パンチの独り言
思いつきを書きつづったものです。ご意見はメールでお願いします

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3月26日(木)

 干渉された時の、反応についても、時代の違いが、現れているかもだ。嘗ては、反発して、自分勝手な行動に、移ったという人が、普通に居たのだが、最近は、とんと見かけない。何が違うのか、と思うのだが、これもまた、傾向と対策の、一つなのかも、と思えてくる。
 平和な時代が、長く続いたことで、傾向を調べ、それへの対策を、講じることで、賢く生きるのが、当然となっていた。無駄を省き、冒険を避け、安全安心な、人生を歩むことが、最善と言われる。だが、それが、自分の夢や期待を、否定するものだったら、どうだろうか。それでも、安心できるなら、と返すのだろうか。高度成長が、始まった頃には、職人などの伝統的な職が、嫌われるようになり、企業活動に、関わることで、より多くの収入を、得ることこそが、最善と見られていた。だが、泡が弾け、経済成長が、停滞から下降へと、移る中、安定した将来が、崩れ始めることで、親の職を、引き継ごうとする動きが、見直され始めた。本来、子供の頃から、眺めてきた仕事には、馴染みがある筈で、それこそが、適材適所の典型、と見るべきだったのに、それを、忌み嫌うことで、自分の人生を、自分で決めるという、自己満足が、優先されたのだが、それが、大きな過ちだと、され始めたことで、古くからの、辛い職人仕事に、戻る人が出てきた。大回りの末に、元の鞘に戻った訳だが、これもまた、一種の干渉、と見えなくもない。確かに、身近な存在は、良い点より、悪い点が、目立つもので、それへの反発も、大きくなる。また、親の跡を継ぐのは、圧力の一つだろうから、それへの反発も、あっただろう。だが、多くの場合は、強制された訳でもなく、ただ、運命に逆らいたい、との思いが、反映されただけなのだ。その結果、一度は逃げたが、戻った理由は、外から見て、気付いた点が、あったからだろう。では、今、傾向と対策で、最善を目指そう、とする動きは、どうだろう。一見、楽な道を、歩もうとするものだが、その実、好きでもないことを、最善の一言で、やろうとしている、のではないか。それに加えて、先人達は、余計な一言で、干渉してくる。無視すれば、と思うのだが、傾向と対策に、逆らえない人には、難しいのでは。

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3月25日(水)

 昨日紹介した、考え方の変化を、どう思うだろうか。大したことない、所詮、一部の考えが、変化したとしても、全体には、大きな変化は、起きていない、と見るのか、はたまた、僅かな変化としても、人々の考えが、変わったことで、次の世代へと、拡大する、と見るか。
 何れにしても、変化をどう見るのか、については、注意を要する、と思う。その主体となるのは、今の現役世代であり、彼らの一部は、次の世代を、育む役目を、負わされている。にも拘らず、自分のことを、過大評価するばかりで、社会が、それを認めぬのは、大きな問題と見る、そんな人々が、大きな声を上げ、自分の跡を継ごう、と思う人々を、排除しよう、と躍起になる。何故、そんな愚行を、し続けるのか、全く理解できぬ。もし、今の仕事が、下らないものなら、さっさと辞めて、他のことを、すればいい、のに、何故、そこに居座り、他者の参入を、妨げるのか。下らない干渉を、正当化する為だけに、自らの功績を、過大に見せ付け、後進に対して、暗闇に似た将来しか、見せようとしない。そんな心持ちが、何の役に立つのか、不思議でしかない。元々、悲観的に、物事を考える国民性が、あったのについては、否定しないが、その一方で、そればかりを、強調することで、教える立場の人々が、他人の、若い世代の、門を閉ざそう、とするのか。穿った見方からは、保身でしかなく、競争者の登場さえ、妨げようとする、下衆な心の、表れなのでは、とさえ思えてくる。一方で、将来に、光が見えぬ世代にとり、先人からの助言は、仮令、自分の夢を、打ち砕くものとしても、有難いものに、映るのだろうか。これについても、今の世代の、考え方の変化、と見るべきかも知れぬ。仮令、厳しい道でも、無謀に突き進んだ、世代が、萎み続ける社会に、嫌気がさしたのは、夢も希望も、無くしたからか。だが、その無謀さが、道を拓いたには、違いないのだ。だったら、邪魔など、せずともいい、と言えないか。

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3月24日(火)

 嘗て、中流意識が、大多数を占めた頃、上流社会は、憧れの対象だが、高嶺の花であり、雲の上の存在だった。だが、泡が、弾けた頃から、状況に変化が起き、貧困が、口の端に上り、平等意識が、崩れ始めた。それに連れ、憧れへの意識も、大きく変化し始めたのは、何故か。
 高度成長期に、皆が、中流意識を、持ち続けたのは、別の見方からは、共産主義の如き、状況にあった、とする向きもある。皆が、国の成長に向け、力を合わせて、発展に貢献する。何処かの、社会主義国のように、看板に掲げても、決して、実現することの、無かったものとは、大違いだが、その理由は、押し付けられた、制度ではなく、皆の意識に、それが根付いたから、なのだろうか。だが、弾けた途端に、成長が止まっただけでなく、衰退へと移ると、皆の意識に、変化が芽生えた。協力するより、他者を蹴落とし、その上に、自分が立とうとする、そんな優越感を、求めるようになった。それが、逆に働き、自らを、貧困へと導くとは、誰も、思わなかっただろう。ただ、この差別的な考えは、成長期の末に、風船が膨らむように、身の丈に合わぬ、状況が生まれた頃に、芽生えていた。そこから、急展開が始まると、そちらの考えが、大多数を占め、協力よりも、抜け駆けを、目指す動きが、高まったようだ。そこから、四半世紀以上を、経た所で、身の丈に合わぬ、上昇意識や、過大な、自己評価が、人々の心を、蝕み始めると、的外れな意見を、平気で吐く、人々の姿が、目立ち始めた。やればできる、はその典型で、自分への評価は、異常に高い反面、他人の評価は、低く保つ傾向は、徐々に、高まっていった。今まさに、そこにあるのでは、と思えるのだが、当人達は、そんなことは、微塵も考えず、不当な評価を、訴え続けている。何故、そんな簡単なことが、できないのか、と呆れるばかりだが、大真面目で、訴える人々の顔は、自信に溢れ、何の実績が無くとも、構わぬとばかり、叫び続ける。仕方なく、任せてみても、何も実現できず、責任転嫁を、続ける姿勢に、降格を決断すると、またぞろ、ハラスメントと、叫び出す。役立たず程、こんな調子では、少し、回復の兆しが見えても、軌道に乗るかは、心許ない。

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3月23日(月)

 独り言は、思いつきを書く、と記してある。これ自体は、囀りなどの、社会媒体と、何も変わらない、と思う人が、居るのではないか。公開性は、同じ状況にあり、接続すれば、誰でも読める。だが、門の開け方には、大きな違いがある。大きな媒体と、ちっぽけなものとの。
 もう一つ、大きな違いがあるが、接続数の違いから、そちらは、あまり目立たない。その他多くの、独り言のような、嘗て、ブログと呼ばれた、媒体に関しては、それに付随した、意見箱などが、ある場合にしても、独り言も、意見箱も、ある意味、一方的な情報提供であり、最近の社会媒体の如き、双方向性のものではない。だから、炎上のような、危害を与えることも、起きないから、ある意味、安心なのではないか。だから、という訳でもないが、好き勝手な発言も、邪魔が入らず、綴ることができる。などと書くと、多分、多くの人々が、それは違う、と言うだろう。何しろ、社会媒体は、まさに、好き放題の発言を、繰り返すばかりで、時に、害悪としか、思えない程の、暴言、妄言を、連ねているからだ。匿名性としては、同じ状況にあるが、それに乗じて、次々と、名前を変えて、同じ害悪を、撒き散らす輩も、おそらく居るのだろう。仮想空間の、最大の問題点として、何度も指摘されるが、改められる、可能性は低いままだ。媒体の管理者責任が、何度、取り沙汰されても、何も変わらぬのは、何故かと、考えてみても、答えは、見つかりそうにない。それは、人間性の問題であり、そういうものに、基づく社会では、打ち消すことが、できそうにない。独り言は、嫌ならば、読まねば良い。だが、社会媒体は、時に、押し付けられ、何度も、表示される。だからこそ、拒絶という仕組みや、仲間内という括りが、導入されたのだろうが、それは、却って、問題を、拗らせている、のではないか。

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3月22日(日)

 悲観的な筋書きが、何故、好まれるのか。最悪の事態を、想定しておけば、それ以上に、悪くなることはない、というのが、理由なのか。だとしたら、その筋書きで、右往左往させられるのは、誰が悪くて、何がいけないのか。十分な備えの為に、予算を注ぎ込んだとしたら。
 だが、そんな筋書きを、提示する人間の多くは、結果については、知ったことではない、のでは。だとしたら、言うだけ言っておいて、後は知らぬ存ぜぬ、とでも言うのか。狼少年ではないが、何度も、それを繰り返され、その度に、備えを怠らず、とせねばならぬのなら、早晩、聴く耳持たぬ、とでもなるのでは。今の、女性宰相は、確かに、人気を誇っており、また、悲観的よりも、楽観的な見通しを、示すように、心掛けている、ように見える。それに対して、口煩い、評論家や、報道陣は、専ら、悲観的な見通しを、示すことで、彼女の失敗を、望んでいるかの如く、見えなくもない。今回、海の向こうに、行くについても、そんな雰囲気が、漂っており、特に、あの暴君が、他国への侵攻を、繰り返すのを、眺めるにつけ、平和よりも紛争を、安定よりも不安定を、目指している、のではないか、との見方も、掲げられていた。その不安を、更に、煽ったと思えるのは、別の大国との会談を、延期したことで、それにより、こちらへの圧力が、増すとの指摘が、急激に、強まっていた。この状況では、過大の要求を、突き付けられる、との指摘も、あり得るとの声が、高まっていた。だが、和やかな雰囲気で、始められた会談は、そのままの勢いで、罵声が飛ぶこともなく、また、法外な要求も、起きなかったと言われる。はて、あの不安感は、何処へ、と思った人も、居たのだろう。だが、終わってみれば、楽観一色となり、何やら、別の不安が、過り始めた。では、どうなるのか。実は、誰にも分からず、答えさえ、何処にも見えぬ状況は、何も変わっていない。なのに、何故、この安心感に、満ちた状況が、起きているのか。相変わらず、訳の分からぬ、ものでしかない。でも、まあ、暫くは、様子を見るしかない、のだ。

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3月21日(土)

 女性の社会進出を、妨げる表現として、盛んに使われたのが、硝子の天井だろう。ただ、海の向こうは、そうだとしても、こちら側は、少し感覚が違う。その中で、男女の割合が、引き合いに出され、対等にすべく、掛け声で使われたのが、男女共同参画なる言葉だろう。
 今、経済紙の、私の履歴書に、連載されるのは、誤認逮捕から、検察の内部問題へと、発展した事件の当事者だが、彼女の働き方は、まさに、女性の社会進出を、促す動きの中での、当事者の実情を、表すものと見える。ただ、今日の話題は、この問題の核心に、触れるもののように、思えた。曰く、自分の収入の殆どは、共働き世帯の、二人の子育てに、注ぎ込まれたとある。この状況は、女性の社会進出に、不可欠な要素を、明確にするが、その一方で、彼らの能力の、活かし方として、唯一無二の選択肢、とすべきかを、考えさせるもの、とも見える。公務員なら、共働きせずとも、何とか生活が、成り立つだけの、収入を得られる筈だが、双方が働くと、子供を預けたり、その他諸々の、支出が嵩むことで、折角増えた収入も、多くが失われる、という事態を招く訳だ。それでも、女性の能力を、社会発展に役立てる為に、との掛け声が、高まった頃に、彼女の活躍が続いた。しかし、どういう訳か、生贄のような、扱いを受けて、事件が発覚したが、本人と支援者の、努力により、検察の不正を、暴くまでに至り、法曹界の悪弊を、暴くこととなった。話を、元に戻すと、さて、共働きは、不可欠なものか、という点に、疑問が残る。確かに、人間の能力を、社会に反映させる為には、働くことが、必要となるが、その人間の能力を、子育てに、向けることは、それと違うのか、という点に、目を向けてみると、おかしいかも、との思いが過ぎる。では、どうすべきか。現状では、貧困を訴える人が、溢れているだけに、片方の収入だけでは、生活が成り立たぬ、と断じられる。だが、それが、十分に満たされたら、どうか。この点を、先日も、囀りで、書く人が居た。こちらの考えからは、妥当と見えるが、対岸の考えからは、不当と見えるのだろう。差別を無くす、とか、平等にする、とか、そんな考えでは、何が答えなのか。一概には言えぬようだ。

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3月20日(金)

 相手の顔が、見えない中で、どう理解を得るのか、という点に、悩んでいる人が、居るのだろう。何度も、書いたように、社会媒体は、その典型であり、揉め事となる場合も、多いようだ。でも、状況は、徐々に、変わりつつある。ただ、良くなっている、とは言えないと思う。
 四半世紀以上前、まだ、そんな問題が、重視されていない中、仮想社会は、既に構築され、多くの人々が、そういう意見交換の場に、参加していた。2チャンネル、と呼ばれた場所が、その典型だったと思うが、多くが、匿名で発言し、時に、誹謗中傷合戦、となったことを、記憶する人も多い。ただ、それ以外の場でも、そんなことは、日常的に起きて、罵り合いに、発展することも、多々あった。ただ、いつの間にか、落ち着きを、取り戻して、以前同様の、意見交換となる場合が、殆どだった。それが、変わったようだ、と思えたのは、今、社会媒体、SNSと呼ばれる、場の登場からだ。手にした端末で、送受信が、行えることから、寝ている時間以外は、常に、接続したまま、という参加者が多く、緊急性の高い、情報を収集するのに、使う人も、多いのだが、その反面で、悪質な書き込みや、煽りとも称される、悪意に満ちた発言を、繰り返す人が、増えたのも、事実だろう。その結果、とは言えぬが、被害者と呼ばれる人が、急増したことで、問題が大きくなり、遂には、裁判沙汰となった。四半世紀前には、想像も付かぬ話だが、今や、大真面目に、論じられるもので、それも、この仕組みが、発言だけでなく、態度表明の釦を、設けたことにより、弊害が増えたと言われる。裁判でも、悪意の発言が、罰せられることは、勿論のこと、その発言に、賛同を示した人間も、加担したとして、罰せられることとなった。これは、ある意味、予想外のことで、沈黙を含め、放置することさえ、罰となり得る、とまで言われる。管理者が、責任を問われるのも、その一つだろう。ただ、管理責任を、重視したことで、仕組みの中に、新たな対策が講じられ、更なる弊害が、起きつつあることには、警戒を要する。他人からの、危害を、防ぐ為として、反論などの拒絶を、設定できるのは、一見、安全性を、高めるものと、見えなくもないが、非常識な発言を、押し付けられた挙句に、放置せざるを得ないのは、如何なものか。見ないで済む、との措置より、暴力的に感じるが、どうか。

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3月19日(木)

 話が通じない、となった時に、何をどうしたらいい。これが、意外に、難しい。特に、面と向かって、話している時には、相手の目を見て、納得させて、という具合に、運ぶ筈だが、画面に向かうと、そうもいかぬ。結局、擦れ違ったまま、断絶となる場合も、起き得る。
 相互理解が、進まぬ中で、何をどうしたら、となる訳だが、その多くは、何方か一方の、問題のようだ。論理的に、説明すれば、理解が得られる、との思いは、ほぼ通じない。で、仕方なく、丁寧に説明して、と始めるのだが、それが、上手く行くことは、少ないようだ。当事者でなく、ただの傍観者として、眺めていると、その原因の殆どは、言葉の意味の、取り違えに見える。ただ、それが、あまりに酷いと、やはり、一方の問題として、片付けたくなる。先日も、囀りで、一方的に腹を立てる、人の発言を読み、自業自得としか、思えなかった。ある人が、業界の中で、育てて貰ったのだから、その恩返しを、と書いて、業界への寄与を、促したのだが、恩返しとは、思っていない、と反論を綴っていた。まあ、この頃の身勝手な連中、と見るしかないのだが、こんな輩が、他の人々に、八つ当たりをする訳で、害悪を撒き散らす、としか見えてこない。酷い仕打ちをされ、その中で、やっと、今の地位を築いたのに、何が恩返しか、と訴えているようだが、はて、虐めがあったにしろ、結果として、今の地位に就けたのは、自分だけの力か、とさえ思えてくる。いや、どうも、こういう考え方が、当然となりつつあり、話が通じなくなるのも、止む無しとすべきかもだ。もう一つ、気になったのは、職業上の活動の中で、必要となる経費に関して、何処かから、支給されるべきもの、と考える人達の中に、驚くべき考えの人が、居ることだ。先輩が、後輩に奢る時、出世払い、との一言が、出る場面に、出会した人も、多いだろう。後輩ができたら、その時には、奢ってやりなさい、的な発言なのだが、それについて、腹を立てる人が、居るのを見て、驚くのだ。曰く、出世なんかしていない、とくる訳だ。こういう発言者は、他人の金や組織の金について、受け取ることには、何の躊躇もしない。一方で、自腹で何かをする、ということには、強い拒否反応を、示すのだ。だから、後輩と一緒に飲食しても、奢る訳がなく、それについて、指摘されると、まだ出世していない、とか、そんな戯言を、返してくる。いやはや、どうしたものか、と思うのだが、彼らの思考は、何事も、自己中心的過ぎる、と思うしかない。

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3月18日(水)

 何故、楽観が、嫌われるのか、考えてみたい。こんな疑問は、下らないこと、と思われるかもだが、では、何故、悲観ばかりを、強調するのか、こちらの疑問は、どうだろう。そんなことは、決まっている、とでも答えるのか。確かに、経済停滞が、長く続いたから、とも。
 でも、その割に、様々なことに、悲観が漂っていたが、だからと言って、明日をも知れぬ、ではなかったのでは、とも思う。社会制度の崩壊も、あれ程までに、断定されてきたが、今もなお、続いており、あの話は、何だったのか、との意見もある。特に、年金については、制度自体が、続かぬとの指摘が、盛んになされたが、はて、どうなったのか。依然として、続いているのは確かだが、受給者達からは、不満の声が、聞こえてくる。確かに、存続しているが、額としては、不満があるからだ。でも、どれだけ与えられたら、十分なのか、その答えは、見つかりそうにない。若い世代にとり、存続自体も、確かに問題だが、年金額が、どれだけ減らされるか、が大問題と言われる。でも、それとて、今後、物価がどうなるか、その上で、年金額が、どうあれば、妥当と言えるか、となると、答えは見つかりそうにない。だから、あれやこれや、全てを、悲観的に捉える方が、安全とする考え方がある。でも、その悲観とて、どの程度のものか。命を、永らえることが、難しいのなら、分かり易いが、そうでもない、ようにも見える。だったら、なんとかなる、とでも考えて、楽観的に、なってみたら、どうだろうか。ただ、楽観も過ぎれば、及ばざるが如し、となる。楽観が、何もしなくていい、と結び付けば、それはそれで、困るのだろう。だからこそ、悲観であるべき、との考えに至る。その通りかも、知れないけれど、でも、皆、何とかなる、と思っているのでは、とも思える。まあ、何れにしても、日々の生活こそが、第一であり、その先が、悲観だろうが、楽観だろうが、大差無い、とも言えそうだ。そんな気持ちを、抱きながら、その日暮らしを、続けるのだろう。

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3月17日(火)

 囀りに書いた話題は、論文のピアレビュー、学会運営、学生指導、研究室運営、大学運営など、学問の世界も様変わりしつつあるが、その一方でSNS世界の歪みも。となり、最後の話題は、大学運営について、当然、学生との関わりも、出てくる中で。素人意見として。
 Xの中でも大学運営に意見を書く人がいるが、それらの殆どは的外れで視野の狭いものだ。特に大学関係者はしたり顔で私見を述べ持論を展開するが、自らの経験のみに基づく極端なものが多い。その原因を分析するのは無意味だろうからここでは触れない。大学の存在意義について書くが、法律には「学術の中心で知識を授け、専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的、応用的能力を展開させる」とある。この目的を達成するには何が必要となるか、考えてみよう。教育と研究の両立と言えばその通りだが、それに必要となるのは運営の観点からは何だろうか。単純には環境整備となる。潤沢な予算が有ればと言われるが、遊園地のような施設を整えるのはおかしいと思うだろう。一方で国立大学の場合ここ数十年のように毎年1%の予算削減がなされると、現状を保つことさえ難しくなる。その中で効率化が図られてきたが、限界に近づきつつあり、授業料の値上げを決断した所も多かった。ただ、増額の理由はあってもその使途を示すことが少なく理解が得られにくいように思える。とは言え、ここまで続いた経済停滞からの値下げ圧力から抑えられてきた授業料を上げたのは妥当な判断と言える。家計が苦しいとの話から始まった無償化は教育から得られる利益を考えれば誤った考えと思うが、今もその圧力は続き歪みが増すばかりだ。運営に戻ると法人化により企業経営と同等な考え方が必要とも言われるが、現実には各大学の貸借対照表を見れば判るように、資産が借り物でしかなく優良企業でない組織に同等は無理難題でしかない。法人格を考え直すことは不可能だから諦めるとしてこの状態でもできる運営方法を考える必要がある。授業料関係で一つあるとすれば効率化の一つとして単位当たりの授業料徴収がある。卒業までの必要単位数で4年分の授業料総計を割り、一単位当たりの授業料を算出して登録単位数からその期の授業料を求め徴収する。講義に不合格となればより多くの総計授業料を収めることになり、真面目に勉学に励むだろう。一方で卒業に関係ない単位は自分の為だけと判断され余計に収めなければならない。まあこれについては再考の余地がある。教員配置についても考えるべきことがある。任期制や教員評価については今の状況でも適用可能と思えるが、きちんと実行されておらず、不十分と思う。制度を定めても運用が不完全ではどうにもならない。この点については企業の法律遵守と同じように実行すべきだろう。最後に運営費交付金の増額が始まったので少し明るくなりつつあることは良い兆候と思える。特に研究への支援が回復すれば、大学の本来の役割を果たすことができると見込めるので、是非この流れが続くことを望んでいる。

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3月16日(月)

 経済の話題になった途端に、訳が分からなくなる。今回も、市場原理、需給の均衡、という話を抜きにして、ただ、単なる値上げが、庶民の生活を、脅かしている。確かに、暴君の気紛れで、始まった紛争は、原油輸送の要所を、閉ざしかねない、状況へと進みつつある。
 だが、それらが、消費者の手に、届くまでには、まだ間がある。と盛んに、報道しながら、さっさと1割強も、値上げした燃料価格の、動向を、何の批判も無しに、報道し続ける。将来の需要が、逼迫しかねない、という筋書きは、確かにあるが、今、手元にあるものに、まだ、危機は迫っていない。だったら、その時が来るまでは、同じ価格で、売れる筈で、もし、需給が逼迫したら、それに合わせた、価格設定をすれば、いいということになる。その時に、どれだけの値が、つくかについては、当然、状況次第であり、先物価格では無く、現物価格が、反映するのは、当然のこととして、庶民の頭でも、理解できる。だが、今の状況は、市場原理も、需給の均衡も、全て棚に上げ、自分勝手な、儲け話を、作り上げただけ、としか、言いようがない。こんなことが、経済の原理となるのなら、それを、学問的に説明するのが、専門家の役割だろう。彼らも、報道同様、ただ騒ぎ立てるだけで、煽りに、手を貸しているだけ、という絵に、呆れ果てる。日々の生活を、考えるには、経済の動きを、注視しなければ、という話についても、こんな戯言に、付き合わされるだけ、となっては、如何ともし難い、としか、言えないものだ。毎度お馴染み、と言って仕舞えば、その通りなのだが、兎に角、心理しか見当たらない、こんな馬鹿げたことに、付き合わされるのは、真っ平御免、としか言えない。やっと回り始めた、経済の歯車も、暴君の気紛れで、歯止めがかけられ、二進も三進も、いかぬ状況に、追い込まれている。その上、気紛れは、続いたままで、猫の目状態が、更なる障害を、産むとなれば、手の施しようがない。

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3月15日(日)

 ある頃から、画面に映る、背広の人の胸に、丸いものが、よく見られるようになった。中が抜けた、円形のものは、17色に彩られ、それが、持続可能という、掛け声を、表している、と聞く。言い出したのは、国際的な組織だが、これだけの人が、賛同を表すのには、首を傾げてしまう。
 画面に映るのは、ある意味、地位の高さや、尊敬の対象を、表している、と思えるだけに、そんな人々が、身に付ける程に、重要な課題なのか、と思う人が、多いのだろう。だが、掲げられた目標を、読んでみると、やはり、何故とか、どうしてとか、口を出したくなる、そんな程度の話かと、思えてくるのだ。まず、第一に、誰が対象なのか、という疑問が浮かぶ。何故なら、自分達の周りで、今更掲げずとも、達成できている、と思えるものが多く、それに賛同することへの、意味が見えなくなるからだ。一方で、確かに、昔は、達成できていたが、最近は、怪しいなと思えるものも、多くあるように感じる。具体的に、示すことはしないが、思い当たる節が、誰にでもありそうだ。ただ、それが、失われつつある、あるいは、既に、失われてしまった、と感じるのは、何かと引き換えに、投げ出したのかも、と思えるからだ。上の世代から、引き継いできたのに、自分の世代で、諦めて、捨ててしまったことや、自身は、何とか関わり続けているが、社会全体としては、かなり厳しい状況に、あると実感することも、数多くある。だからこそ、ここで、目標として掲げることが、重要だとの意見も、分からなくもないが、国際機関が、主張していることは、それとは、少し違うように、感じられる。何も無い所に、その目標を、設定することで、意識を高めて、進むことができる、といった感があるが、嘗て、やってきたことを、何らかの事情で、捨ててしまった国には、そういった意識の、持ちようには、違和感が付きまとう。あれやこれや、文句をつければ、きりがないのだが、さて、どう対処すべきか。17個の目標について、それぞれ、違った取り組み方が、必要と思える。その意味で、外から押し付けられたものに、そのまま従うのは、少し違うように感じる。昔の生活に、戻るべきとは、一概には言えぬが、そういうものとの、付き合い方を、今一度、考えてみるべきでは、と思うのだ。として、何から始めるべきか、何をすべきかについては、別の見方から、考えるべきでは、と。

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3月14日(土)

 無知はいけない、と言うけれど、自分の考えを、否定された時の反応は、もっと深刻な問題では、と思う。間違いを、指摘されたり、別の意見を、出されたり、そんなことが、起きた時の反応には、人間の性格というか、人格のようなものが、現れているのではないか。
 だから、という訳でもないが、批判が、強まるにつれ、人格否定に似た、書き込みが、増えてくる。それ自体、許されるものではないが、そこに至る道筋には、そんな背景があるのでは、とも思える。兎に角、反論や異論を、拒絶する姿勢が、露骨に出ている場合も、多く見られ、その一部は、拒絶反応という、排除機能を、発動させる。様々な事情から、組み込まれた仕組みだが、参加者の人権を護り、精神を、正常に保つ為に、働くのではなく、ただ単に、気に入らぬ人間や意見を、排除する為だけに、働いている、ようにさえ見える。気に入らぬ意見に、反論する手立てが無く、沈黙という、敗退が確定すると、勝ち負けに、拘る人々には、平静を保つことが、難しくなる。そこで、一つの釦を、押すだけで、排除できるとなれば、いとも容易く、手を出すのだ。だが、自分が、提供した情報や、自分の考えが、間違ったものだったり、誤解を招くものだったり、した場合には、修正を施すのが、自分自身を、守る為にも、必要な手立て、ではないか。それは、負けることや、負けを認めること、ではなく、単純に、考えを改め、自らの度量を、高めることへと、結び付く。そんな考えで、居る人の多くは、議論を重ね、そこから、より良い結論を、導くことを、目標に置く。その一方で、勝ち負けにしか、興味のない人は、間違った意見をも、押し通すことで、相手を、言い負かしたと、誇るのみで、傍観者からは、冷たい視線を、受けることに、気付きもしない。情けない心の持ち主、と言って仕舞えば、それまでだが、こんな人に、つける薬はない。社会媒体の、大きな問題は、ここにあり、自分だけの、あるいは、仲間内だけの、社会を築くことで、満足するだけで、実は、もっと大きな社会への、寄与は殆ど無く、役立たずとしか、言えないものだ。

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3月13日(金)

「無知は駄目!」、と卒業式で、校長が挨拶した、と囀りに書かれていた。その通りなのだが、書いた人も含め、「無知」とは、どんなものか、分かっていない人が、多いように思う。知らないことを、放置するのの、何処が悪いのか、答えられる人は、多くないからだ。
 学びの場で、学ぶことの、大切さを伝える際、騙されぬよう、と話す人が多いと聞く。確かに、詐欺が横行し、それにより、なけなしの金を、失った人が多い、と伝えられる中、それを防ぐ為に、知識を身に付ける、というのは、傾向と対策の、最たるものと思われる。だが、学ぶことの、目的は、決して、犯罪に巻き込まれぬよう、というものではなく、人間としての、知恵を増やすことしか、ないのではないか。一方で、知らぬこと、無知を恥ずべき、と主張する人の多くは、知らない人に対して、優位性を誇示し、見下す態度が、目立つのも、不思議に思う。まずは、全能の神ならぬ、何もかも知る人は、何処にも存在しない。だから、誰もが、知らないことを、恥じるのでなく、知ることの、喜びを感じるべき、と言われる。だが、囀りの中でも、その優位性で、存在意義を、主張するが如くの、情けない人が、なんと目立つことか。一方で、こういう人の多くは、自らの主張の、綻びを指摘されると、途端に、排除に走ったり、罵倒を繰り返す。自らの過失を、認めることなく、優位を保とうとするのは、まさに、恥ずべき行為、と言える。一方で、今は、何かを調べることが、容易くなっており、誰もが、一時の恥の為に、他人に尋ねるより、検索で調べたり、果ては、人工知能に尋ねるだけで、ものを知ることが、できる。なのに、囀りでは、調べもせずに、恥晒しの主張を、掲げてみたり、こちらから、そういう情報を、流したとしても、無視するだけだ。それも、本人だけでなく、その意見に、賛同する人間まで、同じ態度をとる。これでは、無知は、無くならない。はじめに書いた話でも、それを解く為に必要なのは、きちんと教えること、とはいうものの、自身の不明に、気付くことがないのでは、困ってしまう。昨日、取り上げた随筆も、その話とも言える。

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3月12日(木)

 読んだ本で、月末には、報告するのだが、興味深いものに、当たった。と言っても、古いものを、集めただけのことで、そこに、目新しさは無い。だが、扱った内容だけでなく、それが、社会一般の、目に触れた、きっかけが、非常に重要、と思えたのだ。昔は、そうだったのか、と。
 今、囀りの中で、様々に、議論が交わされているが、その内容が、余りに悪質で、論理性の欠片も、見えないことに、呆れた話を、何度も書いてきた。初等中等教育で、論理性の重要性に、触れてこなかった、つけが回った、とも言えるのだが、実際には、そういうことを、生業にする人間さえ、感情論に流れ、冷静に、物事を、考えない、という事態こそが、ずっと深刻なものに映る。何故、こんなことが、起きるのか、を考えるにつけ、嘗ての、学者と呼ばれた人々が、一般向けに著した、科学随筆と呼ばれるものの、質の高さと、その平易さに、驚いたのだ。それも、この短篇集で、取り上げられたのは、教科書、それも中学生向けのもの、というから、驚きなのだ。確かに、分かり易く、平易な言葉を、用いて説明してあるが、それに加えて、中で論じた内容が、子供だけでなく、大人さえも含む、全員が、理解すべきこと、と思えた。著作権の問題で、一部の学者のものは、本で読むしか方法がないが、その他の人の随筆は、青空文庫という、誰でも読むことが、できる場所で、提供されている。偶々だが、近年改正された法律では、死後70年は、著作権が、保護されるが、それ以前の法律で、50年とあったことから、公開可能となったものもある。その一人が、雪の研究で有名な、中谷宇吉郎で、彼の文章も、青空文庫に収蔵されている。本にあった随筆を、二つ紹介するが、是非、読んで欲しい。一つは、「地球の円い話」であり、もう一つは、「科学の限界」である。何方も、じっくり読むと、その内容の豊かさを、理解できる。流石、師匠の寺田寅彦を、越えたと言われる、中谷の科学随筆なのだ。もっと驚いたのは、これらが、中学の教科書、当然ながら、国語の教科書に、掲載された時代が、あったということだ。今なら、どう見るか。難しい話は、子供向けでなく、簡単で、興味を惹く話を、と言い出すのでは。この頃、読んでおけば、もっと論理的な思考が、身に付いたのに、とは言わぬが、それにしても、失ったものが、大きかったのでは、と思う。

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3月11日(水)

 前にも、取り上げたかも、だが、違うことを、書くかも知れぬ。意思の疎通には、何が大切か、どう答えるだろう。自分としては、相互理解、と思う。これについて、不思議と思う人が、居るかも知れぬ。何故なら、自分の言いたいことを、相手に伝えるのが、疎通の筈と。
 それなのに、何故、相手のことを、理解せねばならぬのか。確かに、言いたいことを、伝えるだけなら、それで、十分かも知れぬ。だが、相手の考えを、理解せずに、一方的に、伝えるだけでは、疎通とは、ならないのでは。今、こんなことを、引き合いに出すのは、あらゆる媒体で、行われている、情報の伝達の多くが、一方的なもので、時に、同じ言葉を、違う解釈で、受け止めることで、論争となるからだ。論争が、何故、何時迄も、平行線を、辿るのかという、疑問について、少し眺めていると、それが原因なのかも、と気付くことがある。つまり、同じ言葉を、使っているのに、互いに、違う意味で、使っている、というのが、論争の訳、なのだと。不思議に、思う人が居るだろうが、実際には、そんなことが、会話の中でも、屡々起きている。お互いに、顔を突き合わせて、話しているのなら、何となく、話がずれてきた、と思うことがあり、確認してみると、互いに、違う意味で、同じ言葉を、使っていた、と気付く。その多くは、何方かが、言葉の使い方を、誤った為であり、日常会話であれば、その誤解さえ解けば、擦れ違いを、除くことができる。だが、二人の間、あるいは、一人と多人数の間に、何らかの媒体が、存在する場合には、気付くことも、取り除くことも、難しくなる。一方が、指摘しても、片方が、頑なになれば、取り除けず、そのまま平行線を辿る。馬鹿げたこと、と笑う人が多いが、実際に、揉めているのを、傍観すると、殆どが、その状態にある、と判るのだが、当事者達には、何のことか分からず、紛糾するばかりとなる。隔離された状況で、議論を重ねることには、相互に理解することが、不可欠なのだが、今の状況では、そうなることは、難しいようだ。そこから、始めればと思うが、勝ち負けに、拘る人々には、聞こえないらしい。そんな人が、入ってきたら、無視するしかないのは、困った状況と思う。

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3月10日(火)

 迷走ぶりが、甚だしいので、日々、その動向を、伝えることに、意味があるかは、怪しいものだ。ここでも、屡々取り上げるが、事細かに伝えたり、分析したりしたとしても、殆ど意味を成さず、書くのも読むのも、無駄と思えてくる。そんなこんなで、一旦幕を閉じよう。
 猫の目の如く、とはよく言ったもので、周囲の状況の変化に、素早く対応する、猫の黒目を、引き合いに出したものだ。この遣り取りで、思い起こされるのは、例の宗教集団が、大量殺人へと、突っ走り始めた頃に、毎週、画面に登場して、自分達の主張を、押し通していた、あの人物のことだ。事件後、多くの幹部が、教祖と共に、逮捕された時、彼だけは、除外された。何も知らずに、教団の代弁者としての、役割を果たしただけ、との解釈が、成されたようだが、本当の所は、本人以外には、解らないだろう。その点について、ここで、議論したいとは、全く思わない。もう、過去の事柄であり、ああいう狂信者が、再び、出てこないように、社会全体で、考えるべき、とは思うが、過去の団体で、どれ程酷いことを、したとしても、裁かれなかった、となれば、それは、一つの結論であり、済んだこととすべき、と思う。ただ、当時の記憶から、ああ言えば、と揶揄されたように、何か指摘されても、言い逃れる姿勢を、続けていたことは、忘れられない。それも、画面のこちらからは、先週と違うことを、平気で主張し、その場の危機を、掻い潜る態度に、腹を立てていたことや、それに対して、論客と呼ばれた人々が、論破することが、できなかったことに、呆れていたことが、思い出される。今の、海の向こうの暴君は、立場の違いや、権力の違いが、あるのは事実だが、同じ手法を、用いている。ここでの、傍観者は、社会媒体の読者や、報道の読者だが、論客にあたるのは、報道記者達だろう。今や、社会媒体での発言は、確かな記録として、残存しているし、記者会見の記録も、確かなものが、残っているが、それとの比較が、行われないままに、相手の発言に、右往左往するのは、どうしたことか。論理の重要性とは、こういう時に、役立てるものの筈が、そうなっていない。人間の持つ、欠陥なのかもだが、客観性と論理性を、重視することで、対応できると思うのだが。

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3月9日(月)

 誰もが、参加できることは、喜ばしいとは限らない。確かに、細かなものも含め、あらゆる情報が、日の目を見たのは、事実なのだが、そうなれば当然、偽物、嘘、出鱈目、等々、塵も含めて、あらゆるものが、皆の目に触れる。時に、それが、功を奏する場合も、あるのだが。
 一方で、所詮、塵は塵であり、時に、汚染という害悪を、蔓延させることも、起きてくる。特に、近年は、何かと、騒音に惑わされ、ある意味、自分から、心を乱されて、悩みの淵に落ち込み、這い上がれなくなる、という人が、目立つのだ。そんな中で、僅かな効用を、頼みとして、こんなものを、垂れ流し続けることに、意味があるのか、怪しいものだろう。と言っても、こんな時代だからこそ、そんな雑音に、耳を傾けず、自分の思う通りに、進むことこそ、大切との意見も、出ている。ただ、この場合も、気を付けるべきは、そういう連中の、偏った意見が、騒ぎを招くことに、なるという点だ。他人の妄言に、惑わされぬ人々の、特徴の一つに、それを、聞こうともせず、全てを、一様に論破する、そんなことがある。これは、今の時代には、ある意味、重要な、生きる術となるが、その一方で、それが、外に向けて、発信されると、素直な人々には、悪い影響しか、及ぼさないということだ。論理的に、物事を語る場合には、そんなことは、起きる筈もないが、今の、一方的な発言と、その繰り返しでは、論理を、逸脱することこそが、主張を曲げぬ為の、最善の策となる、場合が多い。だからこそ、議論は、平行線を辿り、何の結論も、導き出せぬままに、突然、終了することになる。この遣り取りを、外から眺めるに、読む価値も無く、傾聴にも値しないことが、殆どとなる。だから、論理性を重視する人間には、何も響かないのだが、それを、軽視して、自分の仲間とか、味方とかいう見方しか、できない人々には、恰も、正論のように、見えるらしい。にしても、海の向こうの大統領は、その典型と、目されているが、今の状況は、惨憺たるものだ。ただ、権力者は、破綻しても、居座れる。庶民には、その力は無い。

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3月8日(日)

 すぐに片付く、との触れ込みだったから、暫く様子見した。だが、以前のちょっかい同様に、泥沼化しそうな、気配が漂い始めた。こうなると、暴君ぶりも、ただの老害にしか、見えなくなる。それも、猫の目の如く、日々変わり続ける、見通しに、振り回されつつ。
 これまで同様、信じるに値するものは、一切提示されない。その中、新たな情報が、持ち込まれる度に、方針転換が、さも当然の如く、繰り返され、それさえも、見通していた、と豪語されるに至っては、やはり、老人の害というより、まさに、権力者の害、としか見えぬ。知恵の足りぬ人間に、力を与えると、どんなことが起きるのか、証明して見せている、とさえ思えてくるが、そんなことに、世界が付き合う必要は、全く無いのだ。にも拘らず、あれこれと、対応策を講じさせられ、打開策を模索する。政には、当然のことだが、ある国の新宰相が、繰り返し、言い続けているように、そろそろ、様子を伺うことも、機嫌を探ることも、一切止めた上で、自分達の利益を、最優先に考えるべき、時が来ている、のかも知れぬ。ただ、これまでの慣れから、だとしても、どう動くべきか、改めて考えるには、何か、大きなものが、足りぬように思える。何が、自分達の利益なのか、それが、見えていないのだ。これまで、あの国の暴君の、思い付きに、付き合わされた挙句に、この事態に、見舞われる中、肝心の、自分の利益が、何なのか、見えなくなっている。だったら、他の国でもいいし、世界全体でもいい。何が、より良くするのか、考えてみたら、と思う。平和が、最優先なら、それに向けて、互いに、啀み合う状況を、変える為の手立てを、どう講じるべきか、改めて、考えてみたら、と思うがどうか。そんなことより、今、目の前に、起きかけている、物価高の状況を、変えるべき、と思うのなら、その為に、何をすべきか、考えてみては。兎に角、海の向こうの暴君に、これ以上、付き合うことが、適切かは、もう一度、考えてみなければ、と思うのだがどうか。

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3月7日(土)

 昆虫食についての、囀りでの遣り取りを、全部眺めた訳では無い。でも、大体、想像がつく。互いの主張が、平行線を辿り、結局、何の結論も出ない。と言って、発言者の殆どは、言い負かそう、と思っていたとしても、それ以上の、何らかの結論を、導こうとは思っていない。
 だから、あの手の論争は、無駄でしかない、と思ってしまう。いや、それは、言い過ぎとしても、あの遣り取りでの、論理の有無は、何の意味も成さない、と思う。ただ、そこに至った道筋については、思う所はある。例えば、何故、昆虫食が、不可欠だとの話になったのか、という点には、温暖化と、よく似た論理が、使われていた。人口が、増すばかりとなる中、食糧生産は、限界が見えており、早晩、枯渇となるという話だ。確かに、タンパク源として、近年、摂取されているのは、動物性のものが、主体となっており、それらを手に入れるには、牛豚鶏などを、育てる必要がある。その為には、飼料が必要となり、その大部分は、植物性のもので、結果として、手間の割に、手に入る食肉量は、これ以上には、増やせない、となる。となれば、近年持て囃される、効率化の問題へと、話が向けられ、そこから、昆虫ならば、もっと安価に、もっと大量に、手に入れることが、できるという話、だったと思う。これが、引き合いに出され、盛んに、取り上げられる中、驚きだったのは、高校生達が、自分達の探究活動として、この話題を取り上げ、循環社会の為に、不可欠との幟を立て、昆虫の試食を、始めたという話だ。同級生と共に、試食を繰り返し、どうすれば、食べ易くなるか、などと論じ始める。皆の好みの問題、と思う話を、半強制的に、参加させられる、という光景に、呆れた覚えがある。これが、社会でも、同じような扱いで、一気に、盛り上がっていたが、それが、突如として、反対の狼煙が、上がったようだ。食の好みは、人それぞれで、多様性など、持ち出すまでもなく、尊重すべき、と思うのだが、この話の筋には、それを、無視した考えが、満ち溢れている。肉食を、嫌う運動も、同じことで、個人の自由が、保たれれば、何も問題とならないが、侵害された途端に、大ごとになる。食糧不足を、引き合いに出す時点で、強制力が、行使される訳で、その論理には、危うさしか感じない。だとしても、反対派が、昆虫食を、徹底批判するのも、大間違いであり、論理の欠如も、甚だしいと思う。

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3月6日(金)

 論理性の有無こそが、重要である、と書いた。日常の発言にも、気を配っているが、そうならない人が、なんと多いことか、と思う。少し遣り取りが加熱すると、途端に、感情的になり、暴言を吐いたり、相手の人格否定にまで、及ぶことさえある。何かが、足りないのでは。
 当事者は、重要なことを、議論している、つもりなのだ。だから、自分の主張を、何が何でも、押し通そうとする。だが、押し通すとは、どういうことか、考えるべきと思う。論理性の維持は、押し通す為のものでは、決して無く、話の筋道が、正しく構築できているか、の点検でしかない。そこに、感情が、入り込む余地は、全く無く、仮令、気持ちが昂っても、冷静さを、保つ努力が、必要となる。普通に、構えていれば、別に、難しいことでは無い。だが、勝ち負けに、拘ったり、恥をかかされた、などと考えたり、そんな思考回路が、働き始めると、途端に、冷静さを保つことさえ、難しくなる。特に、以前から、問題視されてきたように、一人で、端末に向かい、不平不満を、吐き出すような、ことを繰り返すと、それに、心が奪われて、まともな思考が、維持できなくなる。ずっと昔、掲示板なるものが、ネット上で、盛んとなった時代があった。その頃、まるで、心が奪われたように、そこでの議論に、昼夜に関わらず、参加する人が、増えていたようだ。その中で、多くの議論は、平行線を辿り、結論に至ることなく、沙汰止みとなっていた。互いに譲らず、感情論に流れ、互いに、味方をつけて、議論が盛り上がる。でも、外から見れば、盛り上がったとは、見かけだけのことで、互いに、自己主張を、繰り返すのみで、その中で、妥協案が、出てくることも、結論が、導かれることも、決して起きない。これと似た状況が、やはり、囀りの中でも、みられている。最近の話題で、昆虫食を、取り上げる人が、増えていたが、その遣り取りも、なんだかなあ、としか思えない。相手の主張を、完全否定し、自分の主張を、押し通そうとする。確かに、一時の盛り上がりは、冷え切ってしまい、昆虫の養殖なども、どうなったのやら。ただ、その背後にあった、持続可能との結び付きには、無理筋の論理が、度々出され、それを掲げて、他を押し遣る手法が、過ぎたのも事実だ。何方も、論理性に、欠いた主張を、していることに、気付くべきだが、その気配は見えず、反対派の排除に、躍起となる。ネット世界の、難点と言えば、そうなのだろうが、それを、克服しないと、崩壊しそうな気がする。