国内の問題でさえ、山のように積み上がり、どう解決するのか、全く見えてこないが、国際問題も、様々なものが、積み上がっている。自分のことさえ、片付けられぬままに、他人のことに、頭を突っ込むのは、愚の骨頂とも思えるが、実は、それぞれが、互いに繋がり、こんがらがるのだ。
物価高騰についても、軍事侵攻が、小麦価格に影響を与え、民族紛争が、原油価格に影響する、そんな具合だから、他人事として、無視する訳にも、いくまい。だが、だからと言って、筋違いの主張を、展開するのは、それこそ、愚かとしか、言いようのないことだ。暴君とか、餓鬼大将とか、馬鹿にし続けてきたが、彼の政権に関して、これらの国際問題について、大口を叩いたように、即座の解決は、夢幻に過ぎず、期待を裏切ったが、その一方で、紛争地域に出かけた、国務長官が、指摘した根源の問題は、重要なものだった。犠牲者が増え続け、それを、抑制する為と称して、国家承認に、踏み切る国々が、出ている一方で、あの国は、一切それを認めず、根本問題の解決が、先だと断言した。あの地域は、嘗て、暫定自治と称する、政府の存在が、ある一定の安定を、保っていたが、その実、中心人物の議長が、私服を肥やすだけで、国家としての成立を、目指したものには、なっていなかった。その上、後継者を育てずに、鬼籍に入ったことで、無政府状態へと陥り、次に登場したのは、暴力的な地下活動を、専ら行う、ゲリラ組織で、実効支配との表現が、使われた。それでも、散発的な攻防だけで、不安定な中での安定が、続いていたが、かの国務長官が、語ったように、まさに、獣でしかない、蛮行をしたことで、今の状況を招いた。人質という形で、交渉材料を得て、悦に入ったまでは、想定通りだったが、その後の対応は、想定外の攻撃の連続で、組織壊滅を、目指す形となり、市民の犠牲も、増えるばかりだ。前にも書いたが、その直接的な原因は、爆撃を続ける、国家の横暴さではなく、市民を盾にして、勝手な地下活動を続ける、あの組織の存在だ。その点に関しては、皆が認識せねば、この先の交渉は、あり得ない。また、実効支配しかない、あの地域を、国家として承認するのも、明らかな過ちでしかない。独り言を、書き始めた頃に、記したように、あの地域の実情を、理解せずに、人道を持ち出すのは、愚の骨頂でしかない。
ここ数日書いた、問題に関して、諸悪の根源は、個人主義にある、と言われる。社会の一員としてではなく、個人のことばかりを考え、その利益を追求し続けた結果として、今の歪みがある、というのだ。どうだろうか。人間は、当然のこととして、自分中心に、考えるのでは。
だから、私利私欲に走る、ということそのものに、害悪があるとは、言い切れぬように思う。私服を肥やすのは、これとは、全く別の行為であり、他人が、損失を被ったとしても、自分さえ、儲かればいい、という考え方こそが、今の歪みへと、繋がったとすべきではないか。そう考えると、あの宰相も、いかにも、国民の為になる、と称して、派手な振る舞いを、続けてきたが、その実、取り巻きどもだけが、その恩恵に与っただけで、その他大勢の国民は、損を被っただけだった。当然、その際に、政策を正当化する為に、様々な口上が使われ、そこで活躍した人物は、取り巻きと共に、利益を掠め取っていった。一方で、自身の政党を、破壊するとまで、言い切った話は、沙汰止みとなり、今に至ったことで、少数与党という、雁字搦めの事態へと、結びついたと言える。それはまた、もう一人の、人気を誇った宰相が、凶弾に倒れた時から、綻び始めた、派閥の問題と、そこから生じた、違法行為の連鎖が、大きく影響しており、一見、人気が高かった人間が、裏では、様々に、不正を働き、都合よく動いた結果が、今の姿を表している。そう考えると、次への世代交代、と称した行事が、まさかの結果へと、結び付いたら、没落の勢いが、増すように思えてくる。これは、一政党の問題ではなく、実は、国自体の問題でもある。この所、成長を誇った時と違い、様々な責任転嫁を繰り返し、保身に走るのが、多くの人々の常、となりつつあるが、それこそが、以前にも書いた、個人の活躍が、社会全体の繁栄へと、繋がるものと、大きく変わった点、との指摘がある。こんな筈では、と思う人が、増えているのも、その為かと思えるが、それを、一部には、個人主義の問題、と見做すようで、海の向こうから、押し寄せた考えが、諸悪の根源、となったと見做す。だが、それも、単なる模倣に過ぎず、その上、金の亡者と化した、権力者とそれに寄り添う人々の、問題だろう。本来の国民性は、一人が全体の為となる、個人主義であり、私利私欲に走ったとしても、それが、社会の繁栄に、繋がるものであれば、問題無しとなるのではないか。
長い間、生活の厳しい状況が、続いてきた。と思う人が、多いのだろう。そこにきて、この物価高騰が起き、更に、厳しさが増す、と思う人も、やはり多い。ただ、責任転嫁しても、仕方ない所で、自分なりに、対応、対処を、考える必要が、出てきているのだ。好転を待って。
泡が弾けてから、ほぼ30年の間、悪くなる一方の、様相が続いてきた。その理由に関して、様々な意見が、出されているが、やはり、政策の過ち、とするのが、適切かと思う。元々、外圧に曝され、自らが築くべき、権利を放棄することで、対応してきたことが、諸悪の根源なのだが、それを、更に加速した政権が、存在したことに、改めて、目を向けるべきと思う。そこでは、数々の国営企業が、次々に、民営化する中、その最後として、郵便事業の民営化が、ある宰相と、似非経済学者の手で、強く進められた。強い思い込みから、拘りに縛られ、一目散に、突っ走るのは、あの人物の特徴で、それが、人気の源となったが、その実、多くの取り巻きにより、思惑に満ちた、政策の数々を、断行したことで、弾けた後の混乱が、極まる方に、進められた。特に、似非学者は、如何にも学問的に、経済の法則を持ち出し、それに従った形で、誤った政策を、推し進めていた。その典型が、民営化であり、今起きている歪みも、元を辿れば、そこから始まったもの、と言えるに違いない。交通機関の民営化が、一部の企業のみとは言え、大成功に繋がり、他国の民営化とは、大きく異なる結果に、結びついたことと、対照的なもの、と言えるだろう。その上、彼の常套句だった、市場原理も、先日の騒動で、明らかになったように、一部業者の利益を、追求する結果を、正当化する為の、方便に過ぎなかった。当時、取り巻き達には、大企業だけでなく、一部の振興とも思える、企業の経営者が、蠢いていたが、結果として、彼らが私服を肥やすのを、大いに進めただけで、それによって生じた、数々の課題が、国民の上に、降り注いだだけだった。件の似非学者も、その後は、私服を肥やすばかりで、今尚、その悪影響が、残る一方で、自分は、活躍の場を見つけ、批判の矢面に、立つことは、決してない。あの宰相の問題は、まさかと思うが、次世代へと、引き継がれかねず、同じ穴の狢どもが、群がることに、なりかねない。いやはや、困ったものと思うが、どうなることか。
物価高が始まった頃、それまでの心配や不安なぞ、消し飛んでしまう程、落ち込んだ人が、居たのではないか。確かに、手取りが増えるあても無く、ただ、出費が増えるのだとしたら、早晩、破産宣告を、せねばならぬ、と思った人も、居ただろう。だが、その後の展開は。
確かに、日々の出費は、増え続けている、ように見える。だが、破産は、と言えば、そんな気配は、見えてない、というのが、殆どの人の状況だろう。何故か。理由は簡単で、心配したよりも、余裕があった、ということだ。にしても、この先、海の向こうなどのように、こちらの数倍の外食費、となったとしたら、やはり、蓄えが無くなり、遂には、破産となりかねぬ、とも思えてくる。収入と支出の均衡は、どうあるべきか、という点に関して、改めて、考えるべき時が、来ているのだろう。何故、今まで、そのことに、思いを馳せることなく、のうのうと生きてきたのか、とさえ、思うべきかも知れぬ。ただ、微温湯だったのか、はたまた、騙されてきたのか、理由は、定かではないが、何れにしても、これまでの収支への考え方を、改める時が、来ているのだ。だとしたら、何を、どう改めるのか。簡単なことでは、ないだろう。何しろ、まだ働いている人は、自分の仕事場や仕事の内容に、目を向けるべきだし、経営に携わる人は、企業を、どう切り盛りするか、考えねばならない。特に、経営では、収益を上げつつ、働く人々に、その分け前を、どう分配するかが、肝心となる。でも、もう働かなくなり、年金なるものや、蓄えなどの運用で、暮らす人にとっては、全く別の事情が、存在する。何しろ、支給額は、国が決めるもので、これまでなら、物価上昇に対し、支給減額など、理解不能な措置が、取られてきたのだ。流石に、ここまで来ても猶、そんな惚けたことを、するとは思えぬが、でも、国のやることは、信用おけん、と思うかもだ。まあ、そんなこんなで、何が起きるのか、まだ定かではないが、それでも、この流れが続くだろう。倹約も含め、対処せねば、と思うこと頻りだ。
物価上昇が続き、製造業は、人件費の高騰が、問題となりつつあるが、一方で、農業水産業については、自然任せの部分があり、天候不順などで、野菜の不作が、問題となっていた。とは言え、昔と違い、旬の食べ物を、といった考えが無くなり、好きなものを、好きなだけなのだが。
ただ、不作があれば、豊作もあり、時に、採れ過ぎたとの話から、畑に放置されたり、廃棄されたものが、映し出されることもある。どうせ、出荷したとしても、値崩れした相場では、儲けが出ないまま、運賃などで、損失に繋がるから、と言われる。折角作ったもので、勿体無いとの意見も、あるが、その場で、消費者に渡る訳でなく、運送や中間業者が、関わることから、その経費との関係が、こんな事態を、招くと言われる。特に、不作が続いた後の、別の産地からの、供給過剰が、強く影響を及ぼし、生産調整で、と言われるものの、そんな都合良くは、事が運ばぬもの、と言われる所以だ。水産業も、自然からのものも、養殖のものも、同じ状況にあり、漁獲調整を、行う必要が出てくる。ただ、消費者の感覚では、安く手に入る筈が、漁師の都合で、高くなるのは、解せないだろう。特に、価格調整の為、となれば、そんな不都合を、こちらに押し付けられては、溜まったものではない、となるのが、普通の感覚だ。そんな背景でもあるまいが、今年の旬の魚は、当初から、豊漁が続いており、例年より、無難な価格だけでなく、魚自体の大きさも、妥当に思える状況にあり、それに対して、生産者の懸念が、広がると伝えられる。要するに、豊漁続きで、容れ物や、冷蔵用の氷が、不足しており、調整を行わざるを得ない、とされており、何だか、誰かが作った、筋書き通りに、事を運ぼうとする、目論見だらけの、報道となっていた。自分らの都合を、消費者に押し付けると、猛反対の声が、上がるからか、言い訳じみた話を、流布させようと、しているようだ。それも、大衆媒体の、協力を得て、となれば、上手くいきそうにも思える。だが、不安を煽るのを、役割と自認する、報道の姿勢に、信頼は、更に失われる、と思うのだが、どうか。
天変地異には、為す術無し、となるのだろうか。確かに、大きな災害に、見舞われた時、人間の無力さを、感じることは、度々あるけれど、それが全て、とも思えない。時に、人災とまで言われる、事象の数々は、備えあれば憂いなし、の反対となった事柄で、怠った為となる。
最近の猛暑については、多くの人々が、連日報じられる、外出禁止と冷房措置を、守っているようだが、肝心の電力供給が、何かの拍子に、滞ったとしたら、為す術無し、となる。だからこそ、発電方式について、十分な備えが必要で、送電網についても、備えが必要となる。その意味で、現状で十分か否か、については、検討を怠ってはならない。ただ、これは、公的なものに近いが、結局は、電力会社という、企業の責任となる。一方で、この所の局地的な豪雨については、別の要因がある。異常気象の典型として、屡々引き合いに出されるが、安全安心な生活を、守る為の手立てとして、河川の周囲には、洪水に対する備えが、必要となるし、そうでない地域でも、特に、都市圏では、排水設備が、重要となる。これらは、工事自体は、企業が行うものだが、その経費に関しては、公的なもの、各自治体が、進めるべきものだ。ところが、今回の災害が、起きた都心に近い地域は、このところ、税収の減少に、悩まされている、と伝えられており、その主原因は、ふるさと納税、と呼ばれる仕組みにある、と言われている。本来なら、人口密集地域だから、住民税による、税収が確保され、多くの人々の生活に、関連する事業の、整備に使われる。だが、あの納税制度では、無関係な地域に、税を納めることで、得られる利益に、魅力を感じた人々が、多く居ると言われる。もし、その結果が、今回の災害への備えや、全国的な問題として、取り上げられる、下水設備の問題に、繋がっているとしたら、その責任は、何処にあるのか。以前から、下らない制度として、何度か、批判的な意見を、書いてきたが、本来、故郷への寄付、という流れの中での、制度の筈が、今や、全く違う姿を、見せていることを考えると、この悪政を、改める必要が、迫っているように思う。政治の混乱の中、そちらに目を向ける、余裕があるのだろうか。
まだ月半ばだが、今月読んだ本について、書いておきたい。久々の◎、ということもあるが、期待した内容以外に、少し考える所があり、書こうと思った次第。読解力、という言葉は、重要な能力の一つとして、紹介されることが多く、確かに、その巧拙により、差ができる場合も。
ただ、この著者は、心理学を専門とし、その意味では、文字を読めない、読字障害と呼ばれる、発達障害の人々が、対象の一つとなる。有名なのは、代役をおかず、危険な演技も、自身で行うことで、人気を博す、ある映画俳優が、その障害を持つが、母親などの支援で、台本を読んでもらい、台詞を暗記する話で、読めずとも、聞けば理解できる、という一種不思議な状況の、証拠の一つとされる。ただ、先天性の障害でなくとも、最近の高等教育現場では、教科書の意味を解せず、新たな学習が、滞る学生が、増えているとの問題が、取り沙汰されており、現場の混乱の、理由や原因を、突き止めることが、課題となっており、その一つとして、著された書籍、と見ることもできる。ただ、彼らが抱える問題を、段階的に解析し、解決法を、指し示したことは、重要なのだろうが、かの俳優の問題とは、かなり異なる状況に、別の段階での、課題こそが、重要と思えてきた。それはつまり、字を読めるか否か、ではなく、話の内容を、掴み取る能力に、大きな問題があるのでは、という点であり、この本の内容では、一部端折られた部分と、思えるのだ。と考えると、実は、重要なことは、読めば分かる、という話より、聞けば分かる、という方に、あるのでは、と思えてくる。そこには、大学の講義で、高度な内容を習う時、教科書の内容は、勿論のことだが、先生の話の内容さえも、理解できぬままに、受けている姿を、思い起こさせるものがある。聞き取り、あるいは、聴き取りは、重要な手立ての一つで、特に、予備知識が無くとも、それを記録や記憶に、残す作業が、重要となる。読むことと、聞くことには、大した違いが、無いように思う人も、居るのだろうが、この本で、改めて、そんなことを、考えてみる機会を得た。帯にある謳い文句は、その意味では、かなり的外れであり、本質を見誤ったものに、見えてくる。ただ、重要性に、変わりは無い。
真偽入り混じった情報に、振り回されぬ為に、どうすればいいか。情報社会において、最も重要な課題、と言われるものの、誰もが、絶対的な手立てを持たず、個別の例に対して、見極める必要がある。流石に、正しい情報とは、こういう形式をとるもの、との指針には、呆れたが。
長年に渡り、詐欺が横行し続け、騙される人の数と、被害額は、増減を繰り返すものの、犯罪自体が、無くなることはない。その理由の一つは、はじめに書いた、正しいものとは、という括りにあり、それを模倣することで、善良な市民の多くが、まんまと口車に乗せられる、という点にある。心理の動きは、働きかけにより、異なる様相を呈し、どんな探りを、入れるかによって、騙される人の反応は、大きく変わってくる。だから、以前の手口に対し、対抗策を講じても、所詮、何の役にも立たず、また、騙されることになる。詐欺は詐欺として、普通の情報についても、同じことが、起きているように見える。ただ、一対一のものではなく、殆どが、一対多数なのに、何故、誰もが、いとも容易く騙され、時に、片棒まで担がされるのか、不可思議な部分もある。ただ、応援者になった人の多くは、正義感に駆られ、義憤をぶつけようと、片棒を担いだようで、そこには、感情的な行動、という部分と共に、ある意味、軽率な挙動が隠れている。何事にも、慎重に臨むべきとは、当然のことなのに、多くの人々は、そんなことを、忘れてしまう程に、感情的に動く訳だ。だったら、まずは、真偽の吟味においては、感情を棚に上げ、一つひとつを、検証してはどうか、となる。ただ、こんな単純なことに、何故、皆が目を向けず、正しいと信じたことに、走ってしまうのか。これは、情報源の種別に無関係に、古いものだろうが、新しいものだろうが、大衆だろうが、社会だろうが、どんな媒体に対しても、同じ感覚で、対峙することが、重要ということだろう。自分の信じる人だから、支持する人だから、信用のおける媒体だから、などなど、そんな言い訳は、通用しないものだ。ただそれだけ、簡単なことではないか。
海の向こうの暴君以外、殆どの権力者にとり、社会媒体は、忌み嫌うべき存在、なのかも知れぬ。暴君は、自身で、勝手気儘に書き込める、媒体の方が、裏を取り、権威ある、大衆媒体より、遥かに正確と決め付け、会見場からの排除さえ、断行していた。何方にしても、と思うが。
情報操作を含め、一度走り出すと、誰も止められぬ、といった事態に陥り、国情不安に、陥り始めた国々の、施政者達は、社会媒体の排除を、決め始めた。驚くべきは、先進国よりも、発展途上国の方が、極端な反応が、際立つ点であり、元々、情報源の数が、限られていたり、抑圧的な政治の下、プロパガンダと呼ばれる、手法が行き渡り、信じ込まされてきた、国民の多くは、手にした端末に届く、新しい情報に対し、期待を抱くだけでなく、別の形での、鵜呑みに、走り始めたことに、気付かぬままに、暴走、暴動へと、突き進むようだ。昨日の報道から、世界一の高山を、観光の目玉として、抱えている国が、大混乱に、陥っていることが、報じられた。その原因は、社会媒体による、情報流出が、社会不安を、煽り立てている、とのことから、使用禁止へと、結び付いたことだ。ただ、この報道では、「事業者に対して事前の登録を求め」とあり、何らかの手続きを経て、不正の温床を、取り除こう、とするものと読めたが、ごく最近の報道では、その経緯には触れず、ただ、使用禁止が断行され、それに反対する民衆の動きから、措置の撤回と共に、首相辞任となったことを、伝えていた。これらの間の繋がりは、すぐには理解できず、また、全体の背景を、読み解くことも、難しいままだ。こういった不鮮明で、また不正確かも知れぬ、情報を受け取ることが、情報社会の恩恵では、決して無い筈だが、現状では、こんな調子で、情報操作が、行われている。で、何方に向かうのか。誰にも分からず、迷走が続くだけ、なのかも知れぬ。だとしたら、一般庶民として、何をどうしたら、良いのだろうか。最善の方法を、ということは、望むべくもなく、暴走や暴動に、繋がらぬように、することだけでも、備えておきたい。すぐに、動かぬことが、実は、肝要なのかも、と、ここでも思えてくる。
混沌、と書けば、何を今更、と言われるだろう。だが、本当にそうか。これまでは、ある意味で、筋書き通りに、運んできた、と辞任表明した人物は、宣うに違いない。その一方で、外野からは、喧しい程の野次が、飛び交い、政局不安が、露呈したと言われてきた。
どんな手順で、保身を図るのか、と思われてきたものが、蹴りがついたので、辞めるとなった時、ある意味の混沌が、始まったと言えそうに思う。だが、その一方で、選挙後の、それまでの流れから、意外な展開が、続いていたとの見解もある。とは言え、いつも通り、政治の話になると、喧しい人々が、見飽きた顔を、画面に登場させ、訳知り顔で、今後の展開を、予想し始める。誰が、どう引き継ぐのか。人々の興味は、そこに集中する、と思われるが、前回の総裁選程には、盛り上がりそうにない。誰が就いても、今の情勢では、ただでは済まず、一層の迷走が、続くものと思われるからだ。でも、そうは言っても、実際の所、何も変わらず、いつも通りの、ゆっくりとした展開、となりそうにも思える。この、異様とも思える、安定こそが、この国の特徴であり、良い点でも悪い点でもある、と言われる所だろう。けれども、これが長く続くかは、不確かなままであり、次の人物が、どう処するかにより、大きく変化しそうな部分だ。ただ、これまでの展開で、政権交代は、起きたには起きたが、結果として、殆ど何も変わらず、何も変えられぬまま、返上したし、一方で、そのきっかけとなった、経済破綻と言われる事象も、結果的には、苦しい生活とは言え、大多数の、それまでの中流意識に、取り憑かれていた人々には、大きな変化を、強いたものでは、なかったのだ。この安定性は、歓迎すべきものか、あるいは、忌避すべきものか、どちらなのかは、よく分からない。今の大河で、解説されている、二つの改革の、何方を選ぶのか、といった話と、合致しそうにも思えるが、どうだろうか。所詮、この国民性は、極端を好まず、日々の安定を、望むだけかも知れぬ。
振り子の振れ幅が、増すばかりとなり、速度も、増加している、ように感じられる。そんな振り子に、思い当たることは、無いだろうか。今、先進国の多くで、そんな社会現象が、表面化しており、それぞれに、解決への道を、模索しているようだ。だが、簡単では無い。
右や左への、大きなぶれも、確かに、大きなことで、自身の心の動きなら、何かある度に、起きることだが、国の様子となると、関わる人の数も多く、その影響は、甚大なものとなる。触れなければ、動きが止まり、進展が無くなれば、時に、滅亡を心配せねばならぬ。だが、振り回される人間には、彼方此方へと、動かされるのは、たまったものではない。何故、こんなことが、起きているのか。一つには、情報の伝達が、急速になったことと、何かしらの、調整のようなものが、介入しなくなったことに、よるものと思える。手にした端末に、日々刻々届く、種々雑多な情報に、眺めた人々の、心は穏やかでなく、心配や不安に、苛まれる人も多い。更に、恣意的に操作されたものが、一気に拡散する状況は、暴動へと繋がることが多く、不穏な情勢が、蔓延する場合が多い。そんな世界情勢の中、対応が緩慢で、振り子が、大きくだけでなく、速く振れない、国の政に、批判の声が、高まっていた国は、逆に、国民の不安の大きさに比べ、遥かに、安定した状態を、保ってきたように見える。なのに、何故、今更の如く、不安定な方に、踏み出すのだろう。と言っても、ここから先も、やきもきする民衆をよそに、自分達の権力争いに、終始するだけ、となるかも知れず、まだ、何も判らない状況だが、さて、何方に歩み出すのか。少なくとも、全体として、期待が持てず、絶対的な指導者が、登場するようには、決して思えない。その中、それぞれに、勝手な主張を、繰り返してきた勢力が、それぞれに、利害を追求したら、何が起きるのか。これもまた、予想がつかないものだ。与党が、その地位を失った、前回の流れでは、こういう形から、政権交代が起きたのだが、それとは、似ても似つかぬ状況で、やはり、振り子の振れ幅も、速度も、増しそうには、思えてこない。なるようにしか、ならないのだろうが、さて、どうなることか。
電気は大切、と思った人が多いだろう。カタカナ語は、好きではないが、一般的には、ガスと水道を併せて、ライフライン、と呼ばれる。だが、その中でも、とされるのは、その他のものを、利用する際にも、電気が必要となるからで、震災後の混乱の多くは、そこから出ていた。
発電所の問題から、計画停電なる、不思議な措置が取られ、人々の生活は、一変したと言われる。それは、全ての温熱設備を、電気に頼る家庭だけでなく、料理や風呂を、ガスで賄う家庭も、その制御への関わりとして、不便を強いられた。だが、そういう不便も、一時のこととして、早晩忘れ去られ、次の問題が起きた途端に、騒ぎが広がる。対策が、講じられていない、という訳ではなく、例えば、まさに震災直後に、停電が続く中で、発電装置を備えた自動車や、電気自動車が、活躍する、という話を、聞いたことがあるだろう。今回、震災ではないが、天変地異の一つとして、台風による突風から、送電設備が、被害を受けた地域が、停電している、との報道があった。一般家庭でさえ、突風そのものの被害ばかりか、その後に続く停電から、厳しい暑さへの対応が、難しくなったが、高齢者施設は、動けぬ人々が、平穏な暮らしを維持する、そんな環境が、壊されてしまった。復旧を急ぐ、という話があるけれど、一方で、画面には、傾いた電柱が映し出され、とてもすぐには、と思えてくる。一方で、長引く酷暑は、秋の声を聞いても、衰えることなく、若者達でも、辟易とするくらいの、高温が続いている。では、施設で暮らす人々は、どうだろうか。まさに、弱者の典型のような状況に、為す術無しとさえ、思えるような報道内容だが、一向に、電気自動車や、ハイブリッド車の、活用の話は聞こえてこない。命に関わる、と言ってしまえば、その通りだろうが、なのに、どうしたことか、と思えてくる。絵に描いた餅、とでも言いたくなるが、充電ができぬものは、確かに、無用の長物だろうが、燃料を補給すれば、発電もできるとされるものは、と思う。世の中の矛盾、なのか。
仮想世界に、溢れる偽情報に、戸惑うばかり、と伝えられるが、一方で、現実世界では、昨日のように、本質的に、見えなくもないが、何とも、的外れなことが、起きている、と思えてならない。だからこそ、架空の話が、架空の世界を、我が物顔で闊歩して、多くの人々が、騙される。
見極めが肝心、と思うのだが、実際には、正しい情報を、正しく伝えさえすれば、皆が、安心できる世界が、築けるとでも言うのか。そんな話が、実しやかに伝えられ、皆が、挙って参画しようとする。だが、これは、本当だろうか。言葉尻次第で、事柄の真偽が決まる、となれば、騙そうとする人間や機械は、早速、それを模倣するだけだ。それこそが、今の状況を、表しており、それに対して、為す術無し、となってしまいそうに思える。だからこそ、茶番としか思えぬ、対策を、大真面目に、大学で取り上げた、という話に、あえて触れてみたが、どう感じただろう。確かに、見極める為の手段が、見つかり難くなり、騙された人々は、次こそはと、備えを整える。だが、騙される人は、何度も、同じことを繰り返し、なけなしの財産さえ、失ってしまうとされる。だからこそ、社会として、このような人々に、被害が及ばぬよう、仕組みを整えることが、大切とするのだが、上に書いたように、そんな手立ては、あっという間に模倣され、その基準では、判断ができぬ、となるだけだろう。だとしたら、どうすべきなのか。何度も書いたように、他力本願は、できぬものと、考えるべきだろう。自分で、判断する為の手段を、自分なりに、考える必要がある。その為に必要なのは、何なのかについて、もっと考えるべきことが、また、もっと教えるべきことが、ありそうに思えるのだ。疑いさえすれば、大丈夫と信じる人も、自分が、窮地に陥ると、一遍に、騙されてしまう。犯罪者には、誰もが、なりたくないもので、その一言で、赤子の手を捻るが如く、簡単に騙され、財産を失うのだ。だとしたら、何処に基準を設けるか。そんなことから、始めてみては、どうかと思う。そこから先は、これまで書いてきたことで、と思うのだが。
偽情報が、巷に溢れている。そんなことに、悩まされつつ、どう対処したら、と悩む人が多いらしい。特に、社会媒体については、その傾向が高いと言われ、警戒の声も上がっている。では、どうしたら、となった時、人は、どこから手をつけるのか。でも、この報道は、何?
流れてきた時、そう感じた人が、多かったのではないか。昨夕、そんな報道が、流れてきた。ある大学で、偽情報に対抗して、正しい情報を広める方法を、学ぶセミナーが、開催された、という話なのだが。一流の国立大学で、一体、何が行われたのか、と思いつつ、眺めていたのだが、実際、何のことやら、さっぱり分からなかった。そういう仕組みが、自分達の住む場所を、占領しようとする大国から、守る為に必要、ということか、と思いつつ眺めたが、内容は、全く理解できないものだった。通常ならば、偽物を、どう見極めるか、から話が始まる筈だが、そこは、すっ飛ばして、次の段階へと進む。正しい話を拡散するのに、何が重要となるのか、とのことで、そこでは、理解しやすい言葉遣いと、感情的な表現が、重要なのだ、と解説していた。はて、何のこと、と思うのは、実態を知らぬ人間が、抱える問題かもだが、嘘や間違いを、どう指摘するよりも、まずは、正しい情報を、拡散することの方が、重要となるという。でも、それって、どういう意味なのか。改めて、まとめられた記事を、読んでみても、理解できない。真偽の違いを、どう見極めるか、というより、まずは、正しいことを、知る術を持つことが、大切とでも、言うのだろうか。確かに、講師が暮らす地域は、隣国からの圧力で、いつ支配されるか、知れぬ状況にある、と言われる。その上、そういった圧力の多くは、仲間達が、皆不安を抱くような、情報の形として、隣国から、意図的に流れてくる。つまり、それらは全て、偽情報であり、それを鵜呑みにせずに、正しい情報を、手に入れると共に、それらを、他の仲間達に、分かりやすく伝えることが、大切なのだろう。でも、何の根拠も、何の拠り所も無しに、真偽を、どう見極めるのか。肝心な部分が、抜け落ちているように見える。こんなことを、大真面目に、大学で行うことに、意味を見出せない。
もうどうでもいい、と思っているのではないか。と書くと、どれのこと、と返されそうだ。確かに、そんなことばかりで、論理の欠片も無く、感情に訴えるばかりで、何の解決も、見えてこない、という話ばかりで、本当に、嫌になる、と思う人が、多いのではないか。
流石に、天変地異に関しては、人間の力の及ばぬもので、そんなことに、腹を立てても、どうにもならない。でも、人間が関わるものは、それらの殆どが、今や、そんな状態にあるのでは、とさえ、思えているのでは。特に、騒ぎが、大きければ大きい程、そんな状況へと、追い込まれていく。騒動と言えば、ここ半年の間、主食に関する騒動が、国全体を、覆っていたように、思える。店の棚から、商品が姿を消し、不足が、深刻な状況にある、と伝えられた後、政府が、非常時の為に、貯めておいたものを、放出するとの話へと、発展していった。元々は、不足分を補う為、だった筈なのだが、いつの間にか、市場原理が、前面に出てきて、他の物価と共に、高騰を抑える為、との話となり、新しい大臣は、その為の方策を、大々的に打ち出した。結果、確かに、相当量が放出された、筈だったのだが、巷では、依然として、棚の多くは、空いたままであり、放出の仕方が、変わったことでの変化は、僅かなものとなった。その理由は、依然として、説明されないまま、買い取った筈の業者は、受け取りにも現れず、末端消費者には、理解不能な状況が、続いている。そこに、季節が訪れ、新米が出回り始めた。既に、市場に溢れている、数年経過した備蓄米は、不味いと断じられ、米余りの状況が、一部で広がる中、新鮮で美味しい筈の、新米は、価値が高いものとして、高値で取引される。需要と供給では、単純には、決まらぬものと、分かり始めたが、それでも、依然として、市場原理なるまやかしが、吹聴されている。価格操作には、様々な手が尽くされ、流通の中間に、居座る業者が、儲かるような仕組みが、以前から続くが、これでは、上流も下流も、損を被るだけなのだ。だから、もうどうでも、となる訳だ。
陰謀論、と尋ねられたら、どう答えるか。個別の問題、と答えるのが、普通なのだが、社会媒体が、蔓延する時代には、あの世界では、それが、当たり前のこととして、捉えられており、実しやかな話が、次々に、登場してくる。そんな雰囲気で、さて、どう答えるか。
元々、こんな話は、古今東西、何処でも、何時でも、触れられてきたが、今は、その一つの頂点、にあると思えなくもない。最大の要因は、また、海の向こうの暴君で、前任の時、散々に言い散らかし、書き散らかした結果、それが、当然のもの、と支援者だけでなく、世間が受け取るように、なったからだ。だからと言って、本当に、全ての事柄に、陰謀があり、それによって、様々な事柄が、首謀者の思い通りに、運んでいる、と考えるべきかは、定かではない。何か、事が起きるたびに、その背景を、解説することは、いつものことだが、一方で、それが、悪意を持った、一部の人々により、仕組まれたもの、と考えるべきかは、全く別の事柄だろう。と言っても、あらゆる事柄に、種々な考え方があり、その持ち主が、そこから先に、また、様々に関わることも、当然の如くある。有利に働くことも、不利に運ぶことも、何方の場合もあるが、偶々にしろ、利を得た人間が、何かしらの企みを、事前に施したと考えるのは、ある意味、当然のことだろう。でも、だからと言って、何事にも、陰謀があり、それを見破りつつ、対処することこそ、最重要な事柄、と断じてしまうのは、早計なのではないか。裏を読むとか、そのまた裏を読むとか、そんなことが、何事を成すにしても、不可欠なもの、と一部の成功者は、語ることがあるが、後付けならば、誰でも言えることで、その場で、どう情勢を読み取り、どう判断するかは、決まったものがある訳でもなく、絶対的な手法が、ある訳でもない。にも拘らず、あの暴君は、自らの筋書き通りに、事は運ぶべきと、邪魔者達を、陰謀で片付け、排除し続ける。そんなことに、いつまでも付き合っていては、正しい判断が、できなくなるだけだ。陰謀という悪意ではなく、どんな策略、どんな考えが、横たわっているのかを、見定める必要がある。実は、単純なことなのだが。
自国を、最優先に考える、という政策が、海の向こうで、始まった。あの極端な人物が、先導するのだから、諸手を挙げて賛成、とはいかぬものだ。一方で、それまでは、多様化の時代とされ、多種多様な人々が、協力して築き上げる、という考え方が、台頭していた。
今見れば、両極端の考え、と思えるだろう。だが、本当にそうか。まず、自国第一主義、と呼ばれる、何やら、新しい考えのようなもの、については、改めて、書く必要が無い、と思う。何故なら、自分を優先するのは、当然のことであり、利己主義とすれば、誤解を招くものの、利他主義とは、何ぞやと思い続けた人も、多く居た筈だ。自分にとって、良い環境を築くのを、最優先とせずに、他の人の為などと、勝手なことを、言われても困る。更に、多様性となると、途端に、弱者保護が重要とされ、弱者優先から、多数派には、不利な条件が増えた。逆差別、と呼ばれる状況に、声も上げられず、我慢を強いられた人が、沢山居た筈だ。その中で、多様性など糞食らえ、自分を優先すればいい、とばかりに、自国優先が、唱えられた時、快哉の声を、上げた人も多かったろう。当然、多様性は排除され、弱者は、忘れ去られる存在、となった。と言われるが、これもまた、そうだろうか。優先せずとも、排除までは、無用だろう、との意見も多い。まずは、対等な形での、競い合いが始まり、その中で、どんな均衡が起きるのか、見る必要がある。さて、では、こちらはどうか。先日の選挙で、何やら、同じような考えが、最重要の政策として、注目された。だが、これも、同じように、誤解が広がり、またぞろ、排除の考えが、当然の如く、主張され始めた。まさに、人間の狭量さが、表面化しただけで、それを、絶対的なものとして、押し切ろうとするのは、やめて欲しい。ある意味、自分の首を、絞めるだけだから、向こうと同じで。自国を、第一とする考えは、当然のものとして、持っておけばいい。だからと言って、気に入らぬ連中を、排除し、追放する、となると、話は別だろう。共生すべき、とまではいかぬし、一方で、彼らの力を頼るべき、とも思わぬ。まずは、自分達で、できることをやり、その中で、この国の行末を、考えていけばいい。ただ、それだけのことだ。手が足りぬから、と言って、無闇に、頼るのは駄目で、まずは、自分達で、解決できる道を、見つけるべき、だろう。
連日のように、異常な猛暑、と報じられると、本当にそうなのか、と皆が信じたくなる。いや、嘘だと言いたいのではなく、単に、何処がどう異常なのか、説明したらどうか、と思うのだ。それも、観測史上初めて、とか、何℃以上が、何度目とか、そんな話ではなく。
この異常高温は、夏の初め頃、短い梅雨が明ける頃から、始まっていた。だが、その頃、星の反対側では、驚くべき気温が、記録されていた。確か、46℃だったろうか。ここ数年、そんな夏の始まりを、迎えるにあたり、花の都や、霧の街で、有名な都市は、それぞれに、猛暑への対応を、迫られてきた。特に、それらの都市は、緯度から言えば、こちらなら北の国と、同じ位に位置する。となれば、通常ならば、夏も、少しの暑さがあるものの、乾いており、何とか冷房無しに、過ごせると言われてきた。また、木造ではなく、石造の建物が多く、それもまた、ひんやりとした、雰囲気を作っていた。それが、湿度が然程でもないとしても、あの気温となれば、一度、温まった空気や建物が、すぐに冷える筈もなく、死者が出たとしても、不思議ではない。何故、こんなことが起きたのか。星全体の温暖化、という解釈は、好んで使われてきたが、この局地的な変動には、何の説明も、施されない。その事情は、此方も同様であり、今の猛暑と呼ばれる現象が、何故起きたのか、についての説明は、予報の中でも、殆どなされぬままだ。全体の説明に関しても、ある気体の問題、とする考えには、依然として、賛否両論があり、また、気温上昇についても、解釈は様々となる。の中で、彼方と此方で、この猛暑は、何故起きたのか。最新の高速計算機でも、解明できないのか。と考える人が、多いと思う。だが、計算機は、何も無い所から、事実を解明する、のではなく、誰か何処かの人間が、ある仮定を置いて、作り出した計算式に、基づいた計算を、行うだけのものだ。ある変動に対して、次に起こるのは何か、を見つける為の計算は、肝心の計算式が、存在せねば、ただの大きな箱が、あるに過ぎない。さて、では、この変動は、何なのか。誰か、そんな視点で、見てくれないか。
もう一つ、本を紹介しておこう。この国の、半導体産業の盛衰を、著したものだが、この著者は、その渦中にあり、自身の浮沈に合わせて、海の向こうとの、戦争にも似た遣り取りを、赤裸々に綴っていた。と言っても、買った時の期待は、大きくはずされて、読後感は・・・
とは言え、半導体技術の発達が、この国の産業、特に電器産業を、支えてきたことは、確かだろう。その中で、その頃の自分の姿を、思い浮かべながら、急速な発展を、思い起こしていた。特に、大学時代は、電子式卓上計算機、通称電卓が、世の中に登場し、演算機能の発達と、安値競争の激化が、著しくなっていた頃なので、その背景にあった、新規半導体の、技術革新の程が、文章化されたことに、懐かしく思ったものだ。ただ、専門家の中でも、最先端を歩んできた、人物にとっては、一般の利用者の、理解力には、考えが及ばなかったらしく、開発された、新たな仕組みの、違いを解説するのは、面倒だったのか、はたまた、知って当然と思ったのか、ほぼ割愛されており、理解も何も、問題視されず、別のことに、目が向いていたようだ。ただ、期待は、盛衰と共に、その要因となった事柄の、解説だったのだが、強い外圧だけが、書き記されるのみで、その後の衰退への道筋が、語られることなく、つまりは、現状からの脱却、という意味での、傾向と対策という、視点が、示されることなく、今後への期待も、何処か、他人事の如き、薄っぺらなものに、終わっていた。確かに、発展の過程で、どんな視点を持ち、どんな考えを抱いたかは、重要なものなのだろうが、そんな昔話は、実は、殆ど役立たずでしかない。成功は、多数ある選択のうちの、たった一つから、始まったことであり、それを選んだ理由は、確かに、重要なものに違いないが、一方で、他を選んだら、どうなったかについては、知る術が無い。逆に、失敗については、何故それを選んだか、という点には、参考になることが、ありそうに思えるのだが、どうだろうか。そんな考えから、こういう成功物語は、あまり参考にならず、そういう人物の、現状分析は、実は、役に立たないことが多い。失敗を語ることは、ある意味重要だが、それでもなく、一方で、そこからの脱却でもない。まあ、その程度のものだった、ということか。
暫く前から、読み始めた時代小説は、半世紀程前に、著されたものだ。それも、第十巻となり、毎巻が面白く、息抜きになることもあり、気に入っている。ここまでは、読み切りで書かれ、時に、続き物の如く、なったとしても、精々二、三回のものだったが、突然、一年の続き物となった。
それ自体も、興味深いもので、主人公は、架空の剣客とはいえ、周囲の登場人物は、歴史上のもので、その背景と相俟って、時代の流れを、感じさせるものだった。ただ、読み切りとしたのは、おそらく、続きとすることで、筋書きに縛られ、自由闊達に書き進められぬ、との思いがあったのだろう。だとしたら、この変心は、如何なる事情によるのか。鬼籍に入った著者に、尋ねることもできず、何とも歯痒いが、今回、改めて書こうと思ったのは、そこが理由ではない。あの時代、250年以上続いた、幕府の時代が、どのような山谷を、辿ってきたかは、歴史書を繙けば、わかるものだろうが、こういう時代小説は、それを、ほんの一握りの人々の、営みの中で、書き記してくれる。その上で、偶々、今放映されている、所謂大河と呼ばれる、ものの時代が、丁度重なっていることに、気付かされる。特に、その中で、老中と呼ばれる、権力者の争いや、将軍と呼ばれる、その上に、君臨した人々の、跡目争いが、話題となっているのだ。小説は、あくまでも、創作であり、主人公は、架空だけに、大河とは、かなり異なる事情が、ありそうに思える。だが、御三卿と、老中と、その間の、直接的ではない、何とも、不可思議に思える、謀の連鎖が、彼方でも、此方でも、演じられたことから、創作とはいえ、ある程度、史実に基づいた部分が、見え隠れして、何とも言えぬ程に、参考になったような、そんな気がしてくる。面白さとは、そんなものかと。特に、作者が、著した当時とは、全く違う事情で、心の綾を含めた、権力者の思いと、その中での、策略の交差が、面白さを、倍増させたのには、楽しさが、増すばかりとなった。まだ、暫くは、続くことだが。
不祥事が起きる度に、任命権者の責任が、問われてきた。確かに、その人間を、大臣としたのは、あの宰相なのだが、その一方で、宰相への絶対服従が、条件とはなっておらず、好き勝手な言動から、不祥事へと繋がる場合が、何と多いことか。それに比べ、海の向こうは。
あまりにも、状況が違い過ぎる、と思う人が、多いのだろう。絶対的な権力を持ち、人と地位との結び付きも、自在に操れるという状況に、前回の任期では、首の挿げ替えが、頻繁に起きていた。その原因は、命令に従わなかった、というものから、反応が鈍かった、すぐに行動を起こさなかった、など、様々だったが、共通していたのは、服従しなかった、という事実だろう。それも、反旗を翻す、という所まで、進展せずとも、返事をしなかったり、少し意見を返したり、といった些細なことでも、逆鱗に触れれば、即座に、首が飛んでいた。それに対して、今回は、全く異なる面々だが、皆が、総じて、守っていることは、絶対服従なのだろう、と思う。だが、政には、それはそれで、通用したとしても、先々の流れに対しては、予想不能なものも含め、あらゆる可能性を、試す訳にもいかず、まして、暴君の命令が、常に正しいとは、限らぬとなれば、更に、複雑な様相を呈する。だから、だろうと思えるが、一部の組織においては、任命権者は、彼自身ではなく、特段の理由なしには、首とする訳にも、いかないとなっている。これは、身分保証と共に、異なる考えが、通用するようにする、仕組みなのだろうが、一方で、だからといって、好き勝手にしていい、という訳でもない、という点にも、目を向ける必要がある。責任は責任であり、その範囲内で、全力を尽くせ、という意味なのだ。その点を、誤解する人も多く、任された、となれば、好き勝手にする、と受け取る向きがあるのは、まさに、今の時代の、大きな問題と思える。老若男女を問わず、そういった馬鹿げた考えに、取り憑かれた人々が、出鱈目をやることには、何の保証も無い。だからこそ、厳しい目が向けられ、批判の矢面に立たされるのだ。その上で、全力を尽くすべき、となる。