パンチの独り言

(2002年5月13日〜5月19日)
(三つ子の魂、目も口も、客観は主観、情報氾濫、苦手な英語、親切の押売り、青い薔薇)



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5月19日(日)−青い薔薇

 鬱陶しい天気が続いている。すっかり梅雨の様相だが、宣言はまだのようである。ラジオで伝えていたが、昭和38年には東京で5月6日に梅雨入りしたという記録があるそうだ。そんなに早くと思うと同時に予報官の決断に感心した。桜の開花予想などに比べると直接的影響は少ないとはいえ、やはり面目を保つためには外せないことなのだろうから。
 桜はバラ科なのだが、薔薇といえばどの町にもバラ園があるのではないか。公営の施設であったり、私営の施設であったりするが、どこも沢山の品種を揃えて、大輪、蔓性、矮性などの性質や赤、黄、白、紫などの様々な色、そして香りを楽しむことができるようにしている。大学時代にも近くの市営のバラ園によく散歩に出かけた。そこはピース、スーパースター、ブルームーンなどのポピュラーな品種が多かったが、傾斜地を利用して植えられていて、中々見事だった。今でも当然のことながら品種改良は行われているが、以前のような交配だけでなくいわゆる遺伝子組み換えなどといった技術も導入されているようだ。特に花の色に関しては、青い薔薇は長年の夢でもあり、そのために様々な人々が工夫を重ねてきた。しかし青の色素は薔薇の花には含まれていないので、交配だけで作ることはできない。上に紹介したブルームーンもブルーと名付けられているが、実は薄紫の花である。そこで登場したのが青い花を咲かせる植物からその色素を作り出す遺伝子を取りだし、薔薇に導入しようというものである。実際にどこまで可能になったのかは知らないが、現在も研究が進んでいると思う。穀物などでは遺伝子組み換えを忌み嫌う傾向も見られるが、観賞用植物においては果してどうなのだろうか。自然の生態系を乱すという意味では同じことのはずだが、どうも矛先は向いていない気がする。まあ、ああいう活動において何が重要なのかはよくわからないのだが。

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5月18日(土)−親切の押売り

 外務省は今集中砲火を浴びているようだが、報道されていることが事実なら止むを得ないことだろう。それにしてもあそこは典型的なお役所だと思ったことが数回ある。一度はパスポート盗難の問題、もう一度は名前の表記である。旅行先でパスポートを紛失すると、帰国専用しか発行しないので、別の国を訪問することができない。緊急事態という理由だが、例外もある。この話は次の機会にゆずるとして、今回は名前の表記の問題を取り上げる。
 パスポートは国際通用が条件だから日本人の名前も漢字だけでなく、アルファベットで表記しなければならない。当然、音に合わせた表記のため小学校で習ったローマ字を使う。しかし、そこで問題になることがある。「お」の音が日本語では延ばしたり、延ばさなかったりする場合があるからだ。「おお」となったり、「おう」となったり、仮名を振ってもややこしいが、ローマ字ではOの上に棒を付けて表わす。ただこれは英語のアルファベットには無い表記なのでパスポートに使用できない。そこで使われるのがヘボン式である。ヘボンが日本語の音に合わせて作った綴りで、大抵の場合は問題なく使える。しかし「お」の場合、そうはいかない。「お」、「おお」、「おう」、全てがOと表記されるからだ。小野と大野はどちらもONOである。これは問題だと思うが、外務省はヘボン式の使用しか認めていない。頭の悪い国民のために正式なものを制定したので、それを使用せよと言いたげなのである。押し付けがましいとしか思えない。数年前、先日移植手術を受けた大臣が指摘したことから見直しが図られたがその後どうなったのかわからない。その時も自分の名前の表記に拘ったものだからOHの使用を認めよというものだったらしい。統一すべきという考えも一理あるが、一方で色んな綴りがあっても良いという考えもある。いずれにしても、こういうやり取りを観るたびに、井の中の蛙と思えてしまう人々である。

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5月17日(金)−苦手な英語

 今日は連日の堅い話にしようか少しは柔らかい話にしようか迷ったが、少し柔らかい話にしてみよう。外国へ旅行する度にその土地の言葉が話せればなあと思う。ドイツではドイツ語、イタリアではイタリア語、メキシコではスペイン語といった具合である。しかし努力する気がないので可能性はゼロである。電車に乗ったり、町中を歩いたりする時にはやはり土地の言葉がわからないと苦労することがあるが、ホテルでは英語が通じるので不自由しないし、電車も車掌はほとんど英語を話せるので問題ない。
 イタリアに行った時、ホテルのフロントでアメリカ人旅行者が従業員を相手に何カ国語話せるのか聞いていた。確かその時の回答は仏、西、葡、独、英語の五カ国語だったと思う。アメリカ人はため息まじりに自分達は英語しか話せない、スペイン語は高校の時に習ったがさっぱりだと言っていた。でもこういうことを言う人ほど外国語を習得する気が無いようである。何度でも、何処ででも、同じことを繰り返しているらしい。アメリカ人でもスペイン語、フランス語、ドイツ語を話す人たちに出会ったことはあるが、比較的少ない。やはり英語が国際語と思っているからだろう。この旅行の時にスイスのルガノ湖へ行った。ここは古い木造建築物で有名なところだが、それが火災で焼け落ちる前だったと思う。イタリア人の人なつっこさに比べると、スイス人はこちらを警戒しながら眺めているので少し参ってしまったが、ある朝湖の畔を散歩していたら、釣り人らしい老人に出会った。こちらが子供を連れていたせいもあり、ちょっとだけ話をしている時にやはり何カ国語話せるのかという話になった。彼曰く、スイス語(独語、仏語)、仏語、独語、伊語、う〜ん、という具合で、やはり多くの言葉を話せることがわかった。やはり多くの国に囲まれた土地柄ということもあるのだろう、いろんな人々の行き来もある。しかし、肝心なのが出て来ないな、と思いつつ、はて、私達は何語で話していたんだろうか、と考えてしまった。

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5月16日(木)−情報氾濫

 堅い話で恐縮だが昨日の続きである。主観と客観、区別はどうなのかという話だったが、ちょっと違った視点からの話をしてみようと思う。以前にも出てきた何が正しいのか、と関係がある。たとえ話ではあるが、落語でよく出てくる熊さんと八さんの話に仕立ててみよう。そのまま台詞を書くわけにはいかないから、彼らのやり取りを想像しながら読んで欲しい。
 ある日ある道端に行き倒れがいて、それを熊さん、八さんそれぞれの知り合いが見かけて彼らにその話をしたという想定である。彼らはいつものごとく大家さんのところへ話しに行く。行き倒れは男で、身なりもよかったというところまでは同じ内容だ。しかし着物の色は青と赤、あまりにも違う。おたがい自分で見たわけではないのでどっちが正しいかわからない。しかし知り合いのことを信じているから言い争いになる。こんなことは良くある話だ。着物の色も青と赤なら、見ただけで区別がつくからどちらかが間違っているのだろうが、着物と言っているだけではわからないとも言える。不十分な情報では何とも言えないが、これは行き倒れを見に行けばわかりそうなことだ。しかし、次に背の高さの話になったときにはそうもいかない。片方が低いと言い、もう片方は高いと言う。どちらが正しいのか、比較の問題だからそれぞれの人たちの基準による。数値で言っているわけではないから、元々何とも言えないものだ。落語の流れで話を書けるほどではないので、どんな雰囲気なのかは想像してもらうとして、情報というものはこんなものである。間違った形で伝えられてしまうもの、人それぞれの異なる判断によるもの、その他様々だ。情報が氾濫している社会では色んな角度から捉えられたものを集めて判断する必要が出てくる。情報操作に振り回されない判断力を鍛えなければ。

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5月15日(水)−客観は主観

 日常の会話ではほとんど出てこないけれども、会議や公の場などにおいては、意見の正当性を論じる場合に客観性を主張することが多い。その意見が主観的でなく客観的に見て、正しいとか妥当であるとかいった場合だ。客観と聞いた途端に何となくまともなものに思えてしまうのは不思議だが、だからこそ切り札のように使われることが多い。
 しかし、最近はどうもそうでもないことも多い。客観とは何か、誰がどう見たものなのか、そういう考え方の拠り所となる部分があやふやになり始めたからだ。元々主観というものはそれぞれ個人の持つものであるから何を指しているのかはっきりしている。しかし、客観とは一般的に見てとか、大多数の人が見てとかいう形で捉えられているのでどうも実体がはっきり見えてこない。そういう背景から一般にも客観というものは存在せず、単に主観の集まりという考えが紹介されるようになった。つまり、一人ひとりの考えが主観としてそこにあり、それが寄せ集められたときにある考えが集団の大多数を占める場合それを客観とみなすというものである。こう解釈すれば客観とは自分の考えとは違う何かかも知れないという不安を抱かずに、自分の考えをも含めた形で考えられ議論しやすくなるので都合がいいらしい。となれば、敢えて「客観」などと言わずに、いわゆる「主観」の集まりとしてどんな意見があるかとすればいい。得体の知れないものを恐々扱う必要がなくなるわけだ。一方、国家などが客観的に見てという文言を使う場合、はたしてこれはと思うのは無理もないことである。政府という存在があって、そこから出てくるものに客観という言葉を使われても何を意味しているのかわからなくなるからだ。時代の流れはそこまで達していないのかも知れない。

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5月14日(火)−目も口も

 日本人は顔の表情が変わらないと言われる。はい、いいえの返事とともに出てくる表情は返事の曖昧さに輪をかけたように曖昧に見えるらしい。欧米人はそれに比べると表情豊かであると言われる。ではアジア系の人々はと思って周囲を眺めてみると、意外に感情を露にする人たちが多い。こんなことから表情の無さは日本の風土によるものかと思ってしまう。
 では日本人は皆表情の変化がないかというととんでもないことである。たとえば国会中継などを見ればすぐにわかるように、表情一つ変えずに質疑応答する人もいれば、興奮しているかの如くの人もいる。日本人だから、などと言えない状況であるのは明白だ。しかし、どうも総じて考えるとそれほど豊かでないことも否めない。なぜこんなことを取り上げたのかと言うと、実はパンチ自身が外国人から顔の表現のことをよく言われるからである。お前の顔はよく動くとか、なぜそんなに目でものを言うのだとか、その顔はあいつの前ではしないほうがいいとか、まあ色々と言われる。声の大きさだけでなく、目でも相手を威圧しようとしていると思われているらしい。それが本当かどうかまあ会ってみればわかるとして、そういう表現方法も重要なのではないかと思っている。だからといって何か訓練して、などと思ったことはないが、言葉で足りないところを補う意味での表情の変化というのは重要な因子ではなかろうか。せっかく相手と対面して話をしているのだから、文字や音声だけでは伝えられないようなニュアンスを伝えられればいいのだと思う。だからといって鏡を見て練習するなどという必要はないけれど。

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5月13日(月)−三つ子の魂

 以前、関東方面に住んでいたときよく高速バスに乗った。鉄道の駅まで離れているのと、それに乗ったとしても上野までしか行かないからである。数年後には鉄道が開通して便利になるとのことだが、このご時世にどうだろうか。大量輸送の手段としての鉄道の意味は廃止された路線のその後を見ればよくわかるが、初期投資、維持費を考えると難しいことも多い。
 バスはその点路線にかける経費もなく、ただ車両と運転手などの調達だけだからずっと気軽なものである。九州では高速道路の整備とともに、高速バスが盛んに利用されるようになっている。そんな気軽さに加えて高速バスではすべての乗客の着席が条件になるので、体への負担も少なくなる。また子供を椅子に座らせればいいので、よく子供連れが利用している。ただ、狭い車内での子供の行動には時々だか辟易したことがあった。大きな声を上げて騒ぐのである。親は素知らぬ顔でいたり、隣の友人と話をしたりしている。あまりにも酷いのでたまに注意することがあったが、この時の親の台詞で呆れるものがあった。「ほら、おじさんに怒られたでしょ。」てな具合である。他人に怒られるからやってはいけないと言わず、ご自分で注意しなさいとまで言ったこともあるが、「運転手さんに怒られるから」という台詞もよく使われるようである。悪いかどうかを自分で判断できない親、という印象を子供に与えるだけなのではないかとも思った。そんなことを気にしてもしょうがないという向きもあるだろうが、三歳程度までの躾けが一生に影響を与えるとも言われていることを考えると、大したことないとは思えないのだが。

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