パンチの独り言

(2002年6月3日〜6月9日)
(言語の壁、知らぬは、古い新しさ、火気注意、気長に、任される、訛りで人をみる)



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6月9日(日)−訛りで人をみる

 帰途、発車間際になって、空いていた隣の席に女性が座ってきた。60過ぎとおぼしき人で息を切らせながら、座れて良かったと連発していた。どこへ向うのかを尋ねたらほぼ同じ方向、そこからは道中話し込むはめになった。
 話し好きの人らしく、どうにも止まらなかったが、こちらはちょっと周囲を気にしていた。ちょうど幼児が乗りあわせていたので音に関してはさほど気にする必要もなかったのかも知れないが、なにしろ終電に近い電車だからほとんどの人は読書か居眠りである。話し声が気になる人もいただろうが、構わず話し続けることになってしまった。偶然は住んでいる土地に留まらず、途中で同郷人であることまで明らかとなり、話はさらにヒートアップ。どうも訛りが残っていたらしく、その人の表情からはやっぱりという雰囲気が感じ取れた。言葉は育った土地をよく示すもので、かなり色んな土地を渡り歩いても、そこここに痕跡が残るらしい。以前もそういう指摘を受けたが、ほとんどの場合はばれない。自分なりに武装しているのだが、ばれるときは無意識に出る訛りを指摘されるわけだ。無意識だから直せないので、また同じ言葉でばれるようだが、稀なので気にせずにすませている。しかし、訛りでステレオタイプを作られると困ることも多い。○○人はこうである、というわけだ。その人もある大都市の住人を信用できないようであった。訛り自体に性格が現れると言いたげで、おそらく経験に基づくものなのだろう、頑なさが現れていた。

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6月8日(土)−任される

 昨日の昼過ぎ、携帯の液晶画面にメッセージが表示された。いつものように留守電メッセージのチェックをした後、シバラクオマチクダサイと表示されたのである。なんだろうかと思いつつ電話をかけようとしたが、当然話し中。夜のニュースで原因がわかった、サッカーチケットの電話販売である。
 今回のサッカーチケットの販売方法では初めから非常に厳しいシステムだなと思っていた。欲しい人の数に比べて販売される数があまりにも少ないためだが、今回の騒動を聞いて事情が飲み込めた。割り当てが少ないという状況だけで済んでいれば、一度あきらめた人たちもそれほど気にしなかっただろうが、残りの分が売れてなかったとなれば、なぜという気持ちが出てくるのは当たり前だろう。この問題が開催期間中に片付くとは思えないが、なんとかより多くの人にチケットが渡るようになって欲しいものである。今回の騒動を見るとなんだか今の日本の問題と似ているような気がした。ここでいう問題とは、人に任せることによって生じるもののことである。任された人が責任を持って処理するということが前提になったシステムがずっと長い間それほどの問題もなく動いてきたのだが、ある時期から問題ばかりを生じるようになった。任される意味がどうも違ってきたためではないかと思うのだが、今はもっぱらシステム自体の問題とされているようである。任す、任される、お互いの責任をはっきりさせる、という気持ちはどこかへ行ってしまったのだろうか。

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6月7日(金)−気長に

 ベンチャービジネスという言葉が一般に聴かれるようになってからずいぶん経つようだが、どんな受け取られ方をしているのだろうか。株式市場でもこういったタイプの会社の株を扱うものも現れているが、それだけではないようである。
 ITバブル期には様々なベンチャー会社が作られていたが、現在残っているのはほんの一握りなのかもしれない。特に上場した会社はほんの一部で、株式の公開まで漕ぎ着けずに潰れてしまったものが大部分なのだろう。投資をする側としては、公開されるよりも以前からサポートに回り、そこから会社として伸びて、株式公開されるのを楽しみにするのが一番のようだが、そう簡単なことではない。よく聞くことだが、IT関連の業種の場合は比較的短期間で見通しがつくので投資するかどうかの判断がしやすいが、最近話題になっているバイオ関連の業種では、製品化も含めてかなり長期間の準備を必要とするために成否を判断するのが難しいだけでなく、辛抱強く待つことが必要だから投資の対象としては敬遠されがちのようである。日本の場合はこういう投資に対する考え方に米国とはかなりの違いがあるようで、特にバイオ関連にはあまり投資がなされていないと言われている。これは上に書いたような理由と共に、投資対象に対する投資後の関わりでの違いが原因となっているようだ。投資後もその事業の成功を促すための周辺整備にも力を入れるなど、より良い成果を得るための努力をするという考え方と、投資はするが口は出さないという考え方の違いだろうか。どちらが良いと一概には言えないのだろうが、力不足の会社については前者の方が良いのかも知れない。何も米国型のベンチャーが正しい姿とは言えないのだろうが、今の状況を見る限り組み合わせの違いが表面化しているようにも思えるのだが。

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6月6日(木)−火気注意

 東京は本当に人の多いところである。定宿にしているホテルから地下鉄の駅までの道は反対方向に歩いてくる人々の波でまともに歩けない。その地域は再開発により大きなビルが何本も並んでおり、そこに入っているオフィスへの人たちなのだが、それにしてもなぜこんなに人がいるのだろうかと思ってしまう。
 こんな人ごみで特に気になるのは喫煙者のことである。電話をかけながら歩いていてもせいぜい人とぶつかるぐらいで済むが、タバコの場合は火を扱っているから要注意だ。昔の人は手のひらの方に先を向けるようにして気を遣っていたが、最近は平気で外に向けている人も多く、危なく接触しそうになったこともある。大人であれば手に火傷させられたり服に穴を空けられたりとなるが、子供やバギーの中の赤ん坊となれば顔周辺が被害を受ける。やられてしまえばどこにしても痛いが、やった本人は人ごみと共に立ち去るわけだからなんともならない。自分が反対の立場になってみればと思うのだが、こういうときは大体自分は他人に被害を及ぼすことなどしないと我関せずで効果は無いようである。子供の頃に近くにある遊園地で回転する家といった類のアトラクションに乗ったとき、今では考えられないことだがある男性がタバコを吸ったままで乗ってきて、揺れ始めた途端に顔に火のついたタバコを押し付けられたことがある。当然泣き声を上げたと思うのだが、周囲の人には怖がっている子供としか映らなかったようで、当の男性は知らぬ顔である。なにも別にこれがタバコを嫌う理由ではないのだが。

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6月5日(水)−古い新しさ

 古い街並みを歩くのも中々良いものである。夏が近づき暑さが増すと、炎天下歩くのはちょっと無理なのだが、早朝や夕方にぶらぶらと歩けば気持ちよい。でも古い街並みを保つのは大変なことで、倉敷などのきちんと保存されているところは条例などで定めている場合が多い。
 新しいことが一番と言われた時代には様々なところで再開発が進み、せっかくの街並みが破壊されていた。バブル期には地上げなどで区画の変更を行い、大きなビルの建設もあったが、最後には虫食いのような更地が残ってしまった。再開発の難しさと何でも新しければ良いという思い込みの極端さが印象に残ったのだが、ここでちょっと面白い例を紹介してみよう。この話は日本ではなく米国の地方都市の例である。あちらでは都市の中心部をダウンタウンと呼ぶが、都市形成の初期段階から存在する地域だから周囲に比べると古ぼけたビルが立ち並び、荒廃している場合が多い。この地方都市の場合もまさにその通りで、ダウンタウンは荒れ果ててテナントも入らない状況であった。そこで市当局が中心となって再開発が進められ、今ではブティック、映画館、レストランなどが100以上も集まった複合施設となっている。しかし、建物自体はほとんど昔のままで新しいビルを建てたものは少ない。古い街並みを保ったままテナントの誘致を行い、駐車場の整備と無料バスの運行によって人の流れを確保したところが面白いと思った。荒れ果てたビルの内部の清掃、電気設備の復旧などにかなりの力を注いだのだろうが、こんな形で古い街が蘇るというスクラップアンドビルドではない再開発の良い例なのではないだろうか。

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6月4日(火)−知らぬは

 最近日本語に関する本がよく売れているそうである。先月の読んだ本で紹介したものを筆頭として、かなり色んな本が出ている。しかし、チーズ云々の本の時と同様、玉石混交と言わざるを得ない状況である。よくもまあ流行に乗せて来るもので、出版業界の窮状を如実に表わしているものだろう。
 日本語に関係する話では、大野晋さんや金田一春彦さんの本が昔から出ていたと思う。大野さんはある週刊誌に日本語の起源という話を連載して、インド南部の言語との類似を論じていた。最近も「日本語練習帳」という変わったタイトルの新書を出して、よく売れたようだ。金田一さんは言語学者でももっと一般を相手にした感じで、最近かなり多くの著作が出てきている。気になる本は文部省唱歌を集めた文庫本で、昔読んだのだが題名も思い出せない。それにしても、このブームは何だろうか。若い世代が日本語を勉強しようと思ったのだろうか。どうも実態はそうではなく、中高年層がこの類いの本の主な購買層なのだそうだ。ある意見によれば、この年代の人は勉強熱心で、ここでも日本語をきちんと勉強し直そうという気持ちが働いているのだとか。そんなものなのかなと思いつつ、それにしても知らないことが沢山書いてあるものだと思う。こんなことを密かに勉強して皆の前で披露すればという思いもあるのだろうか。情けは人のためならずを知らなかったぐらいだから、ちょっとやそっとの努力では名誉回復も望めそうにないのだが。

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6月3日(月)−言語の壁

 普段パソコンを使っていると別段何も感じないが、不思議に思えることがある。インターネットを使えば世界中どことでも誰とでも話ができるわけだが、どの言語を媒体として話をしているのだろうか。在外邦人と話すときは当然日本語と思いがちだが、少し前までこれが難しかった。
 今使っているブラウザには日本語の表示がされている。これはブラウザソフトの日本語版を使っているためで、色んな言語のバージョンが出されている。そこまでは以前からある話で、それぞれのアプリケーションソフトを色んな国で使えるように表示が変えられていた。しかし、それはそのパソコンの中だけで、外に出ないという仮定の下でのことである。ネットが普及するとお互いの間でデータを交換しあうので、言語の壁が立ちはだかることになってしまった。だから日本語のメールを読むためには日本語の使えるシステムが必要で、外国では文字通り字化けした文章しか見られなかった。それがブラウザの普及と共に様々な言語で読むことや書くことが可能になり、とても便利になった。スペイン語圏にある空港のネットカフェでそのことを見つけたときの感動は忘れられない、こんなところでも日本語を使うことができるのかと。しかし、一方でこういう状況になってみて初めて気がつくことがある。同じ旅行で英語圏に行ったときには英語バージョンを使っていて、何ともならなかったのである。国際版は色んな言語に対応するように作られているが、英語版はそうではないからだ。元々のソフトを作った国とはいえ、どうも国際版を普及させる気が無いらしい。優位に立っているがための行為なのか、そんな違いにさえ気がつかないことによるのか、いずれにしても少数派にとっては不便なものである。

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