義務教育の義務は、国家に対するものでも、子供達へのものでもない。親の義務だが、誤解する人は、多いようだ。で、国が、こんなことを、決めたのは、家庭の事情、と称して、子供達の権利を、奪うことで、無償の労働を、手に入れる、という考えを、否定する為だ。
ただ、その交換条件の一つとして、公教育の場合には、ほぼ無償とした。ほぼとは、教育に係る、という範疇であり、食事代や、その他の経費には、適用せずとの意味だ。この辺りから、今の社会に広がる、もう一つの誤解が、生まれている。つまり、給食費の支払いを、拒否する親や、修学旅行をはじめとする、学校行事への、参加の拒否である。食べずに、済ませるのなら、対価を、支払う必要は、出てこないが、他の児童が、食べているから、自分の子も、その権利がある、との主張の一方で、支払い拒否だから、矛盾に満ちている。理由の一つには、貧困があるが、それは、別の形での、支援を請求すべきで、それ無しに、権利としての主張は、誤りと思う。一方で、この貧困社会の問題は、次々に、標的を定めて、要求を増やしている。義務教育期間を超え、進学の自由が、明白な高校や大学にさえ、無償化を求め、それが、当然の権利と、訴えることには、異論を唱えたくなる。平等が、真っ先に、掲げられる権利だが、何をどうすることが、平等へと結び付くのか、理解不能に陥る。人材育成は、国にとっての、喫緊の課題だから、との主張も、実しやかに、論じられるが、誰が、人材となるのか、その資格はあるか、そんな指標で、この議論を、進めることが、起きないのは、何故だろうか。簡単には、今の教育現場の、荒廃ぶりを、眺めれば、明白になるが、その状況から、目を逸らした上に、平等でないから、意欲が上がらず、現状を招いた、とまで言い出す始末には、呆れるしかない。自らを、人材として、確かなものにする。そんな目的で、進学するのなら、その努力を、怠ることは、許されないし、その為の、支払いを、拒む理由など、見つかる筈も無い。だとしたら、無償化は、無意味と思えるが、どうだろう。ここでは、その原資として、税金が使われるが、その意味は、国民全体で、次代を担う人材の育成を、支援することだ。その同意が、得られるかは、対象となる人間の、心掛け次第と思うが、いかがだろう。
囀りにも、書くようにしている。ただ、反響の有る無しは、実は、誰の囀りに、反応するか、によるようだ。また、内容にも、よる部分が大きい。書く方は、大切なこと、と思っているのだが、その前の反応で、左右される、ということは、多分、読む人の気持ち次第か。
独り言でも、囀りで書いた意見を、転載したことがあった。こちらへの反応は、訪問者の数しか、知る術が無い。囀りなら、「いいね」の数で、反響の大きさが、分かるだろうし、また、閲覧数も、大きな要素となる。教育について、幾つか書いた時、僅かだが、反応はあったものの、芳しくはない。とは言え、気になることだから、何度も、重ねて書いてきた。今回は、最近、話題になっている、教科書代について、意見を書いてみたが、殆ど反応が無い。まあ、話題とは言え、身勝手な意見が、殆どであり、多くの人には、どうでもいい、のかも知れぬ。こちらが、書いたのは、次のとおりだ、引用してみる。”なんでも無償はどうかと思う。大学教科書は一つの解決法として授業料に含めてとの意見もあるが、もう一歩進めてタブレットで電子ファイルに接続としてはと思う。出版社も最近の書籍は印刷用に電子化しているので。その上で、卒業後に印刷媒体を希望したら、改めて購入を”、とした。以前、授業料についても、講義単位当たりに、してはどうか、と書いたが、それとは、少し違う話だ。ただ、重い印刷媒体を、持ち歩く不便と、最近の、何でも電子化、の流れに乗せて、端末に、教科書のデータを、搭載させて、在学中は、それを参照させ、卒業後に、接続権を喪失した際に、印刷媒体の、購入を検討しては、という意見だ。価格の問題が、懸念材料とされるなら、こういう方式で、時限的な利用で、価格を抑え、それを、授業料に、上乗せさせる。出版業界も、印刷用に、電子化しており、そのまま流用すれば、新たな作業は、不要となるから、皆にとって、有用となる、と思えるのだが。と思って書いたが、何の反響もなく、閲覧数も、増えていかない。無償化ばかりに、目が向く時代に、合理性は、魅力無し、と映るのか。
0.1%から1%に、変えられて、どう感じただろう。流石に、10倍になった、との報道は無いが、でも、確率的には、まさに、その通りだ。だが、千回に一回から、百回に一回、となった、と言われたら、どうか。どれもこれも、数字なのだが、表現方法で、印象が違ってくるか。
地震の話は、この手の話題で、事欠かない。正確に、伝えようとする一方、皆の心に、正しく伝わったかは、別の話になるらしく、時に、脅し文句が、並ぶことさえある。典型は、三十年以内に、70%の確率で、巨大地震が、という話だろう。でも、一部の学者は、ある期間に、「確実に」起きる、とまで言ったとある。何方にしても、結構な可能性であり、誰もが、恐れ慄くこととなる。だが、本当かどうかは、誰もが、保証できないこと、なのではないか。特に、「確実に」の一言を、付けた途端に、嘘となりかねない。だが、備えの為には、そうせざるを得ない、とまで、例の役所の人々は、断言しているらしい。だから、地震だけでなく、豪雨などの、自然災害に関しても、避難の必要性を、訴える目的で、過激としか、思えぬ表現が、並ぶばかりか、毎年、新しい表現が、登場する。確かに、災害は、地震にしろ、豪雨にしろ、起きてしまえば、犠牲者が、かなりの数に、上る場合が多い。だから、心配と不安を、募らさねば、安全や安心が、確保できない、と言うのだ。でも、一方で、普段から、心配や不安を、口にし続ける、庶民達の多くは、警報に従うことは、殆ど無いままに、何も起きないことで、安心を、手に入れたと感じる。この遣り取りには、何か、大切なことが、欠けているのか、と思うことはあるが、さて、何をどうしたら、「絶対的な」安全や安心が、手に入れられるか、見つけるのは、難しいようだ。それは、ある意味、当然であり、面倒の一言で、何事も、やり過ごす人々が、災害に遭う可能性が、増えるのだ。本当に、不安や心配に、心が苛まれるのなら、何か起きそう、と言われたら、すぐに対応する筈だが、そうはならない。この心理に対して、責任ある立場の人々が、盛んに、脅しつけるのは、間違いではないだろう。ただ、予想を外すと、罵声が飛び交い、時に、責任問題となる。ここを、解決しない限り、無理難題のままだろう。不可能だろうか。
いまだに、言われているのか。褒めて育てる、という掛け声が、嘗て、この国に、急速に広がった、ことがある。海の向こうから、押し寄せてきた、間違った考えが、流布されるのは、これに、限ったことでなく、あらゆることに、そんな事例が、溢れているが、それにしても。
と思うこと、頻りなのだが、これこそが、間違っているのか。褒めて育てる、という考えが、全て誤りだ、とは言わないが、何処まで、そんな戯言が、通用するのか、と思えてしまう。これと並ぶ、考え方の一つに、他人に優しく、というものがある。これもまた、褒めて、という考えと、並ぶものとして、推奨されるが、どうしたものか。他人が、間違いを犯しても、それを、別の人や環境に、責任転嫁する。目の前の人間を、傷つけぬよう、との配慮と言われるが、はてさて、何がしたいのか。子育てを、少ししてみれば、叱ることの大切さに、気付く筈だが、その気配は、全く見えず、ただただ、闇雲に、褒め称える。いや、そんなことしても、悪戯は、無くならない、と思うが、叱ることで、萎縮させるのが、いけないとの考えを、優先させるようだ。そんなこんなで、周囲の人達から、いい人と呼ばれ、安心するらしい。成る程、いい人という言葉を、欲しいだけか、と思えば、納得できる。だが、それが、別の問題を、生じると、今、画面から流れる、話は、伝えている。何故なら、そんなことをしても、自信を持つことが、できないから、困っている、という人が、居るからなのだ。えっ、と思うのは、いつもながらだが、他人には、優しくできるのに、何故か、自分には、厳しくなる、という心情が、あるのだそうだ。全く理解不能だが、大真面目に、そのことを、伝え続ける。その説明を、聞いていても、何も理解が進まぬ。これでは、駄目だとなる、のだろうか。いや、何事にも、冷静に、分析すれば、何も心配なく、自分なりに、できることが、見つけられ、それを、粛々と、こなしていけば、他人の評価は、それなりになり、評価も高まる。と思うのだが、そうではない、と断言している。不思議な世界だが、そちらの方が、当たり前らしい。
何を信じれば、いいのだろうか。詐欺に、騙される話ではない。ある意味、権威を持った、大衆媒体が、堂々と報じる、出来事の中身だ。何故、こんなことが、と思うような話が、実しやかに、流され続ける。大元を辿れば、恐らく、囀りなどの、社会媒体に、行き着くのだが。
最近の事件に、興味が湧かないのは、何故か。少し考えて、思い当たるのは、関係の有無だろう。他人事とは、よく言われるが、事件そのものの、凶悪性や重大性が、何処かで、指標のずれが生じ、どうでもいい、と判断する。多額の金品が、白昼堂々と奪われ、それが、同じ人物が、関わる中で、国を跨いで、発生した、という報道に、どれ程の人が、注目しただろう。仮想空間で、集められた人間が、一般家庭に、強盗に入り、時に、住民の命までも、奪ってしまった、という事件に比べ、こちらへの関心は、一向に高まらない。理由の一つは、金額の多寡で、その上、それらを、外国に、運ばねばならぬ、理由も、大きな要因となった。案の定、そちらの世界の出来事、であることが、徐々に明らかになり、所謂、内紛にも似た、現象なのでは、と思うしかない。子供が、行方不明になり、大々的な捜索が、実施されても、一向に、足取りが掴めず、放送は、毎日、あてにならぬ情報を、垂れ流すばかりで、推測は、何の根拠もなく、囀りの世界でも、飛び交い続けた。捜査方針は、当然の如く、明らかにされぬまま、迷走を続ける、と見られたが、その実、犯人の当ては、当初からつき、泳がせることで、証拠を、掻き集めていた、ようだ。異様な状況に、興味を抱いた人も、居たのだろうが、こちらからは、得体の知れぬ話で、何処か別世界の、話にしか、見えていなかった。死体として、発見された状況も、理解不能な情報ばかりで、死因さえ、不明とされた。最後に、関わった親族が、予想通りに、逮捕され、自白を始めた、とされるが、その内容は、警察の記者発表が、操作された、と思えるもので、自白だけでは、覆されるとの、懸念の表れか、とさえ思えてくる。また、すぐ近くの、国と呼ばれぬ、島の報道は、盛んに、外国出身者、と伝えていたが、事実無根と、片付けられつつある。根拠は、週刊誌記事とされたが、そんな記述は、一切無かった、と今更の如く、伝えている。これら、全ての顛末から、信用ならん、と結論付けては、心外と言い返されるのか。
情報社会である。入ってくる話に、目を光らせ、耳を澄まさねばならない。と言われるが、本当にそうだろうか。これだけ、嘘や出鱈目が、流れてきて、騙されぬよう、心掛けねばならない、のは、どうなのか。情報と言われるが、塵や石ばかりで、拾っても無駄、なのでは。
そんな思いを、抱きつつも、毎日、新聞を読み、テレビを見て、ネットに接続する。どうせ、無駄に違いない、と思いつつも、何か、大切なことが、あるかも知れぬ、と思いつつ。で、結果は、殆ど変わらず、何も新しいことは、起きそうになく、悪いことも、言われる程には、起きていない。でも、と思うのは、件の暴君を、はじめとして、政治家達の言動が、何とも頼りなく、そして、嘘や出鱈目も、満載ということだ。これでは、任せておけない、のではないか、などと考える人も。だが、民主主義の国で、選ばれた人間を、敢えて、退場させることは、ほぼ不可能だ。一方で、独裁国家では、尚更に、困難な話で、諦めるしかない。連合の中で、異論を唱え、軍事侵攻が、起きた時さえ、同調することなく、連合体制を、危うくさせていた。その人物に関しては、長く続いた政権を、やっと、手放したと伝わる。で、どう変化するのか、まだ分からぬ。特に、暴君との繋がりが、今の混沌状態を、招いたと言われるだけに、あの人物が、退陣したとしても、大した変化は、起きないかもだ。とは言え、これまで、一人の反対により、支援を受けられず、窮地に追い込まれていた、あの国の状況は、好転するのかも知れぬ。まあ、これとて、情報は錯綜しており、軍事侵攻自体は、何の変化も、起きておらず、やはり、このままかも、とさえ、言われている。ただ、季節は変わり、一時に、劣悪な天候は、去っただろうから、資源への懸念は、少し和らぐかもだ。その上で、武力の争いには、どんな変化が、起きるのか。こちらにとっては、石油の問題の方が、遥かに大きく、扱われるが、結局、全部、同じ器の中での、話なのかも、だ。
教育現場の混乱は、深刻なものらしい。とは言え、混乱するばかりで、解決法が見つからず、ただ叫ぶだけ、と見えるのは、何故だろうか。厳しいかもだが、そんな印象を、覚えている。世の中の変化に、追従することが、叶わなくなり、ただ、あたふたしているだけ、なのかと。
何が、問題なのか。当初は、従来の課題が、通用しなくなった、と言われた。つまり、人間の頭と手で、与えられた課題の、解決法を、導き出すのが、学習に繋がる、とされていたものが、人工知能の介在で、人間の関与が、著しく薄くなった、からなのだ。だとしたら、何をさせれば、と考えた途端に、戸惑っているらしい。一部には、自分で出したのか、機械が出したのか、その区別を、明らかにする為に、一人ひとりに、説明させれば、という意見があるが、多数を対象とする場合に、時間や手間が、膨大となる、と言われる。一方で、誰かの助けを得て、という形は、以前もあった訳で、それ自体は、悪いこととして、指摘されず、問題視されなかった。何故、友達やら本やらを、頼りにするのは、構わぬことで、機械が、全部やってしまうのは、いけないのか、きちんと、説明できない人が、居るようだ。課題を与える目的は、負荷をかけて、そこでの手続きを、経ることで、何らかの学習効果が、得られる、とされてきたが、その手順の殆どを、機械が代行しては、効果が見込めぬ、と言われる。だが、本当に、そうだろうか。何処まで、依存するかによるが、ある程度の助力は、誰もが、必要とする所で、それを得て、解決策を、講じられれば、それでよし、との考えもある。この二つに、どんな違いがあるのか、今一度、考えてみるべき、なのではないか。だとして、何をどうすれば、という点について、現場が、何も考えないのでは、やはり、大きな問題がある。まして、その人々が、その答えを、人工知能に、尋ねてしまうと、どうしたものか、と思えてくる。世の中、依存ばかりで、自立への道を、目指さぬようでは、もう、おしまいかも、だ。これを読んで、何か、考えてみては、どうだろうか。
生成人工知能の問題は、当初、学問の世界で、取り上げられた。と言っても、初めに起きた問題は、大学での教育への、悪影響とされ、その直前に、世界規模で起きた、感染拡大から、現場の取り組み方が、通信によるものへと、変貌したことが、強く影響したようだ。
遠隔講義なるものが、便利なものとして、緊急事態が、収束した後も、継続される中、試験を課したり、課題を提出させたり、などにより、専ら、評価を下していたものが、その仕組みを通せば、誰もが、満点を取れたり、それなりの提出物を、簡単に、手に入れられたり、評価そのものを、蔑ろにする動きが、高まったからだ。その後、悪影響は、絵画などの芸術や、映画の世界へと、飛び火した、と伝えられ、関係者の権利保証が、喫緊の課題、とまで言われた。偽物を、発見する手立てが、講じられる一方で、仕組みを通った作品は、その徴を残す、との取り決めも、大真面目で、検討されていた。だが、それでもまだ、文学作品については、遠い未来、とさえ言われたが、短編で名を馳した、人物の名を冠した、文学賞では、急激に、人工知能を活用した、作品の応募数が、増えたとある。活用の有無を、知らせぬままに、審査を進めたら、受賞作の大多数が、活用したものだったとなり、遂には、審査を辞退する人が、出たとまで伝わる。確かに、大学での騒ぎでは、課題の内容を、伝えただけで、機械が作ったものを、そのまま、提出することが、問題とされたが、文学賞の応募では、そこまで、劣悪な態度で、応募した人は、ほんの一握りだろう。だが、程度の差はあれ、何かしらの助力を得て、書き上げられたものを、自分の作品と、断言できるかについては、一考の余地は、ありそうに思う。だが、そこまで、話が進むと、途端に、嘗ての絵画作品は、工房での制作に、よるものだったとか、一流の小説家も、助手の調査や、数々の助言で、内容が浮かんだとか、そんな話を、持ち出す人が、出てくるに、違いない。何処に、線を引くべきか、現時点では、答えは、見つかりそうにない。その中で、審査という過程があり、受賞すれば、何かしらの賞品と名誉を、授けられる、となれば、どうすべきか、難しい所で、辞退する気持ちも、分からぬでもない。俳句、短歌や標語などの、応募作が、他人のものだった、という時代から、機械の介入となり、評価する側ではなく、作る側の矜持が、試されるということか。
まだ、早過ぎるかもだが、騒ぎは、収まったように思う。といっても、広い世界の話ではなく、ちっぽけな「独り言」の世界の話だ。以前書いたように、ある日突然、数百の閲覧数となり、徐々に、閲覧は減ったものの、その内、別の場所から、接続するようになった。
この間、これも書いたことだが、隣の国のある地域から、突然の閲覧が続き、対策を、講じる必要が、あるかもとばかり、検索したら、まさに、そこからの迷惑閲覧が、起きた事件が、報告された。対策は、確かに、講じられるが、とは言え、無制限の措置は、馬鹿げたもので、暫く、様子を見ることとした。すぐに、閲覧数は、数分から一度から、1時間に数回となり、暫くすると、1日に数回となった。何か、特定の目的を、果たすものではなく、単なる愉快犯、と見做せば、その通りかも、と思っていたが、その後、海を渡って、あちらの方から、別の形での、閲覧が増え始め、と言っても、大した数では、なかったものの、暫くの間、続いていた。それも、音無しの状態となり、そろそろ、終わったのかも、と思い始めた所だ。で、何か、目的があったのか、については、不明なままだ。こちらのサイトについて、検索を繰り返したが、何も見当たらず、囀りにも、出てこない。まあ、そんなもの、と思っておけば、いいのかもしれぬが、それにしても、迷惑な話だ。更に、今の社会で、流行っている考え方に、従ってみれば、不安や心配が、募るとでも、言っておけば、とさえ、思えてくる。そういう意味で、この形での、情報社会の構築には、何とも、迷惑千万な、悪影響が、含まれている、と言えそうだ。自分が、書きたいことを、書ける場があるから、それだけの、利益を得ている筈、との見方もあるが、だからと言って、何やら得体の知れぬ、攻撃、とは必ずしも言えぬが、を、受ける必要がある、とは言えそうにない。また、勝手な独り言とは言え、その内容が、誰かにとり、不都合極まりない、となることは、ありそうにもないのだ。ま、とは言え、収まったのなら、それで、終わりとしたい。と願うばかりだ。
昨朝の経済番組では、「異次元緩和」の継続で、知られた前総裁が、登場していた。交代後、金利を上げる方向に、進み始めたことと、物価上昇との関わり、更には、経済成長への期待、などの話題が、論じられていたが、感じたことが、二つあった。もっと別の感想も。
緩和を続けた結果、実は、この国の経済は、停滞期から、脱することが、難しくなっていた、との意見が多い。物価上昇の兆しが、見え始めても、一向に、考えを改めないことから、信頼は、揺らいでいたと思うが、その理由も含め、今の状況に、見解を示していた。だが、そこで示された、一つの図表に、強い違和感を、抱いた。同じものではないが、この記事の中の、売上高純利益率の図表が、彼が紹介した、企業収益率の推移と、似たものに思える。違和感は、高度成長期の、率に比べて、停滞期後半の率の方が、遥かに高い点で、そこからは、既に、回復が起きていた、とも言えることだった。にも拘らず、緩和政策を、継続することで、企業の利益が、更に増す方向へと、進めたのは、何の為だったのか。大企業への優遇策、と見做されても、否定できない程だ。これを、正当化したのが、今回の見解の、異様さの一つであり、もう一つは、この人物が、率の推移を、知りつつも、尚、緩和を続けたことが、交代しか、解決の手段がない、という点を、明白にしたことだ。古今東西、この図式に、変化は無く、拘れば拘る程に、方針転換は、期待できなくなり、結果、首を挿げ替えるしか、手立てが残らない。まさに、そのことを、実感させるものだった。だから、今の動きにも、当時の考えを、すっかり忘れたかの如く、平然と、賛同する訳だ。これに対して、囀りでは、呆れたとの反応が、続々と寄せられ、不平不満を、吐き出す人々が、散見された。だが、それとて、身勝手な意見の、表れでしかない。議論は、確かに、大切なのだが、相手を、屈服させて、改めさせる程に、追い詰めるのは、容易なことではない、と解った気がした。
海の向こうの大統領は、暴君ぶりを発揮して、世界情勢に、暗雲が立ち込める、と言われるが、その一方で、彼の動きを、察知することで、濡れ手に粟の如く、儲けを、産み出す人がいる、と言われる。確かに、暴君の囀りで、相場は、一喜一憂させられ、それが、儲けと繋がる。
この話を、以前書いたが、ここ数週間の動きからは、全く別の推測が、可能となる。毎週末、世界には、不安と心配が、広がることで、週明けの相場は、下げる傾向にあった。今日も、その一つとなる、との推測が浮かぶのは、交渉が、互いの主張を、突きつけるだけで、不調に終わったからだが、それも、腹心に任せ、自分は、高みの見物とした、暴君のやり方が、大きな要因となった。それも、腹心の中でも、今回の動きに、反対した人物を、派遣するという、異例の判断で、世界の期待を、集めることで、暗礁に乗り上げた場合の、効果を、更に大きくした、とさえ見えてくる。もう一人の腹心である、長官は、今回の敵に対して、厳しい対応を、言い続けており、また、攻撃に加わった国へも、支援を惜しまぬ姿勢を、貫くことから、もし、こちらが派遣されれば、はじめから、成立の可能性が、ほぼ無い状況、となっていた筈であり、期待が、膨らむ筈も無かった。それが、副大統領となれば、正反対の結果を、期待することで、先週末の相場は、好転していたのだが、交渉の結果は、期待外れとなり、週明けは、荒れそうな気配が、漂う。だが、これらの流れは、特段、想定外とも、言えないのでは、と思う。筋書きから見れば、徹底攻撃を、続けることが、攻撃に加わった、二つの国が、想定したものであり、ある程度の、成果は上がったものの、依然として、反撃を続ける、当事国と、その支援を受けた、各地の組織を、徹底壊滅しよう、との思惑は、依然として、大きいままだろう。さて、この不安定の中で、相場が、どう動くのか。不安や心配は、残っているだろうが、結局は、戦地以外では、ほぼ正常な、経済活動が、続くと見た方が、良さそうにも見える。
不安とか心配とか、何故、そんなことばかり、口にしたり、文字にしたり、するのだろうか。だって、備えることが、大切だと、習ったから、というのなら、肝心の備えは、どうなのか。不安、心配は、分からぬもないが、肝心の備えが、何も無いままに、叫ぶだけなら。
一生懸命、そんな言葉を、叫び続け、皆の助けを、乞うている人に、備えは、と尋ねたら、その途端に、怒り出す人が、多いようだ。だから、肝心なことは、指摘せずに、ある意味の、無視を続ける。その方が、気楽だし、無理に、面倒を、背負い込むのは、御免蒙る、という人が多い。だから、いつまでも、不安も心配も、無くなることが、ないのでは、と思う。でも、理詰めで、この辺りのことを、追求したら、皆、何処かへ、行ってしまうのでは、と「心配」する人も居る。論理とか吟味とか、感情的になる人に、幾ら言っても、始まらないと言われる。確かに、不安や心配は、極々、感情的なものだけに、その弱点を、指摘されては、堪らない。その位は、気を遣ってやれ、とも言われるが、これ程までに、そのやり方が、横行してくると、どうにかならぬか、と思い始める人が、居るのではないか。そこにも、被害者意識が、働いており、自らを、弱者と決めつけ、被害を受けたから、救われるべき、などと言われたら、手を差し伸べる人も、居るだろう。だが、その実、何の被害も、受けておらず、却って、他の人に、害を及ぼすだけ、となっていたら、さて、どうすべきか。こちらの感覚では、理詰めで、問題点を、指摘することが、手始めと思い、それを、実行に移すのだが、その途端に、激昂されるから、溜まったものではない。間違いを、間違いとすることに、怒り狂うというのは、今の時代の、流行なのかも、などと思ったりも、するのだが、それが、害を産むのなら、やはり、過ちを指摘し、改めるように、と促すのが、当然と思う。この論理が、通用しなくなり、虐めの一種と、断じられたり、差別と、断定されると、はてさて、どうしたものか、と思う。権力を、握る人間が、まともなことを、話すことに対し、感情的になり、差別や虐めと、断じられるのは、間違いでしか無い、と思うのだが、どうか。もう面倒だ、となるのも、止む無し、とすべきか、それとも。
米騒動は、その典型だったと思うが、今も続く、詐欺話に便乗した、報道の無責任な、垂れ流しの連続には、呆れるしかない。その一方で、庶民は、社会媒体だけでなく、大衆媒体に対しても、吟味を繰り返し、大事な資産を、失わぬよう、注意を払う必要がある。
先日も、暴君の世迷い事に、便乗としか、思えない値上げが、行われた時、報道は、専ら、それを擁護し、先の見通しの悪さを、盛んに強調した。将来が、見通せないのは、当然のことで、その心配を、繰り返しつつ、その場その場の対応で、生き延びるのが、これまでの常だった。なのに、傾向と対策に、毒された現代社会は、盛んに、警句を飛ばすことで、責任放棄を、繰り返している。これに、庶民が、惑わされるのは、愚かなことだが、その圧力を、政に向けて、吐き出すのは、最悪の衆愚の現れ、としか思えない。その後も、見込みの欠如が、長引く戦いとなり、そこに、交渉術という、自慢の道具を、繰り出したものの、現実には、単なる騙し合いで、その応酬に、振り回される、世界の相場は、一部の人間の、ぼろ儲けに、繋がっただけだ。結局、解決には程遠く、どうなるか、見通せないばかりか、それに加えて、更に、煽りを加え、通行料なるものが、取り沙汰され始めた。確かに、一隻当たりの、金額を示せば、こちらの貨幣で、3億円になると言う。だが、巨大な船舶は、膨大な量の化石燃料を、運搬できる。原油に、当てられる単位では、200万バレル、だそうだが、バレルを、日常単位に直せば、160リットルだそうで、そこから、算出された、リットル当たりの、通行料は、1円となるそうだ。一つの新聞は、それを明記したが、この騒動に、便乗する動きでは、おそらく、末端価格に、その10倍か数十倍を、上乗せするのだろう。市場心理の、表れでしかない、この騒動も、得意とする、悲観論の、格好の材料となる。この馬鹿騒動は、所詮、一部地域の、覇権争いに、端を発したものに過ぎず、こちらにとっての、安定とは、直接的な関係にはない。その中で、暴君の迷走が、不安を煽り、世界規模への転換さえ、危ぶまれつつある。先の二度の大戦を、思い起こせば、対岸の火事と、見做すことは、過ちに思えるが。
気にもしない人間には、どうでもいいことに、違いないのだが、気になる人間は、手にした端末から、目を離せなくなり、その動向に、寝る間も惜しんで、集中する、と言われる。情報弱者が、損をするとの通説が、溢れ始めた頃から、ネットへの関心が、高まったのは事実だが。
今の状況は、病的としか、言いようがない。それほどの、魅力があるのか、と疑う人には、そこでの論争は、余りに下らなくて、取るに足りないことを、さも重要かの如く、書き連ねる輩の、知性どころか、品性さえ、疑いたくなるが、大真面目な人々は、そこに、情報の、宝の山がある、とでも信じているのか、必死で、情報収集に、励んでいるようだ。だが、所詮、そこに散らばるのは、嘘や出鱈目ばかりで、さも重要の如くに、言説を連ねる人々は、自らの無知に、気付くことなく、誤った情報に、基づく説明を、続ける。少し、知識があれば、その嘘は、即座に見分けが付くが、傾向と対策ばかりに、目が奪われる人々は、その違いに、気付く気配もなく、深みに嵌まっていく。何故、そんな嘘に、気付けないのか、少し考える力があり、吟味力を備えた人間には、不思議にしか、映らないのだが、正常な人間には、その理由が、全く見えてこない。だが、騙され続ける人は、何度やられても、同じ轍を踏み続け、二進も三進も、行かぬ状況にまで、落とされていく。そんな人々には、こんな便利さは、単に、害悪でしかなく、何の役にも、立たないばかりか、自分の時間や金までも、毟り取られる。無知であることは、普通は、恥でしかないが、この世界では、無知であるが故に、非論理的なことや、非常識さえも、当然のこととして、断定できる。となれば、怖いものなど、ある筈もなく、何度失敗して、何度非難されても、懲りることなく、知らない話に、首を突っ込み、非常識を、晒すこととなる。通常の感覚なら、面と向かって、馬鹿にされたり、罵倒されれば、二度と、同じことを、繰り返さぬものだが、匿名性の確保と、相手の顔が見えぬ状況に、平気の平左を、続けることができる。だから、幸せなのかも知れぬ。
若気の至りは、大成してから、懐かしがって、吐く言葉だが、反発は、若者の特権、と言われた時代もあった。特に、混乱が高まり、海を挟んだ、何方側でも、学園紛争と呼ばれる、社会への、反発運動が、高まった時代には、通らざるを得ない、道筋とも言われた。
だからこそ、大目に見て貰え、出世払いも含め、将来への期待が、重しとなったことも、あったと思う。昨日、新たな環境に、不慣れな人々が、混乱に戸惑う姿を、取り上げたが、今の状況は、上の話が出た時代とは、大きく異なるようだ。反発ならば、受け止めれば、それで済む。後々、そのつけが、回ってきた時に、借金を返せば、いいだけのことだった。だが、今の状況では、反発ではなく、依存ばかりが、目立っている。無能なのは、今も昔も、変わらぬことだが、反発は、それを承知の上で、無謀な試みを、断行する気持ちがあったが、今は、できないことを、棚に上げて、誰も手を貸さず、困り果てた姿を、曝け出した上で、何もかも、投げ出してしまう。その上で、手助けを受けるのは、当然の権利として、待ち続けてみたり、他人任せを、し続ける訳だ。いつから、要求だけが、拡大したのか、ある意味、不思議でしかないが、当事者達は、大真面目に、当然の権利を、主張し続ける。この借金は、仮令、何かの間違いで、成功を手に入れたとしても、返すつもりは、毛頭無く、成功は、自分の手柄、失敗は、他人の責任、という図式を、書き換えることは、一生出てこない。こんな馬鹿者が、いい大人になり、子供を育てると、どんなことが、起き始めるか。考えたくもないが、現実は、まさに、その延長線上に、あるのではないか。その中で、手にした端末から、不平不満を、当然の権利として、発信し続け、同じ愚かさの持ち主から、共感を得るのが、今時の若者の、常套手段となっている。悲鳴を上げれば、誰かが助けてくれる、との考えは、甘え以外の何物でもなく、その一方で、間違った情報を、そういう連中に、分け与えて、満足を得るのは、無知の典型となる。また、そんなことが、例年の如く、始まっているが、さて、どうなることか。
新年度が始まり、一週間が経過した。新たな環境で、戸惑うばかりの人や、既に、脱落した人が居る、と言われる。特に、職場では、期待外れ、と見る向きは、働く側にも、雇う側にも、見られる傾向だ。初日から、他人任せの、脱落が始まった、とまで報道されたが。
自己主張が、大切だと、教わりながら、育ったせいか、要求ばかりが、強まってきた。その結果として、現場での軋轢が、様々に、取り沙汰されるが、どうにもならぬ、としか思えぬ。渦中の人々が、主張を諦め、何処かに、収まることしか、期待のしようがないが、社会全体で見れば、瑣末なことに過ぎぬ。一方、学校が変わった人々は、まだ、本格始動とは、なっておらず、今は、何が起こるか、戦々恐々とするか、或いは、期待が、更に膨らむか、といった状況だろう。ただ、ここでも、既に、自己主張ばかりが、囀り界隈には、聞こえてくる。この仕組みが抱える、大きな問題であり、実情を、全く反映していない、と何度も指摘されるが、その通りと思う。自らの不明を、恥じることなく、非常識な見解を、表明するばかりか、それに伴い、異様な要求を、押し通そうとする。社会常識が、通用しないのは、若者の特権かもだが、それにしても、非常識加減は、強まるばかり、と映る。何故、こんなことが、起きるのか、については、まずは、周囲の大人の対応が、第一に考えられ、その上に、社会媒体などの、狭隘な環境が、その傾向を、増長するという、状況がある。社会全体から見て、非常識と思われても、仲間内では、絶対常識とまで、思い込める人間性は、井の中の蛙の、典型例としか思えず、このままでは、適応の機会は、得られぬまま、となることは、明白だろう。その中、節目において、自身を、変える手立ては、自分の心の中に、ある筈のもので、他人任せには、できないものだ。折角の、変わる機会を、逸することは、反省しても、仕切れぬものだが、当人のみならず、周囲までもが、同じ穴の狢、となるようでは、これにて終了、となっても仕方ない。ま、本人達の問題で、社会がどうするものでもないが。
無駄とは思わぬが、さて、どんな議論が、できたのだろう。突然の選挙で、野党は大敗を喫し、二院制の、優位な方で、著しい偏りが、生じてしまった。そこで、政府は、与党の優勢を、利用する形で、さっさと審議を済ませ、もう一方に、送ったのだが、そこで、齟齬が生じた。
といっても、予想できた話で、おそらく、簡単には進まず、例の如くの、邪魔が入るとの、見込みはできていた。だから、年度内成立が、できなくとも、一時的な手当てで、急場を凌げば、なんとかなる、と見込んだに違いない。それ自体には、疑いの余地は、無いものと見えるが、一方で、野党側が、盛んに主張した、十分な審議時間を、確保すべき、との話は、結局、どうなったのか。前にも触れたが、これまでも、予算委員会での審議で、予算そのものでなく、政治に関わる、全般に渡る議論が、行われてきたのは、野党側が、それを、質問項目として、政府に対して、提出したからだ。それにより、紛糾すれば、報道は、ここぞとばかりに、それを取り上げ、政治の混乱が、と結びつける。だが、予算そのものを、審議するのではなく、政治腐敗や、政治家の行動規範について、議論する場は、そこなのだろうか。特に、今回は、元々、時間が少なくなり、一昨年度までのような、悠長なやり方が、通用しない、と目される中で、いつも通りの調子で、大臣の不倫や、その他の問題について、論じようとする姿勢には、呆れる場面も、多かったように思う。本当に、予算項目そのものに、問題があるのであれば、ずっと以前から、それについての、議論を重ねる時間は、十分にあるのに、一体全体、この国の政治は、何をしているのか、とさえ、国民は思ってきただろう。そこに、今回のような、茶番にも似た、やり方については、もっと批判が、集まってもいい、とさえ思う。まあ、所詮、政とは、その程度のもので、選ばれし者達が、集まって、話し合って、という本来の姿ではなく、ただ、言いたい放題を、相手にぶつけて、相手も、それに対して、まともな返答もせず、の繰り返しとなる。世界全体に、その風潮が広まり、一方で、分断が強まる、と言われては、何が何やら、としか思えぬ。で、そろそろ成立らしい。
悲観一色の人達にとり、何と好都合な、世界情勢だろうか。暴君の囀りが、日々、猫の目のように、様々に変わるにつれ、皆の心は落ち着かず、紛争地域から、世界へと送り込まれる、原油の輸送は、滞っている。将来を、悲観するには、これ程強い、材料は無い、となる。
だが、政に関わる、人々にとり、同じ論調で、臨んでいたのでは、まさに、将来が無くなる。少しでも、良い材料を並べ、それを元に、将来が、好転することを、約束するしかない。だが、その側で、雑音を出すのも、悲観派の常なのだ。攻撃が、起きた途端に、末端価格を、上げる動きが、始まったのには、呆れるばかりだが、報道は、悲観一色となり、悪い材料を、重箱の隅から、拾い上げ続ける。何と、情けない人々か、と思うが、それこそが、耳目を集め、信頼を勝ち得る、唯一の手法とでも、思っているようだ。原油が、枯渇するまでには、暫く時間が、かかることは、明白だが、悲観には、そんな時間は、無いに等しい。まずは、いつ、無くなるか、という話を始め、その為の備えとして、節約を始めよう、という掛け声を上げる。いやはや、どうなることか、と思うこと頻りだが、彼らの耳に、届くのは、悪い話しかないらしい。宰相が、ある原材料の確保に、奔走する中、様々な方策により、4ヶ月から半年の、期間を提案したが、それに対して、悲観派は、何も聞こえず、何も好転しない、と断じるばかりだ。明日の、末端価格は、上がって当然だが、半年先の保証は、何もできない、とは、何事かと思うが、そんな論理は、通用しそうにない。今を、大切にすることが、まずは、肝要と思うが、どうだろう。また、今後の要素を、次々に、上げることは、将来への備え、と見做されるようだが、ありそうにない、可能性まで、論じるのは、愚かとしか思えぬ。災害への備えも含め、悲観論のみで、議論することには、危うさしか、感じられない。
暴君の暴走ぶりに、世界中が、振り回されている。その中、よく聞こえてくるのは、目的は何、という疑問だろう。確かに、紛争地域の問題に、遠くから、口だけでなく、手まで出す必要は、無いように見える。だが、少し違う見方をすると、何か、見えそうな気もする。
一つは、前の任期だったか、あの国の首都を、認めたとの話だろう。それだけ、肩入れしており、周囲との軋轢など、歯牙にもかけず、我が道を行く、という感があった。その関係性から、今回の暴挙も、起きたと見る向きがある。確かに、海の向こうにとり、あの民族との関係は、以前から、深いものとされ、政治への介入も含め、金銭的な支援も、長きに渡り、行われてきたとされる。それは、二大政党の何方にも、通用する話であり、暴君独自のもの、ではないとも言える。一方で、暴君の国にとり、敵と見做した国は、嘗ての王政から、革命により、現体制に変わって以来、様々な形で、邪魔な存在、と思われており、その延長線上において、意外とは、言い切れないとも見える。ただ、核開発に関しては、強い拘りがあり、今回の決断も、その辺りに、最大の理由がある、と見る向きもある。とは言え、最初の攻撃以来、二転三転する動きに、訝しむ声も大きい。ただ、こちらについては、あまり触れられないが、一つの見方が、ありそうに思う。それは、株価の動向や、為替の動き、更には、原油価格の変動などが、暴君の発言や、突然の動きの数々で、激しさを増すことで、暴落や暴騰が続く中、一部には、それにより、利鞘を稼げるのでは、との推測が、飛ぶからだ。確かに、政治に携わる人間が、直接、相場に手を出すことは、禁じられており、今回に限らず、厳しい目が向けられる。前の、下院議長が、不正取引に関して、取り沙汰されたのは、記憶に新しいが、本人だけでなく、周辺の人間が、関わることさえ、疑惑の目が、向けられるのだ。だから、政権内に、居座る親族が、それに手を出すことは、ほぼ不可能と思えるが、遥か遠くの存在に、発言前に、情報を漏洩したら、と想像することは、難しくはない。ただ、何処迄が、その範囲なのか、知ることは難しい。多分、辞めた後の話が、出てこない限り、発覚することもない。その上、就任中のことは、罪に問われぬ、とまで言い続けた人物だ。何もかもが、藪の中、となるだろうから、触れるだけ無駄、かもだ。
依然として、意味不明な、攻撃(?)が続いている。初めの、爆発的なものは、隣の大国に、吸収された地域、からのもので、紹介したように、評判の悪い所だったが、今は、増加速度は、かなり落ちたものの、海の向こうの大国の、DigitalOceanという、場所を起源とする。
暫く、静観を続ける、と書いたように、今すぐに、何かをすることは、行わない。接続拒否を、するにしても、所謂、IPを鍵として、制限をするには、余りにも、多種多様過ぎるし、同じ組織からでも、発信国が、異なることに、愉快犯の、不埒な意図が、見え隠れするからだ。こういう場面では、確かに、傾向と対策が、不可欠に思えるが、一方で、不特定多数の相手では、鼬ごっこの様相は、否めない。だから、静観を続けるうちに、飽きるのでは、と期待するしかない。便利なものの、暗闇を、眺める気分だが、致し方無い。独り言では、これまでも、傾向と対策という、効率良いと言われる、手法の問題点を、度々、指摘してきた。特に、教育現場では、試験対策の一つとして、唯一無二のもの、との見方があり、大学入試でも、受験校相手の、赤本なる資料が、販売される程だ。そういう悪弊に、毒されているのは、現場の人間も、であり、先日も、愚かな提案を、掲げる話が、囀りに出ていた。一つは、理科教育の、一貫性のようなもの、と思えるが、初等中等教育での、理科教育の流れが、不規則であり、積み上げ方式に、なっていないことを、批判するものだった。評論として、発表されたものを、紹介していたが、劣悪な考えにしか、思えない。丸暗記は、忌み嫌われるが、ある意味、詰め込み教育が、あの年代における、勉強の中心であり、そこに、積み重ねを、強要すると、抜け落ちたものの、修復に終始する、手間暇を、上級に進む程に、かける必要が出る。一見、妥当に思えるが、その害悪たるや、現場の混乱のみならず、児童生徒への、強い圧力にしかならず、馬鹿げたものと思う。もう一つは、大学教員が、提案したもので、特に、理科教育で、広く学ばせることが、大学での学習に、不可欠とのものだが、これもまた、基礎を固めさせ、将来への、傾向と対策を、講じる目的に、思えるもので、余計な手間暇を、強いるものでしかない。所詮、関連性無く、出鱈目に、並んだ知識を、身に付けさせるものを、将来への備え、と言った途端に、破綻が目に見える。教育に対する、誤った思い込みの典型であり、英語教育でも、散々批判されたが、懲りないのは、人間の性なのだろう。
原因不明の、接続急増が起き、対策を、講じるべきか、少し調べてみたが、その後、接続元に、変化が起きて、更には、増加の勢いが、衰え始め、どうしたものか、と考えている。連日、こんなことを、書いているうちに、海の向こうの暴君は、意味不明な妄言を、吐き出す始末なのに。
本来であれば、管理する場を、守る為の手立てを、講じるべきかと思うが、こういう迷惑行為の多くは、以前のような、愉快犯による、幼稚な行動とは異なり、少しだけ、複雑になった、と思える。それは、対策にとっては、複雑さを、増す方向に行くから、迷惑さも、増すこととなる。ただ、魂胆が、単に、愉快を得たい、とのものなら、早晩、飽き始めて、次の標的を、見つけるに違いないから、それまでの辛抱、との見方もある。何度も、書いてきたことだが、ネットワークというものが、実体を伴う、人間間のもの、と見られた時代と違い、今は、仮想空間での、実体を伴わず、儚い存在である一方で、無限に広がる、とさえ思える、空間での出来事で、何かを問うたら、即座に、回答が寄せられ、地道に、調べる手間が、省けたことが、発展の力、となってきた。確かに、回答は、玉石混交だが、その中に、求めたものが、転がっており、自身で調べるより、遥かに、手間の掛からぬ、便利な存在となりつつある。その一方で、今回の迷惑のように、一部の、よからぬ考えを、持つ人々による、出鱈目な行為は、面倒を持ち込み、平穏な空間さえ、波を立たせるものとなる。手に入った、利便性は、確かに、大きなものだが、人によっては、それに伴う、迷惑の大きさや、それへの心の乱れを、強く感じるだろうから、やはり、ある程度の、制限を導入する必要が、あるのだろう。だが、人間の数と、その多様性は、膨大なもので、一々対応するのは、容易なことではない。となると、何ができるのか。多分、子供の遊びの如き、飽きっぽさが、伴う行動と見て、罰する面倒を、持ち込むよりは、放ったらかしに、することの方が、簡単なのでは、とさえ思う。これ以上に、何かしらの問題が、起きたら、その時は、考えることに、したいと思う。