あっという間に二週間が過ぎた。四苦八苦しながらでも何とかやって来れたのは、いろんな意見や励ましがあったからに違いない。まだまだ苦もなく書きつづれるというわけにはいかないし、相変わらず材料には事欠いている。日々の生活、色んなところに材料は落ちているのだが、こういうところで書くことになじまないものが多い。特に個人的な話題となると固有名詞を出さざるを得なくなるので、そういうものはボツになる。ということで、今日もラジオからいただいた話題について書いてみることにする。
何年くらい前からだろうか、『癒し』という言葉を良く聞くようになった。心が癒されるとか、身体が癒されるとか、そういう使い方をするのだが、最近の使い方はどちらかといえば心のほうが中心になっているようだ。現代人の心は病んでいると言われたり、皆疲れていると言われたり、どうも惨憺たる状況のように思えるが、本当にそうなのだろうか。確かに、いやな仕事をしたり、嫌いな人と飲んだり、いろいろとストレスのたまる毎日なのだろうが、だからといって癒され続けている人はどのくらいいるのだろう。『癒し』という言葉からはあまり感じられないかもしれないが、これは多くの場合癒される人と癒す人がいるわけで、もし受け身ばかりの人がいたら困ったことになる。元々心がホッとするような経験をすることでストレスから解放されて、再び戦闘開始となるわけなのだが、どうも中途半端な状況が続いている人もいるようだ。一方で、そういう状態の続く人が多いので『癒し』がブームになっていたとも考えられる。しかし、もうそれもおしまいに近づきつつあるのではないか。ラジオである女性起業家が「これからは元気な人の時代!」と言っていたが、まさにその時である。元気のない、いつまでも癒され続けないといけない人には、積極的な転換を図ることができない。元気で頑張る人にこそ、いろんなチャンスがおとずれるのである。がむしゃらに頑張って一仕事終えて、ちょっと疲れたときにだけ『癒し』が必要となるのだ。ひょっとすると、元気な人にはそんなことも必要ないのかもしれないが。
今年度から完全週休二日制が導入されたと書くとまるで会社のように思えるので、実際には完全週五日制が導入されたとするらしい。小学校から高校までの初等、中等教育制度に対するものである。ということで、今朝はお寝坊というお家も多いのではないかと思うが、ご多分に漏れずここもそうである。ゆとりの教育から始まり、いよいよ時間的にもゆとりが持てる制度の完成というわけだ。その割には補習制度やら、授業コマ数の増加やら、ゆとりとは正反対のことも行われているようだが。
さて、子供を持つ親にとって週末の過ごし方が一段と難しくなりつつあるようだが、そういうときに昔を思い出す人もいる。パンチが育った都市では、もう30年以上前のことになるのだが、日曜日や夏休みに楽しみがあった。日曜野外理科教室とか日曜理科教室などで、今では考えにくいことだが、教育委員会主催で現場の先生が面倒を見てくれた。野外のほうは主に採集がテーマで、植物、化石、海の生き物などがあり、室内で行うほうは実験がテーマで、電磁石やプリズムを作ったりした。理科離れなどという言葉はまだ生まれておらず、申し込みには多くの親が列を作ってつめかけていた。今では世話をする先生の協力が得られず、けがや事故などの問題が起きたときの責任体制の難しさなどから実施されていないようだが、こんな制度の復活を望んでいる人はたくさんいるのではないか。何も理科に限ることはないし、歴史を学んだり、社会の仕組みを学んだりと色んなことに使えると思う。教育産業に任せるしかないという思い込みもおかしなことだと思う。実際に関東のある都市ではボランティアの人々に支えられたこれらに似たことをやっているところもあるのだ。良く考えると週に二日の休みがあるからこういうものが必要なのではなく、元々学校とは違った場で違った形の教育を受けるという意味で大切なのではないだろうか。小さなことかもしれないが、ちょっと散歩に出て子供と花や昆虫や鳥を観る機会を作り、一緒に名前を調べてみるというのも立派な教育なのだから。
喜怒哀楽を表面に出すことのできる人は幸せだと言われたりする。なにしろ、組織、集団の中では、自分をはっきりと表わすことはご法度のように思われているからだ。でも本当にそうなのだろうか。こんなことを考えるのは、おそらく自分自身がかなり喜怒哀楽をはっきりと表すタイプで、それを強く意識しているからなのかも知れないが、どうも無表情に何もかもこなしていくというのは無理があるような気がする。
喜ぶ、怒る、哀しむ、楽しむというのは、ごく当たり前の精神活動だが、自分の心の中だけのものと考えがちである。こういう感情は確かに自分の中から湧き出てくるものだから、当然自分のものと意識できるが、一方で相手のこういった感情が自分に対してかなり大きな影響を及ぼすことも経験上確かである。そういう観点から、集団、組織の中ではなるべく抑えるような意識が働くのだろう。でも全部を包み隠されてしまったら、相手が何を考えているのかもさっぱり判らなくなるので、やっぱり困ってしまう。まあ、適度に出すのがお互いのためなのだろう。中でも、怒りは威圧に繋がるため強弱関係のある間柄では嫌われることが多い。しかし、怒りの無い関係がいつもうまくいくかというとそうでもないような気がする。これは何も自分が怒りっぽいから言うのではない。時にそういうことが必要なのでは、と思うのである。以前経験したのだが、同僚にいかにしたら怒られないですむかを伝授している部下がいた。親切とも受け取れるし、教育とも受け取れる。しかし、どちらも当てはまらないと思う。なぜならそうすることで肝心な部分を隠すようになり、本質を見せないような行動しかとれないようになるからである。これが積み重なることでどうにも収拾がつかない状況に陥ることも多くなる。そんなことになってから泣き言を言っても仕方ないのだ。時には勇気を奮って、怒りの場に出るということも必要だと思う。
たった11回目とはいえ、自分でもよく続くなあと思う。まあ、備蓄が枯渇しつつあるので、ちょっと難しくなることも出てきそうだが。それにしても株式関連のサイトにも関わらず、独り言に出てくる話題は株式とはまったく無関係、株式ド素人のパンチが管理人をやっているので仕方のないところだと思う。職業柄、結果の分析は適当にできるが、これからどうなるのかなどと言った話題は無理である。まあ、賛否両論があると思うが、たまには少し書いておくのもいいか。
相場の動きとは関係ないが、株式関連で気になっていることに株主総会がある。なぜ、いつ、どこで、などといった規定は商法に書いてあるようだが、やり方に関してはそれほど詳しく書いてあるわけではないようだ。だからと言うわけでもないだろうが、日本の株主総会は儀式的な要素が大きいと思う。つまり、決算などの報告を滞りなく済ませ、出席者からの質問もほとんどでない状況で、今年度も頑張ると社長自らが述べて終り、といった形である。中では、「異議なし!」とか、「議事進行!」とかいう声が飛び交ったりして、すんなりと終らせようという意図が出ている。しかし、総会に出席している株主はほんのわずかで、決議に必要な定足数や賛成票は既に委任状で得られているわけだから、総会が儀式になるのもやむを得ない。いっそのこと、株主と社長の交流の場として、きちんとした質疑応答を行えばいいのではないか。商法第237条の3にも事前に質問を提示することができるとあるが、それを実施してもいいし、もう少し進めてその場での質疑応答をしても良い。さらにネットの時代となれば、ネット上での質疑応答も可能かも知れない。旧態然とした総会を継続したままリストラやら再編やらと言わず、そういうところから変えていく努力もしてみたらと思う。こんなことはもう始めているところもあるのだろうが。
いくら独り言といっても文章を書くのは楽なことではない。ましてや、人様に見てもらうものとなればなおさらである。しかし、最近その区別がはっきりしない人が多くなっているような気がする。自分にとっての記録である日記などと人との意見交換などに使われる手紙などの間で、はっきりとした違いをおかない人が増えているような気がするのである。これもネットの効用と言うべきか、ネットにおける意見交換などはその典型であろう。
ネット上の言葉遣いなどに問題があるのは以前にも書いたことだが、内容にも問題が多いようだ。たとえば掲示板のようにある意味公的な場に自分の意見を載せる場合にも、そういうことがたくさん見受けられる。たとえば、自らの経験にのみ基づく、かなり偏った意見を延々と述べ、それに対する反論を論破することに力を注いでいる人をよく見かける。これは双方向の議論を望んでいるのではなく、一方的な言い放ちをしているに過ぎない。また、様々なところから手に入れたデータを列挙することで自らの主張を確固たるものにしようとしている人もいる。この場合、データの信頼性や客観性には着目せず、自らの主張に有利なものだけを使う場合が多いので厄介だ。さらに、誰か有名な人の文章を引き合いに出して、それによって権威を得ようとする場合もある。これについても自らの力によるのではなく他人の力に頼るものである。いずれにしても、客観性を重視した議論という場からは程遠いところにあるものだが、最近ネットの普及と共にそういう例がどんどん増えているようである。ただ、これはネットの上だけに限ったことではなく、以前からも自らの主張をするために本を出版した研究者も多くいたし、解説のような形での発表をする人もいた。結局、無責任で独りよがりの文章を人前にさらすことのできる機会がネットの成長と共に増したということなのだろう。書く側の責任ということが果たせなくなってくると、そういう欲望を満たすだけの文章を見極める力を読む側が身に付けるくらいしかだまされないための方法はないようである。
木瓜の花が咲いている。多くの場合、一株から白色、桃色、赤色の花が咲いていて、なぜなのかと思わせる。枝ごとに違っているようにも見えるがきちんと見たわけではないのではっきりしない。一株から違う色の花が咲くというのが面白いと思うのは、そこに多様さが現れているような気がするからだろうか。まあ、これが単純に違った花の色の枝を集めて作ったものであったのなら、何の面白味もないのだが。
ぼけの話で気に入っているものがあるので紹介する。と言っても、花の木瓜ではなく、ぼけ老人の呆けでもない。敢えて言うなら、抜けていることをさすのが近いだろうか、生き物を集団で見たときに、平均から外れたものをボケと呼んだらどうかという話である。人間社会では最近はいじめの対象となっているそんな人たちのことを指しているのかもしれない。しかし、生物集団では平均から外れた存在が重要になる場合がある。生物がある環境に適応するとその環境での最適な振る舞いをすることが有利だと考えられる。しかし環境は常に変化するので、急激な変化が起きた時に最適化集団はいっぺんに不利な状況に追い込まれ、場合によっては絶滅する。今まで存続してきた生物種は、絶えずボケを含んでいることで劇的な変化にも対応できる術をもっていたと言える。始めからすべてを最適な形にするのではなく、一部に違ったものを含む多様性をもった集団にすることで、そういう変化に備えたシステムなのだ。そう考えると違いがあることに意味が出てくるのではないか。
今日は花まつり、仏教系の学校に通った人には、何やらお出かけさせられたような記憶がよみがえるかも知れない。別に、今年の桜の開花は早い、というのとは無関係のお釈迦様の誕生の日。花まつりを検索するとまずは桜やらツツジやらの話が表示されるから、やっぱり、もう一つキーワードを入れないと駄目なようだ。釈迦と加えたら、お寺のお話が次から次へと表示される。
さて、そんな話を進めておいて、何故だかまた桜の話に戻ることにする。どこでも話題になっているから知っている人も多いだろうが、染井吉野についてである。今、日本でお花見の桜といえばほとんどがこの品種である。確かに、奈良吉野の山のヤマザクラのように、麓の方から山頂に向って徐々に開花していき、見事な景色を作りだすところもあるようだが、一般にはやはり染井吉野である。さて、染井吉野はオオシマザクラとエドヒガンの交雑からできたものであることが研究によって明らかにされたそうだが、名前の由来は江戸の染井という地名からなのだそうだ。元々吉野桜という名で売りだされたようだが、吉野のヤマザクラと混同されるとのことで、染井吉野と名を改めたという話だ。花の色が艶やかで咲き方も綺麗なので人気が高いのだが、病気に弱いという欠点がある。また、樹の寿命も短いと言われていて、一説では50年とか。若いうちから年頃まではピンク色が濃く出るが、樹齢を重ねると段々と白さが増してくる。そう思ってみると、なんとなくそんな気がしてくるではないか。