社会媒体が、存在感を強める中、多様性という言葉は、難しい立場に、追い込まれている、ようにも見える。確かに、社会には、多様な意見が、あるべきだろうし、弱者は、保護されるべきだろう。だが、それによって、何かしらの害を被ると、手にした端末から、過激な意見を送る。
それが、すぐに、大きな影響を及ぼす、とは言えないだろう。だが、海の向こうの暴君が、盛んに、偏った意見を、送るようになってから、そんな勢いが、急速に増している。他人の為に、という社会活動は、自分を殺してでも、行うべきなどと、言う人は居ないが、でも、何となく、我慢しながら、同調してきた、という人は、確かに居るだろう。そんな不平不満が、心の何処かにある中、国の頂点に立った人間が、そんな気遣いを、見せることなく、平気で、極端な意見を、掲げていく。偉い人でも、という思いや、彼こそが、国の救世主だ、と信じることが、そういった動きを、強めてきたように思う。そこで、勢いを増すのは、所謂、同調圧力であり、同じ考えへの、賛同こそが、力という考えだろう。自分達は、恵まれぬ環境に、追い込まれており、その不平不満を、吐き出したいという、思いに駆られる中、言いたいことを、言えばいいという、そんな考えが、何の問題も、生じないばかりか、大きな賛同を得て、頂点に立つことさえ、可能となる、となれば、誰もが、自分中心の考えで、反対者を罵倒し、同意を得れば、尚一層、勢いを増す、との連鎖が起きる。普段の生活では、大人しく、余計なことも、言わない人間が、端末からは、過激な意見を並べ、同意を得て、満足する。こんなことの為に、媒体が作られた訳では、決してないが、今の状況は、そんな印象にある。様々な意見は、無駄なもので、自分の意見こそが、重要との考えは、多様性には、結び付きそうにない。でも、今の、幼い心の参加者達は、そんな考えを、無駄と断じて、自己満足に走る。言い過ぎを、承知で書くが、そうでないと、言い切れるだろうか。
慰め合い、と言ったら、過ぎるだろうか。囀りをはじめとした、社会媒体の有用性で、確かに、情報収集は、最大の要因に、違いないが、実は、多くが、全く別の目的で、書き込んでいるらしい。実生活で、辛い経験をした、とか、厳しい叱責を受けた、とか、そんな時に。
その状況を、書き綴ることで、誰かから、慰めて貰うのを、待つのだ。そんなことを、書いた途端に、弱り目に祟り目、泣き面に蜂、の如くに、罵声を浴びせる書き込みが、急増するに違いない、という反論が来そうだ。ただ、この仕組みの便利な所は、と言っても、こういう使い方にとっての、便利さにすぎないが、登録した者同士の、秘密会を、設けることができることだ。これにより、味方以外には、読みもできず、書きもできず、何の心配も要らず、となる。でも、と思う人が多いだろう。それは、情報交換であれば、門戸を広げ、不特定多数からの、情報を、待つ方がいいからだ。でも、傷付きたくない、とか、突き落とされたくない、とか、そんなことを、考える人の方が、遥かに多いのだろう。先日も、少し意見を書いたら、途端に、戸を閉じてしまった。居心地のいい所に、留まりたい、という気持ちが、優先され、その上、耐えたり、堪えたり、といった苦行は、真っ平御免となる。まあ、勝手にしたら、と思うのだが、そうでないと、壊れてしまう、脆い心の、持ち主が増え、そんな人々が、自分は当然だが、相手も傷付けぬよう、慎重な書き込みを、心掛けている。それが、自分の心を、蝕むことへと、繋がりかねない、などとは、考えもしないのだろう。強さは、手に入らぬもので、弱さこそが、武器となる、と信じているのか、理解不能に陥る。社会全体に、そんな風潮が、高まるばかりで、正しい意見は、相手を傷付けるもの、と断じられるし、その発言者は、犯罪者の如く、扱われることさえある。このままでは、自己崩壊へと、向かうのではないか、と思うこと頻りだが、当事者達は、何処吹く風とばかり、自分だけは、となるようだ。触らぬ神に、とすべきだろうか。
でも、やはり、と思う人が、多いのではないか。確かに、情報を手に入れる為に、不特定多数の人に、問い掛ける機会として、社会媒体は、大変有用なものだろう。だが、だからといって、罵詈雑言を、浴びてもいい、と思う人は居ない。誰もが、気持ちよく生きられる、と願うものだ。
さて、その中で、日々、幾つかの反応を、書いているが、反応は様々だ。「いいね」を、期待する訳ではないが、だからと言って、何の反応も無しで、構わないという訳でも無い。何らかの反応が、出てくるのであれば、嬉しいものだし、それによって、囀りという場が、賑やかになれば、有り難いと思う。情報交換が、相互理解に繋がり、それに付随して、多くの人が、何らかの利益を、得られるのであれば、存在価値も、高まるというものだ。だが、現状は、程遠いものであり、劣悪、という一言で、片付けてしまう人も、多いのだろう。今、これを書いている時に、ある囀りに対して、少しの反応を示したら、早速、回答が、寄せられていた。こちらが、疑問に思うことに、答えてくれるのは、有り難いことだし、それを、他の人が読み、何かを得てくれれば、と思う。その一方で、先日、実名の方で、書き込んだものには、興味を示した、人が多かったのだが、その中に、「言わずもがな」、と表現した部分に、拘りを見せる、一部の人が居た。尋ねられたので、考えてみたら、と返した所、別の人が、罵声を浴びせてきた。これで、すぐに反応したら、また、馬鹿げた遣り取り、となっていただろう。ぐっと堪えて、そのまま放置する選択をした。その後、音沙汰は無い。人それぞれであり、知りたいと思った人が、教えろと迫るのも、こういう場の、特徴の一つかもだが、無知は、恥じる必要がなくとも、考えもせずに、答えだけ寄越せ、と迫るのは、脅迫行為に近い。誰もが、参加できる、情報交換の場に、相応しいとは、とても思えず、こんな反応しか、返しようが無い。ただ、こういう形で、返答しないことも、意思表明の一つ、と思うのだが、どうだろうか。さて、囀りの次の話題は、何だろうか。
劣悪だと、考えつつも、何か教えて欲しい、と思ったら、頼りたくなるもの、なのかも知れぬ。先日も、ある大学関係者が、情報が見つからぬ、ということで、【急募】と付記して、誰でもいいから、教えてくれ、と叫んでいた。何がどう困っているかは、判らぬものの。
余計なこと、と思いつつも、何かできれば、とばかりに、鍵単語を頼りに、検索してみた。すると、それに当てはまる情報が、すぐに見つかった。そこで、親切にも、返信してみたが、その後一日以上経過しても、何の音沙汰もない。困ったものだと思いつつ、こういう場での、礼儀として、如何なものか、と思う所を、書き記しておいた。依然として、放置されたままだ。こういう場は、ある意味の仲間意識で、関係が成立する、と思っているが、一部の不埒な輩は、馬鹿にしたり、批判する為だけに、罵倒したり、罵詈雑言を繰り返す。そんなことでは、より良い場が、築ける筈がない、と思うからこそ、こんな瑣末なことにも、対応してみるのだが、徒労に終わっては、何ともはやである。まあ、元々、求めた情報が、自分が示した所の、下に存在していたので、当人にとっては、単なる恥晒し、でしかなかった。だとしても、その不注意を恥じ、皆に、表明してこそ、人の上に立つ人間としての、矜持を示せるのでは、と思う。それも含め、良識や良心に、依存する世界を、このまま、便利な場として、維持しようとするなら、参加者全員が、その心掛けを、示す必要があると思う。それをせずに、ただ、自らの利益のみを、追求したとしたら、荒廃するのは、当然の帰結であり、その片棒を担いだことも、恥じるべきだろう。何故、こんな風に、私利私欲に走る人間が、巷に溢れる結果となったのか、理由や原因は、さっぱり思い当たらぬが、本人達は、何かしらを気付いている、のかも知れぬ。さて、どうなるものか。暫くは、あの書き込みを、見守っていきたい。何の期待も抱かず、遠くから。
皆が、引き寄せられた、理由は定かでない。だが、現実に、多くの人々が、日々、手にした端末に、目を奪われ、気付いたことを、盛んに発信する。その意味では、情報交換が、主たる目的であり、その役目は、ある程度、果たされている、と見るべきか。だが、その他大勢は。
こちらも、時に、思いついたことを、発信しており、それに対して、寄せられる反応に、目を通している。人によっては、書きっぱなし、送りっぱなしで、見返すことも無く、単純に、発信のみ、となるのだろうが、多くは、目を通し、時に、反応している。と言っても、相手によっては、非論理的な書き込みを、繰り返すばかりで、無駄玉、という印象が拭えない。そう考えると、この情報交換の仕組みも、大多数は、塵同然であり、取るに足りぬばかりか、目を向ける必要さえ、感じられない。情報の流通を、円滑にし、万人に役立つものを、との狙いは、ほんの欠片しか、達成されず、これ自体を、無駄なもの、迷惑なもの、と見る向きもあるが、そうとは言い切れまい。これは、電子メールも、同様の状態であり、以前書いたが、職場のメールも、今では、肝心な通信に比べ、詐欺紛いが、一桁多いように、毎日感じている。では、この仕組みも、無駄かと問えば、誰もが、必要不可欠であり、使い方次第で、有用である、と答えるだろう。この状況は、もっと古い媒体でも、同じことだ。電話も、唯一の連絡手段として、その地位を築いてきたが、今では、最初に書いた端末と、同じもので、連絡する場合が多く、その意味では、音声よりも、文字で伝えよう、とする仕組みの方が、便利に映る。とは言え、依然として、多くが、電話として利用し、所謂、固定電話も、減少の一途とは言え、まだまだ、多くが設置されている。そんなことを、書いてくると、いや、別の媒体で、今問題視されるものが、あるのではないか、との声が聞こえてくる。それは、所謂、大衆媒体であり、認可を受けた上で、運用しているから、信用度は高い、と思う人も居るが、最近は、嘘しか発信せず、国民を操縦しよう、との意図が、丸出しとの声も、聞こえてくる。真偽の程は、場合によるが、それにしても、ここまで来ると、情報そのものに、そんな性質あり、と思うべきかもとなる。
もう一つ、この界隈で、聞こえてくるのは、労働環境の劣悪さ、ではないだろうか。任期制が、多くの大学で導入され、心理的な不安定が、増したと言われる。だから、まともな研究も、教育さえも、できないのだ、と断定する声が、届いてくる。だが、本当だろうか。
確かに、研究の場として、大学を眺めると、そこに集まったのは、同好の士であり、好きなんだから、少し位の辛さは、克服できる筈、と言われてきた。そこに、職業としての、研究や教育が、認識されるにつれ、辛さは、邪魔なものと見做され、取り除くべき、との意見が増えてきた。でも、研究や教育の質を、優先して考えると、必ずしも、労働環境の改善が、その結果へと繋がらず、改善の努力が、実を結ばぬ事態に、批判が出ている。昨日書いたように、報酬や支援が、決定的要素ではなく、各人の心持ちや意欲が、より大きな影響を、及ぼすのでは、と考えたくなる。これは、初等中等教育でも、同じことであり、劣悪な労働環境が、成り手の減少と、現役の疲弊に、繋がっている、との意見が、強くなっているが、その多くは、文句を並べ、改善を迫るものの、具体的な対策は、一切論じることなく、ただの野次にしか、なっていない。最大の障壁は、親の介入と言われるが、それへの対策が、講じられぬまま、現場への圧力が、増すだけなのだ。対策として、組織が、連携を組むことで、一部への重圧を、取り除く手立てが、講じられるべきだろうし、一方で、過剰労働の原因として、教育そのものより、辺縁要素の問題が、増え続けるが、それとて、書類作成の効率化や、辺縁業務の効率化を、図る必要がある。本当に、これらが、障壁となるのなら、打開策は、十分に有り得ると思う。一方、不祥事の問題を、これらと結び付けるのは、浅慮と思う。まずは、人材獲得の策と共に、その後の育成をも視野に入れた、仕組みの構築から、始めるのが、一つだろう。悪貨が良貨を、と言われるものの、組織全体の整備が、それをも上回る勢いで、改善に向く可能性は、十分にあると思う。その上で、どの教育現場からも、現役の明るい声が、届くことを、期待する。
大学には、基盤整備が、肝要だと書いてきた。が、世の流れは、依然として、選択と集中のようで、紹介するまでもなく、ここ数日、多額の予算を、注ぎ込むべき大学が、指定された、と報じられている。これ程、明白なことに、まだ、溝に捨てよう、とは如何なものか、と思う。
少なくとも、最高学府の頂点に立つ、あの大学は、これまで、他と比べたら、遥かに多くの予算が、注ぎ込まれてきた。最優秀な学生を、最優秀な人材に、育て上げる、との目論見は、一部では、達成できたと見えても、注ぎ込んだ額に、見合う程かと問われれば、否との答えしか、出しようが無い。にも拘らず、懲りもせずに、同じことを繰り返す。流石に、頂点については、これまでのことが、あるからか、今回は見送り、となったが、それとて、一時の誤魔化し、に過ぎないだろう。一方で、高額予算を使い、人材獲得に力を入れる、との方針が出されると、途端に、群がる輩が出てくる。彼らの多くは、研究が進まないのは、人件費や研究費が、不十分だから、との論を張っており、書き連ねるのに対し、同類の無能な人々が、盛んに、同意を示す。この図式は、社会媒体の最大欠陥であり、排除の必要さえ、論じられる。画期的な発明や研究成果は、優秀な人間により、産み出される、と信じる人が多いが、所詮、結果論に過ぎず、それらの成果を眺めたら、その生みの親は、優秀だったというに過ぎない。どんなに、金を積んで、成果を上げた人を、招いたとしても、二匹目の泥鰌が、捕まるとは限らず、何度も、空振りをする覚悟が、必要となる。例えば、外資系企業が、盛んに、優秀な人材を、高額の報酬で、招く話が紹介されるが、その多くは、顧客獲得の手法が、手に入った途端に、お払い箱にする訳で、全体として、それによる儲けの方が、一時的な支出より、遥かに大きくなるから、いつまでも、同じことが行われる。一方、転職した人間には、一時的な収入増に、目が眩んだ結果、その後の安定した収入を、投げ出すことになり、憂き目を見るだけだ。本当に、優秀な人材は、報酬の多寡に関わらず、自分なりの努力を重ね、成果を上げる。彼らに報いるのは、成果報酬でしかなく、餌のばら撒きは、無駄となる場合が、殆どなのだ。そう考えると、今回の措置は、明らかな過ちで、それより、幅広く支援し続けることこそが、全体の力を向上させると思う。
絵に描いた餅、ではない。確かに、予算額が、各大学に配分され、それらは、法人毎に決めた、使途へと流れる。要求したものでもなく、また、提案に沿ったものでもないから、当然、何に使うべきかの、指定がある訳ではない。にも拘らず、自分達の給与を、と書く人々は、何を思うのか。
そこから既に、末期状況にある、と見る向きもある。確かな教育や、最先端の研究を、行えないのは、安月給で、働かされているから、などと、惚けた書き込みを、盛んに繰り返す。自己中心的で、あるだけでなく、そこには、見識も論理性も、微塵も感じられず、同情の価値無し、としか思えない。要するに、そういう劣悪な人材が、大学内に居座っている、と見るべきかも、とさえ思いたくなる。だが、そうは言っても、教育は、国が掲げる、大事業の一つである。その為に、必要となる予算を、確保した上で、実践を図ることを、期待している。長らく、馬鹿げた考えに、取り憑かれた財政当局が、後先考えぬ、愚かな政策を、強行してきた。その結果、教育の基盤が、荒廃するに至り、漸く、是正が図られた、というのが、現状の姿だろう。ただ、これも、長続きせねば、単に、焼け石に水、としかならず、無駄だった、などと揶揄されるだけだ。ただ、その一方で、腐り切った人々が、身勝手な考えで、本務を果たさず、責任転嫁を繰り返すのは、排除の対象、とせねばならない。強行策は、こういう状況では、適さないだけに、外圧に頼る前に、内部改革を、自ら進める必要が、出てくるだろう。既に手遅れ、という話は、良く出てくるが、その発言を繰り返す、人の多くは、自ら動こうとせず、単に、責任転嫁を、行うのみなのだ。だとしたら、雑音には、耳を貸さず、本来あるべき姿に、戻す必要がある。その為に、誰がどのように動くか、今後、徐々にでも、見えてくることを、期待したい。
昨日書いたことを、念の為に調べてみた。大学の監督官庁から、夏の概算要求で、提出された運営費交付金は、確かに、増額を示している。これは、つまりは、新宰相が、就任する前から、ある程度の方向性が、決められており、今回の補正も、その延長線上に、あると見える。
だからと言って、何の影響も無い、とは言い切れぬだろう。概算要求では、掲げていたものの、それでは、まだ足りないとの判断が、新しい政府で、検討されたと考えることも、可能だからだ。ここまでの数値は、監督官庁が、示しているので、確認して欲しい。提示書類の29ページには、確かに、今年度予算では、1兆784億円だったのを、来年度は、1兆1416億円とする、と謳っている。先頃の補正予算では、421億円が、認められたから、今年度の支出は、合計1兆1205億円となった。そこからの、今年度との比較では、200億円強の増額、となっており、2%弱の増加率となる。これまで、法人化後は、毎年度1%の減額が、強いられてきたから、それに比べれば、多いと見えるかもだが、現実には、これまで、20%近くの減額だったのだから、まだまだと見るべきだろう。となれば、来年度予算編成で、更なる増額を、望む声が、聞こえてきても、不思議はない。とは言え、内容として、人件費を中心とした増額、となっているから、これにより、何がどう変化するか、楽観はできない。一方で、困窮の極みで、動きが取れない、という悲鳴が、静まったとしても、それが、高等教育の強化、に繋がるとは言えず、ある程度の額を、増やしたことが、どんな改革に、結び付くのか、また、何年にも渡り、指摘され続けた、学生気質の低下に、どれ程の影響を、及ぼせるかには、何の保証も無いのだ。現場の人々を含め、何をどう変えるべきか、考える時が来たのではないか。無い袖が、との言い訳が、徐々に通じなくなるとしたら、まさに、真剣に、取り組まねばならないだろう。
色眼鏡、と書くこと自体が、既に、色眼鏡なのだが、それはそれとして、読んで欲しい。新たな政権が、始まった時、最大の関心事は、女性ということだった。女性解放運動を始めた、海の向こうでは、何時迄も、硝子の天井が、破れぬままに、今回も、暴君の再来を、招いたのに。
様々な批判が飛び交い、一挙手一投足に、揶揄の声が、絶えなかったが、徐々に、存在感を、強めているようだ。外交において、一つの発言に、誰もが群がり、あれこれ文句を並べるのは、マスゴミと揶揄される、大衆媒体の常だが、一方で、社会媒体も、見識を疑う発言が、並んでいる。その中で、大義名分としては、国民の生活の為、と言われた、補正予算案が、成立したと報道された。この中で、ある特定の人々にしか、響かなかった、ある予算について、注目する人が居る。大学、それも国立大学への、新たな運営費交付金が、注ぎ込まれたのだ。使途について、馬鹿げた論を、並べる輩は、ある意味、無視すればいい、と思うが、毎年1%ずつ、予算を減らし続け、20年程で、以前の8割近くに、削減されたものが、物価高騰の中、流石に、足らないと判断されたのか。財務当局は、馬鹿の一つ覚えで、一度決めた方針を、後生大事に続けたが、ここに来て、実態把握も無く、継続することに、反対の声が上がった。これも、新政権の手柄の一つ、とする向きもあるが、肝心なのは、一時金の支給では無く、運営に必要な額を、如何に確保するか、という点にある。その意味で、就任前に、決まっていた、来年度の概算要求で、一旦は、概ね決まっていた額を、年末の最終調整で、どう修正するかが、肝心となるだろう。果たして、そこまで、目を配るかは、何の保証も無い。だが、就任後の発言から、その期待をするのも、当然と言えよう。とは言え、担当官庁と財務当局の、鬩ぎ合いは、これからなのだろう。
苛め、という言葉が、盛んに聞かれ始めたのは、何時頃だろうか。行為自体は、遥か昔、古今東西に、あっただろうから、不思議なものではなく、特に、陰湿なものとして、語り継がれるのは、侍の時代の、松の廊下なる場所で、始まったものだろう。数々の物語が、作られた。
力の強弱で、立場が異なれば、それを利用して、自分に有利に、物事を運んだり、時に、単に愉快だから、という、取るに足りぬ理由で、事に及ぶ人も居る。真相は、それぞれであり、総じて論じるのは、難しいとされる。力関係も、職場のものが、一般的とされるが、話が大きくなったのは、この国では、教育現場での事件が、大事となったからだろう。そこでの力関係は、教室外の人々には、すぐに理解できず、事が、大きくなって初めて、取り上げられた。時に、それは、悲劇へと繋がり、人の命が、失われるまで、となると、関係者の数が、多くなるだけでなく、状況の深刻さも、大きなものとなった。その後、この手の話の取り扱いが、大きくなった要因には、海の向こうから、持ち込まれた考え方で、苛めの定義が、ある意味、大きく変わったことがある。それまでは、加害者の意識が、重要なものとして、取り扱われたが、そこからは、被害者の意識の方が、遥かに重要であり、それを、判断基準とせよ、となったのだ。現状は、そのままであり、多くの現場で、混乱が続いている。確かに、防ぐ為の仕組みが、導入されたのだが、それにより、被害者は、減るどころか増えており、被害の大きさも、増しているようだ。確かに、被害者の心情が、重要なのだろうが、それにしても、この歪みの大きさは、どうなっているのか。理解に苦しむ人が、多いのではないか。ただ、第三者から見ても、如何なものか、と思える事象は、確実に増えている。その理由は、仕組みの整備で、相互観察の、機会が増えたからだろう。加害者に、共通する点として、挙げられるのは、思い込みと、制動が効かない言動、にあるようだ。冷静さを失い、暴走する人間には、暴力に似た、言動が目立つが、それも一つだろう。こういったものだけは、周囲からの働き掛けで、防ぐべきかと思う。
世の中、理解不能なことばかりで、そんな瑣末なことに、取り合っていては、何もできなくなる。でも、気になるのは、事実であり、それも、自分の考えが、及ばない範囲となれば、何事か、と思うことも、屡々なのだ。例えば、この所話題の、隣国の話など、その典型と思う。
戦争が終わり、敗戦処理が続く中、占領した地帯の、国々に対して、補償をどうするか、責めを負うべきか、などの問題が、山積していた。その中、今は違う名となった、あの国の総統が、賠償放棄を決めた、とされており、今回の揉め事でも、その点を含め、様々に論評された、と言われる。まあ、その点について、こんな場所で、書いても意味が無い。だが、一方で、国としての地位については、理解不能なのだ。戦争終了時、国を代表する政府が、名乗っていた国名は、Republic of Chinaであり、今のPRCとされる国は、その後の内戦により、敗れた先の政府が、今の島に、移ったことで、一時的には、二つの国が、一つの国名を名乗る、という状態となった、と言われる。正確には、表記が違うから、同じではないが、複雑な状態だったことは、見てとれる。で、その後、何方が、地域を代表する国か、という話が、擦った揉んだされ、徐々に、情勢が一方に傾き、ある年、国際機関に加盟する国々の、決定として、今の状態に落ち着いた。その事実は、曲げようのないものだが、その後も、島国の方は、主権を維持する形で、残り続け、一部の国は、それを認め、国交を続けてきた。だが、公的には、と言っても、これは国際機関の会議による決定だが、それを理由として、様々な所で、国とは認められず、地域という、不思議な表現が、付け加えられ、一時的な問題解決が、図られ続けている。で、今回の話題は、その地域を、国の一部として、吸収するという、試みについて、平和的ではなく、占領してでも、と言い出したことが、発端となる。今、問題となる、軍事侵攻は、他国へのものであり、この例とは、明らかに異なるが、そう言い切れるものか、理解不能なのである。どうしたものか、どうなるべきか、はてさて。
何度も書いたのに、何故、と思われるかもだが、昨日の話に関して、大学関係者からは、懐疑的な書き込みが、囀りの中に、多く寄せられる。だから、どう、という訳でもないが、結局、あんな所に書く輩に、まともな意見など、出す気概は無く、世の中同然、被害者然とすれば、良しなのだろう。
特に、恵まれぬ環境、と書き連ねる連中は、もし、好転したとして、何かしらの利益を得ても、次は、との弁を続け、もっととばかり、叫び続ける。社会全体に、もしかしたら、世界中が、そんな状況に、あるのかもだが、立場の違いを、考えるべきでは、と思えてしまう。仮令、高等教育機関と雖も、誰かを、教育する為の組織で、その役割を、果たすことが、その中に居る人間には、課せられている。の筈が、その他大勢、時に学生に混じって、同じ調子で、不平不満を並べ、被害ばかりを、口にし続ける。だが、それで、何が起きるのか、また、何が教えられるのか、あの連中は、考えたことが無い、のではないか。一方で、囀りの場で、盛んに批判される、元大学教員が、居ることも、知られているが、この人物は、今回の補正に関して、どちらかと言えば、正当な評価を、下しており、その上で、今、現場に立つ人々が、気付かぬふりを続け、論点をずらそう、とするばかりの態度を、厳しく批判する。でも、これまでの行状からか、同じ論調で、批判を繰り返し、本質を、見ようともしない、人間が巣食うのが、囀りの世界の、特徴であり、最大の問題となる。どうすれば、いいのかについて、誰も、答えを導けず、多くの常識的で、見識のある人々は、それらの、不埒な書き込みに対し、一時は、問題を指摘し、反論を出すが、悪意に満ちた、人間に対して、殆ど効果を示せず、そのうち、相手にしなくなる。その時、凱歌を上げるのは、悪意の塊であり、それを、正当と見誤るのが、その他大勢なのだろう。徐々に、制限が厳しくなり、その内、一部の独裁国のように、彼らが、社会から排除されるかもだが、どうだろうか。こんな場の活かし方について、改めて、論じてはどうか、と思ったりもするが、無駄なのだろう。
以前の政府なら、基礎研究が大事、と叫んだとしても、それは、選択と集中が肝心で、その線に沿った支援で、十分というやり方だった。これは、財布の紐を握る、ある官庁の方針を、そのまま鵜呑みにしたもので、今や、大失着の一つ、と揶揄されるものだ。気づく気配も無く。
それに比べ、今回の補正は、全く違うもの、と受け取る向きがある。運営費として、各国立大学に、配られるもので、そこには、選択も集中も無く、満遍なくと謳われる。ただ、それでも、上の方に位置付けられる、大学に対して、地方の弱小には、大した額が、行き渡らないのでは、との懸念もある。それはそれ、いつものこと、と見るべきだろうし、これまで、毎年1%ずつ減額してきたことと、比べれば、その一部に過ぎないと雖も、ここが始まり、と見たくもなる。ただ、補正は、所詮、一時凌ぎに過ぎず、これまでの減額分は、年度予算であり、そこに方針変更が、採り入れられなければ、所詮、焼け石に水、と終わってしまう。その意味では、補正額は、末端でどう使われるのか、通常の予算のように、各組織から、計上されたものと違い、何かしらを補正する、との目的だけに、どこにどう配られるか、気になる所ではある。大学の本務は、教育であり、その辺りが、危機的状況に、陥ったことが、今回の措置に、繋がったとしても、不思議は無い。その上で、教育の何に、向けられるべきものか、見守るべきだろうか。とは言え、物価高騰が続く中、光熱水料だけでも、かなりの額に、及ぶと言われる。そこへの支払いに、向けられた額が、本来の業務へと、向かうとしても、一体全体、何のことだろうか。例えば、人件費は、恒常的に必要となり、補正には、馴染まぬものだ。人手不足が、こんな組織でさえ、取り沙汰される中、それではなく、どこに必要なのか、思い当たるだろうか。いずれにしても、これをきっかけに、大学の任務を、本気で考え、予算編成に、採り入れたら、何かが変わるかも、との期待は、本当に膨らむか。次年度の予算編成は、もうそこまで来ているのだ。
この時期になると、毎年のように、話題になることがある。ある著名な賞の、受賞者が決まり、そこから、皆が研究について語り、授賞式が終わると、一区切りとなる。特に、今回は、複数の、自国の研究者が、受賞したから、その声が伝えられ、何が重要かを、考えようとする。
だが、彼らの声ではなく、それを伝える報道には、何の実感もなく、何が重要かは、全く理解できていない、と映る。学問の本質は、そう簡単に、理解できないものだから、などと言っている訳ではない。研究の中身を、分かり易く伝えよう、と努力することは、決して無駄ではない。但し、受け取り側の、庶民達は、知らないことは分からぬ、とばかりに、無視を決め込んだり、自分と無関係だから、意味の無いこと、とまで言い出す始末だ。研究の営みは、人間の生活において、非常に重要な役割を、果たしているのだが、それは、見える形ではなく、何処か奥の方の、所謂、黒箱の中、といった程のもので、理解不能の典型、とも言える。仮令、易しく解説しても、理解できないのは、当然のこと、と思うべきだろう。そちらではなく、基礎研究の重要性、という話の方だ。こちらは、政治でも教育でも、様々に関わりがあり、誰もが、関心を持つべきもの、と言われるのだが、さて、基礎研究とは何か、という点に、説明が施される気配が無い。と言うのも、自分達の都合で、話を作り上げ、政策の重要性や、税金の行方など、身近な話題のように、扱うことが、肝心となるからだ。で、改めて、基礎研究とは、と考えてみたら、何を思うだろうか。その先にあるのは、応用研究であり、その先に、技術革新があれば、庶民の生活にも、影響を及ぼすものが、出てくるだろう、と思う人が居るだろう。だが、そうとは限らず、応用など、遠い先どころか、そんな範疇にないものも、所謂、基礎研究に含まれる、ということに、気付かぬのは、庶民どころか、報道関係者、政治家にも、通じる話だろう。基礎とは、始まりであり、それがあれば、終わりがある、とは限らず、始めてみたが、その先の発展もなく、朽ちるものが、その殆どとなる。だからこそ、選択と集中ではなく、闇雲に、盲滅法に、取り組む必要が、あるのではないか。そこには、基礎的な配分として、全てを支援する、必要があるものだ。そこに、目を向けずに、将来役立つもの、と見ることこそ、差別的な考えで、間違いの始まりとなる。
自分の命を、守る為に、何をすべきか、考えたことが、あるだろうか。それは、時と場合により、様々なもので、これといった、決まったものは無い、と思う人が、多いのではないか。しかし、担当者達は、なるべく、被害を減らそうと、発出する警告文に、工夫を凝らす。
でも、これまでの災害を、思い返すと、その試みは、殆ど成就せず、毎回、空振りに終わった、という印象が強い。だからだろうか、言葉の強さは、徐々に増しており、まるで、恐喝かと思える程に、脅しの表現が、並んでいる、とさえ思えてくる。確かに、危なさの大きさを、表現する言葉は、時に、説得というより、脅しに近いもの、となる場合があり、度がすぎると、却って、逆効果なのでは、とさえ思えてくる。そこで、最も客観的な表現として、数値が示される場合が、出てきた。確かに、数字の大きい小さいは、誰が見ても、同程度に受け取られ、形容詞での表現とは、明らかな違いがある。ただ、そこで多用される、確率となると、話が違ってくる。その事象が起きる、割合を示すのだが、元々、災害は、僅かな確率でしか、起きないからこそ、多くの人々は、高を括って、大丈夫だろう、との見込みを立てる。しかし、危険が迫る中では、その割合は、急激に増すから、油断大敵、となることがある。それを、何とか伝えたい、のだろうが、いい表現が、思い浮かばず、一方で、数値で示すと、あまりに小さいから、また逆効果、となりかねない。悩む所だが、かと言って、過激な表現を、軽々しく使えば、何事も起きずに、被害が広がらねば、厳しい批判の対象となる。要するに、この繰り返しなのだが、役所である以上、こういうことに対し、責任を持って、対応する必要がある。一方で、受け手の問題も、簡単には、片付きそうにない。まさに、高を括り、見過ごした結果として、大きな被害に、見舞われた時、どんな反応を、示すのかが、肝心だろう。逆恨みも含み、冷静に見れば、誰の責任か、明らかにも拘らず、食い下がる心情は、わからぬもないが、それにしても、と思う。
1%、と聞いて、どう思ったろう。百回に一回、と思ったとすれば、逆に言えば、九十九回は、何事も起きない、となる。たったそれだけ、と思った人がいる一方、では、今回の地震が、起きる前と比べて、どうなったのか、と冷静に分析する人は、思ったのではないか。
こんな数値を、担当庁の役人が、示したのには、理由がありそうだ。注意情報は、住民への注意喚起を、目的としたものだが、前回、もう一つの巨大地震が、予想される地域で、比較的小さな、地震が起きた直後に、発出された情報では、その地域だけでなく、周辺地域にまで、警戒が広がり、数日間の活動停止、を招いたと批判された。起こる、という情報は、それが、どの位の確率で、起きるかにより、受け止め方は、大きく異なるし、当然ながら、備えへの意欲も、全く異なってくる。夜中の、寝入り端を襲った、大きな地震は、直後の、津波警報の発出により、沿岸部に住む人々は、安全地帯への避難を、余儀なくされた。街灯以外は、真っ暗な中、高台に向けて、多くが、徒歩での避難を、行ったと思うが、その後の発表で、注意情報が発出され、1%という数字が、報道で飛び交った。だが、この僅かな確率に、どう対処すればいいのか、直後の報道は、何も伝えなかった。その原因は、記者会見場に居た、多くの記者達が、問い質さなかったからだ。初めの報道で、そう受け止めたが、ここで紹介する新聞記事は、直後にも、それを伝えていた、こととなる。地震発生以前は、千回に一回、だったものが、十倍になった、という話なのだ。成る程、と思いつつ、記事を読むと、そこには、0.01%と表記され、簡単なことでさえ、間違える記事に、更に、信頼は低下した。まあ、そんな過ちは、こちらで、修正するとしても、大元の取材の姿勢は、大いに批判されるべきで、特に、数値が示された場合の、その扱いには、送り手の立場から、どう処理すべきかを、平時から、検討しておく必要がある。担当庁も、ある意味では、慎重さに欠け、説明不十分となることが、多々あることから、ただの脅しではなく、説得力のある、表現の検討を、繰り返す必要がある。人間の心理を、読み取ることに、腐心するだけでは、誤解を招くだけとなるからだ。
女性差別と聞いて、何を浮かべるか。抑圧されてきた人には、そんなことは、大昔からある、と言われるが、世間的に、大きな問題として、取り上げられたのは、海の向こうの、ウーマンリブ(women's liberation)だろう。1960年代に始まり、70年代には、世界に飛び火した。
でも、それで、変わったことは、殆ど無い、と言われる。その後、こちらでは、40年前に、男女雇用機会均等法なる法律が、制定され、女性の社会進出を、促したと言われる。が、これも、差別解消には、至らなかった。実は、雇用だけでなく、他の生活全般に、問題がある、と指摘され、四半世紀前に、男女共同参画社会なる言葉が、高々と掲げられ、法律も制定された。その後、国だけでなく、地域も挙って、この言葉を用いて、社会の構成員に、老若男女を問わずに、意識改革を促したが、さて、どんな具合だろうか。生物学的には、男女、雌雄の区別は、明確になっており、その役割分担も、はっきりしている。だが、生殖に関する以外には、時代、社会など、様々な要素で、それらは、大きく異なり、労働でさえ、女性が大半を担う、という所さえある。そこでは、戦いのみが、男の役割で、平時には、ただ、食って寝るだけ、とのことだ。何事にも、男女の区別なく、という考え方が、市民権を得てきたが、実情は、かなり難しい状況で、はっきりとはしない。一方で、推進の為と称して、雇用機会を均等にするのではなく、優先的に採用するなどの、措置が取られるようになり、逆差別などの言葉も、飛び交い始め、混乱の最中といった感がある。一方で、多様性の時代なる話が、徐々に大きくなり、男女以外の区別を含め、種々雑多な分類法が、採り入れられると、ただでさえ、落ち着かぬ状況が、更なる混乱を、招いているように映る。そこには、当然ながら、少数派や弱者といった、擁護される存在が、加えられることで、差別感は、却って強まった、ようにも映る。以前、強面俳優が、妊娠・出産を経験する、という喜劇映画があったが、性の区別を、排除して、神の思し召しは、正確ではないが、生物としての役割を、打ち砕くような考えには、賛同しかねる。自分さえ、という考えでは、社会は、成立しないからだ。
情報交換の場、だった筈だが、現実には、独り善がりの意見を、書き散らすばかりで、数としては、圧倒的に、そんなものが多いようだ。その上、反論が書き込まれると、途端に、火がついたように、その主張は、極論へと発展し、敵対視するだけでなく、反論を曲解する。
情報交換や議論には、基本的に、冷静な対応が、必要となるのだが、上に書いた人々は、そんなことが、不可能であるばかりか、相手の人間性を、全否定してみたり、反論を曲解することで、貶めたりする。所詮、そんな人間性は、こういう場には、馴染まないもので、排除できれば、するのだろうが、そういう精神性の人間は、自らの立場を、守る為と思い込み、攻撃性を維持し、立ち去ることは、選択肢に出てこない。そうなると、独壇場となり、皆が、見て見ぬ振りをするか、或いは、拒否することで、目に入らぬように、するしかなくなる。自由な、情報交換の場、と目された筈が、当てが外れて、時に、心に傷を負い、退散した経験を、持つ人も多いだろう。勝手なことを書く、という意味では、独り言は、まさに、その典型であり、批判されても、と思ってきたが、これほど、耳目を集めぬと、そんなことさえ、起こらない。そんな見方もあるが、実は、はじめに紹介した、情報交換の場、とは大きく異なる仕組みが、ある。独り言は、自ら、接続しないと読めないが、囀りでは、おすすめと称して、矢鱈と、悪質なものが、送りつけられるのだ。それは、接続数や、「いいね」の数など、何かしらの数値を、基として算出された、ものなのだろうが、悪質であればある程、嘘や出鱈目が、極端である程、表示される可能性が、増すのだから、困ったものと思う。その上、悪質性を、感じない人だからか、そんな発言ばかりに、首を突っ込み、同意を表したり、煽ったりする輩が、居るのも困ったものだ。方法には、触らぬ神に、とばかりに、接続しないことや、そんな発言に、心を乱されぬ、ある意味の強さを、獲得するしかない。反論は、重要なことだが、面倒は、背負い込まぬ方がいいようだ。
情報伝達の道具として、社会媒体は、優れたもの、と言えるだろうか。手にした端末で、誰もが、情報を受信でき、発信できる仕組みは、確かに、伝達速度を、大きく上げた。それにより、手間のかかった作業も、一斉送信だけでなく、手から手へと、伝えられることで、満遍なくなった。
ただ、この手法は、ずっと遅かった昔と、なんら変わらぬ問題を、積み残すこととなった。情報の真偽が、伝達の過程で、確かめられることなく、耳から耳への、伝達遊戯さながらに、途中で、挟み込まれる、伝達者の感想や、悪意に満ちた、改竄なども、そのまま、拡散されることとなった。所詮、人間の手が、関わるものでは、そうなるのが、当然と言えば、当然のことだ。結局、判断は、受け手に委ねられ、騙され易い人々が、起こしてしまった、大騒動が、急速に広がる、問題を起こした。となれば、仕組みを考案した人や、その伝達に携わる、管理者に、責任が問われることとなり、問題の核心は、永遠に、解決されぬまま、となった。本来、人間にも、何種もの人が居て、彼らの関わりが、社会を形成することとなる。となれば、鵜呑みにする人も、悪意に満ちた人も、そこに居るのが、当然として、考える必要がある。彼らの、誤った行動に対し、その他の人々は、どう対処すべきか、改めて、考える必要が出ている。と言っても、多くは、防ぐ為の手立てであり、受け手が、吟味するしか、手段は残っていない。逆に言えば、それさえ、十分に整えられれば、間違いを犯す人々の、過ちの殆どは、次の段階で、排除されることとなる。それでいいのでは、と思うこともあるが、今、手にした端末に、次々に送られてくる、玉石混淆の情報に、嫌気がさしてくると、もう少しどうにか、と思うことも、屡々なのだ。自分のことは、自分で、とは言うものの、その他大勢が、こんな状況では、と思うと、何とかならぬか、と考えたくなる。答えは、見えてこないし、おそらく、解決法は、無いのだろう。人間の性と見れば、それまでだが、それしか無いのだろう。
今だと、悪意の塊は、そして、彼らの発言の場は、社会媒体だろう。大衆媒体も、今や多くは、当てにならぬ噂ばかり、弱い者を見つけては、集中攻撃を繰り返す。ただ、こちらは、世間体を気にして、弱者保護を、札に掛ける。ただの弱者には、手を差し伸べても、突き放しはせぬ。
とはいえ、大衆媒体も、盛んに、社会媒体の話題を、引き合いに出し、俎上に載せる。こうなると、ぐるではないか、とさえ思えてくるが、支援企業の顔色を、盛んに窺う大衆媒体と違い、社会媒体は、所詮、個人の集まりであり、耳目さえ集めれば、それで満足なのだ。立ち位置としては、かなりの違い、とも見えるが、どうだろうか。にしても、話題の中心は、社会媒体にある、とも見えて、書き散らかしを、拾い集めてみる。するとその中に、面白い遣り取りが、散らされていた。今、軍事侵攻の挙げ句、仲介国から、横槍とも思える、提案が寄せられたが、どうにも、不可思議にしか、映らなかった。だが、その中で、何方の勢力に、与するかにより、学識経験者と思しき人々が、その発言を、批判されたり、明らかな過ちと、指摘されている。その遣り取りが、ある意味興味深いが、さて、何方が、どう正しいのか。学界では、暫く後には、決定されるだろうが、現時点は、混乱の中と思える。ただ、その序でで、面白いのは、彼らの著したものが、真偽如何なるものか、指摘があり、所謂、学会誌の如きもので、普通に行われる、査読なる、検査方式において、偽と断じられた、論文の書き主として、批判を受けた話まで、出てきている。ふと、思い当たるのは、歴史の世界での、その手の出来事で、旧石器は、よく知られたところだが、別にも、古文書を引用した話があり、古文書自体が、捏造とのことらしく、学問の世界の、不思議を痛感する。誰が、どのような利益を、求めてのことか、とも思えるが、この話、上の話と、似て非なるものか。世間的な地位は、確かに重要だが、それで、学者生命を失うのは、何なのか、と思えてしまう。もっと汚れた世界、かもなのだが。