パンチの独り言
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11月9日(日)

 誰にも、嫌いな言葉、があると思う。以前、取り上げたもので言えば、「癒し」は、何とも偽善の匂いがして、嫌いな言葉の一つである。そんなものなら、数え切れぬ程ある、と言われそうだが、ここでは、一つ、社会奉仕、を挙げてみたい。所謂、ボランティア、のことだ。
 無償で、社会に対して、奉仕することを、全体として、ボランティア、というそうだが、その根底にあるものは、何だろうか。人それぞれ、違った考えを持ち、例えば、若者の中には、学校で、講義や授業の一環として、そういう行為を行い、認定を受ける必要がある、という、奉仕とは名ばかりの、利益追求そのもの、の場合もあるし、名誉の為と称して、その裏で、何かしらの利益を、受けようとする、企業活動の一環、という場合もある。そんなものは、論外であり、社会奉仕が、名ばかりとなり、却って、反感を買うだけ、となる場合も多い。そういう行為は、嫌われるのが、当たり前のことであり、こんな所で、取り上げるまでもなく、人間として、如何なものか、とされるだろう。だが、中には、純粋に、世の為人の為として、社会奉仕を、行っている人も居て、災害の後には、そんな人達が、災害地に溢れることとなる。被害を受けた人にとり、彼らの存在は、非常に大きく、一人では、出来ないことも、多くの手によって、あっという間に、片付けられる場合も、あると聞く。そんな事例には、成る程、と思うこともあるが、世の中、そんなものだけでは無い。多くの、傍迷惑なもの、押し付けだけのもの、唯我独尊を、地でいくものなど、有り体に書けば、迷惑千万なものも、数多くある。その一方で、大真面目で、まさに、世間の利益に、繋がるものもあるから、全否定をする訳にも、いくまい。でも、と改めて考えると、社会奉仕に、甘えるばかりで、自助努力を、怠るのは、やはり、いいことではないし、そんなものが、制度化されては、何のことやら、と思えてくる。で、結局、様々な要因から、嫌いと言ってしまうのだ。社会の一員として、奉仕か否かには無関係に、やるべきことを、すればいいだけ、と思えるからだ。

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11月8日(土)

 この国の特徴は、と尋ねられれば、多くが、四季がある、と答えるだろう。中緯度地域にあり、地軸の傾きの影響を、直接的に受ける、そんな場所にあり、更には、海流や帯状風の影響で、気温や気象が、変化することによる。ここで育った人間には、何も特別なことは無いが。
 だが、地球規模での変化を、何としてでも、成立させたい人々にとり、そんな温暖な気候は、崩されるべきもの、と考えるのだろうか。極端なものへの変化を、断定したいようだ。そこで、猛暑は、当然のこととして、暖冬もあり、その上、豪雨や豪雪も、その大切な要素となる。結果、夏は暑く、冬は寒くなる。暖冬と書いたのに、寒いとは、とか、温暖化なのに、何故、気温が上がらずに、下がるのか、とか、言いたい人が、居るかも知れぬが、極端という意味で、寒暖が、変化する、という考え方なのだろう。で、そうなってくると、間に挟まる、春と秋が、過ごし易いのは、おかしいとなるらしく、それぞれの期間が、極端に短くなり、冬があっという間に夏に移り、猛暑が、いつの間にか、極寒へと移る。今年も、そんな声が、喧しくなっており、一部地域で、紅葉が始まったと思ったら、すぐに、初雪の季節が来た、とか、紅葉前線の南下が、極端に早まった、とか、そんな声が聞こえる。でも、季節の変わり目に、安定しないのは、四季の移り変わりでは、当たり前のことであり、それを、今更驚くのは、如何なものか。そんな変化を、楽しむことができず、猛暑と極寒に、不平不満を並べる人々は、本来なら、丁度良いくらいの、気温の変化でさえ、上下が激しく、対応し難い、と文句を並べる。薄い上着を、着脱するだけで、対応可能なことさえ、忘れたかのような、言動なのだが、一体全体、どんな気候を、望んでいるのだろう。自然の変化は、人間の思い通りには、ならないもので、それこそが、謙虚な考えの元、と言われたものだが、傲慢な考えが、こんなことを、言わせているのか。聞こえぬふりで、良いような気もする。

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11月7日(金)

 こういう場だから、という訳でもないが、老後の資金が、気になる人が、多いだろう。特に、年金制度を、管理する役所が、平均的な話として、それだけでは足らず、必要な自己資金額を、提示するとなれば、尚更である。となれば、どう資産運用するかが、肝心となる訳だ。
 先日も、ある人の意見として、物価上昇が続く中では、物の価値は、それに従って、上がっていくように見えるが、それは、貨幣価値が、徐々に、下降するから、という話を紹介した。だから、預貯金は、相当な利率が、ない限り、物価上昇の中では、目減りする、と考えた方がいい、となる。だから、資産運用においては、何かしらの投資をして、そこから、更なる利益を、得る必要があるとなる。株式相場は、その一つであり、ここに訪れる人々は、そんなことに、関わっている、と考えられるが、では、それ以外に、どんなものがあるのか。この所の、金相場は、高値更新が続き、魅力的とも映るが、ここまで上げてしまうと、やはり、別のものに、と思う人が多いだろう。その一つに関して、つい最近、報道されていた。投資話として、魅力的と映ったのは、想定の利回りが、7%という高率であり、元本保証があるように、さえ見える訳で、確実と思えたのだろう。しかし、この所、分配金が支払われず、厳しい状況にある、と見たからこそ、提訴となったと言われる。この企業は、朝の経済番組でも、広告を出していたが、昨年位から、とんと見なくなった。その一方で、顔本には、広告が掲載され、それに対して、厳しい指摘が、書き込まれていた。曰く、この商品は、怪しくて、破綻しかかっている、と。それが、今回の訴訟となり、表面化した、という訳だ。確かに、ついこの間までは、デフレ状況が続き、この利率なら、と歓迎されていたし、不動産も、一部では、活況を呈していたから、安心感と期待感が、広がっていたのだが、やはり、と思った人も多い。どう転ぶかは、今後注視するとして、このような広告が、社会媒体でも、大衆媒体でも、多く見られており、一体全体、どのような検証が、行われているのか、という点に、興味が集まる。その意味で、大衆媒体から、姿を消したのは、何かあるかも、と思わせるが、その後に、社会媒体に、現れ始めたのは、問題あり、と見ることもできる。広告掲載に対する、責任に関しては、両媒体で、かなり違うように見えるが、さて、どんなものだろうか。

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11月6日(木)

 昨日の話は、実は、どうでもいいことなのかも、と思うことがある。昔は、議論の中で、都合のいい話を、引き合いに出すふりをして、自分の主張を、押し通した人が、一杯居たけれども、それで、実害があったかは、不確かなままだ。一方で、一つが通用したとして、全部が、とはならぬ。
 だから、こんな遣り取りを、いくら眺めていても、自分に得になる話は、早々あるものではない。一方、誰かの間違いを、指摘することが、正義かと言えば、それは、必ずしもそうではなく、そんな指摘をする人間も、自分に有利になる話へと、持っていきたいだけのことだ。じゃあ、情報社会を、どう生きればいいのか、などと、馬鹿げた質問をしたら、どんな答えが、返ってくるだろう。多分、好きにしたら、というのが、精々ではないか。囀りのような、馬鹿げた社会媒体の中で、勝ち負けを決めようと、躍起になるのは、愚の骨頂だろうし、それを、世の為人の為に、などと宣うものなら、偽善者、と罵られるだけだ。結局は、自分のところに、届いた情報の、真偽を確かめるのは、自分にとって、不利にならぬよう、という意図に違いなく、誰か他人の為に、などということは、あり得ないだろう。で、最近の情報は、いかなる状況か。改めて、書くまでもなく、真偽入り混じった状態で、鵜呑みにするのは、勿論のこと、誰かが、信用できる、などと言ったものに、飛び付くのは、馬鹿げたことだ。しかし、確認の為に、時間をかけるのに、一体全体、価値はあるのか。一層の事、暫く、放置しておき、その後の成り行きを、見守った方が、遥かに、効率的なのでは、と思える。何しろ、大多数のものは、誰にも何処にも、引っかかることなく、忘れ去られるだけなのだ。確かに、日々の取引で、日銭を稼ぐのなら、即座の反応の方が、安全なように、見えるかもだが、現実には、然程の違いも無く、放置しておいて、様子を見てからでも、大差無いように思う。鬼の首を、取ったが如くの、日々の遣り取りやその勝敗には、その場限りの、意味しかないのだろうから。もっと、気楽に過ごしては、どうかとさえ思う。

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11月5日(水)

 騙されないよう、という声は、高まるばかりだろうか。だから、日々流れてくる情報は、常に確認する必要があり、それを怠っていては、身を守ることは、できそうにない、となる訳だ。でも、だからと言って、何でもかんでも、疑ってばかりでは、気が休まることが無い。
 で、先日も、いつものように、囀りを覗いていたら、例の如く、極端な書き込みが、目に入った。曰く、新政権が、党の提案を棄てて、今の国立大学が、陥っている苦境を、招いたと言われる、元凶の人物に、勲章を与えた、と批判していた。まあ、坊主憎けりゃ、の典型のようで、新宰相が、気に入らないから、不平不満を、並べただけ、との見方もあるが、案の定、支援者から、猛烈な反論が、投げられていた。こちらは、曰く、根拠とした話の、情報源は、というものだ。何方も何方、の痴話喧嘩のような、代物だが、これが、囀りの特徴だろう。ただ、事実か否か、については、少し調べれば、すぐに出てくる。根拠は、党の提案の中に、国立大学の運営費を、10%増額する、とあったのに、それを破棄した、というもので、その両方の情報源を、求めるものだった。発言者も、少しは調べたら、と思えるが、検索するだけで、その提案の文書が、出てくる。問題は、破棄の方だが、こちらは、検索では、見当たらない。まあ、半分半分で、何方も何方は、変わらずとなるか。ただ、この遣り取りの中で、坊主憎けりゃ、の図式が、何処までも、と思えるのは、前の二つの政権では、無能な宰相ばかりだから、党の提案に、増額などというものが、出てくる筈が無い、という意見が、出てくることで、要するに、囀りに、顔を出すような人間は、狭量で視野が狭い、とみるべきとなる。ただ、この流れは、社会媒体が、登場してから、のものではなく、嘗ての論壇にも、よく見られたと思う。根拠薄弱は、当時もで、議論での勝敗だけに、拘る所は、相変わらずだろう。

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11月4日(火)

 野球繋がりで、以前から、気になっていたことを一つ。確か、随分前に、取り上げた気がするが、定かではなく、改めて、確かめてはいない。が、その時と同じで、何故、こんなものを、と思った広告が、平日の朝、経済番組の中で、流されている。下らないこと、なのだが。
 以前、流れていたものは、野球の場面で、窮地に追い込まれた時、そこに救いの手が、差し伸べられる、という話の筋だった、と記憶している。だが、はじめのものは、初老の人物から、若手の人物に、投手交代をする、という筋で、おそらく、経営者の交代を、表したものだったが、その次は、会社の経営において、新たな人材を、投入するという話を、表したものとして、守備にあたる人数を、増やす光景が、映し出されていた。前者は、規則として、何の問題もないが、後者は、規則違反でしかなく、そんなことは、野球の世界でも、会社経営でも、許されるものではない。特に、社会的な規則に、反しないことが、強く求められる時代、錯誤としか思えぬ、と指摘したように思う。それに対して、最近のものは、投球の判定で、ストライク、となった光景が、映し出されるが、何度も繰り返され、いつまで経っても、打者が、アウトとならない。バーで、経営交代に関して、話し合っている、二人の人物が、それに気付いて、テレビを見ようと、振り返ったところで、社名を出して、仲介業の内容を、説明し始めるのだが、これもまた、規則違反であり、またもや、と思ってしまった。強い印象を、与えることが、広告の目的の一つには、違いないことだが、同じ企業が、何度も、規則違反を、引き合いに出しつつ、耳目を集めようとする。企業倫理が、重視される時代に、何ということか、と思ってしまう。企業そのものの、体質によるのか、あるいは、広告会社の、戦略によるのか。知る由もないが、非常識としか、思えぬものだ。これ程長い期間、同じ趣旨のものを、流し続けるのは、彼らの問題、だけでなく、株主も関わる、問題のように、思えるのだが、どうだろうか。

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11月3日(月)

 海の向こうの、野球大会が、熱戦の末に、決着した。発祥の地だけに、世界一を自称する程に、熱狂するが、今回の大会は、こちらから、加わった選手達が、活躍することで、こちら側でも、熱狂した人々が、多かったのでは。その中で、ふと気付いたことを、囀りに書いた。
 それは、第5戦までの勝敗が、海のこちら側の、中継方式と、連動していたことだ。地上波か、衛星放送かで、何方が勝つかが、決まっており、そのままだと、第6戦で、決着すると、書いてみた。結果は、現時点で、300人程が、訪問しているが、誰も、「いいね」もしないし、返信もしてこない。まあ、野球の勝敗と、中継との繋がりは、ある筈も無い、と思うのが当然であり、この反応も、また、当たり前のものだろう。で、勝敗の行方は、と言えば、それまでの連動は、破れて、勝敗同一となり、最終戦へと、持ち込まれた戦いは、これもまた、熱戦の末、こちらからの戦力が、活躍することで、決着した。最終結果としては、一つの戦いを除き、中継方式と勝敗の結果が、一致した。確率で、論じるのであれば、7つのうち6つとなり、かなりの高率と、見ることができる。とは言え、統計の世界で使われる、相関や因果といった、関係があるとは、誰も信じないだろう。こちらが、試しに書いたのは、そこまでの意図は、無かったのだが、結果的には、興味深い展開、だったと思う。その一方で、こんな戯言に、誰も見向きもしなかったが、囀りをはじめとした、社会媒体の世界では、これまで何度も、同じような戯言が、実しやかに掲げられ、それに、賛否両論が、押し寄せていた。そこには、科学的も、論理的も、欠片も無い、妄言に過ぎない、発言が並んだが、多くの人々が、大真面目に、激論を戦わせ、熱気を帯びていた。所詮、何の根拠も無しに、好き勝手な発言を、繰り返したとしても、物事によっては、関係者だけでも、沸騰するし、時には、無関係な人々まで、首を突っ込んだのだ。罰が当たるとか、神の仕業とか、宗教染みた発言も、散見されたが、それらに、乗せられる人が、兎に角、山のように居る。これでは、平穏な社会は、成り立たない。冷静に、見極めることが、やはり、大切なのだと思う。

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11月2日(日)

 統計に限らず、真偽を見抜く力が、必要とされる時代だ。嘘を吐いて、金儲けに走るのは、古今東西、何時でも何処でも、あった話であり、それに乗せられ、なけなしの金を、巻き上げられては、溜まったものではない。人生を、存分に楽しむ為にも、騙されぬよう、心掛けねば。
 でも、昔と違い、情報社会と呼ばれる中、日々接する媒体には、頼りにせねばならぬ、重要な情報だけでなく、詐欺紛いの、怪しげな情報や、それをきっかけに、罠に誘い込むものも、転がっている。吟味力、というものは、何を指すのか、定かではないが、兎に角、そこにあるものが、真実なのか、嘘や捏造なのか、時によるけれど、確かめる必要がある。その意味で、重要となるのは、確認する手立て、検索などで、情報の確かさを、別の情報源を探して、点検する必要がある。だが、それとて、偽物ばかりが、市中に満ち溢れれば、何が確かかさえ、危ういものとなる。とは言え、自分の金や命までも、危険に晒さぬよう、備えが必要なのは、確かなことだ。一方で、嘘や出鱈目を、撒き散らす人の数は、便利な道具の普及と共に、急速に増している。更に、その状況を、悪化させているのは、もう一つの道具、生成人工知能の登場で、偽物の文面を、作り上げるだけでなく、画像や動画でさえ、誰もが、簡単に作り出せる、状況となり、結果として、そんな情報が、実しやかに、流されることとなった。こうなってしまうと、手の施しようがなく、偽物を見破る為の、人工知能の普及こそが、唯一の救いなどと、訳の分からぬ話が、流布されてしまう。先日も、この所、持ちきりの話題である、熊の目撃に関する、情報が届いたが、そこにある動画は、まさに、人工知能が捏造したもので、詳しく見ると、光景自体が、存在しない学校、だったようだ。その上、紹介する文面も、話題となる、地方議員を引き合いに出し、耳目を集めたから、という理由で、捏造されたものだった。以前なら、愉快犯に過ぎず、無視を決め込むのが、最善策と言われたが、最近は、こういうことで、耳目を集めることが、収益に繋がるから、見ること自体が、問題かもだ。面倒な時代であり、触らぬ神に、となるかもだが、情報社会では、無理難題となるだろう。

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11月1日(土)

 統計が大切、などと言われるが、大多数の人々にとり、難しい手順で、導き出されたものは、理解できないだけでなく、信用ならぬもの、とさえ映りかねない。だから、そんな怪しげなものより、直感を信じたい、となるのでは。でも、それでは、大切なものを、失うかも知れぬ。
 例えとして、適切かは、定かではないが、数年前に、世界中を、恐怖に突き落とした、感染爆発は、その一つの典型、とも思える例を、示していた。流行や伝染の問題も、確かに、統計に関係するが、やはり、予防の手立てとして、先進各国で、講じられた予防接種が、その典型に思える。普段なら、医学に関わる統計は、すぐには理解できぬ、と断じられ、信頼ならぬもの、と決めつけられた。だが、明日の命に、関わるものとして、各国政府や医療機関が、挙って、推奨したことで、拒絶すること自体、困難なものとされた。それまでの、ワクチンの効果は、感染予防にある、と言われたのに、徐々に明らかとなる、効用についても、理解に苦しむ点があり、一部には、疑いが広がり、極端な場合には、陰謀論へと転化した。冷静に見れば、そんな悪事を、疑う必要が無いことは、明らかなのだが、社会媒体に毒された人々は、狂気の妄論でさえ、鵜呑みにしてしまった。今でも、その点への言及から、統計の重要性へと、論を進めることが、度々見られるが、その論法には、別の危うさが、感じられる。つまり、解析結果は、当初の感染予防ではなく、感染後の重症化を、防ぐことに、接種の目的が、変更されており、その意味では、何方の主張も、間違っている、と見るべきだろう。その上で、重症化の機構を、解き明かし、それに対する効果を、解明してこそ、統計の意味が、出てくると思える。この点について、何度も書いたが、総括の気配もなく、理解不足の専門家の、誤解を招く表現が、野放しになるのは、今の時代の、危うさの現れ、と思える。科学的も、論理的も、批判的も、どれにしても、的を外せば、無知と同類に、なってしまうのだ。

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10月31日(金)

 議論下手、と言われてきたが、いつの間にか、得意とする人が、増えたと言われる。ディベートと呼ばれる、競い合う議論では、少し事情が違うが、勝ち負けを、決するやり方が、行われる。それも、自分の主張ではなく、どちらの立場かを決め、賛否を決めて、言い負かそうとする。
 元々、自分で考え、出した結論に、沿うような形で、主張を行い、それに対し、反論をするのが、議論だった筈だが、勝負事として、立ち位置を決め、その立場から、意見を述べ合う、というものだが、一見して、違和感が漂い、無意味にさえ、思えてくる。本来、議論は、より良い結論を、導く為のものであり、勝ち負けを、競うものでは、決して無い。にも拘わらず、何事も、勝ち負けに拘り、その上で、相手の主張の、欠点を突くような、論理を展開する。確かに、その遣り取りが、基礎となり、話し合いから、より良い結果を、求めることに、結び付く、と考えられなくも無い。だが、実際には、そういう展開より、単なる勝ち負けを、決めることに、終始するから、そこから、出てくるものは、勝負以外に、何も無い、となる。本来、話し合いを行い、そこから、自分達の意見として、何かしらの結論を、導くことが、議論の目的となるが、そういう基礎を、学ぶことなく、単純に、勝った負けた、と繰り返すだけでは、目的は何か、訝しむしかない。議論下手の状況から、言い負かしへの、転換そのものを、悪いことでは無い、と思ったこと自体、議論の何たるかを、理解せぬままの、浅い考えと思えるが、さて、ここから、どう進むべきか、理解できているだろうか。競い合いばかりに、目が向くことは、決して良いことではなく、無駄に思えるのだが、関係者は、大真面目で、競い合いの意義を、訴えてくる。やはり、十分な話し合いの、機会を設けることこそ、重要と見るべきで、その中で、技術を磨いてこそ、次に来る競い合いも、有意義なものとなる。簡単なことだが、見方を忘れては、どうにもならぬものだ。

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10月30日(木)

 何事も、見方次第、と言われたら、どう答えるか。そんなことは、決して無い、事実は、事実なのだ、とでも、答えるだろうか。それとも、その通り、何方に立つかで、同じことでも、正反対に見えるから、それぞれの主張も、正反対となる、とでも、答えるだろうか。
 情報社会において、この立場の違いは、大きな違いを、産み出すように思える。にも拘わらず、何でもかんでも、言われた通りに、書かれた通りに、鵜呑みにする、としたら、何が起きるのか。そんなことが、今や、日常茶飯事となり、論争の元となっている。その上、その手の論争には、終わりが見えない。ああ言えばこう言う、とばかりに、延々と、戦いを続けており、勝敗を決しようと、互いに、躍起になっている。まあ、言い負かそうと、あれやこれやを、持ち出して、何とかするのは、物事を、考える上では、悪いことではない。だが、強いこだわりから、一つの見方に、固執するばかりで、議論が始まらないのは、どうかと思う。こんなのは、議論でも何でも無く、ただ、単なる喧嘩でしかない。そんな所から、議論を喧嘩と誤解する人が、絶えないのは、残念なことだ。折角の、社会媒体も、そんな場と化してしまい、無意味で、無駄な場所、となりつつある。時々、冷静な人が居て、議論の場を、守ろうとしてくれるが、そんな人は、ほんの一握りに過ぎず、仕組み自体は、悪い方向にしか、進んでいないように見える。人の性、と言ってしまえば、その通りかもだが、仮令、そうだとしても、議論そのものの目的を、蔑ろにしては、ならぬと思う。元々、こんな場が、できる前から、ずっと長いこと、そういう前提を、置くことで、議論や論争が、行われてきた。ところが、今の便利な仕組みが、導入されてから、悪い面ばかりが、目立つようになった。そこには、やはり、人の性、多くの人々が、潜在的に持つ、悪い面が、表面化している、としか思えぬ。解決の糸口は、まだ見つからぬが、このままだと、早晩、便利な道具を、捨てることに、なるだろう。それでよければ、それでよしなのだ。

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10月29日(水)

 言葉は、意思疎通の道具である。だから、多言語を操ることが、重要と見る向きもある。本当だろうか。この件には、様々な意見があり、一概には、言えない部分がある。でも、心を伝えるのに、相手の言語が、必要か否かについては、色々な経験から、見方が変わるようだ。
 要人が、どの言語を、用いるべきか、これもまた、意見の分かれる所、だろうか。確かに、心からの言葉なら、拙い表現でも、伝わる筈、とも言えるが、それで、誤解を招いては、元も子もない。原稿読みとて、発音の違いで、大きな誤解を生む、という話もあるからだ。では、常に、母語を使って、相手の言語への変換は、通訳任せにすれば、いいのだろうか。でも、誤解という意味では、常に問題無し、とはいかぬ話らしい。だからこそ、翻訳や通訳にあたる人間には、大きな責任が、伴うと言われる。何れにしても、何をどう伝えるかが、意思疎通において、最重要な課題となる。だから、努力してでも、国際語を身に付け、どんな場面でも、問題無くこなせるよう、努めるべき、という人が居る。事は、それほど単純ではなく、立場によっても、変わってくるものだ。例とはならぬが、隣の大国の、外務大臣にあたる人物は、以前、こちらに、大使として赴任し、当時の主席が、訪問した時に、常に側に居て、通訳をする程に、此方の言語を、巧みに操っていた。しかし、帰国後に、更なる高みに、上った時、此方からの訪問者を、迎える時も、会談の際にも、一切、使うのを見せたことがない。この際の危険とは、何のことなのか、取り上げられたことがなく、確かではないが、二つの可能性がある。一つは、伝達の間違いを、犯さぬよう、という点であり、もう一つは、自国民に対し、誤解されぬよう、という点だろう。母語を使うことと、相手の言語を使うことで、様々な問題が、生じる。意思疎通のみを、重視する訳にも、いかぬものだ。真意を伝えるだけなら、安全な方法を、と思う。

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10月28日(火)

 国際化が、盛んに叫ばれ、その為に、まずは意思疎通が、重要との話となり、結果、外国語の習得が、目標となった。と言っても、所詮この程度か、と思えたのは、専ら、海の向こうで使われる、言語の習得だけで、多様性も何も、あったものではない。でも、無いよりましか。
 と言ってしまうと、流石に、言い過ぎとなるが、それにしても、外国語を、流暢に話せれば、それでいい、との判断は、如何なものか。先日の、ある党の総裁選でも、どんな経緯かは、全く知る由もないが、ある司会者が、候補者達に、その外国語での発言を、求めたとある。その記事を、改めて見ると、政治家の態度が、見えてくるようだ。留学経験のある、候補者達の一部は、流暢に、主張を並べたようだが、していた筈の人物でも、母語を手放さず、批判する側からは、やはり、経歴は詐称か、との声が上がる一方で、応援する側は、無茶振りを、軽く躱した、との擁護を届けた。あの時の、候補者の大半が、今の内閣に、加わったことを、考えると、さて、どうしたものか、と思ったりもする。で、最終的に選ばれ、擦った揉んだの挙げ句に、宰相へと駆け上がった人物は、初外遊の席で、その外国語で、演説を始めた。上の席では、たったの一言で、終わらせたにも拘わらず、大事な席では、違った対応となった訳だ。大きな違いは、側近が用意した、原稿を読んだだけで、咄嗟の主張とは、全く異なる状況だったからだが、もっと言えば、同時通訳が、用意されていたから、母語での演説で、何の支障も無かっただろう。母語での会話も、何処か、くぐもった印象の、発音となるが、外国語も、よく似た調子で、聴き取り難いものだった。あんな印象を、与えずとも、と思うのは、穿った見方か。外交において、重要人物は、常に、通訳を介した、会話を行うべし、とはよく言われる。確かに、自分の声で、伝えられれば、何よりだが、間違いがあっては、いけないからだ。それは、仮令、原稿読みでも、同様のことだ。一方で、随分前の宰相で、海の向こうの大統領に、trust meと発して、顰蹙を買う、結果となったが、彼も留学経験者だ。言葉の問題より、中身の問題、資質の問題、と言われる所以である。

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10月27日(月)

 期待が膨らんだから、との理由が、取沙汰されるが、本当の所は、どうなのか。資産運用に、精を出す人々にとり、最近の株高と金価格上昇は、歓迎すべきこと、と映るのだが、その本質は、何処にあるのか。手持ちの資金を、増やすことだけなら、気にする必要はないが。
 今朝の経済番組は、その意味で、興味深い見解を、示していた。このリンクを、今開けば、その部分が表示されるが、少し後になると、日付が変わり、表示も変わるだろうから、念の為、タイトルを注意して欲しい。そこで、出演者が、指摘したのは、この所の、株高と金価格上昇は、資産を増やすことではなく、単純に、貨幣価値が、下がったことを、示している、という点だ。確かに、そう考えれば、近年の物価上昇も、物を買う為の、貨幣の価値が下がったから、と見ることができる。となると、何に注意すべきか。単純には、資産の内で、ものの価値は、確かに上がっているが、預貯金に関しては、貨幣そのものであり、その価値が、相対的に下がっている、ということになる。まだまだ、微々たるものとはいえ、利率が付いてくる、預貯金は、ましな方で、箪笥貯金となれば、それさえ付かず、ただの目減りの連続、となる訳だ。ただ、この考え方には、注意を要する、ように思える。確かに、株価や金価格が、上昇する時には、その通りと言えるが、逆のことが起きれば、言えなくなる。特に、物価上昇が続きつつ、相場が下落する場面が、訪れたら、どう考えるべきか。事は、複雑になる。経済の動向は、確かに、見方次第で、何とでも解釈ができる。分析の殆どは、そんなものであり、後出しジャンケン、などと揶揄されるのも、そんな事情からだろう。とは言え、今の状況を、どう考えるべきかは、今回の指摘のように、枠をはめてみれば、興味深いものとなる。ただ、だからといって、資産運用が、巧く運ぶとは限らず、その上で、何をどう動かすか、あるいは、この上昇局面では、あえて動かぬ戦略も、選択の一つとなり得る。手持ちの資金も、保有する資産も、今後、どんな動きとなるかは、不確定には違いないからだ。此方は、暫くは、様子見と思っているが。

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10月26日(日)

 どの国でも、国を治める人間が、変わった瞬間には、期待度も含め、支持率が高くなる。海の向こうでは、直接ではないが、候補に投票するのではなく、それを支持する選挙人に投票する形で、結果的に、候補を選ぶこととなる。一方、こちらでは、多数を占める政党が、権利を持つ。
 その為、その政党の総裁や代表が、治める人間となる。彼方では、大統領と呼ばれる人物が、力を有するが、一部の国では、その地位ではなく、首相が、その任にあたる。此方では、大統領は、元々存在せず、全ての権利は、首相、つまり宰相が、有することとなる。ただ、世界的な混乱と同様に、此方も、二大政党制ではなく、多くの政党が、乱立する中、混沌とした状況が、形作られ、ある意味、歪んだ状況にある。その為、多数であることは、変わりがないものの、過半数には至らず、混沌とした状態に、陥った。それを決める前に、政党の総裁を、決める過程が来たから、従前通りに、その人物が、自然と任にあたる、と思われたが、近づいてくると、様々な憶測が、飛び交い始めた。政治に対する、意見となった途端に、賑やかとなる、媒体界隈は、何方も、好き勝手な意見が、飛び交うようになり、不安定感が、漂い始めた。だが、結局、何の話し合いからか、落ち着き所が、見出されて、今に至っている。さて、そうなると、以前とは異なる、変化への期待と共に、そのまた前の、経済活況を、思い出す向きもあり、株式市場は、活況を呈し始めた。ただ、よく見てみると、宰相の交代は、確かに、政策転換の始まり、と思えなくもないが、細かな点では、結局は、官僚政治の典型、とも思える動きが、始まったように思える。掛け声は、確かに、宰相から発せられるが、何時、どのような変化が、起きるかについては、それぞれの役所の、上に占める人物達が、考えたように、動き始めており、財務にしろ、農林水産にしろ、従来から、監督官庁が、進めてきたことが、実現するように思える。所詮、この国は、そんなものだ、と諦めの声が、聞こえ始めるだろうが、それこそが、良い意味でも悪い意味でも、安定の源と思え、それが、庶民達の望む、安全安心への、道筋とも思える。動きが、重くなるのは、止むを得ないことだが、それだけ、暴走が少なく、安定が手に入る、と見るべきだろうか。

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10月25日(土)

 偽物ばかりに、満ち溢れる世界、どう見るべきなのか。嘗ては、地面師の如く、現実の世界で、対面する中、相手を騙すのが、詐欺師の常道、と言われてきた。しかし、それが、情報社会の発展から、仮想世界のものへと、移りつつある。現実ならば、大丈夫と思っても、そうも行かぬ。
 機械が作り出したものなら、機械に見分けさせれば、との考えもあろうが、事は、それ程には、単純ではなさそうだ。初期の画像などは、欠陥だらけで、子供騙しと揶揄され、この程度なら、懸念の必要なし、とさえ言われた。が、その後の発達から、一目では、区別が付かず、様々に、検討する必要がある、と言われる。そこに、見破る為の人工知能まで、登場すると、何だか、マッチポンプの様相、とさえ思えてくる。作る側も、騙す側も、暴く側も、全てが、機械となり、それが無ければ、騙すことも、見破ることも、できないとなる。本当に、そんな世界を、望んでいるのか。ここでも、資金力の差が、実力の差となり、貧富の格差は、広がるばかり、となりかねない。改めて、問いたくなる。本当に、そんな世界、そんな時代を、望んでいるのか、と。最近の、偽情報に関しても、多くの媒体が、社会と大衆に関係なく、取り上げており、実情の報告が、行われている。確かに、嘗てと比べれば、遥かに、整えられたもの、に見えなくもないが、実際には、そう思って見るから、ということもあるが、何となく、怪しげに見えてくる。だったら、自分でも、何とかできる、と思うのは、構わないことだが、で、結局、騙されてしまったとしたら、どうなるだろう。そんな心配に、苛まれる人が、居るのだろうか。周囲を、見渡す限りにおいては、そんな人を、見つけることが、できない。だが、媒体は、そんな人ばかり、と伝えてくる。本当なのか、と疑っても、他人事だけに、如何ともし難い。まあ、自衛を心掛け、口車なのか、別のことなのか、何れにしても、騙されぬよう、備えねば、と思う。何しろ、転ばぬ先の杖に、見破る仕組みを、購入しませんか、などと売り込まれては、面倒なだけだから。

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10月24日(金)

 迷惑メールの数が、どんどん増えている。以前も書いたことだが、日々送られてくる、確かな送り主のものに比べ、遥かに多くなっている。無駄、と言って仕舞えば、その通りなのだが、この無駄、必要悪とでも見るべきか。そんな筈は無い。単なる無駄であり、撲滅すべきものだ。
 それでも、メールを管理する仕組みは、総じて、それらの殆どを、塵と片付ける。一目で、それと分かるから、と言って仕舞えば、その通りだが、事は、簡単ではない、と思う。例えば、多くの人々が、私用で用いる仕組みは、経験豊かとでも、言うべきだろうか、ほぼ的確に、仕分けをしてくれる。それに対し、同様に、検索などで、使われることが、多い仕組みの方は、目溢しが、目立っている。届いたものから、こちらの判断で、報告した上で、捨てるのが、習慣となる。同様のものが、度々届くだけでなく、報告後も、変化が起きないので、仕分けの仕組み自体が、未完成なのかも、とさえ思いたくなる。こんな状況で、一般庶民は、どうしているのか。何度も、騙されて、なけなしの金を、失い続ける、という人は、流石に居ないだろうが、少し心配になる。一方で、迷惑メールと断じられたものに、送り主の変化が、起き始めた。税務署や警察などの、公的機関が、目立ち始めていたが、それに加えて、宝くじに関連するものが、急増し始めたのだ。中身を、見る気も起きないが、件名だけでも、その異常さが、垣間見える。ただで、くじを配布する、とか、そんな馬鹿げたことが、書かれているのだ。一体全体、こんな話に、誰が乗せられるのか、と思うのだが、世の中は、理解不能に溢れている。ひょっとすると、そんな与太話でさえ、騙されて、個人情報を、書き込む輩が、居るのかも、だ。少し前、株取引の口座が、乗っ取られる話が、流れていたが、その後、接続法が、厳格化されて、収まったように見える。でも、最近、接続時間が、管理されるようになり、無操作時間が、続いた結果、切られることが、増えたように見える。ここも、管理を厳密にした為か。再接続が面倒だが、安全確保と諦めるか。

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10月23日(木)

 新政権が動き出し、停滞していた政策が、出始めると言われる。例えば、暫定税率の廃止も、懸案の一つであり、物価高対策の目玉として、注目が集まるが、同様のものとして、庶民が期待するのは、各家庭への現金給付、なのではないか。施しばかりを、期待する人には、特に。
 その効果の程が、如何なるものか、誰にも判らぬ、とも言われるが、これまでの実施では、当然、歓迎の声で迎えられたが、その後の状況には、殆ど効果が無かった、とも言われる。にも拘わらず、繰り返し検討するのは、票集めの効果を、期待するからであり、経済対策とは、とても呼べない代物、となっている。その場凌ぎに過ぎず、長い目で見たら、ただ単なる無駄遣いを、増やすのみ、とさえ言われるが、では、長い目で見て、どんな経済政策を、講じるべきなのか。中央銀行の前総裁が、先日の講演会で、指摘したのは、意外なものだった。それは、大学や研究機関への、支援に回すべき、というものであり、他の先進国に比べ、その額が、異常に低いことが、発言の発端となる。また、偶々だろうが、先日の受賞発表で、二人の研究者が、栄誉を受けたことから、そこに注目が集まったことも、関係するだろう。ただ、どのような支援が、必要なのかについては、様々な考えが、交錯している。財政当局は、相も変わらず、競争的資金一辺倒であり、説明の手立てを持たぬ、教育や研究の監督官庁は、従うばかりで、新たな方策を、講じる気配も無い。だが、先進国の中で、見劣りする補助金は、教育や研究に対して、大学や研究機関に、出される基盤的なもので、先端をいく研究への、期待を込めた、競争的なものとは、明らかに異なる。そう考えた時に、前総裁が発言したように、家庭への給付より、大学や研究機関への、補助金に回すとしたら、どんな額が、配付されるのか。給付の予算は、記事によれば、八千億から一兆五千億円と言われ、最低の水準で考えても、八百弱の大学に、均等に配付したとして、一つ十億円となる。それだけあれば、将来の人材を、育成する為に、十分な投資ができる、と考えられるが、どうだろうか。

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10月22日(水)

 季節の変わり目、体調管理に、気を使う人も、多いのではないか。確かに、つい先日までは、猛暑の名残のような、高温が続いていたのに、急に、寒さを感じ始めた、とさえ言われる。温度の変化を、眺めてみれば、まさにその通りで、夏日さえ、何処かに行ってしまったか。
 で、そうなると、途端に、騒ぎ出す人が居る。気温が下がり、不快に感じる、とばかりに、叫び声を上げる訳だ。それも、致し方ない、とも思えるが、それにしても、上がればああだ、下がればこうだ、という具合に、文句ばかり並べて、何が楽しいのか、とさえ思えてくる。季節の変わり目に、気温が上下するのは、春でも秋でも、よくあることだが、極端な気温だけを、取り上げて、騒ぎたい人には、そういう季節が、無くなることが、一大事とばかりに、騒ぎ立てる。先日も、長期予報で、冬の訪れに関して、報じていたが、その中では、秋が短い、との話が、実しやかに語られていた。冬から夏にかけても、同じような話が、流されており、春は短い、と強調していた。その途端に、あっという間に、夏本番の気温となり、ほらみろ、と言わんばかりに、繰り返していた。猛暑や極寒は、誰にとっても、不快なものだろうが、その一方で、快適な気温、というものは、これと決まった範囲が、無いように感じられる。気温の変化において、昨日と比べて、と置いてしまうと、確かに、同じ気温の数値でも、上がったか、下がったかで、全く異なる反応を示す。絶対的な値を、正確に測定できる、温度計と異なり、人の体は、そういう具合には、働かないからだ。そんなことは、当然なのだが、安全安心を、求める人々は、ここでもまた、快適という感覚を、最優先に考えるから、温度変化による、反応の違いに、振り回されるのだ。四季の変化を、楽しめることが、この地域の特長であり、それを、良いことと捉えているが、その一方で、体は、その変化に、対応できないまま、ああだこうだと、文句を並べる。まあ、所詮そんなもの、と思えば、納得できる筈だが、要求ばかりが、高まる人には、満足など、ある筈もない。

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10月21日(火)

 この所、大企業が、攻撃に晒されている、という話が、頻発している。情報社会において、このような攻撃は、大きな被害を、生じるとともに、流通社会の混乱から、日々の生活までもが、危機に瀕する、と言われる。ただ、一般庶民にとり、その詳細は、全く見えない。
 企業を管理する仕組みに、直接攻撃を加え、正常な機能を、失わせることで、業務を滞らせる。ただそれだけなら、まあ、目を瞑っておけば、とも思えるが、伝えられる情報では、仕組みそのものの、機能を失わせるだけでなく、機密情報を、外部に持ち出して、それを公開することで、企業の経営そのものに、甚大な被害を、及ぼすこともある。その際に、金銭を要求するから、犯罪集団は、それにより、利益を上げる、となる訳だ。ただ、多くの事件で、情報を、人質の一種として、身代金の要求をしても、応じないように、との指示が、政府や警察関係から、出されるようで、公式には、そのような取引は、なかったとされる。と言っても、裏での取引が、無かったとの確認は、取れていないから、何とも言えぬ状況、にあるとされる。それにしても、このような犯罪が、横行することに、企業関係者は、次は、との懸念を抱き、危機感を、募らせているだろう。企業経営にとり、情報の流通は、欠くことができぬもの、となっているだけに、この手の脅威が、及んでいるとしても、外部への接続を、遮断する訳にもいくまい。だから、この手の犯罪は、次々に起き、仕組みそのものの、脆弱性に付け込んだり、社員や職員の、軽率な対応を端緒として、その手のウイルスを、仕組みの中に、入り込ませる。接続が、不可欠なものだけに、防ぐ手立ては、構成員全員の、確実な業務執行と、仕組みに接続した、機器の脆弱性の除去しか、無いと言われている。ただ、手口の巧妙さは、上がるばかりとなり、単純な保守点検だけでは、不十分となりかねない。多くの事業所は、構成員の教育に、更に力を入れ、軽率な行動を、避ける手立てを、講じるが、さて、どうなるか。素人考えだが、接続の方法そのものを、工夫することも、必要なのでは、と思える。孤立するものと、接続するもの、その間を繋ぐ、厳しい制限を課した、仕組みがあれば、と思うのだが、どうだろうか。

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10月20日(月)

 偽情報も、自分で集めたもの、となれば、少しは、責任を感じるが、押し付けられたものだと、かなり、違った感覚を、抱くのではないか。これも、以前、書いたことだが、手にした端末で、受け取る情報の中には、社会媒体だけでなく、電子メールという、通信手段がある。
 社会媒体も、電子メールも、情報の受信だけでなく、送信もできるから、場合によっては、犯罪に加担、という事態に陥ることもある。だから、注意せねば、などと書いても、多くの人は、自分には、当てはまらぬ、と思うだろう。それより、被害者になることを、専ら、恐れているのだ。その中で、自業自得とも、言われるのが、社会媒体に広がる、詐欺に騙される、という事件だろうが、如何に巧みに、仕組まれていても、接する機会がなければ、何の問題も起きない。だから、変な所には、訪問しない、という人が多く居る。確かに、その通りだし、自衛手段として、最良のもの、と見る向きも少なくない。でも、情報収集と考えると、遮断することは、折角の情報に、出合うことなく、千載一遇の機会を、失うことになる、と言う人も居る。まあ、何方を選ぶかは、本人次第だろう。だが、電子メールでは、自分の宛先さえ、知られてしまえば、何かしらが、送られてくる。その中に、詐欺が入っていれば、時に、騙されることもある。こちらは、誰か別の人の、記録から盗まれたものが、発信先として、使われるから、自業自得とはならず、まさに、典型的な被害者、となる訳だ。だったら、どう防ぐのか。これもまた、怪しいものは、開かずに放置する、という手段が、推奨されるが、手口が巧妙になるに従い、怪しさだけでは、区別がつかぬ、という場合が増えてきた。それでも、メールソフトが、怪しいものを、選別して、ゴミ箱に捨ててくれるから、まだ安心、だと思う人も、多いだろう。それは、本当だろうか。ソフトによる、としか言いようがないが、やはり、最後は、自分で何とかするしかない。とは言え、肝心なメールの数十倍の数が、日々送られており、念の為とは言え、確認せねばならぬ、となれば、かなりの手間となる。もう、この世界は、そんなものだと思えば、そろそろ手放す時かも、とさえ思えてくる。さて、どうなるやら。