深いと思ったのは、早朝の経済番組で、毎回、悲観的な見方に、終始する証券社員が、今回は、上げ続ける、との見方を示したことだ。逆張りとか、そんな雰囲気が、無きにしも非ずだが、何の根拠か、詳細は不明だが、こういう動きこそが、注目すべきこと、かも知れぬ。とは言え、相場は水物、軽軽に動くと、また、煮え湯を、飲まされかねない。日々の動きを、収益に繋げる投資家達は、激しい動きを、歓迎だろうが、さて、どうなるのだろうか。

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6月4日(日)

 子供を増やす策は、元々、地域を活性化する、ということで、ある意味、人気取りのものだった。子育てへの補助金や、医療費補助、時には、全額補助まで、至れり尽くせり、の感があった。だが、それが、国を挙げて、となると、事情は一変する。平等感が、最優先となる。
 しかし、地方が、過疎化を、解消する為として、断行した策も、子供達が、成人するに従い、結果が、現れてきた。子育てが、働くことへと、転換するからだ。ただ、その前に、もう一つの段階が、あった。高等教育を、如何に施すか、という点だ。義務教育は、全国津々浦々で、実施できるように、整備されてきたが、高校となると、少し事情が変わる。更に、それが、大学となれば、結果が見えている。多くの子達が、巣立ちをして、都会へと向かう。そこまでの手当ては、弱小自治体には、不可能だ。それでも、卒業後に、戻るあてがあれば、成功しただろう。だが、一次産業を除き、その他の産業では、働く場は、人口密集地が、殆どとなる。器の大きさが、結局は、問題となるのだ。一方、国を挙げての策は、どうだろうか。今挙げたような、問題の数々に、変化は殆ど無い。しかし、人材育成としての、学校教育においては、やはり、大学教育が、壁となるようだ。そこで、一部からは、無償化の声が、上がっている。だが、平等という意味での、機会均等を、目指すとしても、所詮、進学率は、6割程度であり、恩恵を受けるのは、一部に過ぎない。その上、現状では、受ける側にも、授ける側にも、問題が、山程あるから、おいそれと、試す訳にもいくまい。義務教育には、かなりの税金が、注ぎ込まれており、それは、制度上、当然のことだが、高校以降に関しては、人気取りとしても、安易なことは、すべきではない。その代わり、環境整備に、注力すべきで、授ける側の、質の向上が、望まれる。ばら撒くにしても、何の当ても無しに、ではなく、育成の効果を、目指さねばならぬ。

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6月3日(土)

 高齢化の問題は、もしかしたら、自然に解決、ということになるかも、と書いてみた。何れにしても、注視する必要があり、その変化に応じて、対策を講じるべきで、ただ、矢鱈と心配するのは、何の意味も無い。では、少子化については、どうだろうか。こちらも、異常な盛り上がりだ。
 子供の数が、減り続けているが、その原因は何か。この疑問に対する、答えは、様々にあるだろう。以前にも書いたが、先進国の中で、少子化が、深刻と言われ始めたのは、四半世紀程前か、婚姻制度が、異なることから、私生児も含め、婚外子となることが、多いと言われた国だ。だが、その後、出生率の低下は、食い止められ、今は、問題とされず、この国や隣国の方が、遥かに深刻、と言われている。何が、問題を解決したのか、調べてみれば、いいと思うが、そちらの話題は、とんと聞くことが無い。こちらのように、結婚自体を、問題の端緒と見るのは、制度の違いから、的外れだろう。では、子供を持つ家庭に対する、公的支援が、重要なのだろうか。それにしても、支援にも、金銭的なものと、環境的なものがあり、前者は、今盛んに、議論されるが、平等感をはじめとして、多くの問題が、山積している。与えても、想定通りの使途が、実現されると限らず、溝に捨てるのでは、との懸念もあるようだ。後者については、これまでに、かなり整備が進んだ、と言われているが、どうだろう。こちらの方が、遥かに深刻で、社会制度と合わせて、十分に検討した上で、進めて欲しいものだ。更に、少子化が、人材確保に、不可欠との意見に、賛同する声も、大きいようだが、それにしては、成人したら、そこでお終い、となるのは、如何なものか。人材育成に、不可欠なのは、教育という点で、合意は得られているが、何処までの教育か、という点で、意見が分かれる。今、検討されるのは、成人前まで、つまり、初等中等教育の期間、となっている。人材は、それで、育めるのか、怪しいと思う。

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6月2日(金)

 少子高齢化が、深刻な問題となっている。これは、本当だろうか。人口比率を見れば、年齢層による割合の、時代による変化が、一目瞭然となる。その通り、子供の数は減り、老人の数は、増え続けている。老人については、二つの要因が、重なったものだが、分かるだろうか。
 ここでは、まず、老人の問題について、扱ってみたい。二つの要因とは、寿命が延びたことと、所謂、団塊の世代という、ある世代の人口比率が、著しく高いこと、その二つだろう。前者は、この国独自の事情もあるが、医療環境が、整うことと合わせて、医薬の進歩が、大きな影響を、及ぼしている。とは言え、限界は、あるものと言われ、その延びについても、鈍化が、始まっているとも言われる。生き物である以上、寿命があるのは、摂理であり、誰も、避けることは、できないのだ。一方、団塊の世代は、どうだろうか。敗戦後、急激に伸びた、出生率は、まだ、医療体制が、整わない時代でも、子供の数を、急激に増した。その結果、学校では、教室が足らなくなり、進学率の向上も合わせ、受験戦争なる言葉が、登場する程、激化した、と言われる。彼らの全てが、そろそろ、後期高齢者となり、老人施設の整備が、急がれている。だが、それとて、頂点を過ぎれば、後は、下り坂となる。結局、慌てて、整備された施設は、余るようになり、必要な人員数も、減り始めるだろう。ここに、高齢化の問題の、核心があると思うが、どうだろうか。彼らの世代は、常に、競争激化に、見舞われてきたので、今回の問題も、需要と供給が、どう保たれるかが、最大の問題となっていた。しかし、そこから先は、徐々に、人口比率が、下がる訳で、その後の展開を、どう進めるかが、次の問題となる。つまり、負担が増え続ける、と盛んに訴える話のうち、一部は、自然減少という、状況の変化により、解決するように思えるのだ。但し、不足は、解消されるが、別の問題が、現れるのだ。どうするのか。

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6月1日(木)

 企業の不祥事が、絶えない。欠陥を隠蔽したり、検査を誤魔化すなど、ありとあらゆる不正が、蔓延っている。中でも、最近話題となるのは、情報漏洩だろう。漏らす方の問題も、確かに、重大なのだが、競争相手から、情報を盗む、という、犯罪そのものが、典型なのだ。
 携帯電話会社が、他社の情報を、盗んだという話は、記憶に新しい。目的は、基地局の設置において、無駄を無くし、効率よく運営する為には、先行他社の記録が、重要と見たからだ。企業経営にとり、収支の問題は、最重要となる。特に、競争が激化し、価格競争に、入った業界では、収入を減らしてでも、多くの顧客を、獲得することが、命題となる。一方で、支出を減らさねば、収益は上がらない。基地局の数は、その最たるものであり、効率よく、配置することが、命題となる。だが、経験則に基づく、手法しか無く、計算できない場合、それまでに培ったデータが、唯一の判断基準となる。しかし、新規参入の場合、何の実績もなく、当然ながら、データも存在しない。そこで、競合他社の情報を、譲り受けようとしたのだ、それも、合法的にではなく。もう一つ、話題になったのが、回転寿司の業界だ。ここでも、競争激化と共に、物価高が、追い打ちをかけ、低迷する企業は、打開策を模索する。その手立ての一つが、経営者の交代であり、それも、他社からの転職だった。だが、理念は兎も角、情報を携えて、という訳には、行かなかった。そこで、以前の部下から、情報を得たとのことだが、単純には、盗みを働いた訳だ。何故、こんなことが、繰り返されるのか。一番の要因は、傾向と対策という、習慣から来るものだ。競争を、勝ち抜く為に、何度も、繰り返された手法は、彼らにとり、最も確実な手法である。経営においても、それが、最善策とばかり、実行してきたが、肝心の傾向が掴めねば、対策は立てられない。だから、他社から、となる。所詮、その程度の人材だったのか。

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5月31日(水)

 個人の権利や自由が、これ程までに、尊重される、と言うより、強調される、時代も無かったろう。義務や責任が、取り沙汰されても、一方で、権利や自由が、侵害されることは、多々あったのだが、今や、そうではない。飽くまでも、個人の権利と自由が、最優先とされる。
 それも、当初は、社会通念に、適合するか否かが、第一とされてきたが、それさえ、怪しくなりつつある。ヒトのように、雌雄異体の生き物では、その間での交配が、唯一の生殖行動であり、子孫を、授かる為には、不可欠である。当然、通念上は、その間に、子供を置く訳で、婚姻は、一つ前の段階、とされてきた。と言っても、先進国の中には、婚姻を、必要条件とせず、子供の存在が、合意の上であれば、認められてきた。しかし、この国では、婚姻は、不可欠な要件であり、婚外子では、様々な問題が、生じてきた。今、話題になっているから、取り上げるが、憲法上では、24条には、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」とある。同性婚は、基本的には、記されておらず、認めぬことを、違反と呼ぶかは、理解に苦しむ。また、戸籍制度があるので、その雛形を見ると、ここでも、父母とその間の子、という位置付けが、明記されている。自由も権利も、個人のものとの考えから、認めるべき、との流れが、多くの国で、起きているが、生物学的には、議論の余地は無い。一方、権利として、度々引き合いに出されるのが、税法上の問題だろう。この国では、所得税において、控除という制度があり、被扶養者の中に、子と共に、配偶者を含むことができる。民法上は、憲法で定めた婚姻を、基とするが、税法上は、拡大解釈も可能、とするようだ。ならば、婚姻を、必須要件とせず、多くの扱いを、事実に基づき、決めることも、可能ではないか。権利や自由を、強く主張せねば、少数派は、迫害されかねない、との考えもあろうが、通念を、打ち破ってまで、となると、どうだろうか。

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5月30日(火)

 教え育むことの大切さは、どれだけ訴えても、十分とはならない。人々は、日々の生活に追われ、自らの利害を、優先させることで、次代を担う子供達のことを、つい忘れてしまう。今、行わねばならぬのに、後回しにしては、国は、滅びるしかない。単純な、筋書きだ。
 だが、この論理が、通じない人の、何と多いことか。社会媒体でも、多くの人々が、主張を掲げるが、その大部分は、身勝手なもので、利己的に過ぎない。学問の府も、その一つに、挙げられる。国民の多くに、高等教育が必要と、戦後、国立だけでなく、私立も含め、沢山の大学が、設立された。その後、進学率の上昇と、適齢期の人口増加で、卒業者数は、格段に増加し、大卒が、当たり前の資格となった。だが、一方で、教育水準に関しては、危うい状況が、続いている、と言われる。驚いたのは、若年層の人口減少から、一部大学の、充足率が低下し、遂には、閉鎖に追い込まれた所がある中、教育水準の評価が、高かった学校が、閉鎖に追い込まれた、という話だ。当たり前の資格に、努力は無用とばかり、遊び呆ける学生が、溢れ始めていたが、それでも、教育重視の学校は、監督官庁の指導にも従わず、厳しい進級規定を設け、卒業できない学生が、多く出ていたようだ。となれば、楽に流れるのは、当然とばかり、規定の授業料を、納めさえすれば、四年で卒業という大学が、生き残るらしい。情けないばかりだが、実情は、そんなものかも知れぬ。経営を考えれば、顧客重視は、当然のこと、なのだろう。だが、これでは、人材育成は、立ち行かなくなる。まして、企業の体質が、成長期と比べ、育成を軽視する中、供給源の質の低下は、すぐに、人材枯渇を、招きかねない。一方で、国立でさえ、運営費の削減が、状況を厳しくする中、物価の高騰が、電気代をはじめとして、多くの経常経費に、響いている。何を優先するかは、火を見るより明らかだが、見えぬ経営者が、居座っているようだ。

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5月29日(月)

 傾向と対策では、変化には、対応できない。何度も、書いてきたが、世の中には、それを理解できない人間が、余りにも多いようだ。それも、多勢に無勢とばかり、彼らは、自らの無知を、恥じることなく、当然と言わんばかりに、同じことを、繰り返してきた。無駄なのに。
 では、そんな連中に、ついて行くだけの人間に、どんな選択肢があるのか。まあ、余程、痛い目に遭わねば、懲りることなく、ただ、同じことを、繰り返すだけだ。その上、責任転嫁だけは、一丁前にするから、文句だけは、並べ続ける。だが、彼らに、他の選択肢は無く、所詮、今度も駄目、と思いつつも、同じように、ついて行く。こんな調子で、この国は、繁栄と衰退を、繰り返してきた。今となっては、大衆にとって、別の選択は無く、誰が、指導者となろうが、それに、追随するしかない。島国だからこそ、こんな状況でも、他国に支配されず、何とか、独立状態を、保ってきたのだろう。でも、今後は、どうだろうか。何処かの属国に、成り下がるのか、はたまた、大転換を遂げ、全く別の道を、歩むのだろうか。誰にも、分からないが、例えば、隣の大国は、社会体制が、大きく変貌したことで、人民による、統治を目指し、それが、一時的には、達成されたと言われる。だが、それも、一党支配の上に、その頂点に立つ人間が、全体を、操ることとなった時、度々、危機が訪れた。彼の死去後、冷遇された人物が、復権を果たし、一方的な体制を、転換したことで、今の繁栄を、手に入れたとされる。その後は、一見、当初目指した仕組みへと、転換したように、見えたものの、今の状況は、まるで、あの当時の支配体制に、戻ったように見える。彼の国も、長い歴史の中で、皇帝による支配が、その大部分を占め、人民は、交代の度に、向きを変えてきた。それこそが、国民性であり、国の体質だとする見方は、今の姿を、当然の成り行きと見る。そんなものなのかも、知れない。

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5月28日(日)

 教育現場での、伝える側の不安は、かなり深刻と思う。傾向と対策に明け暮れ、それに適合した者だけが、勝ち残った、と思われる中、不安定な時代に、生き残る力は、無いと言わざるを得ない。では、彼らから、受け取る側は、どんな状況に、あるのだろうか。
 こちらも、かなり深刻な状況にある。傾向と対策は元より、無難に過ごすことが、最優先と思われる、風潮が強まり、生き抜く為より、その日を、如何に無難に過ごすかが、肝心と思うようだ。そこから、勝ちに出るより、負けないことを、優先させる。目立たぬ方が、無難との考えが、浸透しており、独自を目指すより、平均的で、穏当な状況を、望むようだ。そこに、届いたのは、人工知能の展開だ。従来から、大学では、課題の提出に追われ、無い知恵を絞るより、検索等で表示された、答えの一種を、丸写しすることを、良策と考える学生が、急増している、と言われていたが、その傾向が、更に、増すのでは、との懸念がある。剽窃が、いけない行為であるのは、明らかだが、人間の成長に、模倣は欠かせず、ある段階での行為は、黙認されてきた。だが、そこから学び、培うことが、肝心との考えは、楽に生き、その日を、無難に過ごすことを、優先させる風潮では、何事も、積み重ねより、単発的なものになり、学びは、望めぬ状況へと、移りつつある。そこに、問い掛けさえすれば、正解を、提示してくれる、仕組みが登場した、となれば、結果が、見えている、と思うのも、無理も無いことだ。だが、そこに、導いているのは、児童、生徒、学生達ではなく、彼らを、教え諭す筈の、人々ではないか。次代を担う人々に、反発せよとの言葉は、恐らく、届きそうにないが、少なくとも、他人と違うことを、試みる必要がある、という点だけは、伝えたいものだ。確かに、初等中等教育では、従順さが、好まれるだろうが、社会への船出の、一歩手前では、それでは、事が済まないからだ。

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5月27日(土)

 ここ数年の、様々な騒動に、振り回される人々に、共通することが、あると思う。総じて言えば、力不足だ。吟味や分析を、行う為の基礎知識も、それを基にして、判断を行う力も、全てが、足りないのだ。一つには、周囲を眺め、それに従う、という行動で、十分と思うからだ。
 だが、騒動の結果、明らかになったのは、騒動の最中、共に行動することは、時に、危険を孕むということだ。群集心理、と表現されるように、人は、群がることで、それまでにない、心理状態に陥る。周囲と同じ、という状況に、意を強め、事の真偽や正誤の見極めを、誤るのだ。それでも、集団として、そのままの状況が続けば、同じ仲間同士、安心感に浸り、事件が起きたとしても、その責任も被害も、無かったこととなる。これでは、何も学べず、何も進歩しない、と思うのは、その輪の中に入らず、一種孤立状態に、陥っていても、自らの判断を、信じて対応した人々だ。だが、それとて、仲間外れの挙句、異常な言動の持ち主として、警戒される。それでも、最近は、社会媒体の存在により、彼らの声も、掻き消されることなく、届くこともある。ただ、その際の賛同者には、単に、異常な考えに囚われ、極端に走るだけの人間が、居るから、要注意だろう。最近の騒動の一つは、人工知能に関することだ。何度も取り上げ、異常な興奮に、水を差してきたが、依然として、騒ぎは収まらず、過剰反応が繰り返される。一つだけ、悪影響の懸念を、指摘すると、それは、教育現場への影響だろう。初等中等教育では、唯一の正答を与え、その正誤により、成績をつけるが、人工知能が、返した答えにも、同様の反応を、示す子供達が居る。機械が示した、回答の一つが、正しいとは限らず、その吟味が、必要となるが、その機会として、捉えることはなく、恐らく、鵜呑みが繰り返される。高等教育現場でも、同様の兆候はあり、警戒を要するが、当事者達は、吟味も分析も、判断さえも覚束ない。

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5月26日(金)

 今朝の経済番組で、総裁の講演で用いられた、図表を引き合いに出し、状況を解説していた。そこに使われた図表は、誰もが、閲覧できるので、確かめて欲しい。その上で、そこで、説明されたことを、聴いていて、ふと気がついたことが、幾つかあった。触れてみよう。
 解説者は、講演の図表の中でも、図表13に、重要な意味が、隠されている、と指摘していた。それについては、最初に紹介した所で、眺めることが、できるかも知れないので、興味があれば、確認すると良い。ただ、ここで、取り上げたいのは、図表に示された、グラフの解釈が、興味深いことだ。件のグラフでは、需要と供給の差を、百分率として、横軸にとり、物価動向の指数である、CPIと呼ばれるものを、前年比として、百分率として、縦軸にとったものだ。縦軸は、所謂、インフレ率であり、肝心なのは、先進国では、2%を目標として、設定しており、この国でも、それを、長い間の目標値としてきた。講演の中で、どんな説明が、なされたのかは、講演録の3(3)に、示されるように、予想物価上昇率が、高まることが、フィリップス曲線と呼ばれるものを、上方にずらすこととなる。だが、その移行を、眺めてみると、一つ前の図表12にある、曲線の破線の辿り方と、似ているように見える。つまり、同じ状況ならば、直線が、平行移動するのだが、時間と共に、上昇率が高まれば、平行移動する中で、需給の差も、徐々に高まり、それに連れて、インフレ率も高まる、という形で、図表13の第一象限にある、黄色の点の動きに、反映されるのでは、と思えたのだ。解説者は、上昇率の高まりが、y軸上の切片を、高めていくと、説明していたが、これは、まるで、その切片の値が、上昇率を変数とする、関数で導ける、ことを示している。少し考えないと、理解はできないが、そんなことを、ふと思わせる話、だったように感じた。全くの的外れ、に過ぎないかも知れないが。

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5月25日(木)

 相場の加熱が、止まらないようだ。泡が弾けて以来の、最高値を更新、という報道は、待ち望んだ人々には、まさに、朗報となった。しかし、市場には、楽観論より、悲観論を、好む人々が、蠢いている。案の定、懸念材料が、積み上げられ始め、暴落の兆し、と見る向きも。
 事情に疎い人まで、何か見解を、述べたくなったのか、人件費が、抑制されているから、などと、訳の分からぬ妄言を、書き並べるが、関係者が、盛んに、指摘してきたように、海外投資家の動向が、最有力の要因だろう。特に、著名投資家として、名を馳せる人物が、商社を対象として、更なる投資を、始めるとした宣言は、強い影響を及ぼす。長く、低迷期に沈んだ相場も、やっと、日の目を見ることとなり、関係者の喜びは、一入だろう。泡が、弾けた要因の一つに、相場の加熱も、あるにはあったが、最大要因は、無軌道な不動産投資にあり、今もまた、その気配があることには、注意が必要だ。一方で、低迷期の最中、自党を潰すと宣言した、宰相の下には、学者出身の大臣が、登用されて、大鉈を振るった、と言われる。がしかし、その後の経過を、普通に眺めれば、単なる悪政でしかなく、仲間内で、利益を貪っただけで、その後も、その人脈を活かして、のうのうと暮らす様は、反吐が出る程だ。構造改革という名の、思い付きの数々は、禍根を残しただけで、何の効果も、上げられなかった。生じた混乱は、現場の活動の上に、重く伸し掛かり、やっと、体制が整いつつある。その中で、得意の外圧だが、物価上昇と、それに伴う、人件費の増加が、経済状況を、好転させつつあり、相場の上昇も、やっと重い腰を、上げた結果だろう。ただ、油断は禁物で、ここで浮かれて、踊るだけでは、また、同じ轍を踏むだけだ。妥当な水準が、何処にあるかだけでなく、多くの要素が、あるべき水準に、到達するだけでなく、ある程度の安定を、目指す必要がある。暫く、様子見が続くだろうか。

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5月24日(水)

 勝負事に、関わる人にとり、負けることは、受け入れ難い。仮令、それが、機械相手としても、同じことだ。案の定、盤上の勝負事で、人工知能が、優位に立つ、とされた状況に、変化が起きた。昨日の経済紙の夕刊に、掲載されたのは、人工知能の弱点を、見つけたとの記事だ。
 ここでは、何度も書いたが、多くの人々は、もう勝てない、と思ったようだ。だが、通常の対戦では、人間を相手に、勝負をするのだから、人間に、勝つ手立てを、準備する。その状況で、機械に敗れたとしても、相手が機械だとして、どんな手立てがあるか、改めて考える必要がある。まさに、その一つが、囲碁の世界で、見つかったという訳だ。ある戦法に対し、人工知能は、終盤まで、勝利を確信し、そのまま、敗退したとあった。見込みを、誤ったのは、その定石が、人間同士の対局では、殆ど使われず、学習の成果が、現れなかったからだ。一方、禁じ手のような、約束事も、その理由を、理解しておらず、思考過程の違い、との指摘もあった。人間同様、人工知能も、定石を記憶し、それまでの棋譜を、学習することで、様々な場面での、最善手を、引き出すとされる。ただ、感情を持つ人間と、機械との違いは、奇襲に対する、応じ方にあるとされる。意外な手を、打たれた際に、どう応じるかは、その時の精神状態に、左右されることがある。これは、戦争などの戦いでの、奇襲とも、よく似たものだが、奇を衒うにしても、相手が、その準備をしていれば、無駄となる。勝者の奇襲だけが、語られるのは、当然のことだろう。一方、人工知能は、あらゆる可能性を、検討することができる、と言われてきたが、今回の報道からは、それが、過大評価だ、ということだ。生成人工知能に関しても、同様の反応が、登場後暫くは、起きていたが、今は、随分と違っている。まあ、過剰反応する人間に、惑わされぬよう、自身で、気をつける必要がある、ということだ。当たり前ではあるが。

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5月23日(火)

 社会媒体が、数々登場して、世の中は、良くなったと言われる。情報社会では、種々雑多なもの、玉石混淆のもの、どんなものでも、触れられることが、第一となり、知ることこそ、不可欠となるからだ。そんな話が、一杯あるようだが、これは、本当なのだろうか。
 感染症騒動でも、他国への軍事侵攻でも、様々な情報が、世界を飛び交っていた。従来であれば、報道機関が、その殆どを担い、そこから派生したものも含めて、ある程度、統制のとれた情報が、供給されてきた。だが、これらの騒動では、全く異なる様相が、展開した。前者では、恐怖を煽り、制限をかけることを、世界機関も、各国政府も、最優先とした為、報道機関は、専ら、その片棒を担ぐこととなった。多くの情報が、操作され、実態に見合わぬものまで、垂れ流された。それに対して、社会媒体で、発言する人々は、目の前で展開するものを、そのままに、伝えたり、専門知識を、有する人々が、反論を並べるなどして、正反対の行動を、推奨していた。何方が、正しかったのかは、事と場合によるだろうが、今後、検証されることを、期待したい。と言っても、実権を握る人々は、例えば、この国の首都の首長の如く、さっさと、味方となった人々の、貢献を評価して、讃えるなど、保身とも見える、行動を起こしている。一方、後者は、利害関係が異なり、社会媒体での動きも、かなり異なっていた。報道機関は、侵攻を断行した国と、その大統領を、厳しく批判し、先進国の多くは、当初の様子見から、一変して、支援へと舵を切った。それに対し、一部の人々は、社会媒体で、状況の誤認や、そこに至る道筋での、当事国の体制など、多くの点で、反論を展開した。実情は、現実には、侵攻された国でも、立場により、大きく違い、多面的に捉える必要は、確かにある。だが、一方的という意味では、何方も、大差無いのだ。確かに、情報は、多種多様となった。だからこそ、判断が必要だ。

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5月22日(月)

 利己的な人間は、虐めに走るが、利他的な人間は、そうではない、と思う人は多い。確かに、他人に優しい人間は、他人の利益を、考える筈、と思える。だが、優しい言葉が、利己的な考えに、基づくものだとしたら、どうだろう。最近の、優しい社会は、そんな感じがする。
 穿った見方、かも知れぬが、現状の厳しさを、少しでも、取り除こうとする、発言を見る度に、そんな印象を覚える。優しさは、確かに、相手への配慮、とも受け取れるが、それが、巡り巡って、自分に返ってくる、としたらどうだろう。以前、若い世代が、変化を求めぬ、という年長者の嘆きを、取り上げたことが、あったのだが、それも、似た事情による、と思える。要するに、自分の都合に、合うか合わないかが、判断基準となっており、相手や周囲への配慮、とは違うのではないか。可能性を、伸ばす為と称して、機会を、与え続けるのは、一見、正しいように思えるが、その実、相手を、その場所に、置き続けることで、自分を、脅かす対象とならぬように、仕向けている場合もある。また、自分が、やりたくない仕事を、押し付ける方便として、使っている場合も。一方で、優しさを、求める人々は、そういう輩の口車に、まんまと乗せられ、奉仕を続けたりする。思う壺とは、このことと思えるが、本人は、いつか報われる、と信じているようだ。厳しさが、嫌われる時代には、以前と同じように、辛く当たるのではなく、それでも、言葉の上では、配慮を見せた上で、相手の可能性を信じ、陰ながら応援をする。表面的には、手を差し伸べず、優しさが足りぬ、と思えるかも知れないが、その一方で、道を塞ぐことはしない。この違いに、気付かぬ人々は、その人物への評価を、下げることとなるが、真意も探らずに、何を、身勝手な判断を下すのか。まあ、人材育成は、一朝一夕には行かず、何かと面倒なものだ。環境整備も含め、目の前のことしか、見えぬ相手には。

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5月21日(日)

「情けは人のためならず」という言葉は、本来、他人に対して、情けをかけておけば、巡り巡って自分にいいことがある、という意味だが、近年、誤った解釈が、増えていると言う。困っている人に、情けをかけることは、却って、本人の自立を、妨げるものとなる、と。
 こんな誤解が、広がったのも、実は、他人に優しくすることが、重要との認識が、強まったからだろう。先輩や上司から、厳しく鍛えられ、今の自分がある、との自負を抱く、世代にとって、優しさは、邪魔なものとの認識が、あった。だが、時代は、既に、それが常識と化し、厳しさより、優しさが、重視されている。次には、他人だけでなく、自分にも、優しさを求めるのだ。楽に生きる、正しい評価を受ける、褒められるなど、自己肯定感と共に、勢いを増している。その風潮の中では、厳しい言葉は、忌み嫌われ、その発言主は、忌避対象となったり、時に、糾弾の対象とさえ、なり始める。ハラスメントが、市民権を得るに従い、この考え方が、大半を占めるようになった。その発言が、正論だとしても、相手への配慮が、足らぬものとして、切り捨てられる。一部の人にとり、厳しい社会は、生き難いもの、と映るようだが、現実には、優しさという、甘言に乗せられ、自らの可能性を、摘み取ることに、終始していないか。前に取り上げたが、大学の教員に、任期制が適用され、20年程になる。今では、不当な制度と、批判する声が、高まっているが、導入の端緒が、何だったかを、知る人は少ない。定年までの雇用が、保証される中、元々、努力を怠らぬ人には、何の問題も無かったが、努力や才能の無さが、露呈した人々は、ただ漫然と働くだけとなった。その問題を、解決する手段として、導入されたが、今では、不当とさえ言われる。集団では、働かぬ蟻にも、権利があるが、少数で動く社会では、そうは行かぬものだ。本来の目的を知らず、不都合を排除しようとの動きは、危険なものだ。

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5月20日(土)

 人工知能の能力が、一気に高まり、人間社会を、脅かす存在、となりつつある、と言われる。だが、現実には、的外れな議論ばかりで、感情的な言説や、悲観的な見方が、垂れ流されている。いつから、人間は、物事を、冷静に考え、見極めることが、出来なくなったのか。
 有り体に言えば、大衆の気を惹くことが、第一となったからだ。その為に、重要な武器は、恐怖を煽ることで、最悪の物語を、語ることこそが、最善とされるからだ。だが、その多くは、的外れに過ぎず、振り回された人々は、精神的不安定のみならず、生活さえも脅かされる。但し、起きるとされたことは、その殆どが起こらず、空振りに終わるから、安心を、取り戻した、とさえ思う人も居る。結果が良ければ、それで良し、心配は、ヒトという生き物が持つ、大切な性質の一つ、なのだから、などという、馬鹿げた説明まで、出てくるようでは、お終いではないか。人工知能の脅威は、何も、盤上の戦いに、止まらず、一般大衆の生活にまで、及び始める、との指摘は、愚かさの現れに過ぎず、人間の営みへの影響は、人間自身が、関わることで、食い止めることは、容易い。にも拘らず、例の如く、騒ぎを広げたい人々は、過剰反応を、引き起そうと、躍起になっている。犯罪の温床については、規制をかけることが、一つの方法だろうし、生成された文書の、信頼性に関しては、人間による検閲が、当然の措置だろう。研究の場に関しても、同様であり、従来の不正同様に、人工知能が作り出す、実験結果と結論についても、学界の人々による、相互点検が、答えの一つとなる。今も、論文投稿では、査読が行われ、無償の役割として、研究仲間が、互いに助け合う。もし、科学空想小説のように、研究の創作が、懸念されるのなら、全体を、相互点検することで、保証すればいい。仮令、人工知能が関わらずとも、こんな仕組みが、確立されれば、不正の排除が、可能となる。何れも、難しくない。

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5月19日(金)

 人工知能の可能性は、四半世紀程前から、注目されてきた。これは、量子計算機も同様で、当時、可能性を、強く訴える声が、高まっていた。だが、現実は厳しく、従来の方式を、推進する人々から、厳しい批判の声を、浴びせられ続けていた。今は、少し違ってきた。
 量子計算機も、愈々、実用化が近く、多くの企業や研究所が、手を挙げ始めた。一方、人工知能は、その後、盤上の戦いに、勝機を見出し、一流の人間を、打ち負かす程に、なったと言われる。だが、前にも書いたが、ここには、大きな誤解が、あるのだと思う。戦法は、相手次第で、何とでも変えられる。今、敗れたとは言え、人間の逆襲は、始まっていないからだ。人間相手の、戦い方では、計算速度と情報量で、勝るのは、機械の特長だろうが、別の手立てが、無いとは言えない。同様に、今、話題となる、生成人工知能に関して、その可能性が、無限に広がる、と信じる向きが、あるのは当然だが、その一方で、人間の営みとの共存は、容易な問題ではない。だからこそ、開発側からも、規制の必要性を、訴えており、無限が、無軌道とならぬよう、整備を進める必要が、迫っている。だが、一つの目標に向かい、邁進する中、どんな問題が、山積しているかを、論じることは、難しい。現時点で、強い規制を掛ければ、確かに、安全性は、保てるかも知れぬが、それは、可能性を、縮小させることになるからだ。かと言って、対策を講じる為に、議論すべき項目を、挙げることは、果たして、可能なのだろうか。例えば、この仕組みの、危険性を指摘する中には、犯罪との関わりが、取り上げられる。これについて、表面的には、仕組みの中に、予め、禁忌事項を、設定すれば良い、との意見もあるが、悪意が、その規制を、外すとしたら、どうなるか、と懸念される。全く別のことだが、研究における発見を、空想科学小説を、書くようにして、創作することが、可能では、との懸念も伝えられる。実験そのものを、仮想として行えば、筋書きは、どうとでもなる、というのだ。やはり、人間との営みが、最後の砦なのかも。

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5月18日(木)

 統計を、高校で教えることの難しさを、新聞の記事は、説いていた。そこで、学問上の違いとして、演繹と帰納、どちらを使うかに、違いがある、と説明していた。演繹とは、理論や法則から、結論を導き出し、帰納とは、個別の事象から、原理や法則を、導き出すものだ。
 科目として考えれば、数学が、公式を理解し、それを使うことで、結果を導くのを、常とするのに対し、統計は、個々の事例を集め、そこから一般論を、導き出すことを、常とする。この違いが、数学の中で、統計を教えることの、難しさを示す、というのが、記事の主旨だろう。だが、学問一般として、その通りとしても、初等中等教育で、学ぶべき事柄は、必ずしも、学問そのものの性質とは、合致しない。算数や数学は、日常生活で、どう役立つかを、強調して教え、それによって、興味・関心を、抱かせようとする。その一端として、統計が、登場したとしても、同様の扱いが、出来る筈だ。また、教員は、専門の研究者とは違い、教えることを、重要な役割とする。その意味では、学問の性質が、どうあろうとも、現場での扱いようは、違ってくるだろう。また、この記事では、一切触れられていなかったが、数学への統計の導入後、もう一つの科目が、重視されている。それは、情報であり、従来は、付け足しの扱いだったが、主要な科目として、重視せよとのお達しが、出ているのだ。その中でも、統計が扱われ、互いに補完する形、となっている。実際の事例を使い、統計の手順を、習得させるのは、情報の役割とされ、それに必要な、理論的な側面を、主に数学が扱う。とは言え、新たに導入された項目を、どう扱うかは、現場に任され、その中で、徐々に、形を整えるのだろう。だが、何度も書くように、統計の知識を、多くの人々が、身に付けることが、重要という点は、今回の騒動をはじめとして、多くの事例で、明らかとなっている。これは、政府や世界機関の嘘を、見破る為もある。

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5月17日(水)

 騒動に、振り回された結果、情報の大切さを、感じている人も、多いだろう。だが、一方で、嘘によって、固定化された観念を、真実で、書き換えることが、出来ない人も多い。先入観とか、拘りとか、そんな言葉で、表されるものだが、何故、そんなことが、起きるのか。
 情報の価値は、受け取る側によって、決められる。偽情報や、嘘や出鱈目も、都合良いと考え、受け入れれば、価値が出る。だが、その価値は、間違ったものであり、本来は、無価値なばかりか、時に、負の価値さえ、産み出すこととなる。その意味で、情報の吟味は、重要な事柄だが、騒動を思い起こせば、出来ない人が、余りにも多い。それも、末端に位置する、庶民ではなく、指導的立場にある、専門家にまで、及んでいるのだ。とは言え、専門の嘘も含め、庶民は、それらを吟味し、取捨選択を、行う必要がある。その為には、時に、統計手法を用いたり、使われた手法を、疑うことも大切だ。その意図からか、中等教育段階で、統計を教える動きが、高まっている。その一方で、関係する教科の教員は、肝心な知識を、受け取っておらず、現場の混乱が、懸念される。教師と雖も、知らぬことを、教えることは、度々起こる。少なくとも、教科書にある事柄くらいは、その教科を、教える能力が、備わっておれば、何とかなる筈だ。そこに、懸念を抱くのは、自己研鑽を、蔑ろにしてきた、そのつけが回ったからだろう。同様の状況は、これから、勉学に勤しむ人々にも、当てはまる。例えば、生成AI(いつの間にか、系が抜けている)について、世界規模で、懸念が広がるが、元々、インターネット上での、検索と同様、使用者側の能力に、依存する部分が大きい。検索エンジンは、設定通りに、優先順位を決め、その順に表示する。だが、設定は、必ずしも、使用者の要求とは、合致しない。その結果、偏った情報を、提供することとなる。生成AIに至っては、唯一無二の情報しか、提示しない。