パンチの独り言
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7月27日(土)

 非科学的な主張に対し、厳しい批判を浴びせ、誤りを指摘する、という科学者が居るのは、ご存知の通りだが、その一方で、大学の教員の中に、科学的な根拠も無しに、自らの主張を、学生に向けて発信する人間が、居ることには、殆どの人が気付いていない。理由は、簡単だ。
 そんな人間は、社会的信用が無く、誰も相手にしないから、と言われる。だが、その人物の目の前に居る、学生達は、どうだろうか。もし、講義を担当しており、その中で、持論を展開するのみで、その学問で、通説と言われるものを、全て排除していたら、どんな展開があるだろう。常識的には、そんな人間が、教壇に立つ筈が無い、との答えが返ってくるだろうが、現実は、小説より奇なり、である。随分前のことだが、ある私立大学に、そんな人物が存在した。嘗て、国立大学、それも頂点とされる所に、職を得ていた人物は、最高峰の学生達に、持論を押し付けたが、ほぼ全ての学生が、聞く耳を持たなかったそうだ。結果として、悪病が蔓延せず、その代わり、本来、習うべき事柄の一つが、抜け落ちた、と憤慨する嘗ての学生も居たが、その程度の被害で、終わっているうちに、定年を迎えて、かの私立大学に、迎え入れられた。当初、異変に気付かず、放置状態だった。早晩、馬脚を露わしたが、解雇理由とはならず、他部局への異動となった。そこで、また、同じことが繰り返されたのは、ある意味、悲劇だったのかもしれない。とは言え、学生達は、疑問にも思わず、不思議な学問を、受け入れたようだ。今、この話題を出すのは、同じ事象が、多くの大学で、起きているようにも見えるからだ。真偽の程は、確かではないが、教員が、研究上で自分の主張をするのは、当然のことながら、そこに、科学的根拠が欠落する場合、どうしたものか、と思えてしまう。話題性を優先させ、根拠を示さずに、主張を繰り返すのは、一見、確かなものに見えることもある。だが、科学としては、駄目なのだ。

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7月26日(金)

 不幸な人々が、確かに居る、という一言は、何故必要なのか。理解できぬ、と思うのは、通常の感覚を、有していないからなのか。何とも解せぬ話だが、今の社会は、そのことで持ち切りである。一つだけ、思い当たるのは、比較の問題で、自分よりも下が居る、の安心感だろうか。
 そんな感覚を、抱いたことの無い人間には、理解不能なのだが、解釈としては、成り立ちそうに思う。昔、組織の中で、最底辺の人間を、処分した所、その上の集団が、最底辺と化してしまった、という話を聞いた。これが、実しやかに語られるのは、昆虫の蟻でも、同じ現象が起きた、という研究があるから、という話だ。だが、真偽の程は、明らかではない。で、格差の話は、どう展開しそうか。全員が、中流との意識を、抱いていたのは、半世紀程前の、高度成長期だ。乗り遅れまいと、必死になって、集団についていくことで、自らの存在証明も、価値も、何とか満足させていたが、所詮、上に立てる筈もなく、ただ単に、集団の中に居る、という考え方が重要だった。だが、成長が止まり、下降期に入り始めると、落ちることへの恐怖が、頭をもたげてくる。その結果、下に誰かが居るか否かが、最重要の指標となった。この辺りから、格差の話が、取り沙汰され始めた。誰か他の人々が、不幸であれば、自分には当てはまらぬ、という考え方だが、全く理解できない。ある意味の、楽観主義から、生じたものと思えるが、海の向こうでは、安定した頃は、楽観視していたのに、一つ躓くと、一度に悲観的となり、自分を格差の下に置こうとする。その代わりに、そうなった責任は、当然の如く、社会や他人にあるとする。海のどちら側でも、同じように、閉塞感が広がり、厳しい時代を迎えた、と言われ続けるが、これもまた、本当かと思える。確かに、成長期にあった、夢を抱ける雰囲気は、消し飛んでしまった。だが、だから不幸だ、と言い切れるのか。何かが間違っているように思う。

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7月25日(木)

 社会の不満が蓄積し、今の事態を招いている、と言われる。そこで、屡々聞かれるのは、ある年齢より上の世代で、自分達は何とかなるが、次の世代は、厳しい時代を迎える、とか、今の社会問題は、格差にあり、その対象となる層から、社会全体に、不満が広がる、とか、いう話だ。
 前提を除き、他者への配慮を、見せているように思えるが、さて、どうだろうか。彼らの多くは、発言では、配慮を見せているが、その実、自分達が実権を握るか、あるいは、そうする世代に属している頃、殆ど何もせず、今の事態を招いたからだ。現実には、何もしないのは、現状維持を表し、そのままを継続することを、意味する。だからこそ、自分達は何とかなる、と言い切れるのだ。もし、実権を握った時に、何かしらの変化を、起こしていたら、今はまだ混沌とし、自らの将来さえ、見通せなかっただろう。その代わりに、後の世代に、積み残したものを、今更のように、問題として掲げ、彼らに押し付けている。こういう輩を、忌み嫌うのは、責任転嫁が、彼らの心の奥底にあり、それを、言葉で飾ることで、誤魔化しているに過ぎないからだ。だが、今更、どうにもならない。だから、今の主流となる世代に、変化を起こせ、と誘っている訳だ。ただ、これは、何かしらの見込みの上で、言っている訳ではない。単に、見掛けを良くし、嫌われたくない、という卑しい心からではないか。それにしても、格差の問題も、度々取り上げられるが、その実態は、明確になっていない。確かに、食費さえ捻出できない、という家庭が沢山ある、と報じられるが、その数も、内容も、明確にはされず、格差のみを強調する。論理立てて考えようにも、こんな情報不足では、如何ともし難い。特に、収入額と支出額の比較は、それぞれの事情により、簡単には導き出せないが、それでも、何らかの比較と、その詳細を精査せねば、本当の課題は、見出せない。騒ぐことが、先に立つと、こんな事態を招く、いつも通りに。

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7月24日(水)

 ここでも、ゴミとこき下ろしたが、その理由の一つは、体制批判一辺倒だったのに、あの感染症騒動では、死への恐怖からか、与する姿勢を露わにしたからだ。だが、海の向こうの前大統領は、それ以前から、批判を繰り返した。こちらは、不都合な情報を、抹殺する為に。
 既成への反発を、感じる人々には、それが、強い指導者と映り、熱狂的な支援へと、結び付いたと言われる。真偽の程は、定かではないが、あの熱量に、何かしらの狂気が、感じられるのは、異種への違和感だろうか。何れにしても、報道に対して、強い憤りを感じたのは、止むを得ないことだろう。だが、その一方で、彼らが専ら依存する、社会媒体は、どうだろうか。こちらも、前大統領の挙動からは、自己中心的な考えが、増長される姿が、見えており、一歩外れれば、狂気へと転換しそうだ。指導者の考えに酔い痴れ、自分の考えを肯定し、絶対崩せない壁を、周りに築こうとする、そんな動きには、確かに、今の世界が直面する、強い対立や断絶が、映し出されている。体制批判は、以前と変わらず、権力を批判し、邪魔者を排除する動きは、端末に表示される世界で、強まるばかりに思える。情報を遮断しない限り、侵される可能性を、断つことができない、とも言われるが、論理を重視すれば、簡単に論破できる意見ばかりで、然程心配する必要がない、とも思える。先日も、不正を働いた企業として、二つが取り沙汰され、政府の圧力が、破綻を導こうとする、とまで記す人々が、出ていた。しかし、自動車業界は、検査に対する不正として、処分されたものの、実害は殆ど生じず、その上、検査対象への、企業の考えも、確固たるものであり、監督官庁との連携が、不足していた、と思われる。一方で、健康食品業界のものは、被害者が先に出て、その原因に対して、食品の製造管理の不備が、指摘されたものであり、明らかな不正である。この二つを、同列で語るのは、非論理的としか思えぬ。

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7月23日(火)

 世界中で、政治の勢力図が、書き換えられている、と言われる。単なる、政権交代の場合もあるが、それでもなく、既成のものへの反発が、強まっている、という意見もある。だが、本当にそうだろうか。確かに、社会媒体では、その動きが急とも見えるが、どうにも飲み込めない。
 その典型であり、先頭を切ったと言われるのが、海の向こうの前大統領なのだそうだ。既成の政党を、乗っ取ったとまで言われ、今回の選挙でも、候補として勝ち残った。一見、そんな具合に思えるのだろうが、実態は、全く異なると思う。確かに、選挙戦では、対抗馬を、次々と追い落とし、絶対的な支持を得て、このまま、返り咲くとの見方もある。だが、この流れの中で、多くの評論家が、見落としているのは、支持の理由ではないか。そんなのは、決まっている。閉塞的な時代に、打ち破ってくれる、強い指導者を、待ち望んだ人々に、彼は救世主となったのだ、と。そんな解釈を、実しやかに語る、熱狂的な支持者が居るのは、確かなことだが、その他大勢は、どうだろうか。また、それだからこそ、本番での成り行きは、依然として、混沌としたままである。この理由は、簡単なことで、党を挙げての支持が、得られていないからだ。一致団結が、党大会で示された、との話を持ち出すだろうが、それとて、あそこに集まった人々の、演出に過ぎない。乗っ取ったという話も、現実には、利害を考慮して、何方に与するのが、好都合かとの判断に過ぎず、一瞬で、寝返る話だろう。これは、現大統領が、撤退を余儀なくされた、事情にも表れており、改選される議員の、訴えが当てはまる。確かに、感染症騒動の後、政治への不信は、先進国に広まった。その中で、現政権の綻びは、修復不能のように、見えてきた。だから、という訳だが、更に、既成政党への不満が、という話を持ち出すのは、どうかと思う。依存性の強い人間が、そんな判断を下しても、早晩、寝返るようにしか、思えぬ。

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7月22日(月)

 予想は、見事に外れた。一度決めたことを、貫くべきとの考えで、撤退は無いと予想したが、決めたとの報道だ。何だ、所詮その程度のものか、と見る向きもあろう。確かに、政治に通じる訳でも、海の向こうの考えを、見抜ける訳でもない。単に、人間として、あるべき姿は、と。
 だが、現大統領は、おそらく、「お前では勝てない」との意見に、屈したのではなかろう。一致団結を呼び掛け、全力で戦う為に、老体に鞭打っても、と思っただろうから。だが、このままでは、自分達が、議員選挙に勝てない、と言われ続けては、如何に頑固爺いでも、抗い切れなかったのだろう。でも、これでは、本末転倒ではないか。一国の長を、決める選挙より、自分の議席を、と訴えるのは、余りに情けなく思う。流石に、方針転換を、決めた以上は、そのことは、棚上げとなり、何事も無かったかの如く、選挙戦の最終盤が、繰り広げられる。にしても、こちら側は、こうなれば、最終候補が未定、でしかない。撤退の条件として、後任候補を、指名したとも伝えられるが、それとて、このご時世だ、思惑ばかりが飛び交い、一致団結どころか、決められない、という事態を招きかねない。以前なら、二大政党共に、率いる人物が、存在していた。それも、長となるべき人間ではなく、党を率いるという意味で。現大統領は、その代表格とも言われたが、当時の予想に反して、前大統領を、引きずり下ろす為として、出馬を決断し、勝利した。さて、今度は、どんな展開となるか。報道は、それ見たことか、とばかりに、勢いを増し、有力紙を始め、自分達の慧眼を、ひけらかすに違いない。だが、こんな茶番の連続では、大衆の支持は、政治も報道も、得られる筈が無い。だからと言って、新興勢力が、との声もあるが、そちらに関しては、期待が持てない。一時的には、人気を博しても、結局は、実務能力に乏しく、国を率いるだけの力は、一朝一夕には、身に付かないからだ。

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7月21日(日)

 他人に任せる、という話を書くと必ず、お前はどうだ、と尋ねてくる。有り体に言えば、能力に乏しい人程、そういう傾向が強い。特に、任された筈なのに、あれこれ注文を付けられ、それに振り回されるから、任されたことにならぬ、と言いたいのだ。お門違いも、甚だしい。
 まずは、任せる為には、吟味が必要であり、無能な人間を、採用することは、あり得ない。だが、程度の問題であり、相手の能力が、不足であっても、他の人々の支援があれば、何かしらを行える、となれば、任せることとなる。依頼者側の吟味力が、十分でないと、役不足ではなく、力不足が露呈し、依頼が破綻する。だが、その責任は、依頼者側にある。人を見る目が、無かったからだ。一方で、ある程度の信頼を置いて、任せたとしても、何の関与もなく、放り出すのも、どうかと思う。助言は必要であり、足らない部分を、補うことも、時に、必要となる。それでは、任せたことにならない、と思う人が居るが、これは、どうだろうか。人は、常に、単独で事を成すのではなく、多くの人の手を借りて、成し遂げるのである。と考えれば、依頼者だからといって、手を貸さない、とはならない。ただ、受け取り方により、以前同様の、命令となり、従うことが必要となる。これでは、確かに、任せたことにならない。でも、受け取り方によるのだ。任された、という信頼さえあれば、上司だろうが、上役だろうが、助言の一つとして、考慮に入れればいい。ここで、何で、いうことを聞かない、となっては、まさに、任せたことにならず、単に、操り人形を、拵えただけとなる。こんな信頼関係が、築ければいいのだが、今の社会は、そうなってはいない。特に、下に居る人間が、盲従することを、第一としており、それが、自分の成長を妨げる。そんな時、こんな人間は、上に立つ人間が、邪魔をしている、と思い込むから厄介だ。一方、上も上で、命令を控える必要が、当然あるのだ。

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7月20日(土)

 能力のある人間、と聞いて、どんな人物像を思い浮かべるだろう。何でも出来る、万能な人間、はたまた、一芸に秀でた、天才肌。そんな人々が、頭に浮かんだろうか。確かに、そういう類の人も、能力があるとして、皆が認めている。だが、それだけだろうか。少し考えてみる。
 嘗て、ある学者が、こんなことを言ったとされる。「科学とは、何とも都合のいい世界で、どんな天才が登場しても、その人物の寿命は、たかが百年であり、その間に出来ることは、限られている。だから、その他大勢の凡人達が、活躍できる余地が、沢山残されている」と。どんなに能力のある人でも、1日の時間は限られ、一生も限られる。その中で、出来ることは、全体から見れば、ほんの僅かに過ぎない。だとしたら、どうすればいいのか。ある著名な数学者は、予想とか課題とか、そんな風に呼ばれるものを、生前に遺した。後世の人々に、その解決を託した訳だ。彼の名が、今も語り継がれるのは、確かに、直接遺した業績故だが、それにも増して、この形で遺したものに、多くの数学者達が、必死で取り組み、解決の糸口を、探っていったからでもある。人間の能力とは、自分で行うものと、他人に託すものの、両方において発揮できるのだ。そう考えると、一緒に仕事をする人を集め、彼らの力を借りて、自分の目的を果たす、というのも、その一つとなる。適材適所として、才能のある人間を、的確に集め、的確に配置するのは、指導者の役割とされるが、これもまた能力の一つだ。今、海の向こうの騒ぎを始め、多くの国々や組織で、揉め事が起きているが、その多くが、この点を見落とし、自分達の一時の欲望を、満たす為だけに、動いていることに、端を発している。高齢問題が、取り沙汰されても、代替が見つからず、今に至ったのに、今更のように騒ぐのは、愚の骨頂であり、自らの愚かさを、露呈するだけだ。彼の手腕に期待し、支える側に回ってこそ、勝機があると思うが、どうか。

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7月19日(金)

 多様性という言葉が、喧しいと感じる程に、訴えられる中、社会媒体では、種々の意見が、飛び交っている。中には、反対意見と思しきものも、散見されるが、さて、どう扱うべきか、議論は成立するのだろうか。例えば、多様性の中には、多様性を認めない、という意見もある、とは。
 それ以上に、書き込まれていなかったから、真意の程は、明らかではないが、多様性を押し付ける勢力に、反撃する為に、発せられたもののようだ。ただ、これ自体を、間違いとするのは、それこそ、大きな過ちだろう。一方で、この主張が、互いの主張を尊重した上で、という前提があれば、問題は起きないが、ただ、反論しているだけで、だから、相手の考えが足りない、と結んだのでは、何にもならない。そんなこと、当然ではないか、と思う人も居るだろうが、今の世の中、これを明記しないと、賛否を表明することも、叶わなくなる。ただ、単に、相手の考えが及ばず、多様性が存在しないことも、多種多様の世界では、当然のことだ、と言うだけだったら、喧嘩を売るだけ、となり兼ねない。しかし、それらの事柄を、互いに認めた上で、互いの意見を尊重して、今出すべき答えを、探そうとの意図なら、大いに歓迎すべきだろう。また、これは、多様性を押し出す勢力が、陥り易い考え方で、他の考えを、全面否定することに、終始するのなら、そこには、多様性の考えは、貫かれておらず、単に、勝ち負けを求める、未熟な人間の妄言に、過ぎないこととなる。こんなことを書いてくると、やはり、多様性の話自体は、ごく当然のことに過ぎず、敢えて、議論するまでもない、ということが見えてくる。だとしたら、最近の議論は、何の為に行われているのか。当然のことを、確認した上で、多種多様な意見を、それぞれ尊重して、その中から、現時点での正答を、導こうとするのか。もしそうなら、何の問題も無い。が、どうも、様子は違うようだ。だからこそ、多様性を認めない、などと書く。

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7月18日(木)

 保護法、という名称から、思い当たった人は少ないだろうが、これもまた、ここで何度も取り上げてきた、弱者保護の一つなのである。それも、国が率先して、進めようとしたもので、今、問題となっている点は、側面の一つに過ぎない。それも、保護とは名ばかりで、別の目的の為の。
 この問題を扱った学問は、嘗て、先進国では、大変持て囃された。ヒトという種の存続を、確かなものとする為には、優秀な形質を選び出し、それを継承させることこそが、第一と置いたからだ。しかし、今では、人権蹂躙の典型として、厳しい批判の的となり、嘗て、名を馳せた学者達も、糾弾されている。この世に存在せず、反論の機会も与えられない中、このやり方は、どうかと思うが、弱者保護を謳う人々は、こんな輩が多いのだ。今回の事件も、その観点から、長く係争されてきたものだが、その実、ここで触れてきたような、誤った弱者保護の手法と、思える部分もある。嘗ての保護法は、国を挙げて、進めてきたものだが、それに関与した人々は、実際には、弱者の保護ではなく、その他の人々の、権利を守ることを、優先させていた。実は、弱者保護の大部分が、これと似た状況にあり、強者が、自らの権利を守ったり、発言権を維持する為に、使っている方便の一つに過ぎない。その点を、厳しく断じるのだが、本人達は、自らの行為に酔い痴れ、高貴なものの一つのように、主張し続ける。確かに、弱い者とて、ヒトとしての権利があり、それを尊重する必要がある。しかし、嘗ての学問同様に、障害者は、社会から排除され、権利を奪われてきた。それは、先進国に限らず、後進国でも、お荷物として扱われ、時に、抹殺の対象とさえなった。そんな歴史を、反省することで、弱者保護や、障害者の権利尊重が、訴えられているが、その裏で、関係者らの利益や、社会的地位の確立に、結び付いていることは、どう考えるべきか。今回の終結は、そんな所にも、及べばなあ、と思う。

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7月17日(水)

 生成人工知能が、話題となり始めたのは、1年少し前だったろうか。それ以前に、対話形式で答える仕組みが、公開されたそうで、それでも1年半程前だそうだ。話題になってから、脅威となり、それ以降も、文章だけでなく、他の媒体も、応用可能となる度に、驚異の度合いは増している。
 確かに、状況を書き記せば、それに応じた答えを、即座に提示し、それなりの水準を、保つと言われるから、人間任せより、機械任せの方が、遥かに効率的で、確実な手段と言われる。その一方で、仕事の質を重視すると、新入社員が、徹夜で仕上げたような、底の浅い、視野の狭いもの、との指摘もある。そこで、過渡期には、仕事の出来る人間が、その利用法として、質より量で勝負するが如く、多くの提案を、させるようにする、との話が出回り始めた。人間と違い、次々と要求を出しても、ある意味、素直に従うから、便利だと言う。取捨選択は、有能である自分自身が、行えばいい、という訳だが、どうだろうか。最終結果を、論じたとしても、当初の、機械が行う提案が、どんな代物だったかは、その場で提示されず、有用な使い方か否かは、判断できなかった。一方で、自分自身が、提案を考える時に、どんなことをするかを、改めて考えてみると、全く異なる手順であることに、気付かされる。件の専門家は、なるべく多くの提案を、並べることで、幅広く考えることができ、妥当な提案を、仕上げることができる、としていたが、多くの人は、ほんの一握りの提案を、瞬時に思い浮かべ、そこから、思考を始めるのでは、ないだろうか。ここに、大きな誤解があるが、物事を考える、と言われた時に、多くの人々は、提案そのものを、思い付く為に、長い時間考え抜く、と受け取るようだ。だが、実際には、思い付くのは、殆ど瞬間的であり、それを形にする為に、あれこれ検討しようと、残りの時間を費やしている。だとしたら、上の生成人工知能の活用法は、間違っているように思える。

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7月16日(火)

 先見性に乏しい人間を、競馬の予想屋のよう、と揶揄するようだが、報道に比べると、予想屋の方が、遥かに科学的、論理的だろう。今回の未遂事件から、形勢は一気に傾き、そのまま、結果が出るとさえ、断言する連中が居る。確かに、討論会の失態から、続く展開から、そう結論付けたいのだろう。
 だが、選挙戦は、まだ始まってもいない。その中で、こんな予想を出すのは、調査に基づき、世論を分析してのこと、と答えるに違いない。だが、いつ頃からか、世論調査は、全く信用できず、出口調査さえ、操作の思惑が、露呈し始めた。確かに、現時点では、現職にとり、かなり不利な状況であることは、否めない。だが、前職は、その実績から、政策の方向が定まらず、迷走することが、予想されている。それでも、今の高齢者よりまし、と見るのは、報道関係お得意の、口八丁に過ぎない。一方で、感染症騒動の際、報道の為体が、露呈していた。科学的根拠を、吟味する力が無く、論理の破綻を、見破る洞察力も無く、ただ、伝達者として、世界機関が、ばら撒き続けた、恐怖の扇動を、大衆に撒き散らしただけでなく、その上で、とってつけた解説を、滔々と述べ続けた。無垢な人々は、判断する材料も与えられず、ただ、右往左往を繰り返し、接種を強制されれば、素直に従い、検査を要請されれば、せっせと通い続けた。今も、同様の状況が、続いているが、その原因は、報道が、総括を求めず、自らの加担を、恥じることなく、無かったことに、しているからだ。政治は、それに比べて、容易いもので、見込み違いも、予想外れも、所詮、施政者に、責任を負わせれば良い。後出しならば、何とでもなり、したり顔で、予想をひけらかす、評論家の得意技となる。だが、感染症の際と同じで、世界情勢は、無責任な評論とは、全く別の形で、進んでいくしかない。その中で、どうあるべきか、あの輩が、そんなことを、考えるつもりも無いことは、明らかだろう。他人事としか、思っていない。

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7月15日(月)

 いやはや、驚いた。如何に、汚い言葉を吐いても、相手を罵っても、果ては、犯罪者呼ばわりしたり、無能者呼ばわりしても、仮令、そんな言葉の暴力を、浴びせかけたとしても、銃による暗殺を、企てられるとは、言語道断である。海の向こうの、分裂の深刻さを、表すと言われるが。
 だが、この話は、そこが問題ではない、と思う。確かに、銃社会では、こういう暴力沙汰が、これまでにも、度々起こってきた。毎回、二大政党間での論争となり、相容れない主張が、戦わされてきた。だが、今回のものは、その中でも、特別視されることに、なるに違いない。まだ、銃保有の正当性などに、言及する話は、出てきていないが、早晩、そうなるだろう。だとして、さて、今回は、どんな主張が、戦わされるのか。それとも、そんな瑣末なことより、選挙の行方こそ、重大事とばかり、忘却の彼方へと、押しやられてしまうのか。運の良し悪しが、才能の一つと言われるが、今回のものを、そう片付けてしまうと、こちらの元宰相の事件に、目が向いてしまうかも。だが、狙撃の標的となったことには、何ら変わりがなく、ほんの僅かな違いが、結果に結び付いたとされる。その上で、これを運と呼ぶのは、どうかと思う。実力の内と言われる、運は、総じて引き寄せるものであり、単なる確率を指して、才能や実力と結び付けるのでは、論理もへったくれも無い。生き残ったからこそ、選挙にも勝利する、などという意見もあるが、根も葉もない話だ。一方で、社会媒体は、思ったよりも、盛り上がっておらず、瑣末なことには、群がる人々が、いざ、核心へと向かうと、大人しくなるのか、とさえ思えてくる。反面、報道は、騒がしさを増しており、元々、政治に関する話は、無責任に出来るからか、勝手な暴言が、度々登場して、今回の被害者同様、妄言とさえ思えるものも、散見される。ただ、選挙の行方は、何方に転んでも、大差無しと見え始めており、これでもなお、盛り上がるものか。

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7月14日(日)

 昨日も、一週間前にも、書いたことだが、弱者保護や弱者支援の考え方で、受け容れ難いと思うことは、沢山ある。歩行困難者が、車椅子を使うことに、異論を唱えるつもりはないが、そこで、皆から注目されるのは、恥ずかしいと言われたら、どう対処するのだろうか。
 こんな遣り取りを、何度か行っていると、怒りに似た感情が、湧き上がることもある。ああ言えばこう言う、という形で、要求が高まってきた時、要望を出す障害者と、直接遣り取りするなら、まだ、対処法が、あるかも知れないが、仲介者が居ると、ただの邪魔者となる場合がある。本来、支援者は、双方の意見や考えを、聞き取った上で、解決策を講じるものだが、こと弱者保護に関しては、一方的となる場合が多いからだ。その結果、弱者は、絶対強者と化し、周囲の人間を、混乱に陥れる。だが、これは、弱者自身の責任とは、言い難いものがある。仲介者が、ただの伝達者になるばかりか、そこに、権力を付け加えて、対応する人間を、窮地に追い込むのだ。曰く、困っている人を、助けないのは、非人道的だ、と。だが、それは、常に、程度問題のことだ。最初に書いた、車椅子を恥ずかしいと思う人間を、どう扱えば、いいのだろう。恥ずかしいという感情は、他の人と違うから、という所から、生じるのだろう。だとしたら、特別扱いは、全てがそうなる。避け難いことを、要求された時、対処法は、無くなってしまう。その上で、非人道的、と言われたら、それは、何だろうか。今、例えば、聴覚障害者の為に、手話通訳や筆記代行などの役割が、置かれている。これもまた、恥ずかしいという感情を、前面に出せば、成立しないものとなる。また、弱視の人を、前列に座らせるのも、同じことだろう。弱者の支援とは、これらの問題を、全て解決してこそ、成立するものだ。だが、今の状況は、明らかな過ちを、当事者に押し付け、その責任も、押し付けている。これでは、支援とはならない。

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7月13日(土)

 新興の社会媒体だろうが、旧来のブログだろうが、何処に書いたとしても、また、仮令、炎上するなりして、世間の耳目を集めたとしても、問題解決にはならない。ただ、興味本位の人々が、調子に乗って、書き加えるだけで、そこには、正論たるべき論理も、尊重すべき定理も無い。
 所詮、世間の考えは、時代の流れに従い、千変万化するものだ。その場では、多くの賛同を得て、確固たるものに、なったように見えても、暫くすると、鍍金が剥がれ、地金が顔を出す。その結果、そこに展開された論理は、破綻の憂き目を見て、賛同者は散り散りとなる。中でも、弱者保護の考えには、取って付けた論理が、飾り立てられ、如何にもと思える姿に、呆れさせられることが多い。だから、ここでは、何度でも批判し、問題点を、指摘し続ける。弱者にも、色々とあるのだが、多くは、少数派と呼ばれる。大多数を占める人々から、少数派は、迫害されたり、差別されたりする、と指摘されるが、彼らの支援者の多くは、独特の論理を展開する。性的なものは、昨日も取り上げたが、理解不能な部分もあり、様子見の必要がある。一方、障害者と呼ばれる、ある能力が、備わっていない人々に対しても、過剰な対応が、求められることが多く、逆差別とさえ、思えるものも散見される。例えば、読み書きに、不便を感じる人は、沢山居るようだが、彼らに対する支援が、時に、異常としか思えぬものに、変貌する。多くは、当人からの要望に基づき、自分の欠点を補う為、と称して備えられる。だが、完全な欠陥でない限り、人それぞれの能力の違いは、歴然としてあり、ある人々のみを、救済する仕組みには、支援と言う名の特別待遇、と思えるものがある。その上で、要求する支援者は、歩けない人間が、車椅子に乗るのは、当然の権利であり、彼らに歩くように促すのは、間違ったこと、と断じている。だが、支援の方法は、一つに限らない。その意味で、別の方法を探る努力を、投げ出させるのが、支援だと信じ込むのは、間違いでしかない。

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7月12日(金)

 動物には、性の区別に、三つの段階がある、という。遺伝的な違い、性器の違い、そして、心の違いだそうだ。魚では、性転換が有名で、集団の中に、雌がいなくなると、雄の一部が、雌の性器をもつようになる。また、実験生物の蝿で、雄が雌の行動を示し、心の性差と言われた。
 ヒトとても、動物の一種である。同じように、異なる段階で、異なる性差を示す、という現象が起こるという。その際に、心の問題として、受け入れ難くなり、精神的な抑圧を、感じる場合を、今は病名を付けて呼ぶ。先日、画期的な判決と報じられた、この病気を抱える人間に対する、判断については、報道も盛んに取り上げた。ただ、その論調は、嘗てのものとは一変し、心の問題のみを、殊更に強調し、心と体の不一致、という点には、殆ど触れていなかった。確かに、ホルモン投与により、様々な変化を、起こすことができる。だが、当初、この問題を取り上げた頃には、性器そのものへの違和感が、根源となるとされ、それが病気として認定される、大きな要因とされた。今回の判決は、全く異なるものだが、法律上の問題として、取り上げた話であり、医学上の話とは、異なるのが当然だろう。ただ、ここでの一番の問題は、戸籍という、公的な記録に対して、どう対処すべきか、という点を、法的に論じたことだ。社会媒体では、当事者か否かは、特定できないものの、同じ病の人間が、形成手術が必要とされ、受けたことで、認定されたのに、何故、今更、こんなことが、と訴えていた。別の見方をすれば、投与を止めれば、元の体に徐々に戻ることから、やり直しがきく訳で、何度でも変更可能となった場合、どう対処するのか、という問題も生じてくる。法律と医学の、見解の違いについては、当然として、内縁の配偶者という扱いがあるように、ここでも、記録上と世間的な違いを、容認する方法もある。一方で、認知症の命名者が、自身で発症した時に、違和感を覚えたとされるように、こういう問題を、医学の世界だけに、任せるのは、どうかとも思う。

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7月11日(木)

 また、海の向こうの大統領の話を、持ち出したりしたら、執着心の塊、と思われるだろう。ある意味、その通りなのだが、ここでも、報道の姿勢が、あまりに酷いので、一言書きたくなる。まるで、野次馬の如く、他人事であり、浅薄な考えを、大衆に向けて送る、杜撰なものだからだ。
 討論会の失態は、多くの支持者にとり、一大事となった。それは確かだが、ある新聞、海の向こうでは地域紙ばかりで、一部のみが、全国で購読できるようだが、その大新聞が、撤退を勧告するような社説を、掲載したと伝えられた。恰も、不安や心配から、大いなる決断をした、とでも言いたげだが、本心は、ただ面白おかしく、嬉々として、老人批判をしただけで、国政の行方や、国のあるべき姿など、念頭には無かった。それ程に、報道の世界が、劣悪化しており、体制を批判することにも、一本筋が通った形ではなく、その場その場の、風向きに合わせた、コロコロと変わる態度に、怒りを覚えると共に、諦めにも似た感情が、強まり続ける。何故、これ程に質が落ちたのか。理由の一つは、長く言われた、活字離れの現象がある。新聞購読者の数は、減少の一途を辿っており、業界自体が、危機に瀕している。それ自体、人気取りへの転換を、図る端緒となっており、その心持ちが、編集方針にも反映され、愚民政治と同様に、大衆の目を、気にするばかりとなった。もう一つは、社会媒体の台頭で、それにより、種々雑多な意見が、世界全体に満ち溢れ、それまで、独占的だった、報道の業界も、一部の人気取りに、脅かされるようになった。結果、正論を書くことは、批判の対象にしかならず、矢を受け止める手立てを、持ち合わせない報道は、風見鶏の姿勢を、取る以外に手を失った。このままでは、信頼が失われるばかりだが、そのことへの危機感は、然程大きくないように見える。だからこそ、今回の社説となり、掌を返すような、開催国代表の発言報道、となったのだろう。

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7月10日(水)

 毎年、夏が来る度に、危機が叫ばれていた、電力事情は、どうなったのか。最近は、とんと聞かなくなったが、解決したのだろうか。一部には、再生云々の整備で、との声もあるが、現実には、全く役に立たないとの話も。結局、何がどうなったのか、わからないままに、時は過ぎる。
 騒がれた当時に比べ、ある発電方式は、その割合を激減させた。廃止論を唱える人々は、我が意を得たり、とばかりに、悦に入っているだろうが、現実には、こちらも、誤った方向に進むのを、考え直す意見が、大半となりつつある。一つ二つの失敗で、大事なものを失うのは、愚かなことだが、歴史としては、きちんと、帳尻を合わせることが、行われてきたから、この例に関しても、同様のことだろう。人間の考えとは、足らないものと、見るべきであり、言い出しっぺは、反省することなく、鬼籍に入るのだろうが、残された者は、解決策を講じなければならない。電力事情が、逼迫しているのは、今も昔も変わらず、その点を、考慮に入れながら、全体の均衡を図る必要がある。当然、燃料などの問題も、同じ範疇にあり、一方的な意見で、流されていては、根本解決は、望めそうにない。その中、日々の移動の手段である、車の問題も、同様の範疇にある。こちらも、温暖化なる化け物に、襲われる恐怖から、一方的な流れが、半世紀近く前から続くが、その間に、事情は大きく変化した。化石燃料を無駄なく使う、とでもいうのか。元々、燃焼系の駆動は、無駄が多いことが、問題となったが、この国のある企業が、奇想天外な仕組みを、開発したからだ。合いの子とでも、表すべきか、移動に従い、それまで捨てていたものを、回収する仕組みを取り入れ、燃費が、格段に向上した。この開発を、急いだ理由の一つが、電気自動車への転換を、迫る政策だったが、望み薄な状況を、打開した点でも、評価が高い。今、依然として、電気系への進展が、図られているが、そろそろ限界が見える。答えは?

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7月9日(火)

 討論会での不手際から、撤退を問う声が、所属政党からも、出ていると報じられる。それを、ある意味、面白おかしく、伝える報道姿勢には、改めて呆れるばかりだが、朝の経済番組で、扱き下ろしている経済評論家の、風見鶏的言動にも、いつもながらに、呆れてしまった。
 選挙の結果が、どう転ぶかについて、現時点で、予想がつかないのは、当然のことだ。だからこそ、こんな無責任な意見が、飛び出してくるのだと思う。特に、最も悪質なのは、かの政党の議員から、撤退と差し替えの提案が、飛び出したことだ。これまで、対抗馬が見当たらず、仕方なく、賛同していた、とでも言いたいのか、この豹変ぶりには、確固たる考えが、ひと欠片もないことを、表している。そうでなくとも、複雑な過程を経て、選び抜くことで、最適な候補を、国民に問うのが、この選挙での役割であり、党の代表を選ぶのは、党員の務めとなっている。では、今回の選考過程は、如何なるものだったか。現職が、有利に働く中、勇退でもしない限り、二期目に出馬するのは、当然のこととされる。それは、前回の選挙で、敗れた前大統領も、同じことだった。人気は凋落しておらず、狂信的な支持者からの、絶対的な支持を得て、二期目の当選も、確実と目されたが、結果は、敗北となった。評論するのは簡単で、思いがけずの当選が、悲観的な予測へと繋がり、様々な混乱を来したことから、次は御免となったのだ。にも拘らず、今回も、候補として残ったのは、ある意味不可思議でしかない。で、高齢者同士の戦いが、始まったのだが、今回の討論会の結果は、ある程度、予測できていたのではないか。それを覚悟の上で、何方の候補も、残ってきたのに、結果が、惨憺たるものだと、風見鶏的言動が、頻出することとなる。依存体質が、こんな所にまで、蔓延することに、懸念を抱くのは、当然だろう。とは言え、今更である。惨敗を喫するのなら、不徳の致す所だ。続けるべきと思う。

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7月8日(月)

 世界各国で、選挙が実施されているが、状況は、現政権にとって、有利なものではない。全体として、変革を求める声が、有権者から、上がっていると伝えられるが、果たして、そうなのか。ここでも、報道の姿勢は、何か、他人事ばかりであり、自分達の責任を、問うてはいないようだ。
 確かに、ここ数年の、異常な状況は、政を司る者にとり、決して好都合なものではなかった。天変地異が相手では、所詮、誰がどう足掻こうが、変わりがなく、ほぼ全てが、失政と片付けられる。その通りの展開なのだが、根本的な所では、天変地異とは、全く異なる要因が、関わっているように見える。経済の成長が第一と、それを目指して、政策を組み、異常事態にも、的確に対処した、と思ったのだろうが、その点だけでも、かなり多くの失敗があった。原因の殆どは、交換条件の不備、といったものだったようだ。だが、その嵐が過ぎ去り、愈々、元の生活に戻れる、と思った矢先に、世界的な物価高騰が、襲いかかってきた。こちらの原因は、ある国の独裁者の暴走、に違いないのだが、それを食い止められぬばかりか、そこから生じた様々な変化に対して、講じた策の多くが、的外れだったどころか、全体の均衡を、保てぬものだったからだろう。こう批判されれば、現政権の殆どは、と言っても、大国の一つは既に次に譲ったが、それは誤解だと、弁明するだろう。しかし、あの騒動で、施されることに、慣れてしまった国民は、その反動としての、毟り取りにも思える、政策変更に、否の声を上げただけだ。その意味では、説明不足、舌足らず、という意見もある。がしかし、現実には、やはり、義務と権利の繋がりや、自由と責任の両立が、現代社会で、重要となるにも関わらず、その浸透どころか、逆の見方ばかりが、重視される風潮に、世界全体が、流れていることに、気付くべきだろう。痛みを伴う、という意見で、押し通してきた国では、他と違い、政権の安定が見込まれるようだが。

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7月7日(日)

 弱者保護は、強く求められるが、その一方で、そこから生じる、問題に関しては、どう対処しているのか。障害者の範疇を、無闇に広げた結果、こんな問題が、生じ始めたようだ。半世紀前なら、努力せよ、との一言で片付けられた、人それぞれの違いは、今や、配慮すべきものとなった。
 確かに、苦手なことに、力を注ぎ込むのは、誰しも、嫌だと思う。苦手は、同時に、能力と気持ちを、対象とするからだ。前者については、嘗てであれば、出来得る限りの努力、を促され、嫌々ながら、それぞれに、頑張っていた。その結果、苦手が得意となった人は、評価の対象とされたが、いつまでも、苦手なままの人間には、別世界のことにしか、思われなかった。教育は、ちゃんと教え育めば、誰もが、それなりの能力を、獲得できる筈、という前提で成り立っていた。しかし、いつの頃からか、その思い込みは、崩れ去ってしまい、放置されることとなった。障害という名の下に、配慮さえすれば、放置できるのだ。こんな書き方は、乱暴に違いないが、配慮という話には、そんな側面が、明確にある。その中で、配慮を受け入れ、その状況下で、才能を輝かせるには、実は、羨望の目に耐える、そんな心の強さが、要求されることに、気付かぬ人が多い。ここでも、別の形で、対処されたことで、隠れた才能が、発揮されたという例が、数多あるに違いないが、苦手を克服した話同様、何かしら特別なことで、自分には、当て嵌まる筈が無い、という思い込みが、優先する。この過程で、多くのことが、見出されず、看過されることで、間違った風潮が、より強められる。配慮とは、本来ならば、苦手な部分に対して、他とは違う対処により、克服とは違う形とはいえ、その問題を解決することになる。だが、今の配慮の多くは、単に、放置する為の道具に過ぎず、当事者達は、何も達成できないまま、放り出されることとなる。この大いなる間違いに、気付かぬ内は、苦手は無くせない。