昨日6月1日は気象記念日だったらしい、気象観測にまつわることが色々と始められた日であるそうだ。日本全国で公に気象観測が行われ始めたのは明治時代であるし、細かな数値を記録し始めたのもそれほど古い話ではない。だから最も早い開花とかいうデータも観測史上のことであって、意外に短い歴史上の記録に過ぎない。
気象観測を全国的なものにするために、主要都市に気象台や測候所をおいたわけだが、より詳しい予報を目指すためにそれだけでは足らないということになった。これとは直接関係ないかも知れないが、既に無くなってしまった富士山頂のレーダーも全国的な観測のために建設されたわけだが、観測衛星「ひまわり」の導入や最新式のレーダーの導入などによってその役目を終えた。一方でより細かなデータ収集のためにアメダスというシステムが導入された。特に梅雨の終わり頃によく起きる局地的な大雨などが問題とされ、主要都市の観測データだけではそういう予報が難しいことから導入されたシステムだそうだ。当初はその名称から誤解を生んだそうで、雨も降っていないのにアメダスとは何事だとか、全国放送のアナウンサーが訛って雨ですを雨だすと言ってはいけないとか、笑い話である。サッカーのワールドカップが日本で梅雨の時期に開催されることから、天候の面では日本チームに有利に働くのではないかと言われていたが、どうも今週の試合は望み薄だそうだ。例年より気温、湿度ともに低くなりそうだからとか。天を味方につけるはずが、そうもいかないとはいえ頑張って欲しいものだ。
リサイクルという言葉が一般に知られるようになってからどのくらい経つのだろうか。米国式の便利な生活が採り入れられるにつれて、使い捨ての習慣が当たり前になった。このままでは無理が出てくるということに気がついて、何となく始まったのだろうか。
どんな変遷を辿ったのか、思い出そうとしても中々上手くいかない。どこでどうなったのか、昔はどうだったのか、細かいことがはっきりしないのだ。身の回りの紙製品のことを考えても40年近く前とはかなり違っている。いつ頃からかティッシュペーパーなるものが登場して、今やどこでもあるし、街中でも配られている。昔はどうしていたのか想像できないほどだ。一方で、コピーが出てきて何でも簡単に写し取ることができるようになった。職場には紙が溢れかえったが、こちらの方は再生紙という形のリサイクルが盛んになっている。これも書類の電子化で紙は無くなるはずだったのが、かえって増えたためだ。ごみ処理場の建設が暗礁に乗り上げたある大都市では今やゴミの分別は常識となり、徹底されている。こういう意識は確かに必要だが、実際に捨てる前に考えることもありそうだ。こんなことを思ったのは、ラジオで浜美枝さんが古い民家を解体して、その部材を使ってご自分の家を建てている話をしていたから。ただ、その中で気になったのは、家の話ではなく芽が出たじゃがいもを土に返しに行くというおばあさんの話。捨てるのではなく、返しに行くという言葉が印象に残ったと浜さんも言っていた。
独り言を書き始めてから、これで二ヶ月になる。日記もつけたことのない者としては続いている方だろう。しかし、話題の方は一段と乏しくなりつつあり、厳しい状態である。軟らかい話ばかりで通せればいいのだが、なかなかそうもいかず、今回も何だか堅い話になりそうだ。
一般社会に出て働いている人にとっては、学問とはなんぞや、などということは頭をかすめるはずのないことだろう。学校にいる人たちでもそんなことを考えるのはよほどの変人なのかも知れない。でも、たまにはそんなことに触れてみるのも一興ではないか。極端な意見だが、学問とはある事柄を説明するための方便と言えるかも知れない。日頃からよく話題に出すが、経済学は未だ的確な予測ができず、どちらかというと既に起きたことの解説に使われることが多い。異論は沢山あるだろうが、現状としてはそう言ったほうが現実に近いと思う。この状況は経済学に限ったものではなく、ほとんどの学問、大学の学部や学科の名前にあるもの、はこんな状態だと思う。森羅万象、色んな現象をなぜかと説明するためのものである。道具と呼ぶと語弊があるかも知れないが、説明する段にはそんな役割を果していると思う。神聖なるものと考える人にとっては、学問が只の道具などと言われると反論したくなるだろうが、まずはそういうものと受け取った上で、目指せるのならそのさらに上に向えば良い。始めから神聖視させるのは人々を遠ざけることに繋がることを意識すべきではないか。誰だって「どうせ判らないだろうけど」と言われた上で人の話を聴きたくはないだろうから。
教科書の改訂については何度か取り上げたので御存知だろうが、今回のものは土曜日の授業を無くすという大きな目的があったので、さらに大幅なものだったらしい。元々どんなに詳しく書いてあったとしても所詮は紹介に過ぎず、そこから興味があればさらに深く掘り下げればいいわけだから、入り口となる言葉を示せばそれで良いと思うのだが、どうだろうか。
教科書から学べることは沢山あるが、誤解を生むことも多い。とても些細なことだけれども印象に残っていることがある。中学校の理科で習ったのだろうか、プラナリアという生き物のことである。半分に切断してやると、頭と尻尾のそれぞれが再び成体となるという実験が紹介され、生き物が再生する力をもつことを示している。教科書ではその実験の過程を図示し、プラナリアの写真を付けていることも多い。問題はこの写真で、頭の部分が三角形で眼のようなものもあり、その後ろにすぼまっていく感じの尻尾があり、結構大きいという印象を受けていた。そんな中、以前植物採集に行った山の麓の湧き水の所で、石の裏側を見るとそこにベタッとした感じの生き物を見つけ、それが形としてはプラナリアによく似ていた。しかし大きさは1センチもないくらいである。これはそうじゃないなと勝手に思っていたのだが、実はプラナリアで、教科書の写真と図にしてやられたのである。よく考えれば大きさの表示はなく、ただ切断実験の細かさからもっと大きなものを想像していたに過ぎない。百聞は一見に如かずと言われるが、写真が登場してからは一見も本物を見るかどうかによりそうである。
何となく話題に乏しくなってきた。気に留まることが起きていないせいもあるのだろうが、ただ漫然と時が過ぎていくような感じだ。まあそんなことを言っていても何も出てこないから、今日は本にまつわる話でもしよう。
ベストセラーになっているようだが「声に出して読みたい日本語」という本がある。我々の年代くらいまでだと小中高の学校でお世話になった教科書に載っている文章の一部を紹介する本である。あの当時、辛い思いで勉強した人もいれば、楽しく学べた人もいるのだろうが、そういう想い出を含めて読んでいて懐かしい気持ちのするものである。教科書の改訂が盛んになり、今風にするために古くから使われてきた教材を捨て、現代風の文章に置き換えられ始めたのはいつのことだろうか。徐々に進められ気がつかなかったこともあるが、今の教科書を見ると唖然とすることがある。特にこの傾向が顕著なのは音楽の教科書である。昔は見たことがなかったごく最近流行っていた楽曲が紹介されている。以前なら型にはまり旧態然とした音楽の教科書に反発して、最新のポップスを教室で歌うのが気持ち良いと言っていたのが、今や教科書の中にある。どうも変な感じがしてしまうのはこちらがずれているからなのだろうか。一方で、「荒城の月」などはどんな理由だったのか忘れたが排除されてしまった。上で紹介した本の中でも迎合することの危険性に触れているが、楽しければ身に付くというものばかりではない。ある程度のことは機械的な行為を通して頭の中に入っていくのだということを再認識すべきなのだろう。
一昔前ならそろそろ大学生の就職活動が始まる季節なのだろうが、近年では最終盤にかかった頃と言えるのかも知れない。企業や大学によって様々であるとはいえ、最終学年になる前から活動を始め、早い所では年度が始まる前に内定を出しているらしい。今や大学で何を学んだかを問題にしない時代のようだ。
数年前にある企業の社外取締役としての兼業願が文部省で認められたのに、人事院が許可を出さずに話題となったある国立大学教授が、現在所属している私立大学の前の学長が就職活動について話していたことが印象に残っている。この方は英国人だったと記憶しているが、日本の企業が採用に当って大学での成績をまったく考慮しないのは、大学を無視する行為であり、非常に大きな問題だという話である。20年以上前には成績にランクを付け点数化すると共に推薦書を参考にしていたようだが、最近は大学の成績は全く考慮されず推薦書も学校推薦以外はほとんど読まれないらしい。学校推薦とは学生当り一つしか出されないのでそれだけ希少価値があるとのことだ。企業側が大学で何を学んだかを考慮しないために、合理的な考え方を持つ学生達はそれに素直に反応する。確かにそれまでも目標を掲げてそれに向ってまっしぐらという勉学人生を送ってきたわけだから、これも仕方がないと大学側が考えたくなるのも無理はない。というのが一般の大学の対応だったようだが、件の大学はそれに対して真っ向から反対していた。自分達はきちんとした教育を施し、習熟度に応じて成績を出しているのだから、それを評価しないとは何事ぞ、というのが主張である。その後どうなったのかは知らないが、企業も入社後教育の手間を省き、即戦力の人材を求めるようになった今、人材側としては何を考えるべきなのだろうか。どんな事態にも振り回されないためにはどうすればいいのか、少し考えたらわかるはずなのだが。
通勤の道すがらひばりの声を聞いた。空の上の方で留まりながら啼いているのではなく、地べたで啼いているようだった。そういえば二三日前の夜、職場の駐車場で二羽のひばりを見かけた。こんな夜に何をと思ったのだが、こちらをうかがいながら歩いていった。
先日ラジオで最近ひばりを見かけなくなったという聴視者の声が伝えられていたが、ツバメも飛んでいるのを見かけるに巣を見ることが少なくなった。田舎の方ではまだ軒先にツバメの巣があって、今や子育ての真っ最中といったところだが、都会で見かけるツバメの巣は一体どこにあるのだろうか。鳥の子育てに関することで以前とまったく違った扱いをされていることがある。幼鳥が巣から落ちて鳴いているのを見かけたときの対処についてである。以前は可哀想な子供を救ってやるべく、家にもって帰って育てたという話が美談として取り上げられていたが、最近はそういう場面ではそのまま放置しておくべきであると言われる。そこにいる幼鳥は巣から偶然に落ちてしまったものではなく、子育ての段階で親鳥が傍で見守っている場合がほとんどなのだそうだ。だから可哀想に見えてもそれは放っておくのが邪魔をしないことになるのだとか。人間は当たり前のこととはいえ、つい自分中心に色んなことを考えてしまうので、こんなことも親切心からするのだろうが、鳥の方から見たらとんでもないことなのだ。まあ自分たちの子育てにおいても、そんなことは沢山ありそうに思えるのだが。