パンチの独り言
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3月15日(日)

 ある頃から、画面に映る、背広の人の胸に、丸いものが、よく見られるようになった。中が抜けた、円形のものは、17色に彩られ、それが、持続可能という、掛け声を、表している、と聞く。言い出したのは、国際的な組織だが、これだけの人が、賛同を表すのには、首を傾げてしまう。
 画面に映るのは、ある意味、地位の高さや、尊敬の対象を、表している、と思えるだけに、そんな人々が、身に付ける程に、重要な課題なのか、と思う人が、多いのだろう。だが、掲げられた目標を、読んでみると、やはり、何故とか、どうしてとか、口を出したくなる、そんな程度の話かと、思えてくるのだ。まず、第一に、誰が対象なのか、という疑問が浮かぶ。何故なら、自分達の周りで、今更掲げずとも、達成できている、と思えるものが多く、それに賛同することへの、意味が見えなくなるからだ。一方で、確かに、昔は、達成できていたが、最近は、怪しいなと思えるものも、多くあるように感じる。具体的に、示すことはしないが、思い当たる節が、誰にでもありそうだ。ただ、それが、失われつつある、あるいは、既に、失われてしまった、と感じるのは、何かと引き換えに、投げ出したのかも、と思えるからだ。上の世代から、引き継いできたのに、自分の世代で、諦めて、捨ててしまったことや、自身は、何とか関わり続けているが、社会全体としては、かなり厳しい状況に、あると実感することも、数多くある。だからこそ、ここで、目標として掲げることが、重要だとの意見も、分からなくもないが、国際機関が、主張していることは、それとは、少し違うように、感じられる。何も無い所に、その目標を、設定することで、意識を高めて、進むことができる、といった感があるが、嘗て、やってきたことを、何らかの事情で、捨ててしまった国には、そういった意識の、持ちようには、違和感が付きまとう。あれやこれや、文句をつければ、きりがないのだが、さて、どう対処すべきか。17個の目標について、それぞれ、違った取り組み方が、必要と思える。その意味で、外から押し付けられたものに、そのまま従うのは、少し違うように感じる。昔の生活に、戻るべきとは、一概には言えぬが、そういうものとの、付き合い方を、今一度、考えてみるべきでは、と思うのだ。として、何から始めるべきか、何をすべきかについては、別の見方から、考えるべきでは、と。

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3月14日(土)

 無知はいけない、と言うけれど、自分の考えを、否定された時の反応は、もっと深刻な問題では、と思う。間違いを、指摘されたり、別の意見を、出されたり、そんなことが、起きた時の反応には、人間の性格というか、人格のようなものが、現れているのではないか。
 だから、という訳でもないが、批判が、強まるにつれ、人格否定に似た、書き込みが、増えてくる。それ自体、許されるものではないが、そこに至る道筋には、そんな背景があるのでは、とも思える。兎に角、反論や異論を、拒絶する姿勢が、露骨に出ている場合も、多く見られ、その一部は、拒絶反応という、排除機能を、発動させる。様々な事情から、組み込まれた仕組みだが、参加者の人権を護り、精神を、正常に保つ為に、働くのではなく、ただ単に、気に入らぬ人間や意見を、排除する為だけに、働いている、ようにさえ見える。気に入らぬ意見に、反論する手立てが無く、沈黙という、敗退が確定すると、勝ち負けに、拘る人々には、平静を保つことが、難しくなる。そこで、一つの釦を、押すだけで、排除できるとなれば、いとも容易く、手を出すのだ。だが、自分が、提供した情報や、自分の考えが、間違ったものだったり、誤解を招くものだったり、した場合には、修正を施すのが、自分自身を、守る為にも、必要な手立て、ではないか。それは、負けることや、負けを認めること、ではなく、単純に、考えを改め、自らの度量を、高めることへと、結び付く。そんな考えで、居る人の多くは、議論を重ね、そこから、より良い結論を、導くことを、目標に置く。その一方で、勝ち負けにしか、興味のない人は、間違った意見をも、押し通すことで、相手を、言い負かしたと、誇るのみで、傍観者からは、冷たい視線を、受けることに、気付きもしない。情けない心の持ち主、と言って仕舞えば、それまでだが、こんな人に、つける薬はない。社会媒体の、大きな問題は、ここにあり、自分だけの、あるいは、仲間内だけの、社会を築くことで、満足するだけで、実は、もっと大きな社会への、寄与は殆ど無く、役立たずとしか、言えないものだ。

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3月13日(金)

「無知は駄目!」、と卒業式で、校長が挨拶した、と囀りに書かれていた。その通りなのだが、書いた人も含め、「無知」とは、どんなものか、分かっていない人が、多いように思う。知らないことを、放置するのの、何処が悪いのか、答えられる人は、多くないからだ。
 学びの場で、学ぶことの、大切さを伝える際、騙されぬよう、と話す人が多いと聞く。確かに、詐欺が横行し、それにより、なけなしの金を、失った人が多い、と伝えられる中、それを防ぐ為に、知識を身に付ける、というのは、傾向と対策の、最たるものと思われる。だが、学ぶことの、目的は、決して、犯罪に巻き込まれぬよう、というものではなく、人間としての、知恵を増やすことしか、ないのではないか。一方で、知らぬこと、無知を恥ずべき、と主張する人の多くは、知らない人に対して、優位性を誇示し、見下す態度が、目立つのも、不思議に思う。まずは、全能の神ならぬ、何もかも知る人は、何処にも存在しない。だから、誰もが、知らないことを、恥じるのでなく、知ることの、喜びを感じるべき、と言われる。だが、囀りの中でも、その優位性で、存在意義を、主張するが如くの、情けない人が、なんと目立つことか。一方で、こういう人の多くは、自らの主張の、綻びを指摘されると、途端に、排除に走ったり、罵倒を繰り返す。自らの過失を、認めることなく、優位を保とうとするのは、まさに、恥ずべき行為、と言える。一方で、今は、何かを調べることが、容易くなっており、誰もが、一時の恥の為に、他人に尋ねるより、検索で調べたり、果ては、人工知能に尋ねるだけで、ものを知ることが、できる。なのに、囀りでは、調べもせずに、恥晒しの主張を、掲げてみたり、こちらから、そういう情報を、流したとしても、無視するだけだ。それも、本人だけでなく、その意見に、賛同する人間まで、同じ態度をとる。これでは、無知は、無くならない。はじめに書いた話でも、それを解く為に必要なのは、きちんと教えること、とはいうものの、自身の不明に、気付くことがないのでは、困ってしまう。昨日、取り上げた随筆も、その話とも言える。

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3月12日(木)

 読んだ本で、月末には、報告するのだが、興味深いものに、当たった。と言っても、古いものを、集めただけのことで、そこに、目新しさは無い。だが、扱った内容だけでなく、それが、社会一般の、目に触れた、きっかけが、非常に重要、と思えたのだ。昔は、そうだったのか、と。
 今、囀りの中で、様々に、議論が交わされているが、その内容が、余りに悪質で、論理性の欠片も、見えないことに、呆れた話を、何度も書いてきた。初等中等教育で、論理性の重要性に、触れてこなかった、つけが回った、とも言えるのだが、実際には、そういうことを、生業にする人間さえ、感情論に流れ、冷静に、物事を、考えない、という事態こそが、ずっと深刻なものに映る。何故、こんなことが、起きるのか、を考えるにつけ、嘗ての、学者と呼ばれた人々が、一般向けに著した、科学随筆と呼ばれるものの、質の高さと、その平易さに、驚いたのだ。それも、この短篇集で、取り上げられたのは、教科書、それも中学生向けのもの、というから、驚きなのだ。確かに、分かり易く、平易な言葉を、用いて説明してあるが、それに加えて、中で論じた内容が、子供だけでなく、大人さえも含む、全員が、理解すべきこと、と思えた。著作権の問題で、一部の学者のものは、本で読むしか方法がないが、その他の人の随筆は、青空文庫という、誰でも読むことが、できる場所で、提供されている。偶々だが、近年改正された法律では、死後70年は、著作権が、保護されるが、それ以前の法律で、50年とあったことから、公開可能となったものもある。その一人が、雪の研究で有名な、中谷宇吉郎で、彼の文章も、青空文庫に収蔵されている。本にあった随筆を、二つ紹介するが、是非、読んで欲しい。一つは、「地球の円い話」であり、もう一つは、「科学の限界」である。何方も、じっくり読むと、その内容の豊かさを、理解できる。流石、師匠の寺田寅彦を、越えたと言われる、中谷の科学随筆なのだ。もっと驚いたのは、これらが、中学の教科書、当然ながら、国語の教科書に、掲載された時代が、あったということだ。今なら、どう見るか。難しい話は、子供向けでなく、簡単で、興味を惹く話を、と言い出すのでは。この頃、読んでおけば、もっと論理的な思考が、身に付いたのに、とは言わぬが、それにしても、失ったものが、大きかったのでは、と思う。

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3月11日(水)

 前にも、取り上げたかも、だが、違うことを、書くかも知れぬ。意思の疎通には、何が大切か、どう答えるだろう。自分としては、相互理解、と思う。これについて、不思議と思う人が、居るかも知れぬ。何故なら、自分の言いたいことを、相手に伝えるのが、疎通の筈と。
 それなのに、何故、相手のことを、理解せねばならぬのか。確かに、言いたいことを、伝えるだけなら、それで、十分かも知れぬ。だが、相手の考えを、理解せずに、一方的に、伝えるだけでは、疎通とは、ならないのでは。今、こんなことを、引き合いに出すのは、あらゆる媒体で、行われている、情報の伝達の多くが、一方的なもので、時に、同じ言葉を、違う解釈で、受け止めることで、論争となるからだ。論争が、何故、何時迄も、平行線を、辿るのかという、疑問について、少し眺めていると、それが原因なのかも、と気付くことがある。つまり、同じ言葉を、使っているのに、互いに、違う意味で、使っている、というのが、論争の訳、なのだと。不思議に、思う人が居るだろうが、実際には、そんなことが、会話の中でも、屡々起きている。お互いに、顔を突き合わせて、話しているのなら、何となく、話がずれてきた、と思うことがあり、確認してみると、互いに、違う意味で、同じ言葉を、使っていた、と気付く。その多くは、何方かが、言葉の使い方を、誤った為であり、日常会話であれば、その誤解さえ解けば、擦れ違いを、除くことができる。だが、二人の間、あるいは、一人と多人数の間に、何らかの媒体が、存在する場合には、気付くことも、取り除くことも、難しくなる。一方が、指摘しても、片方が、頑なになれば、取り除けず、そのまま平行線を辿る。馬鹿げたこと、と笑う人が多いが、実際に、揉めているのを、傍観すると、殆どが、その状態にある、と判るのだが、当事者達には、何のことか分からず、紛糾するばかりとなる。隔離された状況で、議論を重ねることには、相互に理解することが、不可欠なのだが、今の状況では、そうなることは、難しいようだ。そこから、始めればと思うが、勝ち負けに、拘る人々には、聞こえないらしい。そんな人が、入ってきたら、無視するしかないのは、困った状況と思う。

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3月10日(火)

 迷走ぶりが、甚だしいので、日々、その動向を、伝えることに、意味があるかは、怪しいものだ。ここでも、屡々取り上げるが、事細かに伝えたり、分析したりしたとしても、殆ど意味を成さず、書くのも読むのも、無駄と思えてくる。そんなこんなで、一旦幕を閉じよう。
 猫の目の如く、とはよく言ったもので、周囲の状況の変化に、素早く対応する、猫の黒目を、引き合いに出したものだ。この遣り取りで、思い起こされるのは、例の宗教集団が、大量殺人へと、突っ走り始めた頃に、毎週、画面に登場して、自分達の主張を、押し通していた、あの人物のことだ。事件後、多くの幹部が、教祖と共に、逮捕された時、彼だけは、除外された。何も知らずに、教団の代弁者としての、役割を果たしただけ、との解釈が、成されたようだが、本当の所は、本人以外には、解らないだろう。その点について、ここで、議論したいとは、全く思わない。もう、過去の事柄であり、ああいう狂信者が、再び、出てこないように、社会全体で、考えるべき、とは思うが、過去の団体で、どれ程酷いことを、したとしても、裁かれなかった、となれば、それは、一つの結論であり、済んだこととすべき、と思う。ただ、当時の記憶から、ああ言えば、と揶揄されたように、何か指摘されても、言い逃れる姿勢を、続けていたことは、忘れられない。それも、画面のこちらからは、先週と違うことを、平気で主張し、その場の危機を、掻い潜る態度に、腹を立てていたことや、それに対して、論客と呼ばれた人々が、論破することが、できなかったことに、呆れていたことが、思い出される。今の、海の向こうの暴君は、立場の違いや、権力の違いが、あるのは事実だが、同じ手法を、用いている。ここでの、傍観者は、社会媒体の読者や、報道の読者だが、論客にあたるのは、報道記者達だろう。今や、社会媒体での発言は、確かな記録として、残存しているし、記者会見の記録も、確かなものが、残っているが、それとの比較が、行われないままに、相手の発言に、右往左往するのは、どうしたことか。論理の重要性とは、こういう時に、役立てるものの筈が、そうなっていない。人間の持つ、欠陥なのかもだが、客観性と論理性を、重視することで、対応できると思うのだが。

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3月9日(月)

 誰もが、参加できることは、喜ばしいとは限らない。確かに、細かなものも含め、あらゆる情報が、日の目を見たのは、事実なのだが、そうなれば当然、偽物、嘘、出鱈目、等々、塵も含めて、あらゆるものが、皆の目に触れる。時に、それが、功を奏する場合も、あるのだが。
 一方で、所詮、塵は塵であり、時に、汚染という害悪を、蔓延させることも、起きてくる。特に、近年は、何かと、騒音に惑わされ、ある意味、自分から、心を乱されて、悩みの淵に落ち込み、這い上がれなくなる、という人が、目立つのだ。そんな中で、僅かな効用を、頼みとして、こんなものを、垂れ流し続けることに、意味があるのか、怪しいものだろう。と言っても、こんな時代だからこそ、そんな雑音に、耳を傾けず、自分の思う通りに、進むことこそ、大切との意見も、出ている。ただ、この場合も、気を付けるべきは、そういう連中の、偏った意見が、騒ぎを招くことに、なるという点だ。他人の妄言に、惑わされぬ人々の、特徴の一つに、それを、聞こうともせず、全てを、一様に論破する、そんなことがある。これは、今の時代には、ある意味、重要な、生きる術となるが、その一方で、それが、外に向けて、発信されると、素直な人々には、悪い影響しか、及ぼさないということだ。論理的に、物事を語る場合には、そんなことは、起きる筈もないが、今の、一方的な発言と、その繰り返しでは、論理を、逸脱することこそが、主張を曲げぬ為の、最善の策となる、場合が多い。だからこそ、議論は、平行線を辿り、何の結論も、導き出せぬままに、突然、終了することになる。この遣り取りを、外から眺めるに、読む価値も無く、傾聴にも値しないことが、殆どとなる。だから、論理性を重視する人間には、何も響かないのだが、それを、軽視して、自分の仲間とか、味方とかいう見方しか、できない人々には、恰も、正論のように、見えるらしい。にしても、海の向こうの大統領は、その典型と、目されているが、今の状況は、惨憺たるものだ。ただ、権力者は、破綻しても、居座れる。庶民には、その力は無い。

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3月8日(日)

 すぐに片付く、との触れ込みだったから、暫く様子見した。だが、以前のちょっかい同様に、泥沼化しそうな、気配が漂い始めた。こうなると、暴君ぶりも、ただの老害にしか、見えなくなる。それも、猫の目の如く、日々変わり続ける、見通しに、振り回されつつ。
 これまで同様、信じるに値するものは、一切提示されない。その中、新たな情報が、持ち込まれる度に、方針転換が、さも当然の如く、繰り返され、それさえも、見通していた、と豪語されるに至っては、やはり、老人の害というより、まさに、権力者の害、としか見えぬ。知恵の足りぬ人間に、力を与えると、どんなことが起きるのか、証明して見せている、とさえ思えてくるが、そんなことに、世界が付き合う必要は、全く無いのだ。にも拘らず、あれこれと、対応策を講じさせられ、打開策を模索する。政には、当然のことだが、ある国の新宰相が、繰り返し、言い続けているように、そろそろ、様子を伺うことも、機嫌を探ることも、一切止めた上で、自分達の利益を、最優先に考えるべき、時が来ている、のかも知れぬ。ただ、これまでの慣れから、だとしても、どう動くべきか、改めて考えるには、何か、大きなものが、足りぬように思える。何が、自分達の利益なのか、それが、見えていないのだ。これまで、あの国の暴君の、思い付きに、付き合わされた挙句に、この事態に、見舞われる中、肝心の、自分の利益が、何なのか、見えなくなっている。だったら、他の国でもいいし、世界全体でもいい。何が、より良くするのか、考えてみたら、と思う。平和が、最優先なら、それに向けて、互いに、啀み合う状況を、変える為の手立てを、どう講じるべきか、改めて、考えてみたら、と思うがどうか。そんなことより、今、目の前に、起きかけている、物価高の状況を、変えるべき、と思うのなら、その為に、何をすべきか、考えてみては。兎に角、海の向こうの暴君に、これ以上、付き合うことが、適切かは、もう一度、考えてみなければ、と思うのだがどうか。

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3月7日(土)

 昆虫食についての、囀りでの遣り取りを、全部眺めた訳では無い。でも、大体、想像がつく。互いの主張が、平行線を辿り、結局、何の結論も出ない。と言って、発言者の殆どは、言い負かそう、と思っていたとしても、それ以上の、何らかの結論を、導こうとは思っていない。
 だから、あの手の論争は、無駄でしかない、と思ってしまう。いや、それは、言い過ぎとしても、あの遣り取りでの、論理の有無は、何の意味も成さない、と思う。ただ、そこに至った道筋については、思う所はある。例えば、何故、昆虫食が、不可欠だとの話になったのか、という点には、温暖化と、よく似た論理が、使われていた。人口が、増すばかりとなる中、食糧生産は、限界が見えており、早晩、枯渇となるという話だ。確かに、タンパク源として、近年、摂取されているのは、動物性のものが、主体となっており、それらを手に入れるには、牛豚鶏などを、育てる必要がある。その為には、飼料が必要となり、その大部分は、植物性のもので、結果として、手間の割に、手に入る食肉量は、これ以上には、増やせない、となる。となれば、近年持て囃される、効率化の問題へと、話が向けられ、そこから、昆虫ならば、もっと安価に、もっと大量に、手に入れることが、できるという話、だったと思う。これが、引き合いに出され、盛んに、取り上げられる中、驚きだったのは、高校生達が、自分達の探究活動として、この話題を取り上げ、循環社会の為に、不可欠との幟を立て、昆虫の試食を、始めたという話だ。同級生と共に、試食を繰り返し、どうすれば、食べ易くなるか、などと論じ始める。皆の好みの問題、と思う話を、半強制的に、参加させられる、という光景に、呆れた覚えがある。これが、社会でも、同じような扱いで、一気に、盛り上がっていたが、それが、突如として、反対の狼煙が、上がったようだ。食の好みは、人それぞれで、多様性など、持ち出すまでもなく、尊重すべき、と思うのだが、この話の筋には、それを、無視した考えが、満ち溢れている。肉食を、嫌う運動も、同じことで、個人の自由が、保たれれば、何も問題とならないが、侵害された途端に、大ごとになる。食糧不足を、引き合いに出す時点で、強制力が、行使される訳で、その論理には、危うさしか感じない。だとしても、反対派が、昆虫食を、徹底批判するのも、大間違いであり、論理の欠如も、甚だしいと思う。

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3月6日(金)

 論理性の有無こそが、重要である、と書いた。日常の発言にも、気を配っているが、そうならない人が、なんと多いことか、と思う。少し遣り取りが加熱すると、途端に、感情的になり、暴言を吐いたり、相手の人格否定にまで、及ぶことさえある。何かが、足りないのでは。
 当事者は、重要なことを、議論している、つもりなのだ。だから、自分の主張を、何が何でも、押し通そうとする。だが、押し通すとは、どういうことか、考えるべきと思う。論理性の維持は、押し通す為のものでは、決して無く、話の筋道が、正しく構築できているか、の点検でしかない。そこに、感情が、入り込む余地は、全く無く、仮令、気持ちが昂っても、冷静さを、保つ努力が、必要となる。普通に、構えていれば、別に、難しいことでは無い。だが、勝ち負けに、拘ったり、恥をかかされた、などと考えたり、そんな思考回路が、働き始めると、途端に、冷静さを保つことさえ、難しくなる。特に、以前から、問題視されてきたように、一人で、端末に向かい、不平不満を、吐き出すような、ことを繰り返すと、それに、心が奪われて、まともな思考が、維持できなくなる。ずっと昔、掲示板なるものが、ネット上で、盛んとなった時代があった。その頃、まるで、心が奪われたように、そこでの議論に、昼夜に関わらず、参加する人が、増えていたようだ。その中で、多くの議論は、平行線を辿り、結論に至ることなく、沙汰止みとなっていた。互いに譲らず、感情論に流れ、互いに、味方をつけて、議論が盛り上がる。でも、外から見れば、盛り上がったとは、見かけだけのことで、互いに、自己主張を、繰り返すのみで、その中で、妥協案が、出てくることも、結論が、導かれることも、決して起きない。これと似た状況が、やはり、囀りの中でも、みられている。最近の話題で、昆虫食を、取り上げる人が、増えていたが、その遣り取りも、なんだかなあ、としか思えない。相手の主張を、完全否定し、自分の主張を、押し通そうとする。確かに、一時の盛り上がりは、冷え切ってしまい、昆虫の養殖なども、どうなったのやら。ただ、その背後にあった、持続可能との結び付きには、無理筋の論理が、度々出され、それを掲げて、他を押し遣る手法が、過ぎたのも事実だ。何方も、論理性に、欠いた主張を、していることに、気付くべきだが、その気配は見えず、反対派の排除に、躍起となる。ネット世界の、難点と言えば、そうなのだろうが、それを、克服しないと、崩壊しそうな気がする。

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3月5日(木)

 皆が、話している時に、割り込んだことが、あるだろうか。そんな時、中の一人から、あなたには、関係のないことだ、とか、あなたは、それを経験していない、とか、そんなことを、言われたことは。自分も、話に参加したいのに、させてくれない。そんな扱いだ。
 がっかりして、話の輪から離れた。という経験は、誰もが、したものかもだが、傷つく経験の一つだろう。でも、一方で、同じ扱いを、他人にしていないだろうか。こちらも、経験があるかも。疎外感、と言われる感覚で、仲間外れとも言われる。何故、こんなことをするのか、理解に苦しむ。話に、入ってきても、的外れな発言を、続けた場合には、少し、注意を促すことがあるが、上に書いた例では、単なる拒絶でしかない。これら二つには、大きな違いがあると思う。一方で、最近は、状況が異なる。社会媒体の多くでは、設定で、仲間内の会話、としていない限り、誰もが、参加できる。だから、見ず知らずの人達の、会話にも、気軽に参加できる。一見、良さそうに思えるが、その後の扱いにより、状況は激変する。会話の一人が、突然、罵倒し始め、時に、人格否定にまで、発展するのだ。この仕組みの、良い所と悪い所、といった感があるが、標的となった人は、傷つくに違いない。そこまで、極端な反応でなくとも、批判の対象となることもある。最近、目にした例では、専門家が、偉そうに、専門外のことに、口出しするのは、恥晒しだ、との意見だ。確かに、専門外のことに、詳しくない場合も、多々あるだろうから、恥をかくこともある。ただ、この意見は、上に書いた、未経験なものや、関係ないことに、口出しするな、というのと、似ているのでは。更に言えば、専門外でも、役に立つ意見が、できないとは限らず、岡目八目、となる場合も多いのでは。それを、恰も、恥晒しに違いない、とばかりに、囃し立てるのは、それこそ、愚かなことでは、と思う。ただ、それでも、注意すべきことが、ある。専門だろうが、専門外だろうが、論理的な話が、できるかどうか、という点だ。多くの人々が、批判した、専門外への口出しで、恥を晒したとの発言は、その多くが、論理の飛躍や、誤解に基づく、突飛な意見でしかなく、傾聴に値しないものだからだ。発言者の多くは、自身の専門でさえ、論理を欠いた、発言を繰り返し、権威を掲げて、それに頼るだけの、ものとなっている。本来は、そちらを、指摘すればいいのに、こういう野次馬達は、権威や専門に、屈するばかりで、論理で戦うことが、できない。ある意味、同じ穴の狢、目糞鼻糞を笑う、の典型に思う。

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3月4日(水)

 投票行動は、義務・権利の一つとして、必ず参加する。だが、結果が出て仕舞えば、後は任せるしかない。政自体に、口出しするつもりはない。民主主義とは、そんなものであり、政府の転覆や、心変わりを期待しての、圧力などという、考えは、明らかな間違いと思う。
 だが、端末から、日々、せっせと雑音を、送り続ける人が居る。確かに、有識者であれば、重要な会合での、発言の機会もあるし、大衆媒体からの、依頼による発言も、あり得る。だが、市井の庶民にとり、そんな機会が、得られる筈も無く、ただ、黙っておくしかなかった。それが、社会媒体の登場で、一変したと言われる。だが、それにより、より良い社会となった、かについては、疑問が残る。矢鱈に、耳目を集めようと、過激な意見ばかりを、送るのでは、誰も、見向きもしなくなり、却って、政の妨害にしかならない。選挙を、基本とするならば、その結果を、尊重すべきと思う。一方、任された人々も、責任を持って、政に参加し、特に、野党の人々は、政府や宰相の暴走を、防ぐ必要がある。だが、突然の選挙で、予算案成立までの、時間が短くなった、と言われる中、予想通りに、急ごうとする政府と、いつも通りに、時間を保とうとする野党の間で、論争が起き始めた。前にも、書いたと思うが、これら二つの考えには、大きな隔たりがある。前者は、予算執行を、第一と考え、年度当初からの、計画実行を、目指すのが、当たり前だが、後者は、そんな考えは、微塵も無い。ただ、肝心の委員会での議論が、予算案そのものに、対するものであれば、何方の主張も、通るものと思える。だが、野党の手法は、相変わらずであり、予算そのものから、逸脱した、今、議論すべき重要な話題を、持ち込もうとする。これは、議案から、逸脱したもので、短かろうが、長かろうが、貴重な議事の時間を、浪費することにしか、ならない。にも拘らず、今回も、一つ覚えの台詞を、吐き始めており、その前に、意識すべきことを、無視するのは、任された人間達が、すべきことではない。だから、議論の時間を、短縮して良い、とは言わぬ。肝心の議論を、粛々と行い、結論を出すべき、と言っているだけだ。

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3月3日(火)

 何事も、悲観的に、考える。何度も、書いてきたが、相変わらず、この国の中は、そんな空気で、満たされている。いや、今に至っては、この国だけではない。他の国々も、それと良く似た状況に、あるのではないか。理由は、それぞれ、違うのだと思うが、どうだろう。
 この国の場合、悲観的に考えることで、安心を得る、という、誠に不可思議な、思考回路がある。最悪の事態を、想定しておけば、現実は、それよりましだから、安心なのだと。本当か、と思うのは、浅はかだろうか。それと、良く似た考え方に、自分より、下の境遇の人間を見て、安心を得る、という、馬鹿げた論理もある。これらが、絡み合うことで、身勝手な論理が、構築されて、自分を、卑下する一方で、それ以下の人間を、せせら笑う、という光景が、展開される訳だ。弥速何とも、と思っておけば、いいのだろうか。では、他の国々は、どうだろうか。混迷の時代を、迎えるまでは、自分を、如何に高く見せるか、自分の能力を、如何に主張するか、という心持ちが、前面に出ていた。だが、各国の状況が、悪化するに従い、置かれた状況も、随分と、変化してきた。それは、他の国からやってきた、異邦人達が、自分達の権利をも、奪い始めた、と感じられた頃から、始まったものだと思うが、それに加えて、他国への侵攻を、簡単に行なってしまう、暴君の登場が、拍車をかける。不安定な時代と、思い始めた時に、自らの国の存在が、危ぶまれ始め、それが、自らの存在さえも、脅かすとなれば、致し方無い、としか言いようが無くなる。どうだろうか。このまま、暴走が、続くのだろうか。それとも、何処かで、抑制が、働くのだろうか。独裁国家であれば、その存在が、全てを決めるのだろうが、民主主義の中で、生まれた暴君は、国民に選ばれし存在であり、それを、消し去ることも、可能な筈だ。自分の為か、自国の為か、更には、他国との関係の為か、どれを考えても、自明に思えるものだが、そうとは言い切れず、困り果てる人々が居る。海のこちらは、悲観が、当たり前だから、あちらを、眺めつつも、そんな思いを描くのか。それとも・・・。

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3月2日(月)

 海の向こうの暴君が、攻撃を終えた後の発言で、殺害した暴君を、one of the most evil people、最も邪悪な人物の一人、と呼んだことは、皆が知る所だろう。でも、暴君が、暴君を、どう呼ぼうが、またどんな理由があろうが、他国への侵攻を、認めるのはどうか。
 そんなことを、書いたとしても、彼は既に、石油埋蔵量を誇る、あの国の暴君を、彼の国で拉致した上で、自分の国で、裁こうとしている。確かに、大統領や首相は、絶対的な権力を、有するのだが、だからと言って、横暴が、許される筈も無い。もし、そうなってしまったら、民主主義は、成立し得ず、国民の多くは、著しい害を、被るに違いない。にも拘らず、彼が、依然として、強権的なことを、やり続けるのは、熱狂的な支持者の、存在があるからだろう。以前から、解せないと思い、今でも、全く理解できないのは、彼ら、支持者の心情であり、ここ数ヶ月の、横暴ぶりを眺めても、支持を続ける理由が、見当たらないことだ。確かに、力を誇示し、無理難題を、相手国に対して、突きつけ、時に、世界全体をも、敵に回しかねない程の、横暴ぶりが、目立っていても、依然として、自分達の英雄であり、自分にとって、より良くしようと、懸命に、努力している、と信じる向きがある。それを、否定することは、かなり難しく、説得は、おそらく不可能だ。それが、人と人の間に、壁や溝を、築き上げており、それらを、破壊したり、埋めたりすることは、出来ない相談、とまで言われている。こういうことが、続くばかりだと、庶民の不満は、溜まる一方となり、解消の手段は、殆ど見出せなくなる。歴史上のことから、唯一の手段として、世界戦争が、取り沙汰されるが、誰も望まず、自分だけは、安全にありたい、と願うのでは、そちらへの突入も、できそうにない。危うい均衡を、保とうとすべきか、はたまた、一気に解決を、導く為の、過激な手段を、持ち込むべきか。そんな混乱の前夜にある、と見るのは、悲観に過ぎる、ように感じるのだが。

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3月1日(日)

 社会媒体は、当初の状況と異なり、あらぬ方へと、発展しているようだ。有名無名に関わらず、誰もが、手にした端末から、自らの考えを、発信できる、という仕組みは、情報伝達において、非常に重要な役割を、果たすとも言われたが、現状は、玉石混交どころか、石ばかりだ。
 何故、そんなことに、なったのか。開発者の期待は、多分、全く別の所にあり、嘘や出鱈目が、時に、流れてきても、関係者の良識が、それらを、排除するに違いない、と考えたのだろう。だが、今や、正しい情報よりも、間違ったものが、大半を占めるばかりか、それらを、意図的に流す輩が、巣食う世界へと、成り下がってしまった。人間の心理とは、所詮、その程度のものだ、とする考えが、出されるけれど、それとは別に、どんな考えが、より優位になるか、という点への、理解の方が、遥かに重要だと思う。嘘や出鱈目は、排除すべき、との意見に、反対する人が、殆ど居ないのに、何故、こうなるのか。何故、悪意の方が、優位となるのか。答えを、見つけるのは、難しそうだ。一方で、社会媒体の、害悪が広がるにつれ、懲罰を与えるべき、との考えも、強まっている。その矛先が、媒体の運営者、管理者に、向けられると、未然に防ごうとする、動きが強まった。その結果として、今の状況は、発展途上にある、と見るべきだろうが、未熟な状態、と言わざるを得ない。昔のような、井戸端会議を、彷彿とさせる、仲間内限定の、制限が登場したり、発言自体を、公開としつつ、反論を拒絶する、設定が登場したり、本来の目的から、逸脱する方へと、進み始めたことは、人間の心理の、狭隘さを、思い起こさせる。自浄作用などと、言われたことも、嘗てあったが、今や、諦めに似た、空気に満ちた世界のようだ。

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2月28日(土)

 虐めは、ある頃から、急に、視点の転換が、起きた。加害者の意識が、重要とされた時代から、被害者のそれが、最優先とされたからだ。この転換は、意識の変化を、引き起こすとともに、社会現象の見方が、180度変わった、とさえ言われた。確かに、そうかもだが。
 それから、四半世紀以上の、時間が流れて、世の中の雰囲気は、どう変わったのか。加害と被害、という二面性より、別の感覚が、浸透してきた、ような気がする。どちらの立場でも、自らが、恵まれていない、とする考え方が、大半を占める、ようになったのだ。それはおかしい、という意見もある。加害者は、あくまでも、虐め続けており、被害者は、あくまでも、虐められている。そこには、何の変化も無い、とする考え方だ。でも、意識せずに、害を及ぼしていたら、どうだろうか。ある日突然、被害の訴えが起き、そこから、全面的な攻撃が、始まるのだ。意識の有る無しに関わらず、被害者が、受けたと訴えれば、裁きを受けねばならない。だからこそ、あらゆることに、慎重さが必要、と言われるが、それが原因で、皆が、萎縮している、と見えるのは、どうだろう。何事も、手を付けようとする前に、相手が、どう受け取るかに、思いを馳せる必要がある。確かに、配慮の行き届いた社会は、誰にとっても、快適なものとなる筈、と言われたが、その実、全く違う社会が、構築されてしまった。この話、実は、硝子の天井と、似ているのではないか。そんな気がするが、さて、どうだろう。こじつけにしか、見えないだろうか。でも、差別と言われた部分に、目を向けると、確かに、そこには、歴然とした差がある、ように見える。でも、逆に、優先とされ、特別扱いを受けてきた、そのことについては、どうだろうか。そこには、差別意識は、一切無いと言えるか。受け取り方で、変わってしまう、と言われると、誰もが、絶対と言い切れぬ、そんな状況が、ありそうにも見える。はじめの話題に、戻ってみると、被害者中心の考え方が、実は、別の歪みを、生じてきたことに、気付けるのだが、では、どうしたら、となると、簡単には、答えが得られぬ。はて、さて、どうしたものか。

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2月27日(金)

 硝子の天井は、海の向こうの大統領選挙で、絶対的な優位を、伝えられていた、女性候補が、思わぬ敗戦に、見舞われた時、発した言葉として、有名なものだ。嘗ての、解放運動の戦士の一人として、活躍した人物は、その後も、表舞台で活躍し、大きな期待を、背負っていた。
 だが、策士とも伝えられた、対抗候補の、意味不明で、不規則な、発言の数々に、悩まされた挙句、破れ去ったことは、あちらでの、女性の扱いについて、考えを、改めねばならぬ、との声が起きた。女性の社会進出について、遥かに遅れている、と何度も言われ続けた国が、ひょんなことから、女性宰相を、担ぐこととなり、皆の驚きが、広がったが、その後の経過は、どうだろうか。それまでも、女性というだけでなく、偏った考えの、持ち主との評判だったから、とても務まる筈が無い、との声が大きかったが、その後の経過は、予想外のものとなり、嘗て、鉄の女と呼ばれた、あの人物との類似を、口にする人さえ居る。だが、まだ僅かな期間しか、経過しておらず、このまま、長期にわたる政権を、維持できるとの声には、依然として、疑う人が多いようだ。ただ、新たな政策として、次々に出されるものの、一部には、正体不明と、酷評され続けた、前宰相が、始めたものもあり、一概に、彼女の功績、と見るのは、早計だろう。今国会で、議論される予算案も、前の夏に、概算要求が、出されたものだけに、その成り行きを、見守る必要は、あるに違いないが、全てを、手柄と見るのは、危ないように感じる。その一方で、注目すべきは、他の女性官僚であり、その一人は、国の財布を、預かることとなり、その動向に、注目が集まる。特に、外遊での遣り取りが、その場での対応を、主体としたもので、言語能力のみならず、元官僚としての、政治能力を、発揮したものとして、高い評価を、受け始めている。それも、各省庁の、予算状況に、変化が起きたことへの、財務からの発言として、将来に渡る計画を、縷々述べる姿には、従来の、税制のみに、目が向く大臣とは、明らかに異なる、姿勢が見えており、期待が膨らむのは、当然かも知れぬ。いずれにしても、女性の進出を、向こうよりも先に、実現したことは、評価すべきだろう。一方で、向こうの事情には、所謂、lady firstなる、不思議な習慣が、影を落としており、心の奥底に沈む、澱んだ差別意識が、見えているようだ。

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2月26日(木)

 意思疎通が重要、という意見に、反対する人は、居ないと思う。だが、誰の意見でも、大歓迎か、と問われたら、どう答えるだろう。おそらく、大部分から、意見の中身による、となるのではないか。では、そんなことの典型が、社会媒体で、起きていることを、ご存知だろうか。
 はて、と思う人は、多分、普段から、社会媒体に、接していないのだろう。偶でも、覗いていれば、意見の遣り取りの末に、決別となった例を、眺めることもある。実社会で言えば、「絶交だ!」の一言だが、社会媒体では、一方がもう一方を、接続できなくする、いわゆるブロック、と呼ばれる手立てがある。これにより、それを仕掛けた人物の、発言が、目に触れることがなくなり、相手の反論も、目にせずに済む。執拗な攻撃に、心を病んだ、という話が、日常となる中、管理者が設定した、保護の仕組み、のようなものだろう。詳細は、それぞれの媒体で、異なるようだが、実社会の「絶交」が、まさに、当てはまるものと思う。こちらでも、無関係な人から、噂を聞くこともあり、そういったことは、起き続けるから、気になる向きには、効果絶大とはならぬ。一方で、はじめから、そういった措置を、取ることができる、媒体も登場した。発言そのものは、公開としても、それに対して、意見が述べられるかを、限定する方法だ。五月蝿い連中を、排除すれば、心の平安を、保てるということで、好んで使う人も居る。だが、意見によっては、卑怯千万と思えるものも、あるのではないか。先日も、大震災後の事故から、漏れ出たものの、危険性を、論じる書き込みが、あったのだが、内容の杜撰さに、呆れ果ててしまった。ところが、この発言は、意見の限定を、かけており、愚かな意見が、何の異論も掲げられず、そのまま放置される、という状態となった。発言者の倫理観に、呆れ果てるだけだが、人格をも疑わざるを得ず、海の向こうの暴君同様、禁止措置の必要性さえ、感じられた。これは、極端な例だが、はじめの話のブロックも、意見交換の場として、似付かわしくない、と思える。主義主張を、押し通したい、との心持ちが、現れただけなら、ただ幼いだけ、と見たくなるからだ。

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2月25日(水)

 性差による差別は、枚挙に遑がない、と言われるが、実態は、種々雑多であり、一様に語るのは、どうかと思う。男女共同参画が、社会問題として、前面に押し出されたのは、前世紀の末頃からだが、四半世紀を経ても、理解は、一向に進まず、対策も、不十分なまま、と言われる。
 でも、と思うのは、理解不足なままに、対策を、という考え方で、一体全体、何がしたいのか、と思うことも、多々あるのだが、その一方で、無理解のまま、批判を続ける人の多さにも、呆れるばかりとなる。差別解消と称して、優遇措置を、設けた途端に、逆差別との声が、上がるのも、その典型の一つだが、それまでの歪みを、解消しようとする、別の歪みを、批判する態度には、差別意識が、露骨な場合が多く、賛同を得られぬのも、当然と思う。例えば、国会議員の男女比は、この国は、世界的低位にあり、批判の声は、止みそうにない。ただ、解消の手段として、一部の国が、法制化したことには、疑問も残る。数値目標を、設定した上で、金銭的な支援を、調整する方法も、あるようだが、これもまた、逆差別との批判が、ないとは言えない。その中で、大学への風当たりが、最近強まっているのは、どうだろう。教員募集における、女性限定について、特に男性から、強い反対の声が上がり、憲法違反と断じる場合もある。だが、男性優位の職場が、長く続いた中で、その解消を目指すには、他に手段はない、とも言える。元々、任期制の導入で、若い世代に、強い圧力がある、と言われる中に、別の差別的な措置、と言われるが、これら全体に、差別と断定するのは、如何なものか、と思う。女性比率を、上げると言っても、教員が、日々接する学生自体に、偏りが見られるのも、何度も指摘されることで、これもまた、解消の手立てとして、女子枠、と称する入試制度の、導入が始まり、こちらにも、憲法違反と見る向きが、増えているようだ。だが、逆に、高校入試で、共学校が、男女同数を、目指すこと自体にも、疑問の声が上がる中、見方次第で、差別となるのは、理解に苦しむ。女子枠に関しても、憲法違反の主張には、海外の例を引く場合が、多いようだが、頓挫した例では、まさに議員と同様に、ある割合を、目標値と置く話で、その場合には、違法となりそう、との懸念から断念したという。一方で、こちらの女子枠は、実際には、募集人員を、定めているとは言え、それに達することが、決まった訳ではなく、他の入試制度との比較の上で、合否を決めるようで、その数を、満たさねばならない、となっていないようだ。その中で、憲法違反は、的外れと思うが、どうだろう。

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2月24日(火)

 暴君の発言は、為替相場に対する、口先介入のよう、と見る向きもある。違いは、法律を盾に取り、正当化することで、現実のものとする点だが、今回の如く、違法行為と断じられれば、元の木阿弥、現実に、引き戻されることとなる。誰にとって、有利なのかは、どうでもなのだ。
 で、口先介入に、話題を移そう。嘗てから、海の向こうから、為替操作の疑いの目が、向けられてきた。政府の介入は、市場原理を崩し、健全な状態を、侵すものと、散々言われ続けてきた。だが、ここに来て、先月、不穏な動きがあり、世界に激震が走った、と言われた。突然の相場変動に、皆の目が、海を挟んだ、両政府に向けられたが、双方共に、関与を否定した。だが、当時も、話題になった、レートチェックなる行為が、実際に行われたことが、明らかとなり、それが、こちら側の要請ではなく、あちらの、それも、財務の頂点に立つ、あの人物によるもの、と明らかにされた。ここまでくると、口先だろうが、何だろうが、自分達の思うがままに、世界を操ろう、との思惑が、露呈している。件の人物は、民間に居た頃、他国との関わりで、評価が高かったようで、その路線のまま、今の地位に、君臨している。だが、今回の顛末は、これまでの評判とは違い、裏の顔とでも言うべき、立ち回りのようだ。違法行為でさえ、確定するまでは、合法とでも、言いたげな暴君と、直接関与ではなく、口先だけのもの、とでも言いたげな、今回の為替操作について、どんな解釈を、するのかは、聞かずとも、明らかだろう。何も、悪いことはしておらず、国益を最優先に、立ち回っただけ、となる話について、一々付き合うのは、辞めておいた方が、良さそうに見える。こんな瑣末なこと、とでも言いたげな、自信たっぷりの表情は、暴君も、その参謀も、同じ穴の狢、としか見えない。今後、どんな展開が、起きるのか、知る術も無いが、それにしても、余りの身勝手さ加減に、呆れるだけだ。

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2月23日(月)

 判決が、間も無く出る、と言われた頃は、期待する声が、高まっていた。海の向こうの暴君の、暴挙に対して、司法の鉄槌が、下される、と思われたからだ。と言っても、構成員は、自身の都合に合わせて、任命したのだから、万が一にも、と高を括っていただろう。
 だが、結果は、敗訴である。その権限は無い、との判断が、示されたことで、彼が、大好きと言って憚らぬ、関税は、無効とされた。その途端に、世界中に、喜びが広がったが、あっという間に、別の地獄へと、突き落とされた、と言われる。暴走を続ける人間に、怖いものは、一つもなく、ただ、引き合いに出す、法律をすり替えれば、それで、事が済むというのだ。流石に、唖然とした人が、多かったのではないか。だが、居並ぶ記者の目前で、高らかに、ぶち上げたのは、10%の追加関税、を発動するという演説だ。徐々に、明らかとなるのは、法の抜け穴とも言うべき、状況だろう。権限を、行使する為に、必要となるのは、勿論のことだが、それを適用すれば、議会が、無効の採決を、下すまでの時間が、かかるとの見込みから、次の、新たな措置を、全く別の法律で、固めようとの意図が、あると言われる。その上、高ければ高い程、満足感が得られる、とばかりに、金貸し典型の、守銭奴の如く、一夜にして、15%まで、引き上げたとなる。その一方で、徴収した関税は、減税の原資として、使いたいからだろう。あらゆる法的手段を、講じることで、還付を逃れようとする、との報道もある。まだ、任期は、半分以上が残っており、このまま、突っ走れば、どうなるのか。誰にも、そして本人さえ、見通せないのだろう。何しろ、あらゆる手段を講じて、自分の主張を、押し通そうとするだけでなく、その肝心の主張が、二転三転どころか、落ち着くことさえ、ないようなのだ。国内事情も、混乱の一途だが、国際情勢についても、同様の混乱が、引き起こされている。利己的な考えを、相手に押し付け、無理難題を、突き付けるなど、相手にするのは、辞めにしよう、との意見が、出てくるのも当然だ。交渉という手続きにも、この調子で、横暴な振る舞いが、続いているだけに、何が起きるのか、誰にもわからないのだ。こんなやり方が、当たり前となると、子供の教育にも、悪影響が出そうだ。言うことを聞く必要は、無いとの証左が、そこにあるのだから。