パンチの独り言
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2月13日(金)

 世の中には、自分の不幸を、さも大ごとの如く、時に、自慢げに、話す人々が居る。国を挙げて、不幸や悲惨を、殊更に取り上げるから、こういう人は、まるで、自分に、注目が集まる、と思い込むようだが、現実には、全く違う。単に、自分より不幸な人間を、見つけたいだけだ。
 それと共に、これらの人々の多くは、他人が、あれこれ、批判や文句を並べると、必ずと言っていい程、自分の体験であり、相手は、体験もないのに、そんなことを、言う資格は無い、と断じる。まあ、人の勝手、に過ぎないことだが、この風潮が、目に余る程、となると、どうしたものか、と思えてくる。なのに、排他主義、排斥主義の人々は、自分達が、外国人、になった経験は、殆どが無い。にも拘らず、今、自分達が、受けている、不幸な扱いを、投げ返そうと、躍起になっている。別に、これを、差別とは思わないが、差別的な扱いを、受けたことの無い人間が、何を偉そうに、と思ったりはする。一事が万事、この調子なのだが、視野の狭さと、不寛容は、やはり、島国根性から、来るのだろうか。以前なら、そんな片付け方が、手っ取り早かったのだが、最近は、そうもいかぬ。海の向こうの、移民で成り立っていた、先進国は、門戸を閉ざそうと、出鱈目を繰り返すし、彼らの多くの、先祖が旅立った、として、懐かしく思い描いてきた、あの国々も、大量に押し寄せる、難民と呼ばれる、身勝手な人々の扱いに、窮した挙句、排斥運動が、盛んとなってしまった。島国であるか、他国から離れているか、などの要因は、もう無関係であり、単に、人々の心の奥底に、巣食っている、他人を差別し、自分さえ良ければ、と願う、利己主義が、表面化しただけ、なのだろう。だとしたら、社会性の動物、と言われてきた、ヒトについても、利己主義が、当然のものであり、遺伝子が、そうさせているかは、知る術もないが、利他主義などという、戯言は、無意味なもの、となってしまうのか。自分を、第一に考えずして、他人のことは、出来る筈も無い、との考えからすれば、利己的なことは、否定できる訳も無いが、自分を良くして、次に他人を、という筋道は、やはり、残していかねば、と思う。

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2月12日(木)

 改めて、外国人を排斥する、と書くと、それは違う、と思う人も、居るのではないか。排他主義ではなく、愛国主義であり、自分の国を、第一に考える、という意味だと。それなら、改めて、問うてみたら、どうだろう。国を愛する為に、外国人の扱いは、どうなるのか、と。
 こんな遣り取りを、敢えて行う必要が、あるのか。こんな形で、食い下がられると、途端に、面倒になる、人も居るだろう。その通り、この手の意見の殆どは、単に、自分の生活が、平穏無事であれば、と願うことから、始められている。国全体に、どんな人が、住んでいようが、自分が、豊かで安心できる生活を、送ることさえできれば、それで満足なのだ。他人のこと、国のことなど、ある意味、どうでもいいに違いない。それは、海の向こうも、同じ状況であり、自分が、働く場所が、無くなってしまい、収入が断たれた上に、将来への不安が、膨らむばかりとなり、それを、殊更に強調し、それが、移民や外国の責任だ、と断じることで、人気を得た、大統領が、返り咲いたのが、今の状況だろう。その過程で、彼が示した、約束の大部分は、依然として、果たされぬこととなり、別の不安が、膨らみ始めた。一方で、こちらはどうか。硝子の天井が、有ったか否かは、判らぬままに、宰相に就いた女性は、他国の例と同様に、人気を博した結果、大勝利を得た、と言われる。だが、不安の種火は、燻ったままで、煩い連中は、喧しくがなり立てる。どうなるかは、誰にも解らぬものだが、それにしても、相場は、上昇を続け、このまま、庶民の収入が、増え始めれば、ある安定状態を、迎えるかも知れぬ。で、排他主義だ。今の流れでは、外国人頼みを、盲目的に継続することは、起きそうに無いものの、だからと言って、排斥まで及ぶかは、見えていない。極端な物言いは、一種の流行病のように、広がっているものの、無根拠の主張は、早晩、自滅しそうで、どこかに、均衡を、見つけそうに思う。ただ、それが、どちらに傾いた結果となるかは、見えていないのが、現状なのだ。口は災いの元、気をつけねば。

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2月11日(水)

 排他主義が、蔓延ってしまった、ように見える。選挙結果も、その延長線上か、と思える部分があり、首を傾げたくなる。だが、そんな考えは、少数派なのだろう。自分が、不幸だと考え、それを、他人のせいにし、その結果として、今は、外国人排斥が、先頭を切る。
 だが、そんな心持ちは、ずっと昔から、あった。島国根性、とも呼ばれる心情が、現れたものの一つに、村八分、という考えがある。今なら、仲間外れ、と呼ばれるものだが、何かしらの違いを、見つけた時に、それを、殊更に強調し、違いを元にして、排除に繋げる、という考え方だ。仲間だった人を、追い出す為に、あれこれと、理由を見つけ出し、それが、如何に重要なものかを、強調することで、目的を達成する。国を挙げて、そんなことを、やり始めた、と思えるのは、移民頼みで、発展を続けてきた、海の向こうの国で、だからこそ、移民排斥の政策に、驚いた人も多く、今も、その混乱が、国内各地で、発生している。それを、対岸の火事、と捉えるか、はたまた、同じ事情と、判断するかは、今後の、この国の行く末を、定めていくもの、と見ることもできるが、さて、どうなることか。これまでも、少し書いてきたが、外国人労働者頼みの、政策に関しては、疑義を感じる。海の向こうの発展は、実は、安価な労働力として、移民頼みを、続けてきたが、それが、肝心の働く場を、奪うことに繋がった、との解釈が、大統領自らが、下したことで、大きく、方針転換が図られた。だが、安価な労働力は、また、劣悪な労働環境とも、結び付いてきた訳で、それを、豊かな生活を、望み続けた自国民が、喜んで引き継ぐとも思えぬ。この状況は、こちらでも、同じと見做されるが、大きな違いは、まだ、多くの労働が、奪われたのではなく、単に、面倒で、劣悪なものを、回したいと願う、身勝手な人々の、考えを反映しただけだ。一方で、様々な事情から、働けないとされる、人々の扱いには、まだ、答えが出てなく、そこから手をつけたら、とも思う。そちらに、目を向けるより先に、排他主義へと、舵を切るのは、如何にも、愚かに思えるが、さて、どうなるか。暫く、様子見が、続くことになるのか。

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2月10日(火)

 選挙結果を受けて、相場は、最高値更新を、続けている。株式市場は、将来を見込んだ、動きを示す、と盛んに言われるが、果たして、この動きは、何を期待したものか。一方で、悲観的な筋書きを、好む人々は、今、沈黙の場面に、入っているのか。はたまた、礫の準備か。
 一つだけ、言えることは、相場が上げても、庶民の生活は、楽にならない、となる話だ。朝三暮四を、思い起こせば、今この時に、手にできる金の、多寡によって、感想を言う人々に、将来を見込んで、上げ続ける相場は、何の意味も為さない。だが、景気が上向けば、それぞれの収入も、それに従って、上がることになり、今年の末には、全く異なる数字が、給与票に、記されているかも知れぬ。そんな先のことに、興味が無い、と言い続ける人々も、一方では、老後の不安を、抱き続け、それについても、文句を並べる。目の前と、ずっと先、ある意味で、全く異なる光景を、思い浮かべつつ、不平不満を、並べているが、その本心は、何処にあるのか。こんなことに、いちいち相手をしていては、政は、進められぬもの、と見るのは当然だ。だが、目の前の人参を、ぶら下げてやらねば、票を獲得できない、となれば、やはり、減税との一言が、決め手となったのだろう。それも、横並びとなれば、政権を握った人間が、有利となるのは、必然だろう。結果が出て、それに合わせたかの如く、相場は、上向きの調子を、維持したままとなる。それも、連日で、かなりの上げを示すから、どうなったのか、という心配と、どうなるのか、という不安が、過ぎるのも、致し方の無い所だ。とはいえ、まずは、閉塞感しか、抱けなかった時代と違い、好転しつつある中、自分達が、考えるべきことを、各人が、果たすことが、第一ではないか。確かに、まだ、不安が残るのは、当然なのだが、それを言い募っても、何にもならない。自分がすべきことを、するのが、第一であり、その結果を、眺めるのが、次に来ることだ。不平不満や文句は、何の足しにもならぬ。動いてみたら、どうか。

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2月9日(月)

 選挙の結果には、触れないでおこう。無駄とは言わぬが、何だか、この動きに関して、熟慮の末、とは思えぬ節がある。でも、その一方で、先日取り上げたような、有名な人々が、囀りで、盛んに訴えたことは、水泡と化したようだ。論理とか、理念とか、盛んに言われたが。
 今回、書いておきたいのは、選挙のやり方、に関してだ。以前は、選挙が始まると、街中に、騒音が溢れ、何をどう訴えているのかは、全く伝わらないのに、ただただ、当選させて、との訴えばかりが、耳に響いていた。それに比べれば、ずっとましなのかもだが、それにしても、あらゆる媒体を用いて、皆に伝えたいことは、何なのかについては、依然として、明確にならぬまま、のように見える。どんな媒体を、用いようとも、何を伝えたいかを、明確に書かねば、伝わる筈も無いし、その一方で、一度訴えたことでも、約束を反故にすれば、何のことか、となってしまう。問題は、その伝え方ではなく、媒体の使い方、とでも言おうか、その辺りに、まだ、強い違和感と、強い抵抗を、覚えているのだ。社会媒体が、登場するまでは、と言うより、それを、選挙に用いることが、認められる前は、街頭での、騒音としか思えぬ、車から発せられる、連呼と、何処かの会場で、開かれる、演説会しか、無かったように思う。それでも、新聞折込で、候補者全員が、書き連ねた、主張やら、テレビで流される、録画やらが、あるではないか、という意見も、出てくるだろう。でも、誰が、どれ程の興味を、抱いているのか、という点からは、取るに足らず、と言いたくなる。そこに、登場したのが、社会媒体なのではないか。それ自体は、些細なもの、と見る向きもあるが、今や、多くの人が、手にした端末で、情報の送受信を行う。その上、時と場合によるが、何度も表示され、決められた時しか、発信されないものとは、大きく異なる、優位性を示すように思える。でも、内容を含め、誰がどう、判断しているのかは、不明確なままだ。電子メールは、いけないが、社会媒体であれば、という点も、今一つ理解に苦しむ。皆さん、どう思いますか。

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2月8日(日)

 手にした端末で、世界に向けて、自分の意見を、書き綴る。何と、気持ちのいいことか、と思う人が多いようだ。だが、肝心の中身は、どうか。今更、書くまでもなく、玉石混交、まさに、月と鼈、と思えることも、多くある。それも、互いの遣り取りで、大きな差を。
 日頃の生活では、こんな体験は、できない。何しろ、相手は、名の売れた人物で、雲の上の人、だったりすることもある。だが、そんな差を、感じさせないかの如く、同じ土俵で、意見交換が、行える。今は昔、それぞれの世界が、異なるだけでなく、互いの住む場所も、違っていただけに、擦れ違うことが、あったとしても、立ち止まって、言葉を交わすことなど、起きる筈も無かった。それが、匿名性が保てる、社会媒体の中では、互いに、相手の正体を、知らぬままに、言葉を交わせる。ただ、社会媒体も、匿名とは限らず、本名や芸名で、書き込む人も居て、そうなれば、実社会では、交わる可能性が、全く無い人まで、言葉を交わし、意見交換できる。これ自体は、まさに、社会媒体の良い所で、貧富貴賤に関わらず、お付き合いが、できることとなる。でも、その遣り取りを、眺めていると、時に、不釣り合いな、状況が、展開される。これ自体も、この仕組みの特徴だから、ある意味、見守るしか無く、何方かに、加勢しても、意味無いことにしかならない。だから、時に、そんな中に、書き込むことも、あるにはあるが、多くの場合は、見て見ぬふりを、決め込むこととなる。落ち着いた、遣り取りであれば、それで良いが、そうならぬ場合は、一方が、もう片方を、拒絶することになる。これもまた、この仕組みの特徴の一つだ。実社会でも、そんなことが、偶に起きるが、でも、仮想空間に比べれば、平穏に戻ることが、できる場合が多い。まだまだ、成長途上なのだが、だからと言って、見守るだけでは、何ともならぬ。それなら、何かできることを、との思いで、最近の書き込みを、続けている。

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2月7日(土)

 この所の、株価上昇に、投資家達は、頬を緩めているだろうか。それとも、次に来る暴落に、思いを馳せているだろうか。株価の上下に、一喜一憂しても、仕方がない、との意見もある。投資とか、資産運用とか、その手のものを、考えるのなら、長い目で見る必要がある。
 それと共に、大衆媒体では、盛んに、庶民と思しき人に、マイクを向けて、一つ覚えの台詞を、話させている。つまり、株価が上昇しても、自分の生活は、楽にならず、物価高の方が、遥かに問題だと。だが、経済状況を、考える上では、株価は、その指標の一つであり、泡が弾けた後、低迷が長く続いた、株価についても、最高値更新の、報道がなされたことは、記憶に新しい。そこに、新たな波が打ち寄せ、更なる高値が、続く訳だが、報道では、そんな喜びを、扱うつもりはない。僅かな年金で、厳しい生活を強いられる中、物価高に襲われ、次の受給まで、我慢が続くとの話に、飛び付くだけだ。でも、そんな一握りの人々の、悲惨な生活に、目を向けるばかりで、倹しい中でも、日々の喜びを、感じる人が居ることに、気付かないのか。また、そういう高齢者の中には、当然、現役の頃から、将来への備えと称して、投資や資産運用に、目を向け、実際に、資金を注ぎ込んだ人々も、かなりの割合で、居るに違いない。そんな幸福には、興味がないとばかり、僅かな年金に、苦しむ人だけを、取り上げてきた。だが、それが本当なら、街ゆく人々の、表情も、暗いだけとなる筈だ。政治への不満も、同じ線上に、置かれている。勝ち負けにしか、興味を示さず、全国で、取り上げても、何の意味も無い、特定の選挙区に、目を向けるのも、愚の骨頂としか、映らぬものだ。話を、元に戻せば、最高値は、海の向こうもこっちも、状況は同じようである。一人、乗り遅れたと言われ続け、悲劇の主人公と、考えてきた国民には、この状況は、奇異なものとしか、映らない。だが、事実は事実、経済は、好転しつつある、と見るべきだろう。認めたくない人は、放っておけばいい。

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2月6日(金)

 庶民にとり、政治とは、理解不能なもの、と思う。こんなことを書くと、すぐに、そんなことは無い、何故なら、今の社会の盛り上がりは、理解した上のことだし、期待が膨らむからのことだ、と、反論が飛んでくる。囀りでは、まさに、そんなことが、横行しているが、どうも。
 それらの発言者が、理解しているとは、とても思えないのだ。何しろ、毎回繰り返されるが、昔は、公約と呼ばれ、それが信頼を失うと、マニュフェストなる、新語が登場して、盛んに使われた。でも、正体は同じで、反故にされる、口先だけの約束に、過ぎない。今回も、所詮、そんな事柄の、遣り取りばかりで、違うとすれば、どの陣営も、同じことを、主張するばかりで、何の違いも、感じられず、さて、何方に与すれば、より良くなるのか、と思うだけのこと、何奴も此奴も、好き勝手なことを、叫ぶだけで、確かなのは、当選させろ、というお願いだけだ。で、目出度く、バッジを付ければ、党を挙げて、約束を破り捨て、言い訳だけが、口の端にのぼる。一事が万事、この調子の、政の世界を、日々の生活に、追われ続ける、庶民が、理解できる筈も無い。だったら、何の為の選挙なのか、何の為に票を投じるのか、その答えを、知る人も、殆ど居ないだろう。とは言え、突然のことだが、血税を費やし、国の行く末を、決めようとしている。その中で、有名無名に関わらず、多くの人々が、囀りに書き込むが、はて、これもこれで、疑わしいもの、なのではないか。特に、多くの人が、知る人の中に、囀りに、政治の話を書き、どの党に、投票するかを書く。こういう事態に、首を傾げるのは、国の行く末を、真剣に考えず、何事も、穿った見方しか、示さないばかりか、諦めに似た心情を、書いている、と思われる人間だから、なのかも知れぬ。でも、何方も何方、何が正しいのか、考えているに違いなく、国の将来にも、思いを馳せている。ただ、それを、書くか、書かないか、の違いだけだ。こちらから見れば、何故、書こうと思うのか、理解に苦しむ。他人を、説得しようとするなら、政治家にでも、なったらどうか。皆が、それぞれの役割を、果たすことこそが、大事なのでは、と思うのだ。

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2月5日(木)

 performance、業績とか能力とか、訳されるようだが、世間では、専ら、達成度とか効率とか、そんな感覚で、使われるのではないか。注ぎ込んだ、何らかの投資に対し、どの程度のものが、手に入ったか、を論じる場合に。金や時間は、確かに、貴重なものに、違いないが。
 それにしても、そんなことを、声高に訴える人程、効率の悪い仕事を、やっているようにしか、見えないのは何故か。こちらが、穿った見方をしたから、というのは、確かにその通りだが、それにしても、効率第一と称して、様々なものを、排除することで、実際には、核となるべき、重要な事柄までも、投げ捨てた例は、数え切れぬ程に、あるに違いない。要するに、効率を、前面に押し出すのは、自分の都合を、押し付ける為の、方便に過ぎず、瑣末と考え、あらゆることに、除外を導入することで、本質的な部分も、失ってしまう。経済的な停滞が、長く続く中、この傾向は、急速に強まった。価格を、抑える為には、効率を上げることで、単価を下げればいい、という考えは、まさに、その典型であり、それによって、肝心な部分が、抜け落ちた一方で、付加価値と称する、何の役にも立たぬ、紛い物が、出回ることとなった。一見、妥当な議論に見え、実は、排除一方の、経営方針が、今の状況を、招いたとしか、思えない。損して得取れ、との掛け声は、成長期にこそ、通用するものだったが、停滞や衰退の中で、効率を追い求めることに、有無を言わせぬ調子が、含まれていたのは、止むを得ない、とみられることが、多かったようだが、今に来て、それが、大間違いだったことが、明らかになりつつある。にも拘らず、したり顔の人々は、効率重視に、しがみついたままだ。このままでは、自己崩壊しかねない、との懸念も、呪文を唱えるが如く、効率を叫ぶ人には、何の影響も、及ぼさない。少なくとも、何を投資して、どう動かして、何を産み出すのか、そんな流れを、考えぬままに、見かけの効率ばかりに、目が奪われるのは、愚の骨頂に、違いない。落ち着いて考え、その場凌ぎではなく、長い目で見た、展望を論じてこそ、真の意味の、成果が上げられる、というものだろう。

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2月4日(水)

 突然始まった選挙に、混乱が広がる。だが、大衆媒体は、突如として、我が意を得たり、とばかりに、評論を始めた。正体の知れない、政治の世界に、案内人は必要だが、あんな信用ならぬ連中に、任せたら、どうにもならぬ。それでも、日が近付きつつあり、盛り上がるらしい。
 選挙と言えば、盗まれた、と称した、海の向こうの暴君は、その後、復活を果たし、再び、暴れ回っており、国内のみならず、他の国まで、巻き込まれている。自分が、信ずる所に、固執する姿に、英雄を見る目を、向けた人々の、心情は、全く理解できないが、兎に角、彼が始めた難癖は、今や、誰もが、口にするもの、となったようだ。こちらの選挙でも、近年は、投票率の向上を、目指して、有権者に便宜を、とばかりに、選挙制度の変更が、進められている。盗人と呼ばれた、郵便投票は、彼方で、物議を醸したが、こちらで、それに当たるのは、期日前投票だろうか。導入は、四半世紀ほど前だが、その前にあった、不在者投票も、実は、今も続いている。制度の違いの、説明を読んでも、今一つ、理解し切れぬが、どう違うのか。それより、今、問題となるのは、投票所での、本人確認についてだ。何の証明も無しに、手続きが、進む状況に、懸念を抱く声が、有名無名に関係なく、囀りに届く。確かに、不正を疑えば、そんないい加減なことで、と言いたくなるのも、理解できるが、その一方で、宣誓書の提出が、求められることには、あまり触れないようだ。この国は、海の向こうと違い、契約書などの文書を、重視しないと言われる。ここでも、役所などの、他人による証明を、重視する態度が、表れているが、署名などの意味は、どう考えるのか。投票所での不正も含め、疑うことが、正しいことと、断定しつつ、あり得ないことを、書き連ねるのも、不思議でしかない。一体全体、何を頼りに、生きているのか、問うてみたいものだ。

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2月3日(火)

 今、読んでいるのは、コーヒーに関する本だ。著者が、言いたいのは、良いコーヒーを、良い雰囲気で、そして、それに見合う、適正価格で、ということだ。確かに、2年程前から、普段飲んでいるコーヒーの、豆の価格は、ほぼ倍に、値上がりしている。理由は、需要と供給とのことだが、はて。
 経済大国と、なりつつある国で、西洋風のコーヒーの商売が、浸透することで、この混乱が起きた、とも言われるが、それに加えて、天候不順が、生産地域を襲い、供給が、不安定になった、のも理由と言われる。生産地域は、温暖な所に限られ、比較的貧しいことから、これまでは、虐げられてきた、と言われる。そこに、競争が激化し始めると、少ない牌を、奪い合う図式ができ、資金の流入が続いたことも、一因と言われる。何れにしても、あらゆる物品が、値上げされる中、この嗜好品も、例外ではない、ということか。適正価格は、需要と供給の均衡も、関わるものだが、昨年の米騒動から、その単純な図式は、現実には、当てはめられず、一部の供給業者が、操作した果て、と見る向きもある。他の物品に関しても、30年の停滞の中で、価格の維持だけでなく、品質の維持さえも、難しくなってきた。このままでは、世界に誇る、最先端技術と共に、高度な品質管理も、失われかねず、この国の特質が、失われる懸念が、広がり続ける。だが、この図式、ここまでの話で、抜け落ちた部分に、気付いただろうか。消費者の観点は、勿論のこと、経済を回す為に、必要となる資金の流れで、購買そのものもだが、税金を元にした、公共事業などにも、泡が弾ける前の、あの状況を、思い起こした方が、良いのではないか。その為には、自身が使う物品も含め、国全体として、金が行き渡り、回る為には、使う方だけでなく、その為の資金確保が、重要となる。税金の廃止を、補う為の資金ではなく、納税により、国庫に入る資金を、更に増やして、事業に回すことを、考えるべき時が、来ているように思う。

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2月2日(月)

 無知は、恥じることではない。聞くは、聞かぬは、との話は、有名だったけれど、最近は、どうだろうか。誰かに、尋ねるよりも、手にした端末で、という若者が、多いと聞く。だが、その危険性について、論じられることは、少ないようだ。社会媒体を、眺めていると。
 間違いが、横行している、と見る人が多い。でも、肝心の若者達は、自分達が、それらの情報源により、間違ったことを、正しいと、信じ込まされていることに、気付かぬようだ。これは、大変なこと、と思うのは、肝心の彼らではなく、煩いとして、敬遠される年代の、人々なのだ。何とかせねば、という話も、どちらかと言えば、年齢を重ねた世代で、懸念を書き綴る。だが、その一方で、面白い反応が、起きているのも、事実のようだ。学習の必要性を、説いている話は、沢山あるけれど、その際に、騙されぬように、学びましょう、という掛け声が、飛んでいるらしい。それに対し、それなりに高学歴と、思しき人物が、大真面目に、こんな呼びかけは、ふざけたものであり、自分は、そんな気持ちで、学習をしたことなど、一度も無い、といった内容の、書き込みをしていた。それは、その人物にとり、事実に違いない。だが、掛け声の対象者は、そんな類の人種ではなく、ただ、社会媒体を、眺めていて、そこに書いてあることを、鵜呑みにする、ある意味、軽薄な人種である。彼らにとり、誰かに尋ねるのは、面倒でしかなく、時には、恥ずかしいという、感情のみが、心を過ぎる。だから、手にした端末で、済ませるものなら、簡単で、誰にも、迷惑をかけず、恥をかくことも無い、と結論付けられる。その上、検索しても、複数のものを、確認するのも、同じ理由で、行う筈も無い。だから、間違いに気付くことなく、それを、人前で、平気で披露する。ただ、同じ若者仲間であれば、面倒と恥から、仮令、知っていたとしても、それを指摘することなく、仲間を失わずに、済ませる訳だ。おやまあ、と思うのは、懸念を抱く年代であり、時に、面と向かって、指摘することさえある。だから、毛嫌いされ、違う世代の人間から、嫌われることとなる。これもまた、不可思議なのだが、もしかしたら、こんな事情が、あるのでは無いか、と思っている。本人達に、敢えて伝えることなく、気付かせるには、どうしたら、と思いつつ。

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2月1日(日)

 教育に携わる人々が、教育の力を、評価するのは、当然のことだ。ただ、だからと言って、その力を、過大評価したり、誤った理解をしたり、するのは如何なものか。昨日の話は、まさにその点に関わる。教えられる、との言葉に対する、理解に対して、疑問が残ったからだ。
 教えられるとは、担当した教科について、同じ試験を受けた時に、良い成績を収められる、とする考えは、知識の豊かさを、示すと思われるが、実は、的外れだと思う。この試験は、生徒向けのもので、特に、記憶を計るものの場合、その年齢特有の、状況を見極めるものとなる。明らかに、年齢が異なり、記憶力、それも丸暗記と呼ばれる、を試すものだと、年齢を重ねる度に、不利になる訳で、何を比べたいのか、とさえ思えてくる。また、教え込むとの考えも、この辺りでは、よく聞かれるが、間違ったもの、と思う。教育とは、教え育むこと、と言われるのに、何故、強制的に、理解させようとするのか、全く理解できない。こんな連中が、教育界に溢れており、間違った認識が、定着したことが、現状に結び付いたようだが、そろそろ、その間違いを、厳しく指摘すべき、と思うのだ。育むには、見守るとの意味が、込められており、ただ強いるものではなく、本人達が、自分から、興味を抱き、理解を深めることを、意味すると考える。そう考えれば、教えることは、そこに示された事柄を、説明することで、誘うようなもので、事細かに、教え込むこと、ではないと気付ける。ところが、教育の力を、誇示しようとする人の多くは、それを捻じ曲げて、どれだけ、成績を伸ばし、どんな成果を、上げられたかを、競うようになる。当然、優位性を保つには、同じ試験でも、好成績を上げる、必要がある、となる訳だ。まあ、そう考えるのも、人それぞれの、勝手なことと見れば、それだけのことだが、他人にまで、押し付ける態度では、困りものとなる。もっと、気楽に、相手次第と考え、案内人程度の役割、と考えれば、教えることも、難しくないと思う。

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1月31日(土)

 最近の囀りの話題を、一つ。教員免許の話は、いつ頃だったか、免許更新について、色々と物議を醸した。監督官庁の言い分は、教科書の内容が、更新される中、教える側の資質が、十分かを、確かめる為とか。それだけでは、ないのだろうが、兎に角、厳しい目が向く。
 結局、その制度自体が、今は消滅し、現場での騒動だけでなく、更新の為の、講習会などを、負担した大学も、肩の荷を下ろした、と言われる。その関係ではないが、免許は、教える科目を、特定しており、それについて、話題となった。昔は、社会科と呼ばれた、数科目も、今も、理科と呼ばれる、数科目も、取得した教員は、それら全てを、教えられることが、必要となる。理科では、物理、化学、生物、地学の4科目が、それに当たるが、現役教師が、それら全てを、教えられるか、との問いを投げかけた。反応は鈍く、大した数ではないが、全てが、投げかけた本人も含め、教えられない、との回答だった。これでは、看板に偽りが、となってしまう。こちらは、規定通りに、教えられる筈、と返したのだが、当人は、自信が無いとの返答。それ以前に、できぬと答えた人間は、担当科目以外には、試験での点数が、取れないと書く。確かに、教える者、全てを正答せねば、教師失格とでも、言いたいのだろう。だが、この考えは、明らかな誤りだ。教える人間が、教える内容全てを、完全に理解し、記憶している、との考えは、彼らが、雁字搦めに、縛られている、思い込みに、基づくものだが、そんな必要は、全く無いし、そんなことに、意味がある筈も無い。高校生に、課された試験は、彼らを対象としたものであり、教える側が、同じ条件で、それに正しく答えられる、必要などある筈もない。この思い込みが、生徒を縛り付け、萎縮させることも、こういう発言者は、気付いていないだろう。教科書の内容を、正しく理解し、説明することこそが、教師に課された役割で、それに対して、どう学び取るかは、生徒に課された役割だ。その中で、試験は、その程度を測る手段で、それ以外の目的は無い。こんな誤解を、相手にしつつ、こちらの主張を、通すことは、容易ではない。兎に角、頭の固い連中では、説得さえも、困難となる。

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1月30日(金)

 海の向こうの暴君ぶりに、手が付けられぬ、との思いからか、別の暴君に、近寄る素振りには、政治家達の不見識を、見る思いがする。ただ、どれもこれも、無軌道には違いなく、このまま、不穏な時代に、突入するのでは、との思いが過ぎるのも、無理ないことと思う。
 ただ、最初の暴君も、苦手なものが、あるようだ。経済状況に、不穏な動きが、見られた途端に、過激発言を控え、交渉に応じる姿勢を、突然見せ始める。ただ、喉元過ぎれば、という性癖が、克服できる筈も無く、付き合うのは、無駄と思う。経済への見識は、おそらく、自身の会社経営の、範囲内しかなく、ばれなければ、嘘も方便という、経営方針が、国の運営にさえ、通用すると信じる。これが、暴走を招くこともあり、そこから先は、迷走の連鎖が、起きるだけに、依然として、注意が必要だろう。その一方、財政に関しての副官は、過去の業績から、高く評価されており、暴君の逆鱗に、触れることは、今の所ない。ただ、だからといって、あの国の経済が、安定するかは、怪しいものに思える。今回の為替の動きは、その表れの一つ、と言われているが、その端緒が、何だったかについて、明らかになることは、なさそうだ。それは、直接の介入が、あった訳ではなく、所謂、口先だけの介入、だったと噂されるからだ。あれ程、政府が、直接的に介入するのは、禁忌事項だ、と主張してきたのに、レートがどうこう、などと噂され、介入の可能性が、取り沙汰される。そこに、当人から、レート操作の可能性さえ、否定する発言が、との話があったが、どうだろうか。所詮、経済の動きは、これに限らず、心理的なものでしかなく、分析がなされても、後付けの理由ばかりで、ほぼ役立たずに終わる。どんなに優秀でも、どんなに敏腕でも、想定外のことは、起きるものと、見ておく方が、無難というもの。となれば、人より先に、と考えるより、様子がはっきりした、その後で動くのが、一般の投資家の心得、となるのだろう。全体としては、堅調な株式相場、選挙後も、続くのだろうか。

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1月29日(木)

 ここ数ヶ月、囀りに口を出している。それも、自分だけで、書き綴るのではなく、他人が、書き込んだものに、口を出すのだ。発言者にとり、ただの迷惑、と思える場合も、多いに違いない。特に、勝手な意見を、叫ぶだけの人には、他人の口出しなぞ、迷惑千万なのだ。
 と、思うこともあり、以前は、何かを感じても、知らぬふりを続けた。その代わりに、一般論として、囀りでの意見交換や、時に罵り合いとなる、不思議な光景に関して、評論を書くのが、独り言の場での、一つの活動だった。でも、とある日、ふと考えて、まずは、相手をしてみたら、どうなるだろう、となったのだ。その結果、色々と、意見を書くようになった。それも、最初の発言者が、何かしらの思いから、書き綴ったことへの、反応の一つとして、書いてみようと思ったのだ。結果、何が起きたか。ある意味、正論を綴れば、一部とはいえ、「いいね」をつける人が、登場してくる。懸念した程、反論は綴られず、反対するなら、無視するとの選択が、行われたようにも見える。そんなことを、毎朝、数回繰り返してくると、時に、面白い反応も、出てくるようになる。こちらは、全く客観的に、何方にも偏らぬ、意見を書くだけだが、その結果として、自分を応援している、と感じる人が、出てくるのだ。ある意味、不思議な感覚に、囚われる。実世界では、そんなことをしても、嫌な顔で、知らぬふりを、するだけなのに、何故か、仮想世界の方が、素直な反応が、出ているように、見えてくる。何がどう違うのか、すぐには、思いつかないが、ネットの掲示板の頃から、相手をしてきた経験からは、何かに変化が起きている、と思える。参加者が、以前と比べたら、比較にならぬ程まで、増えた結果として、この世界に、参加する人の、心持ちにも、変化が起きた、のかも知れぬ。何れにしても、何かしらの作用が、あるのであれば、幸いと思う。少なくとも、現時点までは、炎上は起きていない、幸いにも。

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1月28日(水)

 第四弾と行こう。気になる話題は、論文のピアレビュー、学会運営、学生指導、研究室運営、大学運営など、学問の世界も様変わりしつつあるが、その一方でSNS世界の歪みも。となり、次の話題は、研究室運営について、当然、学生との関わりも、出てくる中で。
 理系学部では学生指導と直接結びつく部分がある。でも、業績のみを考えれば学生の関与の有無は必ずしも研究室運営とは無関係だろう。今、一番の問題は研究費の獲得だ。選択と集中の掛け声の下、特に大学では全体への予算を削減し、必要な者は自分自身で稼ぐこと、と言われてから40年以上経過した。現役の教員はそれが当然と思うだろうが、以前はある程度の予算が確保されていた。それがつい最近は物価高騰の中、予算減が続いた結果ほぼゼロとなった、と言われる。これでは科研費をはじめとした競争的資金獲得が絶対条件となる。苦しいに違いない。驚くべきは卒業研究の経費さえ無くなったことで、教育の観点からは明らかな間違いとなる。そうは言っても無い袖は振れず、最新機器や技術を要する実験研究は断念せざるを得ない。更に、状況を悪化させるのは共通機器もそれらの維持管理ができないことで、厳しい環境となる。だが、業績は研究主体とされ、特に任期制の教員は特別な支援なしには研究継続だけでなく、立場の確保さえ難しい。政策転換を望むのは、特に選択と集中という馬鹿げたものから少額でも満遍なく支援する体制を築くべき、という点だ。国立大学に限れば、おそらく年百万円の研究費を各教員に配付するとして、これまで20年間で減額した運営費交付金の一部を戻せば、可能となる程度の予算と思える。ここからまず始めるべきだ。この話は40年前にも触れたが、ここに至って限界を超えているから、即断の必要がある。任期制の導入で、停滞する教員が減っているだろうから、40年前の懸念は当たらない。こうしたとして、それらの額で収まる研究はそのままで、更なる予算が必要ならば科研費等で、と考えるべきだ。既に、多くの大学では自己評価制度が採り入れられ、組織の評価も実施されている。その中で、研究業績が上がらねば、教育への転換を図れば、いいのではないか。予算のことだけに見えるかもしれないが、その点を整備した上で人材活用の手段を考えればいい、と思う。確かに、高額の予算を必要とする研究も存在するが、底上げを狙う方法が、これまでの歴史でも取られてきただけに、もう一度そういった考えを当てはめては、と思う。

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1月27日(火)

 啓蒙を考えると、やはり、教育の重要性に、目が向くし、教育の意義にも、考えを巡らす必要が、出てくると思う。教育について、何度も書いてきたが、依然として、的外れな意見が多く、それも、関係者からのものが、目立つように思う。それこそが、危機状況を、表すものかもだが。
 例えば、先生たるもの、教える科目の、専門家でなければ、ならないとの意見がある。それも、小中高の、学校に在学した当時、出来が良くなければ、教わる意味がない、との極論さえ聞かれる。出来のいい生徒だった人間が、果たして、上手く教えられるか、という点も気になるが、何故、生徒や親達が、そう望むのか、理解に苦しむ。確かに、その教師と、同じ点数が取れれば、いい大学に、進学できるかもだが、そうなる保証は、全く無い。それどころか、今、分からぬ点が、克服できぬ限り、先が見えないのに、何故、そんな高みを目指すのか。これもまた、不思議の一つである。一方、教える側の無理解は、相当なものとも見える。先日も、囀りで、学ぶことの意義が、世に溢れる嘘を、見抜けるように、との話が、流布されるのに対し、異論を唱える人が居たが、賛同を示すのも、同じ類の人間かと見えた。つまり、元々、何かを学ぼうとか、何かを知ろうとか、そんな姿勢を、強く示す人間で、向上心やら探究心が、旺盛であることを、自負する人々なのだ。だが、ここで、問題とされる、学ぼうとしない子供や大人の大部分は、そんな気は、毛頭無い上に、様々な嘘に、騙され続けて、被害を受けるだけでなく、周囲に、迷惑を及ぼしている。そこに、目を向けて、学ぶことの大切さを、伝えようとする掛け声に、正論をぶつけている、といった感がある。何方の場合も、自分しか見えず、他人に目を向け、全体を整える、という姿勢に、欠けているのでは、と思う。どうだろうか。

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1月26日(月)

 専門家とて、信用できぬ、という話をしたが、同様のことが、囀りで、取り上げられていた。度々、画面に登場したり、誌面を賑わす、大学教員や専門家が、専門外のことにまで、口を出して、間違いを繰り返し、無知無能ぶりを、発揮している、と盛んに、批判されている。
 脳科学者だろうが、人権専門家だろうが、果ては、経済やら何やら、何でもござれ、といった感がする程、何事にも、一家言ある、とばかり喋りまくる。それに対して、俄評論家の如く、囀りまくるのも、同類かと思える。何れにしても、専門外のことに、首を突っ込むのは、大抵にした方が、無難というものだ。発電方式についても、その原理そのものには、理解があるものの、いざ、制御の方法や、放射線の生物への影響、となると、怪しげな言動を、繰り返すのは、止めて欲しい、と願う。それに比べれば、あの事故の直後に、出版された本で、物理学を専攻した人間が、盛んに的外れな指摘を、繰り返したのに対し、哲学を専門とする人間が、俄仕込みとはいえ、情報を掻き集めて、見解を出した姿勢の方が、遥かに高い評価となる。何方にしても、正解に到達した訳では、ないとはいえ、一方が、庶民の味方を、演じようとしたのに対し、もう一方は、批判の矢を、受けたに違いないからだ。専門家達が、政府の回し者やら、村の人間やら、罵声を浴びせられ、正確な情報を、説明しようとしても、誰も相手にしない中、非専門家だからこそ、耳を傾けた人も、居たのではないか。その意味で、あの態度は、非常事態の中で、自分ができることは、と苦慮する中で、出した答えだった、と思う。依然として、誤解ばかりが、世に蔓延するが、啓蒙活動という言葉も、その意味であり、道理が通じない、という意味の言葉に対し、それを啓くという、知識を与えて教え導く、という意味の言葉が、付いたことの意味を、考えるべきだろう。だが、道理が通じない大衆は、懲りることなく、過ちを繰り返し、それを、正当化する為に、社会媒体という集いで、叫んでいる、と見ることもできる。ただ、その中でも、啓蒙は、必要なことと見做し、続ける必要がある。

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1月25日(日)

 世の中には、古今東西、何の区別も無く、絶対的な、安全・安心を、保証することは無い。ということは、皆承知している、と思い込んではいけない。何しろ、社会媒体が、これ程までに、浸透してくると、身勝手な発言を、端緒として、そこから、あり得ない話が、展開する。
 何事にも、そんなことが、あるのが当然、と思っておけば、大抵の不規則発言にも、対応できる筈だが、それが、有識者、特に、ある学問を極めた、学者と呼ばれる人々から、発せられると、意見を出すことは勿論、反論するのは、憚られる、と言われている。その一方で、媒体の中には、全てを罵倒することに、悦びを感じる、人種が巣食っており、正論だろうが、誤謬だろうが、何もかも、全否定される。こんな世界では、深慮の上の意見も、浅慮の意見も、同等と見做され、看破される。いや、それは、明らかな誤りだろう、と思うことも、学問的に正しい意見も、同等に扱われる。そんなことは、無視したらいい、と思う人が、多いのだろうが、今の状況は、結構拗れている、と見えている。それはそれとして、例の発電方式について、一部の学識経験者から、猛反対が寄せられたのは、あれ程の事故で、命の危険を感じ、その上、事故後の処理に、要する経費が、莫大となったからだ。ただ、その論拠を眺めると、偏ったものでしかなく、彼らの専門分野にしか、目が向いていないことが、判明する。放射線の影響は、物理学、化学、生物学の各分野から、全体として、眺める必要があるが、それぞれの専門家は、他の分野に、目が向かぬまま、持論を展開する。結果、偏った結論が、導かれ、恐怖を感じている、庶民にとり、好都合と思える、意見が出てくる。特に、人間という、生き物を考えた時、事故直後の影響も、流布された説のように、展開することなく、大戦時の原爆の影響同様、理解不足からくる、妄言となってしまう。例えば、ここでも以前、書いたことがあるが、人間も、誰もが体内に、放射性物質を、保持しており、日々、被爆するし、隣に居る人間を、被曝させている。その中で、ある程度の健康を保ち、命を長らえている訳で、単純な仕組みではないことがわかる。そちらの危険性を、過大評価し、発電方式に反対するのは、全く別の要素からくる、利益を無視し、他の方式との比較も、できていないだけだ。何事も、できる限り、広範囲で見渡すことが、必要なのだと思う。

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1月24日(土)

 先日、再稼働、と書いていた頃には、既に、停止に向けての作業が、始まっていたようだ。企業体質、と書いたけれど、まさに、その懸念が、現実に、と見る向きも、あるだろう。その上で、だから、あの発電形式は、断念すべきだ、と結論づけようとする、動きは、高まりそうだ。
 だが、問題は、そこには無い。安全な運転を、実現させる為に、制御や安全装置があり、それが、ある意味、作動したからこそ、暴走することなく、無事に元通りへと、作業が進められた。そこでも、またぞろ、水温上昇が、止まらなかったとか、大震災後の事故を、彷彿とさせる、文言が、囀りの中でも、踊っていたが、仮令、その数値が、正確な情報としても、その後に続く、悲観的な筋書きは、勝手な解釈によるもので、不正確極まりないものだった。何度も、こんなことが、繰り返されるのは、まさに、企業体質によるもので、異常を検知しても、その原因を、確認することなく、同じ過ちを、繰り返そうとする、何とも、理解不能なことが、行われたからだ。そんな組織に、こんなことを、任せるのは、如何なものか、との意見が、あるのも、ある意味当然だが、だからと言って、国を挙げて、あの発電形式を、放棄せよとするのは、愚かなことにしか、思えない。今度こそは、原因を、徹底究明し、それへの対策を、十分に検討した上で、実施することが、求められる。やったふり、は許される筈もなく、担当者の処分も含め、組織改革を、進める必要がある。その一方で、あの事故以来、初めての再起動で、運転に携わる社員にも、未経験者ばかりが、目立つという状況は、看過できない。まずは、退職者からでも、当時の経験を、有した人々を、呼び戻すなりして、未経験者の再教育も、再稼働の中で、行うべきと思う。老害と言われようとも、その類の継承が、抜け落ちたままでは、確かなことが、行えないだろう。何を、優先すべきか、考えるべき時と思う。