独り言を、読む人達には、不思議でも何でも、ないのだろうが、改めて書くと、SNSなどと呼ばれる、社会媒体は、何と役立たずなことか、と思う。囀りが、身勝手な意見の、落書き帳なのは、当然のこととして、顔本も、大差なくなり、仮令、実名で書こうとも、歪曲が著しい。
何度も、書いてきたことだから、他人から見れば、慣れているのでは、と思われるかもだが、頁を、繰っていっても、何処までも、そんな馬鹿げた文言が、続くとなると、流石に、嫌になるものだ。自分は、社会で、活躍してきて、過去形でも、現在形でも、変わらぬ地位に、あるとでも、思っているのか、上から目線で、世間は、愚かな者ばかりで、諭しても、何の役にも、立たないだろうが、それでも、正論を、ぶっておく、とでも言いたげな、態度なのだ。だが、肝心の、本人曰くの正論は、明らかに、誤解に満ちたもので、何処をどう読んでも、論理破綻ばかり、としか思えない。何故、この程度の人間が、自分は優秀で、組織内でも、活躍してきた、と思い込めたのか、不思議で、仕方ないのだ。とは言え、そんなことを書くと、お前もだ、とでも言われそうだが、さて、どうだろう。この場は、独り言であり、自分勝手な意見を、綴る場として、長年、毎日の記入を、心掛けてきた。幼少の頃から、日記なるものには、全く縁がなく、これ程に、長続きしたものは、何事にも、当てはまらないのだが、それでも、続いたのは、事実である。これ程の、膨大な量を、ぱっと、その場で書ける、とはとても思えぬ。で、その一方で、やはり、論理を保ち、じっくり読めば、分かる筈、との基本は、忘れていない。そういう気持ちで、改めて、社会媒体へ、書き殴られたものを、読んでみると、やはり不快感しか、残らない。こんな塵の山、さっさと片付けたら、と思うのだが。
不穏な空気は、何処にも、流れている。そこに居る人が、不安や心配を、口にしさえすれば、それで十分だろう。今や、そんな声を集めて、煽ることで、自分達の生業を、続ける連中は、まさに、そのお陰で、実入りがある。何事も、不穏でなければ、成り立たないのだ。
とは言え、経済状況は、踊り場なのか、今、何方に動くか、不安定な均衡の、中にあるのだろう。それを、ここ暫く続いた、活況を頼みに、将来設計を、考えるとの話が、出てきた。異常な程の、上昇を続けて、最高値更新の、報道がある中で、税を優遇される措置を、始めた人の中には、どうなるか、得体の知れぬ、公的年金という、頼りない仕組みは、さっさと無視して、資産運用に、なるべく多くの、資金を注ぎ込もうと、日々の出費を、抑えると言う。流石に、貧しい生活を、自ら強いて、将来に備えるとは、何事かと思うが、本人達は、大真面目である。知恵の足りない、人々が、さも当然の如く、滔々と語る姿に、空いた口が、塞がらないが、識者達も、五十歩百歩の状況で、分散投資の基本を、見出せないから、総白痴状態、にしか見えぬ。その中、世間は、生成人工知能の話題で、持ち切りで、相場も、その動きに従い、盛んに上下する。確かに、その威力たるや、信じ難いもの、と映るらしいが、真偽の程は、定かでない。ただ、最大の懸念が、広がるのは、教育の世界だろう。誰もが、手軽に、人工知能に尋ねれば、それなりの答えが、得られるとなれば、人間、何も学ぶ必要は無い、となるように見える。だが、現実は、それ程には、甘くないのだ。知識の泉として、機械検索が、持て囃された頃、よく似た状況に、あったと思える。でも、その後の展開は、誰も、賢くならず、単に、役立たずの道具を、手にしただけで、知恵遅れの人間には、何の変化も、起きなかった。同じことが、再び起こる、と思えるのだが、果たしてどうか。検索同様、使えない奴は、やはり、使えなかっただけで、使える奴は、やはり、使えただけなのだ。
不穏な空気が、報じられるが、それにしても、あの略奪の光景は、どうしたものか。この国でも、嘗て、そんな光景が、見られたとも伝えられ、何も特別なことは、無いと断じる人も、居るのだろうが、さてどうか。最近の、治安に関しては、絶対は無い、とも言われるが。
それにしても、物価高騰や、その他様々な問題に、適切な対処を、できない政府に対し、訴える人々が、皆、略奪に加担する、とは思えない。何を、どうしたら、あんな暴動が、起こるのか、と対岸の火事を、眺めるが如くに、思っているが、こんな不安が、政情不安へと繋がり、更に、他国へと、伝染し始めたら、世界規模の、混乱へと、至るのでは、と思う人も、居るのだろう。ただ、その中で、海の向こうも、例の如くの、出鱈目な様相を、呈し始めており、世界的な、と言いたくなるのも、無理もないこと、とさえ、思えるが、こちら側は、何とも不思議な、政局の展開が、進んでいる。確かに、先の大戦では、追い詰められた挙句に、宣戦布告へと、発展してしまったが、それまでも含め、鎖国時代が、安定していたのは、勿論のこと、幕府転覆となり、維新が起きた後も、比較的、安定な政治が、展開していた。確かに、戦時の状況は、一種独特の、狂気が漂い、破滅への道を、邁進したが、その最中も、冷ややかな態度で、眺め続けた人が、居たと聞く。この状況と、今、画面で流れる、暴動の光景を、結ぶ手立ては、無さそうに、見えるのだが、どうだろう。とは言え、今後、更なる物価上昇が、続いた挙句に、燃料不足など、大きな不安要素が、露呈したら、果たして、どこ吹く風、との態度を、維持できるのか、誰にも、判らないだろう。とは言え、今のこの状況が、いつまで続くのかも、やはり、誰にも、見えぬことだ。傍観を、続けられれば、幸いということか。
政治の低迷が、問題視され始めた。海の向こうの暴君の、不規則発言は、今に始まったこと、ではないだけに、それを、殊更に、取り上げるのは、どうかと思うが、先進各国でも、不安が広げられ、運動が盛んに、なりつつあると言う。ただ、作られた感があるのは、何故だろう。
その一方で、軍事侵攻が、いつまでも、収束しない中、企業業績は、好調を続け、相場も、最高値更新が、続く程だった。しかし、ここにきて、急激な制動が、かかったように見え、政治と共に、停滞期に、突入した、との見解も見える。その中で、物価上昇は、緩む気配も無く、金利の操作が、微妙な状況に、入ったように見える。経済という世界では、常識とされることが、沢山あるようだが、事が起きるたびに、編み出されたものだけに、確実性は、低い訳で、今回の騒動も、その一つに、後々、数えられそうな、気配が見える。人工知能が、爆発的な発展を遂げ、その関与が、企業活動に、大きな影響を、及ぼすと言われ、それが、業績好調へと、繋がるとの解釈が、相場の上げに、結び付いたのだが、ここに来て、翳りも見え始め、何ができるのか、改めて、見直す動きも、徐々にだが、見え始めた。まさか、それに合わせた訳でも、あるまいが、相場も、停滞期に入り、最高値から、かなり離れた水準が、ここ暫くの間、続いているように思える。これが、階段の踊り場、にあたるものか、はたまた、ここから、下げに転じるか、については、様々な意見があり、確実な見方は、出ていない。と言っても、相場の動きでは、上げようが下げようが、利潤追求をする人には、関係の無いことで、現物を買うか、空売りをするか、という立ち居振る舞い、次第の所がある。経済の不思議、と素人は、考えてしまうが、そうなるように、仕組まれたもので、市場原理と共に、関係者が、儲けを、掠め取る為の、仕掛けだろう。経済は、そんなものと、受け取った方が、良さそうだが、さて、政治は、どうだろう。二週間程で、海の向こうの決着は、着くだろうが、こちらにしても、どちらに出ようが、暴君の自己愛は、続くだけだ。残りの半分、どうなることか。
任期というものが、ある以上は、道半ばなのである。まだ、半分しか、終わっていない、のだが、一方で、半分も、残っている、とも言える。だが、この所の、不規則発言の数々や、朝令暮改ぶりからして、断末魔の叫び、という声さえ、聞こえてくる。どうだろうか。
暴君は、何も、海の向こうの、餓鬼大将に、限った話ではない。集中した権力を、如何様にも、行使できる、という意味では、残り二つの、大国に居座る、例の輩達も、全く同じだ。だが、大きな違いが、あるとも言える。後者二人は、任期があったとしても、既に、形骸化しており、無いも同然、となっている。それに対して、未だ、民主主義が、通用すると言われる、前者の大国では、歴とした、任期が定められ、二度目ならば、次は無い、のは明白なのだ。だからこそ、残りの半分を、どうやり過ごすかは、大した問題では、ないとも言える。だったら、もっと好き勝手に、振る舞えばいい、と思う人が、大多数だが、本人の心の中は、兎に角、名を残すことが、占めている。それも、悪名高き、という現在の状況とは、全く異なる、名誉を誇れる、そういう名に、拘っているのだ。にしても、当初から続く、暴言の数々のみならず、他の国の、主権でさえ、侵害することも、当然と考える、思考回路には、呆れるばかりだ。確かに、企業経営者であれば、自社の利益のみを、追求することが、今の資本主義の、基本と言われるが、国は、企業ではないし、国家間の関係は、利潤追求の対象、とは大きく異なる。その中で、法の支配を、無視し続ける態度に、もう誰も、口を出さなくなり、裸の王様が、素っ裸で、恥を晒し続ける。だが、まだ、国民の判断は、下されていない。すぐそこに、迫っている選挙は、どう転がるかが、まだ見えておらず、報道も、触れぬように、心掛けている、ように見える。公約は、彼の頭には、存在しない言葉だろうが、選挙中に、口走っていた、自分ならできる、との予言は、悉く、外れており、ここに来て、迷走ぶりは、強まるばかりだ。責任転嫁が、常態化する中、何方に転んでも、崩壊の一途を、辿るだろうと、思われるが、どうだろう。三極が、それぞれに、崩れ始める中、世界全体は、何処に向かうのか、誰にも分からぬが、大差無いのかも、とも思えている。
自分の資産は、自分で守る。投資の世界では、常識とされるが、半世紀程前の、高度成長期とか、泡が弾ける前とか、そんな呼び方を、する時代には、証券会社に、資産を預けて、運用は、専門家に任せる、というやり方を、していた人が、一杯居たのでは、ないだろうか。
それは、いかん、と言われ始め、売買を、促すにしても、事前確認を、怠らぬよう、とされてからは、特に、自己責任なる言葉が、業界に、飛び交うようになった。そうでなくとも、自分のものなら、自分で、責任を負う、のが当たり前、と思う人が、徐々に、増えているのだろうが、この殺し文句が、今でも、屡々聞こえるのは、やはり、現状が、そうなっておらず、お客様を、神様と呼ぶ人間が、居るからだろう。そこでも、虐めに似た、行為が、度々見られ、損失補填を、強要する動きが、見られるのも、当然なのかも、と思える。ただ、下々の者から見れば、そんな話が、通用するのは、高額の資金を、預ける人だけで、なけなしの金を、どう増やそうか、悩む庶民には、関係ない話だ。だが、それでも、否、それだからこそ、自己防衛が、不可欠と見ることが、必要となる。何かを、勧められても、簡単に、乗ってはいけない、と言われるのも、そんな事情からだ。だが、少しでも、増やしたい、と願うのも、少ないからこそ、なのだから、仕方ない。どうしたら、いいのかと、日々悩みつつ、でも、危ない橋は、渡りたくない、と思っている。これでは、一攫千金は、掴める筈のない、話にしかならない。だとしたら、ある程度の冒険を、已む無しとするか、はたまた、将来への不安を、見えぬふりを、続けるかの、何方かだろう。泡が弾けて以来、経済低迷が続き、何事にも、経費がかかる時代、となってきた。その一方で、値上げを、忌み嫌う風潮から、手取りが増えず、厳しい家計状況が、続いてきた。ただ、ここにきて、値上げの嵐が、続くようになると、当たり前の如く、何事にも、手数料が、要求され、その積み重ねが、また、価格上昇へと、結び付く。老後の不安は、これでは、解消できぬ、と思っても、さて、どうすれば、資金確保が、可能となるか。一番は、やはり、使わぬことか。最低限でも、豊かに思える生活を、送りつつ、との思いは、捨てぬように。
情報漏洩にしても、詐欺紛いの話題にしても、報道は、さも大事の如く、喧伝している。確かに、なけなしの金を、奪われた人からすれば、そんなことが、起きないのが、一番に違いなく、その為に、注意すべきことを、列挙するのが、一番に違いない。だが、今のやり方は。
本当に、その目的に、適っているのか。と、そんなことを、思い描く程に、的外れな指摘と、無垢な庶民の、感想ばかりが、流れるのを、眺めている。一体全体、何をして欲しいのか、と思う程、これらの、無垢な善人達は、不安を口にし、それが、自分を滅ぼす、程に思っている、ように演出される。確かに、老後の資金を、失うことは、一大事である。生活の糧を、失ってしまえば、どうにもならなくなり、死を迎えるしか、ないようにさえ、見えてくるのだろう。だが、今回の情報漏洩で、どんなことが、起きるのか、果たして、十分な検証が、行えているのか、と思う。そんなことを書くと、いや、最悪のことを、考えるのが、今は、一番大事なのだ、との反論が、押し寄せるだろう。でも、その最悪とは、何事なのだろうか。命が、奪われるが如くに、表現することさえ、見えてくるに従い、怪しさの方が、先に立つのだが、これは、こちらの見方が、誤っているのか。自分の情報を、奪われて、それが、悪用されたら、と考えることに、何の間違いも、無いに違いないが、でも、そこまで、起こりもしないのに、想像を巡らすのが、本当に、必要なのか、と思うのだ。守られることに、慣らされてきたから、こういう場面で、恐怖を感じるのは、当然のことだ、とする考えには、首を傾げたくなる。守るとは、確かに、保護者がいて、国があって、そういう大きな存在が、何かを、してくれる、というものだろうが、いい大人が、それも、実は、他人を守らねば、という人に限って、こういう話に、不安を隠せぬ様子を、示してくれる。困った時代、なのだろうが、さて、どうしたら、いいのだろう。これもまた、昨日同様、様子を見ようか。
詐欺だらけの世の中で、何を信じたらいいのか。今や、先送りできない、喫緊の課題、とも言われる。さて、皆さんは、どうしているのか。多分、大多数が、何もしていない、のだろう。それでは、危機回避が、できないのでは、と言われそうだが、どうだろうか。
何もしていない、との返答は、実際そうなのだから、他に、答えようがない、のだろうが、その一方で、その返答をした人の、大部分は、何をしたらいいのか、とも思っている。確かに、大小に関わらず、殆どの媒体で、問題が指摘され、手続きで、入力した情報が、大量に流出し、それが、悪用される、との懸念が伝えられ、既に、そんなことが、起きたとさえ、報じられる。自分のことは、どうだろうか、と心配になるのも、当然の状況だが、だからと言って、何をすれば、いいのか、という問題の答えは、簡単には、見つかりそうにない。そんなものに、手を出さぬよう、と、今更、心掛けたとしても、既に流出したものを、取り戻せる訳でも、取り消せる訳でも、ないからで、どうにもしようがない、としか思えないからだ。確かに、その通りであり、流出した情報が、悪用された場合、その被害を、誰が補償するか、という点に、目が向くだろう。現時点では、悪用された人には、何の責任もなく、金銭的な被害が、出たとしても、ほぼ全てが、流出させた企業や、悪用された情報を、受け付けた企業により、補償される、と言われる。だったら、何の心配もない、となるかは、これもまた、不確かなままだ。だから、何かしらの、行動をした方が、と思いたくも、なるかもだが、多分、無駄なのだろう。ここまで来ると、そういう情報を、登録しないように、するぐらいしか、防衛の方法は、ないように思える。でも、公的な記録は、避け難いものだし、そこに、至ったとしたら、と考えるのも、無理もない。ただ、今の時点では、そこまで、深刻にはなっていない。何が違うのか、と思う人も、多いだろう。役所の無責任を、批判する声は、今も昔も、変わらぬままだが、企業で、そんなことが起きるのに、役所関係が、大丈夫とは、信じ難い、と思う訳だ。理由は、定かではないが、意外に、無責任でも、無能でも、ないのかも、とも思える。暫く、様子を見てみようか。
法の支配により、裁かれるべきは、他国の主権を、侵害したからだ、と聞くと、成る程、と思える。他国の大統領を、拉致したり、政府転覆を狙って、爆撃を始めたのも、他国へ、軍事侵攻し、併合しようと、狙ったのも、暴君の暴挙として、裁かれるべきことだろう。
その点において、多くの国々から、賛同を得ている、とも思える。だが、ならず者呼ばわりを、返した国は、自分の主権が、侵害された、と断じている。この違いは、国内問題と、国際問題の、主権に関わる、設定の違い、から来ているのだろう。だとしたら、国内政治における、主権の問題ならば、妥当な意見、となるものが、上に挙げたものは、何れも、的外れ、と見るべきとなる。一方で、本来、国際機関が、目標とした、国際的な平和の、維持に関しては、現状では、どの紛争に関しても、何の手立ても、講じられず、暗礁に乗り上げ、身動きが、取れぬ事態にあることで、裁判所なる機関が、口を出すのも、已む無し、となるだろう。どちらに、軍配が上がるかは、明らかに思えるが、今の、大国の態度は、国の間のことさえ、力任せに、押し切って良い、と見る考えが、元になっている。これらの横暴を、許すべきではない、との見方から、裁判所に、賛同するのは、この国をはじめとした、多くの国々の、判断だろうが、その一方で、裁判所の役割を、逸脱している、とも見える判断には、声が上がらぬのは、どうなのか。小国の暴君として、犯罪行為の、取り締まりで、射殺も已む無し、とばかりに、力でねじ伏せよう、とした動きに対して、任期中から、厳しい批判の声が、国内外から、上がっていた。それでも、断行し続けたが、退任後に、国際手配され、今、裁判の最中、と伝えられる。この問題は、人権侵害の観点から、当然の流れ、と見る向きもあろうが、国内に限定した話であり、主権国家と見れば、主権侵害とも見える。犯罪を、糾弾することは、法の支配では、当然とは言え、内政への干渉、となるとどうか。その辺りに、この機関が、抱える問題が、潜んでいる、ようにも見えてくる。
国際機関は、機能不全に、陥っていると言われる。大戦後、主要戦勝国が、主体として、纏められた組織は、特別な権利を、保持することで、戦前の轍を踏まず、確かな制御を、行うこととした。だが、冷戦期を経て、互いに、啀み合うばかりで、解決の糸口さえ、見出せない。
組織そのものを、根本から、立て直す必要が、それ以外の国々から、盛んに、提案されるが、既得権益を、手放す気が、毛頭ない主要国は、何の結論も、導けない議論の場を、変えるつもりは、全く無いようだ。本来なら、暴走を止める、最終手段となる筈が、停滞した議論は、各地の紛争が、長引いても、一向に、解決策を、講じる気配さえ、見えてこない。強大な軍事力を、背景にした、力による支配は、批判が集中する、結果となるが、それに対して、法の支配による、秩序を標榜する、別の機関からは、各国の要人に対し、違法行為による犯行、と決めつけることで、裁きを受けさせよう、としている。実際に、幾つかの国に対し、嘗て、治めていた人物を、拘束した上で、裁判に欠けている、と伝わる。だが、大国にとり、元々、参加していない機関の、決定に従う必要は、全く無い訳で、こちらも、暗礁に乗り上げている。だが、だからと言って、国際的な紛争は、犯罪の一種であり、厳罰に処すべき、との意見もあり、このままでは、例の国際機関同様、機能不全に、陥ることとなる。犯罪者呼ばわりされ、ならず者、rogue、と呼ばれた要人も、同じ表現で、やり返すのは、馬鹿げた遣り取り、としか見えぬが、悪の枢軸、axis of evil、と呼ばれた国家は、一つを除けば、依然として、独裁政権が、握っており、そこに、大国が、ならず者国家と呼ばれて、気持ちがいい筈は、ないのだろう。だから、裁判所を、同じ表現で、やり返すのは、如何にも、餓鬼大将らしい、やり方だが、これもまた、何の役にも立たず、紛争の収束は、気配さえ、見えてこない。人間の知恵は、心許なく、所詮、この程度のもの、なのだろうが、だからと言って、再び、世界大戦を、望む人間は、武器商人以外には、居ないだろう。誰が悪いのか、という見方で、決着させるのは、無理筋としても、法の支配は、確かに、手の一つだろう。ただ、人間の愚かさは、ここでも、手詰まりを、感じさせる。
自分事には、過剰な防衛反応を、示す人が、他人事には、攻撃的となる。当然、と思う人も、居るだろうが、仮想空間では、それが、特に、目立つように、感じられる。こんな感覚は、まさに、囀りの世界では、典型となる。その上、揉めたら、拒否もできるから、安泰となる。
そんな書き方をすると、途端に、反論が、押し寄せるかも。拒否は、確かに、最終手段だろうが、相手は、そんな人間には、手を替え品を替え、というより、名前を変えてまで、執拗に食い下がる。それで、精神を病む人が、出るのは、止むを得ない、と言われるが、どうだろう。仕組みとして、大きな欠陥、と言われるものの一つが、こういう関係性の問題だ。日常生活、通常の社会であれば、法の秩序により、異常行動は、かなり厳しく、制限される。だが、この手の社会が、未熟なのか、はたまた、参加者の未成熟が、そんな形で、現れるからか、兎に角、悩まされることが、多いと言われる。ただ、こんな遣り取りを、外から眺めると、何故、それ程に、悩むのか、理解に苦しむことも、多くある。危機回避が、屡々、取り沙汰され、その為の手立てが、何度も、紹介されるが、当人達は、それを実行することなく、自らを苦しめることとなる。最初に書いた、防衛と攻撃が、ある意味、典型なのでは、と思えるのは、こういう問題が、生じた時だ。二重人格、などと呼ばれたり、二重の基準、と呼ばれたりするが、当人は、そんな感覚が、無いのでは、と思う。極端な表現では、人間では無い、などと批判されるが、逆に、人間だからこそ、そういう二面性が、それぞれの心の中に、存在しており、結果的に、自分で、自分を苦しめるのも、その一つなのでは、と思うのだ。落ち着いて、考えれば、解決できる筈、と外からは、見えているが、当事者達、また内側の人々は、そんな風には、感じていない。だからこそ、苦しむのだ、と言えば、その通りだろう。だが、それでは、解決の糸口は、見つからない。自分で、何とかしたければ、違う動きを、試すしかない、と思える。どうだろうか。
同じ考えの人が、集まって、お互いに、納得し合う。そんな空気に、満ちた空間に、生きる人々が居る。どこだろうか、と思う人が、居るかもだが、まさに、仮想空間、囀りの世界、なのだ。互いに、同意できるから、何事も、問題が起きぬ、と思えるが、現実は、甘くない。
一言、漏らした途端に、総攻撃を、仕掛けられる。異論を、許す空気は無く、ただ、批判の声だけが、届けられる。偶に、救いの言葉を、投げてくる人が、居たとしても、それは、一瞬のことで、すぐに、その声も含め、攻撃を受けるだけ、なのだ。仮想空間だから、という考えは、必ずしも、正しくはない。そんな環境でも、さっきの話と同じで、時に、味方が現れ、心強く感じることも、起き得るからだ。ただ、大勢に、変化なしとなる、場合の方が、今は多いようだ。以前、漏れ聞いた話では、攻撃を受けていた人が、自身で、反論を並べた時に、それまで、推測や憶測ばかりで、何の確かさも、ない意見を、展開していた人の中から、もしかしたら、本人が、書き込んだことが、真実では、との意見が、出てくることで、逆転現象が起きた、とあった。ただ、こんなことが、起きるのは、偶にしかない。多くは、勢いに任せて、有る事無い事、どころか、無い事を、憶測のみで、創作する人々から、攻撃を、受け続けるしかない。以前から、人の噂は、といった話があり、今も、それと同じ、と思う人が、多いようだが、それ程単純ではなく、批判は、絶えることなく、続いてくる。仮想空間と、単なる噂との、大きな違いは、記録の有無であり、誰かが、嘗ての書き込みを、掘り出すことで、過去の記録が、現在にも、表示される。この仕組みは、実は、非常に恐ろしいもの、と見る向きもある。その標的に、なった途端に、その恐ろしさを、体験することとなり、舞台から、去ることもある。その後は、本人だけは、何も知ることはなく、時が過ぎる。だとしたら、仮想空間と、関わりを持たぬのが、一番の方法、かも知れぬ。でも、知らぬが仏は、中々に、難しいものだ。
教育の改革、大切なこと、だろうとは思う。だが、その中で起きる、大きな声には、賛同しかねる。何を、授けることが、教え育むことに、繋がるのかを、見誤っているし、万能感のような、誤った感覚で、導き出した答えは、何の役にも立たず、その一方で、害悪とさえなる。
昨日の話が、そうだとは言えぬが、それにしても、何故、年齢に不相応な、ことばかりを、押し付けようとするのか。見誤っている、としか思えず、それは、見識の無さ、からくるもの、と思えてくる。自分が、達成できずに、苦しんだことを、何とか、無理矢理でも、やらせることで、達成させよう、とするのは、親心から、来るものかも知れぬが、それにしても、乱暴な話としか、思えない。英語に不自由したから、次代を担う世代には、自由に操れるように、とばかりに、早期導入が、提案された時、多くの専門家から、反対の声が、上がっていた。言語能力を、重視することに、異論を唱える、つもりは毛頭ないが、母語であるものが、確立する前に、別の言語を、押し付けるのは、二兎追うものは、となることが、必然に思えたからで、専門家が、苦労して身に付けた、その能力を、そんな道筋で、獲得できるとは、思えなかったからだ。なのに、本格導入となり、混乱は、依然として、続いている、ように見える。それは、高等教育の現場で、顕著に見られる、言語運用能力の低下、という、意思疎通だけでなく、文書作成にまで、悪影響が及ぶことからも、明らかと思える。これは、単純に、複数言語の間での、混乱だけでなく、もう一つ、別の大きな要因に、目を向ける必要を、実感させる。それは、教える側の、能力不足であり、徐々に進行した、高等教育での、言語運用能力の低下が、教える立場での、指導力不足を、露わにした。この問題は、別の面にも、表れていて、今度の改革でも、同じことが、繰り返される懸念が、広がっている。提案を、一瞥した時の、当事者達の反応は、火を見るより明らかで、目標が、定まったとしても、そこまでの道筋が、全く見えないまま、始めることへの不安は、大きくなるばかりだ。その中で、何をどうすれば、という実践的な事柄に、支援や助言が無ければ、頓挫してしまう。また、再び。
学校での教え方は、最高学府を除き、監督官庁が、方針を定めており、概ね十年ごとに、検討され、新たなものが、作られるという。学問の進歩は、日進月歩、という具合に、行われるが、だからと言って、子供が知るべきこと、に大きな変化が、起きるとは、思えないが。
教え方、という技術的な面も、進歩がある、とも言われる。最近は、学校で使う道具も、教科書と、ノートと筆記具、だけでなく、電子機器が、導入されており、それを、使いこなすことも、教育の一環として、設定される。ただ、最近の傾向は、知識の得方に、大きな変化が、起きているようで、何でも、頭の中に、詰め込もうとせず、頭から、何かを、引き出す手立てを、教え込もうとする。その過程で、教師から、一方的に、知識を伝授するより、子供達が、自主的、積極的に、取り組むことで、何かを得て、その上に、情報交換などで、考え方の比較や、発信の仕方を、身に付ける、といったやり方が、好まれるようだ。今回の改正については、監督官庁から、資料が公開され、膨大な量の文書に、果て、どうしたものか、とばかりに、戸惑う光景が、現場でも、見られている、のではないか。その中の、資料の一つを、開いてみると、403から406頁に、大切なことが、掲げられている、ように見える。一つは、こういう提案で、盛んに使われる、三位一体、という考えで、今回は、深い学び、なる言葉が、鍵となるように見える。その上で、統合的な理解と、総合的な発揮、という提案が、出されているが、そこには、詰め込みではなく、知識やその理解と、その後の使い方への、発展が、意図される、ように見える。成る程、と思う人も、居るだろうが、これらのことは、以前なら、最高学府に、進んでから、促されたもの、だった。それを、早期に、取り組ませて、という提案は、教育には、よく出されるものだが、果たして、精神的な成長、との関係は、どうなるか、と思えてくる。英語教育然り、と言われる、この手の教育改革は、多くが、頓挫してきた。分相応、との考えが、成長と教育にも、当てはまると思えるが、どうだろうか。現場の混乱は、教える側の懸念から、出てくることは、必然だろうが、それも含めて、準備怠りなく、となるかが、成否を決めそうだ。
裏で、悪さをした、との報道があると、その度に、厳しい批判が、飛び交う。当然のことだが、違法行為は、法律で禁じられ、社会的にも、許されぬ、と言われる。だが、その背景について、報道は、触れぬままで、読者は、何がどう、悪かったのか、知る術が無い。
今回の悪さは、業界が、話し合いの末、価格調整を、行ったと伝わる。価格は、業界全体として、利益が出るように、調整したとのことだが、何も、値上げばかりでは、ないらしい。だが、儲けを、大きくしたいなら、価格を上げるのが、唯一の方法、と思えるが、それに限らず、値下げも、一案だったらしい。だが、それでは、儲けは、確保できないのでは、と思える。絡繰りは、当事者のみが、知る所だろうが、勝手な想像を、してみると、物価が、抑えられる中で、値上げをせず、時に、値下げさえ、しようとする動きには、企業として、収支を考えた時に、支出を減らす為の、賃下げや、一定に保つことが、考えられる。乱暴な話だが、そんなことが、物価が抑えられ、値上げが、禁忌だとされた、あの時代に、業界で行われた、価格抑制の、背景にある話、のように見える。ここまで、穿った見方を、すべきかは、誰にも、判断ができぬが、その上に、居座るのが、国の政を、預かる人々であり、彼らが、自分の選挙を、考えた時に、最優先とするのが、減税と思えば、何か、繋がりがある、との憶測も、できそうに思う。つまり、何事も、抑えるのが、約束であり、それを保つ為に、一致団結して、政府も企業も、ある方に向かい、走っていたのでは、との見方だ。価格を抑える為に、給与は、少なくしたい。それにより、生活が、厳しくなるが、減税で、少しだけ、楽をさせる。だが、その一方で、公共に関する、多くのことが、停滞してしまう。ある意味、負の連鎖、とも見える図式が、当時は、避けようのない、状況と見られた。だが、今や、正反対へと、進み始めて、値上げが、当然となり、賃上げも、それに続いた。結果、税率を上げずとも、税収は増した。この流れを、保つ為に必要なのは、何だろうか。
厳密な意味を、求める動きは、所謂、言葉狩り、とは明らかに異なる。だが、一部の人には、同じに映るようで、身勝手な解釈で、誤った用法を、繰り返す人の中には、自分への批判を、言葉狩りと同じ、と見る向きがあるようだ。だが、本当の差別は、何処にあるのか。
そのことに、目を向けて、表現の自由を、犯し始めた、世論の動きに、強く反発したのが、件のSF作家だろう。詳細は、理解しておらず、的外れな指摘、となるかもだが、厳密な意味、という基準と、誰かを、差別する意図を、何処でどう、結びつけたものか、理解に苦しむものが、矢鱈に増えており、強い圧力を感じ、創作意欲を、侵害された、との思いから、断筆宣言へと、結びついたのでは、と思う。この背景には、ここで何度も、取り上げてきた、虐めの基準として、海の向こうから、押し寄せてきた、被害者の受け止め方、を採用した考えが、あるように思える。差別という基準が、押し付けられた、と感じ始めたのは、加害者の感覚ではなく、被害者を、中心として考える、との基準が、設定されたからだ。その結果、苦情が届けば、即座に、認定された上で、意図の有無に関わらず、加害者とされた、人間への罰が、下されることとなった。小説の内容は、まさに、その典型であり、前後関係から、全く異なる意味に、使われた言葉を、殊更に、拾い上げて、批判の対象とする。厳しい言葉が、浴びせられるだけでなく、生活の糧を、奪う形での、出版禁止などの措置が、取られるだけに、生業とする人には、看過できぬ話、となるのだ。折角、時間をかけて、作り上げても、日の目を見ずに、お蔵入りとなる、のでは、たまったものではない。ある女性評論家が、脚光を浴びていた頃、盛んに、その手の言葉狩りを、繰り返しており、中で、紹介したのが、誰でも簡単に、撮影できるフィルム付きカメラを、どう呼んだか、という点だった。民族差別との繋がりを、強調すればする程、視聴者は、首を傾げ、思い当たらぬと感じる。この話は、まさに典型で、受け手の問題、とされたことが、全てとなる。本来の意味と、語源とは、必ずしも、直結しない。その一方で、曲解の末に、こじつけられ、犯罪者呼ばわりされては、困ったもの、としか言えぬ。
期待を込めて、見守った人が、居たかもだが、裏切る結果が、発表された。でも、そこに踊る文字を、眺めた時に、何これ、と思った人が、多かったのでは。専門的なことは、何も分からずとも、言葉の意味が、理解できぬ時に、人は、首を傾げ、不満を口にする。仮令、著名な賞でも。
光遺伝学、との文字が踊り、内容を、説明する言葉が、続いたとしても、知識の中にある、言葉の意味と、何処か違う、という感覚を、抱いた人が、多いだろう。報道によれば、神経との関連とか、病気治療への応用とか、そんな言葉が、鏤められ、如何にも、と思える部分が、あるなあ、とは思ったものの、この技術の何処が、遺伝なのだろう、と思ったのでは。調べてみると、英語でも、optogeneticsとあり、こちらの言葉への、翻訳の間違い、とは言えぬことが、すぐに解る。受賞者の一人が、使った造語とのことだが、現象を、表しているようで、納得しかねる、といった思いが、過ったのは事実だ。同じようなことは、これまでにも、度々起きており、例えば、最近話題の、人工知能に関しては、遺伝的アルゴリズムとか、ニューラルネットワークとか、生物現象に、源をもつ、言葉が、一時、盛んに使われた。模倣したもの、という話で、今回のも、とする向きも、あろうけれども、同じ研究分野内で、厳密性を、放棄したかの如くの、用法に関して、異論は当然だろう。とは言え、権威を得て、このまま、使い続けられ、本来の意味が、失われるのは、どうだろう。これは、学会の姿勢にも、現れており、嘗て習った、遺伝の法則で、優性と劣性、という用語が、差別的で不適切、との自戒からか、顕性と潜性、に変えるべし、との学会の決定から、教科書も、書き換えられた、と聞く。形質に、優劣をつけるのは、ある人々が、劣っているとの誤解を、招くから、との見解だが、そんな差別、誰が考えるのか、と思う人も多い。言葉狩りの一つ、に過ぎないとして、片付けるべき、と思うのは、今や、お偉い人にも、不適切な思想、とでも言うのか。ふと、そんなことを、思い出す程の、不思議な言葉が、飛び交う時代が、やってくるのだろう。
朝刊を開いたら、「AIは研究結果を盗むのか」、という見出しが、目に入った。記事については、リンクを見るか、図書館なりで新聞を、開いて欲しいが、これまでも、懐疑的な見方を、貫いてきた人間から見て、どうしたものか、と思える内容で、過大評価の一つ、とも思える。
盗みは、人間の専売特許で、機械は、そんな能力を、有しないとの見解は、この間までは、その通りだったが、生成人工知能の登場以来、盗みも嘘も、何の躊躇いもなく、平気で行う、との話が伝わり、機械への信頼は、失われてしまった。コンピューターに対する、理解も、いつの間にか、変えねばならぬ、と言われている。人工知能に、注目が集まり、研究開発に、多額の資金が、注ぎ込まれたのは、前世紀末の頃だが、期待に反して、画期的な機能が、獲得されることは、無かった。だが、学習機能を、高める過程で、嘘や出鱈目を、禁じないことが、不可欠との判断から、高度に、組み上げられた仕組みは、人間を、裏切ることも、意識を持たずとも、意図的に、嘘や出鱈目を、発することも、厭わぬように、なったと言われる。それこそが、人間の能力を超える、人工知能の、必須条件の如く、扱われてきたが、こちらから見ると、一つの見解に過ぎず、それが無くとも、処理や解析の速度で、上回ったのだから、それで十分では、と見る向きもある。ただ、禁忌事項を、外すことで、ある意味の、箍を外すことが、できたからか、蓄積されたデータを、活用すること、と相俟って、その能力が、爆発的に、進化した、と伝えられてきた。ただ、懐疑心からは、それほどのものでも、ないだろうとの、判断も下せる。それでも、経済効果を、重視する人々からは、様々な懸念さえ、飛ぶようになったが、これとて、どうなることか。今回の記事では、計算機を用いた研究を、推進する中で、人工知能を利用したことが、漏洩の原因、と書かれていたが、その真偽は、定かではない。一方で、この程度の盗用ならば、人間だけでも、起きた話とも思える。研究では、競争相手を、出し抜く為に、論文発表の前に、口頭で発表した結果を、参考にして、素早く研究を済ませ、いち早く発表したことが、盗用と疑われた話が、山のようにあり、今更とも思える。ただ、それに加え、人工知能が、悪事に手を染めれば、データ改竄どころか、実験せずとも、データを捏造することも、行いかねない。これもまた、人間が、やってきたことで、騒ぐ程のことか、と思えるのだが。
独り言を、始めた頃に、紹介した話だが、あの紛争地区に関して、多くの人々は、その地区を含む地域の、一方的な戦いに、苦言を呈する。それに対して、そこに住み、兵役にも参加し、日々、不安に苛まれる、生活を送る人間からは、強い反発が起こる。その背景を、理解せぬ人へと。
ここ数年も、圧倒的な軍事力で、徹底的な破壊を、続ける国と政府に対し、世界各地から、強い批判が、浴びせられる。先日の、国際機関の総会でも、件の宰相が、壇上に上がった途端に、多くの国々の代表が、退席したことが、報じられた。あの国を、立ち上げた人々の多くが、先の大戦で、虐殺の地獄を、見たことに対し、ジェノサイド、なる言葉が、使われるが、それと同じか、もっと酷いことを、その子孫達が、行なっている、というのが、批判の核心と言われる。だが、状況の違いに、言及する人は、殆ど居らず、死者数のみに、目を奪われての、主張に対して、もっと強い、反論があっても、と思えるのだが、何故だろうか。こちらから見れば、爆撃を繰り返す、理由の一つは、それが最大のものだが、ゲリラ活動を、続ける連中の存在であり、彼らの活動を、支持する人々の、存在があると思う。無垢な人々、との表現が、度々持ち出され、被害者としてしか、見ようとしない態度には、別の意味の、悪意さえ感じられる。最初に取り上げた、人物の発言も、それを受けたもので、力で捩じ伏せられた、人々が起こす、犯罪には、目を瞑る態度には、やはり、悪意しか感じない。これが、海の向こうの大国の、協力を得ての爆撃に、発展したのだが、それも含めて、偏った考え方が、大勢を占めることに、懸念を示すべき、と思うのだが、どうだろうか。地下活動に、力を貸して、その国の混乱を、招くことが、戦略として、長く続いた結果、だとしたら、その悪行の数々こそ、もっと批判されるべき、と思う。
先人の知恵を、授ける、との企画だったのか。成功者の話を、記事としてではなく、自身の声で、語って貰う、という意図だったのだが、提案は、それまでが、百発百中だったとしても、次があるとは限らず、経営は、神がかりと言われても、どんな形かを、検証する必要はある。
昨日の独り言は、まさに、その典型、と思われた流れで、次の企画はこれ、との宣伝を、兼ねての紹介は、当初の、爆発的な人気を、引き出したのだが、その後の低迷は、まさに、宣伝ではなく、中身の質により、広がった実感が、期待外れとなった原因だろう。ただ、そんな企画倒れは、これまでにも、多くの人々が、何度も見ており、よくある話の一つ、に過ぎないことだ。ただ、百発百中、との触れ込みに、耳を傾け、必死でメモを取っていた、あの参加者達の、落胆は、相当なものだったろう。それでも、失敗しての、次の成功と見れば、まだ、救いようがある。もう一人の人物は、嘗て、経営の神様、と呼ばれた人物の、再来とさえ、紹介されたことも、あったように聞くが、その実、剛腕社長の呼び名通り、社員に、強い圧力を掛け、不正も厭わず、との姿勢から、様々な問題を、生じていたことが、退任後に、明らかとなった。これでは、企画倒れ、などという言い訳も、通りそうになく、企業経営において、最も重要な部分を、蔑ろにした中での、好業績では、詐欺紛い、との指摘が出ても、止むを得ない、とさえ思えてくる。こんなことを、何度も書くのは、経済界での、この手の問題は、今に始まったことでは、決して無いからだ。その上、報道に携わる人々は、人気の絶頂では、絶賛し続けるのに、一つ、問題が生じたら、途端に、押し黙ってしまい、前に出した、自分の評価について、触れることも、無いままとなることが、最大の問題、と思えてくる。提案が、外れてしまった場合に、どんな批判を、浴びせるかは、大した問題では、無いのだろうが、その一方で、企業不正については、今や、コンプライアンス、などと、カタカナを使ってまで、紹介されることについて、報道自体も、責任の一端を、負っていることを、改めて、意識すべき、と思う。
成功者の話は、秘訣を知りたい、と思う人にとり、重要なもの、と映るようだ。だからこそ、朝の経済番組でも、創業者や成功者の話が、紹介され、参加者から、様々な質問が、出される。そこでの遣り取りは、成功の秘訣を、知ることにより、将来を確かなもの、とする人には、宝物のように映る。
資産運用同様、経営の手腕は、成功を夢見る人にとり、手にできるなら、と願うものの一つだろう。だからこそ、経済を扱う番組で、特集を組んでまで、経営者や成功者の話を、紹介しつつ、次代を担う人からの、質問に答えることで、知恵を授けようとする。だが、一度は、手にできた成功が、再び、手に入るとは、何処にも、保証は無い。にも拘らず、手にしたことの無い、人々からすれば、一度でも、手にした人の話は、何かの役に立つ筈、と見えるものだろう。それは、拝聴する人間よりは、その企画を進めた、番組関係者の方が、遥かに、強く抱いたものかも、と思える。こんな話を、書いたのは、開園したばかりの、南国の公園が、直後の喧騒が、去った後で、閑古鳥が、鳴き始めた、と伝えられる施設の、提案者や、一代で築き上げた、企業が、拡大の一途を、辿っていたのに、今や、落日の如くに、勢いを無くすばかりか、経営に携わった当時、不正に塗れていた、との報道が、盛んに、行われる企業の、先代社長が、厳しく批判される中、番組が取り上げた、当時の、持ち上げようは、一体全体、何だったのか、と思えるからだ。確かに、それまでの提案では、的を射ていたのだが、今回は、提案そのものだけでなく、それに付随した、評判の下落に、対処の手立てを、見出せない、との指摘がある。また、在任当時は、他社を吸収合併するなど、神がかり的な、経営手腕に、高い評価を、誇っていたのが、実際には、その当時から、経営の会計不正を、繰り返していた、との話が、退任した途端に、暴露され始め、是正を図る為に、跡を継いだ経営陣まで、責任を、問われ始めた。これらの事実で、成功そのものが、虚構のものであり、演出された姿に、番組での熱狂が、付け加えられた、と見るべき、とさえ思えてくる。結果のみに、目を奪われ、その実体に、目を向けぬことが、誤った憧れを、築き上げるだけでなく、間違った手法を、模倣することになる、としたら、馬鹿げたことに、違いない。見抜く力の、大切さを、強く感じる話だが、そうだとして、何を身に付ければ、いいのだろうか。結果や目的に拘らず、まずは、地道に、基礎を築くことが、大切なようだ。近道なんて、無いのだろう。