パンチの独り言
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6月18日(木)

 陰謀論を、馬鹿にしていないか。いや、馬鹿げた妄論を、真面目に、取り上げるのは、愚の骨頂だろう、と思う人が、大部分だと思う。でも、海の向こうの暴君の、発言の多くは、彼が、表舞台を去ってから、実しやかに、陰謀の数々として、取り上げられるのだろう。
 で、彼自身は、それまでの、庶民の情報源だった、大衆媒体を、偽り、フェイクと断じ、好き勝手な振る舞いを、続けている。ただ、あの批判の、殆ど全ては、自己中心的な、評価基準に基づき、自分に、不都合なもの、だっただけなのだ。それを、陰謀と片付けるかは、一概には、決め付けられない。でも、はじめに書いた、陰謀論は、まさに、その典型であり、それを、主張する人にとり、不都合極まりない、邪魔なものなのだ。あの暴君が、これらの意見を、書き始めたのは、社会媒体であり、政権を去ってから、権利を失ったのも、権力に、君臨するからこその、暴挙の数々が、看過できぬ程、と判断されたからだ。しかし、その企業を、買収した人間が、擦り寄った結果として、権利を回復し、それと同時に、妄論を掲げることが、自由の名の下に、認められたことが、今の混乱を、招いたと思える。実しやかな論理を、展開する為に、必要となるのが、誰か、特に権力を握る、人間達の、陰謀によるもの、という展開だろう。どんなに、突拍子もない、奇天烈な、話でも、それが、権力者の、深謀遠慮による、としさえすれば、何事も、通用するとなる。いや、論理の欠片も、ないのでは、との指摘も、だからこそ、力による行使が、必要なのだ、と断じる。もう、手が付けられず、好き勝手な、話にしか、ならないもので、聞いたり、読んだり、する価値も無いが、今や、それらが、大真面目に、社会媒体で、囀られるのだ。特に、最近、目に余る、と映るのは、専門家の世界での、妄言の応酬であり、非論理的な、意見の遣り取りが、実名、匿名に関わらず、衆人環視の下、いつまでも続き、人格否定へと繋がり、当事者の、人格自体が、毀損することだ。人間の、卑しさを、見る思いとは、言い過ぎだろうか。

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6月17日(水)

 ちょっと、考えてみたら、と思う。軍事侵攻が、始まった時、世界の穀倉地帯が、焼け野原になり、食糧不足が、起きると報じた。爆撃が、始まった時、世界の石油基地が、紛争に巻き込まれ、原油不足が、起きると報じた。で、結果は、どうなったろうか。皆が、飢えに苦しみ、凍えただろうか。
 悲観論者にとり、真に、都合のいいことが、立て続けに、起きている。材料に、事欠かないとは、まさに、この状況を言う、とさえ、思えてくる。それに加え、どちらの紛争でも、今の農業にとり、死活問題へと、結び付く、肥料不足が、起きたと報じる。最後の問題は、効率的な、農業の確立に、不可欠なもの、とされるが、一方で、人工的なものとして、一部の人々に、忌み嫌われる話だ。にも拘らず、大ごとのように、扱われるのは、まさに、資本主義の時代、当然の成り行き、なのだろう。だが、どれもこれも、死活問題とは、言い難い、展開が、その後続いており、あれは、狼少年の物語と、同じことだろうか、などと思えてくる。警告を発すれば、それに対して、対策が講じられ、障害を、未然に取り除くことが、できると言われるが、今の展開を眺める限り、とても、そんなことは、言えない程に、下劣な情報操作と、一部の収益獲得ばかりが、目立っている。警告は、単純に、値上げの根拠となり、あろうがなかろうが、そんなことには、無関係に、流通を含め、それらの製品を、扱う人々の、収益獲得へと、繋がってきた。それこそが、需要と供給による、資本主義の姿、と見るのは、各人の勝手だが、現実は、全く異なり、どこにも、不足はなく、どこにも、困り果てた人は、出ていない。それでも、対策が、功を奏したとして、自慢げに、触れ回るのは、どうしたものか、とさえ、思えてくる。経済の理論とは、単に、嘘を塗り固めた、虚像の姿であり、そこには、実体も、実態も、何もなく、誰かが、組み立てた、張りぼてに過ぎない。それに、加担しているのが、情報を伝達する、役目を追う組織と、人々であり、今では、その他大勢も、社会媒体を介して、せっせと、嘘をばら撒き続ける。悲鳴を上げれば、救いの手が、差し伸べられる、という図式も、この茶番劇に、不可欠な要素で、そこへの加担も、重要な役回りだ。ま、そんなもの、ということで、騒ぎが、収まるのを、待つしかない、のだろう。

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6月16日(火)

 何度目の正直か、合意との報道に、多分、皆の疑いは、解けていないだろう。まあ、海千山千の争いに、二つだけでなく、もう一つの勢力が、加わっているだけに、解決への道は、近くはない、と思える。その中で、資源枯渇の話は、どうなったのか。誰にも、分からぬ。
 で、この国では、資源不足ではなく、そこから、産み出される、原材料の枯渇が、深刻化している、と言われる。でも、庶民の目からすると、今回もまた、一時の儲けに走る、不埒な連中の、思惑の表れ、と映るのだが、どうだろうか。米騒動でも、様々に、憶測が飛び交った。不足から、枯渇へと、話が移る中、行き詰まったのか、遂には、政府の調査自体が、誤っていた、という結論まで、飛び出す始末だったが、今になって、米余りが、深刻な問題として、取り上げられ、あの話は、何だったのか、などと言い出す始末。こんな調子の、大衆媒体なのか、マスゴミなのか、信頼に値しない連中が、今回の騒動にも、加担している。その手法は、いつもと同じで、何度、騙されたら、気が済むのか、と思うのだが、当人達は、大真面目で、買い占めに、走り回り、窮状を、叫び続ける。だが、末端でさえ、買い占めを、唯一の手立て、と見る程なのに、何故、流通の中途で、同じことが、起きぬと思うのか、不思議で、仕方がない。爆撃が、始まった時、あっという間に、燃料の値上げが、報じられた時、首を傾げたのに、同じ嘘で、騙されるのは、知恵が足りないのか。漸く、話題になり始めたのは、価格操作が、報じられた時に、問屋などの段階で、買い占めに、走った所があった、という話であり、それが原因で、末端の店の棚から、全てが、消えてしまった、とされる。だが、それとて、それを防げぬのは、政府の責任、などと言い出す始末では、如何ともし難い。儲け話に、群がる人々が、こういう行動に、出てくるのは、常道であり、それにより、一時の儲けに、ありつくだろうが、それが、信頼を失い、次の商売では、損をするのが、常ではないか。と、考えれば、この騒動も、対岸の火事、でしかない。

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6月15日(月)

 人工知能が、脅威となったのは、盤上の競技だろう。実力が、伴わぬ時代には、誰も、見向きも、しなかったが、徐々に、力が蓄積されると、その速度が、武器となり、実力者さえも、凌駕するように、なったと言われる。確かに、そうかもだが、かなりおかしいと思う。
 今の時代に、そんなことを書くと、無知との指摘が、飛んできそうだ。どの盤上競技でも、実力者が、敗退したとの報道は、誰もが知る所だ。でも、と思うのは、彼ら実力者達は、人間との戦いで、力を見せてきて、速度優先の、機械を相手にしたことは、殆ど無い。心理戦、というと、語弊があるかもだが、実力拮抗の中、心理的な揺さぶりが、効果を上げることも、あると聞く。将棋の世界では、嘗て、絶対王者と呼ばれた存在は、意外な手を、指すことで、知られていた。一人は、その勢いで、当時の全冠制覇を成し、もう一人も、同様の成果を上げた。でも、その後は、徐々に失い、絶対的な存在、とは呼べなくなった。それは、結局、彼らの戦略が、対戦相手に、通じ難くなった、結果と思える。これらの競技では、唯一無二の勝利手筋が、存在する訳でなく、対戦相手との、遣り取りの結果、勝敗が決する。この点は、仮令、人工知能でも、同じことであり、最善手の繰り返しで、勝利を得ることに、変わりはない。だから、相手の出方次第で、こちらの手も、変わることとなる。となれば、人間相手に、通用した戦略が、機械にも通じる、とは限らない。逆に、機械だからこそ、通じるものが、あっても不思議はない、と思う。これが、脅威として、恐れるだけでは、と思う理由だ。そこで、最近の生成人工知能が、万能かの如く、評価される中、各企業の仕組みの、脆弱性が、攻撃対象となる、との話が、紹介される。が、これ、例の如くの、不安を煽る話、でしかないと思う。もし、そんなものが、存在するなら、さっさと、自分達で、その欠陥を見つけ出し、対処すればいい、だけのことだ。何を、大ごとのように、取り上げるのか、と思う。それこそ、開発者や開発企業の、思う壺なのでは、とも。高を括る、のは幾ら何でも、だろうが、過剰に恐れるのは、却って、損失を被るからだ、あの競技のように。

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6月14日(日)

 不幸話も、差別の問題や、制度や権力の問題に、すれば、如何にも、筋が通ったものに、映るらしい。社会媒体で、そんなものが、盛んに、取り上げられるのは、本質的な部分に、目を向けると、単に、他人事だから、だったり、責任転嫁として、だったりする。つまらぬことだ。
 そのくせ、こういった意見の多くは、大上段に構えて、何かを、ぶった斬るような、雰囲気を漂わせ、それに乗じて、下らぬ意見を、添える人々も、中身の無い話を、実しやかに、語っている。これらの媒体が、無駄ではないか、と揶揄されるのも、この類の人々が、巣食っていて、蠢いているからで、相手にするのも、無駄と断じる、意見も多くある。だが、今の社会媒体の仕組みは、これらの意見を、取捨選択することなく、と言うより、作為的に、それらの意見を、優先的に掲げている、としか思えぬ。この問題の本質は、下世話な話ほど、耳目を集め、媒体の優先順位は、以前の検索の仕組み同様に、下劣な心の持ち主が、関わった意見程、同じ水準の人間にとり、興味が湧き、目を向けることで、決まっている、という点にある。下らぬなら、相手にせずに、無視し続ければ、と言われるが、それが、可能とはならぬ、仕組みの、頑なとしか言えぬ、大欠点となっており、一人の参加者が、自身の判断で、変更できるものでは、ないことにある。この状況では、悪貨が悪貨を、産み出すことにしか、ならずに、それこそ、悪化の一途を、辿ることとなる。それでも、様々な魅力が、劣悪なる人間を、誘き寄せて、水準低下の勢いを、増し続ける。どうすれば、いいのか、と戸惑うこと頻りだが、かと言って、真っ当な意見を、書き連ね、誤った意見を、否定し続ける人が、実は、かなりの数に、上るのだが、彼らの行為が、功を奏することは、殆ど無い。これもまた、仕組みの問題で、ほんの一握りが、浄化を心がけても、その後を、追いかけるように、馬鹿げた意見を、山のように、投げ込む人の数は、まさに、多勢に無勢を、表すものとなる。で、別の形で、個人的に、管理できる媒体で、警告を、発する人も居るが、それも、焼け石に水、といった感しかない。ま、所詮、その程度のことが、仮想空間で、盛んに起きており、誰も、消し去ることが、できぬのだ。そんなことを、思いつつ、日々、表示される、愚かな意見を、無視し続ける。

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6月13日(土)

 何故、人は、他人の不幸話を、喜ぶのか。確かに、蜜の味、とも言われるが、それにしても、囀り界隈では、そんなことで、花盛りになり、皆が、競い合って、不幸の程度を、言い争う。多分、勝ち組負け組、の考えも、背景にあるのだろうが、蜜の味の逸話からは、もっと昔のことだ。
 人間は、所詮、絶対的な指標を、持ち合わせておらず、また、その尺度で、物事を測ることも、できない。だから、相対的な比較が、単純で分かり易い、ものと見做され、せっせと、比較対象を、掘り出す訳だ。だが、その場合にも、より高いものを、見つけ出すより、低いものを、せっせと見つけ出し、その度合いを、競い合うことに、精を出すようだ。何故、と思うのは、庶民的な感覚ではなく、おそらく、高みから、眺める気分であり、底辺で、蠢くことを、意識する人間には、理解できそうにない。それより、自分より下の、人間を発見し、その悲惨さを、揶揄することこそが、第一の目標となり、それが、満足感を得る、唯一の方法となる。情けない、の一言で、片付けようと思えば、できるには違いないが、それもまた、何の意味も、持たないものだ。だったら、どうすれば、いいのだろうか。他人のことなど、目もくれず、ただ、自分の可能性を、広げることに、専念すればいい。簡単な、ことではないか。なのに、何故、囀り界隈には、そういう人が、出てこないのか。実は、確かに、そういう存在が、居るには居るのだ。にも拘らず、それが、目立たぬ存在に、終わっているのは、その他大勢が、挙って、不幸に目を向け、それぞれの成長を、無視し続けるからだ。こんな無駄は、他に無い、と思うのだが、世の中は、そんな風には、流れていない。兎にも角にも、上下関係を、詳らかにして、その上で、自分の立ち位置より、自分より下に、ある存在へと、目を向ける。それが、安心感に、繋がることで、自分を、安全な場所に、置くことができる。何とも言えぬ、違和感に、満ちた状態だが、当人達には、そうは見えない。それより、何より、不幸を見つけたい。ああ、どうでもいいことだ。

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6月12日(金)

 賃金は、何に対するものか。労働への対価、という理解が、一般的だろう。となると、学生の身分に対し、賃金が、支払われるとしたら、その労働とは、となる。確かに、学生実習の、補助として働く場合、それは、その学生には、自分の利益ではなく、他人の利益の為のものだ。
 だから、TAと呼ばれる、立場においては、謝金が出されている。これは、海の向こうも、同様の仕組みだが、ずっと昔には、その為の原資がなく、タダ働き、と言われていた。これだけに、限ったことなら、何かを学ぶ過程で、収入を得ることも、当然に思える。だが、給与、賃金、という形で、一定の収入を、確保する話となると、別に思える。特に、博士課程の学生は、自身を磨き、将来への展望を、開く為に、日々研鑽しており、それは、あくまでも、自身の為でしかない。その過程で、手に入れた業績は、確かに、学界の、共通財産、時には、人類の、などと大袈裟な、表現も聞かれるが、その手のものとなるが、それでも、それに対する、報酬は、働き場所を、与えるという形でしか、支払われない。この考えの、何処がおかしいのか、最近の囀りでは、極端な意見のみが、共感を呼ぶだけで、真っ当な意見は、無視されたり、炎上したりして、非常識と、片付けられる。だが、教えを乞う間、誰が、得をするのか、と考えれば、その答えは、明白なもので、その人間自身でしかない。その結果として、この人物が、他を教える立場に、身を置けるように、なった時に、初めて、他人の利益、が出てくる訳だ。こういう流れと循環で、これまでの、大学の役割が、果たされてきたが、今は、随分と違う、考え方が、当然の如く、語られている。確かに、何故、指導教員の、指示の下に、研究を行うのに、タダ働きを、せねばならぬのか、と思うのだろうが、これを、労働と見ること自体が、誤りである、としか思えぬ。人から、何かを教わり、その過程で、鍛錬を積むのは、人材育成において、当然の事柄であり、それを経て、初めて、自立が可能となり、自身で考え、動くことが、できるようになる。その過程を、労働と見做し、対価を支払う、という考えには、納得できる筈がない。

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6月11日(木)

 学費無償化、なる話が、まるで、当たり前のことの如く、扱われるようになり、久しい。だが、その根底にある、考え方には、多くの異論がある。例えば、諸外国が、という話を、引き合いに出しつつ、高等教育までも、無償にすべき、との主張があるが、これも。
 的外れの権化で、呆れるしかない。教育の本質は、人材育成にあり、学問のすすめ、を著した人も、平等ばかりに、目を向ける人が多いが、実際には、役割分担をも、含めた上での、人材育成を、説いていた。その意味で、この国では、義務教育期間が、それにあたるもので、だからこそ、学費無償が、給食費などの、一部の経費を除き、実施されている。だが、人間として、最低限の教養を、確保する為に、という期間は、この9年に、限定されており、その間に、学び方を含め、人として、生きる為の術を、身につけるものとする。で、その後に続く、高校大学に関しては、人それぞれの、判断に従い、学びを続けることが、できるように、用意されたもので、選択によるもの、という意味で、無償である必要は、全く無いと思う。それを、無償化したい、と願う声の多くは、貧困を理由とし、機会均等を、訴えている。だが、もし、その必要があるなら、個別に、審査をした上で、扱いを変えれば、いいだけのことだ。全体を、無償とする考えには、全く頷けない。この話は、これで、十分な説明、と言えるのでは。一方、この議論より、少し前の頃から、高等教育において、専門家育成に、必要となる段階での、学費無償化が、取り沙汰されていた。大学院の、修士課程については、全ての職業での、必要知識を、授ける段階と見做され、個人の利益を、優先する考えから、外されたようだが、その後に続く、博士課程では、進学者が、激減しており、定員なるものも、あってなきが如し、と言われる始末で、大学以降の就学期間が、9年にも及ぶことから、資金不足を、訴える声も多い。そこで、無償にする、と判断した大学も、あると聞くが、一部に限られている。これもまた、個人の利益、とする考えが、残るからだろうが、どうだろうか。そこに、最近、給与支給を、との企てが、監督官庁から、発表されたとされ、物議を醸す。基本的には、学ぶことが、主体である時期に、働くことへの、報酬を与えるのは、筋違いと思うが、どうか。こちらも、今でも、何らかの形で、報酬を与える所も、あると聞く。それは、個別の判断で、労働と見做すのであれば、対価を支払う必要がある。が、これもまた、全てに、となるのは、おかしなことだ。ここでも、貧困ばかりに、目が向くのも、この国の病気なのでは、と思う。

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6月10日(水)

 もう随分、時間が経った、ような気もするが、遂に、書類送検だと、報じられていた。当初から、摩訶不思議な状況で、誰がどのように、関与したのか、依然として、全く見えぬ中、警察は、粛々と、手続きを進めた、ということか。ただ、起訴を求めぬ、とは何か。
 何れにしても、家庭内の出来事が、これ程までに、大きく扱われるのは、今の世の中の、典型と言えそう。実社会では、隣家で、何が起きようが、隣人が、死に瀕しようが、知らぬ存ぜぬ、となって久しいのに、何故か、仮想空間では、せっせと、口を出し、同調者を集めて、叫び続ける。それより、隣の子が、危ないことを、しているのを、叱ってみたら、と思うが、親が、反論してくるのに、面倒を、感じるからか。どうにも、息苦しさばかりが、目立つ時代なのだが、さて、どうしたら、こういう問題が、解決するのか、答えは、一向に、見えてこない。それより、報道が、先頭に立ち、煽り続ける中、有名無名に、無関係に、社会媒体で、誰かの過ちを、せっせと掲げて、制裁を与えようとする。集団リンチは、嘗ての、西部劇で、よく見られたことで、その後も、この国でも、活動家が、内部の啀み合いの、結果として、殺人に至るなど、古今東西、こういった、独り善がりは、止むことなく、時に、過激化する程だ。で、今回の顛末は、これで、幕引きとなるのか、そうは思えぬ。週刊誌報道が、直後に、印刷物として、売られたことを、含めて、この世の中の、他人への、厳しい視線は、止むことなく、過剰になり続け、自分で、自分の首を、絞めることとなる。誰も、反省することなく、他人の責任ばかりに、目が向くことが、続く中、さて、自身の行状について、何か、感じることは、無いのだろうか。他人事の如く、書いてきたが、同じことが、自分自身にも、向くと思いつつ、でも、こういう場も含め、なるべく、自分ごととして、考えるように、していきたいもの、と思う。

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6月9日(火)

 仮想空間だから、話が通じない、と書いた。だが、実際には、皆が経験するように、面と向かっても、通じない相手が居る、という事実もある。何を話しても、反論が飛び出し、時に、罵倒される。年齢差があれば、それは、更に酷くなり、徹底的に、叩かれるのだ。
 こんなことが、起きるからこそ、パワハラなる言葉が、当然のものとして、皆に使われるようになった。なので、仮想空間に限ったことではなく、実空間でも、こういう迷惑千万は、数多ある、と言われるのだ。ただ、実在のものと、仮想のものでは、対応が大きく異なる。実在は、実被害を受けるが、その代わり、訴えることができ、相手を、社会から、抹殺することさえ、可能と言われる。それに対し、仮想では、匿名であることもあり、訴えるにも、煩わしい手続きが、必要となり、多くの場合、泣き寝入りではなく、単に、無視する、という手段に出る。確かに、執拗な相手では、単純な無視では、通用せずに、追いかけられるから、時に、自分自身の存在を、一旦消すことから始め、その後に、復活するやり方が、よく使われる。それでも、根に持つ人間には、通用せずに、あらゆる手段を講じて、見つけ出そうとする。そこまで行けば、まずは、訴えるしか、方法は残っておらず、となれば、徹底抗戦となり、前の例と同様に、抹殺するしか、手が無い。にしても、何故、そんな心理に、縛られるのか、加害者の気持ちを、理解することは、殆ど無理のようだ。訴訟の段階で、もう少し、これらの点を、明らかにして欲しい、と思うことがあるが、殺人を犯した人間と、何ら変わらぬ状況で、その場での、自身の心理を、説明できぬ人が、大部分のようだ。だとしたら、残る手段は、事件が起きた時に、重罪同様に、厳しく罰することしか、無いのでは。その為には、厳密な定義が、必要となるかもだが、まずは、決めてみては、と思う。そうなると、愉快や快感で、そんな不埒な行為を、繰り返した人間も、同じように、罰せられる。それは、行き過ぎ、と思うかもだが、そうだろうか。もう、ここまできたら、一度、極端に走ってみるのも、一つと思うのだが。

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6月8日(月)

 話が通じない、と思ったことは、無いだろうか。そんなことを、今更、尋ねて何となる、と言われそうだが、日々刻々、そんなことが、囀りの世界では、起きている。自分の主張が、通らないというのは、今に始まったことでなく、古今東西、起きてきたことで、特に、世代の断絶は、深刻だ。
 実世界で、対面では、立場や地位の違いも、反映されるが、社会媒体の、仮想空間では、匿名性の確保から、何処の誰かが、特定されぬまま、多くの会話が、進められる。その中で、実名で、書き込む人には、強い違和感が、抱かれているが、匿名の人々には、そんなことは、理解できない。その上、相手をすると、罵声を浴びせ、喧嘩腰で、突っかかってくる。人生経験が、ある人ほど、こういう場での対応は、穏やかなものだが、それをいいことに、過激な文字が、連ねられ、発言の否定どころか、人格否定と呼ばれる、禁忌にまで、事が及ぶ。本人は、自己満足しか、頭に無いだけに、書き込みに、少しでも反対されると、躍起になって、反論を書き込む訳だ。この状況は、ネット掲示板、と呼ばれるものが、世に知られてから、何の変化もなく、実社会では、誰にも、相手にされぬまま、鬱々と、日々を送ってきた人間が、水を得た魚の如く、寝る間も惜しんで、持論を展開する。だが、その多くは、独り善がりの考えで、同意が得られにくく、時に、反論があるものの、多くは、無視されるだけで、日々の生活と、何の違いも無い。だが、その中で、時に、老婆心からか、指摘や助言を、書き込んで、相手をする人が、登場することがある。途端に、過剰とも思える、反応が、繰り返されるが、これらの遣り取りの多くは、そのまま、沙汰止みとなる。その結果は、かの人物には、勝利と映るらしく、次の標的を、探す為に、仮想空間を、彷徨い続ける。ある意味、無駄でしか、ないものと思うが、これもまた、以前の掲示板と、同じと見るしかない。要するに、この類の人々の存在は、消すことが、決してできない、ものなのだろう。では、皆で無視して、消えるのを、待つのが、いいのだろうか。否、とは思う。ので、偶に、相手をする、御節介から。

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6月7日(日)

 男女の区別、に関しては、話題に、事欠かないようだ。差別、とは言わずに、区別、と言っている点に、目を向けて欲しい、と思うが、渦中の人々は、そんなことには、気付く筈もなく、兎に角、そこに、歴然とした差が、あると主張する。最近は、男と女、何方が優位か、に目が向く。
 で、この話題の根元には、何があるのか。世界的な調査で、男と女で、何らかの差がある、との結果が、報告されている。特に、この国にとり、不利に働くのは、何が何でも、同じ扱いであるべき、との考え方が、世界を覆っているからだ。いや、男女には、能力の差が無いのは、歴然としている。との主張が、間違いだとは、誰も思っていない。なのに、そこに、違いが出てくるのは、差別意識が、横たわっているから、との主張がある訳だ。その前に、いつものことだが、一つだけ、確かな違いに、目を向けておく。出産能力は、女性の大多数が、有しているのに、男性は、誰一人として、有していない。これだけは、生物学的な差異、として、歴然としたものだ。ただ、子を有してから、後については、時と場合により、千差万別状態となる。家庭の事情、と言って仕舞えば、その通りなのだが、それだけでは、片付けられず、社会制度の問題や、宗教による違いも、時に、紹介される。ただ、この点については、正解が無い、と言うべきだろう。子育ての、役割分担には、様々な形があり、こうすべき、との絶対手法が、ある訳ではない。しかし、今の時代は、女の役割、と断じても、男が加わるべき、と断じても、都合の良し悪しが、様々にある。少し付け加えれば、子供にとり、どれが、最適かなどと、論じてみても、結論には、至らないものだ。試してみたければ、何をやっても良いが、結果に対する、責任は、親だけが、負うべきものでも、ないだろう。で、最近の話題は、そこではなく、学習機会や就業機会における、平等感について、のようだ。一方の性別を、優遇するとの制度に、断固反対を、訴える人が、増えているようだ。それも、差別だから、との理由が、主体となっており、妥当と見る意見と、でもないとする意見が、入り乱れている。差別、を引き合いに出すのは、確かに、妥当に思えるが、何処かずれている、とも思えるだけに、これにも、結論は出そうにない。

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6月6日(土)

 何方の媒体でも、我が物顔で、のさばるには、厚顔無恥ぶりが、不可欠であることは、間違いない。それに対して、科学者の世界は、一つでも、間違いを犯せば、そのまま、その世界に、居座ることが、難しいと言われる。いや、言われた、とした方が、いいのか。
 流石に、不正が、度々起きると、そんな簡単に、事は運ばなくなる。特に、その研究集団の長が、号令一下、不正を進めた場合には、その人物が、中心となって、責任問題も、その通りに、片付けられる。しかし、下で働く人間が、不正を犯した場合には、少し、状況が複雑となる。監督責任として、全ての責任を、上に立つ人間が、負う場合もあるが、最近は、そうならず、蜥蜴の尻尾切り、となる場合が多い。特に、大きな集団を、率いていた場合、隅々にまで、目が届く訳ではなく、一人でも、上昇志向から、捏造や不正を、働いた場合には、その結果から、高評価を受ける、成果を出した場合に、その一人の責任か、はたまた、責任者が、連帯責任を、負うべきかは、事例毎に、異なると言われる。研究不正については、これまでにも、数え切れぬ程に、そんな出来事が、報告されており、不正に関わった人物は、その世界に、居続けられぬ、となる場合が多い。一方、ボスと呼ばれる、上に立つ人間は、首謀者とならぬ限り、そのまま、居座る場合が、殆どだろう。責任が、有るか無いかは、一概には、決められぬもので、調査が行われる。媒体での失敗とは、全く違うもので、その場限りの、嘘や出鱈目が、通用する筈もなく、結果的には、綿密な計画と準備が、必要となる。それだけ、罪が大きい、とも言えるが、そんな比較は、無用のものだろう。兎に角、意図的に、何らかの操作を、したのであれば、そこに、悪意や罪の意識が、当然ある訳で、弁解の余地はない。でも、そこからの、変化については、時と場合により、大きな違いが、生まれてくる。研究という、職業上の不正は、許されるものではなく、その地位を、失うのも、当然なのだが、媒体での不正は、随分違ったもの、と思われている。匿名性も、関係するが、それだけでもなく、いつの間にか、有耶無耶に、となることが、多いのだ。まあ、目くじら立てても、ということか。

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6月5日(金)

 科学者の話は、分かり難い、とよく言われる。断定的ではなく、この可能性も、あの可能性も、と並べ立てるからだ、と言われるが、本当にそうか。確かに、大震災後の、発電所事故では、安全・安心を、求める庶民に対し、煮え切らぬ論調に、批判が集中していた。
 そこに、問題がある、との主張があるが、実は、そんなご都合主義に、惑わされる、愚かな民にこそ、問題があるのでは。事故に対して、批判的な論調が、高まると共に、如何に、危険かを、滔々と並べ立てる、専門家と称する、贋者が、跋扈したのも、あの騒動の最中だった。彼らの並べる、科学的な証拠は、ほぼ全てが、嘘でしかなく、専門的知識さえあれば、いとも容易く、論破できた。しかし、それを、重用したのは、一部の大衆媒体であり、媒体自身が、煽ることだけを、目的としたから、逆に、汚染された、と報道した、葉物を、子と共に、有り難く食べる、と宣言した、本物の科学者は、二度と呼ばれず、ご都合主義が、露呈していた。確率的に、話を進めることが、科学者の論法であり、どの事象も、起きる確率は、全然無いを表す、0でもなく、絶対起きるを表す、1でもない。だから、どっち付かずだ、と受け取るのは、物事を、論理的に、考えられぬ、愚か者となる。だが、彼らに寄り添い、騒ぎを、大きくしたいだけの、大衆媒体は、兎に角、不確実な話ではなく、確実な話に飛び付くが、そこで、都合の良し悪しが、登場してくる。今更、何を書いても、始まらぬことだが、同様の論調が、社会媒体でも、盛んに使われ、論争相手を、罵倒する場面でも、罵る材料となる。だが、根拠が薄弱で、時に、嘘でしかないことを、材料とする場合には、媒体の中での、信頼を失う筈だが、どうも、そうはならぬようだ。そこに、何方の媒体でも、大きな問題とされる、瑕疵がある。仲間内だけに、通用する、身勝手な論法が、押し通され、仮令、それが論破されても、どこ吹く風と、知らぬ存ぜぬを、押し通せば、何事も無かったかの如く、再び、罵倒できるようになる。これ程、都合のいい世界は、ない。だが、こんなことが、通用する社会は、瓦解するしか、道が無い、と思う。

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6月4日(木)

 昨朝、書こうと考えたのは、相場の変動だった。だが、市場が、開いた途端に、予想外の動きが、始まることで、書き難くなった、と思った。ただ、実は、その動きとて、これまでの、相場の上昇に比べれば、僅かなもので、今の平均の上昇とは、比較にならぬものだ。
 書こうと思ったのは、今の宰相に、交代した頃から、始まった、平均の上昇が、相場の活況を、反映したものか、はたまた、一部の値嵩株だけが、他とは違う、動きをした結果、なのか、という点だった。相場全体を、表す指標は、別に示されており、そちらは、上がるには、上がっているものの、大した数値には、なっていない。では、何故、平均と呼ばれる、数値が、異常な程の上昇を、示しているのか。答えは簡単で、その算出に関係する、企業の株価が、目立って上昇したからだ。その中でも、ごく一部の銘柄に、限られた現象で、だからこそ、株主とか投資家とか、呼ばれる人々の、反応は、鈍いものとなっている。このサイトに、関わりを持った頃から、ずっと、投資を続けているが、今回の上昇では、前半は、同じような動きを、呈することで、急激に、資産が増え続けた。しかし、年が明けた頃から、様相は、徐々に変わり始め、以前の値からは、程遠い水準に、留まっている。理由は、上に書いた通り、相場変動を、示す指標として、使われるものに、保有株の銘柄が、採用されておらず、蚊帳の外に、置かれているからだ。それでも、昨日は、概ね上げていた。で、書き難いな、と思ったのだが、資産は、期待程には、膨らまずに、相変わらずの低迷を、続けている。今の世界的な活況は、どの国においても、同じような状況にあり、地道な運用で、参加する人間には、概ね、大した影響が、及んでいない、と思われる。では、このまま、蚊帳の外に、置かれ続けるのか。さて、どうだろうか。不安ばかりが、膨らむ中で、期待とは異なる、動きを続ける相場は、今後、どう動くのか。誰にも、分からぬ話か、それとも、徐々にでも、上昇へと結び付くか。どうなるにしても、地道に、しかないのだが。

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6月3日(水)

 誰が、嘘を吐いているのか、と考えるのが、普通だと思うのだが、どうしたものか。今回は、例の爆撃から、地域の流通経路への、不安に端を発して、供給自体への、懸念が表面化して、そこから、様々な問題が、表面化した、ということに、なっている筈、ではないのか。
 だが、その遣り取りの中で、報道が、盛んに、煽り立てるように、原材料不足が、そこから産み出される、様々な製品の、品不足へと、繋がるとされる。確かに、店の棚から、品物が、姿を消して、現実のものと、なっている、と伝えられる。だが、その一方で、政府は、宰相を始めとして、担当大臣までもが、一つ一つの供給量の、変遷を明言し、何処にも、品不足の兆候は、見られぬものと、断言した後に、報道姿勢への苦言を、付け加えた。そのまま、伝えることは、伝えたのだが、まだ、不足は事実、と報じ続けるのに、誰が、嘘吐きなのか、と思うのが、普通の考えと思う。だが、報道は、この期に及んでも、事実を伝えている、との姿勢を崩さぬ。要するに、ここでの嘘吐きは、流通過程の、何処かの段階が、出し惜しみを続け、品不足と叫んでいるか、あるいは、調査をした上で、不足は無い、と明言した政府関係者か、何方か、と見るべきと思える。ただ、流通関係者は、一つ、大きな失態を、犯しているので、不利な情勢だ。それは、爆撃直後に、供給不安からか、突然の値上げを、表明したことで、供給量の変化に、兆しさえ見えぬ中、そんな行為に、信頼は、地に堕ちたと見える。一方、その後も含め、供給源の工面や、備蓄の放出など、対策を、講じ続ける政府には、普段よりは、信頼の声が、強まり続ける。政治家は、嘘吐きの代表、と見る話は、これまでに、何度も聞いたことだが、今回の話は、別なのかも、と見る向きもある。ただ、同じように、流通の問題として、取り上げられた、米騒動でも、供給不足の指摘が、あったのだが、それとて、不足分と、値上げの関連は、弱いと思える。政治家の嘘には、何らかの思惑があり、国の安定も含め、重大だったとの解釈が、これまでにもあったが、流通業者の嘘には、単に私服を肥やすのみで、私利私欲の塊、としか見えぬ。さて、今度は、どんな話になるのやら。

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6月2日(火)

 本の感想でも、書いたことだが、今の世の中、他人の責任に対して、厳し過ぎる、と思う。特に、囀りなどの、社会媒体界隈では、相手の顔が、見えないことを、いいことにして、言いたい放題どころか、人格否定を始めとした、完全否定の姿勢が、目立つと感じる。
 その一方で、自身の権利に関しては、何と寛容なことか。全ての要求が、当然の如く、押し通せるとでも、信じているのか。そこまで、要求するか、と思えることが、屡々ある。こちらは、弱者が、典型の役柄であり、責任云々は、強者が、典型の役柄となる。この二極化が、何故起きるのか、それ自体も、摩訶不思議ではあるが、どちらの立場にしても、それぞれが、どんなものかを、想像できないからこそ、好き勝手な言い草が、書き連ねられる、のではないか、と思う。想像力の欠如は、今や、大きな問題となり、相互理解も、ほぼ不可能となる。互いに、理解できないのに、立場に見合う、考え方をすべき、などという話は、通じる筈も無い。だから、無駄なのだ、と切り捨てるのは、自由なのだが、媒体を通じて、他人を、貶める行為に、耽る人々には、どんな考えがあるのか、想像もつかぬ。こちらは、想像力の欠如、ではないと、思うのだが、今や、多勢に無勢の如く、そちらの方が、常識と化している、のかも知れぬ。もし、そうだとしたら、今、ここに書いていることは、何と下らぬ、誰にも通じぬ、与太話でしかない、となるだろう。それは、ある程度、致し方の無い所として、もう少し、踏み込んで、考えてみては、どうかと思う。自己中心的で、被害妄想的な、心の持ち主が、蠢く世界の中で、自分が、どうあるべきかを、自身に、問いかけても、何も始まらぬ、と思うか、はたまた、馬鹿げた騒ぎを、横目にしながら、自分自身は、と考えることで、少しは、身の回りが、綺麗になると、考えるべきか。答えは、何処にも無い。だが、他人に厳しく、自分に優しい、そんな人間ばかりで、社会の仕組みが、回る筈もない。だとしたら、少しでも、動くように、手を貸してみては、どうだろう。

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6月1日(月)

 戦争責任は、確かに、重いものだが、誰が、どう取るべきか、との話になった途端に、他人事のように、振る舞うのは、如何なものか。ただ、虐殺事件や、爆撃等による大量殺戮など、個々の問題で、考え方は、それぞれとなり、一様の結論には、至らないのが、当然では。
 戦争自体は、始めた人間に、最大の責任が、あるとの意見も、その通りなのだが、合議だった場合、その結論を導いた、会議の参加者全員の責任か、はたまた、それを導いた人間が、負うべきものか、などについても、一概には、言えないとされる。一方で、最近の軍事侵攻やら、紛争地域での、突然の攻撃やら、これらの場合には、時の、国の権力者が、下した命令に、基づくものであり、責任の所在は、明らかと言われる。でも、と思うのは、このような例でさえ、そこに至る道筋で、その結論に繋がる要素は、どうだったのか、などについて、後年、検討されると、別の解釈が出て来て、ある意味、驚かされる。今、この時に、彼らの責任、との結論が、出ているにも関わらず、その決断に、影響した事柄が、詳らかになると、一個人の責任ではなく、もっと多くの人々の、関わりがある、とされる訳だ。軍事侵攻では、直後から、攻め込まれた国が、他国との関係を、変え始めたことが、端緒となった、と言われたが、間接的なものを、含めれば、きりが無くなる。紛争地域も、長く続いた睨み合いに、最終決断は、爆撃を決めた、二つの国の長に、責任があるのは、当然だが、そこに至った、攻撃された国の、長年に渡る、核兵器開発の、歴史に加え、一つの国と、敵対する地域での、ゲリラ活動への支援が、強く影響した、と既に言われている。単純に、思えたものが、複雑に入り組んだ、関係の末、との見方がなされると、国際関係が、二国間の問題だけでなく、多数の国や地域や、人々までも、含めた問題から、成立することが、見えてくるが、だからこそ、単純な解決法が、ある訳ではなく、絡んだ問題を、どう解きほぐすかが、肝心に思える。となれば、あの暴君が、自慢げに語ったことなど、成し遂げられる、筈もないことに、気付けるのでは。まだ、暫く、様子見が必要で、一旦、解決を見ても、火種は、燻り続ける、と見るべきか。

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5月31日(日)

 読む本は、新聞書評を頼りに、探し出し、本屋に注文を出す。子供の頃から、立ち読みの習慣はなく、図書館にも、本屋にも、縁遠い生活を、してきた。大学時代、出版された、乱歩全集を、毎月買い続けたが、結局、最終配本まで続かず、例の如く、完成せぬままだ。
 とはいえ、仕事上の問題から、時間を潰す必要が、出てきた頃から、乱読を始めた。積読は、なるべくせずに、買った本は、全て読むことに、している。その後、独り言を、書き始めてから、読んだ本として、毎月、紹介し始めた。今月は、偶々だが、主題が似た本、と言っても、小説と記録という、全く異なる、範疇のものだが、先の大戦に関わる、責任の所在と、それに関わる人物を、描いたものを、二冊読んだ。前者は、解説によれば、著者自身の、父親の記録に、基づくものらしいが、戦犯として、逃亡を続けた人間の、心の機微を、綴ったものだが、中で、戦争責任に触れる、部分が、度々出てくる。今や、象徴となった、人間の責任も、軍の幹部達の責任も、力関係や、その他諸々の、関係から、有耶無耶に、処理されたのに、対して、一部の幹部と、下級軍人らが、厳しい処分を、下されたことへの、不条理が、綴られていた。新聞等の、報道に対しても、厳しい目が、向けられたが、何処か、弱者への目が、際立つ感覚が残った。後者は、ある参謀の、戦中から抑留期の、歩んだ道筋と、戦後処理と呼ばれた、占領国への、賠償に関わる、国家事業への、深い関わりに、光を当てたものだが、記録として、強い偏りが、感じられ、客観的とは、思えぬ内容に、強い違和感を、覚えた。そこでも、責任問題と、それへの反映として、無責任な、戦後処理への、関わり方への、強い批判が、綴られていたが、過剰な拘りが、偏見や、非論理的な解釈へと、結び付く様に、自らの、戦争への関与と併せ、正当化という、独特な手法が、潜む気配を、感じるばかりだった。戦争反対は、誰もが、主張するものだが、その背景として、こういう反省を、持ち出す心持ちには、実は、責任転嫁と、弱者保護の、考えが、横たわる。どうにも、受け入れ難いもの、と思えてくる。

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5月30日(土)

 半世紀程前にも、同じような危機の話が起き、市民が、店に押し寄せ、紙製品の棚に、殺到していた。あの時も、風が吹けば、との図式に、首を傾げた人が、多かったが、騒動は、あっという間に、国中に広がり、物不足から、物価高騰へと移り、更には、不況へと移った。
 あの時も、騒動を広げたのは、大衆媒体である、新聞やテレビだった。騒動を、映した画像を、紹介すれば、それだけで、不安が募り、店へと走る。群集心理を、そのまま、反映させた現象に、驚く人が、居たのだが、彼らとて、対岸の火事を、眺める気分では、居られぬまま、列に並んだという。そこには、論理も、分析も、一切無いままに、不安という、正体不明のものに、人が、追い詰められる、そんな心理現象が、あった。今回は、どうか。同じ図式だが、半世紀前とは、大きく異なる、部分がある。それは、物不足から、騒動が起きる、という形ではなく、物不足を、装う形で、買い占めや供給不足を、起こすことで、混乱を広げる、ということに、目が向いている、という部分だ。流通過程の、何処かが、そういう操作を、行うことで、物価高騰を招き、その利を掠め取る、という儲け話は、つい先日の、米騒動でも起きた。今、その後始末とも、言える形での、供給過剰と物余りが、起き始めることで、儲けは、損失へと、姿を変えつつある。今回のも、大衆媒体は、せっせと、不安を煽る姿勢を、続けており、その過程で、意味不明な、データ提示を、繰り返す。例えば、物価上昇について、価格の変動を、語る場合に、金額そのものではなく、変化量の提示に拘り、実態を、掴めぬように、心掛ける。同様に、製品価格の上昇も、割合として、提示することで、心理的効果を、上げようとする。例えば、今朝のニュースでは、アイスクリームの値上げを、報じていたが、13%の値上げで、その要因に、容器の値上げがある、とした。容器は、20%の値上げで、それが、今回の値上げの原因とすれば、容器代が、最終製品価格の、6割を占める、となる。いくら何でも、と思うのは当然だが、こんな数字の提示が、恰も、説明になっている、との思い込みが、誤魔化しとなる。同様に、卵価格も、最近、別の要因で、上がり続けるが、そこでも、容器代が、今回の騒動で、1.5倍になるから、と伝えていた。で、最終価格が、どうだったかは、伝えぬままで、不安心理を煽る。こんな誤魔化しが、通用するのは、国民の多くが、真面目に学ばぬ結果であり、その是正が、重要なのは、当然のことだが、その判断力が、身に付いてしまったら、愚民政治は、不可能となるから、触れてはならぬ、ことなのだろう。

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5月29日(金)

 社会媒体は、所詮、下らないもの、と断じてもいいし、一部の人間が、不平不満の捌け口として、有る事無い事、書き連ねる場であり、存在価値さえ、認められぬ、としてもいい。それは、飽く迄、受け手の問題で、自身で、判断すれば、済むことなのだが、一方で、金銭的な損失は、とも思う。
 ただ、今回の、家庭内暴力の問題で、意外と、まともな意見が、掲げられたり、理不尽な処分に、反対の声が、上がる点に、見直した、との意見もあるらしい。だが、無駄は、無駄であり、半減期の問題で、意味不明、理解不能な主張を、滔々と述べる人間が、巣食う世界には、やはり、制限が必要、との意見も出る。ただ、少し前から、参加した人間には、真っ当で、論理的な意見を、掲げたとしても、何の反応も、示さぬ人々、特に、こちらが、返信として、掲げた意見に、反応しない発言者には、どうしたことか、と思うこと頻りだ。ここ数日も、最近の若者の傾向に対し、掲げられた書き込みに、次のような返信を、送ってみたが、反応は鈍いか、全く無い。一つは、「生徒が先生に慣れているでしょうから、心配ないかもですが、最近の生徒、学生は正答は何か、を気にすると聞きます。先生を納得させるとは、どんな表現、どんな事柄を含むのかを示すと、生徒が納得するかも、と思います。」と書き、もう一つは、「当事者にとり「わかる」という現象が自分の中で何が起きることなのか、理解できないのでは、などと思います。大学に入るまでは正答を求めることが目標だったが、「わかる」とは何がどう起きるのか見えていない。少し別の表現では他人に説明できるとはどういうことなのかと。」と書いたのだが。前者は、ある高校教師が、「化学基礎のテスト全部記述にしました!」から、「記述なので僕が納得すればOKです(笑)」とあったものへの、返信だが、どうか。もう一つは、おそらく大学研究室で、論文紹介において、ただ、図や表を、貼り付けたものを、示すだけで、論文の中身を、和訳して読んだだけ、という書き込みへの、返信だった。どちらも、今時の生徒学生が、正答にしか、目が向かぬことへの、警鐘かと思ったのだが。子供だから、幼いから、という言い訳は、通用しない。子供の世界でも、唯一無二の答えしかない、そんな世界は、存在しないのだから。大人としての対応を、考えるべきと思う。