判った、かの如く、書いているが、その中味は、どうにも、支離滅裂で、何が言いたいのか、分からない。そんなものが、手にした端末に、次々に、届いている。情報社会だから、何も、逃したくない、と思う人も、いるのだろうが、こんな塵の山に、一体全体、何の世話になろうと。
これらの塵を、せっせと、届けているのも、媒体、と呼ばれる代物だ。参加者から、最近、届くのは、何やら、仕組みが変わり、何の役にも、立たないものが、どんどん届けられる。自分の行動が、反映されたもの、との解釈が、なされているが、身に覚えがなく、自分の考えが、崩壊したのか、とさえ、思えてくる、と書いてある。元々は、顧客への奉仕、という形で、様々に、工夫が凝らされた、仕組みが、届けられ、欲しい物が、突然、画面に現れて、驚いた、という話や、納得できる、話に触れられて、良かった、という話が、綴られてきた。しかし、人間の関与、ばかりでなく、人工知能が、無数に転がる、データを、分析した結果として、編み出された、新たな工夫は、どうにも、人間離れ、したもののようだ。深層心理、という言葉が、時々、使われるけれど、本人が、意識していない、所謂、意識下の欲望を、実現したもの、とでも、言われそうな、気配もあるが、どうだろうか。それより、真偽入り混じった、ものを、提示することで、こちらの心理さえ、操ろうとする、そんな動きを、懸念すべき、かも知れぬ。今や、老いも若きも、性別に関わらず、興味の対象は、手にした端末に、操られている、とさえ、思えてくるが、さて、この後に来る展開は、どんなものと、なるのだろう。といっても、こちらは、媒体も含め、様々に、情報収集、と言える程でなく、単に、目に触れるものに、色々と、注文や文句を、投げ返して、いるだけだが、素直に、信じ込む人には、怖い存在と、なり始めたのかも、だ。
何でも、媒体の責任、にするのはおかしい、と思う。だが、今の状況では、被害者意識に、取り憑かれた人達が、誤った認識を、吐露する場として、格好の機会を、提供するが、そこで得られる、同意の多くは、同様に、間違ったものであり、当人には、何の役にも立たない。
中でも、攻撃性が、大きな問題を、生じている。誰彼なく、相手の言葉尻を、捉えて、それらを、批判することで、溜飲を下げる、という図式は、決して、生産性のある活動、とは言えぬ代物だ。何処の馬の骨、とも知れぬ人間が、鬱憤ばらしに、明け暮れるのは、無駄が、無駄になる、だけのことで、本人以外には、毒にも薬にも、ならぬものだろう。一方で、こういう過激発言を、煽る輩は、単なる愉快犯でしかなく、批判とも、論理とも、結び付かぬ連中だ。そんな人間が、活動の場を、見つけたから、今の賑やかさが、あるのかも、知れないが、現実には、何の役にも立たず、無駄なだけのものなら、余計なことは、しないほうがいい。一方、攻撃性については、責任ある立場でも、目に余るものが、あると言われ、これも、大きな問題と、言われている。ここでも、被害者意識が、双方向に、展開されており、何方も、自分こそ、被害者である、と言わんばかりの、主張が繰り返されるが、実際には、お互いに、加害者であり、意思の疎通が、円滑にできぬ、欠陥をもつ、人間なのだ。誰しも、子供の頃には、自己中心的な、考え方しか、できないもので、身勝手な論理を、展開することが、多くあるが、成長すれば、相互理解を保ち、全体を、より良くしよう、とする考えから、交渉を行う。その結果が、相互に、利益となることが、条件となるが、攻撃的な考え方では、そんなものは、投げ捨てられる。これでは、仕事も何も、進まぬままで、不利益ばかりが、残ってくるのだ。だが、そうなると、こういう人の多くは、囀りなどの、社会媒体で、不平不満を、吐露し始め、助言を、与える人より、単なる賛同を、得たいと願う。精神衛生上は、確かに、好ましいかもだが、業務などは、滞るだけで、何にもならない。
施しばかり、求める人には、対価は勿論、納税も、邪魔なものでしかなく、また、文化が、失われる話も、自分に無関係なら、全然気にならぬ、というものだ。愚民政治は、民衆の望むものを、与えることで、人気を集めるが、その最大欠陥は、税収不足だろう。
だが、長く続いた不況が、いつの間にか、活況へと、転じた途端に、税収も増し、別の施しを、考えねばならぬ、事態となった。だったら、これまで、縮小の連鎖で、首が回らぬ事態に、陥ったものに、注ぎ込めば、と思うのは、的外れなのか。公的な施設の多くは、非常に厳しい状況に、追い込まれており、死に体とまで、言われてきた。そこに、追い討ちをかけたのは、自立化を、目指せという、大臣の方針だろう。だが、それらの施設が、公に運営される、意義は、何処にあるのか。短い任期しか、持たぬ大臣には、考える気配さえ、見えてこない。だが、国政に携わる限り、座っている間だけ、などという考えに、囚われていては、無能でしかなく、役立たずでしかない。少なくとも、予算を、増やせる状況に、変わりつつある中、国の在り方を、考えることなく、縮小ばかりを、口にするのは、愚かとしか、言いようが無い。その中、どう舵取りするのか、宰相をはじめとする、政権幹部の、思慮次第だが、今まで通りだと、期待薄となる。ただ、大学への予算確保は、随分と、違う様相となり、少しずつだが、正常化に向かうかも、という、淡い期待を、抱かされる。文化や教育は、国の在り方の、中核を為すもので、蔑ろにしては、滅びるしか無い、となってしまう。本当に、すべきことは、施しではなく、優先順位を、つけた上で、長い目で見て、支えるべきものに、予算を、注ぎ込むことだろう。こんな、当たり前のことを、敢えて書かねばならぬ程、今の世界の様子は、荒れ放題となっている。田畠を、耕すように、考えれば、すぐに分かることだろうに。
「文化軽視の政治」の文言が、紙面に踊っていた。その見出しでは、「日本美術館」は不要か、との言葉もあり、政治への不信が、こういう面でも、進んでいる、と感じさせるものだ。確かに、文化という意味では、美術だけでなく、他の分野でも、強い圧力が、かかっている。
ただ、記事では、何やら、美術品の価値を、競売での、落札価格で、表現した上で、それを、観覧する為に、世界各地の美術館を、訪問することが、紹介され、国ごとの事情の違いを、表に纏めていた。来館者数、収蔵品数、職員数などが、表示されていたが、本文も併せ、入館料に、一言も触れないのは、強い違和感が、残った。ちょっと、調べてみよう、とも思ったが、検索してみると、古い資料しかなく、世界的に、比較することが、重んじられず、ある意味、どうでもいい、かの如くに、扱われている、とさえ、思えてきた。また、料金については、ある貨幣に換算して、比較しても、各地の物価との、比較が落ちては、ほぼ無意味だけに、単純な比較は、難しいのだろう。それに、この記事の目的は、観光との関連もあり、身近な文化、との結びつきには、ほぼ触れていない。一方、政治不信の、原因の一つは、博物館も含めた、この手の施設の、自立に関する話だろう。これについては、監督官庁が、資料を掲げており、その中での、運営状況の数値は、何らかの意図で、纏められた、とも思えるが、会議自体の、議事要旨を眺めても、何も触れられておらず、意図を、読み取ることは、できない。こんな状況で、重要な会議が、進められるのかもだが、さて、文化に関する政策は、何方に向かうのか。納税者に対する、説明責任ばかり、問うてきた報道も、こういう形で、批判するのは、勝手だろうが、税金にせよ、入館料にせよ、何も、出したくない、と叫ぶ人々を、相手にしても、無駄に思える。享楽主義が、駄目だとは、言わないけれど、こういうものを、どう扱うべきかは、別の観点から、考えるべきかと。かつて、地方の旦那衆が、訪ねてきた、文化人を、支えてきた、と言われるが、その形では、それらが、民の目に、触れることが、無かった。それを、公の財産として、と見做すのなら、その対価は、人民が、担うべきかも、だ。
批判的に、文章を読んだり、人の話を聞いたり、することの、重要性は、何度も、説いてきた。確かに、疑いを、抱きつつ、内容を、確認しないと、簡単に、騙されたり、話に乗せられ、騒ぎに、巻き込まれたりする。現代社会のように、情報が重要、となれば、より一層のことだ。
で、日々の報道や、評論本などに、触れるのだが、小説は、少し事情が、異なると思う。推理小説は、例外かも知れず、筋道を、辿りつつ、誰が犯人か、どんな手口か、について、考えを巡らす。その時、著者は、少しのヒントを、残す場合と、逆に、誤解を、植え付けるような、罠を、仕掛ける場合がある。何方にしても、それらを、見つけ出して、展開に、乗ることが、楽しみの一つ、になるのだろう。一方、この所、毎月紹介する、時代小説は、事情が異なる。時代考証が、重要となるものも、あるのだろうが、人物も内容も、架空のもの、である場合には、そんなに、粗探しを、必要とせず、出てくる、当時の風習や、料理の数々を、楽しめばいい。ある意味、気楽なものだが、著者が、何故ここで、このことに、触れるのか、といったことには、目を向けることが、多くある。現代小説は、著者にもよるが、あまり、楽しめぬことが、多くある。どうも、人物描写や、心理描写に、違和感を、覚えるようで、物語の中に、入り込めぬ、といった感覚が、残ってしまう。大した読書量、でもないから、飛ばし読みは、殆どしないし、買った本は、全て読もうと、心掛けている。仕事関係以外には、図書館で、借りることは無く、それらの読書は、記録には残らない。本好きな、性格でも無く、子供の頃は、専ら、自宅にある、漫画本を、読むだけだった。それでも、仕事に、暇ができると、他にすることが無く、結果的に、読書をする羽目に、陥っただけだ。ものを書くことは、面倒でもなく、困ることは少ない。ただ、話すように書けば、それでいい、と思う。まあ、人によることだが。
何方の戦いも、泥沼に嵌まっている。当事者達の、思惑がどうかも、見えなくなって、このまま、ただ続けるだけ、となるのでは、とさえ思える。それぞれに、大義があった筈が、いつの間にか、そんなものも、何処かに消し飛んだか、と見えるに至り、お手上げなのかも、と思う。
他国を、手に入れようと、首都陥落間近、まで至ったものの、思わぬ反撃で、絶好の機会を、逃したばかりか、それでも、軍事力の、絶対的な差で、占領間近、と思ったものの、結局は、何年も経過し、最近は、前線での反撃どころか、逆に、首都近郊に、攻め込まれたり、資源施設を、破壊されており、形勢が、測れなくなっている。それでも、国力の差は、歴然としており、窮鼠猫を噛む、程度の話に、終わるのだと、あの独裁者は、信じているのだろう。これでは、まさに、あの国の春の訪れと共に、進軍の妨げとなる、泥沼に、嵌まったかの如く、にあるようだ。巨人と雖、泥で、動きが鈍れば、小人達の攻撃に、曝される、とでも言うが如くに。一方、紛争地帯の、問題解決を企てて、政府転覆を、狙ったと言われる、大々的な爆撃は、確かに、指導者群を、ほぼ壊滅させたものの、他国のゲリラを、支援する軍隊は、そのままの勢いを、保ったまま、反撃に出た。その上、互いの協議で、覚書を交わしても、どこ吹く風と、素知らぬ振りで、海峡閉鎖を続け、依然として、地域の権利を、手放す気配さえ、見えぬ状況に、こちらの暴君は、徹底殲滅を、目指すが如くに、要衝への爆撃を、続けている。ただ、政府内の勢力争いや、他国のゲリラ支援が、複雑に、入り乱れる中では、早期の解決は、望めそうにない。何方の戦いも、世界中に、悪影響を、広げてきたが、ここまで来ると、解決せねば、という勢いは、殆ど見えない。それより、継続が、当然と見て、その中で、どんな解決策が、あるのかを、見極める必要が、あるのだろう。毎週末の、不規則発言も、当初は、振り回されたが、今や、不安定が当然、と見て、他の均衡点を、探し続け、安定を目指す。と見れば、対岸の火事に、騒ぐのも、無駄と見るべきか。
教育の話題は、尽きることがない。確かに、そうなのだ。人間自身のことだけでなく、社会として、国として、考えた時に、教え育むことが、如何に重要か、という問題に、直面する。では、教え育むとは、どんなことか。こちらについて、論じているようで、そうでもない、という気が。
子供の頃、色々と学んだ、と考える人は、多いだろうが、その多くは、押し付けられ、それを、消化した、という形だった、のではないか。教え育むという意味では、見守ってやり、道を示した上で、そちらに向かわせる、といった形になる。だが、ある年齢を超すと、自分自身で、道を見定めて、そちらに向かうには、どうすべきかも、自分で、決めねばならなくなる。いつまでも、手を取り足を取り、教わり続ける、とはいかぬもので、その中で、重要となるのは、答えが、与えられるか、自分で、見つけるか、という点だろう。そういう過程を、経てきた人は、そこに、唯一無二の、正解がある訳でなく、時と場合により、答えは、違ったものになるし、その時、正しいと思われても、後に、間違いとなり、別の正解が、見えてくる場合も、増えてくる。この過程も、ある意味で、教育の一環として、見做されており、ある程度の、助言が与えられ、自分で、軌道修正する、という形に、変化していく。人の成長に、合わせて、そういう転換が、図られるが、その中心となるのは、当然ながら、自分自身で、周囲が、あれこれ、注意をしてくれ、助言を与えてくれても、結局は、どれを、受け入れ、何方に向かうかは、自身で、決めるしかない、と言われる。初等中等教育では、正しい答えを、示すと共に、それへの道筋を、教え込む訳だが、その後、高等教育に、進んだ途端に、様相が、一変する。答えが、無い問題を、解きなさい、と言われて、何処を、進んでいるのか、見えないままに、次の段階へと、向かわねばならない。以前なら、教師が、何らかの答えを、示してくれたのに、突然、それは、自分で決めること、と言われた途端に、戸惑う人が多い。でも、そちらの方が、当たり前では。だとすれば、やはり、そういう模索を、含めた形で、悩み考えて、自分なりの答えを、導く必要がある。誰もが、通る道として。
この国では、亡くなった人を、批判するようは言葉は、忌み嫌われる。確かに、死という、罰の一種を、受けた中で、その行為自体を、否定することは、禁忌とされる。また、そこには、別の事情があり、それに触れることなく、全面否定では、と言われることも、多くある。
でも、と思うことも、多くあるのでは。例えば、建物から、落下した人が、地上の人を、巻き添えにした時、後者には、何の罪も無い。落ちてきた人が、どんな事情を、抱えていたとしても、加害者である、という事実は、曲げられない、と思う。自然災害を、相手にした時、同じ論理を、適用すべきでない、のは明らかだろう。ただ、他人が、そういう災害を、客観的に眺めて、もし、自分に降り掛かったら、どうすべきか、を論じること自体は、何も間違っていない、と思う。亡くなった人を、誹謗中傷する訳でも、批判した訳でもない。自分なら、という思いを、表明することや、これまでに、見聞きしたことから、どうしたら、という話を展開することに、間違いは、無いのだと思う。しかし、今の時代、そうもいかぬ、という状況が、起きかねない。被害者優先が、そこまで、拡張されるとは、決して思わぬが、そうでない人々が、突如として、群がってくることが、あるからだ。そういう意味で、発言には、注意せよ、と言われるのだが、果たして、そうだろうか。別に、他山の石、と言うつもりは、全く無いけれど、様々な状況を、眺めながら、そこから、取るべき行動を、考えておくことには、何の誤りもない、のだから。ただ、こういうことも含め、他人の発言を、曲解することで、その発言主を、批判する行為は、今の社会では、当然の権利とまで、思われている、ようだ。いい加減にしたら、と思うのは、軽率かも知れず、その後に来る、所謂炎上では、どうにも止められぬ、暴走が続いてしまうから。
災害に関して、今回も、警報の仕組みが、変えられた。皆が、理解し易いように、と言われるが、どうも、通じないようだ。慌てて、逃げ出す人が、居る一方で、判断が必要、と動かぬ人が居る。人それぞれ、と言えば、その通りだが、さて、警告を発する側から、どう見えるのか。
とは言え、ここでも、基本は、自己責任だろう。最終判断は、自分で下さねばならず、それに従って、動き始めたら、そこから先は、起きることに、対応するだけとなる。川が溢れ、大水が流れてきたら、車での移動は、危険に違いないし、徒歩でも、安全確保は、かなり難しい。一方、大雨が降る度に、どこかで、起きるのが、崖崩れや土石流、と呼ばれる、山が崩れてくる、災害だ。水でも土でも、どっと流れてくれば、防ぐ手立ては、ほぼ無いに等しい。川の氾濫で、水位が、徐々に増すのと違い、山から水と一緒に、土や木が、流れてくるのは、一気に生じる、現象であり、判断は、その場ではなく、事が起きる前、に限られる。今回、ある場所で、起きた、裏山が崩れた災害は、これまでにも、よく見たものだが、違いがある、とすれば、山の高さだろう。裏山は、精々50メートル程の、高さしかなく、そこから、土砂が流れても、大したことはない、と思っていたのか、住民二人が、犠牲となった。崩れたのは、それ程の高さでもなく、更に、こんなことで、と思った人も、居るだろう。ただ、現地の雨量は、非常に多く、周辺の川も、氾濫したと聞く。倒壊した家屋は、二階建てで、主に潰れたのは、一階部分だった。そこで、思い出すのは、災害が起きそうな時、裏山から、遠い部屋、より高い所へ、家屋の中でも、避難せよ、との警告だった。高い裏山からの、土石流で、家ごと流された、という災害では、こんなことでは、安全は、確保できないが、今回のものは、まさに、この警告を、思い起こさせるもので、もしも、と考えてしまう。行政が、とか、自治体が、とか、言い出す人が、出てくるのは、必定だが、今回の災害は、個人の判断でも、と思えるだけに、残念に思う。相場同様に、自己責任を、常に心掛けるべき、とは、まさにその通り、としか思えなかった。
昨日のような話は、囀りや顔本などの、社会媒体が、出てきたから、起きた訳ではない。一部の人は、悪者を見つけると、全てを、その責任にする、という癖があるが、元々、面と向かうかどうか、という点に、最大の問題があり、その場での、遣り取りかも、問題となる。
電子メールを、はじめとする、便利さに、すぐには、飛び付かなかった。だから、はじめの頃は、時代遅れ、との目を、向けられることも、多々あった。でも、少しずつ、手を広げ始め、今では、この場のように、毎日の書き込みを、せっせと、繰り返すように、なっている。で、皆の意見交換が、仮想空間で、行われ始めたのは、所謂、ネット掲示板が、登場してからで、中でも、その匿名性から、愉快犯などの、好き勝手な、暴言、妄言が、繰り返されたのが、問題視された。2チャンネルは、その典型で、皆が、共通の匿名を、名乗り始めると、区別がつかず、過激性は、強まるばかり、となった。自分が、誹謗中傷されたと、誤解する人が、現れるに至り、百害あって一利なし、と断じられた頃から、衰えを、見せ始めたが、逆に、最新型の、社会媒体が、登場してきて、そちらの方が、便利で簡単であり、耳目を集め易い、となったことから、離れていったようだ。こちらは、そこまで、付き合うつもりは、毛頭無かったから、精々、ネット掲示板、と呼ばれるものに、参加して、今の囀りと、同じ感覚で、間違いを指摘し、正しい方へ、議論を向かわせよう、としていた。しかし、何度か書いたように、思い込みが激しく、間違いを、認めぬ姿勢の人を、相手にすると、ただ疲れるだけで、無駄と思える、遣り取りが続いた。遂には、他の人から、無駄だから、と指摘され、そろそろやめたら、と書かれて、やめたこともある。今は、それ程までには、付き合う気力も、ある意味の暇も、無いのだから、指摘しても、非論理的な反論が、届いたら、今一度の、指摘をして、無視しているが、一部には、永遠とも思える、議論が続き、読むのを、やめるしかない。それも、即座の反応、といった風で、対面では、と思える程だが、現実世界では、そうはいかない。まあ、互いに、自分の世界に、閉じ籠った結果、なのだと思う。見物にも、値しないのだ。
主義主張が、できることは、良いことだが、その内容が、劣悪、悪質だと、どうなのか、となる。まあ、その典型が、毎日、囀りなどの、社会媒体で、行われている、意見交換だ。一見、妥当に見える話だが、綻びが、感じられたと、指摘した途端に、激論の応酬となる。
ただ単に、主義主張の表明、だけならば、多様な意見として、皆が認めるのだが、火がつくと、罵詈雑言となったり、罵倒の連続となり、果ては、人格否定へと、発展する。当初は、論理性が、保たれていても、興奮状態へと、移ると、非論理的な、話の連続となり、読むに堪えぬ、となるばかりか、攻撃的な発言で、価値も、失われる。確かに、誰しも、自分の意見が、否定されれば、良い気持ちはせず、腹が立つ場合も、起こり得る。そこで、怒りに任せて、文字を連ねれば、これもまた、誰でも、冷静な論理展開を、失うばかりとなり、汚い言葉を、並べることで、専ら、否定に走る、こととなる。本来、社会媒体は、密室での議論ではなく、公開討論の一種だから、全ての人の目に、触れるものであり、時に、脇から、注意喚起も、行われるが、興奮状態にある人間は、聞く耳を持たず、八つ当たりさえ、起き始める。こうなっては、手が付けられず、皆、立ち去ることが、得策と見て、無視するのだが、当事者は、そうもいかぬ。で、暫く、相手をするが、殆どの場合、徒労に終わり、精神的にも、疲れ果てることもある。社会媒体では、毀誉褒貶が、当たり前、と思っておけば、腹がたっても、暫くの間、放置することで、頭を冷やし、対応策を講じる。拗れる理由は、おそらく、発言が、公開のものにも、関わらず、発言者本人は、画面を前に、密室で、考えた上で、返答するからだろう。感染騒動で、皆が、穴に閉じ籠った時、一部で、指摘されたが、直接、対面しながら、話を交わすのでなく、互いに、画面を通して、意見交換すると、主観のみに走り、極端な考えに、陥ることが、多々あった。そんなことが、今、この瞬間も、起きているのだろう。客観を、失ってしまうと、暴走してしまうのは、人間の性なのだろう。
で、証券サイトとして、何をすべきか。それに、答えがあるのなら、苦労はしない。実際に、証券社員だったら、何をどう薦めるのか、難しい問題だ。ただ、免税措置や、その他の優遇もあり、若い世代に対しては、王道なるものが、あるように見える。長い目で見て、となるからだ。
しかし、物価高騰の中、給与が上がり始めた、という状況でも、既に、一線を退いた人間には、選択肢は、殆ど残っていない。まず、長い目、と言われても、自身の人生計画が、いつ終了するか、がはっきりしないだけでなく、いつ訪れるか、分からないからだ。子供達に、残したいと願うか、によっても、大きく異なってくる。何しろ、ここ数年に、退いた人間なら、ある年齢までは、それなりの収入増が、確かなものだったが、いつの間にか、頭打ちの状態に、陥ったからだ。一方で、物価は、安定しており、利率が、低いままの時代には、ローンなどの借り入れが、賢い選択となった。昔は、確かに、預貯金でも、十年で倍となり、この国の特徴として、投資より貯蓄、と言われたのは、当然だったが、預けたら、そうなるとなれば、借りれば、どうなるのかは、自明だろう。多額のローンで、三十年程で、返済となれば、借入額の、倍以上の額を、返さねばならず、はじめのうちは、元本が減らず、後々の利息分を、返すだけとなっていた。当時と比べれば、不況と言われてからは、ずっと楽な、返済計画を、組むことができた。それが、最近は、様相が一変し、恐れ慄く人が、急増している。で、高齢者にとり、その話は、無関係だから、単純に、資産運用のみを、考えればいい。だったら、何を、どう運用すべきか。保有株が、ある程度以上に、ある人には、まずは、長期目線で、配当を含めた、考え方が、主体となる。確かに、凄い勢いで、上昇を続ける、銘柄は、あるにはあるが、それが、どう変化するかは、誰にも分からぬ。だったら、という考え方だ。もし、今から、株に手を出す、というなら、やはり、投資信託が、気楽なものだろう。会社任せ、と言えば、その通りだが、ある程度の蓄えが、あるのであれば、手っ取り早い、と思う。但し、いつも通りの表現では、投資は自己責任で、となるのは、当然のことだ。
予想通り、などと書くと、また、自慢げに、とでも返されそうだが、連休前の週末、暴君の不規則発言や、爆撃の連鎖が、続くことで、大暴落となった。ただ、平均株価は、指標の一つに過ぎず、その構成に含まれる、一部銘柄が、動いたのは、別の要因から、との指摘もある。
いずれにしても、将来への不安が、と書くには、時期尚早なだけでなく、状況を、見誤ることに、なりそうな気配だ。その中で、国を率いる人物が、不安定となる要因を、産み出すとなると、楽観視はできず、備える必要がある、との意見もある。ただ、相場は、何があろうとも、動き続けるもので、日々、取引を続ける人には、ある意味、歓迎すべき動き、となっている、ように見える。ただ、それが、資産を増やす、ことに繋がるかには、何の保証も無い。だから、巧く立ち回らねば、と思う人が、沢山居て、彼らの多くは、画面に張り付き、動きを、注意深く眺め、その上で、判断を下している。その意味で、乱高下を、繰り返すような、相場が続けば、後追いを、繰り返すだけでも、利益を、上げることが、できそうに思える。頭と尻尾を、狙うのではなく、動きの中で、少しの利益を、追い求めれば、それで、十分な利益を、上げられるのだ。一攫千金を、目指すことは、動きの激しい中では、当てが外れ、大損を、被る場合も多く、注意が必要となる。だが、手数料を、払った上でも、少しの利益さえ、上げられれば、と目指せば、それなりの、確保ができそうに、思えてくる。これは、日々の取引でも、長期保有でも、また、投資信託でも、同じことが、言えている。そんな当たり前を、わざわざ、書いてみても、何の意味もないが、平均で見ても、全体を見渡しても、相場が、急速な上昇を、していることは、事実であり、保有するだけで、含み益は、増えているだろうし、その上に、配当などを、含めれば、新政権となってからは、堅調な動きが、続いているのだ。ただ、あの暴君をはじめとして、世界全体では、紛争が、続いているから、このまま、成長を続ける、と見るのは、軽率だろう。慌てず騒がず、成長する中では、長期保有を、基本とすれば、まずは、確実だろう。その上で、何か起きた時への、備えとして、考えておくことは、何だろうか。意外に、難しいことかも、と思う。
偶然に過ぎない、のだろうが、暴君は、株の売買で、暴利を得た、とさえ、伝えられる中、相場の変動に、大きな影響を及ぼす、心理的な要因を、毎度のように、週末になると、世界にばら撒く。週末は、一旦、市場が休むから、だ。直接、手を下してない、としても、解せぬ話だ。
お山の大将とか、裸の王様とか、暴君とか、どう呼ばれようが、あの人物の、支離滅裂さには、何の影響も無い。ただ単に、思い付きや、気紛れや、朝令暮改や、前言撤回が、次々に飛び出し、後付けで、滔々と、自論を展開し、記者達を、愚弄し続ける。何事も、勝ち負けでしか、評価を下せず、勝敗の結果が、下々の者達に、及ぶことなど、意に介さず、我が身大事を、貫き続ける。だが、それが、私利私欲によるもの、となれば、国の大統領として、失格となる、のではないか。爆撃を、続ける中、その理由は、何とでもなる、と言いたげな、傲慢な態度を、示しているが、口から出るのは、意味不明な、言い訳でしかなく、さて、何の役に立つのか、とさえ、思えてくる。国としての体を、成しておらず、権力が、二分された結果、制御不能となる、相手国は、暴君が、繰り返すように、一旦、国を転覆させ、権力の再編を、行うしか、解決の道は、残されていない、とさえ思えるが、実際には、何方も、手放す気は無く、散発的な攻撃と、言い訳に満ちた、口車を、展開するばかりでは、解決には、程遠い状況、としか、言いようがない。その中、資源を、待ち望む国々は、二転三転する状況に、対応が、難しくなるばかりで、聞く耳を持たず、我が道を行く、暴君を、御することは、不可能だろう。それにしても、毎週の如く、持ち込まれる混乱は、絶えることなく、手を替え品を替え、といった感さえ、浮かぶ程だが、さりとて、手や口を出せば、災厄が、降り注ぐことが、確かなだけに、口を噤むしか、ないのかも知れない。とは言え、今回は、こちらも、連休となるだけに、その間に、何が起きるのか。投資家として、気が気でない。まあ、市場も、心理だけで、動く愚かさを、自覚しているのだが。
倫理や道徳は、特に、罰を下さずとも、人それぞれに、自覚する筈のもの、との前提で、成立するとされるが、現代社会で、法律が、執行されるのは、それだけでは、秩序が保てぬ、ことを表している。だから、社会媒体でも、同様の制度を、と望む声は、強まるばかりだが。
現実には、犯人を、見つけ出し、厳罰に処しても、次々に、登場する、新たな勢力を、全て排除する、ことは不可能、と言われる。だから、犯人探しも、厳罰も、無駄と決め付けるのは、どうだろうか。極端な場合には、やはり、投獄を含め、罰金刑や、その他の罰を、下すべきなのは、当然のことだろう。だが、現状では、一人二人を、罰したとしても、焼け石に水であり、この勢いは、収まりそうにない。だったら、危害を加える、発言そのものを、消し去ったら、との意見もある。その通りだが、その為の篩が、まだ十分に、整えられておらず、抜けてしまうものが、多いことも、重大な問題だし、例の暴君と、経営者の組み合わせから、発言の自由を、守るべきとの判断が、下されたことから、発言内容による、選別自体は、難しくなった。でも、と思うのは、その考えが、権力者と金持ちの、組み合わせとは言え、ほんの一部の、意見に過ぎぬことから、今一度、整えてみる必要が、あるのでは、ということだ。年齢制限や、参加資格の制限は、確かに、一つの手法だが、現状を眺めると、それらの効力には、期待できそうにない。だったら、掲げられる言葉に対し、制限をかけた上で、発言者への、圧力を高める手法が、ありそうに思える。これもまた、絶対的なものでは、決して無い。だから、所詮、微力ながら、となると思えるが、だからと言って、今のように、手を拱いていては、被害者が、増えるばかりだろう。だったら、まずは、出力自体を、制御したらどうか。その上で、当然のことながら、参加者全員の、倫理観や道徳観を、良い方に、向かわせたら、と思う。ただ、悪貨と良貨のことが、まさに、当てはまるだけに、容易なことではない。でも、ここで、諦めては、今の、便利な発言の場を、永遠に失う、ことになりかねない。手近な所から、始めてみては、と思うのだが。
制限を、掛けようとの動きが、高まっており、国によっては、既に、始められたと聞く。だが、効果の程は、怪しげと言うより、無駄と断じるべき、とされる。本来、知恵の集合、となるべく、期待されたが、その実、浅知恵や猿知恵の塊で、制限を、逃れる手立てが、繰り出される。
一方で、制限の必要無し、との意見も、根強くあるが、こちらについては、時代や風潮の変化に、ついて行けぬ、古い人間、との批判に、晒されている。今、特に、制限への動きが、急となる国々は、西洋と呼ばれた、先進国が、大部分だが、それらの多くは、人を育てる上で、家庭教育を、大前提としており、親から子への、強い圧力が、躾と呼ばれる形で、実施されてきた。ところが、いつの頃からか、圧力は、どんな状況でも、虐めと断じられ、社会での訴えだけでなく、家庭内についてさえ、子が親を、訴えるに及び、躾が、忌み嫌われる存在となり、自由という名の下に、無法地帯が、各国で広がり、倫理や道徳でさえ、蔑ろにされる、状況に陥っている。その中で、まともな心を、育むことは、望めぬばかりか、犯罪に手を染めても、自己主張に終始し、言い訳を並べるだけの、人間が、闊歩することとなった。家庭に、責任を負わせることが、不可能となれば、国を挙げて、取り締まるしかない、との考えに至るのも、当然だろうか。しかし、一度外れた箍を、嵌め直すことは、簡単ではなく、今の状況では、暴走を、食い止めることは、無理難題となる。となれば、社会媒体への、接続を、禁ずることは、社会主義国でも、独裁国家でも、できぬことだろう。社会媒体そのものを、今一度、整えることに、方針変更する方が、まだまし、なのではないか。と言っても、腐った人間を、放置したままでは、何も起こせぬだろう。倫理や道徳を、今更の如く、持ち出すしか、手段は、残っていないが、さて、腐った人間に、それが、通じるのか、怪しいものだ。となると、仕組み自体に、と願う声も、聞こえてくるが、生成人工知能が、嘘や出鱈目を、ばら撒くのでは、自浄作用も、望めぬことか。どうする!
結果が、出ていないのに、あれこれ、書いても意味が無い。確かに、その通りで、特に、最近の、勝ち負けに拘る、下らない風潮では、一時の、情勢に惑わされ、一方に、加担することで、後に、煮湯を、飲まされることに、なることから、不用意な判断は、避けるべきだ。
国の間の、力の優劣は、経済や軍事などの、要素により、判断ができる、と思われてきた。だが、近年の紛争では、そうとは言えぬ、との状況が、続いており、何が、決め手となるか、見えなくなっている。軍事侵攻により、首都陥落まで、間近と思われてから、もう何年も、経過したが、最近の情勢は、攻め込まれた国の、中での戦闘だけでなく、どこ吹く風と、高みの見物とさえ、言われた侵攻した国の、内部での被害が、急速に広がり、日々の生活までもが、脅かされている。圧倒的な、軍事力の差、と見られたものが、重火器の問題ではなく、小型化した、遠隔操縦の、火器による、爆撃が、主体となるに従い、軍隊などの、人間の移動を、伴わぬものとなり、様相が、変化し続ける。もう一つの、紛争地域に関しては、敵対する国の間の、戦闘は勿論、一方の支援国が、強大な軍事力を、行使することで、指導者も含め、多くの要人を、抹殺して、方が付いた、と思われた。だが、軍隊と指導層が、残ったことで、散発的な反撃や、周辺国への、攻撃が続き、結果的に、停戦へと移り、一旦は、決着しただけでなく、攻め込まれた国が、勝利したとの、分析までもが、飛び交った。だが、不安定な情勢は、僅かな動揺で、傾き始め、元の木阿弥、とさえ思える状況に、戻ったとさえ、言われている。実は、元々、革命後の体制が、不安定な状況で、軍隊と、宗教指導者の間で、微妙な均衡が、保たれてきたが、ここに来て、上層部間の、意見の不一致が、露呈した上で、権力だけでなく、窓口さえも、不確かな状況では、安定な状態は、得られそうにない。新たな革命を、促す目論見が、外れたことで、決着は、見えなくなったが、さりとて、失われた均衡は、戻らぬままだ。としたら、何方に向かうにも、止まる選択は、無いだろう。一枚岩に見える、もう一つの状況とは、明らかに違い、行き着く先も、見えぬままだ。
海の向こうの暴君が、何故、庶民に、人気があるのか、理解できぬ、と思う人は多い。特に、二大政党時代が、長く続く中、庶民的な政党の、大統領が、登場する度、もう一方の、支持者は、理解できぬ、と思ってきたが、今回は、それが、著しいと映る。理解不能、だと。
でも、時代は、衆愚政治が、持て囃される。だから、高学歴者が、支持者の大半を、占めてきた政党とて、例に漏れず、人気優先が、主体を形成し、何方も何方、との感が、共有されている。にしても、何故、あのような、暴言や妄言の主が、人気を博すのか、と考えるのは、当然なのかも、と思う。ただ、今回の、世界的な祭典にも、図々しく、口を出す人間は、やはり、その行動様式にこそ、人気の理由がある、のだろう。同じ競技に対し、囀りは、賑やかなものだ。それも、審判の判定に、文句を並べ、その根拠の脆弱性のみならず、作為や思惑が、込められたもの、とまで言い出す。その態度が、まさに、かの暴君と、そっくりと思う。好悪に基づく、判断基準では、何事も、一方的に、判断できる。だから、応援する国が、負けたとなれば、それは、作為的な結果であり、勝った国が、優位になるよう、忖度した結果、と並べ立て、その証拠を、画像などで、明示しようとする。これは、ある意味、審判団にも、同じことであり、球に仕組んだ、位置情報装置を、頼みとしたり、映像から、反則の有無を、判断している。嘗てなら、そんな証拠は、一切無く、審判の判定に、従うしかなかったが、今では、機械的な証拠を、示すことで、判定を覆すことさえ、行われている。人間が、動き回る競技において、何もかも、機械によって、判断するとなれば、つまらぬものに、なるのでは、という懸念は、依然として、残っているが、まずは、正解を求める、ことが優先され、その通りの基準が、決められていく。他の競技でも、次々に、機械化が進み、人の関与は、急速に、無くなりつつある。競技そのものの、機械化も進む、と言われる時代。さて、何を楽しみに、と思うのは、馬鹿げたことだろうか。
先日、紹介した、学芸会の思い出。劇中歌は、思い出せるし、節も、出てくるのだが、本歌が、浮かんでこない。散々、検索を、繰り返しても、別の歌ばかりが、表示され、当たらない。どうしたものか、と思い、一度は、諦めたものの、今朝、もう一度、別の検索をしたら、出てきた。
劇中歌は、「見えない、見えない、見えないぞ、俺は、馬鹿なのか、馬鹿なのか」という詩で、その節で、歌えるのだが、譜に、起こせないので、検索ができず、結局、本歌の、詩の一部を、探ってみたら、出てきた。文部省唱歌で、秋という曲名、同じ、秋の虫を、題材にしたもので、虫の声、という曲があり、そちらばかりが、表示された。途中の詩の、「むし、むしのこえ」という部分で、完全一致を、検索したら、出てきた。映像があるので、興味のある人は、聞いてみて欲しい。当時の、学芸会では、おそらく、学校教材として、この替え歌を含み、台本を揃えて、提供されたのでは、と思う。子供達には、習った曲を、劇中歌として、歌うことで、達成感も含め、意味のあるもの、だったのだろう。当時は、学校でのいじめも、あったにはあったが、その後の、陰湿極まるもの、に比べて、問題視、されるものでは、なかったと思う。更に、その後の、平等感優先の、学芸会での大合唱やら、運動会での、皆で、横一線で走る、徒競走など、下らない行事へと、変貌したのに、比べると、各人に、それぞれの役をあて、皆で、一つの作品を、演じさせる姿勢は、学校教育として、まともなもの、だったと思う。ただ、先生による、依怙贔屓など、時に、目に余るものが、出てくるに従い、平等感優先が、罷り通るように、なっていったのでは。今は、どうなっているのか、全く分からないが、学芸会も運動会も、続いているようで、教育の一環として、尊重されるようだ。子供達の心に、どんな印象を、残すものに、なっているのか。心配しても、仕方ないものだろう。それぞれの、受け止め方があり、それぞれの、記憶がある、のだろうから。
無能な学者は、有用な数式も、役立つ理論も、提案できぬまま、目の前で、起きた事象を、後付けの説明で、実しやかに、予想できたこと、と宣い続ける。果ては、政治家に取り入り、大臣の地位まで、手に入れた挙句、気に入らぬ、競争相手や、企業などを、標的として、打ち壊す。
そんな人物が、好んで使ったのが、市場原理なる妄言だが、ここで、何度も、書いたように、原理どころか、人々の、移り気な心理に、振り回され、その挙句に、煮湯を飲まされる、そんな光景しか、残っていない。需要と供給は、使い古されただけで無く、その頼みとする、図式の如く、市場価格が、動くという話は、今や、嘘でしかなく、何の根拠も無く、あの人物が、得意とした、後付けの説明、にしか、使われない。騒動となった、主食の値段も、報道の煽りが、功を奏したのか、一気に、上がった後は、供給が、如何に整えられても、びくとも動かぬ、高値が続く。この所、報道は、せっせと、値下がりを、叫び続け、このままでは、生産者の生活が、脅かされる、などと、例の如くの、勝手な論理を、展開しているが、それとて、何の根拠も無く、ただ、無責任に、垂れ流すという、いつもの煽りの、典型に見える。改めて、監督官庁が、毎月、発表する、報告を眺めると、ここまで、書いてきたことが、的を射ていることが、はっきりとする。その一方で、では、何が、価格を決めるのか、と問われれば、業者達が、操作した上で、市場が、受け入れれば、と仮定するしか、ないように思う。ただ、それにしても、数年前の、倍を超える、市場価格に、至った後は、僅かな値下がりでは、とても、以前の水準には、戻らぬように、見えてくる。では、何が、何処が、適正価格なのか。改めて、検討するなら、生産者が、経費として、組み込む支出と、彼らの労賃として、時間給ではなく、年間の収入として、算出したものを、足し合わせた上で、単位当たりの、売価を、設定する必要がある。それが、消費者にとり、論外であれば、米離れが、余儀なくされ、最近の、物価上昇と見合う、許容範囲なら、それが、新たな水準と、なるのだろう。さて、そろそろ、新米の準備を、すべきでは。
図星なのだから、誹謗中傷で、訴える。となれば、当然のこと、となるのが、近年の傾向か。だが、書き手が、匿名なのではなく、相手が、特定できぬ場合、それは、誹謗中傷となるか。多数の中で、問題として、捉えられ、改善を促された時、自分のことでは、と思ったからと。
被害妄想が、著しくなり、その上に、被害者保護、弱者保護、という考えの下に、発言者の意図は、考慮されることなく、無思慮のままに、記事の削除や、訂正、時には、謝罪へと、発展することもある。だが、個人を、特定できる形で、謂れのない、批判をされたなら、まだしも、最初に書いたように、図星なのであり、それが、本人も含め、その他大勢に、当て嵌まる話、だったとしたら、それは、削除、訂正、謝罪の必要性を、掲げること、となるのか。最近の状況は、何度も、取り上げてきたように、ハラスメントの如き、理不尽な扱いから、馬鹿げた判断を、導き出すという、愚かな社会の、構築を、せっせと進めている、ようにさえ見える。特に、教育現場では、権利主張により、当人達の、成長を考えて、進められる指導や助言を、いとも簡単に、否定する暴挙が、罷り通っている。すぐに、心が折れる、弱虫どもや、権利ばかりを、主張して、自らの義務や務めを、果たそうともしない、馬鹿者達に、味方する、非常識が、横車の如く、押し通される。このままでは、崩壊するのみ、と思うからこそ、厳しい叱責を、飛ばす場合も、あるのだろうが、それらは全て、暴力と断じられ、弱い者を、虐めるだけ、と否定される。確かに、弱虫は、心も脆く、すぐに、倒れてしまう、のだろうが、では、今のように、放置して、事が済むのか。怪しいと言うより、間違い、と言った方が、正しいと思う。何の配慮も無く、悪を放置する考えには、呆れるばかりだが、こちらも、ただ批判し、虐める訳では、決してない。相手の心持ちから、考えれば、虐められている、と思うことでも、今、必要なことを、伝えた上で、それを身に付けさせて、いるだけのことだ。それが、図星となったとしたら、それこそ、今必要なことで、動かねばならぬ、と思わぬのか。