報道が、恣意的で、下らない情報ばかり、流すからと言って、全て無視すれば良い、とは行かぬだろう。例えば、大地震が起きた時、津波への警戒を、流してくるのは、主に報道だし、他の災害関係も、同じ類のものだろう。それらを、無視すれば、何が起きるか、誰もが知る所だ。
それは、確かなのだが、だからと言って、何度も繰り返される、災害警報に対し、全てに反応するのは、ある意味、馬鹿らしくなる。それは、避難に関する話も、同じことなのだが、監督官庁は、次々と、手を替え品を替え、脅し文句を、更新し続けるから、扱いに、困る人も多いだろう。とは言え、自然の恵みに、接することが、できるのは、裏を返せば、自然災害にも、接する機会も、多くなるのだ。温暖化による、という文句については、信じ難いものがあり、鵜呑みにするつもりは、毛頭無いのだが、この所、各地で豪雨が続き、その度に、洪水に襲われたり、裏山が崩れたり、となる。危なければ、避難が一番、との意見も多いが、短期の集中豪雨の場合、洪水と崖崩れが、同時に起きる場合も、少なくはない。動いても、留まっても、何方にも、危険が伴う。その為か、災害報道の中で、盛んに、避難ができるのなら、そうすべきとの話の次に、もし、難しいのなら、命を守る行為として、建物の中の、崖から遠い方、高い階で、待つべきとの話が、続けられる。耳にタコが、と思う人が、大部分だろうが、災害報道の中で、犠牲者についての、状況が伝わり、また、土砂が、流れ込んだ、家屋の姿が、映し出される。そこに、どれだけの人が、注意を払うかは、知る由も無いが、多くが、一階に留まり、犠牲になったとされる。被害家屋の多くが、二階建てなので、こちらは、不思議に思うのだが、報道では、その点に、触れることは、まず無い。災害が、起きる前には、あれ程に、連呼していたのに、実際の被害では、その点に触れず、死者の数や年齢を、淡々と伝えるのみだ。本当に、災害を、未然に防ごう、とするならば、起きた災害に対して、問題点を挙げ、それを避ける手立てを、説くのが、当然なのに、何故だろう。死者に対し、批判を浴びせるから、との意見もあろうが、それなら、間接的なものは、いいと言うのか。また、普段、無視する人の多くこそ、こんな時に、指摘すれば、少しは覚えるのでは、と思う。
海の向こうの暴君、でなくとも、皆が挙って、盛んに批判する、大衆媒体の、報道に関しては、確かに、偏りが著しく、捻じ曲がった考えに、基づく暴論を、実しやかに、流している。だが、暴君も社会媒体の輩も、反論するだけで、根拠も示さず、違う考えを、押し付けるのみだ。
以前なら、新聞などの、活字媒体が、その役目を果たし、皆が、少し時間がかかっても、正しい情報に、触れることが、できるように、なっていたが、今や、活字媒体さえ、何処かからの、借用でしかなく、裏も取らずに、垂れ流す状況に、陥っている。その手の話を、当事者に、伝えると、猛反対の意見が、返ってくるが、やはり、質の低下は、否めない。これでは、情報自体が、信頼のおけぬもの、と化してしまうから、何も、確かなことが、無い状態になり、皆が、好き勝手に、言い放つだけ、となる。こんな時代に、どうすれば、自分自身を、守ることが、できるのか。一番簡単で、手っ取り早いのは、自身で、正誤の判断を、下すことだろう。ただ、そこで、好悪に基づき、確かめもせず、となれば、自身の選択により、過ちを繰り返し、損害を被ることとなる。これを、自己責任と呼び、自分で、自分を、不利にするだけなら、勝手に、責任を負えば、となる訳だ。だが、今の世の中、そういう具合には、話が進まず、誰か、別の人間や組織に、責任を、負わせようと、躍起になる。だから、自身の判断、という部分が、全く違う解釈で、実行されており、馬鹿げた話に、結びつくこととなる。最後の責任まで、自身で果たすことで、他人に依存せず、自分の道を、歩める筈が、いつの間にか、責任転嫁を、繰り返すことで、自身で、責任を果たさぬだけでなく、損害賠償などの、手段によって、自分の責任を、放棄するだけでなく、相手に、償わせる訳だ。これでは、どうにも、と思うけれど、今や、これが、常識となり、繰り返される。となれば、肝心な時には、誰も近付かず、間違いに、加担することなく、何も起こらず、何も始まらない。本当に、それでいいのか。当事者達に、聞いてみたいものだ。
記憶が、不確かなのは、いつものことだが、これ程に、皆が、そこらじゅうに、書き殴るのに、何処にも、記録が無い、とは行かぬだろう。だとしたら、報道する側は、もっと、詳細に渡り、状況を報告すべき、ではないか。本当に、政府の揚げ足を、取りたいのなら。
備蓄米が、放出される、と報じた時、一部には、味の問題を、取り沙汰する動きが、起こった。新米は美味いが、古米は食えた代物ではない、とか、そんな意見が、盛んに飛んだと思う。それに対して、政府関係者からは、備蓄米は、きちんと保管され、味に関しても、問題ない範囲に、留まっている、という話が、あった気がする。それでも、いざ、市場に出回ると、二度と買わない、との意見や、やはり不味い、との意見が、盛んに、出ていた。報道も、それに乗せて、備蓄米の放出は、緊急措置であり、二度と起きぬよう、増産する必要を、説いていたと思う。だが、騒動が、静まり始め、今年の収穫が、予想されるようになると、一気に、雰囲気が変わった。古米より、新米の方が、安値をつけた、という話も、不思議と受け取られたが、不足だから増産、という図式が、たった一年で、ころりとひっくり返り、まるで、無駄な努力の如く、批判が出始めた。この程度の変動は、自然相手のことでは、当然と思えるが、そんな事を、微塵も考えず、ただ、自分以外を、批判したいだけの人間には、当たり前でも何でもなく、勢いよく、罵声を浴びせるだけ、となってしまう。その一方で、米余りが、露呈すると、途端に、荒技が、出てきた。放出した備蓄米は、一時凌ぎという、役割を終えたから、元の鞘に、収めようと、買い戻しの話が、出てきたのだ。前にも、少し書いたが、これが、書類上のことだけで、備蓄米は、一度も保管庫から、出されることなく、買い戻しで、目出度目出度、となるのなら、品質の劣化も、味が一層落ちることも、起こらずに済むが、手続き上の手順として、あちらこちらに、保管場所を、移動させた上に、温度管理も、疎かにしたら、元通りとは、行かぬ話で、金をかけて、質の低下を、進めただけとなる。そんな考えが、過ぎるのだが、どうも、報道を見る限り、そんな話は、全く触れられず、全て、闇から闇へと、進めるのみかも、と思えてくる。騒動は、確かに、騒動なのだが。
米騒動は、何処に向かうのか。市場原理という、あの手の人々が、好んで使う言葉によれば、なるようにしか、ならない、とでも言うしかないが、実際には、一攫千金なのか、日頃の儲けなのか、それを目論む輩が、様々に暗躍し、都合良く、事を運ぼうと、するだけだ。
で、農家が、せっせと、米の生産を、増やそうとした結果、何と、米余りが、予想され始め、遂には、古いものより、新しいものが、安くなる、という事態に陥った。骨董品なら、古さが、誇るべき対象と、なるのだろうが、食べ物は、そうはいかぬ。同じ味なら、新しい方が、良いに決まっている、との意見が飛び、その通りの展開、となっただけだ。しかし、それでは、市場原理とは言えぬ、との拘りからか、操作が入り、買い戻しという、裏技まで、飛び出す始末。こうなったら、価格操作は、意のままに、としか見えぬが、果たして、事実はどうか。そんな騒ぎが、広がり始めた頃、生産現場に、懸念が広がった。天候不順は、今に始まったことでなく、自然相手の仕事なら、様々な想定が、必要とは言われるが、適度な降雨量と晴天に、恵まれたとされ、豊作が、予想されていた所に、秋の長雨が、続いた結果、田圃はぬかるみ、機械化された中で、活躍する筈の、稲刈りの大型機械は、正常に、動かぬのでは、となってしまい、色良く実った稲が、そのまま放置され、時に、発芽したとの話が、伝わってくる。こうなれば、作柄など、言うまでもなく、期待された、収穫量が、確保できぬ、との懸念が、急速に広がる。実際には、どう転がるかは、まだ見えていないが、不安や懸念を、好んで使う、報道にとっては、まさに、渡りに船とでも、言うべき状況が、作られつつある。消費者にとり、今度は、安い米が、食べられるとの期待は、既に、裏切られつつあり、収入確保を、如何に進めるかが、唯一の道、とでも言われ始めたが、どうなることか。収支の均衡は、どんな生業にも、不可欠なことで、そこにこそ、価格設定での、要点がある筈だが、違う流れを、押し通そうとする動きに、今度は、どうなることか。
期待するのは、本人達の勝手、なのだろうが、それにしても、何をどう期待したのか。そろそろ、折り返しが近づき、暴君自身も含め、多くが、期待外れとなりつつある中、打開策を、講じようとする。だが、支持者達は、それに対して、何もできることはない。ただ、待つだけなのだ。
関税の話は、もう、何処かに、捨てられたのか、はたまた、選挙に勝利したら、と称する、例のばら撒きに、使うのだろうか。物価上昇の、要因の一つ、とされてきたが、それが無くとも、原油価格の上昇は、更に大きな、要因となりつつある。燃料の場合、単純に、物品の価格そのものだけでなく、輸送費を含めた、付加的な要素に、影響を及ぼすから、物価上昇は、更に、大きくなりそうだ。その上、紛争の解決が、見えてこぬ中、多くのものの、流通が不安定となり、更なる上昇が、待ち構えている。こんな状況が、長く続く中、落胆の声が、大きくなるばかりで、期待より、不安が膨らみ、次の選挙でも、劣勢が伝えられる。だからこそ、誰も、予想しなかった、ばら撒きを提案し、多くの評論家が、疑いを、挟んでいる。確かに、違法性については、確定しておらず、おそらく、争ったとしても、任期中に、答えが出される筈も無い。だからこそ、混乱を来すよう、陽動作戦に、うち出たのだろうが、さて、勝算は、あるのだろうか。ここまで来ると、勝敗が、何方に転んでも、暴君自身には、何の関係も、無いのだろう。ただ、名を残し、賞賛の意見さえ、届けられれば、それで満足、となるように見える。ただ、そうは言っても、あと2年を、どう動くかで、市民の生活も、影響を受ける。選挙で敗れて、議会の賛同を、得られぬ状況に、陥ったとしても、これまで同様、強気の姿勢で、多くの政策を、編み出してくるだろう。その結果、何も成立せずとも、本人は、満足するのでは、と思えてくる。あれこれと、散弾が、飛び散るように、考えをばら撒き、その上で、利益を得た人間、少しでも出れば、それだけで、十分なのだろう。これまでの大統領と、同じ感覚で、評価すると、見誤ることに、なりそうだ。
資産運用と言えば、数年前までは、株式投資しか、無いと思われた。その割に、株主の数は、増えておらず、国策として、増やす為として、優遇税制が、採り入れられた。それでも、はじめの頃は、増える気配も無く、年金頼みの老後生活に、不安の声も、大きいままだった。
誰が見ても、おかしな状況であり、本当に、資産を増やすのなら、株取引は、必須のものと思われた。だが、元本保証の無い仕組みでは、不安しか、口にしない人には、手の出しようが、なかったのだろう。今、若い世代にとり、理解に苦しむ状況だが、現実には、半世紀程前なら、10年預ければ、倍になる貯金が、存在していたのだから、ある意味、仕方ないことだ。苦も無く、資産が増やせる、という売り文句が、掲げられても、今では、そんなことを、信じる人は、殆ど居ない。元本割れも含め、ある程度の危険を、覚悟しなければ、資産運用は、不可能との意見は、当たり前となった。だが、ここに来て、また、情勢が、少しずつ変化しつつある。利息とは、金を預けた時に、つくだけで無く、借りた時にも、ついてくる。だから、公定歩合が、上がれば、預貯金の利子も、増えるだろうし、住宅や車の、購入に充てる、借金の利子も、増えてくる。どんな生活を、送るかによることだが、以前なら、通帳を眺めても、何の変化も起きず、預けることの、意味さえも、失われつつあったものが、今は、ちゃんと、目に見える形で、利子が表示される。となると、資産運用も、株式投資だけでなく、預貯金も、債券も、増やす手立てと、考えることが、できるようになった。とは言え、どの程度の配分で、運用を実施するかは、人それぞれの、ものとなる。安定を狙うか、一攫千金を、狙うかにもより、様々な形で、行うことができるが、どれを選ぶかも、それぞれとなる。老後の備え、と思うのなら、焦らず騒がず、分散させつつ、運用に励めばいい。特に、日々の取引を、優先するのでなければ、まあ、長期的な形での、動かし方が、安全なのかも、と思う。
この所、相場の動きが、芳しくない。結構な勢いで、上げてきたのだが、どうにも、世界情勢の不安からか、安定するのではなく、却って、下げ始めてしまった。要素として、生成人工知能の開発と、エネルギー資源の問題、があるようだ。とは言え、週末の不安は、まただろうか。
紛争に関しては、二人の暴君が、主な役者なのだが、当初の勢い、と比べると、何とも冴えない様子で、どうしたものか、と本人達も、思っているだろう。だが、戦争という意味では、あっという間に解決、などとは行かぬもので、これが、当たり前なのでは、とさえ思えてくる。では、どんな解決が、と暫く考えても、答えは、見つかりそうにない。その上、何方も、武器備蓄の枯渇や、軍隊人員の減少など、兵力の低下が、取り沙汰されており、一気に解決、とは望めぬ状況にある。となれば、不安定が、今後も続く、と見るべきだろう。ただ、それと、資源供給の問題が、どう関係するかには、誰も、答えを提出できず、成り行きに、任せるしかない、と思い始めている、のではないか。では、ある意味、もっと単純な筈の、人工知能の問題は、どうだろうか。素晴らしい能力、との期待が、徐々に、萎み始めたのも、一つだろうが、それ以上に、懸念されるのは、機械の暴走なのだろう。能力への期待が、高まるにつれて、何処まで、できるのかを、確かめよう、とする動きが、高まってきた。その中で、人間が関われば、違法行為、不正行為、と断じられることが、開発の延長線上で、可能となった途端に、暗い影が、開発現場に、落ち始めてきた。それが、本当に、可能かどうかも、怪しいとは思うが、それ以上に、歯止めが効かず、破壊行為へと、結びつきそうな気配に、開発者の意気は、消沈してしまった、とも見える。となれば、それを頼みとする、好景気に関しても、勢いを無くすのも、やむを得ないのだろう。ただ、経済活動は、これらだけでなく、他の分野でも、進んでいる。確かに、相場平均への影響は、分野により、かなり違うから、すぐに、回復とは行かぬだろうが、一方で、株価として見れば、上げに転じたものは、数多あるに違いない。様子見が続く、保有株の様子だが、それでも、との期待は、持ち続けられそうだ。
皆さんは、人工知能を、使っているだろうか。試しに、子供達に尋ねても、ほぼ全員が、手を挙げる。どうしたことか、とも思えるが、どんな使い方かは、問うていないので、詳しくは、分からない。が、パソコン相手でも、手にした端末相手でも、検索すれば、さっと登場する。
そんな形で、表示されたものを、読んでみたり、コピペしたり、すれば、それは使っている、ということか。違うと思うのだが、多くの人々は、そうではないだろう。出されたものを、受け取った時点で、使っている、と思い込んでいる。しかし、誰もが、検索によって、物事を調べ始めた頃、多くが、使っている、と思い込んでいた。現実には、ただ、そこにあるものを、自分の書類に、書き写す、正確には、最近の表現では、コピペしたら、使っている、となると思い込んでいる。現実には、検索を使いこなす人の、ほぼ全ては、一つ二つではなく、次々に、表示されるものを、読み比べて、そこにある核心を、掴もうとする。その際には、玉石混淆が、徐々に見えてきて、信頼度の違いが、予想以上に、大きいことに気付く。その上、検索では、上位に表示されるものが、必ずしも、信頼度が、高くはなく、単に、耳目を集め、嘘特有の、魅力満載なだけ、であることに、簡単に気付ける。今回も、同じことが、起きている、と思う。人工知能は、確かに、要求に対して、満足する結果を、表示するように見えるが、他の情報源で、確かめると、嘘八百であることも、屡々起きる。何故、と思うことも、多々あるが、調べてみると、最近の仕組みは、機械にあるまじき、状況にあり、嘘も方便といった、具合にあると言う。その上で、それを指摘すると、謝罪することなく、初めて聞かれたかの如く、別の答えを表示する。時に、それさえ、間違いばかりで、信頼がおけぬもの、と思う人が、増えている。一方で、世界的には、危険性を、指摘する声が、大きくなる。制限を、掛けるべき、との指摘もあるが、さて、どんなものか。確かに、開発についての、報道を読むと、他の仕組みに、不正侵入したり、それを、破壊することも、起き始めている。だから、という訳らしいが、どうだろう。自立性が、取り沙汰されることも、多くあるが、便利だからと、安易に、自立させるのは、愚かな子供への対応と、よく似たものに見える。監視や制御は、当然として、行動制限は、不可欠だろう。その条件下で、開発を進めることが、必須となる、ように感じる。
浅はかか、と書いたが、現実には、何方も何方、の話なのだと思う。ゴミ捨て場の検討、について、書いてあるものを、少し読んでみると、未来永劫、管理の下で、安全性を確保する、との話だが、これ程までに、紛争ばかりの状況から、そんなことが、期待できるのか。
いや、それは、別の話だ、との反論が、押し寄せるかも、なのだが、人類共通の課題、との見方は、こんな提案をしてきた、世界機関のご都合、でしかないと思う。彼らとて、自分が関わる間は、確かに、口を酸っぱくさせながら、世論に訴え続ける、のだろうが、任を外れた途端に、自己都合ばかりを、言い始めるのだ。そんな不安定で、怪しげな計画より、さっさと、無害と思える程に、希釈したものを、世界各地に、ばら撒けば、それで済む、と思う。汚染された土壌は、程度の違いは、大きいとは言え、現実には、よく似た措置を、続けている。危険性の高いものを、掻き集めた上で、ある場所に、保管し続ける。だが、同じように、局所的には、高濃度と判断された場所で、他の土壌や材料と、混ぜることで、ここで言う、希釈した結果として、危険ではない水準に、達した途端に、検出不能となり、何事も無かったかの如く、扱われた上、忘れ去られる。一方で、保管した土壌について、未だに、その管理を続けるが、流石に、このままでは、よろしくない、と判断したのか、別の場所に、運ぶ算段が、進んでいる。研究者まで巻き込み、馬鹿げた反対論を、展開する人々が、囀りを続けたが、その愚かさは、信じ難い。基準を持ち出せば、暴論を追加して、持論展開に、有利になるようにするし、基準を無視すれば、根拠の無い妄論しか、導き出せない。それ位なら、もう少し、まともに考えた、昨日の提案の方が、遥かにまし、と思うのは、我田引水、でしかないか。否、人類滅亡まで、確実なものを、と望むのなら、放置しても、大丈夫という仕組みが、必要ではないか。
大震災直後の、事故の深刻さは、各国で、受け止められた。結果として、ある国の宰相は、発電様式の大転換を、決意したのだが、その後の成り行きは、予想以上に厳しく、産業の停滞と共に、重荷となった。その四半世紀程前の、もっと深刻な事故と比べ、何が違ったのか。
これまでに、制御不能と思われる、事故は、世界で三度起きた。と言っても、冷戦期には、情報漏洩に、細心の注意を、払っていたから、他にも、あったのかも知れぬ。何れにしても、二重三重の制御が、必要なことは、明白となり、それへの備えとして、様々な制約を、設けることで、多くの国は、前同様の運用を、続けている。こちらも、同じことで、検査等は、より厳しくなり、不安材料を、並べることに、力を入れ始めた。安全神話が、崩れてしまえば、そうなることは、当たり前か。だが、その中で、データ改竄等、不正が横行するのは、何故なのか。でも、国として、進むべき方向は、定まっている。その圧力が、企業の上に、伸し掛かる中、不祥事が起きたが、そちらでない方も、かなり喧しくなっている。以前から、徐々に、進められてきたが、現実には、処理も保管も、固まってはいない。だから、急ぐべきと、調査を始めたようだが、何故、と思うこともある。世界的な決定は、ゴミを集めて、安全な所に、保管するとなった。その為、既に、準備が終わった国も、あると聞くが、こちらは、まだ、何も決まっていない。心配の声ばかりを、報道は、取り上げ続けるが、あれも、いつも通りの、情報操作の典型、なのだろう。一方で、核のゴミについて、どの位の理解が、あるのだろうか。燃料となる物質以外、との解釈は、どうも違うらしい。新聞報道(無料でも読めるかも)によれば、ウランやプルトニウムを除いた、他の放射性物質の塊を、ゴミと呼ぶようだ。だが、総量に対する、各物質の重量の和は、少な過ぎて、他は何、との疑問しか、浮かばない。それ自体、怪しげに思えるが、一方で、もっと重要なことが、あるように思える。元々、燃料は、自然物質のうち、必要なものを、濃縮することで、手に入れるが、逆に見れば、自然には、僅かしか、存在しない訳だ。だったら、その位の希釈度まで、処理したら、何処にあっても、危険とはならない、のではないか、と思える。この考え、浅はかだろうか。
電力会社の不祥事が、盛んに、取り上げられる。企業として、不正は、いけないと言われるが、何故、あんなに、躍起になる程、真剣に取り上げるのか、と不思議に思う人も、居るだろう。企業なんて、利益追求だけで、いいではないか、と。だが、公益性の観点から、あの手の企業は、なのだ。
とは言え、それにしても、執拗に、食い下がる報道には、首を傾げる。その背景には、また別の要因が、あるのでは、と勘繰る訳だ。特に、電力会社の、ある発電方式に、批判が集中する。確かに、大震災後の事故から、安全神話が崩れ、厳しい監視の目が、必要とされ、あらゆることに、検査や審査が、必要と言われる。だが、そこでの主張は、互いに、自分に好都合のものを、引き合いに出すことで、展開される。断層や攻撃が、どんな確率で、危険と見做せるのか、誰にも、分からぬものだ。で、今回の話は、明らかに、意図的な情報操作で、行われた不正だけに、責任問題に、発展するのは、当然のことだ。だが、件の企業は、それ程に、深刻には、考えていない、ようにも見える。経営陣が、退陣すれば、事が済む、とは言い過ぎとしても、体質までもが、取り沙汰されるのに、対応は、急いでいない、ようにさえ見える。以前から、噂されるように、電力会社ごとの、事情の違いが、現れているのかも、と思う。東西の大都市を、抱える企業は、あの発電方式に、頼らねばならぬ。水力や火力では、需要を上回る供給が、できないと言われる。再生可能は、期待だけが、膨らみ続けるが、問題が大きい。それに比べて、今回の不祥事を起こした、企業の場合は、実は、水力と火力で、十分な供給を、達成している、と言われる。そこから、原子力に頼る必要は、無いとの判断が、と言われるのだ。だが、政府は、再び舵を切り、再稼働も含め、新たな稼働を、増やす政策を、進めている。その中で、この動きは、けしからん、と言われかねないが、さて、どうだろうか。その一方で、報道は、例の如く、原発嫌いを、前面に押し出す。この戦いは、どう決着するのか。安全神話は、嘘としても、危険度への過剰反応も、大抵にしておいたら、とも思う。
海の向こうの暴君は、話題を集めることには、天才的と言われる。だが、その才能が、あんな形でしか、活かせない、となれば、不幸でしかない、と思う。今回も、その典型としか、思えぬ発言だが、馬鹿にされてきた、報道は、ここぞとばかり、総攻撃に出た。的を外しつつ。
愚民政治が、この所、勢いを増して、政は、厳しい状況にある。目先の利益を、最優先に置き、それのみに、邁進することは、一見、利害において、重要なこと、と見做される。だが、その後の成り行きを、冷静に、顧みてみれば、何と馬鹿げた、悪手を、指したのか、としか思えぬ。こんな繰り返しが、先進各国で、行われ続け、政治の荒廃は、国の存続さえ、危うくしかねぬ、状況へと進む。それでも、長く続いた、政治体制からすれば、この位のぶれは、当たり前のことで、その反動が起きれば、また、別の方向へと、揺り戻しが起きる。全体として、保たれた均衡に、近い所を、うろつく訳だが、その時その時は、右往左往の連続となり、一部には、被害が広がる。そうなれば、対抗勢力として、是正を図るが、それとて、またぞろ、反対側へのぶれを、大きくするだけだ。その中で、暴君は、極端な物言いと、奇想天外な提案を、次々と発し、周囲を、混乱に陥れる。今回は、その中でも、際立つものかも、と指摘されるが、違法性を、掻い潜り、有利になる結果が、愚民共に、利益をもたらす、という形の約束を、口に出した。ばら撒きは、その通りで、意味は、自身の利益、にしかない。財源は、意味不明の関税、とも言われるが、それとて、確実なものか、と問われれば、いつ消し飛ぶかは、誰にも分からぬ。発言主さえ、その心積もり、なのでは、とさえ思う。違法行為を、断定する為には、その繋がりが、確実なもので、ある必要がある。ばら撒きは、それを断ち切るための、方便でしかなく、小賢しさなのか、狡さなのか、そんな言葉しか、思い浮かばない。だが、その根底にあるのは、それに、引き寄せられる、大衆の心理だ。所詮、愚かな民は、その程度のもの、と言うのなら、それが、国政に直結する、今の状況を、改める工夫が、必要なのだ。
四半世紀前、いつものように、証券サイトのチャットで、誰かと話していた。そこに、突然飛び込んできたのは、海の向こうで、事故か何かが、起きたらしい、という話だった。端末では、テレビが見えないので、テレビを、つけて見たと思う。そこには、信じられぬ光景が。
そんなことから、始まった攻撃は、それでは済まず、次の旅客機が、双子のもう一つへと、飛び込んでいった。詳しい情報は、何ももたらされず、そのまま、東海岸の大都市が、崩れていくような、そんな光景が、画面に映し出されていた。おそらく、そんな報道を、眺めていた人々は、非現実的な出来事に、驚きよりも、別の印象を、受けただろう。徐々に、明らかとなった攻撃内容は、これもまた、信じ難いものであり、常識では、考えられぬ、行為の数々となった。多分、旅客機内の乗客も、そんなことを、思い描きながら、死を待っていた、のだと思う。それにしても、自殺行為により、多くの犠牲者を、出したことに、どんな意味が、あったのか。狂気の末、という意味では、普通の感覚で、理解できる筈も無い。その上、紛争地域では、そんな行為の数々で、市民に犠牲を、強いていたのが、当たり前だったことから、非常識でも、それが、正当化される、社会があることを、押し付けられる。その一方で、依然として、囀りなどで、喧しく訴えるのは、陰謀論だろう。こちらも、狂気の一種、としか思えぬが、常識や論理で、繋げられぬ筋書きで、本人は、真実の如く、語っているのだが、どうにも、異常としか、感じられぬ。いつから、こんな世の中に、なってしまったのか。誰にも、わからぬもの、としては、おそらく、解決法は、見つからぬ。だが、現状では、その程度のこと、としか言えぬ。ただ、戦いの犠牲者が、殆どが、市民であることには、理解に苦しむ。戦う為に選抜され、互いに、相手を、殺し合うのは、当然の帰結だろうが、その中で、何の罪も無く、殺される市民が、居ることには、納得がいかぬ。その意味で、何の意味も無い、戦いを続けることを、さっさと、やめるべき、と思う。
またか、と思うしかない、報道が、朝から流れ、市場は、慌てふためく。何度、同じことを、と思いつつ、投資家は、不安に、悩まされる、かも知れぬが、これ、手の施しようが、ないのだろう。紛争地域に、突然の爆撃が、始まって以来、こんな混乱が、続いている。
だが、根源は、その爆撃ではない。そこに至ったのは、紛争地域が、何故、何時迄も、小競り合いを、続けるのか、という点に、問題の大元が、あると思う。前にも書いたが、大戦後に、新たな国を、との希望を抱き、建国したのだが、三宗教の聖地、との関係もあり、その後の混乱は、周知の通りだ。しかし、それだけで、今の事態が、起きている、とはとても思えぬ。まずは、難民と呼ばれる人々が、暫定とはいえ、政府をもっているのは、誰もが、理解しているものの、その一方で、実質的に、支配しているのは、ゲリラ、と呼ばれる人々で、組織化された集団が、統治している、との話が流れてくる。ただ、彼らは、独自の資金源を、もつ訳ではなく、それを支える、他国の存在が、大きいとも言われる。この国が、今回の爆撃を、受けたのが、報道された時、攻め込んだ国々は、指導者を、全滅させた上で、政府自体を、転覆させる、との目論見があった、と伝えられるが、軍部の存在が、それを食い止め、現在に至る。ただ、この過程で、徐々に見えたのは、誰が、国を率いるのか、という疑問であり、交渉の場も、相手が見えず、混乱が続く中、解決への糸口は、見えないままだ。そこに、今回の事件が、起きた。もう一つ別の国の、ゲリラ集団が、現在閉ざされる海峡ではなく、もう一つの海峡を、閉鎖したとの話に、原油供給への不安が、再び、強まったという訳だ。その中で、独り言で、度々取り上げたのは、ゲリラの存在で、国ではない、別の集団が、市民を盾に、戦いを続ける図式は、軍事侵攻が起きた、あの地域とは、全く異なるもので、泥沼としか見えない。ただ、それを支える国を、叩いてしまえば、との目論見は、その通りであり、再度、攻撃が強まれば、どうなることか。また、週末がやってくる。
職場も学校も、生成人工知能の登場で、大きく変化する、と言われるが、本当だろうか。こんな作業が、できるようになったとか、こんなことは、任せればいいとか、そんな話が、実しやかに伝わるが、遅れた人間にとり、なにそれ、としか思えぬ状況で、呆れてしまう。
そんなことを書くと、途端に、年寄りは、そんなだから、若者に嫌われるとか、棺桶に、足を半分入れた奴が、何をほざくのかとか、そんな戯言が、並ぶに違いない。だが、本当に、既存の知識を、ただ並べて、偉そうに振る舞う機械に、誰もが、ぐうの音も出ぬ程に、やり込められるのか。一方で、利用者が増えるに従い、得手不得手が、漏れ始めて、期待を膨らませた輩からは、落胆の声が、聞こえてくる。ただ、そうなれば、対策が講じられ、不得手を、克服したとの知らせが、届くのだから、ある意味、恐ろしい時代と思う。で、何が言いたいのか。本当に、全ての仕事を、機械任せに、するというのか、という点が、主張したいことだ。職場では、失職の危機が、迫るとも言われ、学校では、今更、何を学んでも、無意味との声が、聞こえてくる。これらのことが、本当かどうか。暫く待てば、見えてくると思うが、どうだろう。期待する側からは、不足の面が、露呈する度に、すぐに対策が、講じられるから、大丈夫との声が、届くのだろうが、果たして、そんな調子で、全てが、任せられるのか。どうしても、怪しいとしか、思えぬ。学校関係者からは、悲鳴に似た声も、届くようだが、その一方で、警告にも似た、意見も出ている。これからの生活で、常に、人工知能に頼れば、その場での緊急対応は、どうするのか、という趣旨だが、これに似た現象は、以前も起きていた。教室で、教師の言葉を、理解できぬと、途端に、検索する学生達。その間に、進む話には、何の注意も払わず、発見して、安心すると。ここでの問題は、時間の進行だろう。ただ、その失敗は、経験せねば、気付かぬもので、失敗を、忌み嫌う人間は、やはり、無能の烙印を押され、舞台を去るしかない、となるのか。
米価は、どうなるのか。田圃はどれも、色付き始め、たわわに実った、稲穂が垂れ下がる。いつもなら、豊作を、喜ぶ声が、次々に届き、明るい笑顔が、画面に、映し出されるのだが、今年は特に、その気配が見えぬ。騒ぐだけ、騒ぎまくった人々は、不安げな顔で、話している。
いつもながら、農業に関して、理解不能に、陥る話ばかりが、流れてくる。不作を、悲しむ声は、誰もが理解でき、同情の声も、聞こえてくる。それについて、文句を並べる人は、殆ど居ない。だが、豊作となると、話が変わる。取り過ぎれば、余ることへの懸念ばかりか、別の問題まで、生じると言われる。今回は、以前から、何度か書いたように、米騒動が起き、政府が乗り出して、解決を図ったものの、さて、何が起きたのか、と思える程に、混沌とした状況で、そこに、放出した筈の、備蓄米は、ほんの一部しか、市場に出回らず、どうしたことか、と思ううちに、そろそろ、新米の収穫が、となったら、古い品物より、新品の方が、安く出回る、という事態が起き始め、政府は、慌てて、古いものを、買い戻す、などと言い出す始末。何れにしても、価格調整の為、と謳った筈の、放出に関しては、中間業者が、損より得を、追いかけ続けて、結局、何処に隠したのか、とさえ言われる始末。こちらは、先日書いたように、もしかしたら、市場どころか、業者の手にも、渡らぬままに、備蓄倉庫から、動かさなかった品物を、買い戻すのでは、との疑いまで、飛び出した。どれもこれも、金儲けを、企む業者が、濡れ手に粟の如く、泡銭を、手にしようとするのに、消費者も、政府も、手を貸したのでは、とさえ思えてくる。そちらの始末は、政府に任せるとして、騒動に巻き込まれた、消費者と生産者は、今年の新米を、どんな価格で、どんな形で、手に入れ、市場に出すのか、そろそろ、見えてくるに違いない。にしても、この所の長雨で、収穫期を、逃してしまうのか、という懸念こそ、もっと取り上げては、と思う。
教育の大切さ、について、何度か書いてきた。だが、一部の教育関係者のように、教育が万能、などとは思っていない。少なくとも、場を設けることで、各人が機会を掴み、それによって、能力を高める、という図式は、必要と思う。その中で、大学教育は、荒廃の一途、と言われた。
原因は、様々にあろうが、最大のものは、予算削減、にあると言われた。ところが、昨年度から、様子が変わり、補正や本予算で、一定の額が、確保され、それまでの、年1%削減、という愚かは、一旦、収まったようだ。今までなら、研究費増額で、お茶濁しを、担当大臣が、行っていたが、今回は、財政を預かる、担当大臣が、直々に、回復を謳ったから、と期待したら、来年度予算の、概算要求では、これまでの減額を、帳消しにする、増額との話が伝わり、一気に、期待が膨らむ。だが、兎に角、政府批判を、続けるしか、能の無い報道は、一切触れることなく、どうなるかは、不明だが、大学関係者の中には、囀りで、それに触れる書き込みを、する人も居る。ただ、諸手を挙げて、とならぬのは、何故だろうか。一つには、削減への対応で、減らし続けた教職員定員を、増やすことが、方策として、考えられるものの、また、元の木阿弥に、との懸念があるやも、知れぬ。にしても、動きが鈍いのは、やはり、高等教育機関として、何を、どう動かすかに、思いが至らぬから、との見方も、ありそうな気がする。研究費なら、一研究者に、任せておけば、よかったものを、運営費交付金では、機関全体で、方策を講じる必要が、出てくる。流石に、そこまで、無能な集団では、と思うのだが、果たして、どうなるのか。少なくとも、一時的とは言え、人件費に、回すことで、充実を図る必要は、あるに違いない。一方で、だからと言って、人材不足が、という問題が、残っている。長年に渡り、首を締め付けられ、育成を、怠ってきたツケ、と言えばそれまでだが、現状打開が、予算確保により、迫られた場合に、どう動けばいいのか、これまでとは、異なる視点を持つ、責任者への、移行を考えるべき、時なのかも知れぬ。
日頃から、社会媒体、特に囀りに対して、批判を書き綴っている。嫌いで、見たくもないなら、相手にせずとも、と思う人が、多いと思う。だが、同じように、批判姿勢を、貫く人の多くは、囀り自体にも、書き込んでいる。好き勝手に、書き殴った意見に、苦言を呈するように。
それはそれで、大切なことと思う。ただ、中には、難癖をつけて、相手を、論破することだけに、一種の喜びを、感じているのでは、と勘ぐりたくなる、人も居る。先日も、ある研究者が、原発事故から、周囲に拡散した、放射性物質が、混じったとして、掻き集められ、ある地域に、集積された土壌の、次の処理に対して、政府批判を、繰り返し始めた。確かに、汚染であれば、それを広げることは、避けるべきだが、それは、処理水の時に、書いたように、除去不能なものを、希釈することで、直接的な影響を、無くす処置が、取られた時と、同じ考え方で、集積や濃縮ではなく、拡散や希釈を、手段の一つとして、考えるべき時が、来ている、と見ることもできる。だが、件の人物は、勢い込んで、その考え方の、危険性を、論じ始めた。そこまでは、批判の一つとして、可能なもの、と見ることも、できたのだが、それが、高じるに従い、科学的に見て、妄論としか、思えぬ解釈に、発展した時点で、研究に携わる、人間として、その資質を、疑うべきとの見方が、強まっていた。論破とは、相手の主張の、綻びを見つけ出し、それを、指摘することで、主張自体を、やっつけることだが、今回の場合は、政府の措置を、批判する中で、自分の主張を、押し通そうと、科学的に、通用しない考えを、持ち出したことに、失敗の原因がある。極みに達した後、暫く、見かけないのは、囀りの仕組みで、排除されたのか、はたまた、本人が、自らの不明を、恥じた結果なのか、知る由もないが、以前同様に、論客として、発言することは、難しくなった、と思える。それにしても、あの程度のことが、理解できぬまま、研究してきたとは、とさえ思えてくる。
一週間、本の話題を、きっかけとして、感染症に対する、疑問を並べてみた。結論は、何も分かっていない、のだろう。それを、報道は、恰も、これが答え、とばかりに連呼する。嘘を並べ、結果が、全く的外れでも、臆することなく、同じことを、繰り返し続ける。社会媒体も。
感染の定義を、変更したのは、ある目論見からだろうが、見事に、外してしまった。病原体の保有、そのものを、眺めてみても、次の感染に、繋がるかどうかは、今の所、知る術がない、ように見える。なのに、言い出したからには、引っ込みがつかず、目論見通りに、事が進むとばかり、一つ覚えを繰り返す。だが、生き物の反応は、絵に描いたようには、ならないようで、お粗末な結果が、闇に捨てられた、と勘繰りたくなる程、何の情報も、流れてこない。確かに、一部の学者が、盛んに、擁護するように、科学的な解析は、なされているのだろうが、それが、社会に反映されず、却って、誤解を招くような、言説ばかりが、流れてくるのは、害悪でしかない。でも、決定打が、放たれないのでは、致し方ない。感染爆発の頃、書いた記憶があるが、前線で活躍する、との評判と共に、出演した医師が、質問を受け、感染がどう起こるのかを、説明していた。身の回りのものを、掴んだ手で、顔を触ると、そこに病原体が付着する。それが、喉の奥に到達すれば、感染が起こる。と、まあ、そんな具合に、大飛躍を含む論理に、ひっくり返った。顔から喉の奥に、どう到達するかは、医師にとり、どうでもいいことなのだ。外から体に、どう付着するか、という、初期段階と、喉の奥で、病原体が、細胞に取り付くことが、感染となる、という、最終段階が、説明できれば、成就する、とでも言わんばかりに。飛沫感染、空気感染、あらゆる感染経路を、考える必要が、と言われるが、大元の感染源は、何なのか。不顕性感染者なのか、接種感染者なのか、両方なのか、それ以外には、と続く。8割おじさんも、忘却の彼方だが、あの話も、怪し過ぎる。3密とて、今も取り沙汰されるが、意味不明だ。SARSの時、封じ込めが、功を奏した、と言われるが、新型の時は、何故、都市封鎖さえ、無意味だったのか。結局、何も分からぬまま、次の襲来に備えろ、と言われる。
確かに、用語の混乱が、起きている、に違いない。だが、だからと言って、制度の運用が、出鱈目でいい、とはいかぬもの。著者が、戸惑ったのは、差別的な措置、だからだったのだが、もし、この混乱から、運用の目的、とされたことが、何の意味も持たぬのなら、愚策でしかない。
こうなると、感染者だろうが、検査陽性者だろうが、お役所的には、同じ人間を指す、ということだ。だが、接種後の感染者と、未接種の感染者に、何の区別があるのか。定義からすれば、病原体を保有するか、という点では、何方も同じ、に見えている。だが、旅券発行の条件は、接種の有無であり、それが、感染拡大を、抑止するとの話は、病原体の保有、という観点からは、成立しそうにない、と思えてくる。だから、執拗に、その点を、明確にせよ、と訴えている。ワクチンの副作用が、などという問題とは、全く無関係であり、その論争と、同じと見るのは、明らかな誤りだ。本当に、接種によって、重症化が防げて、それにより、命が救われるのなら、自分自身だけの問題として、接種すればいい。だが、社会的な問題として、感染爆発を、防ぐことを第一として、その為には、皆が接種する必要が、と論じてしまうと、怪しげなもの、となってしまう。この点を、開発後の報告から、取り上げているが、一向に、新たな見解が、発表されない。その一方で、次の爆発が、と煽り続ける、愚かな報道や、研究機関の動きには、信頼に値する態度が、見えていないのだ。確かに、定義の変更を、決めた時には、その基準により、拡大を抑え込める、との見通しがあった。だからこそ、発症しない陽性者が、巷に出てきた時、それみたことか、とばかりに、一気呵成の批判が、飛び交ったのだ。だが、接種が始まると、情勢に、微妙な変化が、生じてきた。特に、開発過程の、接種の効果が、報告されると、定義が、決定的なものから、怪しげなものへと、変貌したように、感じた人も居る。違いを、際立たせるような、データが出されれば、また、違った展開が、起きるかもだが、現時点では、何方の感染者も、周囲に、病原体を撒き散らす、という意味では、変わらないようにしか、見えないのだ。
そろそろ結論を、と思いつつ、調べ始めたのだが、愕然としてしまった。書きたいことは、感染の定義が、大きく変更され、それにより、感染者の扱いが、複雑になった、ということだが、肝心の事柄について、分かったつもりだったものが、大きく外れていた、からである。
要するに、感染症とワクチンの関係で、感染者の定義が、曖昧なものとなり、扱いに違いが出た、と思っていたが、実際には、出発点からして、全く違っていた、ようだ。改めて、感染の定義を、検索してみたら、監督官庁の資料では、「感染症」とは、病原体が体内に侵入し、増えることで、体に異常が生じる状態、とあった。では、「感染」とは、と調べると、別の情報源には、病原体が、体内に侵入し、発育または増殖すること、とあった。ただ、「感染症」については、内閣の部局には、症状が出る病気のこと、とあって、上に書いた、発病の段階ではなく、病気全体を、指すこととなる。これまでの知識では、後者の定義が、馴染み深いもので、前者の、発症を指す感覚は、理解に苦しむ。ただ、こうせざるを得なかった、理由には、何となく、思い当たる。学会が、感染の定義を、改めることで、病原体が、体内に存在するか否かを、判断の基準と置いたことで、それ自体が、発症とは無関係に、扱われることとなった。つまり、それまでならば、発症して、症状が現れた所から、受診して、症状の診断と共に、検査により、病原体の有無を、確かめるのだが、感染が、症状とは無関係に、扱われると、検査のみが、独り歩きすることとなり、発症の有無は、感染そのものとは、無関係となる。これが、無症状の感染者、という、すぐには理解できない、括りを、表面化させた。保菌者とか、不顕性感染とか、呼び名があるようだが、ここでも、前者は、何となく聞いたことが、あるように思うが、症状が出ない人を、特に保菌者とは呼ばない、ような気がする。何れにしても、従来の理解が、通用しない所から、感染症への対策が、講じられてきて、感染症爆発の当時も、感染者との括りに、違和感を覚えていた。独り言の中では、検査陽性者、と呼ぶことにしたが、おそらく、この呼び名の方が、理解しやすいと思う。その上で、発症するかを、別の用語で、表現すれば、良かったのだろうが、結局は、感染症という、違う意味に、使われた用語を、用いてしまったことが、混乱を招いた。どの道、不確かな定義だから、とでも言うのか、困った話と思う。その上、それらを、旅券の運用に、使ったのだから、迷惑千万だ。