パンチの独り言
思いつきを書きつづったものです。ご意見はメールでお願いします

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5月7日(木)

 無理解に対し、どう説明すれば、と悩んだことが、あるだろうか。効率、効果の話の、深刻さには、そんな側面が、あるように感じる。費用や時間に対し、どんな成果が、と問い掛けてみると、大いなる誤解が、横たわることに、気付かされるが、あちらは、それには無頓着だ。
 少し、説明が必要か。無頓着なのは、何を、成果と見做すか、という点に対し、自らの判断が、絶対的であり、世間一般のものや、他の人が指摘するものに、目が向くことがない。この状況では、手に入れたものは、何の役にも立たず、また、それにかけた、費用や時間は、無駄となるしかない。だが、その役立たずを、目的とする訳で、それで、満足するのだから、それで、良いのでは、との意見もある。確かに、客が望むものを、与えさせすれば、それで、こちらの役割は、果たせたとすれば、その通りだろう。だが、それでは、その場で、要求されたものとは、異なる物を、投げ捨てただけで、こちらの役割は、本当は、果たせていないことになる。それに、本人達が気付けば、まだ、救いようもあるが、そうなることはなく、頑なに、思い込みを、果たそうとするだけで、困るだけだ。この傾向は、特に、教育現場で、著しいように、思えているが、気付かぬのだから、どうにもならぬ。その結果、後々になってから、酷い仕打ちを受けた、と訴えたとして、誰の責任となるのか。こういった話が、日常となって、こういう人々は、自分達が、被害を受けたと、訴えてくる。その典型が、囀りでの書き込みだが、その中身は、空っぽであり、付き合う必要も、慰める必要もない。ただ、自己責任として、済ませて仕舞えば、それまでだろう。だが、あの社会は、そうならずに、同類相憐れむ、となり、徒党を組んで、社会に対して、不平不満を並べる。元は、自分が蒔いた種で、誤解の上で、好き勝手なことを、した結果だというに、こうなっては、どうにもならぬ。にしても、この被害妄想ぶりは、如何なものか。更には、そこに作り上げた、嘘八百で、何をしたいのか。

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5月6日(水)

 最近の若者達が、盛んに使う言葉に、コスパとか、タイパとか、そんなものがある。前者は、昔から使われた、費用対効果のことだが、後者は、どうだろうか。その流れから、時間対効果、となりそうだが、何をどう使うと、時間当たりの効果が、導き出せるのか。
 ただ、大人達が、考える効果とは、全く異なるものを、若者達は、想定しており、この言葉を、鵜呑みにできぬ、と思うことが、屡々ある。例えば、こういった効果の、対象となるものが、何であれ、如何に楽に、手に入れられるか、という点にしか、目が向いていないからだ。何をどうすれば、手に入れられるか、ではなく、単純に、楽か、大変か、という点にしか、目が行かないから、真面目に、相手をしても、無駄にしかならない。特に、成果を、重視するのだが、その成果自体が、的外れなものであり、結果的に、手に入るものにしか、注目しない。学校で言えば、卒業という資格が、その一つだろうが、それが、どのような成果が、結びついた結果か、という点には、一切興味が無い、らしい。手に入ったものが、何の役に立つのか。この点についても、首を傾げざるを得ず、紙切れ一つに、血道を上げる、その姿には、滑稽さしか、感じられない。また、こういった場合に、コストが、何を指すのかについても、理解不能となる。費用という意味では、学費が、それに当たる筈だが、大多数の学生、生徒は、自分で支払わず、親が負担する。そこでは、金銭とは、全く別のものに、費用という言葉を、当てているようだ。その意味では、まだ、時間の方が、そのものズバリを、表している。だが、その計り方に、違和感を感じる。何かしらの課題に、どれ程の時間を、費やしたか、という点に、目が向くようだが、その成果を、顧みようとせず、時間だけ計るのは、どうしたものか。要するに、効果と呼ばれるものに、縛られるのは、それが、効率を表し、その割合が、高いことが、優秀さを表す、との思い込みで、動くからなのだ。中身の無い、人間のままで、いいと思っているのか、とさえ思えるが、どうだろうか。もし、このままなら、若者は、やはり、馬鹿者と、呼ばれるべき存在、となってしまうのだが。

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5月5日(火)

 弱者最強は、歪な考え、と思う。弱者を保護する、という社会の方針に、如何に、乗っかるかが、重視されて、被害者意識を、募らせる。その一方で、世間では、勝ち負け重視が、浸透しており、こちらの歪みが、重く伸し掛かる。傍目には、自己矛盾が、山積みなのだが。
 そんな中で、順位付けを、最優先とする、考え方が、囀りでは、主流となっている。自分より、劣ったものを、拾い上げて、揶揄することで、満足を得たり、優劣が、決められると、そこに、不公平がある、と決めつけて、社会の規則を、扱き下ろす。ただ、彼らの多くは、自己都合の、論理を押し通し、社会改善より、自己待遇の改善ばかり、主張し続ける。社会の中で、生き延びているのに、その社会を、破壊しようと、目論むかの如くに。こんな調子では、何も変わらないばかりか、悪くなるばかり、と思えるのだが、当人達は、至って真っ当な、要求と信じ込む。歪な考えが、大半を占める、そんな集まりに、興味を抱いても、無駄なのだが、念の為、一言二言、茶々を、入れてみる。突如として、反撃が、飛んでくるが、それとて、非論理的で、視野狭窄の典型となれば、相手する必要は、無いものと見るべきだ。さて、そんな輩が、今、盛り上がる話題の一つに、大学の数がある。若者人口が、減り続ける中、大学は、定員を満たせず、収入は、減り続けると聞く。その状況で、閉校する所も、増えているが、依然として、過剰と言われる。監督官庁は、特に、指導をするでもなく、趨勢に任せているが、補助金の出所の、官庁からは、暗い見通しが、出ているようだ。途端に、順位付けに、血道を上げる、輩達は、下位大学の不要論を、ぶち上げる。だが、実際には、大学入学の、入口での順位であり、人間の能力の、ほんの一部での、判断でしかなく、そこからの4年で、どんな変化が、起きるかは、誰にも分からぬ。それを、こう決めつければ、反論が、押し寄せるのは、無理もない。一方で、以前、どこかの女子大が、閉校との報道で、入学後の指導の、厳しさが、仇となった、とされていたが、この為体には、何の批判も、寄せられぬのに、唖然とする。何しに、大学へ、とは、よく尋ねられることだが。

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5月4日(月)

 もう何度も、書いてきたから、飽きたと言われるかもだが、今は、弱者保護の時代である。平和な時代が、長く続き、お互いを尊重し合う、姿勢が、強まった結果、社会には、強者と弱者が居り、弱者は、常に保護されるべき、との考えが、全体に、広まってきた。
 何時だったか、そして、何処に書いてあったか、全く思い出せないが、被害者意識の、強まりに対し、危機感を綴ったものが、目に触れた。これと、弱者保護が、どう繋がるのか、と思う人が、居るかも知れぬが、大いに、関係がある。今、保護されるべき、と訴える弱者の多くが、被害者然とした人々で、本当に、被害を受けたのか、本当に、保護が必要なのか、さっぱり、わからない対象だからだ。何故、このような考えが、蔓延してしまったのか、不思議に思うが、そんなことをしても、今の問題を、解決する手段は、見つかりそうにない。保護を、必要とする人は、確かに居るには居るが、今の状況は、そうでない人が、大きな顔をして、当然の権利と、訴えており、その状況は、異常としか、思えないのだ。別に、我慢しろ、などと、書くつもりはない。だが、そこまで、言わないと、引っ込まない人が、社会には、溢れており、その多くが、暇を持て余し、囀りで、盛んに訴えている。彼らに、手を差し伸べる必要は、全く無いと思う。だが、その一言さえ、書き込んだり、発言したりすることは、憚られている。それ程に、強い圧力を、社会全体に、及ぼしており、害悪でしかない、と言いたくなる。では、どうしたら、良いのか。論理的に、対応することが、第一と思うが、それ自体が、難しくなっている。こういう輩の殆どが、何も理解できず、それさえも、社会の責任や、相手の責任と、訴えるからだ。罰則が、必要なのでは、との意見は、数々出されているが、匿名性と、強烈な被害者意識が、邪魔をしている。こうなれば、まずは、無視が一番だ、との意見も多い。確かに、それも、一つなのだが、さて、この連中が、静かになるか。施す連中が、居なくならねば、何も起きそうにない。権利とは、と何度書いても、これもまた、無駄となる。最初に書いたように、平和が途切れれば、そんな余裕は、社会に無くなる。それしか、手立てが無いとしたら、不幸でしかないが。

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5月3日(日)

 何故、人は皆、自分を、大きく見せたがるのか。などと書くと、そんなことはない!、との反論が、押し寄せるかもだが、囀りなどでは、自信無さげに、同意を求める意見の一方で、矢鱈に、自慢するが如くに、努力や苦労を、書き連ねる。その末に、今の自分がある、とでも。
 確かに、その人の地位は、努力と苦労の末に、手に入れたもので、業績の数々も、同様なのだろうが、それが、他にも通ずるとは、限らない、と思う。独り言は、自分のことを、中心に書き綴るから、ここでも、自分の話となるが、特に、努力や苦労を重ねた、とは思っていない。他人から見て、どう見えるのか、については、上に書いた話同様に、触れてみても、仕方ないことだろう。自分が、どう思うか、という点に、絞って話をすれば、世間的には、成功した人間、の範疇に、当てはまると思うが、それが、他人に、自慢できる程の、努力や苦労の結果、などとは、思ってもいない。自分が、できることを、その場その場で、行ってきた結果は、努力や苦労ではなく、役目を果たそう、とするような、感覚に近いものだ。何故、こんなことを、書くのか、についても、自慢げに、書き連ねる人は、おそらく、他人に、認められたい、との欲求が、動機の一つに、なっているのだろうが、こちらには、そんな気持ちは、殆ど起きていない。確かに、認められた方が、仕事も、やりやすくなるし、協力も、得られるに、違いないのだろうが、それで、手に入るものに、大した変化は、起きないと思う。それより、反感を抱かれ、邪魔されることの方が、大きいのでは。と言っても、パンチの場合は、自慢もせず、努力も苦労も、特に、ひけらかすことも、していなかったが、邪魔は、山のように、押し寄せてきた。人徳、と言われれば、それまでだが、そんな他人の行状に、苦言を呈したり、反対に、邪魔者の邪魔を、したりするのは、馬鹿げたこと、と思うから、何もしてこなかった。で、今の結果だ。これもまた、できることを、やったから、と思えば、それでいいと思う。

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5月2日(土)

 国立大学への、運営費交付金、所謂予算が、増額されて、少し光が見えた、と思った。そういう感想を、囀りにも書き、ここにも書いたと思うが、問題は、その使い道だろう。予算削減が、四半世紀程も、続く中で、当然ながら、様々に、規模縮小を、繰り返してきた。
 耐震対策として、補強工事が、行われたのは、法律上からも、当然のことで、その予算は、確保されたものの、全体としては、削減が続き、遂に、人員削減も、限界が見えていた。そこに、朗報が届いたが、果たして、本体自身が、何をどう、回復させるのか、あるいは、新たな戦略を、検討すべきなのか、改めて、考えるべきことが、山積みなのが、はっきりした。本来、法人化を機に、経営を主体として、取捨選択により、大学としての、責務を果たすべきか、考える時期だったが、それは、無い袖の一言で、対症療法の連続で、考えることさえ、放棄した所も、多かったと思う。特に、経営陣が、その責務を、果たそうとしないばかりか、組織の末端にまで、染み付いた、貧窮意識が、何事にも、意欲を失い、教え授けることさえ、放棄し始め、存在意義さえ、失いかけていた。遅きに失した、と言われる中、予算増額を決めた、国の財布を、預かる省庁は、それでも、やれとの命令を、下している。一方で、進学者の数は、世代人口減により、減り続けることが、明白なだけに、将来展望も、暗澹とせざるを得ず、遂に、学校数の減少の、見込みを発表した。弱肉強食の時代、と言われて久しいが、ここでも、競争社会であり、成果を上げねば、舞台を去るしかない。そんな中で、この発表を、当然と受け止める向きと、監督官庁でもないのに、何を、余計な口出しを、とする向きとが、見えてくるが、本質的な部分では、存在意義を、果たせぬのなら、消えるしかない、となるのだ。それも、実は、進学者との関わりで、成立する話であり、そこに、目を向けずして、身勝手な議論を、行う人々には、黙れの一言を、投げたくなる。人材育成が、第一であるなら、それに必要なことを、大学は、せねばならず、学生に、何かを強いるのも、当然となる。さて、どう考えるのか。

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5月1日(金)

 昨日の独り言を読んで、所詮、子供の話、と片付ける人も、居るだろう。でも、これまで、何度も聞かされたのは、大人の話に、騙され続けた、子供の話ばかりで、右も左も、判断つかないものだった。それに対し、この小説家の話は、十分な判断力を、有するものだ。
 にも拘らず、勝つ筈との話を、信じ切っており、その線に沿った、論理展開も、十分なものが、練り上げられている。ある意味、大人と変わらず、子供なりの判断で、自らも、戦争への加担を、惜しまぬ姿勢を、作り上げている。そこには、無知な子供の話、ではなく、十分な判断力があり、自分の夢を、描く一方で、国が突き進んだ、戦争への道に、自分も、乗ろうとする、そんな姿勢が、現れていた。その意味で、貴重な話であり、戦争に加担した、当時の小説家や、反対して、弾圧された、小説家などが、戦後になって、語った話とは、また異なった、雰囲気が漂う。それも、後に、作家となり、物書きとなった人が、時間が経過する中で、様々な考えを、巡らせた上で、当時のことを、書き記そうとした、そんな背景から、何か、全く別の感覚に、溢れているように、見えてくる。それも、当時のことを、できる限りに、再現したものだろうから、更に、貴重に思えるのだ。こういう記録は、印刷物として、後世にも残るから、誰もが、読むことができ、自分で、確かめることが、できる。創作、として片付けるのは、少し違うような、そんな気がするが、どうだろうか。日記のような、形式をとっているが、最後の纏めで、当時と今の、違いに触れたことが、更に、価値を高めている、ようにさえ見える、と書くと、持ち上げ過ぎだろうか。何れにしても、物書きとして、残したい、と思ったからこそ、出版に漕ぎ着けたのだろう。それに対し、読者が、どんな感想を、抱くのかは、人それぞれだ。自分の経験と、照らし合わせる、老齢の人もいれば、戦争を知らぬ世代は、全く異なる印象を抱く。後者の立場から、興味深い内容だった。

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4月30日(木)

 もう一つ、今月読んだ本を、紹介したい。これも、有名な女性小説家が、著したものだが、彼女が、戦中に、学校に通った時代に、書いたものの紹介と、その頃の心持ちを、書き記した記録だ。正直な気持ち、が現れていて、とても印象的だったし、当時からの創作意欲に、感服する。
 戦後、無謀な戦いに、突入したことへの、反省からか、反戦的な考え方が、主流となり、戦前は、国家挙げての、教育により、子供達の心に、戦争肯定の、考えを植え付けた、と言われ、そのように、教育されてきた。確かに、純粋な心を、弄んだ大人達が、居たことは事実で、それにより、利益を得た輩も、暗躍したのだろう。だが、その最中の、子供達の心の動きは、殆ど伝わらず、一方的な否定が、主流となっていた。その意味で、子供の心が、無視されたのは、今も昔も変わらず、大人の身勝手が、押し通されることに、何の違いも無い、と思えてきた。だが、この本を読み、その当時の、筆者の戦争への、考え方や、自分の心の動きとの、関係が、明らかにされると、ふと、違った考えが、芽吹いてくる。暴挙の全否定により、自らの存在を、肯定しようとする、心の動きを、蔑むつもりは無いが、否定された人の、心持ちにまで、思いを馳せずに、何も知ろうとせずに、否定し続けるのは、どうかと思う。これは、一つには、大衆媒体の、責任問題との、関係から出た、話なのだろうが、それにしても、こういう馬鹿げた、論調に乗せられる、大人達の浅慮に、もっと、思うべきことが、あるように思える。まあ、そうは言っても、今更、どうにもならぬ、との考えも、ある意味当然で、無力感を、抱くことで、責任逃れだろうが、責任転嫁だろうが、そんな言い訳を、せねばならない、事情をも、受け入れるべきかも。ただ、彼女が、戦後何年も経て、こういうものを、著した気持ちは、受け取る必要が、あるのではないか。一人で、できることは、小さいが、一人からでも、始めて欲しい、との思いを。

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4月29日(水)

 暴君の迷走は、止まるところを知らぬ。からか、市場は、右往左往を、止めたらしい。確かに、心理的な動揺は、収まってはいない。だが、日々、猫の目の如く、コロコロと変わる、情勢に対して、動き回れば、損失は、増えるばかりで、何の得にも、ならないからだ。
 当然ながら、彼の言動の、先を読んで、立ち回れば、濡れ手に粟の如く、儲けられるに、違いない。だが、これ程までに、不安定な心理の、先を読むことは、非常に困難であり、火傷をすることも、起きてくる。その上、爆撃が、始まった当初は、早々に、かたがつくと、思われたのに、今では、泥沼化し始め、暴君の言動は、信じるに足らぬもの、となってしまった。毎週末に、不穏当な発言を、続けた結果、はじめのうちは、恐れるような反応が、世界中の市場で、起きていたのだが、いつの間にか、免疫ができたが如く、不感症を、発症したように、なっている。そうなると、先読みも、難しくなるばかりで、そこに、油を注ぐのは、発言自体が、揺れ動くように、なったことだろう。このままでは、儲けと損失が、確率的にしか、起きなくなるから、長く投資に関わった、人々は、手を引くように、なったのだろう。では、次は、何が起きるのか。問題は、解決しておらず、燃料の供給は、不安定なままだから、収束を、期待する訳にも、いかぬ話だろう。その中、次は何、という疑問は、世界中の、誰もが抱くもので、解決法は、見つからぬままだ。ただ、焦ってみても、始まらぬのは、明白だろう。先行き不安から、何でも値上げ、という動きが、起きたのは事実だが、その根拠の薄弱さは、明らかとなった。もし、そうなら、様子を見る中で、米騒動と、同じようなことが、起きるに違いない。ありもしない、市場原理に、縛られるより、市場心理で、慌てふためく、物価の動向は、心変わりの結果、落ち着き場所を、見つけるからだ。泡銭は、何処かに消え、確実な商売への、回帰を、余儀なくされる。もう暫くの、辛抱なのか。

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4月28日(火)

 今月読んだ本は、あと数日で、公開するのだが、中に、興味深いものが、あった。小説家の、小説の書き方は、綴り方教室などで、よく知られた所だが、この本は、少し趣が異なる。自分が、著してきた、作品の内容を、紹介しながら、その時々で、出てきた話題を、綴っていた。
 長編小説では、連載が、基本となるから、締め切りを守るのは、当然のこと、と思われているが、それでも、日が迫り、追い詰められる中、光が見えた、などという話が、実しやかに、語られるものだ。でも、この小説家は、主に、短編、それもかなり短い作品で、名を成した人物で、一作一作が、別々なものだけに、締め切りも、少し違った感覚で、あるのだろう。だが、本人の矜持は、締め切りを守ること、だそうで、その心掛けにとり、重要なことを、説明していた。要するに、最高のものを、書こうと思わず、締め切り優先で、その場その場の、話題を拾い上げ、纏めるものの、必ずしも、満足の行くもの、となるとは限らず、時に、発表後に、下を向くしかない、となる場合も、多かったと言う。とはいえ、人気作家だけに、作品数も、膨大であり、本人曰く、玉石混淆、なのかも知れぬが、にしても、耳目を集めたものも、数え切れぬ程に、残している。高齢だが、まだ、現役を貫いており、最近も、出演したと聞くが、そこでも、不思議な話を、語っていたらしい。先日亡くなった、連れ合いの様子を、伝えるものだった、とのことだが、認知症を患い、看病を続けることを、諦めたことから、施設に、預けたらしいが、本人の動揺を、抑えようと、面会に行かず、知り合いにも、そうして欲しい、と伝えたとのこと。深慮の末、だろうが、人によっては、非情なもの、に見えるかもだが、淡々と、語る姿に、真意が、伝わったのでは、と漏れ聞いた。一方で、先程の話を、続ければ、締め切り第一の考えと、出来の良さに、拘らぬとの姿勢には、大切なことが、あると受け取った。世の中、大した能力も無いのに、締め切りを破り、出来の悪いものさえ、出してこない連中が、一杯居るのだ。

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4月27日(月)

 自分の意見が、世界を駆け巡る。こんなに嬉しいことはない、と思う人が多いのだろう。社会媒体は、まさに、その典型であり、誰もが、手にした端末から、好き勝手なことを、書き連ねている。それが、耳目を集めるかは、内容の質によるらしい。だが、これ、本当か。
 この独り言は、そういった媒体とは、異なるものだろう。運営は、自身で行い、誰もが、接続できる状況だが、その割に、耳目を集めることは、稀でしかない。理由は簡単で、入り口が、違っているからだ。ブログ、と呼ばれた代物も、それを、専門に扱う供給者を、通せば、誰の目にも、触れることができた。ただ、その時代と、今の社会媒体の違いは、供給の仕方、にあるのではないか。特に、最近の傾向は、それが強まっており、何故、と思う程に、ある偏りを持って、日々の書き込みが、表示される。これで、世界中の出来事を、網羅している、と思ったら、大いなる誤解となる。自分の興味に、従う形で、供給側が、仕組んでいるのだ。だから、同じような、考え方や、受け取り方を、する人々の意見が、氾濫することとなる。その上、最近は、言語の壁が、壊されつつあり、どんな言語の意見でも、読み手の言語に、自動翻訳され、供給されることになる。一々、意見の内容を、読み手が翻訳する必要がなくなり、結果として、誰もが、言語の壁を、感じないままに、意見交換できる。便利な時代、になったのだろうか、それとも。こうなると、意見の論理性が、重要になるのでは、と思う。例えば、大学教育に関して、その意義を重視する意見と、そうでない意見が、交錯する中で、それぞれの論理性は、かなり欠落しており、とても、高等教育に、携わる人間が、出したものとは、思えない。社会媒体の問題は、ここにある、とさえ思えるが、当事者達は、互いに、悦に入って、自慢げに、持論を展開する。その論理の綻びに、気付く気配はなく、ただ、耳目を集めさえすれば、それで、勝ち誇ったように、なっている訳だ。子供の玩具、であるまいに、この状況では、先が思いやられる。と書いても、反論を掲げても、誰も見向きもしないのだから、この社会は、所詮、その程度のものか。

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4月26日(日)

 案の定、昨日は、鉄道事故の話題で、持ちきりだった。それに比べ、囀りでは、殆ど話題とならぬ。理由は、おそらく、二昔前の出来事では、囀りの記録が、殆ど無かったからだろう。その5年程後の、大震災では、情報網として、社会媒体が、活躍したのだから、今は昔か。
 何にしても、事故の後には、必ずと言っていい程、安全の話題が、持ち上がる。確かに、この事故の原因は、運転手の過ちであり、その原因が、精神にあったのか、未熟にあったのか、はたまた、社員指導にあったのか、そんなことも、直後は、取り沙汰されたが、そんな人為災害を、防ぐ為の仕組みが、あの路線では、採り入れられておらず、企業責任が、厳しく問われた。それはそれとして、重要な事柄には、違いないのだが、安全安心が、今ほど、強く求められる時代は、無いと言われるが如く、高い要求が、壁となって、聳り立つような、そんな気がしてくるのは、こちらが、心配性だからか。確かに、機械的に、異常を感知して、正常に戻す仕組みが、導入されてさえいれば、防げた事故との指摘は、当然のことと思う。ただ、何処まで、その整備を、求めるかについては、様々な意見が、あるようにも感じる。ある程度の水準までは、費用対効果と呼ばれる、数値が、許容範囲内に、留まるのだが、ある点を超えると、途端に、難しさが増し、費用の高騰が、大きな問題となる。私企業ならば、事業継続の為に、不可欠な要素となるから、覚悟の上で、挑まねばならぬが、大震災後に、問題となった事故でも、同じことが、適用されるのでは、と思えてくる。絶対の安全を、手に入れる為に、という論理は、元から破綻しているが、それに、気付けぬ人の数が、どんどん増えているのでは、とさえ思えるのだ。特に、社会媒体が、日常的なものに、なった頃から、その要求の高まりが、急となっており、そちらの立場の人々は、一層の苦しみを、強いられている。歩留まりは、言い過ぎと思うが、何処迄の要求が、妥当で、何処からが、論外となるのか、目の前の問題を、眺めつつ、考える必要が、あるのではないか。

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4月25日(土)

「忘れない!」、との掛け声が、盛んに繰り返される。事ある度に、と言って仕舞えば、その通りかもだが、それにしても、どれ程のことを、覚えていろ、と言うのか。この国は、自然災害に、襲われることが、度々あり、その上に、人為災害が、加わると、お手上げ状態に。
 と書くと、大袈裟な、と言われるだろう。その通りだろう、と思う。度々、とは言っても、記録に残るものなら、数限りなく、とはいかず、それぞれに、起きた日を、覚えておくのは、不可能ではない。だが、こうも毎日、記念日の如く、訴えられると、いい加減に、と思い始める。でも、画面も紙面も、そういった話題で、埋め尽くされて、嫌になってしまう。PTSDも、屡々、話題となるが、心的外傷後ストレス障害は、確かに、治療が必要となる、病気の一つなのだろうが、それとこれと、どちらを、優先すべきか。思い出させることが、心の不安を、掻き立てる、とする一方で、忘れるな、との言葉が、飛び交っている。何方を選べば、などと言うつもりは、毛頭ないのだが、それにしても、ある意味、暴力的とも思える、やり方と思う。ただ、以前なら、大衆媒体の、専売特許、とまで言われた、この手の話が、今では、社会媒体でも、盛んに、飛び交っている。元々、迷惑千万、と言いたくなるような、ものなのだが、これが、個人の手に渡ると、一層、問題が深くなり、人々の心を、苛むような、ものへと変貌する。手口は、似ているものの、悪質さにかけては、一層、増している、とさえ思えてくる。昔の記事を、何処かに、しまっておき、それを、別に記念日でなくとも、思い出したとでも、言いながら、貼り付ければ、それだけで、ばら撒いてくれる。加担するかは、別として、閲覧数が増え、「いいね」が、悪意のないままに、増えていけば、目に触れる機会も、増し続ける。一度掲げれば、暫くは、そのまま、繰り返されるから、放置すればいい。そんなことに、思い当たる人が、多いのではないか。この話、何処かで見た、という程度から、もっと鮮明な記憶まで、様々だが、影響力は、十分にある。

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4月24日(金)

 三重苦は、言い過ぎだろうが、報道は、まさに、そんな雰囲気で、盛んに煽り立てる。彼らの常道であり、役目と自認する、そんな姿勢なのだが、その中身の軽薄さは、いつものことながら、呆れるばかりだ。大衆媒体の、為体は、そんな形で、取り上げられ、マスゴミと揶揄される。
 この程度なら、社会媒体の方が、ずっとまし、と思う人が、いるかもだが、現実には、石ばかりの中に、正しい情報を、掘り出さねばならず、安易に、賛同しかねるものだ。地震から始まり、それが、後発と呼ばれる、措置へと移った後に、山火事が、起きたとされる。それに加えられるのは、自然災害とは、ちょっと異なる、とさえ思える、熊の出没だ。どれも、避け難いものとして、並べられたのだが、それぞれの事情が、あまりに異なり、一緒に語るのは、いかがなものか、と思えている。後発に関しては、先日も、少し触れてみたが、確率が上がり、注意を要する、という意味で、常に、心に留め置く必要が、あると言われるが、さて、今になって、強調すべきものか、と訝しむ。確率は、確かに、低いものの、以前から、忘れた頃に、やってくるものとして、常に、注意すべきものだった、筈ではなかったか。次の、山火事に関しては、一年余り前に、大規模なものが、発生したことは、記憶に新しく、当時も、勢いが、収まりかけた頃から、断定的なものも含め、様々な憶測が飛び交い、仮説が、積み上げられた。にも拘らず、今回も、同様の調子で、恐怖を煽る内容が、垂れ流される。拡大するか否かには、それぞれの場所での、対応の積み重ねが、重要となる筈で、そのための憶測や仮定だったのでは、と思うのは、こちらだけで、現場も報道も、騒ぎ立てるのみ、にさえ見える。もっと酷いのは、熊の出没だろう。駆除方法に関して、冬眠前に、取り決めねば、と急いだ筈が、またぞろ、同じ調子で、現場の混乱が、伝えられる。駆除せねば、との考えは、どうなったのか、とさえ思えるが、報道の煽り姿勢が、それに加担するからか。何れにしても、三重苦は、暫く続くだろう。懲りもせず、とは言い過ぎか。

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4月23日(木)

 義務教育の義務は、国家に対するものでも、子供達へのものでもない。親の義務だが、誤解する人は、多いようだ。で、国が、こんなことを、決めたのは、家庭の事情、と称して、子供達の権利を、奪うことで、無償の労働を、手に入れる、という考えを、否定する為だ。
 ただ、その交換条件の一つとして、公教育の場合には、ほぼ無償とした。ほぼとは、教育に係る、という範疇であり、食事代や、その他の経費には、適用せずとの意味だ。この辺りから、今の社会に広がる、もう一つの誤解が、生まれている。つまり、給食費の支払いを、拒否する親や、修学旅行をはじめとする、学校行事への、参加の拒否である。食べずに、済ませるのなら、対価を、支払う必要は、出てこないが、他の児童が、食べているから、自分の子も、その権利がある、との主張の一方で、支払い拒否だから、矛盾に満ちている。理由の一つには、貧困があるが、それは、別の形での、支援を請求すべきで、それ無しに、権利としての主張は、誤りと思う。一方で、この貧困社会の問題は、次々に、標的を定めて、要求を増やしている。義務教育期間を超え、進学の自由が、明白な高校や大学にさえ、無償化を求め、それが、当然の権利と、訴えることには、異論を唱えたくなる。平等が、真っ先に、掲げられる権利だが、何をどうすることが、平等へと結び付くのか、理解不能に陥る。人材育成は、国にとっての、喫緊の課題だから、との主張も、実しやかに、論じられるが、誰が、人材となるのか、その資格はあるか、そんな指標で、この議論を、進めることが、起きないのは、何故だろうか。簡単には、今の教育現場の、荒廃ぶりを、眺めれば、明白になるが、その状況から、目を逸らした上に、平等でないから、意欲が上がらず、現状を招いた、とまで言い出す始末には、呆れるしかない。自らを、人材として、確かなものにする。そんな目的で、進学するのなら、その努力を、怠ることは、許されないし、その為の、支払いを、拒む理由など、見つかる筈も無い。だとしたら、無償化は、無意味と思えるが、どうだろう。ここでは、その原資として、税金が使われるが、その意味は、国民全体で、次代を担う人材の育成を、支援することだ。その同意が、得られるかは、対象となる人間の、心掛け次第と思うが、いかがだろう。

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4月22日(水)

 囀りにも、書くようにしている。ただ、反響の有る無しは、実は、誰の囀りに、反応するか、によるようだ。また、内容にも、よる部分が大きい。書く方は、大切なこと、と思っているのだが、その前の反応で、左右される、ということは、多分、読む人の気持ち次第か。
 独り言でも、囀りで書いた意見を、転載したことがあった。こちらへの反応は、訪問者の数しか、知る術が無い。囀りなら、「いいね」の数で、反響の大きさが、分かるだろうし、また、閲覧数も、大きな要素となる。教育について、幾つか書いた時、僅かだが、反応はあったものの、芳しくはない。とは言え、気になることだから、何度も、重ねて書いてきた。今回は、最近、話題になっている、教科書代について、意見を書いてみたが、殆ど反応が無い。まあ、話題とは言え、身勝手な意見が、殆どであり、多くの人には、どうでもいい、のかも知れぬ。こちらが、書いたのは、次のとおりだ、引用してみる。”なんでも無償はどうかと思う。大学教科書は一つの解決法として授業料に含めてとの意見もあるが、もう一歩進めてタブレットで電子ファイルに接続としてはと思う。出版社も最近の書籍は印刷用に電子化しているので。その上で、卒業後に印刷媒体を希望したら、改めて購入を”、とした。以前、授業料についても、講義単位当たりに、してはどうか、と書いたが、それとは、少し違う話だ。ただ、重い印刷媒体を、持ち歩く不便と、最近の、何でも電子化、の流れに乗せて、端末に、教科書のデータを、搭載させて、在学中は、それを参照させ、卒業後に、接続権を喪失した際に、印刷媒体の、購入を検討しては、という意見だ。価格の問題が、懸念材料とされるなら、こういう方式で、時限的な利用で、価格を抑え、それを、授業料に、上乗せさせる。出版業界も、印刷用に、電子化しており、そのまま流用すれば、新たな作業は、不要となるから、皆にとって、有用となる、と思えるのだが。と思って書いたが、何の反響もなく、閲覧数も、増えていかない。無償化ばかりに、目が向く時代に、合理性は、魅力無し、と映るのか。

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4月21日(火)

 0.1%から1%に、変えられて、どう感じただろう。流石に、10倍になった、との報道は無いが、でも、確率的には、まさに、その通りだ。だが、千回に一回から、百回に一回、となった、と言われたら、どうか。どれもこれも、数字なのだが、表現方法で、印象が違ってくるか。
 地震の話は、この手の話題で、事欠かない。正確に、伝えようとする一方、皆の心に、正しく伝わったかは、別の話になるらしく、時に、脅し文句が、並ぶことさえある。典型は、三十年以内に、70%の確率で、巨大地震が、という話だろう。でも、一部の学者は、ある期間に、「確実に」起きる、とまで言ったとある。何方にしても、結構な可能性であり、誰もが、恐れ慄くこととなる。だが、本当かどうかは、誰もが、保証できないこと、なのではないか。特に、「確実に」の一言を、付けた途端に、嘘となりかねない。だが、備えの為には、そうせざるを得ない、とまで、例の役所の人々は、断言しているらしい。だから、地震だけでなく、豪雨などの、自然災害に関しても、避難の必要性を、訴える目的で、過激としか、思えぬ表現が、並ぶばかりか、毎年、新しい表現が、登場する。確かに、災害は、地震にしろ、豪雨にしろ、起きてしまえば、犠牲者が、かなりの数に、上る場合が多い。だから、心配と不安を、募らさねば、安全や安心が、確保できない、と言うのだ。でも、一方で、普段から、心配や不安を、口にし続ける、庶民達の多くは、警報に従うことは、殆ど無いままに、何も起きないことで、安心を、手に入れたと感じる。この遣り取りには、何か、大切なことが、欠けているのか、と思うことはあるが、さて、何をどうしたら、「絶対的な」安全や安心が、手に入れられるか、見つけるのは、難しいようだ。それは、ある意味、当然であり、面倒の一言で、何事も、やり過ごす人々が、災害に遭う可能性が、増えるのだ。本当に、不安や心配に、心が苛まれるのなら、何か起きそう、と言われたら、すぐに対応する筈だが、そうはならない。この心理に対して、責任ある立場の人々が、盛んに、脅しつけるのは、間違いではないだろう。ただ、予想を外すと、罵声が飛び交い、時に、責任問題となる。ここを、解決しない限り、無理難題のままだろう。不可能だろうか。

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4月20日(月)

 いまだに、言われているのか。褒めて育てる、という掛け声が、嘗て、この国に、急速に広がった、ことがある。海の向こうから、押し寄せてきた、間違った考えが、流布されるのは、これに、限ったことでなく、あらゆることに、そんな事例が、溢れているが、それにしても。
 と思うこと、頻りなのだが、これこそが、間違っているのか。褒めて育てる、という考えが、全て誤りだ、とは言わないが、何処まで、そんな戯言が、通用するのか、と思えてしまう。これと並ぶ、考え方の一つに、他人に優しく、というものがある。これもまた、褒めて、という考えと、並ぶものとして、推奨されるが、どうしたものか。他人が、間違いを犯しても、それを、別の人や環境に、責任転嫁する。目の前の人間を、傷つけぬよう、との配慮と言われるが、はてさて、何がしたいのか。子育てを、少ししてみれば、叱ることの大切さに、気付く筈だが、その気配は、全く見えず、ただただ、闇雲に、褒め称える。いや、そんなことしても、悪戯は、無くならない、と思うが、叱ることで、萎縮させるのが、いけないとの考えを、優先させるようだ。そんなこんなで、周囲の人達から、いい人と呼ばれ、安心するらしい。成る程、いい人という言葉を、欲しいだけか、と思えば、納得できる。だが、それが、別の問題を、生じると、今、画面から流れる、話は、伝えている。何故なら、そんなことをしても、自信を持つことが、できないから、困っている、という人が、居るからなのだ。えっ、と思うのは、いつもながらだが、他人には、優しくできるのに、何故か、自分には、厳しくなる、という心情が、あるのだそうだ。全く理解不能だが、大真面目に、そのことを、伝え続ける。その説明を、聞いていても、何も理解が進まぬ。これでは、駄目だとなる、のだろうか。いや、何事にも、冷静に、分析すれば、何も心配なく、自分なりに、できることが、見つけられ、それを、粛々と、こなしていけば、他人の評価は、それなりになり、評価も高まる。と思うのだが、そうではない、と断言している。不思議な世界だが、そちらの方が、当たり前らしい。

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4月19日(日)

 何を信じれば、いいのだろうか。詐欺に、騙される話ではない。ある意味、権威を持った、大衆媒体が、堂々と報じる、出来事の中身だ。何故、こんなことが、と思うような話が、実しやかに、流され続ける。大元を辿れば、恐らく、囀りなどの、社会媒体に、行き着くのだが。
 最近の事件に、興味が湧かないのは、何故か。少し考えて、思い当たるのは、関係の有無だろう。他人事とは、よく言われるが、事件そのものの、凶悪性や重大性が、何処かで、指標のずれが生じ、どうでもいい、と判断する。多額の金品が、白昼堂々と奪われ、それが、同じ人物が、関わる中で、国を跨いで、発生した、という報道に、どれ程の人が、注目しただろう。仮想空間で、集められた人間が、一般家庭に、強盗に入り、時に、住民の命までも、奪ってしまった、という事件に比べ、こちらへの関心は、一向に高まらない。理由の一つは、金額の多寡で、その上、それらを、外国に、運ばねばならぬ、理由も、大きな要因となった。案の定、そちらの世界の出来事、であることが、徐々に明らかになり、所謂、内紛にも似た、現象なのでは、と思うしかない。子供が、行方不明になり、大々的な捜索が、実施されても、一向に、足取りが掴めず、放送は、毎日、あてにならぬ情報を、垂れ流すばかりで、推測は、何の根拠もなく、囀りの世界でも、飛び交い続けた。捜査方針は、当然の如く、明らかにされぬまま、迷走を続ける、と見られたが、その実、犯人の当ては、当初からつき、泳がせることで、証拠を、掻き集めていた、ようだ。異様な状況に、興味を抱いた人も、居たのだろうが、こちらからは、得体の知れぬ話で、何処か別世界の、話にしか、見えていなかった。死体として、発見された状況も、理解不能な情報ばかりで、死因さえ、不明とされた。最後に、関わった親族が、予想通りに、逮捕され、自白を始めた、とされるが、その内容は、警察の記者発表が、操作された、と思えるもので、自白だけでは、覆されるとの、懸念の表れか、とさえ思えてくる。また、すぐ近くの、国と呼ばれぬ、島の報道は、盛んに、外国出身者、と伝えていたが、事実無根と、片付けられつつある。根拠は、週刊誌記事とされたが、そんな記述は、一切無かった、と今更の如く、伝えている。これら、全ての顛末から、信用ならん、と結論付けては、心外と言い返されるのか。

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4月18日(土)

 情報社会である。入ってくる話に、目を光らせ、耳を澄まさねばならない。と言われるが、本当にそうだろうか。これだけ、嘘や出鱈目が、流れてきて、騙されぬよう、心掛けねばならない、のは、どうなのか。情報と言われるが、塵や石ばかりで、拾っても無駄、なのでは。
 そんな思いを、抱きつつも、毎日、新聞を読み、テレビを見て、ネットに接続する。どうせ、無駄に違いない、と思いつつも、何か、大切なことが、あるかも知れぬ、と思いつつ。で、結果は、殆ど変わらず、何も新しいことは、起きそうになく、悪いことも、言われる程には、起きていない。でも、と思うのは、件の暴君を、はじめとして、政治家達の言動が、何とも頼りなく、そして、嘘や出鱈目も、満載ということだ。これでは、任せておけない、のではないか、などと考える人も。だが、民主主義の国で、選ばれた人間を、敢えて、退場させることは、ほぼ不可能だ。一方で、独裁国家では、尚更に、困難な話で、諦めるしかない。連合の中で、異論を唱え、軍事侵攻が、起きた時さえ、同調することなく、連合体制を、危うくさせていた。その人物に関しては、長く続いた政権を、やっと、手放したと伝わる。で、どう変化するのか、まだ分からぬ。特に、暴君との繋がりが、今の混沌状態を、招いたと言われるだけに、あの人物が、退陣したとしても、大した変化は、起きないかもだ。とは言え、これまで、一人の反対により、支援を受けられず、窮地に追い込まれていた、あの国の状況は、好転するのかも知れぬ。まあ、これとて、情報は錯綜しており、軍事侵攻自体は、何の変化も、起きておらず、やはり、このままかも、とさえ、言われている。ただ、季節は変わり、一時に、劣悪な天候は、去っただろうから、資源への懸念は、少し和らぐかもだ。その上で、武力の争いには、どんな変化が、起きるのか。こちらにとっては、石油の問題の方が、遥かに大きく、扱われるが、結局、全部、同じ器の中での、話なのかも、だ。

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4月17日(金)

 教育現場の混乱は、深刻なものらしい。とは言え、混乱するばかりで、解決法が見つからず、ただ叫ぶだけ、と見えるのは、何故だろうか。厳しいかもだが、そんな印象を、覚えている。世の中の変化に、追従することが、叶わなくなり、ただ、あたふたしているだけ、なのかと。
 何が、問題なのか。当初は、従来の課題が、通用しなくなった、と言われた。つまり、人間の頭と手で、与えられた課題の、解決法を、導き出すのが、学習に繋がる、とされていたものが、人工知能の介在で、人間の関与が、著しく薄くなった、からなのだ。だとしたら、何をさせれば、と考えた途端に、戸惑っているらしい。一部には、自分で出したのか、機械が出したのか、その区別を、明らかにする為に、一人ひとりに、説明させれば、という意見があるが、多数を対象とする場合に、時間や手間が、膨大となる、と言われる。一方で、誰かの助けを得て、という形は、以前もあった訳で、それ自体は、悪いこととして、指摘されず、問題視されなかった。何故、友達やら本やらを、頼りにするのは、構わぬことで、機械が、全部やってしまうのは、いけないのか、きちんと、説明できない人が、居るようだ。課題を与える目的は、負荷をかけて、そこでの手続きを、経ることで、何らかの学習効果が、得られる、とされてきたが、その手順の殆どを、機械が代行しては、効果が見込めぬ、と言われる。だが、本当に、そうだろうか。何処まで、依存するかによるが、ある程度の助力は、誰もが、必要とする所で、それを得て、解決策を、講じられれば、それでよし、との考えもある。この二つに、どんな違いがあるのか、今一度、考えてみるべき、なのではないか。だとして、何をどうすれば、という点について、現場が、何も考えないのでは、やはり、大きな問題がある。まして、その人々が、その答えを、人工知能に、尋ねてしまうと、どうしたものか、と思えてくる。世の中、依存ばかりで、自立への道を、目指さぬようでは、もう、おしまいかも、だ。これを読んで、何か、考えてみては、どうだろうか。