当時の混乱は、そんなものではない、と言われそうだ。だが、世界的にも、国内も、地域でも、それぞれに、現場の混乱は、高まるばかりで、特に、医療関係者は、勿論のこと、役所の混乱も、極まっていた。ただ、流行病は、一種の終息を、迎える。死者数も、陽性者数も、激減した。
この変化が、ワクチン開発による、と言いたい人は、言っておけばいい。総括が、為されぬ限り、詳細が、明らかになることは、決してなく、逆に言えば、何が功を奏したのか、誰にも分からない。確かに、重症化は、防げたのかも、だが、肝心の感染拡大は、なぜ終息したのか。生物体の免疫機能が、発揮された為、と見ることもできるが、相手は、次々に、姿を変える代物、理由は定かにならぬ。姿を変えるに従い、発症後の重症化に、影響されると言われる、毒性が、低下したのでは、との憶測もあるが、分からぬままだ。とは言え、結果良ければ、という具合で、いつの間にか、忘れ去られた。と言っても、残ったものがある。一つは、発症後の後遺症であり、深刻とも伝えられるが、感染爆発に比べ、被害が限定されるだけに、これも忘れられそうだ。もう一つは、ワクチンの副反応、と呼ばれる現象で、接種直後に、体調異変で、死亡する例だけでなく、発症による後遺症とは、全く別の形の、後遺症が残る場合がある。こちらは、人為的な要素が多く、人災へと結び付けられるが、因果関係として、確定できぬだけに、有耶無耶にされている。ただ、開発手法との関係から、今後、この方法が、一般的となれば、見過ごせぬこと、と思われるのも、無理はない。兎に角、一つの病気が、膨大な数の感染者を、出したことで、起きた事象は、数え切れぬ程だ。今後の展開として、やはり、重要と思えるのは、総括の実施だろう。流行時も含め、疫学的な調査が、的確に行われず、また、公衆衛生でも、同じような状況で、将来への備えが、不十分なまま、と思える状況だ。この病気に限らず、医療や科学の知見が、活かされていない、と思えることが、増えている。囀りのような、社会媒体が、賑やかになったのと、逆行するように、信頼性が、失われつつあるのは、何故だろうか。臨床研究そのものも含め、多方面からの解析が、必要に思う。
ワクチンができた、の報を受けて、多くの免疫学者が、周囲の為に、社会全体の為に、接種しよう、と訴えた。確かに、従来の知見からは、接種により、感染が防がれ、感染者が居なくなれば、拡大も爆発も、起きないと思える。だが、その後の知らせに対し、首を傾げた。
開発した製薬会社は、当然のことながら、その効果を、解析した結果を、発表した。その内容に、驚いた人も多い。何しろ、感染防止の為、と思われたのに、そこには、感染は防げなかったが、重症化を防ぐ効果が、確かめられた、と発表されたのだ。一般庶民の戸惑いより、免疫学者の混乱の方が、遥かに大きかった、のではないか。何しろ、他人に移さぬ為に、接種を推奨したのに、それはできぬが、本人の症状を、軽くするとなったのだ。これでは、利他的ではなく、利己的でしかなく、自分さえ良ければ、と言われそうだ。ここまで、読んできた人には、この原因に、思い当たるのではないか。つまり、感染の有無、という基準において、発症するか否かは、全く無関係に、病原体を保有するか否かが、肝心となり、それを指標とすれば、ワクチンの効果は、病原体が、感染者の体内に入り、ある程度、増殖したとしても、その後の発症へと、繋がる過程において、発揮され、発症や重症化を、抑制することとなる。接種した人の、免疫反応が、どのように起きるのかは、この報告により、かなり大きな変更を、余儀なくされた、と思える。それ以外にも、首を傾げざるを得なかったのは、通常なら、複数回と言っても、2、3回の接種で、免疫力が定着する、と言われたのに、何度も何度も、接種が勧められた。これも、不思議だったが、その理由は、明らかにならない。その後の、情報の錯綜では、最適の回数について、異論が噴出して、現場の混乱は、高まるばかりだ。当時は、分類の問題から、厳しい管理が、敷かれており、検査は、接種者に対しても、実施された。結果は、陽性者となり、未接種者の陽性と、どう区別すべきか、これも混乱要因となる。今は、分類変更から、騒ぎは収まり、重症者の話も、殆ど聞かれぬ。だが、検査は、依然として、実施され、無症状陽性者、あるいは、感染者は、相変わらず多数居るとされる。さて、どうなる。
救世主は、ワクチンと呼ばれた。ウイルスを病原体とする、流行病に対して、為す術無く、死に行く人や、重篤な後遺症に、苦しむ人を、見守るだけだったものが、ワクチンの登場で、感染を防ぐことが、できるようになった。免疫学の根幹を成す、治療法の一つ、と呼ばれた。
方法には、幾つかあり、病原体の一部や、感染力を失ったものを、接種したり、感染性が、僅かに残るものの、発症の可能性が、著しく低いものを、接種する。死亡率が高く、恐れられていた、天然痘では、牛の類似の病気から、効果のあるものを、選んで使ったと言われ、後遺症に苦しむ、小児麻痺では、生ワクチンの登場で、患者数が激減した。確かに、接種により発症する、危険性は皆無では無く、犠牲者も居るが、集団として、考えることで、適用範囲は、急速に広がった。細菌性の感染症でも、抗生物質で治療できるが、その過程で、悪影響を及ぼす場合には、ワクチン開発が成された。だが、正体を、次々に変える、ウイルスの一部には、ワクチンの開発が、追いつかず、問題が残っている。毎年恒例の、流行性感冒は、その典型の一つで、籤引きのよう、と揶揄されることもある。新型コロナについては、感染拡大当時も、その変化ぶりに、驚かされたが、従来の開発法では、とても間に合わぬ状況だった。そこに、登場したのが、従来のウイルスタンパク質を、抗原とするのではなく、それを作り出す、遺伝子産物を、直接接種することで、そこから産生される、タンパク質への抗体を、体内で作らせる、戦略が、実行された。未だに、研究段階にある、と思われたものが、緊急事態だからと、各製薬会社に、開発を依頼した。通常なら、費用を賄うのは、企業自体だが、世界的な緊急事態で、各国政府が、それを出し合う体制が、整えられた。目出度く、開発されたワクチンは、先進各国に、配布された後、開発途上国へも、広がることで、感染爆発は、一時の危険性を、脱したと言われた。これだけなら、目出度目出度、となる筈だったが、幾つか、問題点が出てきた。結果良ければ、それで良し、となったかならなかったかは、どうも、人によるらしい。それらについては、明日以降に書く。
当時、報道は勿論のこと、一部の専門家までもが、感染者と呼んだ人々は、正確には、検査陽性者であり、病原体の有無を、調べた結果として、保有が確認された、というものだった。学会が、感染の有無を、検査の結果で判断、としても、現実には、病気の有無は、発症したかどうか、で決まる。
ここに、混乱の原因があった。とは言え、世界機関をはじめとして、各国の研究機関が、学会の決定を、根拠として、検査に踏み切った以上、そのこと自体を、批判しても無駄だった。一方で、そんなことに、拘る遑は、現場にはなかった。発生源と、目された地域から、広がった結果として、ずっと西の方の地域に、感染が広がり、犠牲者が出始めた。都市封鎖により、感染拡大を防ぐ、との手立ては、掛かった労力と、経済停滞の被害の割には、全く効果を見せず、死亡者の数が、急増し始めた。特に、初期段階で、その傾向が顕著となったのは、それ以前に、国家予算の削減から、診療施設の撤廃を、進めていた国で、対症療法の極致、と呼ばれた、人工呼吸器の一種も、最先端施設にしか、準備されておらず、連合内の、他国への患者移送で、対応する程の混乱に、陥った。こちらでも、クルーズ船、と呼ばれる観光船で、船内感染が、急速に広がり、隔離する一方で、一部の重症患者を、最先端医療施設に、移送していた。あちらでは、連合から離脱した国で、様々な事情から、治療現場の崩壊が、起きたとさえ、伝えられたが、結局は、その中で、対症療法の一つとして、自己免疫疾患に、適用される、免疫グロブリン療法が、試されたことで、光明がさして来た、とも伝えられた。だが、結局は、流行性感冒のように、病原体ウイルスの、増殖や活動を、抑制する特効薬は、見つかっておらず、重症化した場合には、多くは、諦めるしかない、とさえ言われていた。細菌による感染症と違い、ウイルスには、抗生物質が効かず、特定のものに、効果を示す薬も、今回の新型には、当然効果を示さなかった。そこに、新たな救世主が、現れたのは、よく知られた所だ。感染そのものを、防ぐ為の手立てとして、免疫反応を利用する、従来からある手法だが、このウイルスに対するものは、開発できない、と言われていた。それが、できた、とされる。さて、次は。
では、何故、感染の基準が、変更されたのか。一般庶民にとり、流行性感冒にせよ、何かしらの、新しい感染症にせよ、その典型的な症状を、自分が示せば、感染したかな、と察して、診察を受け、診断を下される。自分のことなら、それで、何の問題もなく、対症にせよ、治療が受けられる。
だが、感染症の専門家には、そんな一人の人間の、問題なぞは、どうでもいいことだ。社会全体、地域全体、世界全体にとって、どんな変化が起きるか、こそが最重要であり、もし、感染爆発が起きれば、人類滅亡も、視野に入るだけに、未然に防ぐことが、最重要課題となる。その意味では、仮令、症状を呈してなくとも、感染病原体を、保有する人々の存在は、感染拡大の源と、なり得ると考えたのだろう。理論上の問題が、実現可能なもの、と変わったのは、検査手法の発達であり、病原体の遺伝物質を、何千、何万倍も、増幅する手立てが、確立されたことが、決定的となった。できるなら、やってみよう、となるのは、当然の流れであり、今回の騒動では、史上初めてだろうか、世界規模で、大量の検査が、実施された。結果は、皆が知る所で、無症状感染者、という新たな言葉が、認知されることとなった。検査が、可能となる前は、推測でしかなかったものが、実数として、公に発表されると、報道は、無知なまま、それらの情報を、垂れ流し始めた。一種の恐慌が、広がったのは、当然の成り行きだが、さて、それによって、何がどう変わったのか。社会的な反応は、急速に広がり、多くの人々が、恐れ慄くこと、となったのは、ある意味、当然のことだが、それに対して、国や自治体は、どんな備えを、進めていたのか。今、振り返れば、殆ど何の準備もなく、日々伝えられる情報に、右往左往するばかりで、肝心の数値を、どう扱えばいいのかさえ、判断がつかぬまま、社会的には、感染者という札を、付けられた人々が、制裁を受けるような、暴挙さえも、起き始めていた。さて、改めて、見返してみて、無症状感染者が、感染源となることは、確認されたのか。そんな疑問さえ、浮かんでくる。研究の最前線が、如何に曖昧なものか、そんな印象だけが、残ったのではないか。次は、何だろう。
流行性感冒と、当時、大騒動となった、新型と呼ばれた、感染症と、何が違うか、お分かりだろうか。ウイルスが違う、は当然として、医療現場での、対応の違いは、歴然としていた。前者は、症状を呈した、患者を検査するのに、後者は、患者と接触した人全てを、検査していた。
病気として見れば、症状を呈する、つまり、発症するか否かは、重要なこと、と思われる。だが、専門家による判断は、ある時期に、大きく変更された。感染の定義、とも言うべきものが、発症から、病原体保有に、変更されたのだ。以前なら、発熱、倦怠感、関節痛、咳や痰など、症状を示す指標があり、そのうち一つでも、当てはまれば、受診するように、と言われていた。ところが、何の症状も示してなくとも、喉などに、病原体が存在すれば、それを感染と見做す、となったのだ。その上で、分類の違いから、検査対象を、発症者とするか、接触者とするか、を決定していた。更に、検査自体も、大きく変更され、その感度が、格段に向上した、と言われる。学会では、兎に角、感染爆発を、防ぐ手立てとして、病原体保有者を、特定することで、健常者から、隔離してしまい、封じ込めを、達成することが、最優先とされた。特に、感染力の強い、病原体の場合、水際作戦が、最重要と見られた。その結果、巷には、無症状感染者が、溢れることとなり、社会活動が、立ち行かなくなり、先進国各地の、経済活動が、停滞してしまった。ここで、問題は、二つある。一つは、保有者全てが、感染拡大に、関わるか否かの、検証が不十分に思える点、もう一つは、学会が示した、感染状態から、その個人が、発症するか否かは、どう決まるのか、についての見解が、殆ど出ていない点、だろう。今回の騒動が、いつまでも、総括されないのも、これらの点について、疫学的、公衆衛生学的な、調査が、実施されたとは思えず、また、それらの研究の進展も、見えてこないことが、原因と思われる。確かに、騒ぐには騒いだが、その原因を、追及しようとする、科学的な検証が、行われていない、と見えていることが、最大の問題なのだ。この話は、もう少し続く。
その季節が、今年もやってきた。流行性感冒の患者数が、急増していることを、報道は、盛んに伝える。と共に、見慣れた人達が、画面に登場し、専門家と称して、解説を繰り返す。他の人は、どうか知らぬが、こちらは、信用ならぬ人物、としか見えない。当てにならぬのだ。
その中で、感染症騒動では、度々登場したのに、最近は、とんと見かけぬ、という人物が、三人居る。二人は、あの感染症への対策を、講じるための政府委員会に、属しており、当時の役目を終え、退いた訳だから、見かけぬのも、当然と思える。ただ、彼らの当時の弁も、当てにならぬものとして、強く記憶に刻まれた。最後の一人は、研究者であり、特に、感染拡大の数値予測の、専門家として、その分析結果が、屡々引用された。一方で、社会媒体では、8割おじさん、などと揶揄され、彼が出した結果が、如何に、信用ならぬものか、と受け取った人が、多かったことを、思い出す。蔓延当時、恐怖に駆られた人々には、まるで、彼の分析が、天の声のように、響いたのかもだが、実体は、単なる計算結果であり、数式の係数や、入力数値の、操作により、如何様にも、結果を導けることや、新たな調査結果が、届く度に、コロコロと変わる、結果の数々に、疑いを抱くのも、無理のないことだ。特に、賞金稼ぎならぬ、研究費稼ぎには、あの研究手法は、抜群の効果を表し、一部の研究者からは、羨望の目で、見られたものだ。ただ、単純に考えても、ライブ会場のような、密室での、感染状況と、必ずしも合致しない結果には、首を傾げるしか、ないと見えた。世界最速の、計算能力を誇る、超高速計算機を、使った解析結果も、所詮、同じ穴の狢であり、計算式と係数を、操りさえすれば、それなりの結果が、導けた。何故、このように、仮想計算は、的外れな結果を、導くのか、と不思議に思う人が、居るかもだが、現実には、感染源の広がりと、感染そのものとの間に、生体反応があり、そこでの、幾つかの段階が、計算式に、導入されぬままでは、当然の帰結と言えよう。その辺りは、明日のお楽しみに。
再稼働の遣り取りで、最も気になったのは、未熟さと無知の、誤解とでも、言うべきものだった。事故が起きた時、多くの人々は、これまでの事故から、学んだことから、あんなことが起きる筈は無い、と思った。だからこそ、こんな災害は、防ぐことができぬ、と信じたのだ。
だが、これは、全く異なるものを、同等と見做すことから、始まった過ち、と思えて仕方がない。前者は、経験に基づき、あらゆる危険性を、回避する手立てが、講じられる筈、との思い込みと共に、科学の力に対して、過度な期待を抱く、傲慢さの現れ、と見ることができる。一方で、後者は、災害そのものへの、無理解と共に、その仕組み自体を、依然として、理解できぬままに、過剰に恐れる、そんな心理の現れ、と見ることができる。何を偉そうに、と言われても、どうということはない。客観的に、物事を眺めぬままに、愚かに、騒ぐだけなら、何の知識も判断力も、必要とはならない。そんな状況が、一部に現れ、それを歓迎する空気が、社会媒体を、満たしているのでは、とさえ思えるのだ。それほど、愚かなのか、と断じてしまえば、却って、楽になるかもだが、物事は、それでは、片付きそうにない。だからこそ、十分な議論をして、その場その場での、結論を導く必要がある。なのに、互いに、相手の無理解を、攻撃することに、終始するばかりで、何の結論も、出せないでいる。主義主張を、できる場が、全ての人々に、与えられた、と見るのも一つだが、一方で、何の確認もなく、ただ、言いたい放題を、続けるだけの場が、構築されてしまった、と見ることもできる。これでは、成長も何も、起こり得ないのでは、と思うのだが、どうだろうか。それでも、時に、冷静な声が届き、一瞬だけでも、我を取り戻す。そんなことの繰り返しが、地道に行われれば、もしかしたら、ずっとましな社会が、実現できるかも、だが、さて、どうだろうか。
再稼働、という話が、流れてきた途端に、囀りでは、両論が飛び交っている。不安を口にすれば、それで、なんでも叶う、と思う人が居る一方で、安全性には、懸念があるものの、経済活動を、保つ為には、不可欠との意見も。特に、諸手を挙げて、歓迎された新技術に、危うさが見えるだけに。
確かに、世界的に見ても、あの大震災後の、大津波の襲来で、危険な状態に、陥った発電所が、以前の事故同様に、かなりの放射性物質を、拡散しただけでなく、発電所の反応炉自体が、暴走するとの懸念も、広がっていた。そうなれば、制御不能に陥り、周辺のみならず、国内どころか、世界さえも巻き込む、大惨事へと繋がる、とも言われた。それだけに、物理学者出身の宰相が、国内の発電所を、全て閉鎖する、との決断も、当然と受け取られた。だが、その後の展開は、どうか。確かに、軍事侵攻に踏み切った、狂気の暴君を有する国から、化石燃料ガスを、供給する手立ては、断ち切られ、再生可能、と呼ばれた資源にも、翳りが見え始める中、隣国から、その仕組みで発電された、電気を輸入せねばならず、再検討の声も、出始めている、と聞く。物理学者は、確かに、科学の原理について、深い理解がある、のかもだが、彼女だけでなく、世界中で、あの発電形式に、反対を唱える学者達は、理解の及ばぬ、生物自体の反応には、目を向けようとせず、持論を、押し通そうとする。嘗て、量子力学が、勃興する中、研究対象を、極微の世界から、移そうとした人々は、生物の営みに、目を向け始めた。そこに、別の法則が、横たわるのでは、との期待からだったが、今見ると、本家の学問分野は、広がるのを止め、狭い中での解釈に、走っているように見える。科学の学問分野は、ここ二世紀程、急速な発展を、遂げてきたが、その一方で、人智が、及ばぬ範囲が、広がったように、見えている。狭量で、傲慢な考えに、拘るのではなく、もっと、広がりを持って、見つめるべきだろう。その意味で、再稼働は、期待を抱かせる。とは言え、制御可能との慢心も、傲慢の現れであり、あらゆる危険性を、列挙することが、必要だろう。
情報媒体が及ぼす、社会への悪影響は、今に始まったことでなく、遠い昔から、問題視されてきた。政に携わる人々には、治安を乱すものと映り、極刑を下した歴史は、古今東西、あらゆる場面で、起きていただろう。ただ一方で、媒体の多くは、正義感を振り翳し、大真面目だ。
昨日の宗教団体にしても、大衆媒体は、権力への反発、という名の下に、彼らの暴走が、極みに達しても、擁護に走ったが、そのこと自体を、すっかり忘れ去り、罪人と断じて、社会的な抹殺さえ、厭わない。こんな極端が、良い影響を、及ぼす筈が無いが、彼らは、その時その時の、正義として、毅然とした態度で、過ちを繰り返す。それは、戦時も同じで、黒歴史として、残っていても、今度は違う、とばかりに、誤りを掲げ続ける。彼らは、明らかに、違う立場にあり、報道を、生業とするから、多くの場合は、慎重な検討を重ね、それこそが、過ちを繰り返さぬ為の、唯一の方法、と信じ込んでいる。だが、歴史は繰り返し、彼らの反省は、何度も重ねられる。一方、社会媒体の多くは、そんな仕組みも無しに、単なる思い付きを、書き殴る場であり、口喧嘩のようになるのは、止むを得ぬこと、と見做されたりする。普段、大人しく、慎重な人物が、何故、そんな極論を、展開するのか。と不思議に思う人も、居るだろうが、現実には、こういう仕組みが、始められてから、こんなことが、急速に、増え続けている。その原因の一つは、誰とも相談せず、自分だけで、反論を綴ることにあり、そこに、酷い思い込みや、誤解の数々が、あったとしても、当人は気付かず、当初の主張を、繰り返し続ける。根源にあるのは、自ら書いたものを、検証する能力の欠如で、議論が盛り上がると、それは更に悪化し、喧嘩の熱気は、増すばかりとなる。掲示板が、登場した頃も、そんな傾向が、目立ち始め、冷静に対応すると、馬鹿にしたとさえ、罵られる始末だ。日中は、冷静で、有能な人でさえ、夜中には、画面に向かって、不満を呟きつつ、こんな代物を、書いてしまう。人間の心理とは、脆弱で貧しいもので、その過ちを、犯さぬ術を、身に付ける必要が、あるに違いない。大昔は、手紙を認めて、情報交換を、行ったものだが、そこでは、構想を練り、下書きを作った上で、清書してから、投函した。そこには、時間がかかるだけでなく、心の移り変わりの中で、何度も読み直すことが、できたのだ。今、困っている人には、そんな形で、時間を置くことを、勧めたいものだ。
30年前の春、朝の会議中に、飛び込んできた話は、耳を疑うものだった。当初、都心で、事件が起きたらしい、とされ、その内に、毒ガスか何かが、漏れることで、多くの犠牲者が出た、と変わっていった。画面に、映し出される光景は、俄には、信じられぬものだった。
その後も、何が起きたかについては、定まらぬままに、毒ガスの正体さえ、伝えられぬ中、不安が広がった。と言っても、都心から離れた場所では、何処か遠くの事件であり、その後の展開から、明らかになったことの方が、遥かに、不可思議なもの、となっていったのだから、何とも、訳の分からない話だ。ここでも、読んだ本で、紹介したように、その正体は、サリンと呼ばれる、戦時中に開発された、毒ガスであり、その致死性から考えるに、製造自体が、困難というより、危険過ぎて、誰も手を出さぬもの、との受け取りが、広がっていた。その後、宗教団体が関わった、テロ事件と紹介され、例の代弁者や支援者達が、盛んに、否定する中、多くの幹部や信者が、逮捕されていき、拠点の捜索から、製造が、ほぼ確定されたものの、現物が、差し押さえできぬ中、これもまた、不思議としか、表現できない遣り取りが、画面に映し出された。犯罪が確定し、死刑が執行されると、皆の記憶が、薄れ始めた、とも指摘されるが、まだ、疑問を指摘する人々が、沢山残っているようだ。今月読んだ本で、後程紹介する書籍は、当時、警察組織の中で、最重要な立場に、あったと言われる、人への直接取材で、多くの内幕が、明らかになった、と帯では謳っていた。だが、読んだ感想は、落胆一色であり、結局、何も明らかにならず、事件の核心は、依然として、霧の中にある、としか思えない。本人の弁で、防げなかったのは、自分の「覚悟」が足らなかった、としていたが、そのこと自体でさえ、何も明らかにせず、誰に対する、どんな「覚悟」なのか、明確にされなかった。取材は、弁護士と、当時、取材に当たった新聞記者が、中心となっていたが、こちらから見ると、当時の遣り取りで、最も重要な役割を、果たしたのが、報道であった筈で、その立場の人間が、何の関わりも、触れぬままとは、呆れるばかりだ。世間とか、世情とか、そんな言葉で、誤魔化す人々は、自分が、何をどのように歪曲したかに、触れぬままに、他人事のように、扱う態度を、何と思うのやら。
手にした端末で、情報の受信が、できるだけでなく、発信さえ、可能となった。多くの人々が、挙って参加し、社会媒体の恩恵に、浴することが、できると思った。だが、その後の展開は、皆が感じるように、情報交換や議論の場ではなく、ただの喧嘩の場所、罵り合いが続く。
何故、と思う人が多いのは、当然のことだ。情報を交換するだけなら、そこで、主義主張が、問題となる訳が無く、皆が思う所を、書いたとしても、情報の取捨選択は、受け手に任される。その態度を、表明したとしても、個人的なことに過ぎず、そこから、対立や断絶、分断などが、起きる筈が無い、と思っていたとして、何の不思議も無いのだ。だが、現実は、正反対の状況に、なっている。何故だろうか。極端過ぎて、賛同は、得られぬかもだが、子供の喧嘩を、想起すれば、理解し易い、と思う。いい大人が、と思うのは、良識あり、見識のある人々で、多くの人は、仲間とそれ以外、という区別で、人生を歩んできた。そうなれば、賛同するのは、いい仲間であり、反論を掲げるのは、仲間以外の人間、極端な見方からは、敵と見做される。となれば、啀み合いも、当然のこととなる。小さな頃、学校で、仲間かそれ以外かで、二つかそれ以上の、勢力に分かれて、互いに、相手の問題を、指摘し合っていた、という経験を、持った人が多いのでは無いか。いつ頃からか、教室内の苛めが、表面化することで、一部の子供達が、窮地に追い込まれた。その後は、全く別の力が、働き始め、苛められた子供が、親を交えて、反撃に出ることで、苛めた、とされる子供達が、今度は、窮地に追われた。何の解決も、得られぬままに、成長した人間が、今まさに、手にした端末で、啀み合いを、続けている。真偽が、明確なものさえ、主義主張により、歪曲された論理で、反対する相手を、言い負かそうとする。こんな状況を、作り上げる為に、社会媒体が、整えられた訳では、決して無いのだが、どうも、人間の心理は、その程度の、幼いものらしい。こちらができることは、それらの問題点を、一々指摘し、正すことしかない。
生成人工知能に関して、様々な意見が、飛び交っている。曰く、仕事が奪われる、とか、不正に使われる、とか、兎に角、悪い話ばかりが、取り沙汰される。一方で、良識ある考えでは、巧く使えば、仕事を軽減できる、とか、巧く誘導すれば、新たな学びを、誘い出せる、とか。
新技術の多くは、これまでにも、歓迎の声と、警戒の声が、入り混じって、迎えられた。その後、定着したものは、その殆どが、使いようが、整えられることで、害より利が、優るようになり、その地位を築いていった。確かに、省力化が進めば、人力作業の多くは、不要となるから、当然、労働者の数は、減ることとなる。これが、製造業における、自働化や製造機器の導入で、従業員の数が、減らされたことを、想起させ、仕事が奪われる、という叫び声が、聞こえることへと、繋がるのだが、その歴史において、労働者は、別の活躍の場を、得ることで、仕事を続けており、一概に、警戒すべきもの、と見るべきではない。また、労働環境の改善は、危険性の回避へと、繋がるから、労働者自身にも、利益となる場合もある。では、不正の方は、どうだろうか。特に、教育現場では、警戒が高まりつつあり、既に、問題が生じている、との訴えも、数々寄せられる。だが、その内容を、詳しく眺めると、問題の本質が、教える側の怠慢、にあるとの見方もあり、一概に、禁ずることが、良いとは限らず、また、場合によっては、それらの不正を、暴くことの難しさが、新たな障害となる、こともありそうな気配だ。ただ、現場の困窮具合から見ると、まさに、喫緊の課題となりつつあり、どう処せばいいのか、答えを求める声が、多いのも事実だ。では、どうすべきか。一部の大学では、人工知能による不正が、発覚した場合には、厳しい処分を下す、と謳っているようだが、上に書いたように、利用の有無が、確認できない場合には、何ともならず、当事者が、困り果てるだけ、となる。各人に、任せるしかない状況だが、その中で、何をどう工夫すべきか。実は、大した問題ではない、との意見もある。他人のものでも、人工知能でも、借り物であれば、その理解を、確認するだけで、十分だろう、となる。多分、この辺りが、現時点での、落ち着き先だろう。どうなるのか。
硝子の天井を、打ち破った、としては、大騒ぎに過ぎるか、何れにしても、女性の社会進出で、下位に沈んだままだった、この国の宰相が、女性になると、想像しなかった人は、多いだろう。その一方で、なるはなったが、務まる筈が無い、と思った人も、多かったようだ。
で、蓋を開けてみて、どうだったのか。依然として、極端な両論が、飛び交っている。毅然とした態度さえ、いきがっている、と見る向きがある。そこにきて、一見、論理的な説明も、その弱点を、突こうとして、躍起になる人々も。これらが入り混じり、社会媒体は、ある意味、盛り上がっているが、大衆媒体も、負けてはいない。どちらの意見に、与するかで、都合のいい情報を、挙って取り上げるのは、今に始まった、行状ではない。こんな状況では、世界情勢が、どう流れているかでさえ、主義主張により、正反対な論評が、目立っている。何が正しいのか、どう判断すべきか、自信の無い人程、戸惑うばかりとなり、画面から、目を離せなくなる。だけでなく、社会媒体では、好悪を顕にして、極端な意見を、書き込む人も、数え切れない。だが、その根拠は、薄弱なもので、誰かが、そう書いたから、とか、大衆媒体で、そう言っていたから、とか、そんなものばかりで、媒体の主同様に、一次情報に、触れようともせず、流れに、身を任せている。そんな極論を、眺めつつ、あたふたする人には、何とも、不安な日々が続く。それに加え、外交では、牽制を込めて、極端な物言いが、横行し始めており、断絶状態が、強まりそうにさえ、見えてくる。だが、所詮、人間社会は、それだけでは、事が運ばず、互いに、妥協し合いつつ、落とし所を、探しているのだろう。こんな騒ぎの中、極論に与して、過ちを繰り返せば、信頼を無くすだろうし、時に、地位や名誉までも、失いかねない。だからだろうか、多くの意見は、社会的に、尊敬される人や、高い地位にある人ではなく、老後の暇を、潰すだけの人や、不平不満ばかりで、何も成すことが、できない人ばかりが、書き込んだものに見える。まあ、そんな輩に、付き合わずとも、暫く、様子見しても、いいではないか。焦ることはない。
どんな遣り取りが、あろうとも、信じ切った人には、大真面目な議論、と読めるのだろう。今の、社会媒体の状況には、そんなことさえ、感じてしまう。でも、ある意味、冷静な見方からは、何ともはや、的外れで、非常識で、身勝手なもの、としか映らないのだが、どうだろう。
以前から、書き続けるように、今の社会は、弱者が、最強とも見える、状況にあるようだ。だから、媒体の中でも、如何にして、弱者であることを、主張した上で、保護を求める姿を、如何に晒すかが、肝心要の、戦略となる。そんなことを、踏まえた上で、意見の遣り取りを、読んでいると、呆れるばかりとなるが、表面的には、大真面目な様子で、弱者救済を、訴えているので、うっかり発言を、してしまうと、まさに、炎上となる。素人が、そんなことに、手を出せば、集団私刑のように、実名を晒されたり、ないことばかりを、さも真実の如く、殴り書きされる。精神を、病むことさえ、覚悟の上でないと、うっかり発言は、できないのだ。でも、明らかな過ちは、指摘すべき、との意見も、当然のことだ。にも拘らず、今では、大人の対応として、そういう下らないものには、一切手を出さず、傍観に徹する、というのが、最善の策とさえ、言われている。もし、そんな的外れで、非常識で、身勝手な社会なら、そんな媒体は、消し去るべきであり、皆が、無視を決め込めば、可能なのでは、との意見も、散見されるが、現状からは、信じられる筈もない。その上で、現実に、被害が広がっても、そういう暴言の数々は、消されることもなく、場合によっては、何度も、再掲されることで、永遠に続く連鎖が、築かれてしまう。この状況の、根源となるのは、何だろうか。ふと考えると、弱者保護は、確かに、その一つになるが、その前か後に、被害妄想が、あるのではないか、とさえ思える。苛めのことで、考えると、分かり易いが、これとて、不用意に発言すれば、炎上騒ぎへと、結び付くだろう。苛め同様、暴力に関しても、加害を、無くすことは、可能だったとしても、被害は、無くならない、と言われるのは、そんな話からだ。加害と被害を、区別して考えないと、物事は、綺麗には片付かない。では、どうすれば、という疑問への答えは、今の所、見つからないままだ。
愛玩動物が、増え続けており、多種多様なものも、あるらしい。だが、大半は、犬か猫であり、飼い主は、犬派と猫派に、分かれると言われる。何方なのかは、まあ、どうでもいいことだが、例えば、猫について、巷で話題になっていることに、少し触れてみたい。
猫を飼う人々は、その気紛れな態度が、魅力的と、盛んに言うけれど、犬好きの人には、理解されないようだ。絶対服従を、基本として、褒めることで、擦り寄る態度こそが、愛玩動物の典型、との思いからすれば、気紛れとは、馬鹿げたもの、と映るからだろう。まあ、それはそれとして、躾についても、考え方が、大きく異なる。何しろ、猫は、何か悪いことをしても、それを覚えておらず、後から叱っても、無駄と言われる。確かに、そうなのかもだが、少し違うのでは、と思うことがある。幼少の頃、古参の猫が、自宅におり、新参者の子供より、上の地位にある、と思っているようだった。その為、子供が手を出すと、その場では、仕方ないな、とでも言うような、態度で、知らぬふりをするが、暫くしてから、その時の反撃、とでもいう形で、手を出した子を、痛い目に遭わせていた。これは、思うに、自分がされたことに対し、恨みに思って、覚えていたのではないか。だから、手を出した子が、忘れた頃を狙って、反撃に出た訳だ。子供の方は、すっかり忘れて、何のことやら、と首を傾げるが、親達には、それが、上で書いたようなこと、のように映っていたらしい。そう考えると、猫の記憶力も、侮れないと思える。但し、ここでは、自分がされたことについて、当てはまる訳で、猫の悪戯のように、自分がしたことには、当てはまらぬのかも、だ。でも、この話、猫に限ったことではなく、人間にも、そんなことが、沢山あるように見える。今の社会媒体での、遣り取りの多くは、自分がしたことと、されたことの、区別によって、すっかり忘れたり、いつまでも根に持ったり、との違いが、はっきりと表れている。意外に、生き物は全般に、そんなものかも知れぬ。下らぬことだが、そう思えば、執拗な攻撃も、適当に流すことが、できるかも、だ。
誰もが、手にした端末から、発信できる仕組みとして、社会媒体は、今の地位を、築いたと言える。だから、その恩恵を、重視すべきであり、批判的な指摘は、当たらない、とする考え方も、あるだろう。だが、嘘は嘘、捏造は捏造であり、発言者自身の、利益のみを尊重すべきではない。
こう書くと、そんなことは、十分承知の上で、その書き込みの真偽については、読み手自身が、判断すれば良い、との意見があるのは、十分承知の上で、発言の真偽について、別の人が、指摘することは、非常に重要である、との意見を、掲げておきたい。それが、昨日書いたことなのだが、これ自体も、反応が様々で、今の世の中の、捻れた状況を、表しているもの、と思っている。例えば、報道の一種として、怪しげな情報を、広げようとする動きは、実際には、その運営者が、耳目を集めることで、広告費などを、稼ごうとする魂胆の現れで、その誤った情報で、読み手が、損害を被ることには、何の責任も無い、とするのは、余りにも、行き過ぎの感がある。それも、大元の情報が、間違っているかは、発信者自身の、責任の及ぶ所では無い、とまで言い始めると、もうお手上げである。現実には、そういう場の管理者が、どんな責任を負うのか、これから、定めていかねばならない、となるのだろう。次に挙げた例では、発言者自身からの、反応は全く無い。不都合なことには、相手をしない、というのが、この媒体の鉄則であり、持論を押し通す為にも、発言者本人の判断として、細かなことには、取り合わぬ、というのが、最善の策、と言われる所だ。一方で、反論に対する反論に、終始したが為に、精神を病むに至り、その損害の賠償を、匿名の反論者に求めたり、媒体の運営者に求めるような、訴訟騒ぎが、起きているから、触らぬ神に、といった姿勢が、自身の心身を、正常に保つ為の、手段の一つ、と見る向きもある。だが、それ以前の問題として、誤った発言を、しないのが、一番ではないか、と思うが、どうだろうか。その、誤った発言により、間違った情報を、押し付けられ、それを、鵜呑みにしたが為に、精神を病むに至ったとしたら、誰の責任か、ということだ。まあ、所詮、取るに足らぬこと、に違いないが、これほどに普及し、多くが、眺めずにはおられぬ、という状況は、誰が何を間違ったのか、という点で、論じるべきことかと思う。
社会媒体の、情報信用度に関して、これまでに、何度も書いてきたが、パンチの名前で、登録した囀りでも、時々、表示された書き込みの中で、気になったものに対して、意見を書き込んでいる。中には、乱暴で、不確かな内容に、多くの人々が、賛同を示す場合があり、注意喚起の目的だ。
最近は、登録した人だけが、閲覧できる仕組みになり、誰もが、読めるようには、なっていないので、ここでリンクを、貼り付けたとしても、読めない人も居るだろう。でも、まあ、登録するかは、人それぞれなので、念の為に、貼り付けておく。一つは、不確かさの典型であり、科学研究の論文を、引き合いに出して、最新の知見を、紹介するものだが、肝心の論文は、研究の世界で、常識となっている、査読という審査を、受けておらず、真偽の程は、不明なままだ。こんな怪しげな情報も、引用の仕方では、如何にも新発見の如く、扱えるので、当初の反応は、驚きに満ちており、情報操作の典型、と言えるものだ。これに続き、詐欺話が加われば、まさに、犯罪へと繋がりかねない。で、その点を、指摘しておいた。もう一つも、査読論文に関するものだが、何処かの大学の教授が、訳知り顔で、苦境の説明を、行ったものだが、内容は、杜撰でしかなく、常識を疑うものだから、その点を、指摘した。案の定、本人の反応は無く、不都合なものは、相手をしないという、信用ならぬ人物、と、わかる人には、分かったのではないか。次は、書き込みそのものではなく、その前の情報に、確認できぬことが、あることを指摘し、著名大学の募集においても、そんな不確実性が、含まれる程に、情報発出が、十分に検討できていない、という点に、問題があるように思えた。何が、どのように、表示されるのかは、籤引きか何かのように、偶々のこと、でしかない、と思えるようだが、果たしてどうか。そんな得体の知れぬ、情報を、鵜呑みにするか、疑ってかかるか、更には、確かめてみるかは、本人の問題なのだ。それなりの力を、つける必要がある、ということだろう。
教育は、学校の責任だけでなく、親の責任が、大きい。という話が、物価高騰の中、気になるという話だったが、子供の生育に関しては、親だけでなく、環境の問題も、大きい、という話の一つが、新聞に紹介されていた。能力の発達は、教育という観点だけでなく、生育にもある。
新聞の記事は、音の問題が、子供の生育に、強い影響を及ぼす、という内容だった。特に、大きな音に対し、子供が驚くから、という話は昔からあり、びくびくする子に、しないようにと、叱ったり怒ったりする時も、なるべく小さな声で、などと育児書に書く人も居る。まあ、時と場合により、始終、そんな環境におかれては、年齢に関係なく、誰しも、落ち着かないもので、精神を病む場合さえ、出てくるのだろう。で、この記事の核心は、音の大きさ、所謂、騒音に分類されるものではなく、反響音にも、気を配るべき、との指摘だった。建築学会が、そんな要望書を出すとして、他の先進国では、数値基準さえ、設けている所もある、と綴っていた。反響音と言えば、音楽会場での、残響の問題が、取り上げられるが、そういう、美しい音色の為ではなく、単純に、不快さを示すものとして、そんな基準があるのか、という疑問が湧いた。ただ、この手の話として、思い出すのは、ある地方の美術館で、そこは地元出身の、障害者を記念して、建てられたもので、彼の作品が、展示されていたが、ある年に、新築された。よくある話で、設計者の提案を競わせて、最優秀のものを、建築した訳だが、暫くして訪れると、各部屋で、強い違和感を抱いた。円筒を切った形に、各部屋は設計され、その周辺の壁に、展示物があったが、その中心に立つと、何とも言えない音に、包まれる感覚があった。数ヶ月後に、再び訪れると、各部屋の中心には、何故か、机が設置してあり、そこに立つことが、できなくなっていた。成る程、苦情があったのか、と納得したが、選考基準には、美しさはあっても、そういった問題は、無かったのだろうな、と思った。地声が大きいので、廊下での反響にも、屡々出会すが、これも幅と高さの比率、なのだろうと思う。こんなことから、学会も、口を出すようになったのかも、と思うが、世の中には、色んな障害が、あるものだ。
値上げが続き、生活が、一層苦しくなる、という話が、よく流れてくる。でも、本当だろうか。別に、裕福な家庭でもなく、ごく普通の平均的な、と思っているが、今回の値上げで、日々の生活が、厳しく圧迫された、とは感じたことはない。だが、一部では、そんな状況と聞く。
例えば、子育て中の家庭で、学校に通わせている場合、給食費が、払えなくなった、とか、修学旅行の積立金が、支払えない、とか、そんな窮状が、度々取り上げられる。が、本当だろうか。払いたくない、の一言で、片付けられたら、本当だろうな、と思うけれども、払えない、という状況は、俄には信じ難い、としか受け取れない。そんな家庭でも、移動の手段は、何とか講じられており、また、日々使う、通信手段も、ほぼ確実に、確保されているだろう。だが、それに比べて、子供達の教育に、かかる経費となると、話が違うらしい。穿った見方では、でも、塾に通わせたり、その他の活動に、かかる経費は、どうなるのか、とさえ思えてしまい、一体全体、彼らの優先順位は、如何に決められたのか、という疑問さえ、浮かんで来かねない。仮令、子供を儲けたとしても、それは、単に、自分らの楽しみの為で、彼らの将来に、必要なものの中には、不要なもの、と映るものも、あるのではないか。まあ、それぞれの勝手としても、上に書いた、給食や旅行に、必要となる経費が、賄えないとの窮状が、訴えられた途端に、手を差し伸べる人が、登場してくる時代には、自分で、自分のことを、出来ない人を、これ以上増やしては、社会自体が、崩壊するのではないか、とさえ思えてくる。と言って、障害者のことを、書いているのではない。彼らの権利を、保障する為の、仕組み自体は、社会において、不可欠なものだろうから、それを無くせば、などと暴論を、吐くつもりはない。だが、上に書いたような、身勝手な事情を、訴える人の中には、障害者が、受けている利益を、健常者である自分も、受ける権利がある筈、などと言い出す人まで居る。何をか言わんや、としか思えぬが、大真面目で主張し、それが、当然と思う。何を何処で、取り違えたのやら。
何人が読んでいるのか。ということを、書いた人は、気にするのか。大衆媒体の場合、テレビなら、視聴率があるし、新聞なら、購読者数がある。嘗て、世界一を誇った新聞も、あったと記憶するが、果たして、今はどうか。更に、各記事については、どうか。気になる人も居るだろう。
視聴率は、あくまでも率であり、総和とはならない。だから、日々の番組で、何人が視聴しているか、を知る手立ては、今の所、無いようだ。一方、新聞の購読者も、誰もが、自分のことを、思い出せば、すぐに分かるように、全紙面の記事を、全て隈無く読む、という人は居まい。だから、各記事について、何人が読んだか、調べた人は居ない、と思う。ただ、最近は、新聞も電子化が進み、各記事への訪問数を、数え上げれば、近い答えを、得ることができるかもだ。同じとは、言い難いが、社会媒体の方は、この仕組みが、遥かに進んでいる。特に、公開を基本とする、囀りについては、各書き込みに、閲覧の概数が、示されている。その数により、重要性の軽重を、評価するかの如く、番組で取り上げる、大衆媒体もあるが、客観的と称して、何の自主性、主張も出さないのは、如何なものか。一方で、概数に関しても、ちょっとした仕掛けが、あるようにしか、見えない。閲覧数が、増加し始めると、その勢いが、どんどん増す方に向かう。これは、囀りの特徴の一つ、提示の仕方に、原因があるように思える。「おすすめ」と称するメニューが、常に、上に示されており、それを押せば、確かに、そんな具合に思える、書き込みの数が、表示される。おそらく、見ている人間が、どんな記事に、目を向けたかに、依存する形で、表示するものを、選んでいるのだろうが、それにしても、こんな書き込みで、何故、そんな数の人間が、閲覧したのか、と思えるものが、大部分だ。詐欺の話の中でも、紹介したことだが、捏造や嘘などで、耳目を集めれば、達成できることで、時に、子供騙しが、続々と表示される。まあ、所詮、その程度のもの、と思いつつ、情報収集を、繰り返すのだが、さて、意味があるのか。多分、無意味には、違いない。ただ、あまりに酷い内容に、批判を加えるのを、止めてしまっては、いけないような、気もする。