若気の至りは、大成してから、懐かしがって、吐く言葉だが、反発は、若者の特権、と言われた時代もあった。特に、混乱が高まり、海を挟んだ、何方側でも、学園紛争と呼ばれる、社会への、反発運動が、高まった時代には、通らざるを得ない、道筋とも言われた。
だからこそ、大目に見て貰え、出世払いも含め、将来への期待が、重しとなったことも、あったと思う。昨日、新たな環境に、不慣れな人々が、混乱に戸惑う姿を、取り上げたが、今の状況は、上の話が出た時代とは、大きく異なるようだ。反発ならば、受け止めれば、それで済む。後々、そのつけが、回ってきた時に、借金を返せば、いいだけのことだった。だが、今の状況では、反発ではなく、依存ばかりが、目立っている。無能なのは、今も昔も、変わらぬことだが、反発は、それを承知の上で、無謀な試みを、断行する気持ちがあったが、今は、できないことを、棚に上げて、誰も手を貸さず、困り果てた姿を、曝け出した上で、何もかも、投げ出してしまう。その上で、手助けを受けるのは、当然の権利として、待ち続けてみたり、他人任せを、し続ける訳だ。いつから、要求だけが、拡大したのか、ある意味、不思議でしかないが、当事者達は、大真面目に、当然の権利を、主張し続ける。この借金は、仮令、何かの間違いで、成功を手に入れたとしても、返すつもりは、毛頭無く、成功は、自分の手柄、失敗は、他人の責任、という図式を、書き換えることは、一生出てこない。こんな馬鹿者が、いい大人になり、子供を育てると、どんなことが、起き始めるか。考えたくもないが、現実は、まさに、その延長線上に、あるのではないか。その中で、手にした端末から、不平不満を、当然の権利として、発信し続け、同じ愚かさの持ち主から、共感を得るのが、今時の若者の、常套手段となっている。悲鳴を上げれば、誰かが助けてくれる、との考えは、甘え以外の何物でもなく、その一方で、間違った情報を、そういう連中に、分け与えて、満足を得るのは、無知の典型となる。また、そんなことが、例年の如く、始まっているが、さて、どうなることか。
新年度が始まり、一週間が経過した。新たな環境で、戸惑うばかりの人や、既に、脱落した人が居る、と言われる。特に、職場では、期待外れ、と見る向きは、働く側にも、雇う側にも、見られる傾向だ。初日から、他人任せの、脱落が始まった、とまで報道されたが。
自己主張が、大切だと、教わりながら、育ったせいか、要求ばかりが、強まってきた。その結果として、現場での軋轢が、様々に、取り沙汰されるが、どうにもならぬ、としか思えぬ。渦中の人々が、主張を諦め、何処かに、収まることしか、期待のしようがないが、社会全体で見れば、瑣末なことに過ぎぬ。一方、学校が変わった人々は、まだ、本格始動とは、なっておらず、今は、何が起こるか、戦々恐々とするか、或いは、期待が、更に膨らむか、といった状況だろう。ただ、ここでも、既に、自己主張ばかりが、囀り界隈には、聞こえてくる。この仕組みが抱える、大きな問題であり、実情を、全く反映していない、と何度も指摘されるが、その通りと思う。自らの不明を、恥じることなく、非常識な見解を、表明するばかりか、それに伴い、異様な要求を、押し通そうとする。社会常識が、通用しないのは、若者の特権かもだが、それにしても、非常識加減は、強まるばかり、と映る。何故、こんなことが、起きるのか、については、まずは、周囲の大人の対応が、第一に考えられ、その上に、社会媒体などの、狭隘な環境が、その傾向を、増長するという、状況がある。社会全体から見て、非常識と思われても、仲間内では、絶対常識とまで、思い込める人間性は、井の中の蛙の、典型例としか思えず、このままでは、適応の機会は、得られぬまま、となることは、明白だろう。その中、節目において、自身を、変える手立ては、自分の心の中に、ある筈のもので、他人任せには、できないものだ。折角の、変わる機会を、逸することは、反省しても、仕切れぬものだが、当人のみならず、周囲までもが、同じ穴の狢、となるようでは、これにて終了、となっても仕方ない。ま、本人達の問題で、社会がどうするものでもないが。
無駄とは思わぬが、さて、どんな議論が、できたのだろう。突然の選挙で、野党は大敗を喫し、二院制の、優位な方で、著しい偏りが、生じてしまった。そこで、政府は、与党の優勢を、利用する形で、さっさと審議を済ませ、もう一方に、送ったのだが、そこで、齟齬が生じた。
といっても、予想できた話で、おそらく、簡単には進まず、例の如くの、邪魔が入るとの、見込みはできていた。だから、年度内成立が、できなくとも、一時的な手当てで、急場を凌げば、なんとかなる、と見込んだに違いない。それ自体には、疑いの余地は、無いものと見えるが、一方で、野党側が、盛んに主張した、十分な審議時間を、確保すべき、との話は、結局、どうなったのか。前にも触れたが、これまでも、予算委員会での審議で、予算そのものでなく、政治に関わる、全般に渡る議論が、行われてきたのは、野党側が、それを、質問項目として、政府に対して、提出したからだ。それにより、紛糾すれば、報道は、ここぞとばかりに、それを取り上げ、政治の混乱が、と結びつける。だが、予算そのものを、審議するのではなく、政治腐敗や、政治家の行動規範について、議論する場は、そこなのだろうか。特に、今回は、元々、時間が少なくなり、一昨年度までのような、悠長なやり方が、通用しない、と目される中で、いつも通りの調子で、大臣の不倫や、その他の問題について、論じようとする姿勢には、呆れる場面も、多かったように思う。本当に、予算項目そのものに、問題があるのであれば、ずっと以前から、それについての、議論を重ねる時間は、十分にあるのに、一体全体、この国の政治は、何をしているのか、とさえ、国民は思ってきただろう。そこに、今回のような、茶番にも似た、やり方については、もっと批判が、集まってもいい、とさえ思う。まあ、所詮、政とは、その程度のもので、選ばれし者達が、集まって、話し合って、という本来の姿ではなく、ただ、言いたい放題を、相手にぶつけて、相手も、それに対して、まともな返答もせず、の繰り返しとなる。世界全体に、その風潮が広まり、一方で、分断が強まる、と言われては、何が何やら、としか思えぬ。で、そろそろ成立らしい。
悲観一色の人達にとり、何と好都合な、世界情勢だろうか。暴君の囀りが、日々、猫の目のように、様々に変わるにつれ、皆の心は落ち着かず、紛争地域から、世界へと送り込まれる、原油の輸送は、滞っている。将来を、悲観するには、これ程強い、材料は無い、となる。
だが、政に関わる、人々にとり、同じ論調で、臨んでいたのでは、まさに、将来が無くなる。少しでも、良い材料を並べ、それを元に、将来が、好転することを、約束するしかない。だが、その側で、雑音を出すのも、悲観派の常なのだ。攻撃が、起きた途端に、末端価格を、上げる動きが、始まったのには、呆れるばかりだが、報道は、悲観一色となり、悪い材料を、重箱の隅から、拾い上げ続ける。何と、情けない人々か、と思うが、それこそが、耳目を集め、信頼を勝ち得る、唯一の手法とでも、思っているようだ。原油が、枯渇するまでには、暫く時間が、かかることは、明白だが、悲観には、そんな時間は、無いに等しい。まずは、いつ、無くなるか、という話を始め、その為の備えとして、節約を始めよう、という掛け声を上げる。いやはや、どうなることか、と思うこと頻りだが、彼らの耳に、届くのは、悪い話しかないらしい。宰相が、ある原材料の確保に、奔走する中、様々な方策により、4ヶ月から半年の、期間を提案したが、それに対して、悲観派は、何も聞こえず、何も好転しない、と断じるばかりだ。明日の、末端価格は、上がって当然だが、半年先の保証は、何もできない、とは、何事かと思うが、そんな論理は、通用しそうにない。今を、大切にすることが、まずは、肝要と思うが、どうだろう。また、今後の要素を、次々に、上げることは、将来への備え、と見做されるようだが、ありそうにない、可能性まで、論じるのは、愚かとしか思えぬ。災害への備えも含め、悲観論のみで、議論することには、危うさしか、感じられない。
暴君の暴走ぶりに、世界中が、振り回されている。その中、よく聞こえてくるのは、目的は何、という疑問だろう。確かに、紛争地域の問題に、遠くから、口だけでなく、手まで出す必要は、無いように見える。だが、少し違う見方をすると、何か、見えそうな気もする。
一つは、前の任期だったか、あの国の首都を、認めたとの話だろう。それだけ、肩入れしており、周囲との軋轢など、歯牙にもかけず、我が道を行く、という感があった。その関係性から、今回の暴挙も、起きたと見る向きがある。確かに、海の向こうにとり、あの民族との関係は、以前から、深いものとされ、政治への介入も含め、金銭的な支援も、長きに渡り、行われてきたとされる。それは、二大政党の何方にも、通用する話であり、暴君独自のもの、ではないとも言える。一方で、暴君の国にとり、敵と見做した国は、嘗ての王政から、革命により、現体制に変わって以来、様々な形で、邪魔な存在、と思われており、その延長線上において、意外とは、言い切れないとも見える。ただ、核開発に関しては、強い拘りがあり、今回の決断も、その辺りに、最大の理由がある、と見る向きもある。とは言え、最初の攻撃以来、二転三転する動きに、訝しむ声も大きい。ただ、こちらについては、あまり触れられないが、一つの見方が、ありそうに思う。それは、株価の動向や、為替の動き、更には、原油価格の変動などが、暴君の発言や、突然の動きの数々で、激しさを増すことで、暴落や暴騰が続く中、一部には、それにより、利鞘を稼げるのでは、との推測が、飛ぶからだ。確かに、政治に携わる人間が、直接、相場に手を出すことは、禁じられており、今回に限らず、厳しい目が向けられる。前の、下院議長が、不正取引に関して、取り沙汰されたのは、記憶に新しいが、本人だけでなく、周辺の人間が、関わることさえ、疑惑の目が、向けられるのだ。だから、政権内に、居座る親族が、それに手を出すことは、ほぼ不可能と思えるが、遥か遠くの存在に、発言前に、情報を漏洩したら、と想像することは、難しくはない。ただ、何処迄が、その範囲なのか、知ることは難しい。多分、辞めた後の話が、出てこない限り、発覚することもない。その上、就任中のことは、罪に問われぬ、とまで言い続けた人物だ。何もかもが、藪の中、となるだろうから、触れるだけ無駄、かもだ。
依然として、意味不明な、攻撃(?)が続いている。初めの、爆発的なものは、隣の大国に、吸収された地域、からのもので、紹介したように、評判の悪い所だったが、今は、増加速度は、かなり落ちたものの、海の向こうの大国の、DigitalOceanという、場所を起源とする。
暫く、静観を続ける、と書いたように、今すぐに、何かをすることは、行わない。接続拒否を、するにしても、所謂、IPを鍵として、制限をするには、余りにも、多種多様過ぎるし、同じ組織からでも、発信国が、異なることに、愉快犯の、不埒な意図が、見え隠れするからだ。こういう場面では、確かに、傾向と対策が、不可欠に思えるが、一方で、不特定多数の相手では、鼬ごっこの様相は、否めない。だから、静観を続けるうちに、飽きるのでは、と期待するしかない。便利なものの、暗闇を、眺める気分だが、致し方無い。独り言では、これまでも、傾向と対策という、効率良いと言われる、手法の問題点を、度々、指摘してきた。特に、教育現場では、試験対策の一つとして、唯一無二のもの、との見方があり、大学入試でも、受験校相手の、赤本なる資料が、販売される程だ。そういう悪弊に、毒されているのは、現場の人間も、であり、先日も、愚かな提案を、掲げる話が、囀りに出ていた。一つは、理科教育の、一貫性のようなもの、と思えるが、初等中等教育での、理科教育の流れが、不規則であり、積み上げ方式に、なっていないことを、批判するものだった。評論として、発表されたものを、紹介していたが、劣悪な考えにしか、思えない。丸暗記は、忌み嫌われるが、ある意味、詰め込み教育が、あの年代における、勉強の中心であり、そこに、積み重ねを、強要すると、抜け落ちたものの、修復に終始する、手間暇を、上級に進む程に、かける必要が出る。一見、妥当に思えるが、その害悪たるや、現場の混乱のみならず、児童生徒への、強い圧力にしかならず、馬鹿げたものと思う。もう一つは、大学教員が、提案したもので、特に、理科教育で、広く学ばせることが、大学での学習に、不可欠とのものだが、これもまた、基礎を固めさせ、将来への、傾向と対策を、講じる目的に、思えるもので、余計な手間暇を、強いるものでしかない。所詮、関連性無く、出鱈目に、並んだ知識を、身に付けさせるものを、将来への備え、と言った途端に、破綻が目に見える。教育に対する、誤った思い込みの典型であり、英語教育でも、散々批判されたが、懲りないのは、人間の性なのだろう。
原因不明の、接続急増が起き、対策を、講じるべきか、少し調べてみたが、その後、接続元に、変化が起きて、更には、増加の勢いが、衰え始め、どうしたものか、と考えている。連日、こんなことを、書いているうちに、海の向こうの暴君は、意味不明な妄言を、吐き出す始末なのに。
本来であれば、管理する場を、守る為の手立てを、講じるべきかと思うが、こういう迷惑行為の多くは、以前のような、愉快犯による、幼稚な行動とは異なり、少しだけ、複雑になった、と思える。それは、対策にとっては、複雑さを、増す方向に行くから、迷惑さも、増すこととなる。ただ、魂胆が、単に、愉快を得たい、とのものなら、早晩、飽き始めて、次の標的を、見つけるに違いないから、それまでの辛抱、との見方もある。何度も、書いてきたことだが、ネットワークというものが、実体を伴う、人間間のもの、と見られた時代と違い、今は、仮想空間での、実体を伴わず、儚い存在である一方で、無限に広がる、とさえ思える、空間での出来事で、何かを問うたら、即座に、回答が寄せられ、地道に、調べる手間が、省けたことが、発展の力、となってきた。確かに、回答は、玉石混交だが、その中に、求めたものが、転がっており、自身で調べるより、遥かに、手間の掛からぬ、便利な存在となりつつある。その一方で、今回の迷惑のように、一部の、よからぬ考えを、持つ人々による、出鱈目な行為は、面倒を持ち込み、平穏な空間さえ、波を立たせるものとなる。手に入った、利便性は、確かに、大きなものだが、人によっては、それに伴う、迷惑の大きさや、それへの心の乱れを、強く感じるだろうから、やはり、ある程度の、制限を導入する必要が、あるのだろう。だが、人間の数と、その多様性は、膨大なもので、一々対応するのは、容易なことではない。となると、何ができるのか。多分、子供の遊びの如き、飽きっぽさが、伴う行動と見て、罰する面倒を、持ち込むよりは、放ったらかしに、することの方が、簡単なのでは、とさえ思う。これ以上に、何かしらの問題が、起きたら、その時は、考えることに、したいと思う。
こんなちっぽけな場所に、何をしたい、と考えたのか、知る由も無い。大手の場所ならば、影響も、大きく出るかもだが、小さな所では、管理者が、考えさせられるだけだ。ただ、昨日書いたからか、その後、同じ地域からの接続は、激減した。ただ、それで、終わりではない。
その後、接続数は、激減したものの、依然として、不可思議な状況は、続いている。場所は、異なるものの、その度に、違う国々からの、接続が行われ、昨日話題にした、指摘のような、ある企業の関わり、とは思えぬ状況が、起きているようだ。だが、それとて、その多くが、接続を仲介する業者の、提供するものであり、そこと、契約していれば、あるいは、その契約者のものに、不正接続できれば、実行に移すことができる。社会全体に、便利になったのは、事実なのだが、その一方で、不正行為を、防ぐ仕組みの構築は、遅れており、それだけ、犯罪者に、都合良い時代と、なってしまった。犯罪が、発覚する度に、対応策が、講じられるが、当然、後手に回る訳で、防ぐことには、ならないままだ。その中で、今回のような事象が、犯罪と結び付けば、独り言についても、管理者が、責任を問われかねない。となれば、後手になろうとも、何らかの措置を、講じる必要が、あると言える。少し調べてみたが、ある仕組みで、そのサイト自体への、接続を拒絶する、設定ができることが、分かった。ただ、今更、そんなことを、することに、意味があるかは、不明だし、今回の騒動のように、次々と、接続元を、変更し続けるのが、犯人の手法だとすれば、鼬ごっことなることは、想像できる。だから、という訳でもないが、愉快犯の、楽しみに付き合わず、まずは、様子を見るのが、適切なのかも、と思っている。さて、どうなることやら。
昨日の午前中までは、何事も無かった。だが、午後に入った途端に、異変が起きていた。独り言には、誰が訪問したかを、確認する為もあり、カウンターを設置している。前々から、書いているように、訪問者の数は、殆ど増えることなく、四半世紀近く経ても、6万を上回る程度だった。
だが、昨日突然、その数が、百の桁で増え始めた。誰が、そんなことを、しているのかを、確認してみると、それは、隣の大国に、吸収された地域からの、接続であることが、確認できた。その後も、数分毎の接続が、繰り返され、今日の早朝4時まで、続いていたが、そこで、一旦、止まった。ように見えたのだが、また、先程から、再開されたようで、同じことが、繰り返されている。どんな輩が、そんなことを、行っているのか、首を傾げるしか、ないのだが、念の為に、検索してみたら、こんな書き込みが、そのドメインについて、以前、行われていた。受け取り方は、様々だろうが、邪魔をする、という意味での、SPAMを使って、迷惑行為を、表現しているのは、その通りだろう。数分毎であれば、大した影響も、及ぼさないが、これが、秒単位となり、それより短い間隔で、行うことも、機械的には、可能だろうから、そこに、発展する可能性も、無いとは言えない。だが、どんな目的で、こんなことが、行われるのか。そちらに関しては、想像するしかないが、これまでにも、独り言で、触れた話題に関して、何かしらの影響を、及ぼした可能性も、無いとは言えない。さて、そうだとして、こちらから、できることは、と考えても、多分、無駄でしかない。所謂、愉快犯の如きものなら、極端になる場合を、除けば、放置するしか、手立ては無い、と思える。今、これを書いている間も、せっせと、機械的な反復が、繰り返されており、終わりそうにない。一部の仕組みでは、接続を拒否することも、可能なようだが、独り言は、単純な表示方式だから、それを組み込むのは、面倒なだけだ。傍観と言うか、見て見ぬ振りが、精々なのかな、と思いつつ、今日の所は、放置することにする。
投資に対する考え方が、変わったから、という見方を、紹介したのだが、実際には、それだけでは、ないようだ。確かに、金や時間を注ぎ込む先が、変わったことも、あるのだが、それよりも、当事者達が、投資そのものに対する、考え方を、自分の都合に合わせて、変えたようだ。
半世紀前には、聞いたこともない言葉を、最近の若者は、好んで使っている。聞いたことが、あるだろうか。コスパとか、タイパとか、そんな言い回しだ。どちらも、何かしらに対して、注ぎ込んだものに対して、どの程度の効果が、得られるか、というつもりで、使っているらしい。コスパは、費用対効果と言われ、注ぎ込んだ、金銭に対して、どれ程の効果が、得られるのか、という意味であり、昔から使われた言葉を、若者らしく、短縮して使うようだ。一方、タイパは、殆ど聞いたことが、無かったのだが、時間対効果となる。こちらは、どれ程の時間を、かけたかにより、数値が違ってくるらしい。昨日の話で言えば、教育を受ける中での、効果とは、どれ程の能力が、身に付いたのか、とか、どれだけの知識が、身に付いたのか、という意味と、思えるのだが、若者達の中では、そういう意味より、課題を終わらせる、あるいは、講義の単位を取得する、という、目標の達成という意味で、使うことが多いらしい。ただ、今書いたように、課題とか単位とか、ある意味、卑近な目標でしかなく、自分への投資、という意味での、金銭や時間に見合う、獲得物との比較、とはなっていない。特に、能力としては、形に表せぬものが、殆どだろうに、この言葉達を、好んで使う連中は、形にしか目が向かず、課題を終わらせたとか、単位を取得したとか、その場だけの、目標にしか、目が届かない。これでは、能力獲得には、程遠いものでしかなく、効果と呼べるような、対価を手にすることは、殆ど無いに等しい。にも拘らず、何が何でも、費用や時間を、如何に小さなものにして、何かしらの成果を、手にしようとする。これでは、将来、役に立つような、何かしらの能力を、手にすることは、期待できず、ただ、右から左へ、物を送るだけの、ことにしかならない。まあ、こんな連中は、そんなことしか、教わることはなく、自分で、何かの課題を、見つけようとは、決して思わないから、それで終わりなのだろう。
投資と聞けば、今は、資産運用であり、手にする金を、如何に増やすか、という話になる。でも、半世紀程前には、自分自身に、投資する、という話があった。これは、単純に、金を注ぎ込むだけでなく、時間をかけて、自身の能力を、高めたり、学歴を手にする話だった。
単純に、金を手に入れるだけなら、義務教育を、終えた所で、職に就き、収入を確保すれば、それでいい筈だろう。だが、より高い収入を得たり、社会的地位を、高めたいと願えば、上の学校に通い、知識を豊かにしたり、能力を高めたり、することが必要だった。それを指して、自分に、投資すると言ったのだが、いつの間にか、そういう話を、聞くことが無くなった。一つには、進学率が高くなり、高校へ進学するのは、当たり前となり、遂には、半数以上の人々が、大学に進むこととなった。これでは、改めて、投資などと言う必要は、無くなり、皆が行くから、自分も、との考えが定着した。だが、そこで、一つの大きな問題が、生じてきた。投資という言葉で、意欲を表していたのが、当然となれば、意欲の有無は、関係なくなり、そこでの差は、親の収入の多寡に、依存することとなった、と言われた。本人には、その意思が無くとも、誰もが、大した努力もせずに、進学できることは、平等の観点から、歓迎すべきことだったが、その一方で、より高度な世界への道は、そこに、注ぎ込むことができる、資金の有無に、左右されることとなったのだ。だから、その差別を、解消する為には、無償化が、不可欠との論理が、罷り通ることとなったが、この論理には、明らかな誤りがある。本人の意欲を、測ることなく、単純に、機会を与えることが、必要と見るのは、おかしいと思える。これについても、反論はあろうが、現状は、まさに、その問題が、噴出しており、現場の混乱が、高まり続ける。それに加えて、携わる人間が、同様に、無責任な考えで、対応しているから、状況は、悪化の一途を、辿っている、ように見える。改めて、老後の資産より、前にあるべき、資産構築に向けて、自身への投資を、金も時間も、注ぎ込む必要がある、と思う。これを、無償としても、無駄にしか、ならないのだから。
自分から始める、と言っても、何をどうしたら、と思うのが常だろう。立場による違いも、はっきりとしているが、邪魔の入り方も、同様に、それぞれで違う。現場に立つ人間の、責任は重いが、だからと言って、動かねば、何も起きない。これは、歴然としたことで、議論は無用だ。
一方で、これから、高等教育を、受けたいと思う人は、何から始めたらいいのか。まずは、その道に進めるかが、肝心だろう。確かに、物価高が続いた国々では、教育費も高騰し、仮令、借金をしても、続かなくなることも、あると聞く。だが、こちらは、それに比べれば、遥かに安価で、高等教育を、受けられる。の筈が、何故か、無償化ばかりが、取り沙汰される。中流意識が、貧困へと変わったから、施しを、受けるのが当然、となったとも言われるが、実態は、大きく異なり、貧困とは名ばかりであり、それなりに、豊かな生活を、送る家庭が、大部分と思う。その中で、何故、教育に対して、対価を支払おうと、しないのかは、ある意味、明らかな理由がある。学んだことが、活かされないから、という思い込みからだ。何故、そういう考えに、陥るのかも、ある意味、明らかだろう。丸暗記を主として、その完璧さで、競うだけの受験戦争から、高等教育の場に、移っても尚、同じことを、繰り返し続ける。それでは、意味を見出せず、無駄と思うだけで、学歴という称号のみを、手に入れたくなる。だが、本来なら、覚えるより、理解するを、優先する中で、学ぶべきことは、格段に増える筈で、その為の期間を、確保することは、非常に重要な筈だ。にも拘らず、親も子も、それに気付かず、無駄を口にする。愚かでしかないが、それが、今の実情だろう。自分から、と書く理由は、それに、自身が気付き、それを親に伝え、親の役目を、果たさせることが、今、一番重要だということだ。妨げるばかりで、成就させないのは、邪魔なだけで、悪影響しかない。責任を持たせ、自由を謳歌することで、新たな学びを、得る機会を手に入れる。教育の場を、整えねばならぬのは、当然のことで、その当事者の責任も、当然、重いものだ。
教育、特に、高等教育について、度々書いてきた。理由の一つは、今の教育の、荒廃ぶりが、気になったからだが、その原因が、何処にあるのか、については、当事者の責任が、重いように、感じている。そこには、数々の問題が、あるように思うが、最大のものは、自覚かもだ。
問題の本質が、自分達にあることに、あの人々は、全く気付いておらず、ただただ、責任転嫁を、繰り返している。社会が悪いとか、世間が悪いとか、政府が悪いとか、学校が悪いとか、並べたら、きりがないのだが、その中に、自分に関わることは、一切含まれず、勝手なことを、並べるだけだ。だから、解決方法が、見つかる筈も無く、そのまま、放置し続けてきた。それは、単純に、今の現役世代だけでなく、すぐ上の世代も、関わってきたことで、それが、更に、問題を大きくした。今の人々にとり、自分には、責任が無く、上に居座った連中が、壊してしまったので、自分達が、被害を受けている、と訴え続ける。これは、今の時代に、当てはまる話で、誰もが、自分を、被害者の立場に、置くことで、ある意味の、安心を、手に入れているのだ。誰もが、被害者となれば、誰も、傷つけることなく、皆が、仲間意識を、持つことができる。好都合、極まりない考え方だが、それが、教育に携わる、人々の内から、出てくるとなると、百害あって一利なし、となる。教え育む、立場の人々が、一斉に、被害を訴え、周囲を、加害者と見做す。現状に、見合った話、とされるのだが、その実、彼らこそが、大いなる被害を、招いている、加害者でしかない。その上、次の世代に、それを引き継ぐことで、解決の道は、閉ざされてしまう。ただ単に、問題を、拾い上げて、それを、解決する手段を、授けさえすれば、そこで、断ち切ることが、できるものを、長々と、続けることに、なっているのは、こんな背景がある、のではないか。それも、初等中等教育だけでなく、高等教育でさえ、そんな為体に、陥ったことで、回復不能な事態を、招いたように思う。だったら、どうすれば良いのか。簡単なことだ。自分から、始めればいい。それだけだ。
物価高騰が続く中、当初、引き合いに出された言葉は、市場原理だった。需要と供給の均衡が、それぞれの物品の価値を、決めることで、価格が導き出される、という話だったが、この所の変動からは、疑わしい、との声が、盛んに出され、経済学者の説明に、批判が集まった。
では、何が、価格を決めるのか。そこで、出された言葉が、市場心理だろう。漢字一つしか、違いは無いが、内容には、大きな違いがある。原理とは、確固たるものであり、揺るがぬもの、と見ることができるが、心理とは、不安定なものであり、揺らぎ易い、変動の激しいもの、と断じられる。米騒動でも、同じことが起き、騒ぎが、広がるに連れて、米の値段が、徐々に上昇し始め、政府が、盛んに、火消しを図っても、一向に変化が起きないばかりか、供給量を増す措置さえ、市場は、無視した挙句に、依然として、高値が続いている。理由を、眺めてみれば、すぐに理解できるのは、価格を、決めているのは、業者であり、生産者でも、消費者でもなく、中間で、暴利を貪る、時に、悪徳とさえ、呼ばれる輩が、暗躍することで、値が、釣り上げられていた、という実態だ。その中で、経済学者が、何かしらの説明を、加えたとしても、ほぼ全てが、机上の空論に過ぎず、一笑にふすしか、反応できぬ、状況にある。次に起きた、物価の大変動は、石油価格のものだ。暴君が、甘い見通しの上で、紛争地域の宰相の、仇敵撲滅に、手を貸した結果、原油輸送に、滞りが起きた。それ自体は、当然の帰結だが、末端価格の上昇は、全く異なる、原因が見えている。それは、煽り報道の結果、という考え方だ。仮令、輸送に、問題が起きたとしても、需要と供給から言えば、末端において、問題となるのは、精製後の製品の、需要であるべきで、即座の値上げは、理解不能としか、映らない。その片棒を、担いだのは、大衆媒体であり、社会媒体なのだ。彼らが、盛んに、煽り続けることで、業者は、この時ばかりと、儲けに走り、消費者は、安値を求めて、走り回る。それに対して、政府は、補助金を出し、溜め込んだ原油を、市場に供給すると、約束したものの、価格は、元通りには、戻らない。ここに、心理の影響だけが、あることを、見るべきだろう。その上で、何をどうすべきか、各自が、考えるしかない。
干渉された時の、反応についても、時代の違いが、現れているかもだ。嘗ては、反発して、自分勝手な行動に、移ったという人が、普通に居たのだが、最近は、とんと見かけない。何が違うのか、と思うのだが、これもまた、傾向と対策の、一つなのかも、と思えてくる。
平和な時代が、長く続いたことで、傾向を調べ、それへの対策を、講じることで、賢く生きるのが、当然となっていた。無駄を省き、冒険を避け、安全安心な、人生を歩むことが、最善と言われる。だが、それが、自分の夢や期待を、否定するものだったら、どうだろうか。それでも、安心できるなら、と返すのだろうか。高度成長が、始まった頃には、職人などの伝統的な職が、嫌われるようになり、企業活動に、関わることで、より多くの収入を、得ることこそが、最善と見られていた。だが、泡が弾け、経済成長が、停滞から下降へと、移る中、安定した将来が、崩れ始めることで、親の職を、引き継ごうとする動きが、見直され始めた。本来、子供の頃から、眺めてきた仕事には、馴染みがある筈で、それこそが、適材適所の典型、と見るべきだったのに、それを、忌み嫌うことで、自分の人生を、自分で決めるという、自己満足が、優先されたのだが、それが、大きな過ちだと、され始めたことで、古くからの、辛い職人仕事に、戻る人が出てきた。大回りの末に、元の鞘に戻った訳だが、これもまた、一種の干渉、と見えなくもない。確かに、身近な存在は、良い点より、悪い点が、目立つもので、それへの反発も、大きくなる。また、親の跡を継ぐのは、圧力の一つだろうから、それへの反発も、あっただろう。だが、多くの場合は、強制された訳でもなく、ただ、運命に逆らいたい、との思いが、反映されただけなのだ。その結果、一度は逃げたが、戻った理由は、外から見て、気付いた点が、あったからだろう。では、今、傾向と対策で、最善を目指そう、とする動きは、どうだろう。一見、楽な道を、歩もうとするものだが、その実、好きでもないことを、最善の一言で、やろうとしている、のではないか。それに加えて、先人達は、余計な一言で、干渉してくる。無視すれば、と思うのだが、傾向と対策に、逆らえない人には、難しいのでは。
昨日紹介した、考え方の変化を、どう思うだろうか。大したことない、所詮、一部の考えが、変化したとしても、全体には、大きな変化は、起きていない、と見るのか、はたまた、僅かな変化としても、人々の考えが、変わったことで、次の世代へと、拡大する、と見るか。
何れにしても、変化をどう見るのか、については、注意を要する、と思う。その主体となるのは、今の現役世代であり、彼らの一部は、次の世代を、育む役目を、負わされている。にも拘らず、自分のことを、過大評価するばかりで、社会が、それを認めぬのは、大きな問題と見る、そんな人々が、大きな声を上げ、自分の跡を継ごう、と思う人々を、排除しよう、と躍起になる。何故、そんな愚行を、し続けるのか、全く理解できぬ。もし、今の仕事が、下らないものなら、さっさと辞めて、他のことを、すればいい、のに、何故、そこに居座り、他者の参入を、妨げるのか。下らない干渉を、正当化する為だけに、自らの功績を、過大に見せ付け、後進に対して、暗闇に似た将来しか、見せようとしない。そんな心持ちが、何の役に立つのか、不思議でしかない。元々、悲観的に、物事を考える国民性が、あったのについては、否定しないが、その一方で、そればかりを、強調することで、教える立場の人々が、他人の、若い世代の、門を閉ざそう、とするのか。穿った見方からは、保身でしかなく、競争者の登場さえ、妨げようとする、下衆な心の、表れなのでは、とさえ思えてくる。一方で、将来に、光が見えぬ世代にとり、先人からの助言は、仮令、自分の夢を、打ち砕くものとしても、有難いものに、映るのだろうか。これについても、今の世代の、考え方の変化、と見るべきかも知れぬ。仮令、厳しい道でも、無謀に突き進んだ、世代が、萎み続ける社会に、嫌気がさしたのは、夢も希望も、無くしたからか。だが、その無謀さが、道を拓いたには、違いないのだ。だったら、邪魔など、せずともいい、と言えないか。
嘗て、中流意識が、大多数を占めた頃、上流社会は、憧れの対象だが、高嶺の花であり、雲の上の存在だった。だが、泡が、弾けた頃から、状況に変化が起き、貧困が、口の端に上り、平等意識が、崩れ始めた。それに連れ、憧れへの意識も、大きく変化し始めたのは、何故か。
高度成長期に、皆が、中流意識を、持ち続けたのは、別の見方からは、共産主義の如き、状況にあった、とする向きもある。皆が、国の成長に向け、力を合わせて、発展に貢献する。何処かの、社会主義国のように、看板に掲げても、決して、実現することの、無かったものとは、大違いだが、その理由は、押し付けられた、制度ではなく、皆の意識に、それが根付いたから、なのだろうか。だが、弾けた途端に、成長が止まっただけでなく、衰退へと移ると、皆の意識に、変化が芽生えた。協力するより、他者を蹴落とし、その上に、自分が立とうとする、そんな優越感を、求めるようになった。それが、逆に働き、自らを、貧困へと導くとは、誰も、思わなかっただろう。ただ、この差別的な考えは、成長期の末に、風船が膨らむように、身の丈に合わぬ、状況が生まれた頃に、芽生えていた。そこから、急展開が始まると、そちらの考えが、大多数を占め、協力よりも、抜け駆けを、目指す動きが、高まったようだ。そこから、四半世紀以上を、経た所で、身の丈に合わぬ、上昇意識や、過大な、自己評価が、人々の心を、蝕み始めると、的外れな意見を、平気で吐く、人々の姿が、目立ち始めた。やればできる、はその典型で、自分への評価は、異常に高い反面、他人の評価は、低く保つ傾向は、徐々に、高まっていった。今まさに、そこにあるのでは、と思えるのだが、当人達は、そんなことは、微塵も考えず、不当な評価を、訴え続けている。何故、そんな簡単なことが、できないのか、と呆れるばかりだが、大真面目で、訴える人々の顔は、自信に溢れ、何の実績が無くとも、構わぬとばかり、叫び続ける。仕方なく、任せてみても、何も実現できず、責任転嫁を、続ける姿勢に、降格を決断すると、またぞろ、ハラスメントと、叫び出す。役立たず程、こんな調子では、少し、回復の兆しが見えても、軌道に乗るかは、心許ない。
独り言は、思いつきを書く、と記してある。これ自体は、囀りなどの、社会媒体と、何も変わらない、と思う人が、居るのではないか。公開性は、同じ状況にあり、接続すれば、誰でも読める。だが、門の開け方には、大きな違いがある。大きな媒体と、ちっぽけなものとの。
もう一つ、大きな違いがあるが、接続数の違いから、そちらは、あまり目立たない。その他多くの、独り言のような、嘗て、ブログと呼ばれた、媒体に関しては、それに付随した、意見箱などが、ある場合にしても、独り言も、意見箱も、ある意味、一方的な情報提供であり、最近の社会媒体の如き、双方向性のものではない。だから、炎上のような、危害を与えることも、起きないから、ある意味、安心なのではないか。だから、という訳でもないが、好き勝手な発言も、邪魔が入らず、綴ることができる。などと書くと、多分、多くの人々が、それは違う、と言うだろう。何しろ、社会媒体は、まさに、好き放題の発言を、繰り返すばかりで、時に、害悪としか、思えない程の、暴言、妄言を、連ねているからだ。匿名性としては、同じ状況にあるが、それに乗じて、次々と、名前を変えて、同じ害悪を、撒き散らす輩も、おそらく居るのだろう。仮想空間の、最大の問題点として、何度も指摘されるが、改められる、可能性は低いままだ。媒体の管理者責任が、何度、取り沙汰されても、何も変わらぬのは、何故かと、考えてみても、答えは、見つかりそうにない。それは、人間性の問題であり、そういうものに、基づく社会では、打ち消すことが、できそうにない。独り言は、嫌ならば、読まねば良い。だが、社会媒体は、時に、押し付けられ、何度も、表示される。だからこそ、拒絶という仕組みや、仲間内という括りが、導入されたのだろうが、それは、却って、問題を、拗らせている、のではないか。
悲観的な筋書きが、何故、好まれるのか。最悪の事態を、想定しておけば、それ以上に、悪くなることはない、というのが、理由なのか。だとしたら、その筋書きで、右往左往させられるのは、誰が悪くて、何がいけないのか。十分な備えの為に、予算を注ぎ込んだとしたら。
だが、そんな筋書きを、提示する人間の多くは、結果については、知ったことではない、のでは。だとしたら、言うだけ言っておいて、後は知らぬ存ぜぬ、とでも言うのか。狼少年ではないが、何度も、それを繰り返され、その度に、備えを怠らず、とせねばならぬのなら、早晩、聴く耳持たぬ、とでもなるのでは。今の、女性宰相は、確かに、人気を誇っており、また、悲観的よりも、楽観的な見通しを、示すように、心掛けている、ように見える。それに対して、口煩い、評論家や、報道陣は、専ら、悲観的な見通しを、示すことで、彼女の失敗を、望んでいるかの如く、見えなくもない。今回、海の向こうに、行くについても、そんな雰囲気が、漂っており、特に、あの暴君が、他国への侵攻を、繰り返すのを、眺めるにつけ、平和よりも紛争を、安定よりも不安定を、目指している、のではないか、との見方も、掲げられていた。その不安を、更に、煽ったと思えるのは、別の大国との会談を、延期したことで、それにより、こちらへの圧力が、増すとの指摘が、急激に、強まっていた。この状況では、過大の要求を、突き付けられる、との指摘も、あり得るとの声が、高まっていた。だが、和やかな雰囲気で、始められた会談は、そのままの勢いで、罵声が飛ぶこともなく、また、法外な要求も、起きなかったと言われる。はて、あの不安感は、何処へ、と思った人も、居たのだろう。だが、終わってみれば、楽観一色となり、何やら、別の不安が、過り始めた。では、どうなるのか。実は、誰にも分からず、答えさえ、何処にも見えぬ状況は、何も変わっていない。なのに、何故、この安心感に、満ちた状況が、起きているのか。相変わらず、訳の分からぬ、ものでしかない。でも、まあ、暫くは、様子を見るしかない、のだ。
女性の社会進出を、妨げる表現として、盛んに使われたのが、硝子の天井だろう。ただ、海の向こうは、そうだとしても、こちら側は、少し感覚が違う。その中で、男女の割合が、引き合いに出され、対等にすべく、掛け声で使われたのが、男女共同参画なる言葉だろう。
今、経済紙の、私の履歴書に、連載されるのは、誤認逮捕から、検察の内部問題へと、発展した事件の当事者だが、彼女の働き方は、まさに、女性の社会進出を、促す動きの中での、当事者の実情を、表すものと見える。ただ、今日の話題は、この問題の核心に、触れるもののように、思えた。曰く、自分の収入の殆どは、共働き世帯の、二人の子育てに、注ぎ込まれたとある。この状況は、女性の社会進出に、不可欠な要素を、明確にするが、その一方で、彼らの能力の、活かし方として、唯一無二の選択肢、とすべきかを、考えさせるもの、とも見える。公務員なら、共働きせずとも、何とか生活が、成り立つだけの、収入を得られる筈だが、双方が働くと、子供を預けたり、その他諸々の、支出が嵩むことで、折角増えた収入も、多くが失われる、という事態を招く訳だ。それでも、女性の能力を、社会発展に役立てる為に、との掛け声が、高まった頃に、彼女の活躍が続いた。しかし、どういう訳か、生贄のような、扱いを受けて、事件が発覚したが、本人と支援者の、努力により、検察の不正を、暴くまでに至り、法曹界の悪弊を、暴くこととなった。話を、元に戻すと、さて、共働きは、不可欠なものか、という点に、疑問が残る。確かに、人間の能力を、社会に反映させる為には、働くことが、必要となるが、その人間の能力を、子育てに、向けることは、それと違うのか、という点に、目を向けてみると、おかしいかも、との思いが過ぎる。では、どうすべきか。現状では、貧困を訴える人が、溢れているだけに、片方の収入だけでは、生活が成り立たぬ、と断じられる。だが、それが、十分に満たされたら、どうか。この点を、先日も、囀りで、書く人が居た。こちらの考えからは、妥当と見えるが、対岸の考えからは、不当と見えるのだろう。差別を無くす、とか、平等にする、とか、そんな考えでは、何が答えなのか。一概には言えぬようだ。
相手の顔が、見えない中で、どう理解を得るのか、という点に、悩んでいる人が、居るのだろう。何度も、書いたように、社会媒体は、その典型であり、揉め事となる場合も、多いようだ。でも、状況は、徐々に、変わりつつある。ただ、良くなっている、とは言えないと思う。
四半世紀以上前、まだ、そんな問題が、重視されていない中、仮想社会は、既に構築され、多くの人々が、そういう意見交換の場に、参加していた。2チャンネル、と呼ばれた場所が、その典型だったと思うが、多くが、匿名で発言し、時に、誹謗中傷合戦、となったことを、記憶する人も多い。ただ、それ以外の場でも、そんなことは、日常的に起きて、罵り合いに、発展することも、多々あった。ただ、いつの間にか、落ち着きを、取り戻して、以前同様の、意見交換となる場合が、殆どだった。それが、変わったようだ、と思えたのは、今、社会媒体、SNSと呼ばれる、場の登場からだ。手にした端末で、送受信が、行えることから、寝ている時間以外は、常に、接続したまま、という参加者が多く、緊急性の高い、情報を収集するのに、使う人も、多いのだが、その反面で、悪質な書き込みや、煽りとも称される、悪意に満ちた発言を、繰り返す人が、増えたのも、事実だろう。その結果、とは言えぬが、被害者と呼ばれる人が、急増したことで、問題が大きくなり、遂には、裁判沙汰となった。四半世紀前には、想像も付かぬ話だが、今や、大真面目に、論じられるもので、それも、この仕組みが、発言だけでなく、態度表明の釦を、設けたことにより、弊害が増えたと言われる。裁判でも、悪意の発言が、罰せられることは、勿論のこと、その発言に、賛同を示した人間も、加担したとして、罰せられることとなった。これは、ある意味、予想外のことで、沈黙を含め、放置することさえ、罰となり得る、とまで言われる。管理者が、責任を問われるのも、その一つだろう。ただ、管理責任を、重視したことで、仕組みの中に、新たな対策が講じられ、更なる弊害が、起きつつあることには、警戒を要する。他人からの、危害を、防ぐ為として、反論などの拒絶を、設定できるのは、一見、安全性を、高めるものと、見えなくもないが、非常識な発言を、押し付けられた挙句に、放置せざるを得ないのは、如何なものか。見ないで済む、との措置より、暴力的に感じるが、どうか。