人の話を聴けない人が増えていると感じている。じっと聴くことができなくて、他のことをしてみたり、隣の人と話してみたりする。ある大学で講義中の携帯電話での会話が頻繁になり禁止されたとのことだが、その後静かになったそうである。何故なら電話を会話に使うのではなく、メールに使うようになったからだ。先生のほうは見ていない、ただ単に目の前にある携帯に集中しているわけである。その方がまだ周囲に迷惑をかけないだけ良いというある先生の意見も載っていたが、そこまで譲ってしまうのかと呆れてしまった。
人の話を聴くのはちょっと複雑な行為である。話すのは自分で考え、それを表現すればいいだけだが、聴くほうは相手の言っていることを聞き取り、理解しなければならない。自分の考えの中だけで閉じているわけではないから、いろいろと検討しなければならない。話すことと聴くことは同じことの二つの様相のように考える人もいるかもしれないが、かなり違ったことなのではないか。赤ん坊を育てていくときに、自分の子供にまず話しかけることが大切であると言われている。赤ちゃん言葉で話しかけるか、大人の言葉で話しかけるか、色んな意見があるようだが、なにしろ話しかける。子供が理解しているかどうか始めのうちは確認の仕様がないが、そのうち反応が返ってくるようになるので何かしら理解し始めたのだろうと思える。こうすることで子供が話し始めるための準備ができていくが、本当に話し始める時期は子供によってかなり違うようだ。さて、子供が話し始めたら次に大切なことは、その話を聴くということだろう。ちゃんと理解して、その話に対して、何かを話しかける。ここで重要なのは相手の話を最後まで聴くことだろう。子供の話の腰を折って、親がどんどん話していったのでは、子供は話を聴くことの意味をつかめないかもしれない。当たり前のように思えるかもしれないが、意外に難しいことである。しかも、この段階を経て、やっと双方向の情報交換ができるようになるのだ。一日中無言で子供と過ごす親や子供との会話が成立しない親、ちょっとしたことで違った雰囲気はできるはずだ。やっぱり、話すことは楽しいけど、聴くことはつらいというのではいけないな。
独り言として、日頃見聞きしたことを書きつづっている。何か特別な心がけを持っているわけではないし、ましてや「取材する」みたいな気持ちになったことはない。ただ、習慣的に周囲で起きていることを観察しているだけだ。このことの最たるものが、セミナー、勉強会などの集会での行動である。一般的にセミナーなどは一番前に講師が立ち、そこから講師に向かって席が並ぶという形になっている。ほとんどの場合、前のほうに座ることはなく、最後列に近い席を選ぶ。そこからなら講師のお話や内容をつかめるだけでなく、聴衆の雰囲気もつかめるからである。話を聴くだけならこんなことは必要ないことだが、講師と聴衆の間の意思交換を確かめるにはいちばん良い方法だと思う。
観察といえば、理科の観察日記など、小中学生だったころの夏休みの宿題でやったことを思いだす人も多いだろう。自然現象をただ眺めているだけでは、そこに何が起きているのかとか、その原因は何だろうかとか、そういった疑問が浮かんだり、その疑問に対する答えが見つかることはない。やはりその現象を様々な違った角度からじっくり眺め、時には手を出したりして、何が起こっているのかを確かめようとすること、それが観察である。当然同じことを見ていても、人それぞれ違ったことを感じるし、違った印象を持つ。その結果、原因などにも違った解釈が入る。それはそれで良いことなのだと思う。いろいろと違った主観的な解釈が集まり、それが一般的になれば客観的な解釈となるのだから。ここで重要なことは、目の前に起きていることをじっと観察することで、その場合もただ何も考えずに観察するというより、あれかな、これかななどと疑問をぶつけながら観察することが大切である。不思議に思いながら、色んなものを見てみると、結構楽しいこともある。こんな気持ちを持ちながら周囲を眺めていれば、身の回りに起きていることから色んなことが見えてくるのではないだろうか。大切なことは自分なりの観察で、人と同じであるかどうかは問題ではない。人と同じであることを思うがために生き生きとした観察ができなくなるのでは、本末転倒である。その後でみんなと何があったのかを話せば色んな観察を体験できるのだから。さて、今日はどちらへ観察に?
今日は珍しく昨日の続きみたいな話にしたい。自分のものと他人あるいは共有のものという話である。ずっと前から問題になっていたのだろうが、数年前新聞に取り上げられていた話で首都圏のある市立図書館で本の紛失があとをたたないとのことであった。二つの原因があって、借りたまま返されないものと貸し出し手続きをしないまま持ち出されたものである。どちらも悪質な場合は窃盗になるはずだが、当人はそんな意識を持っていないのかも知れない。そんなこんなで図書館にある本の話を少ししようと思う。
公立図書館の本は一部を覗いて税金で購入された地域住民共有の財産である。最近は利用者の希望を受けて人気のある本を購入していることもあり、かなり活用されているようだ。イギリスの魔法使いの学校を舞台にした映画の原作の翻訳本などひと月以上も待たなければならない状況であったらしい。これはこれで歓迎すべきことだが、一方で上で書いた状況も続いているようである。無断帯出ができないように出入り口に装置をつけるなどといった対策もとられ始めているようだが、かなりの経費が必要となり、それも税金で賄われる。知人から聞いた話だが、ある大学図書館では周囲に池を配しているという、理由は窓から外へ本を投げ出して持ち去るのを防ぐためとのことだ。ここまでしなければならないほど、共有の財産に対する意識が薄れて来ているのかと思わざるを得ない。一方で、これらの本の扱いに関しても非常識と思えることが多い。料理の本では、ページが切り取られていたり、歴史資料では、傍線が引かれていたり、なんと表現して良いのかわからないほどひどい仕打ちを受けている。コピーを取れば良いと安易に言うことは著作権の問題からできないが、書き写すなりのことは簡単にできるのに。先日もある博物館の特別展示で長蛇の列に並んでいた時、小雨が降り出し傘も無しでいると近くの人がその中でもなお本を読み続けていた。本が雨に濡れていけないのではと思いつつ眺めていたが、その本にある図書館のシールが貼ってあったのは、単なる偶然なのだろうか。
車を運転していると時々見かけるのが、灰皿の中身を道路に捨てたり、コンビニの袋ごとゴミを分離帯に捨てたりしている非常識な人達である。ああいう人達は自分たちの身の回りだけは綺麗にしているのだろうな、と想像しながらなぜだろうかと思ってしまう。最近は自分のものは大切に他人のものあるいは共同のものは粗末に扱うようになってきたのでは、と思うのはパンチだけだろうか?
ものと言うべきではないのかも知れないが、自らの会社を「自分の会社」と呼ぶ社長がいるらしい。確かに経営責任者として頂点に立っているわけだから会社を自分のものと考えるのも無理はないのかも知れないが、社員にとってはあまり気持ちの良いものではないらしい。創業者などは自分が始めた会社であるから自らの所有物のように思ってしまうのはある意味当然かも知れないが、そうでない社長がそう思うのは奇異に映るようである。自分のものだから何をしてもいいのだという考えが一般的なせいもあるのだろうが、そんなことをされたら自分の身の保証が得られないと自らのことを社員は心配するのだろう。自分対自分の戦いのようなものかも知れない。ただ、「自分の会社」と呼んでいる社長が総じて身勝手に経営にあたるわけではないし、そういう会社の社員がみな戦々恐々としながら業務にあたっているわけでもない。心理的にそんな印象を持つのだろうが、それが社員自らの考えの中から出てきているものとは気がつかないらしい。「他人の会社」と考えて雇われ社長だから自分がいるときだけうまくいけばいいと乱脈経営のつじつま合わせに専念する社長と「自分の会社」と考えてきちんと将来をも見通した経営にあたる社長とどちらを選ぶのかは明らかだが、これは単に会社を誰のものと思うかによるものではないということも当然明らかである。
このところ話題にしようと思っていたことを先取りされる傾向にあるらしい。昨日の話題もそうだが今日の話題もこんなのはどうかと思っていたら、昨晩のニュースで取り上げられてしまった。と言っても全く同じというわけではない。星に関することを、と思っていたら、ハワイの望遠鏡「すばる」に高感度ハイビジョンカメラを取り付けて銀河系外宇宙の撮影をしたもので、ここで取り上げようと思っていたのはプラネタリウムの話だったのだから。
自分が生まれ育った街には市立の科学博物館があり、小学校の頃は良く行ったものだ。基本的には小中学生を対象に設けられた施設なので、展示も分かり易く理科全般にわたって興味を持ち易くする工夫がなされていた。と言っても、どちらかといえば物理、化学、地学といった分野のことで、生物系の展示は少なかったように記憶している。そういう展示と並んでこの施設の目玉となっていたのはプラネタリウムである。現在では多くの都市にプラネタリウムがあり、それほど珍しいものでもないのだろうが、40年近く前ともなるとあまり多くはなかったのだと思う。目玉となっていたのは珍しいからというだけではなく、見せている星の映像に付けていたコメントの素晴らしさだった。市の教育委員会の管轄だから担当していた方はたぶん教員の経験を持っていたのだろうが、その軽妙な語り口は子供達だけでなく大人達をも引き込んでいくものだった。星座の解説をしたり星の姿を見せるのがプラネタリウムの役目と言われていたところに、面白おかしい話を付け加えながら物語を作り上げていくという新しい形のプラネタリウム展示を始めたという功績は大きいと思う。その証拠に、ここには全国津々浦々の施設の方が見学に訪れていたようである。冷たい星空を温かい語り口で紹介することは、興味を持たせるためにはとても大切なことで、身近なことも含めてそういう姿勢が重要であることを改めて思い出させてくれる。
今日の話題は本にしようと決めて、ラジオを聴いていたら偶然読書の話題になっていた。ゲストは心理学者の河合隼雄さんである。読書の楽しみといった内容だったが、こちらはちょっと苦しみみたいな話になるのだろうか。小学生の頃は児童文学云々といったものを良く読んだような記憶がある。しかし中学、高校とほとんど本を読んだ記憶がない。読書感想文に関わることで読んだ数冊の本だけなのではないか。興味を失っていたのかなんなのか理由はさっぱり思い浮かばない。ほんの数年前から出張などの機会が増え、それを期に読み始めたような気がする。
本を読むこと自体は楽しいことだと思う。誰からも強制されない限り無理をせず自分のペースでこなしていけることだし、色々と印象に残ることがそこに書いてあるからだ。しかし、時には印象に残るようなことが色々と問題をうむことがある。最近もピアニストの中村紘子さんのエッセイを読んでいたのだが、吸い込まれていくような魅力を持った文章である。テーマにも彼女特有のものがあるし、その書き方が上手いのである。これは夫の影響かとも思ったがどうもそうではないらしい。天は二物を与えたのかなどとおっしゃる方もいる。そんな楽しいエッセイを読んでいて何が苦しいのだろうかと不思議に思われるかも知れないが、いやはや文章を書くことが嫌になったりするのである。人それぞれものを書く力というのは違うのが当たり前で、それを気にするのはおかしいのかも知れないが、やっぱり気になる。世の中にはそういう力を鍛える教室なるものもあるようだが、努力でどうにかなれば苦労はしない。文章を練りにねって書き上げるという作業をすればまた違うのかも知れないけれども、そういう手順を踏まない人には無理である。まあ、こちらはもっと酷く、努力する気もないのであるが。
車での移動が多いのでその間にできることはと考えたりする。一番手っ取り早いのは、カーステレオで音楽を聴くか、ラジオを聴くかといったところだろうか。音楽を聴くのもカセットを使えば同じ曲ばかりになるので、どちらかといえばラジオを聴くことの方が多くなる。それも音楽番組を聴くより、トーク番組のほうがいろんな楽しみがあって、あきないから良い。そうは言っても気楽に聴けるものとそうでないものがあるのは、やはり司会者との相性というべきなのだろうか。
以前は車での通勤に30分ほどかかっていて、夜帰る時はほとんど真夜中だったので、普段からNHK第一放送にセットしてあるラジオをつけると「ラジオ深夜便」なる番組をやっており、それを聴くのが日課のようなものだった。これを読んでいる人達はほとんど聴いたことがないだろうが、夜11時過ぎから始まり、ニュースなどを挟みながら朝5時まで一人のアンカーが番組の進行に当たるものである。内容は、国内の地方の便り、海外の話題、朗読、有識者の意見など様々だが、多くの方が聴いているようである。特に多いのは、中高年層らしく、お便りもそういった方からのものが多い。朗読のコーナーでは以前どこかで紹介したことのある「二人で紡いだ物語」も放送されていたようだが、この時間ではなくお昼前に放送されたものを聴いた。月に何度かアンカー達が地方都市を回って講演会みたいなものを企画するなど、情報を送る側と受ける側のつながりが非常に強いものになっているという印象がある。年をとると早寝早起きになると思っていたが、実際には眠りが浅くなるためにこういった番組をうつらうつらとしながら聴くのが楽しみなのだそうだ。単なる流行りだけを追いかけるのではなく、こういう企画をするというのは面白いし、やはりそういうものほど定着するというのもなんとなく頷ける話である。