パンチの独り言
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1月2日(金)

 実世界の課題は、解決されそうにない。と言うか、何が課題なのか、相変わらず、社会媒体では、議論する人がおり、混乱するばかり、とも見える。まあ、暇潰しの連中が、面白がって、横槍を入れる、だけのようだから、無駄な騒ぎ、と見るべきだろう。で、課題は、何か。
 国際機関の長は、戦争を止めろ、と言ったらしいが、彼らの活動の原資は、何を元に、もたらされるのか。以前の、感染症騒動でも、機関の中の、保健に関わる部門の、長の発言が、他人事のように、響いていたことから、所詮、あの手の組織の、活動の意義は、分断の時代に、消え去りつつある。世界的な課題には、事欠かない時代、と見るべきだろうか。特に、分断が取り沙汰される中、一国の独裁者が、身勝手な解釈から、隣国への侵攻に、乗り出した所で、大国間の拮抗で、世界機関からは、何の提案も出されず、もうすぐ3年となる。この背景には、先の対戦後、新たな組織が、始められた時に、定められた大国の論理が、破綻を来しつつある、ことを表している。一方で、その馬鹿げた力比べ、とは全く異なる事情から、保健機関の為体も、顕在化している。世界的な、感染症騒動では、本来なら、専門家としての、助言が出される筈が、混乱の極みから、科学的にも、論理的にも、杜撰な結論しか、出されぬままに、各国の利己主義が、露呈することとなり、解決どころか、総括さえ、実施できぬ状況に、恥を晒すこととなった。戦後、80年を超え、平和な時代が、続いたように、見えていたが、現実には、その下での活動が、歪みを強めていた。力の均衡が、ある所で、保たれていたが、何処かで、崩れ始めた途端に、こんな事態に陥る。一方で、均衡だけに、期待する仕組みは、この状況では、機能しそうにない。一旦、御破算で願うのか、はたまた、小手先の誤魔化しで済ますのか、考える必要が、出てきそうな気配だ。この国は、その中で、どんな対応をするのか。

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2026年1月1日(木)

 年が明けたが、何も変わっていない、ように見える。和平はすぐそこ、と豪語した大統領は、各紛争地域に対し、解決手段を、講じているように見えるが、得意とする、交渉事も、個別でさえ、解決できない状況に、関係国の落胆は、隠せない。その他にも、火種は、数多あるようだ。
 とは言え、遠く離れた国では、日常の瑣末事に、煩い程、文句が並び、囀りなどの社会媒体は、賑やかさを見せている。ただ、質はどうか、と眺めれば、的外れな指摘や、歪曲した根拠、更には、飛躍ばかりの論理と、議論の場に、相応しくない、妄言の数々が、並べられる。少しは、ましな議論を、とばかりに、正論を投げてみるが、腐った考えに、群がる蠅どもには、何の影響も、及ぼしそうにない。愉快犯、と断じるのも、無駄としか思えず、まずは、正論を突きつけ、どんな反応が、返ってくるかと、静観するものの、僅かな反応が、出てくるだけで、炎上さえ、しそうにない。個人攻撃が、突き付けられれば、また違った反応が、起きるのだろうが、その手法は、相手に合わせた、愚かさの極みでしかなく、媒体自体の、腐敗を招くだけだろう。では、どうしたら、まともな情報交換、まともな議論が、この場でなされるのか。まだ、答えは、見えてこない。こういう場の典型は、嘗ての2チャンネル、と呼ばれた場だったが、そこでも、良識が感じられる、遣り取りが、見えたこともあった。と言っても、おそらく、大衆の目には、届かぬもので、荒れたとしても、展開次第で、耕されることもある、と見えたことも、全体としては、欠片にも、感じられぬ程の、ものだったに違いない。その傾向が、更に強まった、多くの社会媒体は、誰も、制動をかけぬまま、暴走が続けられる。にも拘らず、多くが、好んで参加するのは、何故なのか。その点に、目を向ける必要が、あるのかも知れぬ。自浄作用は、始まる気配もなく、外圧が、功を奏するとは、思えぬ状況で、さて、何が、効果を及ぼせるか。それとも、大衆文化とは、所詮、そんなものに過ぎぬ、と見るべきだろうか。年の初めから、何とも情けない話だが。

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2025年12月31日(水)

 朝刊の見出しに目がいき、記事を読んでみた。内容は、確かに、見出し通りだが、さて、その財宝を、預けたのは誰か、その点が、全く書かれていない。最近の報道は、こういうのが多い、と文句を並べてみても、何の役にも立たず、それこそ、一部は、囀るのだろう。
 仕方なく、検索してみたら、何と、情報源は、ひと月前の記事のようだ。それ自体も、驚きなのだが、それから、一ヶ月も経つというのに、記事の内容は、増えるどころか、減っている。そこに、書かれていたのは、恐らく、嘗て栄光を誇った、国を治めた名家の末裔が、先の大戦で、略奪を繰り返した、独裁国家の魔の手から、逃れようとした、結果のようだった。興味深いのは、その後、国の形も大きく変わり、名家は、既に没落したことで、誰が、その財宝の権利を、持つのか、ということさえ、議論されている、という話だ。そんなことは、決まっている、と思うのは、素人考えらしく、最近は、どの国も、その財宝が、見つかった場所とか、関わった人間が居るとか、その他様々な要因を、持ち出して、権利主張を繰り返す。まさに、大航海時代や、植民地支配の時代に、勝手に持ち出した財宝に、返還の要求が、出されているのだ。確かに、大元の権利は、その通りに、存在するのだろうが、その後の歴史を辿れば、場合によっては、失われたに違いない、と思えることの、何と多いことか。まさに、宗教の問題から、ごく最近でも、異教徒の仕業と称して、徹底破壊に、勤しんだ場所も、数え切れぬ程にある。そんな事情が、見え隠れする中、いざ、世紀の大発見となると、この騒動が、例の如く、起きる訳だ。下々の者にとり、どうでもいいことだが、さて、どんな解決が、図られるのか。というより、どんな落とし所を、見つけるのか、といった方が、適切かもだ。年の瀬に、そんなことを、わざわざ取り上げる程に、この国の報道も、暇を持て余している、のだろうな。これで、今年も最後です。お世話になりました。来年もよろしく。

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12月30日(火)

 皆が、どう思うかは、知る由も無いが、独り言は、毎日、せっせと、考えて書いている。当然ながら、機械の助けに、頼ることもなく、その時その時に、思いついたことを、ただ綴るのみだ。一部の人の如く、日々の業務や勉学に追われ、文章作成は、機械任せ、などとはならぬ。
 でも、その人達を含め、一部には、機械に任せた方が、遥かに良い文章が、書けるのでは、との意見がある。確かに、その人達にとり、自分で書いたものより、遥かに読み易く、内容も豊かなものが、機械に問い掛ければ、一瞬の後に、出てくる。だったら、そちらの方が、遥かにましでは、と言いたくなるのだろう。だが、それは、その人の勝手に過ぎず、他人にまで、その便利さを、押し付けるものではない。更に、分かり易い文の方が、読み手にとっても、有り難いものでは、というお節介な意見さえ、突き付けられる。これこそが、迷惑千万であり、劣化の一途を、辿る人々の、戯言に過ぎない、と思っている。確かに、簡単に理解できる、ということは、効率を最優先にする、時代には、最重要と思えるのだろうが、これこそが、劣化を早める悪行の典型、としか思えぬ。一読では、理解できぬものを、そのまま、投げ出すのは、以ての外だが、その努力を、惜しむことで、自身の思考能力を、低下させるかも、という疑いさえ、挟めなくなる、そんな生き方にこそ、最大の問題がある。相互理解を含め、目の前にあることを、理解した上で、それへの対応を、考えることは、思考活動において、非常に重要なこと、と見るべきだろう。にも拘らず、ただ面倒と考え、分かり易さに、飛び付いた挙句、何か面倒なことは、すぐに投げ出すという、最近の風潮には、こんな人々の、安易な考えが、強く影響している。その手間を、面倒と考えず、様々な方向から、考えることにより、問題解決の手段を、多く思い付くことが、実は、重要なのだ。それを、安易に走り、無駄と投げ捨て、効率を追求する。その結果、誰も何も思い付かず、解決の糸口さえ、見出せなくなったら、どうするのか。文句を並べるのは、簡単だろうが、それは、解決には結び付かない。

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12月29日(月)

 騒動が、始まってから、2年程経過したか。人工知能の存在は、ずっと以前から、注目されていたが、その時、現れたのは、生成人工知能、と呼ばれるものだった。何も無い所から、何かを産み出す、という仕組みだが、あらゆるものの作成に、応用できるとの話だった。何故、騒動なのか。
 幾つか理由があるが、まず、警戒が強まったのは、教育界だろう。それまで、児童生徒学生を、対象として、何をどう覚えたか、何をどう考えるか、を問うことが、教育の基本、とされてきたのが、この仕組みの登場で、本人に代わって、人工知能が、作り出したものが、提出される、と懸念されたのだ。当初は、人間の成長と同じく、見栄えのしない、一目でそれと分かる、程度のものだったのが、いつの間にか、人間が作成したものと、見分けが付かぬ、と言われる程まで、成長してきた。これでは、対象者の学力を、推し量ることが、できないと言われ、本人が作成したかを、識別する手立てを、求める動きが、高まった。ただ、この対応法は、明らかな間違いで、本来なら、提出文の内容から、誰が作成したかを、判断せねばならぬ。それが、できないことこそが、深刻な問題であり、教える側の資質が、問われると見做される。それは、以前から、様々な情報源から、単に書き写すのみで、提出されたものを、どう見分けるか、という点と同じで、剽窃などを、問題視する動きが、誤った方に、進められたのと、同じと思われる。質の向上が、著しく思われるに従い、他の場でも、問題視する動きが、高まっている。公や私に、無関係に、この仕組みを使って、作成した文書が、次々に、出現するに従い、果たして、この動きは、歓迎すべきか、それぞれの場で、議論が始められている。単純に、禁止すべき、と定めてみても、安易に、代行に頼む人々は、ばれなければ、と身勝手な行動に出る。それを妨げるには、どうすればいいのか、戸惑う所だろう。でも、ここでも、同じ水準で、判断するしか、手立ては無い。要するに、人間の見破る力が、測られているのだ。さて、どうする。

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12月28日(日)

 不埒な連中は、一時の鬱憤晴らしで、満足するのだろうか。それとも、執着心で、何時迄も、相手を追い続けるのか。囀りでの騒ぎから、巷では、後者を思い浮かべるようだが、現実には、ほんの一握りに、過ぎないだろう。理由は様々だが、所詮、反射的な反応で、深い考えなど無いのだろう。
 だから、此処に、少し位書いても、何も起きないのでは、と思っている。ただ、時には、別の心持ちの、不埒な連中が、居るかも知れず、油断大敵かもだ。江戸の仇を、という八つ当たり、ではないものの、筋立てして、論理で遣り取りしたい、と思う。それにしても、知らないことを、書かれたら、それだけで、差別だの、馬鹿にされただの、との大騒ぎが始まり、考えても、思いつかないと、腹を立てて、罵倒の言葉を並べる。何時頃から、こんなことが、始まったのか、と言えば、おそらく、ネット上の掲示板が、始まった頃、という見方を、したくなる。そこにあるのは、面と向かっての文句から、匿名という形で、自分の姿を隠し、互いに見えぬ相手に、どれ程の罵声を、浴びせられるかを、競っている、という絵だろうか。一部には、無駄なこと、取るに足りぬ、塵だらけ、などと揶揄する、声があるが、それにより、心を蝕まれる人が、出てくる事態には、何らかの措置、を望む声がある。だが、こんな連中は、決して居なくならず、却って、逆効果となる、場合も少なくない。はじめに書いた、後者の方も、実は、愉快に思う連中が、次々に、襲いかかってきて、結果として、何時迄も、追い続けるように、見えることが、遥かに多く、それで、悩まされるのは、やめておいた方が、いいのだろう。特に、囀りなどの仕組みでは、嘗ての記事が、どこかに残り、それを掘り出して、何度も晒すことも、愉快の根源となる。匿名なら、自分に戻ることは、決してない、とする人々は、都合が悪くなれば、そんな姿を消し去り、別の存在に、すりかわる。何とも、無駄な仕組みだが、それに頼る人も居て、何かの役に、立つのかも、とさえ思える。暫くは、相手をしてみよう、と思う。

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12月27日(土)

 案の定、と思う。ある国の王が、国民に向けて送る、恒例の発言で、「多様性の中の結束」を、訴えたとある。それに対して、無関係な国の、下々の者が、この発言が、国を滅ぼす、とまで書き連ねる。自由な発言の場、であることは、保証されるが、といって、これはと思う。
 この国も、前回の選挙から、外国人排斥や、異端の人々の排除、などが、声高に、主張され始めた。今の歪みを、眺めれば、当然の意見、とも言える。だが、その論旨は、脆弱な根拠と、捻じ曲がった論理に、満ち溢れており、多くは、自分に戻り、自滅への道を、驀地、となりそうに見える。排他主義、という言葉が、何を意味するのかは、定かではないが、それこそが、愛国主義の典型、と信じ込む人々には、何の違和感も無く、妥当な意見、と見えるようだ。上に立つ人間が、どんな意図で、発言したかについて、思いを巡らす気配は、全く無く、ただ、自分の考えと、違うものへの、反射反応として、書き殴るに過ぎない。取るに足りない、と捨て置けばいい、と言われてきたが、現状は、その方が、多数派を占め、発言権も、絶大となる。社会媒体では、そんな極端な意見に、賛同する者が、多数を占める、とさえ思える現状だが、無言の多数派は、表に現れることが、決してない。この勢いは、戦争へと突入した、あの時代の風潮を、思い起こさせるが、当時、権力に与することを、選んだ報道は、今では、権力の犬だったり、陰謀の主だったりして、社会媒体に、巣食う人々からは、唾棄すべき存在や、無視すべき者、として扱われ、本来、あるべき筈の、制動力は、微塵も感じられない。そこに至る道筋を、思い起こせば、自業自得でしかなく、更に、状況を、悪くするのは、どちらの媒体も、自浄作用が、働くように、見えないことだ。多勢に無勢だったり、付ける薬がなかったりと、救いようの無さを、見る材料には、困らぬが、反対のものは、見えてこない。こんな独り言に、その力は無いだけに。

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12月26日(金)

 社会媒体が、存在感を強める中、多様性という言葉は、難しい立場に、追い込まれている、ようにも見える。確かに、社会には、多様な意見が、あるべきだろうし、弱者は、保護されるべきだろう。だが、それによって、何かしらの害を被ると、手にした端末から、過激な意見を送る。
 それが、すぐに、大きな影響を及ぼす、とは言えないだろう。だが、海の向こうの暴君が、盛んに、偏った意見を、送るようになってから、そんな勢いが、急速に増している。他人の為に、という社会活動は、自分を殺してでも、行うべきなどと、言う人は居ないが、でも、何となく、我慢しながら、同調してきた、という人は、確かに居るだろう。そんな不平不満が、心の何処かにある中、国の頂点に立った人間が、そんな気遣いを、見せることなく、平気で、極端な意見を、掲げていく。偉い人でも、という思いや、彼こそが、国の救世主だ、と信じることが、そういった動きを、強めてきたように思う。そこで、勢いを増すのは、所謂、同調圧力であり、同じ考えへの、賛同こそが、力という考えだろう。自分達は、恵まれぬ環境に、追い込まれており、その不平不満を、吐き出したいという、思いに駆られる中、言いたいことを、言えばいいという、そんな考えが、何の問題も、生じないばかりか、大きな賛同を得て、頂点に立つことさえ、可能となる、となれば、誰もが、自分中心の考えで、反対者を罵倒し、同意を得れば、尚一層、勢いを増す、との連鎖が起きる。普段の生活では、大人しく、余計なことも、言わない人間が、端末からは、過激な意見を並べ、同意を得て、満足する。こんなことの為に、媒体が作られた訳では、決してないが、今の状況は、そんな印象にある。様々な意見は、無駄なもので、自分の意見こそが、重要との考えは、多様性には、結び付きそうにない。でも、今の、幼い心の参加者達は、そんな考えを、無駄と断じて、自己満足に走る。言い過ぎを、承知で書くが、そうでないと、言い切れるだろうか。

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12月25日(木)

 慰め合い、と言ったら、過ぎるだろうか。囀りをはじめとした、社会媒体の有用性で、確かに、情報収集は、最大の要因に、違いないが、実は、多くが、全く別の目的で、書き込んでいるらしい。実生活で、辛い経験をした、とか、厳しい叱責を受けた、とか、そんな時に。
 その状況を、書き綴ることで、誰かから、慰めて貰うのを、待つのだ。そんなことを、書いた途端に、弱り目に祟り目、泣き面に蜂、の如くに、罵声を浴びせる書き込みが、急増するに違いない、という反論が来そうだ。ただ、この仕組みの便利な所は、と言っても、こういう使い方にとっての、便利さにすぎないが、登録した者同士の、秘密会を、設けることができることだ。これにより、味方以外には、読みもできず、書きもできず、何の心配も要らず、となる。でも、と思う人が多いだろう。それは、情報交換であれば、門戸を広げ、不特定多数からの、情報を、待つ方がいいからだ。でも、傷付きたくない、とか、突き落とされたくない、とか、そんなことを、考える人の方が、遥かに多いのだろう。先日も、少し意見を書いたら、途端に、戸を閉じてしまった。居心地のいい所に、留まりたい、という気持ちが、優先され、その上、耐えたり、堪えたり、といった苦行は、真っ平御免となる。まあ、勝手にしたら、と思うのだが、そうでないと、壊れてしまう、脆い心の、持ち主が増え、そんな人々が、自分は当然だが、相手も傷付けぬよう、慎重な書き込みを、心掛けている。それが、自分の心を、蝕むことへと、繋がりかねない、などとは、考えもしないのだろう。強さは、手に入らぬもので、弱さこそが、武器となる、と信じているのか、理解不能に陥る。社会全体に、そんな風潮が、高まるばかりで、正しい意見は、相手を傷付けるもの、と断じられるし、その発言者は、犯罪者の如く、扱われることさえある。このままでは、自己崩壊へと、向かうのではないか、と思うこと頻りだが、当事者達は、何処吹く風とばかり、自分だけは、となるようだ。触らぬ神に、とすべきだろうか。

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12月24日(水)

 でも、やはり、と思う人が、多いのではないか。確かに、情報を手に入れる為に、不特定多数の人に、問い掛ける機会として、社会媒体は、大変有用なものだろう。だが、だからといって、罵詈雑言を、浴びてもいい、と思う人は居ない。誰もが、気持ちよく生きられる、と願うものだ。
 さて、その中で、日々、幾つかの反応を、書いているが、反応は様々だ。「いいね」を、期待する訳ではないが、だからと言って、何の反応も無しで、構わないという訳でも無い。何らかの反応が、出てくるのであれば、嬉しいものだし、それによって、囀りという場が、賑やかになれば、有り難いと思う。情報交換が、相互理解に繋がり、それに付随して、多くの人が、何らかの利益を、得られるのであれば、存在価値も、高まるというものだ。だが、現状は、程遠いものであり、劣悪、という一言で、片付けてしまう人も、多いのだろう。今、これを書いている時に、ある囀りに対して、少しの反応を示したら、早速、回答が、寄せられていた。こちらが、疑問に思うことに、答えてくれるのは、有り難いことだし、それを、他の人が読み、何かを得てくれれば、と思う。その一方で、先日、実名の方で、書き込んだものには、興味を示した、人が多かったのだが、その中に、「言わずもがな」、と表現した部分に、拘りを見せる、一部の人が居た。尋ねられたので、考えてみたら、と返した所、別の人が、罵声を浴びせてきた。これで、すぐに反応したら、また、馬鹿げた遣り取り、となっていただろう。ぐっと堪えて、そのまま放置する選択をした。その後、音沙汰は無い。人それぞれであり、知りたいと思った人が、教えろと迫るのも、こういう場の、特徴の一つかもだが、無知は、恥じる必要がなくとも、考えもせずに、答えだけ寄越せ、と迫るのは、脅迫行為に近い。誰もが、参加できる、情報交換の場に、相応しいとは、とても思えず、こんな反応しか、返しようが無い。ただ、こういう形で、返答しないことも、意思表明の一つ、と思うのだが、どうだろうか。さて、囀りの次の話題は、何だろうか。

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12月23日(火)

 劣悪だと、考えつつも、何か教えて欲しい、と思ったら、頼りたくなるもの、なのかも知れぬ。先日も、ある大学関係者が、情報が見つからぬ、ということで、【急募】と付記して、誰でもいいから、教えてくれ、と叫んでいた。何がどう困っているかは、判らぬものの。
 余計なこと、と思いつつも、何かできれば、とばかりに、鍵単語を頼りに、検索してみた。すると、それに当てはまる情報が、すぐに見つかった。そこで、親切にも、返信してみたが、その後一日以上経過しても、何の音沙汰もない。困ったものだと思いつつ、こういう場での、礼儀として、如何なものか、と思う所を、書き記しておいた。依然として、放置されたままだ。こういう場は、ある意味の仲間意識で、関係が成立する、と思っているが、一部の不埒な輩は、馬鹿にしたり、批判する為だけに、罵倒したり、罵詈雑言を繰り返す。そんなことでは、より良い場が、築ける筈がない、と思うからこそ、こんな瑣末なことにも、対応してみるのだが、徒労に終わっては、何ともはやである。まあ、元々、求めた情報が、自分が示した所の、下に存在していたので、当人にとっては、単なる恥晒し、でしかなかった。だとしても、その不注意を恥じ、皆に、表明してこそ、人の上に立つ人間としての、矜持を示せるのでは、と思う。それも含め、良識や良心に、依存する世界を、このまま、便利な場として、維持しようとするなら、参加者全員が、その心掛けを、示す必要があると思う。それをせずに、ただ、自らの利益のみを、追求したとしたら、荒廃するのは、当然の帰結であり、その片棒を担いだことも、恥じるべきだろう。何故、こんな風に、私利私欲に走る人間が、巷に溢れる結果となったのか、理由や原因は、さっぱり思い当たらぬが、本人達は、何かしらを気付いている、のかも知れぬ。さて、どうなるものか。暫くは、あの書き込みを、見守っていきたい。何の期待も抱かず、遠くから。

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12月22日(月)

 皆が、引き寄せられた、理由は定かでない。だが、現実に、多くの人々が、日々、手にした端末に、目を奪われ、気付いたことを、盛んに発信する。その意味では、情報交換が、主たる目的であり、その役目は、ある程度、果たされている、と見るべきか。だが、その他大勢は。
 こちらも、時に、思いついたことを、発信しており、それに対して、寄せられる反応に、目を通している。人によっては、書きっぱなし、送りっぱなしで、見返すことも無く、単純に、発信のみ、となるのだろうが、多くは、目を通し、時に、反応している。と言っても、相手によっては、非論理的な書き込みを、繰り返すばかりで、無駄玉、という印象が拭えない。そう考えると、この情報交換の仕組みも、大多数は、塵同然であり、取るに足りぬばかりか、目を向ける必要さえ、感じられない。情報の流通を、円滑にし、万人に役立つものを、との狙いは、ほんの欠片しか、達成されず、これ自体を、無駄なもの、迷惑なもの、と見る向きもあるが、そうとは言い切れまい。これは、電子メールも、同様の状態であり、以前書いたが、職場のメールも、今では、肝心な通信に比べ、詐欺紛いが、一桁多いように、毎日感じている。では、この仕組みも、無駄かと問えば、誰もが、必要不可欠であり、使い方次第で、有用である、と答えるだろう。この状況は、もっと古い媒体でも、同じことだ。電話も、唯一の連絡手段として、その地位を築いてきたが、今では、最初に書いた端末と、同じもので、連絡する場合が多く、その意味では、音声よりも、文字で伝えよう、とする仕組みの方が、便利に映る。とは言え、依然として、多くが、電話として利用し、所謂、固定電話も、減少の一途とは言え、まだまだ、多くが設置されている。そんなことを、書いてくると、いや、別の媒体で、今問題視されるものが、あるのではないか、との声が聞こえてくる。それは、所謂、大衆媒体であり、認可を受けた上で、運用しているから、信用度は高い、と思う人も居るが、最近は、嘘しか発信せず、国民を操縦しよう、との意図が、丸出しとの声も、聞こえてくる。真偽の程は、場合によるが、それにしても、ここまで来ると、情報そのものに、そんな性質あり、と思うべきかもとなる。

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12月21日(日)

 もう一つ、この界隈で、聞こえてくるのは、労働環境の劣悪さ、ではないだろうか。任期制が、多くの大学で導入され、心理的な不安定が、増したと言われる。だから、まともな研究も、教育さえも、できないのだ、と断定する声が、届いてくる。だが、本当だろうか。
 確かに、研究の場として、大学を眺めると、そこに集まったのは、同好の士であり、好きなんだから、少し位の辛さは、克服できる筈、と言われてきた。そこに、職業としての、研究や教育が、認識されるにつれ、辛さは、邪魔なものと見做され、取り除くべき、との意見が増えてきた。でも、研究や教育の質を、優先して考えると、必ずしも、労働環境の改善が、その結果へと繋がらず、改善の努力が、実を結ばぬ事態に、批判が出ている。昨日書いたように、報酬や支援が、決定的要素ではなく、各人の心持ちや意欲が、より大きな影響を、及ぼすのでは、と考えたくなる。これは、初等中等教育でも、同じことであり、劣悪な労働環境が、成り手の減少と、現役の疲弊に、繋がっている、との意見が、強くなっているが、その多くは、文句を並べ、改善を迫るものの、具体的な対策は、一切論じることなく、ただの野次にしか、なっていない。最大の障壁は、親の介入と言われるが、それへの対策が、講じられぬまま、現場への圧力が、増すだけなのだ。対策として、組織が、連携を組むことで、一部への重圧を、取り除く手立てが、講じられるべきだろうし、一方で、過剰労働の原因として、教育そのものより、辺縁要素の問題が、増え続けるが、それとて、書類作成の効率化や、辺縁業務の効率化を、図る必要がある。本当に、これらが、障壁となるのなら、打開策は、十分に有り得ると思う。一方、不祥事の問題を、これらと結び付けるのは、浅慮と思う。まずは、人材獲得の策と共に、その後の育成をも視野に入れた、仕組みの構築から、始めるのが、一つだろう。悪貨が良貨を、と言われるものの、組織全体の整備が、それをも上回る勢いで、改善に向く可能性は、十分にあると思う。その上で、どの教育現場からも、現役の明るい声が、届くことを、期待する。

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12月20日(土)

 大学には、基盤整備が、肝要だと書いてきた。が、世の流れは、依然として、選択と集中のようで、紹介するまでもなく、ここ数日、多額の予算を、注ぎ込むべき大学が、指定された、と報じられている。これ程、明白なことに、まだ、溝に捨てよう、とは如何なものか、と思う。
 少なくとも、最高学府の頂点に立つ、あの大学は、これまで、他と比べたら、遥かに多くの予算が、注ぎ込まれてきた。最優秀な学生を、最優秀な人材に、育て上げる、との目論見は、一部では、達成できたと見えても、注ぎ込んだ額に、見合う程かと問われれば、否との答えしか、出しようが無い。にも拘らず、懲りもせずに、同じことを繰り返す。流石に、頂点については、これまでのことが、あるからか、今回は見送り、となったが、それとて、一時の誤魔化し、に過ぎないだろう。一方で、高額予算を使い、人材獲得に力を入れる、との方針が出されると、途端に、群がる輩が出てくる。彼らの多くは、研究が進まないのは、人件費や研究費が、不十分だから、との論を張っており、書き連ねるのに対し、同類の無能な人々が、盛んに、同意を示す。この図式は、社会媒体の最大欠陥であり、排除の必要さえ、論じられる。画期的な発明や研究成果は、優秀な人間により、産み出される、と信じる人が多いが、所詮、結果論に過ぎず、それらの成果を眺めたら、その生みの親は、優秀だったというに過ぎない。どんなに、金を積んで、成果を上げた人を、招いたとしても、二匹目の泥鰌が、捕まるとは限らず、何度も、空振りをする覚悟が、必要となる。例えば、外資系企業が、盛んに、優秀な人材を、高額の報酬で、招く話が紹介されるが、その多くは、顧客獲得の手法が、手に入った途端に、お払い箱にする訳で、全体として、それによる儲けの方が、一時的な支出より、遥かに大きくなるから、いつまでも、同じことが行われる。一方、転職した人間には、一時的な収入増に、目が眩んだ結果、その後の安定した収入を、投げ出すことになり、憂き目を見るだけだ。本当に、優秀な人材は、報酬の多寡に関わらず、自分なりの努力を重ね、成果を上げる。彼らに報いるのは、成果報酬でしかなく、餌のばら撒きは、無駄となる場合が、殆どなのだ。そう考えると、今回の措置は、明らかな過ちで、それより、幅広く支援し続けることこそが、全体の力を向上させると思う。

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12月19日(金)

 絵に描いた餅、ではない。確かに、予算額が、各大学に配分され、それらは、法人毎に決めた、使途へと流れる。要求したものでもなく、また、提案に沿ったものでもないから、当然、何に使うべきかの、指定がある訳ではない。にも拘らず、自分達の給与を、と書く人々は、何を思うのか。
 そこから既に、末期状況にある、と見る向きもある。確かな教育や、最先端の研究を、行えないのは、安月給で、働かされているから、などと、惚けた書き込みを、盛んに繰り返す。自己中心的で、あるだけでなく、そこには、見識も論理性も、微塵も感じられず、同情の価値無し、としか思えない。要するに、そういう劣悪な人材が、大学内に居座っている、と見るべきかも、とさえ思いたくなる。だが、そうは言っても、教育は、国が掲げる、大事業の一つである。その為に、必要となる予算を、確保した上で、実践を図ることを、期待している。長らく、馬鹿げた考えに、取り憑かれた財政当局が、後先考えぬ、愚かな政策を、強行してきた。その結果、教育の基盤が、荒廃するに至り、漸く、是正が図られた、というのが、現状の姿だろう。ただ、これも、長続きせねば、単に、焼け石に水、としかならず、無駄だった、などと揶揄されるだけだ。ただ、その一方で、腐り切った人々が、身勝手な考えで、本務を果たさず、責任転嫁を繰り返すのは、排除の対象、とせねばならない。強行策は、こういう状況では、適さないだけに、外圧に頼る前に、内部改革を、自ら進める必要が、出てくるだろう。既に手遅れ、という話は、良く出てくるが、その発言を繰り返す、人の多くは、自ら動こうとせず、単に、責任転嫁を、行うのみなのだ。だとしたら、雑音には、耳を貸さず、本来あるべき姿に、戻す必要がある。その為に、誰がどのように動くか、今後、徐々にでも、見えてくることを、期待したい。

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12月18日(木)

 昨日書いたことを、念の為に調べてみた。大学の監督官庁から、夏の概算要求で、提出された運営費交付金は、確かに、増額を示している。これは、つまりは、新宰相が、就任する前から、ある程度の方向性が、決められており、今回の補正も、その延長線上に、あると見える。
 だからと言って、何の影響も無い、とは言い切れぬだろう。概算要求では、掲げていたものの、それでは、まだ足りないとの判断が、新しい政府で、検討されたと考えることも、可能だからだ。ここまでの数値は、監督官庁が、示しているので、確認して欲しい。提示書類の29ページには、確かに、今年度予算では、1兆784億円だったのを、来年度は、1兆1416億円とする、と謳っている。先頃の補正予算では、421億円が、認められたから、今年度の支出は、合計1兆1205億円となった。そこからの、今年度との比較では、200億円強の増額、となっており、2%弱の増加率となる。これまで、法人化後は、毎年度1%の減額が、強いられてきたから、それに比べれば、多いと見えるかもだが、現実には、これまで、20%近くの減額だったのだから、まだまだと見るべきだろう。となれば、来年度予算編成で、更なる増額を、望む声が、聞こえてきても、不思議はない。とは言え、内容として、人件費を中心とした増額、となっているから、これにより、何がどう変化するか、楽観はできない。一方で、困窮の極みで、動きが取れない、という悲鳴が、静まったとしても、それが、高等教育の強化、に繋がるとは言えず、ある程度の額を、増やしたことが、どんな改革に、結び付くのか、また、何年にも渡り、指摘され続けた、学生気質の低下に、どれ程の影響を、及ぼせるかには、何の保証も無いのだ。現場の人々を含め、何をどう変えるべきか、考える時が来たのではないか。無い袖が、との言い訳が、徐々に通じなくなるとしたら、まさに、真剣に、取り組まねばならないだろう。

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12月17日(水)

 色眼鏡、と書くこと自体が、既に、色眼鏡なのだが、それはそれとして、読んで欲しい。新たな政権が、始まった時、最大の関心事は、女性ということだった。女性解放運動を始めた、海の向こうでは、何時迄も、硝子の天井が、破れぬままに、今回も、暴君の再来を、招いたのに。
 様々な批判が飛び交い、一挙手一投足に、揶揄の声が、絶えなかったが、徐々に、存在感を、強めているようだ。外交において、一つの発言に、誰もが群がり、あれこれ文句を並べるのは、マスゴミと揶揄される、大衆媒体の常だが、一方で、社会媒体も、見識を疑う発言が、並んでいる。その中で、大義名分としては、国民の生活の為、と言われた、補正予算案が、成立したと報道された。この中で、ある特定の人々にしか、響かなかった、ある予算について、注目する人が居る。大学、それも国立大学への、新たな運営費交付金が、注ぎ込まれたのだ。使途について、馬鹿げた論を、並べる輩は、ある意味、無視すればいい、と思うが、毎年1%ずつ、予算を減らし続け、20年程で、以前の8割近くに、削減されたものが、物価高騰の中、流石に、足らないと判断されたのか。財務当局は、馬鹿の一つ覚えで、一度決めた方針を、後生大事に続けたが、ここに来て、実態把握も無く、継続することに、反対の声が上がった。これも、新政権の手柄の一つ、とする向きもあるが、肝心なのは、一時金の支給では無く、運営に必要な額を、如何に確保するか、という点にある。その意味で、就任前に、決まっていた、来年度の概算要求で、一旦は、概ね決まっていた額を、年末の最終調整で、どう修正するかが、肝心となるだろう。果たして、そこまで、目を配るかは、何の保証も無い。だが、就任後の発言から、その期待をするのも、当然と言えよう。とは言え、担当官庁と財務当局の、鬩ぎ合いは、これからなのだろう。

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12月16日(火)

 苛め、という言葉が、盛んに聞かれ始めたのは、何時頃だろうか。行為自体は、遥か昔、古今東西に、あっただろうから、不思議なものではなく、特に、陰湿なものとして、語り継がれるのは、侍の時代の、松の廊下なる場所で、始まったものだろう。数々の物語が、作られた。
 力の強弱で、立場が異なれば、それを利用して、自分に有利に、物事を運んだり、時に、単に愉快だから、という、取るに足りぬ理由で、事に及ぶ人も居る。真相は、それぞれであり、総じて論じるのは、難しいとされる。力関係も、職場のものが、一般的とされるが、話が大きくなったのは、この国では、教育現場での事件が、大事となったからだろう。そこでの力関係は、教室外の人々には、すぐに理解できず、事が、大きくなって初めて、取り上げられた。時に、それは、悲劇へと繋がり、人の命が、失われるまで、となると、関係者の数が、多くなるだけでなく、状況の深刻さも、大きなものとなった。その後、この手の話の取り扱いが、大きくなった要因には、海の向こうから、持ち込まれた考え方で、苛めの定義が、ある意味、大きく変わったことがある。それまでは、加害者の意識が、重要なものとして、取り扱われたが、そこからは、被害者の意識の方が、遥かに重要であり、それを、判断基準とせよ、となったのだ。現状は、そのままであり、多くの現場で、混乱が続いている。確かに、防ぐ為の仕組みが、導入されたのだが、それにより、被害者は、減るどころか増えており、被害の大きさも、増しているようだ。確かに、被害者の心情が、重要なのだろうが、それにしても、この歪みの大きさは、どうなっているのか。理解に苦しむ人が、多いのではないか。ただ、第三者から見ても、如何なものか、と思える事象は、確実に増えている。その理由は、仕組みの整備で、相互観察の、機会が増えたからだろう。加害者に、共通する点として、挙げられるのは、思い込みと、制動が効かない言動、にあるようだ。冷静さを失い、暴走する人間には、暴力に似た、言動が目立つが、それも一つだろう。こういったものだけは、周囲からの働き掛けで、防ぐべきかと思う。

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12月15日(月)

 世の中、理解不能なことばかりで、そんな瑣末なことに、取り合っていては、何もできなくなる。でも、気になるのは、事実であり、それも、自分の考えが、及ばない範囲となれば、何事か、と思うことも、屡々なのだ。例えば、この所話題の、隣国の話など、その典型と思う。
 戦争が終わり、敗戦処理が続く中、占領した地帯の、国々に対して、補償をどうするか、責めを負うべきか、などの問題が、山積していた。その中、今は違う名となった、あの国の総統が、賠償放棄を決めた、とされており、今回の揉め事でも、その点を含め、様々に論評された、と言われる。まあ、その点について、こんな場所で、書いても意味が無い。だが、一方で、国としての地位については、理解不能なのだ。戦争終了時、国を代表する政府が、名乗っていた国名は、Republic of Chinaであり、今のPRCとされる国は、その後の内戦により、敗れた先の政府が、今の島に、移ったことで、一時的には、二つの国が、一つの国名を名乗る、という状態となった、と言われる。正確には、表記が違うから、同じではないが、複雑な状態だったことは、見てとれる。で、その後、何方が、地域を代表する国か、という話が、擦った揉んだされ、徐々に、情勢が一方に傾き、ある年、国際機関に加盟する国々の、決定として、今の状態に落ち着いた。その事実は、曲げようのないものだが、その後も、島国の方は、主権を維持する形で、残り続け、一部の国は、それを認め、国交を続けてきた。だが、公的には、と言っても、これは国際機関の会議による決定だが、それを理由として、様々な所で、国とは認められず、地域という、不思議な表現が、付け加えられ、一時的な問題解決が、図られ続けている。で、今回の話題は、その地域を、国の一部として、吸収するという、試みについて、平和的ではなく、占領してでも、と言い出したことが、発端となる。今、問題となる、軍事侵攻は、他国へのものであり、この例とは、明らかに異なるが、そう言い切れるものか、理解不能なのである。どうしたものか、どうなるべきか、はてさて。

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12月14日(日)

 何度も書いたのに、何故、と思われるかもだが、昨日の話に関して、大学関係者からは、懐疑的な書き込みが、囀りの中に、多く寄せられる。だから、どう、という訳でもないが、結局、あんな所に書く輩に、まともな意見など、出す気概は無く、世の中同然、被害者然とすれば、良しなのだろう。
 特に、恵まれぬ環境、と書き連ねる連中は、もし、好転したとして、何かしらの利益を得ても、次は、との弁を続け、もっととばかり、叫び続ける。社会全体に、もしかしたら、世界中が、そんな状況に、あるのかもだが、立場の違いを、考えるべきでは、と思えてしまう。仮令、高等教育機関と雖も、誰かを、教育する為の組織で、その役割を、果たすことが、その中に居る人間には、課せられている。の筈が、その他大勢、時に学生に混じって、同じ調子で、不平不満を並べ、被害ばかりを、口にし続ける。だが、それで、何が起きるのか、また、何が教えられるのか、あの連中は、考えたことが無い、のではないか。一方で、囀りの場で、盛んに批判される、元大学教員が、居ることも、知られているが、この人物は、今回の補正に関して、どちらかと言えば、正当な評価を、下しており、その上で、今、現場に立つ人々が、気付かぬふりを続け、論点をずらそう、とするばかりの態度を、厳しく批判する。でも、これまでの行状からか、同じ論調で、批判を繰り返し、本質を、見ようともしない、人間が巣食うのが、囀りの世界の、特徴であり、最大の問題となる。どうすれば、いいのかについて、誰も、答えを導けず、多くの常識的で、見識のある人々は、それらの、不埒な書き込みに対し、一時は、問題を指摘し、反論を出すが、悪意に満ちた、人間に対して、殆ど効果を示せず、そのうち、相手にしなくなる。その時、凱歌を上げるのは、悪意の塊であり、それを、正当と見誤るのが、その他大勢なのだろう。徐々に、制限が厳しくなり、その内、一部の独裁国のように、彼らが、社会から排除されるかもだが、どうだろうか。こんな場の活かし方について、改めて、論じてはどうか、と思ったりもするが、無駄なのだろう。

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12月13日(土)

 以前の政府なら、基礎研究が大事、と叫んだとしても、それは、選択と集中が肝心で、その線に沿った支援で、十分というやり方だった。これは、財布の紐を握る、ある官庁の方針を、そのまま鵜呑みにしたもので、今や、大失着の一つ、と揶揄されるものだ。気づく気配も無く。
 それに比べ、今回の補正は、全く違うもの、と受け取る向きがある。運営費として、各国立大学に、配られるもので、そこには、選択も集中も無く、満遍なくと謳われる。ただ、それでも、上の方に位置付けられる、大学に対して、地方の弱小には、大した額が、行き渡らないのでは、との懸念もある。それはそれ、いつものこと、と見るべきだろうし、これまで、毎年1%ずつ減額してきたことと、比べれば、その一部に過ぎないと雖も、ここが始まり、と見たくもなる。ただ、補正は、所詮、一時凌ぎに過ぎず、これまでの減額分は、年度予算であり、そこに方針変更が、採り入れられなければ、所詮、焼け石に水、と終わってしまう。その意味では、補正額は、末端でどう使われるのか、通常の予算のように、各組織から、計上されたものと違い、何かしらを補正する、との目的だけに、どこにどう配られるか、気になる所ではある。大学の本務は、教育であり、その辺りが、危機的状況に、陥ったことが、今回の措置に、繋がったとしても、不思議は無い。その上で、教育の何に、向けられるべきものか、見守るべきだろうか。とは言え、物価高騰が続く中、光熱水料だけでも、かなりの額に、及ぶと言われる。そこへの支払いに、向けられた額が、本来の業務へと、向かうとしても、一体全体、何のことだろうか。例えば、人件費は、恒常的に必要となり、補正には、馴染まぬものだ。人手不足が、こんな組織でさえ、取り沙汰される中、それではなく、どこに必要なのか、思い当たるだろうか。いずれにしても、これをきっかけに、大学の任務を、本気で考え、予算編成に、採り入れたら、何かが変わるかも、との期待は、本当に膨らむか。次年度の予算編成は、もうそこまで来ているのだ。