先週の日曜日には鬱陶しい天気のことを話題にしていたが、今日はとても良い天気で蒸し暑ささえ感じられる。関東以北では寒気の流れ込みで大気が不安定になり夕立が見られるようだが、これもそろそろ夏が近いことを感じさせてくれる。
暑くなってからかかると困る病気に風邪がある。寒い時期ならば、温かくしてじっと耐えることもできるが、暑いとそうもいかない。冷房もかけられないし、体温調節もうまくいかず、中々治らなくて厄介である。ところで、風邪や腹痛などの軽い病気のときに薬を服用するかは人によるらしい。ある意味、薬好きの人と薬嫌いな人がいるようだ。確かに病気になると体のバランスが崩れて、熱が出たり痛みや疲れを感じたりする。これらの症状を和らげるために薬に頼る人とそうでない人がいると言うべきだろうか。もっと重い病気にかかると、当然医者に行き、薬を処方してもらう。薬を飲むことは崩れたバランスを戻すための処置だから、体にとって色んな副作用を及ぼすことも多い。そう考えると薬は薬でもあり毒でもあると言えるのかも知れない。まあ、一時的な治療で済めばさほどの影響も残らないのだろうが、慢性的なものになるとそうはいかない。たとえば皮膚疾患はその典型で、ステロイド剤の服用は上手くやらないと副作用の方が強く出てしまう。薬とはバランスを保つためのものというより、それをずらすためのものと考えたほうが良いのかも知れない。山のように薬を処方されることは少なくなったとはいえ、何かあると色んな薬を出されるのも困ったものである。
注意散漫、キョロキョロするなどと子供の頃に言われたことはないだろうか。最近はもう少し過激な行動に出る子供もいるらしく、多動症という病名まである。本当に病気と言えるかどうかはっきりしないが、治療薬まで投与するのを見るとかなり深刻な状況のようだ。
病気と聞くとそれだけで悪いものと考え勝ちだが、注意散漫やキョロキョロする行動がそのまま害のあるものと考えるのはどうだろうか。確かに小学校の授業中に前を向かなかったり、隣の子と話していれば、先生の話を聞いていないし、隣の子にも迷惑だろう。でもそれでも先生の話を聞いている子もいるし、他に興味が湧いてそちらに集中しているのかも知れない。確かに迷惑の程度にもよるが、ちょっとしたことは大目に見て欲しいものだ。というのも、色んなことに興味を抱くことの大切さを理解して欲しいからである。あれはなにとか、なぜだろうとか、そういう疑問を持つことの大切さを無視しないで欲しい。同じものを見ても人それぞれ受け取り方は色々で、更にそこから浮かぶ疑問も色々である。そういう違いがあることは重要だし、それぞれが違う疑問を持つことによって、色んなことが解決する場合も多い。先日もテレビでドキュメンタリーを放映していたが、それを見ながらあれっと思い、あの親子は大丈夫なのかなと思っていた。その後の経緯までが報道されて、ああやっぱりと思ったのだが、人によってはそんなことは思わず素直に感動していたのだと思う。無理にねじ曲った見方をする必要はなく、ただ自分の素直な気持ちで物事を見れば良いのだから特別なことではなく、少しの違いはたぶんそこに「何故」という気持ちが入るかどうかなのだと思う。釣りの名人の特徴は挙動不審だそうだ、何しろ周囲の変化を掴み取ろうとキョロキョロしていて、傍目にはどうにも不審者にしか見えないのだとか。やっぱり、こういう不審者は大目に見てあげないと。
ドライブ中に造成地や河原を眺めていると見慣れない花が咲いているのに気がつく。オレンジ色の花を咲かせるキク科の植物のようだが、はて何だろうかと思う。在来種であれば見たことがあるはずなのに、そうでないとすると外来種なのだろうか、などと考えながら車を走らせる。
外来植物といえば、もう30年ほど前になるだろうか、セイタカアワダチソウやブタクサが話題になったことがある。当時、花粉に対するアレルギーが問題になり始めた頃でもあり、ブタクサは特に悪者扱いされていた。今考えると、あれはスギ花粉のアレルギーだったのかも知れないのだが。一方、セイタカアワダチソウは宅地造成が盛んに行われている時代だったので、造成地にどっとはびこり小さな黄色い花を咲かせていた。荒れ地といえば日本の在来植物ではススキが筆頭に上げられるだろうが、その植生を乱し駆逐するかの勢いで勢力を伸ばしていた。このままではススキが無くなってしまうのではないかと心配する向きもあったが、最近の具合を見るとどうもそうでもないらしい。セイタカアワダチソウには一時の勢いがなくなり、ススキが盛り返しているようだ。人間が管理して以前の植生に戻すなどという提案がなされた時期もあったが、実際には自然の力でバランスがとれてしまったようである。生態系を乱すと話題になっているものには他にも魚の外来種ブラックバスなどがあるが、こちらも今度どうなっていくのか。まあ自分の愉しみのために力を注いでいる人たちがいるのは自然のバランスとは別の次元の話なのだろうが。
レコードを聴かなくなってからどのくらい経つのだろう。小さい頃は家にあったドーナツ盤でクラシックの小品などを聴いていたようだが、曲に合わせて踊っていたとの噂もあり、クラシック好きはこの辺りから始まったのかも知れない。その後は母の持っていたSP盤を回したり、新しいステレオが入るとLP盤を買って聴いていた。
大学入学後は友人の下宿に行って聴かせてもらったくらいで、帰郷するとき以外はレコードを聴くこともなくなった。それでも自分のステレオを購入するとまたちょっと聴いていたように思う。でもそれっきりである、最近までCDも聴いていなかった。ラジオから時々流れてくるもので十分だと思っていたのかも知れない。去年あるところで指揮者のM.I.さんとお会いした。50代半ばであろうか、注目され始めたときには不思議な雰囲気を漂わせていたが、この頃は外に向ってくる厳しさが感じられる方である。その時話題になったのが、昔聴いていたレコードの曲と今聴いているCDの曲の違いである。ハイフェッツが演奏したベートーベンのバイオリン協奏曲なのだが、生前の録音は全てレコードに残されたものでCDはそこから作られたものである。レコードは父が昔購入したものを聴いていて、CDはその後自分で買って聴いた。パンチは違うときの演奏だと申し上げたのだが、彼に言わせるとひょっとしたら同じものかも知れないとのこと。確かにそれほど沢山の演奏が録音されているわけではないので、その可能性は十分に考えられる。でもどう聴いても違ったテンポなんだが、と思いながらお話していた次第。ちなみに同じかどうかは確かめていない。レコードの音の豊かさが再認識されているがわかる人にはわかるということだろうか。
何ともはや唐突な始まりだが、エイリアンという映画を覚えているだろうか。シガニー・ウィーバー主演の気持ちの悪い地球外生物が出てくるものである。全部で4作だか5作だか作られたと思うが、やはり一作目がインパクトが一番強く印象に残った。本当にあんな生物に出遭ったらどうするのだろうかなどと考えながら。
alienという英単語には映画で使われたような異星生物という意味があるが、SFでの話であって現実には確認されていないものである。実生活で使われるものとしては、外国人という意味があり、こちらの方をよく目にする。たとえば不法入国した外国人のことをillegal alienと呼び、テレビのニュースなどでしばしば話題になる。当然合法的に滞在している外国人に対してもalienという呼称が使われ、書類上もこれが使われている。映画「エイリアン」が初めて上演されたのが1979年でどちらかというとそのイメージが定着していたために、80年代前半に米国に入国した人たちはalienと呼ばれることにかなりの違和感を持ったようである。外国人といえばforeignerという単語を使うと思っていたところへ、まるでどこかの怪物みたいに呼ばれるのだから仕方のないところだろう。実際には公式にもalienの方がよく使われるようだから、こちらの認識不足といえばその通りである。とにかくどの国でも外国人の扱いはその土地の人と同じというわけにはいかず、米国でも様々な問題が起きていた。日本で指紋押捺問題が起きたときに、別の事情があるとはいえそのこと自体が間違っているように思えなかったのは、そんな事情からなのかも知れない。
子供の数が減り続けている。夫婦一組あたりの子供の数を論じても兄弟姉妹の数とは言えないし、女性一人あたりの数となるともっと訳がわからなくなる。以前も話題として取り上げたが、問題となるのは子供がいる家族における数、つまり姉妹兄弟が何人いるかである。
昔は兄弟姉妹が何人もいて、親が忙しくて面倒を見られないときでも上の子が色々と世話をすることができた。それで子育ての悩みも比較的少なく、何とか無事に育っていくことが多かった。それに比べると最近は子供のいる家庭でも一人かせいぜい二人であり、上の子が面倒を見てというより、親が様々な場面で世話をすることが多くなっている。そのため、色んなことが気になるようになり、結局子育て相談なるものが必要になっているのだそうだ。確かに親の気配りが行き届いた環境で育つことはある意味幸せなことであり、愛情を一杯に受けて育った子供は他人に対する優しさを持つ大人になっていくと思う。ただ一方で、必ずしもそうならないのも事実である。親の存在が非常に大きくなるがために、場合によっては偏った結果を生み出すことがある。実際には、社会の中で育つのだから色んな人の影響を受けながら人格形成されるのが一番で、放っておかれた子供の方が自由闊達に動き回ることができるという考えもある。とはいえ、見守りながら放置するとなれば大変であろう。もう一つ気になるのは親が無理をして自分とは違う形を作り出そうとすることである。それぞれの子供は遺伝形質から自分とよく似た傾向があるにも関わらず、それとは違った形にしようとするのはどうだろうか。型に嵌めると言ってもそれがその子に合ったものならいいが、そうでなければどうなるのだろう。大いなる実験とはいえ、親にもわからないことを押し付けられたら子供はかなわないだろうに。
新車を購入する機会のある人はいるだろうか。ずっと昔は納車する時に担当者から注意される項目があった。始めの1000キロを走る時は高速道路を使わないようにとか、1000キロを走り終えたところでオイル交換をするようにだとか、そんな注意があったと思う。これはエンジンのシリンダーが出荷時点では綺麗になっていないので、始めは擦り合わせが滑らかでなく磨耗が激しいためであった。
最近はそんな注意を受けないので、こちらから聞いてみたら加工技術が発達してきたので慣らし運転をする必要がなくなったとのことだった。そんなに表面加工の技術が進んできたのかと感心していたが、たまたま聴いていたラジオからその理由が流れてきた。それはめっき加工によるものなのだそうだ。シリンダーやピストンなどを成型した後、擦り合う部分にクロムめっきを施すのだそうだ。クロムめっきは水道の蛇口などのピカピカ光っているのがそれなのだが、防錆と共に堅固な皮膜を作るために使われており、磨耗を防ぐ目的でエンジン内部に施されるのだそうだ。これが秘密だったのかと思いながら聴いていたが、めっきは本当に様々なところに使われており、解説していた方によればめっきのできない素材は無いとのことであった。但しめっきに使われる金属の方はある程度制限があって、アルミニウムやチタンなどは理論的に不可能だそうだ。これは高校の時に化学で習ったイオン化傾向のことかなと思いつつ聴いていたが、はてどうだったのかその解説はなかった。ところでその中で面白いなと思ったことが「めっき」とは何語ですかという質問である。解説によれば、「めっき」はれっきとした日本語でその意味からメッキとカタカナで表記するのはいけないとのこと。元々は金属を滅するというところから来ているそうだが、奈良の大仏に金めっきがされていたことからもその起源がかなり古いものだとわかるだろう。めっきは鍍金という字を当てることもあるがこれは「めっき」とも「ときん」とも読むそうで、どちらでも良いそうだ。最近のめっきははがれなくなり、めっきが剥がれるなどという言葉も死語とならざるを得ないのかも知れない。