パンチの独り言

(2002年4月15日〜21日)
(円周率、嘘の積み重ね、ピアノの音色、心臓、酔歩、役に立つ、目立つ)



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4月21日(日)−目立つ

 小さな子供にとって列車などでの旅行はかなりの苦痛なのだろうか。色んなケースがあるだろうが、今回目撃したのは乳児のケースと幼児のケースである。乳児の場合食欲、睡眠欲など基本的なものだけで動いているのだろうが、寝つきが悪いと大変なようで、今回も母親は抱いて歩いたり座ったりと苦労の揚げ句、自分も一緒に寝てしまった。幼児の方はもう少し色んな要素が混ざってきてぐずぐず言い出す。当然言葉という媒体を使えるようになっているので、良い点も悪い点も出てくる。まあいずれにしても何十人もいる車両の中では大変なことになるのだ。
 静かな車内で騒がしい子供や大人がいるのは目立ってしまって良いことではないが、何でもかんでも目立つことが悪いことかというとそうではないだろう。小学校、中学校、高校といじめのある環境で育ってきた人たちにとっては、他の人と同じことを無難にこなし目立たないようにすることが大切なのだそうだ。他の人と違わないようにすることがもっとも効果的な自己防衛であり、目立たないようにしておくのが一番安全なのだから。しかし、人それぞれに違いがあるのは当たり前で、その違いを受け入れずにみんな同じようにというのは非常に危険な考え方である。そういう違いを受け入れたうえで人の良い点悪い点を認識していくことは色んな意味で重要な過程である。この過程を経験する機会を『いじめ』のために逸してしまうのは、非常に大きな危険をはらんでいると言わざるを得ない。そういう思いを抱きながら自分の下の世代や子供たちの世代を見ていると、やはりある部分にはその歪みがたまってきているように感じる。全てにおいてではないにしろ、人と同じことをやることだけが重要で違うことをやる必要はないなどという考えが芽生えるのは危なっかしい話である。以前ある大学の先生が学生に言われショックを受けた一言は『先生、目立っちゃいけないんですよ。』だった。

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4月20日(土)−役に立つ

 どうも昨日楽しみすぎたらしくなかなか話題が浮かんでこない。まあ、こういうことも時々あるのだろう。仕事を終えて、慌てて移動して、バタバタしたときにはやはりゆっくりする時間が取れないからかもしれない。これからも何度も起きることだろうから、そのうちそれが積み重なるとかなり苦しい状況になるのだろう。そうは言ってもまあ今日のところは何とか済ませることにしよう。
 唐突だが、役に立つことというのはいろんなところで接する言葉ではないだろうか。特に小学校から始まる学校と名の付くところに行けば、そこで習うことは後々なんの役に立つのか、と意識したことのある人も多いだろう。授業で覚えた歴史の年号や小説の題名と作者名とかそういう事柄が実生活においてなんの役に立っているのか、今考えてみても「はて?」と思ってしまうことが多いのは仕方のないところなのだろうか。そういう事柄を教養という言葉で置き換えることによって何とか満足している人もいるだろうが、大部分の人はそんなことを意識せずにいるのであろう。考えること、覚えること、話すこと、聴くこと、などなどいろんなことが習うときに必要なわけで、その能力を鍛えることも習うことの大きな役割なのかもしれない。実際に習い覚えた事柄も人との会話を豊かにするなどいろんな場面で役立つことが多いから、そちらの方が重要だと考えるかもしれないが、本当はいろんな能力をいろんな形で鍛え上げていくことの方が大切なのだと思う。算数や数学で習ったことを卒業以来使ったことがないので重要ではないとある委員会で発言した小説家がいたと聞いたことがあるが、これなどももっと柔軟な見方ができないものかと思わされた。直接的な形で役に立つものだけが重要ならば、この世の中はとてもつまらないものになってしまう。

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4月19日(金)−酔歩

 もうさすがに新歓宴会などというのも終わっていると思う。今年は花見にかこつけてということも無理で、既に海峡を越えてしまったらしい。宴会となればほとんどの人が酒を飲むわけで中には酔っぱらう人もいる。当然帰りには足元がおぼつかなく、さて無事に家に帰りつけるのだろうかと心配になったりする。次の日に出て来ているのを見て安心するわけだが、あんなに酔っぱらっていたのにと不思議に思えることも多いのではないか。
 さて酔っ払いの歩くごとしということで中国では「酔歩」と訳されているのがランダムウォーク(random walk)である。字の通り訳せばたぶん乱歩となるが、これは意味が違ったり作家の名前と混同したりするので日本では使いにくい。そこで日本でも酔歩を使っている人がいる。まあ大部分は日本語得意のカタカナで済ませているけれども。これは次から次へと起こる事象でその度にある確率でどれが起きるのかが決まるということを表す言葉で、酔っ払いの行動が予測不可能であることからこの訳語になったのだろう。例えば一本道を右か左かどちらに行くのかがある確率で決まるといったものである。これは一見でたらめに進む方向を決めているから、ランダムと言われるわけだ。この場合は何度も繰り替えしていれば、一本道のどの場所にも必ず到達できるとのことだ。しかし、川沿いにたつ家にでも住んでいないとこんなことは実現できない。アパート群などに住んでいたら、もう諦めるしかないように思える。これは一本道が一次元の世界と言えるのに対して、世の中は普通二次元の世界だからである。二次元では酔歩では永遠に家に帰り着くことができないのだそうだ。となれば、酔っ払いとはいえ、どうもいろんな能力がしっかり働いていて、ちゃんと帰り道を認識していることになる。どうも「酔歩」というのは本当ではないらしい。そうそう、ウォール街には酔っ払いが多いと言う経済学者もいるようだが、酔歩は前に起きた事象とは無関係に次の事象が起きるということだから、はたしてこれも完全に正しいと言えるのだろうか。

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4月18日(木)−心臓

 日頃、緊張したり、驚いたり、怖がったりした時にどきどきした経験は誰にもあるだろう。心の動揺から心臓の拍動が激しくなるわけである。こんなことから昔の人が心は心臓に宿ると考えたのも納得できることである。実際には心理的なものから体内のホルモンや神経のバランスに変化が起きて心臓の拍動を制御する機構に影響を与えたことによるものなのだが、そんな複雑なことを考えるよりもそこに心があると考えた方が単純だからだ。
 さて、何も感じていない時に拍動が激しくなること、瀕脈とも言う、がある。期外収縮と言って本来の拍動のリズムが崩れることによって起きる。原因は色々とあるのだが、この症状を持っている人は意外に多いようである。一方で、脈がとぶ人もいて、これはタンバリンを打つ時に休みを入れるような感じである。こちらも原因は色々とあり、やはりかなり多くの人が持つ症状のようだ。ちゃんとしたリズムで脈を打たないことから、これらの症状は不整脈と呼ばれるが、どうも医者の言葉では期外収縮と言っているらしい。こういう症状を持つ人が多くいるということはそんなに病人が多いのかと思われるかも知れないが、実際には重篤な場合は少ないようである。人間ドックの時に心電図検査をするがこの際に見つかることが多い。医者が聴診器を使って心音を聴いている時に異常を感じることもあるようだ。しかし実際には日常生活に支障のあるほどの人はその中の一部であるらしい。専門医の話では、心臓の拍動のパターンを示す心電図は教科書的には非常にきちんと決まったものであるかのようであるが、人それぞれいろんなパターンを示すことが常識で、教科書みたいなパターンの人はほとんどいないとのことである。素人的に見れば、心臓が動き始めてから(生まれてからではなく)死んで止まるまで、あれほどの長い時間正確に脈を打つほど精密な機械であるはずの心臓が、そんなに変化に富んだものであるはずはないと思いたくなるが、人間の作った機械よりもずっと違いの大きいものなのだ。堅い機械を作る工場だったら不良品として処理されるはずのものが、柔らかい機械である心臓はその程度の違いなど何とかしてしまうのだろう。

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4月17日(水)−ピアノの音色

 世の中にいろんな道具が溢れている。新しいものが出てくるたびに便利になるような気がするが、はたしてどうだろうか。次々と使い始める人もいれば、使い方を覚えるより前にその存在を忘れてしまう人もいるだろう。「弘法筆を選ばず」のように、様々な道具を上手く使いこなせたとしても面倒に思えてくるものもあるようだ。パソコンも昔は反応が遅くて苛々したものだが、最近はネットの転送速度も速くなり快適になった。だからといって、仕事がすぐに片付くわけではない。なにしろ仕事をする人間の処理速度にはほとんど変化がないのだから。
 昔、教育テレビでピアノ教室をやっていた。いわゆる初心者向けのものではなく、専門家になろうとしている人が専門家から習うものだった。講師をされていた方はこの放送があった数年後に亡くなってしまったが、確かオーストリアの人だったろうか。番組を見ていて、この教室の風景が特に印象的だった。二つの全く同じグランドピアノが寄り添うように並び、そこに講師と生徒がそれぞれ座っていた。生徒が練習してきた課題曲を弾くと、それを聴いていた講師がその問題点を指摘する。曲を弾くということだけでいえば、生徒も十分な実力を持った人だから問題はないのだが、そこは専門家たるもの曲に感情を注ぎ込まなければならない。「ここは、こんな感じで情感を込めて」とか、「ここはそういうふうに弾くのではなく、こんな形で」とか、そんなコメントをつけながら講師はピアノを弾いていく。驚いたのは、同じ曲をほぼ同じピアノを弾いているのに、全然違った感じに聞こえるということである。楽器とは単に音を出すだけのものと考えると、とても不思議な気がして、改めて演奏者の役割を認識させられた。そういう意味で一風変わった企画とはいえ、とても面白い番組になっていたと思う。別の見方をすれば、どんなに良い楽器を使っても、それにみあう技術が伴わなければ宝の持ち腐れ。道具にも同じことが言えると思うが、他の事柄にもあてはまりそうな話である。

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4月16日(火)−嘘の積み重ね

 毎朝ここに書き込みをしているが、どんな手順でと思っている人がいるかも知れない。手順はないに等しく、ただ単に書き込むだけである。元々作文を書き始めた頃から、下書きや大枠を決めるといった作業が苦手でつらつらと書き始めてしまう癖がついてしまい、今でもそのままの状況である。完璧に整えるのも無理と何度も手直しするのも控えている。そんな状況なので少々読みにくいところがあるかも知れないが、了解していただきたい。
 以前怒りが重要な要素の一つと書いたが、10年ほど前までは烈火の如くという図が良く展開されていた。怒鳴り散らすと言ったほうが良いのかも知れない。最近はそんなことも無くなったが、やはり頭に来ることは多い。たとえば、先日もこんなことがあった。端的に言えば、嘘の上に嘘を塗りたくる行為である。自己主張の強い人の中に自分の過去の発言の問題点を指摘されたときに、その発言を修正する人がいる。間違っていたと認めずに、まるでその発言とは違うことをさも以前から主張していたかの如くのたまうのである。こちらは過去の発言を記憶しているわけだから、非常に強い矛盾を感じながら聞かされるのだが、本人はすっかり自分の論理展開の素晴らしさに酔っているようだ。当然ながら、そこをまた丁寧な態度で突くと、さらにその上手を行くような論理が出てくる。これはきりのない無限ループに入ったようなものである。というより螺旋階段を下りていくようなものだろうか、同じところには戻ってこないのだから。螺旋階段は上から見ると同じところをグルグル回っているように見えるので、良い喩えだろうと思ってここで引き合いに出している。とにかく、目の回るような下らない展開に付き合わされるわけである。それにしても、そういう人達の心理がどのように働いているのかを知る由もないが、他の人達に信頼されないのは仕方のないところだろう。

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4月15日(月)−円周率

 さて週明け、これで三週目に入った。通勤の道すがら何か材料は落ちていないかと目を皿のようにしながら、などという図を思い浮かべると悲惨である。まだまだ、そこまでは行かないとはいえ、良い話などというのはそう簡単に落ちてはいないようだ。始めた頃はすぐに途切れると思っていたが、こうなってくると途切れさせにくいものがある。では、今日も何かほじくり出してみようか。
 円周率の話を最近色んなところで聞く。理由の一つは、前にもお話した学習指導要領である。完全週五日制の導入は色んな意味で話題になっているが、指導する立場の人達にとっては今回の指導要領の改定はかなり大きな影響を及ぼしているようだ。円周率を小数点以下どこまで覚えてそれを使うかということも、今回の改定の問題点の一つとして取り上げられている。なにしろ小学校では小数点以下の計算をなるべく行わない方向での指導が要求されたからだ。そうなると円周率は3ということになる。こんなことをしたら大変なことになる、円周率の意味が伝わらないとか、きちんと計算する能力が身に付かないとか、いろんな意見が出て、はては算数、数学に対する興味が芽生えないとまで言う人が出てくる。しかし、なぜ3.14なら良くて3では駄目なのかということに答えている人はあまりいないのではないだろうか。どちらにしても正確な数値ではなく、近似値に過ぎない。要は正確な数値との違いが大きくなっただけのことである。ということは、正確な数値ではなくそれに近い数値であることをきちんと教えることが大切で、そこに興味を持たせるきっかけがあると考えるべきではないか。今まで3.14で十分と思ってきたことが実はおかしなことかもしれないと考えても良いのではないか。なぜなら3.14でも正確な値ではなかったのだから。そういう思いで指導方法を再考し始めた人達が出てきたのは、これから試行錯誤があるとはいえ、良い兆候だと思う。ただ単に批判を繰り返すのではなく、それを逆手にとってより良いものを作り出すほうに力を注いだほうが良い結果を生むに違いない。

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