パンチの独り言
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11月23日(日)

 再稼働の遣り取りで、最も気になったのは、未熟さと無知の、誤解とでも、言うべきものだった。事故が起きた時、多くの人々は、これまでの事故から、学んだことから、あんなことが起きる筈は無い、と思った。だからこそ、こんな災害は、防ぐことができぬ、と信じたのだ。
 だが、これは、全く異なるものを、同等と見做すことから、始まった過ち、と思えて仕方がない。前者は、経験に基づき、あらゆる危険性を、回避する手立てが、講じられる筈、との思い込みと共に、科学の力に対して、過度な期待を抱く、傲慢さの現れ、と見ることができる。一方で、後者は、災害そのものへの、無理解と共に、その仕組み自体を、依然として、理解できぬままに、過剰に恐れる、そんな心理の現れ、と見ることができる。何を偉そうに、と言われても、どうということはない。客観的に、物事を眺めぬままに、愚かに、騒ぐだけなら、何の知識も判断力も、必要とはならない。そんな状況が、一部に現れ、それを歓迎する空気が、社会媒体を、満たしているのでは、とさえ思えるのだ。それほど、愚かなのか、と断じてしまえば、却って、楽になるかもだが、物事は、それでは、片付きそうにない。だからこそ、十分な議論をして、その場その場での、結論を導く必要がある。なのに、互いに、相手の無理解を、攻撃することに、終始するばかりで、何の結論も、出せないでいる。主義主張を、できる場が、全ての人々に、与えられた、と見るのも一つだが、一方で、何の確認もなく、ただ、言いたい放題を、続けるだけの場が、構築されてしまった、と見ることもできる。これでは、成長も何も、起こり得ないのでは、と思うのだが、どうだろうか。それでも、時に、冷静な声が届き、一瞬だけでも、我を取り戻す。そんなことの繰り返しが、地道に行われれば、もしかしたら、ずっとましな社会が、実現できるかも、だが、さて、どうだろうか。

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11月22日(土)

 再稼働、という話が、流れてきた途端に、囀りでは、両論が飛び交っている。不安を口にすれば、それで、なんでも叶う、と思う人が居る一方で、安全性には、懸念があるものの、経済活動を、保つ為には、不可欠との意見も。特に、諸手を挙げて、歓迎された新技術に、危うさが見えるだけに。
 確かに、世界的に見ても、あの大震災後の、大津波の襲来で、危険な状態に、陥った発電所が、以前の事故同様に、かなりの放射性物質を、拡散しただけでなく、発電所の反応炉自体が、暴走するとの懸念も、広がっていた。そうなれば、制御不能に陥り、周辺のみならず、国内どころか、世界さえも巻き込む、大惨事へと繋がる、とも言われた。それだけに、物理学者出身の宰相が、国内の発電所を、全て閉鎖する、との決断も、当然と受け取られた。だが、その後の展開は、どうか。確かに、軍事侵攻に踏み切った、狂気の暴君を有する国から、化石燃料ガスを、供給する手立ては、断ち切られ、再生可能、と呼ばれた資源にも、翳りが見え始める中、隣国から、その仕組みで発電された、電気を輸入せねばならず、再検討の声も、出始めている、と聞く。物理学者は、確かに、科学の原理について、深い理解がある、のかもだが、彼女だけでなく、世界中で、あの発電形式に、反対を唱える学者達は、理解の及ばぬ、生物自体の反応には、目を向けようとせず、持論を、押し通そうとする。嘗て、量子力学が、勃興する中、研究対象を、極微の世界から、移そうとした人々は、生物の営みに、目を向け始めた。そこに、別の法則が、横たわるのでは、との期待からだったが、今見ると、本家の学問分野は、広がるのを止め、狭い中での解釈に、走っているように見える。科学の学問分野は、ここ二世紀程、急速な発展を、遂げてきたが、その一方で、人智が、及ばぬ範囲が、広がったように、見えている。狭量で、傲慢な考えに、拘るのではなく、もっと、広がりを持って、見つめるべきだろう。その意味で、再稼働は、期待を抱かせる。とは言え、制御可能との慢心も、傲慢の現れであり、あらゆる危険性を、列挙することが、必要だろう。

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11月21日(金)

 情報媒体が及ぼす、社会への悪影響は、今に始まったことでなく、遠い昔から、問題視されてきた。政に携わる人々には、治安を乱すものと映り、極刑を下した歴史は、古今東西、あらゆる場面で、起きていただろう。ただ一方で、媒体の多くは、正義感を振り翳し、大真面目だ。
 昨日の宗教団体にしても、大衆媒体は、権力への反発、という名の下に、彼らの暴走が、極みに達しても、擁護に走ったが、そのこと自体を、すっかり忘れ去り、罪人と断じて、社会的な抹殺さえ、厭わない。こんな極端が、良い影響を、及ぼす筈が無いが、彼らは、その時その時の、正義として、毅然とした態度で、過ちを繰り返す。それは、戦時も同じで、黒歴史として、残っていても、今度は違う、とばかりに、誤りを掲げ続ける。彼らは、明らかに、違う立場にあり、報道を、生業とするから、多くの場合は、慎重な検討を重ね、それこそが、過ちを繰り返さぬ為の、唯一の方法、と信じ込んでいる。だが、歴史は繰り返し、彼らの反省は、何度も重ねられる。一方、社会媒体の多くは、そんな仕組みも無しに、単なる思い付きを、書き殴る場であり、口喧嘩のようになるのは、止むを得ぬこと、と見做されたりする。普段、大人しく、慎重な人物が、何故、そんな極論を、展開するのか。と不思議に思う人も、居るだろうが、現実には、こういう仕組みが、始められてから、こんなことが、急速に、増え続けている。その原因の一つは、誰とも相談せず、自分だけで、反論を綴ることにあり、そこに、酷い思い込みや、誤解の数々が、あったとしても、当人は気付かず、当初の主張を、繰り返し続ける。根源にあるのは、自ら書いたものを、検証する能力の欠如で、議論が盛り上がると、それは更に悪化し、喧嘩の熱気は、増すばかりとなる。掲示板が、登場した頃も、そんな傾向が、目立ち始め、冷静に対応すると、馬鹿にしたとさえ、罵られる始末だ。日中は、冷静で、有能な人でさえ、夜中には、画面に向かって、不満を呟きつつ、こんな代物を、書いてしまう。人間の心理とは、脆弱で貧しいもので、その過ちを、犯さぬ術を、身に付ける必要が、あるに違いない。大昔は、手紙を認めて、情報交換を、行ったものだが、そこでは、構想を練り、下書きを作った上で、清書してから、投函した。そこには、時間がかかるだけでなく、心の移り変わりの中で、何度も読み直すことが、できたのだ。今、困っている人には、そんな形で、時間を置くことを、勧めたいものだ。

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11月20日(木)

 30年前の春、朝の会議中に、飛び込んできた話は、耳を疑うものだった。当初、都心で、事件が起きたらしい、とされ、その内に、毒ガスか何かが、漏れることで、多くの犠牲者が出た、と変わっていった。画面に、映し出される光景は、俄には、信じられぬものだった。
 その後も、何が起きたかについては、定まらぬままに、毒ガスの正体さえ、伝えられぬ中、不安が広がった。と言っても、都心から離れた場所では、何処か遠くの事件であり、その後の展開から、明らかになったことの方が、遥かに、不可思議なもの、となっていったのだから、何とも、訳の分からない話だ。ここでも、読んだ本で、紹介したように、その正体は、サリンと呼ばれる、戦時中に開発された、毒ガスであり、その致死性から考えるに、製造自体が、困難というより、危険過ぎて、誰も手を出さぬもの、との受け取りが、広がっていた。その後、宗教団体が関わった、テロ事件と紹介され、例の代弁者や支援者達が、盛んに、否定する中、多くの幹部や信者が、逮捕されていき、拠点の捜索から、製造が、ほぼ確定されたものの、現物が、差し押さえできぬ中、これもまた、不思議としか、表現できない遣り取りが、画面に映し出された。犯罪が確定し、死刑が執行されると、皆の記憶が、薄れ始めた、とも指摘されるが、まだ、疑問を指摘する人々が、沢山残っているようだ。今月読んだ本で、後程紹介する書籍は、当時、警察組織の中で、最重要な立場に、あったと言われる、人への直接取材で、多くの内幕が、明らかになった、と帯では謳っていた。だが、読んだ感想は、落胆一色であり、結局、何も明らかにならず、事件の核心は、依然として、霧の中にある、としか思えない。本人の弁で、防げなかったのは、自分の「覚悟」が足らなかった、としていたが、そのこと自体でさえ、何も明らかにせず、誰に対する、どんな「覚悟」なのか、明確にされなかった。取材は、弁護士と、当時、取材に当たった新聞記者が、中心となっていたが、こちらから見ると、当時の遣り取りで、最も重要な役割を、果たしたのが、報道であった筈で、その立場の人間が、何の関わりも、触れぬままとは、呆れるばかりだ。世間とか、世情とか、そんな言葉で、誤魔化す人々は、自分が、何をどのように歪曲したかに、触れぬままに、他人事のように、扱う態度を、何と思うのやら。

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11月19日(水)

 手にした端末で、情報の受信が、できるだけでなく、発信さえ、可能となった。多くの人々が、挙って参加し、社会媒体の恩恵に、浴することが、できると思った。だが、その後の展開は、皆が感じるように、情報交換や議論の場ではなく、ただの喧嘩の場所、罵り合いが続く。
 何故、と思う人が多いのは、当然のことだ。情報を交換するだけなら、そこで、主義主張が、問題となる訳が無く、皆が思う所を、書いたとしても、情報の取捨選択は、受け手に任される。その態度を、表明したとしても、個人的なことに過ぎず、そこから、対立や断絶、分断などが、起きる筈が無い、と思っていたとして、何の不思議も無いのだ。だが、現実は、正反対の状況に、なっている。何故だろうか。極端過ぎて、賛同は、得られぬかもだが、子供の喧嘩を、想起すれば、理解し易い、と思う。いい大人が、と思うのは、良識あり、見識のある人々で、多くの人は、仲間とそれ以外、という区別で、人生を歩んできた。そうなれば、賛同するのは、いい仲間であり、反論を掲げるのは、仲間以外の人間、極端な見方からは、敵と見做される。となれば、啀み合いも、当然のこととなる。小さな頃、学校で、仲間かそれ以外かで、二つかそれ以上の、勢力に分かれて、互いに、相手の問題を、指摘し合っていた、という経験を、持った人が多いのでは無いか。いつ頃からか、教室内の苛めが、表面化することで、一部の子供達が、窮地に追い込まれた。その後は、全く別の力が、働き始め、苛められた子供が、親を交えて、反撃に出ることで、苛めた、とされる子供達が、今度は、窮地に追われた。何の解決も、得られぬままに、成長した人間が、今まさに、手にした端末で、啀み合いを、続けている。真偽が、明確なものさえ、主義主張により、歪曲された論理で、反対する相手を、言い負かそうとする。こんな状況を、作り上げる為に、社会媒体が、整えられた訳では、決して無いのだが、どうも、人間の心理は、その程度の、幼いものらしい。こちらができることは、それらの問題点を、一々指摘し、正すことしかない。

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11月18日(火)

 生成人工知能に関して、様々な意見が、飛び交っている。曰く、仕事が奪われる、とか、不正に使われる、とか、兎に角、悪い話ばかりが、取り沙汰される。一方で、良識ある考えでは、巧く使えば、仕事を軽減できる、とか、巧く誘導すれば、新たな学びを、誘い出せる、とか。
 新技術の多くは、これまでにも、歓迎の声と、警戒の声が、入り混じって、迎えられた。その後、定着したものは、その殆どが、使いようが、整えられることで、害より利が、優るようになり、その地位を築いていった。確かに、省力化が進めば、人力作業の多くは、不要となるから、当然、労働者の数は、減ることとなる。これが、製造業における、自働化や製造機器の導入で、従業員の数が、減らされたことを、想起させ、仕事が奪われる、という叫び声が、聞こえることへと、繋がるのだが、その歴史において、労働者は、別の活躍の場を、得ることで、仕事を続けており、一概に、警戒すべきもの、と見るべきではない。また、労働環境の改善は、危険性の回避へと、繋がるから、労働者自身にも、利益となる場合もある。では、不正の方は、どうだろうか。特に、教育現場では、警戒が高まりつつあり、既に、問題が生じている、との訴えも、数々寄せられる。だが、その内容を、詳しく眺めると、問題の本質が、教える側の怠慢、にあるとの見方もあり、一概に、禁ずることが、良いとは限らず、また、場合によっては、それらの不正を、暴くことの難しさが、新たな障害となる、こともありそうな気配だ。ただ、現場の困窮具合から見ると、まさに、喫緊の課題となりつつあり、どう処せばいいのか、答えを求める声が、多いのも事実だ。では、どうすべきか。一部の大学では、人工知能による不正が、発覚した場合には、厳しい処分を下す、と謳っているようだが、上に書いたように、利用の有無が、確認できない場合には、何ともならず、当事者が、困り果てるだけ、となる。各人に、任せるしかない状況だが、その中で、何をどう工夫すべきか。実は、大した問題ではない、との意見もある。他人のものでも、人工知能でも、借り物であれば、その理解を、確認するだけで、十分だろう、となる。多分、この辺りが、現時点での、落ち着き先だろう。どうなるのか。

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11月17日(月)

 硝子の天井を、打ち破った、としては、大騒ぎに過ぎるか、何れにしても、女性の社会進出で、下位に沈んだままだった、この国の宰相が、女性になると、想像しなかった人は、多いだろう。その一方で、なるはなったが、務まる筈が無い、と思った人も、多かったようだ。
 で、蓋を開けてみて、どうだったのか。依然として、極端な両論が、飛び交っている。毅然とした態度さえ、いきがっている、と見る向きがある。そこにきて、一見、論理的な説明も、その弱点を、突こうとして、躍起になる人々も。これらが入り混じり、社会媒体は、ある意味、盛り上がっているが、大衆媒体も、負けてはいない。どちらの意見に、与するかで、都合のいい情報を、挙って取り上げるのは、今に始まった、行状ではない。こんな状況では、世界情勢が、どう流れているかでさえ、主義主張により、正反対な論評が、目立っている。何が正しいのか、どう判断すべきか、自信の無い人程、戸惑うばかりとなり、画面から、目を離せなくなる。だけでなく、社会媒体では、好悪を顕にして、極端な意見を、書き込む人も、数え切れない。だが、その根拠は、薄弱なもので、誰かが、そう書いたから、とか、大衆媒体で、そう言っていたから、とか、そんなものばかりで、媒体の主同様に、一次情報に、触れようともせず、流れに、身を任せている。そんな極論を、眺めつつ、あたふたする人には、何とも、不安な日々が続く。それに加え、外交では、牽制を込めて、極端な物言いが、横行し始めており、断絶状態が、強まりそうにさえ、見えてくる。だが、所詮、人間社会は、それだけでは、事が運ばず、互いに、妥協し合いつつ、落とし所を、探しているのだろう。こんな騒ぎの中、極論に与して、過ちを繰り返せば、信頼を無くすだろうし、時に、地位や名誉までも、失いかねない。だからだろうか、多くの意見は、社会的に、尊敬される人や、高い地位にある人ではなく、老後の暇を、潰すだけの人や、不平不満ばかりで、何も成すことが、できない人ばかりが、書き込んだものに見える。まあ、そんな輩に、付き合わずとも、暫く、様子見しても、いいではないか。焦ることはない。

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11月16日(日)

 どんな遣り取りが、あろうとも、信じ切った人には、大真面目な議論、と読めるのだろう。今の、社会媒体の状況には、そんなことさえ、感じてしまう。でも、ある意味、冷静な見方からは、何ともはや、的外れで、非常識で、身勝手なもの、としか映らないのだが、どうだろう。
 以前から、書き続けるように、今の社会は、弱者が、最強とも見える、状況にあるようだ。だから、媒体の中でも、如何にして、弱者であることを、主張した上で、保護を求める姿を、如何に晒すかが、肝心要の、戦略となる。そんなことを、踏まえた上で、意見の遣り取りを、読んでいると、呆れるばかりとなるが、表面的には、大真面目な様子で、弱者救済を、訴えているので、うっかり発言を、してしまうと、まさに、炎上となる。素人が、そんなことに、手を出せば、集団私刑のように、実名を晒されたり、ないことばかりを、さも真実の如く、殴り書きされる。精神を、病むことさえ、覚悟の上でないと、うっかり発言は、できないのだ。でも、明らかな過ちは、指摘すべき、との意見も、当然のことだ。にも拘らず、今では、大人の対応として、そういう下らないものには、一切手を出さず、傍観に徹する、というのが、最善の策とさえ、言われている。もし、そんな的外れで、非常識で、身勝手な社会なら、そんな媒体は、消し去るべきであり、皆が、無視を決め込めば、可能なのでは、との意見も、散見されるが、現状からは、信じられる筈もない。その上で、現実に、被害が広がっても、そういう暴言の数々は、消されることもなく、場合によっては、何度も、再掲されることで、永遠に続く連鎖が、築かれてしまう。この状況の、根源となるのは、何だろうか。ふと考えると、弱者保護は、確かに、その一つになるが、その前か後に、被害妄想が、あるのではないか、とさえ思える。苛めのことで、考えると、分かり易いが、これとて、不用意に発言すれば、炎上騒ぎへと、結び付くだろう。苛め同様、暴力に関しても、加害を、無くすことは、可能だったとしても、被害は、無くならない、と言われるのは、そんな話からだ。加害と被害を、区別して考えないと、物事は、綺麗には片付かない。では、どうすれば、という疑問への答えは、今の所、見つからないままだ。

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11月15日(土)

 愛玩動物が、増え続けており、多種多様なものも、あるらしい。だが、大半は、犬か猫であり、飼い主は、犬派と猫派に、分かれると言われる。何方なのかは、まあ、どうでもいいことだが、例えば、猫について、巷で話題になっていることに、少し触れてみたい。
 猫を飼う人々は、その気紛れな態度が、魅力的と、盛んに言うけれど、犬好きの人には、理解されないようだ。絶対服従を、基本として、褒めることで、擦り寄る態度こそが、愛玩動物の典型、との思いからすれば、気紛れとは、馬鹿げたもの、と映るからだろう。まあ、それはそれとして、躾についても、考え方が、大きく異なる。何しろ、猫は、何か悪いことをしても、それを覚えておらず、後から叱っても、無駄と言われる。確かに、そうなのかもだが、少し違うのでは、と思うことがある。幼少の頃、古参の猫が、自宅におり、新参者の子供より、上の地位にある、と思っているようだった。その為、子供が手を出すと、その場では、仕方ないな、とでも言うような、態度で、知らぬふりをするが、暫くしてから、その時の反撃、とでもいう形で、手を出した子を、痛い目に遭わせていた。これは、思うに、自分がされたことに対し、恨みに思って、覚えていたのではないか。だから、手を出した子が、忘れた頃を狙って、反撃に出た訳だ。子供の方は、すっかり忘れて、何のことやら、と首を傾げるが、親達には、それが、上で書いたようなこと、のように映っていたらしい。そう考えると、猫の記憶力も、侮れないと思える。但し、ここでは、自分がされたことについて、当てはまる訳で、猫の悪戯のように、自分がしたことには、当てはまらぬのかも、だ。でも、この話、猫に限ったことではなく、人間にも、そんなことが、沢山あるように見える。今の社会媒体での、遣り取りの多くは、自分がしたことと、されたことの、区別によって、すっかり忘れたり、いつまでも根に持ったり、との違いが、はっきりと表れている。意外に、生き物は全般に、そんなものかも知れぬ。下らぬことだが、そう思えば、執拗な攻撃も、適当に流すことが、できるかも、だ。

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11月14日(金)

 誰もが、手にした端末から、発信できる仕組みとして、社会媒体は、今の地位を、築いたと言える。だから、その恩恵を、重視すべきであり、批判的な指摘は、当たらない、とする考え方も、あるだろう。だが、嘘は嘘、捏造は捏造であり、発言者自身の、利益のみを尊重すべきではない。
 こう書くと、そんなことは、十分承知の上で、その書き込みの真偽については、読み手自身が、判断すれば良い、との意見があるのは、十分承知の上で、発言の真偽について、別の人が、指摘することは、非常に重要である、との意見を、掲げておきたい。それが、昨日書いたことなのだが、これ自体も、反応が様々で、今の世の中の、捻れた状況を、表しているもの、と思っている。例えば、報道の一種として、怪しげな情報を、広げようとする動きは、実際には、その運営者が、耳目を集めることで、広告費などを、稼ごうとする魂胆の現れで、その誤った情報で、読み手が、損害を被ることには、何の責任も無い、とするのは、余りにも、行き過ぎの感がある。それも、大元の情報が、間違っているかは、発信者自身の、責任の及ぶ所では無い、とまで言い始めると、もうお手上げである。現実には、そういう場の管理者が、どんな責任を負うのか、これから、定めていかねばならない、となるのだろう。次に挙げた例では、発言者自身からの、反応は全く無い。不都合なことには、相手をしない、というのが、この媒体の鉄則であり、持論を押し通す為にも、発言者本人の判断として、細かなことには、取り合わぬ、というのが、最善の策、と言われる所だ。一方で、反論に対する反論に、終始したが為に、精神を病むに至り、その損害の賠償を、匿名の反論者に求めたり、媒体の運営者に求めるような、訴訟騒ぎが、起きているから、触らぬ神に、といった姿勢が、自身の心身を、正常に保つ為の、手段の一つ、と見る向きもある。だが、それ以前の問題として、誤った発言を、しないのが、一番ではないか、と思うが、どうだろうか。その、誤った発言により、間違った情報を、押し付けられ、それを、鵜呑みにしたが為に、精神を病むに至ったとしたら、誰の責任か、ということだ。まあ、所詮、取るに足らぬこと、に違いないが、これほどに普及し、多くが、眺めずにはおられぬ、という状況は、誰が何を間違ったのか、という点で、論じるべきことかと思う。

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11月13日(木)

 社会媒体の、情報信用度に関して、これまでに、何度も書いてきたが、パンチの名前で、登録した囀りでも、時々、表示された書き込みの中で、気になったものに対して、意見を書き込んでいる。中には、乱暴で、不確かな内容に、多くの人々が、賛同を示す場合があり、注意喚起の目的だ。
 最近は、登録した人だけが、閲覧できる仕組みになり、誰もが、読めるようには、なっていないので、ここでリンクを、貼り付けたとしても、読めない人も居るだろう。でも、まあ、登録するかは、人それぞれなので、念の為に、貼り付けておく。一つは、不確かさの典型であり、科学研究の論文を、引き合いに出して、最新の知見を、紹介するものだが、肝心の論文は、研究の世界で、常識となっている、査読という審査を、受けておらず、真偽の程は、不明なままだ。こんな怪しげな情報も、引用の仕方では、如何にも新発見の如く、扱えるので、当初の反応は、驚きに満ちており、情報操作の典型、と言えるものだ。これに続き、詐欺話が加われば、まさに、犯罪へと繋がりかねない。で、その点を、指摘しておいた。もう一つも、査読論文に関するものだが、何処かの大学の教授が、訳知り顔で、苦境の説明を、行ったものだが、内容は、杜撰でしかなく、常識を疑うものだから、その点を、指摘した。案の定、本人の反応は無く、不都合なものは、相手をしないという、信用ならぬ人物、と、わかる人には、分かったのではないか。次は、書き込みそのものではなく、その前の情報に、確認できぬことが、あることを指摘し、著名大学の募集においても、そんな不確実性が、含まれる程に、情報発出が、十分に検討できていない、という点に、問題があるように思えた。何が、どのように、表示されるのかは、籤引きか何かのように、偶々のこと、でしかない、と思えるようだが、果たしてどうか。そんな得体の知れぬ、情報を、鵜呑みにするか、疑ってかかるか、更には、確かめてみるかは、本人の問題なのだ。それなりの力を、つける必要がある、ということだろう。

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11月12日(水)

 教育は、学校の責任だけでなく、親の責任が、大きい。という話が、物価高騰の中、気になるという話だったが、子供の生育に関しては、親だけでなく、環境の問題も、大きい、という話の一つが、新聞に紹介されていた。能力の発達は、教育という観点だけでなく、生育にもある。
 新聞の記事は、音の問題が、子供の生育に、強い影響を及ぼす、という内容だった。特に、大きな音に対し、子供が驚くから、という話は昔からあり、びくびくする子に、しないようにと、叱ったり怒ったりする時も、なるべく小さな声で、などと育児書に書く人も居る。まあ、時と場合により、始終、そんな環境におかれては、年齢に関係なく、誰しも、落ち着かないもので、精神を病む場合さえ、出てくるのだろう。で、この記事の核心は、音の大きさ、所謂、騒音に分類されるものではなく、反響音にも、気を配るべき、との指摘だった。建築学会が、そんな要望書を出すとして、他の先進国では、数値基準さえ、設けている所もある、と綴っていた。反響音と言えば、音楽会場での、残響の問題が、取り上げられるが、そういう、美しい音色の為ではなく、単純に、不快さを示すものとして、そんな基準があるのか、という疑問が湧いた。ただ、この手の話として、思い出すのは、ある地方の美術館で、そこは地元出身の、障害者を記念して、建てられたもので、彼の作品が、展示されていたが、ある年に、新築された。よくある話で、設計者の提案を競わせて、最優秀のものを、建築した訳だが、暫くして訪れると、各部屋で、強い違和感を抱いた。円筒を切った形に、各部屋は設計され、その周辺の壁に、展示物があったが、その中心に立つと、何とも言えない音に、包まれる感覚があった。数ヶ月後に、再び訪れると、各部屋の中心には、何故か、机が設置してあり、そこに立つことが、できなくなっていた。成る程、苦情があったのか、と納得したが、選考基準には、美しさはあっても、そういった問題は、無かったのだろうな、と思った。地声が大きいので、廊下での反響にも、屡々出会すが、これも幅と高さの比率、なのだろうと思う。こんなことから、学会も、口を出すようになったのかも、と思うが、世の中には、色んな障害が、あるものだ。

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11月11日(火)

 値上げが続き、生活が、一層苦しくなる、という話が、よく流れてくる。でも、本当だろうか。別に、裕福な家庭でもなく、ごく普通の平均的な、と思っているが、今回の値上げで、日々の生活が、厳しく圧迫された、とは感じたことはない。だが、一部では、そんな状況と聞く。
 例えば、子育て中の家庭で、学校に通わせている場合、給食費が、払えなくなった、とか、修学旅行の積立金が、支払えない、とか、そんな窮状が、度々取り上げられる。が、本当だろうか。払いたくない、の一言で、片付けられたら、本当だろうな、と思うけれども、払えない、という状況は、俄には信じ難い、としか受け取れない。そんな家庭でも、移動の手段は、何とか講じられており、また、日々使う、通信手段も、ほぼ確実に、確保されているだろう。だが、それに比べて、子供達の教育に、かかる経費となると、話が違うらしい。穿った見方では、でも、塾に通わせたり、その他の活動に、かかる経費は、どうなるのか、とさえ思えてしまい、一体全体、彼らの優先順位は、如何に決められたのか、という疑問さえ、浮かんで来かねない。仮令、子供を儲けたとしても、それは、単に、自分らの楽しみの為で、彼らの将来に、必要なものの中には、不要なもの、と映るものも、あるのではないか。まあ、それぞれの勝手としても、上に書いた、給食や旅行に、必要となる経費が、賄えないとの窮状が、訴えられた途端に、手を差し伸べる人が、登場してくる時代には、自分で、自分のことを、出来ない人を、これ以上増やしては、社会自体が、崩壊するのではないか、とさえ思えてくる。と言って、障害者のことを、書いているのではない。彼らの権利を、保障する為の、仕組み自体は、社会において、不可欠なものだろうから、それを無くせば、などと暴論を、吐くつもりはない。だが、上に書いたような、身勝手な事情を、訴える人の中には、障害者が、受けている利益を、健常者である自分も、受ける権利がある筈、などと言い出す人まで居る。何をか言わんや、としか思えぬが、大真面目で主張し、それが、当然と思う。何を何処で、取り違えたのやら。

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11月10日(月)

 何人が読んでいるのか。ということを、書いた人は、気にするのか。大衆媒体の場合、テレビなら、視聴率があるし、新聞なら、購読者数がある。嘗て、世界一を誇った新聞も、あったと記憶するが、果たして、今はどうか。更に、各記事については、どうか。気になる人も居るだろう。
 視聴率は、あくまでも率であり、総和とはならない。だから、日々の番組で、何人が視聴しているか、を知る手立ては、今の所、無いようだ。一方、新聞の購読者も、誰もが、自分のことを、思い出せば、すぐに分かるように、全紙面の記事を、全て隈無く読む、という人は居まい。だから、各記事について、何人が読んだか、調べた人は居ない、と思う。ただ、最近は、新聞も電子化が進み、各記事への訪問数を、数え上げれば、近い答えを、得ることができるかもだ。同じとは、言い難いが、社会媒体の方は、この仕組みが、遥かに進んでいる。特に、公開を基本とする、囀りについては、各書き込みに、閲覧の概数が、示されている。その数により、重要性の軽重を、評価するかの如く、番組で取り上げる、大衆媒体もあるが、客観的と称して、何の自主性、主張も出さないのは、如何なものか。一方で、概数に関しても、ちょっとした仕掛けが、あるようにしか、見えない。閲覧数が、増加し始めると、その勢いが、どんどん増す方に向かう。これは、囀りの特徴の一つ、提示の仕方に、原因があるように思える。「おすすめ」と称するメニューが、常に、上に示されており、それを押せば、確かに、そんな具合に思える、書き込みの数が、表示される。おそらく、見ている人間が、どんな記事に、目を向けたかに、依存する形で、表示するものを、選んでいるのだろうが、それにしても、こんな書き込みで、何故、そんな数の人間が、閲覧したのか、と思えるものが、大部分だ。詐欺の話の中でも、紹介したことだが、捏造や嘘などで、耳目を集めれば、達成できることで、時に、子供騙しが、続々と表示される。まあ、所詮、その程度のもの、と思いつつ、情報収集を、繰り返すのだが、さて、意味があるのか。多分、無意味には、違いない。ただ、あまりに酷い内容に、批判を加えるのを、止めてしまっては、いけないような、気もする。

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11月9日(日)

 誰にも、嫌いな言葉、があると思う。以前、取り上げたもので言えば、「癒し」は、何とも偽善の匂いがして、嫌いな言葉の一つである。そんなものなら、数え切れぬ程ある、と言われそうだが、ここでは、一つ、社会奉仕、を挙げてみたい。所謂、ボランティア、のことだ。
 無償で、社会に対して、奉仕することを、全体として、ボランティア、というそうだが、その根底にあるものは、何だろうか。人それぞれ、違った考えを持ち、例えば、若者の中には、学校で、講義や授業の一環として、そういう行為を行い、認定を受ける必要がある、という、奉仕とは名ばかりの、利益追求そのもの、の場合もあるし、名誉の為と称して、その裏で、何かしらの利益を、受けようとする、企業活動の一環、という場合もある。そんなものは、論外であり、社会奉仕が、名ばかりとなり、却って、反感を買うだけ、となる場合も多い。そういう行為は、嫌われるのが、当たり前のことであり、こんな所で、取り上げるまでもなく、人間として、如何なものか、とされるだろう。だが、中には、純粋に、世の為人の為として、社会奉仕を、行っている人も居て、災害の後には、そんな人達が、災害地に溢れることとなる。被害を受けた人にとり、彼らの存在は、非常に大きく、一人では、出来ないことも、多くの手によって、あっという間に、片付けられる場合も、あると聞く。そんな事例には、成る程、と思うこともあるが、世の中、そんなものだけでは無い。多くの、傍迷惑なもの、押し付けだけのもの、唯我独尊を、地でいくものなど、有り体に書けば、迷惑千万なものも、数多くある。その一方で、大真面目で、まさに、世間の利益に、繋がるものもあるから、全否定をする訳にも、いくまい。でも、と改めて考えると、社会奉仕に、甘えるばかりで、自助努力を、怠るのは、やはり、いいことではないし、そんなものが、制度化されては、何のことやら、と思えてくる。で、結局、様々な要因から、嫌いと言ってしまうのだ。社会の一員として、奉仕か否かには無関係に、やるべきことを、すればいいだけ、と思えるからだ。

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11月8日(土)

 この国の特徴は、と尋ねられれば、多くが、四季がある、と答えるだろう。中緯度地域にあり、地軸の傾きの影響を、直接的に受ける、そんな場所にあり、更には、海流や帯状風の影響で、気温や気象が、変化することによる。ここで育った人間には、何も特別なことは無いが。
 だが、地球規模での変化を、何としてでも、成立させたい人々にとり、そんな温暖な気候は、崩されるべきもの、と考えるのだろうか。極端なものへの変化を、断定したいようだ。そこで、猛暑は、当然のこととして、暖冬もあり、その上、豪雨や豪雪も、その大切な要素となる。結果、夏は暑く、冬は寒くなる。暖冬と書いたのに、寒いとは、とか、温暖化なのに、何故、気温が上がらずに、下がるのか、とか、言いたい人が、居るかも知れぬが、極端という意味で、寒暖が、変化する、という考え方なのだろう。で、そうなってくると、間に挟まる、春と秋が、過ごし易いのは、おかしいとなるらしく、それぞれの期間が、極端に短くなり、冬があっという間に夏に移り、猛暑が、いつの間にか、極寒へと移る。今年も、そんな声が、喧しくなっており、一部地域で、紅葉が始まったと思ったら、すぐに、初雪の季節が来た、とか、紅葉前線の南下が、極端に早まった、とか、そんな声が聞こえる。でも、季節の変わり目に、安定しないのは、四季の移り変わりでは、当たり前のことであり、それを、今更驚くのは、如何なものか。そんな変化を、楽しむことができず、猛暑と極寒に、不平不満を並べる人々は、本来なら、丁度良いくらいの、気温の変化でさえ、上下が激しく、対応し難い、と文句を並べる。薄い上着を、着脱するだけで、対応可能なことさえ、忘れたかのような、言動なのだが、一体全体、どんな気候を、望んでいるのだろう。自然の変化は、人間の思い通りには、ならないもので、それこそが、謙虚な考えの元、と言われたものだが、傲慢な考えが、こんなことを、言わせているのか。聞こえぬふりで、良いような気もする。

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11月7日(金)

 こういう場だから、という訳でもないが、老後の資金が、気になる人が、多いだろう。特に、年金制度を、管理する役所が、平均的な話として、それだけでは足らず、必要な自己資金額を、提示するとなれば、尚更である。となれば、どう資産運用するかが、肝心となる訳だ。
 先日も、ある人の意見として、物価上昇が続く中では、物の価値は、それに従って、上がっていくように見えるが、それは、貨幣価値が、徐々に、下降するから、という話を紹介した。だから、預貯金は、相当な利率が、ない限り、物価上昇の中では、目減りする、と考えた方がいい、となる。だから、資産運用においては、何かしらの投資をして、そこから、更なる利益を、得る必要があるとなる。株式相場は、その一つであり、ここに訪れる人々は、そんなことに、関わっている、と考えられるが、では、それ以外に、どんなものがあるのか。この所の、金相場は、高値更新が続き、魅力的とも映るが、ここまで上げてしまうと、やはり、別のものに、と思う人が多いだろう。その一つに関して、つい最近、報道されていた。投資話として、魅力的と映ったのは、想定の利回りが、7%という高率であり、元本保証があるように、さえ見える訳で、確実と思えたのだろう。しかし、この所、分配金が支払われず、厳しい状況にある、と見たからこそ、提訴となったと言われる。この企業は、朝の経済番組でも、広告を出していたが、昨年位から、とんと見なくなった。その一方で、顔本には、広告が掲載され、それに対して、厳しい指摘が、書き込まれていた。曰く、この商品は、怪しくて、破綻しかかっている、と。それが、今回の訴訟となり、表面化した、という訳だ。確かに、ついこの間までは、デフレ状況が続き、この利率なら、と歓迎されていたし、不動産も、一部では、活況を呈していたから、安心感と期待感が、広がっていたのだが、やはり、と思った人も多い。どう転ぶかは、今後注視するとして、このような広告が、社会媒体でも、大衆媒体でも、多く見られており、一体全体、どのような検証が、行われているのか、という点に、興味が集まる。その意味で、大衆媒体から、姿を消したのは、何かあるかも、と思わせるが、その後に、社会媒体に、現れ始めたのは、問題あり、と見ることもできる。広告掲載に対する、責任に関しては、両媒体で、かなり違うように見えるが、さて、どんなものだろうか。

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11月6日(木)

 昨日の話は、実は、どうでもいいことなのかも、と思うことがある。昔は、議論の中で、都合のいい話を、引き合いに出すふりをして、自分の主張を、押し通した人が、一杯居たけれども、それで、実害があったかは、不確かなままだ。一方で、一つが通用したとして、全部が、とはならぬ。
 だから、こんな遣り取りを、いくら眺めていても、自分に得になる話は、早々あるものではない。一方、誰かの間違いを、指摘することが、正義かと言えば、それは、必ずしもそうではなく、そんな指摘をする人間も、自分に有利になる話へと、持っていきたいだけのことだ。じゃあ、情報社会を、どう生きればいいのか、などと、馬鹿げた質問をしたら、どんな答えが、返ってくるだろう。多分、好きにしたら、というのが、精々ではないか。囀りのような、馬鹿げた社会媒体の中で、勝ち負けを決めようと、躍起になるのは、愚の骨頂だろうし、それを、世の為人の為に、などと宣うものなら、偽善者、と罵られるだけだ。結局は、自分のところに、届いた情報の、真偽を確かめるのは、自分にとって、不利にならぬよう、という意図に違いなく、誰か他人の為に、などということは、あり得ないだろう。で、最近の情報は、いかなる状況か。改めて、書くまでもなく、真偽入り混じった状態で、鵜呑みにするのは、勿論のこと、誰かが、信用できる、などと言ったものに、飛び付くのは、馬鹿げたことだ。しかし、確認の為に、時間をかけるのに、一体全体、価値はあるのか。一層の事、暫く、放置しておき、その後の成り行きを、見守った方が、遥かに、効率的なのでは、と思える。何しろ、大多数のものは、誰にも何処にも、引っかかることなく、忘れ去られるだけなのだ。確かに、日々の取引で、日銭を稼ぐのなら、即座の反応の方が、安全なように、見えるかもだが、現実には、然程の違いも無く、放置しておいて、様子を見てからでも、大差無いように思う。鬼の首を、取ったが如くの、日々の遣り取りやその勝敗には、その場限りの、意味しかないのだろうから。もっと、気楽に過ごしては、どうかとさえ思う。

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11月5日(水)

 騙されないよう、という声は、高まるばかりだろうか。だから、日々流れてくる情報は、常に確認する必要があり、それを怠っていては、身を守ることは、できそうにない、となる訳だ。でも、だからと言って、何でもかんでも、疑ってばかりでは、気が休まることが無い。
 で、先日も、いつものように、囀りを覗いていたら、例の如く、極端な書き込みが、目に入った。曰く、新政権が、党の提案を棄てて、今の国立大学が、陥っている苦境を、招いたと言われる、元凶の人物に、勲章を与えた、と批判していた。まあ、坊主憎けりゃ、の典型のようで、新宰相が、気に入らないから、不平不満を、並べただけ、との見方もあるが、案の定、支援者から、猛烈な反論が、投げられていた。こちらは、曰く、根拠とした話の、情報源は、というものだ。何方も何方、の痴話喧嘩のような、代物だが、これが、囀りの特徴だろう。ただ、事実か否か、については、少し調べれば、すぐに出てくる。根拠は、党の提案の中に、国立大学の運営費を、10%増額する、とあったのに、それを破棄した、というもので、その両方の情報源を、求めるものだった。発言者も、少しは調べたら、と思えるが、検索するだけで、その提案の文書が、出てくる。問題は、破棄の方だが、こちらは、検索では、見当たらない。まあ、半分半分で、何方も何方は、変わらずとなるか。ただ、この遣り取りの中で、坊主憎けりゃ、の図式が、何処までも、と思えるのは、前の二つの政権では、無能な宰相ばかりだから、党の提案に、増額などというものが、出てくる筈が無い、という意見が、出てくることで、要するに、囀りに、顔を出すような人間は、狭量で視野が狭い、とみるべきとなる。ただ、この流れは、社会媒体が、登場してから、のものではなく、嘗ての論壇にも、よく見られたと思う。根拠薄弱は、当時もで、議論での勝敗だけに、拘る所は、相変わらずだろう。

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11月4日(火)

 野球繋がりで、以前から、気になっていたことを一つ。確か、随分前に、取り上げた気がするが、定かではなく、改めて、確かめてはいない。が、その時と同じで、何故、こんなものを、と思った広告が、平日の朝、経済番組の中で、流されている。下らないこと、なのだが。
 以前、流れていたものは、野球の場面で、窮地に追い込まれた時、そこに救いの手が、差し伸べられる、という話の筋だった、と記憶している。だが、はじめのものは、初老の人物から、若手の人物に、投手交代をする、という筋で、おそらく、経営者の交代を、表したものだったが、その次は、会社の経営において、新たな人材を、投入するという話を、表したものとして、守備にあたる人数を、増やす光景が、映し出されていた。前者は、規則として、何の問題もないが、後者は、規則違反でしかなく、そんなことは、野球の世界でも、会社経営でも、許されるものではない。特に、社会的な規則に、反しないことが、強く求められる時代、錯誤としか思えぬ、と指摘したように思う。それに対して、最近のものは、投球の判定で、ストライク、となった光景が、映し出されるが、何度も繰り返され、いつまで経っても、打者が、アウトとならない。バーで、経営交代に関して、話し合っている、二人の人物が、それに気付いて、テレビを見ようと、振り返ったところで、社名を出して、仲介業の内容を、説明し始めるのだが、これもまた、規則違反であり、またもや、と思ってしまった。強い印象を、与えることが、広告の目的の一つには、違いないことだが、同じ企業が、何度も、規則違反を、引き合いに出しつつ、耳目を集めようとする。企業倫理が、重視される時代に、何ということか、と思ってしまう。企業そのものの、体質によるのか、あるいは、広告会社の、戦略によるのか。知る由もないが、非常識としか、思えぬものだ。これ程長い期間、同じ趣旨のものを、流し続けるのは、彼らの問題、だけでなく、株主も関わる、問題のように、思えるのだが、どうだろうか。

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11月3日(月)

 海の向こうの、野球大会が、熱戦の末に、決着した。発祥の地だけに、世界一を自称する程に、熱狂するが、今回の大会は、こちらから、加わった選手達が、活躍することで、こちら側でも、熱狂した人々が、多かったのでは。その中で、ふと気付いたことを、囀りに書いた。
 それは、第5戦までの勝敗が、海のこちら側の、中継方式と、連動していたことだ。地上波か、衛星放送かで、何方が勝つかが、決まっており、そのままだと、第6戦で、決着すると、書いてみた。結果は、現時点で、300人程が、訪問しているが、誰も、「いいね」もしないし、返信もしてこない。まあ、野球の勝敗と、中継との繋がりは、ある筈も無い、と思うのが当然であり、この反応も、また、当たり前のものだろう。で、勝敗の行方は、と言えば、それまでの連動は、破れて、勝敗同一となり、最終戦へと、持ち込まれた戦いは、これもまた、熱戦の末、こちらからの戦力が、活躍することで、決着した。最終結果としては、一つの戦いを除き、中継方式と勝敗の結果が、一致した。確率で、論じるのであれば、7つのうち6つとなり、かなりの高率と、見ることができる。とは言え、統計の世界で使われる、相関や因果といった、関係があるとは、誰も信じないだろう。こちらが、試しに書いたのは、そこまでの意図は、無かったのだが、結果的には、興味深い展開、だったと思う。その一方で、こんな戯言に、誰も見向きもしなかったが、囀りをはじめとした、社会媒体の世界では、これまで何度も、同じような戯言が、実しやかに掲げられ、それに、賛否両論が、押し寄せていた。そこには、科学的も、論理的も、欠片も無い、妄言に過ぎない、発言が並んだが、多くの人々が、大真面目に、激論を戦わせ、熱気を帯びていた。所詮、何の根拠も無しに、好き勝手な発言を、繰り返したとしても、物事によっては、関係者だけでも、沸騰するし、時には、無関係な人々まで、首を突っ込んだのだ。罰が当たるとか、神の仕業とか、宗教染みた発言も、散見されたが、それらに、乗せられる人が、兎に角、山のように居る。これでは、平穏な社会は、成り立たない。冷静に、見極めることが、やはり、大切なのだと思う。