パンチの独り言

(2002年5月6日〜5月12日)
(自由と責任、奥の院、フィンチの嘴、借金がないと、ラジオの復権、返本、私は誰)



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5月12日(日)−私は誰

 留守にしていたときに郵便小包や宅配便の配達があり、郵便局や営業所に取りに行ったことがあるだろうか。その際に本人であることを確認する書類の提出を求められることが多い。ほとんどの人は運転免許証を持っているので問題がないが、免許を持っていない人は健康保険証などを提示するらしい。ただこういった書類には写真がついていないので本人確認ができるわけではなく、時には悪用されることもあるようだ。
 日本で本人であるかを確認することは日常生活ではほとんど起きない。上で書いたことや行ったことのない郵便局で貯金引き出し手続きをしたときなどに起きる程度である。だから、というわけでもないのだろうが、写真付の身分証明書の必要性を感じている人は少ないかも知れない。しかし、国によっては日常的に必要になることがある。現金での支払いではなく小切手での支払いが日常化している国の場合だ。小切手を切るたびに本人であるかどうかを確認される。その際に必要になるのは写真付の身分証明書である。それも公的機関から発行されたものだから、運転免許証のようなものに限られる。しかし、そんな世の中でも運転しない人がいるわけで免許証を持っていない人もいる。ではその人たちは小切手を使うことができないのかというとそうではない。実は運転免許証を発行する機関が身分証明書なるものを発行してくれるのだ、それも写真付である。このシステムのことを知ったときに、日本でも同じことをすればいいのにと思ったものである。そうすれば健康保険証、印鑑、預金通帳を盗まれて預金が引き出されてしまう危険性が少しは減るだろうになどと。一方でかの国では店で小切手を使う際の証明には免許証だけでは不十分で、もう一つ提示を求められることがほとんどだ。パスポートは外国の機関が発行したものだから不十分、一般にはクレジットカードの提示を求められる。カードを持たない人間には自分の口座にお金があったとしても小切手を使うことが許されないのである。合理的なところもあるが、その一方でなんとも不条理なシステムではないか。

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5月11日(土)−返本

 本を読むのが好きなのかと聞かれたらたぶんそれほどでもないと答えると思う。ある時期を境にまとまった時間がとれるようになったのでそれを読書に充てているだけである。他にすることができると本の方には手が伸びなくなる。しかし、読むペースとは無関係に新しく出た本などを買い込むため、自ずと積み荷が増えて来てあまりいい気はしない。
 本を買うときに書評で話題になったものを探すこともあるが、大体は書店でパラパラめくって決める。最近のように多くの本が出版されている状況では一部で話題になっている本を探すのも難しいからである。まあよほどの場合は注文を出すが、文字通りよほどの場合だけである。そういえば最近いたる所に大型の古書店を見かけるようになった。元々1000円ほどする本が100円で売られるのだから魅力的だ。ただ、そういう店で買うのはなるべく控えている。著者への印税のことなど気になることが多いからだ。とはいえ、学生や子供のように使えるお金が少ない人達にはありがたいことだと思う。それに本のリサイクルと考えれば良いシステムと言えるだろう。ただ気になることを言う人がいた。時々、古書と新刊の両方を取り扱う店があるそうなのだが、こういう店から出版社に返本がある。当然新刊の返本だが、中には本に挟んである栞のような注文票が無いものなども含まれているそうだ。出版社は詳しく調べられないので返本に応じるそうだが、綺麗な古本なのかも知れないということだ。流通のシステムが複雑なためにそれぞれの本の追跡を行えないのが調査不十分の原因だそうだ。最近色んなところで詐欺的な行為で収益を出そうとする会社の話を聞いていたので、何だか世の中ねじ曲がってしまったのかな、と思いながら聞いていた。

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5月10日(金)−ラジオの復権

 昨日は国会中継があったのでつまらないやり取りを聴くよりも他愛のないトークと音楽のFM放送に切り替えたのだが、普段はほとんどNHK第一放送を聴いている。ドライブ中は本を読んだりじっくりと考え事をしたりできないので、ラジオを聴きながらその話題について少し考えることで集中力を散漫させるようにしている。
 注意力の散漫は運転の妨げになるのではないか、ひょっとして危ないのではないか、と心配するむきもあるかも知れないが、一つのことに集中しすぎるのは却って危険なことを招くと思う。まあ人それぞれだと思うが、時々違う方向に注意を払ったり、前を走る車にばかり目が行くのを防ぐ意味で効果があるのではないか、などと勝手に思っている。専門家から見ればなんと的外れなと思われるのかも知れないが。ラジオは少なくとも目の集中を必要としないので、普段の生活でも「ながら」をしている方が多いのではないだろうか。観ることに比べると聴くことははるかに少ない集中力である程度の情報を手に入れることができるからだと思う。特に、言葉などは上手くイメージに繋げられれば強い記憶となって残るので、後で色々と調べることもできる。活字での情報ほどの量を処理することはできないが、鍵となる言葉を残すことができるからだ。それにもっと詳しく知りたいときに活字などの情報へアクセスすればいい。音による情報処理をもっと活用する方法を考えればと、また新たな手段として復権を望むところなのだがどうであろうか。でも、うるさすぎるのは困るという声も、まあ色んな場合があるけれど。

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5月9日(木)−借金がないと

 財布の中身を見ているとお札の枚数は大したことないのに、カードはやたらとある。最近はバス、鉄道のカードを始め、何でもカード化している。割得なものもあれば、単に便利なだけのものもある。一方、これまた多いのがクレジットカードである。こちらは分厚いので嵩張るが、なぜだか多種類持っている人が多い。
 クレジットカードを申請して断られた人は少ないのではないか。要件としては、定職に就くなど色々とあるのだろうが、まず問題なく受理されていると思う。それほど柔軟なシステムであるがために、かえって使用後問題を起こすことも多々あるようだ。この国ではほとんどの申請は受理されるが、システムの発祥の地とも言えるある国ではそれほど簡単ではない。定職に就くだけでは不十分と見なされるのである。重要なことの一つは借金の履歴である。クレジットは当然借金の一種であるから、借りたお金を返すことが最重要な作業となる。つまり何らかの形で借金をしてそれを返済した履歴があれば、その人にはクレジットカードを持つ資格があるという論理だ。この話を聞いてはたと考えたのは、始めの借金をどうやったらいいのだろうか ということである。家を買う、車を買う、そういう形でローンを組めばいいのだが、その予定が無ければできない。多くの場合家族会員から始めて、そこから独立する形をとるため問題にならないのだが、それができない人達にはなんとも理不尽なシステムである。さらにその国ではクレジットカードがないと信用されないという事情もある。カードを手に入れるために借金をするというのは何だか変な気がしたものだ。やっぱり借金が盛んな国では何事もインフレ傾向にないといけないのかな、などと関係ないことまで思いつつ。

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5月8日(水)−フィンチの嘴

 今朝鶯が鳴いていた、今にも雨が降りそうな雲行きだったが、結局降り出してしまったようだ。鳥の声で思い出した話がある。昔読んだ本なのだが今手元に無いので思い出しながら書いてみる。だから記憶違いのところがあるかも知れないが、そこのところは寛容に願いたい。
 鳥の話と言っても、ガラパゴス島のダーウィンフィンチのことである。その名前から察せられる通り、かのダーウィンが進化論を打ち立てるきっかけになった鳥である。本の題名は「フィンチの嘴」、ジャーナリストの著した本だが進化学者夫妻のガラパゴス諸島での調査の経過をまとめたものである。フィンチには数種類あって食性などの違いから分類されている。これらは一見厳然たる違いのように見えるが、天候に恵まれた年に体や嘴の大きさなどに区別の付かないものが現れた。食べ物が多く競争が起きなかったためらしく、次の年に干ばつが続くと適正サイズから外れた個体は姿を消した。この現象は適応を良く表すとともにそれぞれの種が普段観られるよりも幅広い体型分布の潜在能力を持つことを示していて面白いと思った。ところで進化と書いたが、英語ではevolutionであり、必ずしもより良くなるわけではないから変化とすべきであるとおっしゃったのは数年前に亡くなられた遺伝学者の大野乾(すすむ)さんである。日本では進化という言葉で紹介されてしまったがためにある誤解を生んだと言われている。フィンチの話は以前お話した「ぼけ」のことに繋がるのかも知れない。最適化するだけの能力を持つ生物種はこういう変化に対応できず絶滅する危険性をもつが、現在生き残っている生き物はある程度の適応に留めることによって変化に対応する能力を失わないようにしている。平均を好む日本人はなんでも分布の中心にいることを望んでいるようだが、もとの分布は思っている以上に広いものかも知れない。違いがあるのが当たり前、と考えれば色んなことが楽になるのだろうが。

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5月7日(火)−奥の院

 連休が明けて何となく本調子が出ていない人もいるのではないだろうか。ほんの数日のこととて、慌てて色んなところへ旅行すれば当然ペースも狂うだろうし、たまった疲労を回復する暇もなかったのかも知れない。まあ、楽しいことをしてストレス解消になったとしたら、肉体的な疲労はさておき精神的な疲労が軽減されたのだから良しとすべきか。
 旅行と言っても近場で済ませた人も多いのだろう。神社仏閣などもちょうど良い花の季節で牡丹、石楠花、躑躅等々咲き乱れて美しく、また林の中にあるので森林浴の効果もあるのかも知れない。ちょっと変わっていると思うが、こういうところへ行くと気になることの一つに奥の院がある。気になりつつも面倒で訪れないことも多いが、たとえば日光東照宮では「眠り猫」の下をくぐり抜けて杉林の中の石段を延々と上がったところにあるし、数年前の台風で被害を受けた五重の塔で有名な寺も塔の脇を抜けて急峻な石段を上がったところに舞台がある。いずれも奥と言われるだけあって、いい運動になる程度のところにあり、寺の場合などやはり修業のためなのかなと思えてしまう。今は車ですぐ近くの駐車場まで行けるから大したことはないが、その昔はこういう神社や寺に向うだけでかなりの道のりを歩いたわけだから、さらにその上となれば厳しいものだったのだろう。しかし山奥にあるものならまだしも、里に近い寺などでは奥の院のすぐ裏が住宅地だったりして何とも拍子抜けしてしまうこともある。でもまあ、そういう落胆もあるけれど、坂道を歩くことは気持ちの良いものだ。たまにはいい空気を吸いに出かけてみるのはいかが。

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5月6日(月)−自由と責任

 独り言ならではの戯言を一つ。ゆとりの教育と言われて久しいがその目的は自由な発想、自由な行動を促すためであるという。これは日本人には自由な発想がなくて、発見・発明の能力が劣っているという思い込みのせいらしい。それ以来、「自由」は魅力的な言葉として教育現場で切り札のように使われてきた。しかし、どうも歪んだ形で表に出されたような気がしてならない。
 自由とは人からの指図やら干渉やらを受けずに自分の思ったことを自分の思ったようにやることである、ということに反対する人はいないと思う。ただ、ここに何らかの但し書きを付け加えないと、自分勝手で独りよがりの行動をするという意味になってしまう。では、上で書いたことだけでは何が足りないのだろうか。行動を起こすまでの段階では、これで十分だと思われるが、いざ行動を起こした後はどうだろうか。自分の思ったことを実行したときに何かが間違ったことが起きたらどうだろうか。また何も起きなくて失敗したときはどうだろうか。どちらにしても、うまく始末をつけておけばよほどのことがない限り問題にはならない。しかし、自分なりに始末をつけたつもりになっていても、それが他人から見て不十分となれば問題となってくることがある。こんな書き方をすると分かりにくいと言われそうだが、つまり何かやるときには自分の思い通り勝手にやるが、うまく行かないと誰かに始末してもらうということだ。やるのは自由であり、責任もとらない。どこかで見聞きしたことがあるのかも知れないが、パンチはこういう状況を周囲でよく見るようになってきた。若い世代に多いような印象もあるが、老若男女を問わず、かも知れない。そういう意味では教育現場だけに責任を押し付けることはできないのだろう。でも、このことは自由に、自由に、を強調するあまり、もう一つの大事なことをどこかに忘れてきてしまったことを示していないだろうか。

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