自宅の庭に草花を植えている人も多いだろう。庭が無いアパートなどではプランターをベランダに置いている場合が多い。手間がかかるとはいえ、四季折々の花を楽しむのはとても良いことだ。
草花が嫌いという人には会ったことが無いが、ひょっとするとアレルギーのひどい人の中にはいるのかも知れない。自然を愛でるには最も身近なもので、様々な色や形の花を眺めるだけならば環境破壊などの問題も起きないから安心である。森林や草原に行けない場合でも、自分の周りに草花を植えて楽しむ方法もあるから自然とは違うとはいえ手軽な楽しみである。自然の花を眺めるだけでなくそれを保存したくなった場合、押し花などで楽しめる。これは採集という手順を経るから環境保全からは問題ありかも知れないが、まあ大目に見て欲しい。小学生の頃に野外理科教室で植物採集に行き、牧野富太郎の弟子という人に案内されながら、山の中腹まで登った。ハナイカダに始まり、シャガ、ホトケノザ、ハクサンハタザオなど次々に草花の名前を紹介してくれた。そこは南方系と北方系の植生が重なる地域で、植生の豊かな教室にはぴったりの場所という話だった。知人にも植物に詳しい人がいるが、退職後に学生に植物実習を教えている。一度覚えた植物の名前は忘れないから年をとっても大丈夫だし、山野を歩き回るので健康にも良いのだそうだ。老後の楽しみや老化を防ぐ方法としても、とても良いことのように思えた。
日本国中がフィーバーしていたというのは言い過ぎだろうが、まあ色んなところで騒ぎがあったようだ。特に会場となった都市では、以前から何かと話題になっているダイビングポイントがあり、今回もかなり賑わったようである。
祝い事と言えばこんな派手なパフォーマンスもあるだろうし、昔ながらの婚礼の式もその一つである。会場の都合からだろうが、ほとんどの結婚式が神前である。時々チャペルを用意している所もあって、賛美歌を歌わされ戸惑うこともあるが、仏前は本当に少ない。寺の住職の子息でもほんの一部しか仏前をしない。一つには花嫁の気持ちもあるのだろうが、祝い事にお寺が向かないように思えてしまうのもその一因かもしれない。披露宴ではケーキカットが入るのが常だが、仏前の場合酒樽が出てくる。一度しか出席したことがないので皆がそうなのかは分からないが、その時は酒樽が運ばれてきた。新郎新婦が一つの木槌を握り、コンといくわけである。酒樽の蓋や鏡餅を割ることを鏡割りと呼ぶが、祝いの席では「割る」という言葉が忌み言葉になっていて、わざわざ鏡開きと呼んでいる。結ばれたことを祝う宴で、割るなどという言葉は縁起でもないというのだろう。日本の習わしは本当に難しいものである。それとは次元が異なるが、受験生の前ですべるだの落ちるだのといった言葉が嫌われるのもそういう心理が働いているからだろう。言われた本人はそれほど感じていないのかもしれないが、うっかり言ってしまった当人の方が気にしてしまうものらしい。ところで、酒樽の蓋を割る鏡開きは婚礼の式だけでなく、色んなお祝い事に使われる。ひょっとしてその機会に立ち会い木槌を握るようなことがあったら、一つだけ注意した方が良い。蓋は既に割られているので間違っても渾身の力を込めて割ろうとしないこと。この蓋は木槌くらいでは割れないほど丈夫なので、事前に割ってあるのだ。力が入り過ぎた結果はお祝の酒シャワーを浴びることになるから。
相場の動きを見ていると思い通りにならないことが分かる。それは当たり前で、テレビに出てくる専門家達があっちへ、こっちへうろうろとする様子からも容易に想像がつく。極端になると、的外れなことを言ったり、何があろうと自説を押し通したりするので困るのだが。
こんなに多種多様な意見が出ながら、その決着がつかないところにこの手の話題の面白さがあると思う。馬券の予想屋とどう違うのか当事者はお互い認めないところだろうが、ちょっと聞いてみたい気がする。では、何故こんなに相場予想が外れるのだろうか。学者達が色々と議論しているので難しいことを書こうとは思わないが、簡単なことでも幾つかの要因がある。例えば心理的な要素、実質的な数値には何の変化も現われないのに変動が起こる時引き合いに出されることが多い。しかし数値にするのが困難なため、お話的な線で終わる。この要因は相場などに限らずあらゆるところに影響するので色んな試みが成されているが決定的なものはまだないようだ。もう一つ気になるのは数学との関わりである。お金の単位など相場で取り扱う数値はたまには小数となることもあるが一般に整数である。これに対して数式で扱うものは整数のような飛び飛びの数ではなく、これを離散的という、連続的な数である。元来連続的なものを相手に編み出されたものを、離散的なものに適用するのが正しいのかを議論しないまま、相場に関与する人たちは都合の良い部分だけを取り上げてきたようだ。どこがおかしいのかははっきりしないが、これも一因となっている可能性がある。いずれにしても、なんとか説明できるように関係者は努力しているのだろうが、関与する要素は多すぎるだけでなく、正体が知れないのかもしれない。ブラックボックスをブラックボックスのまま議論して良いのなら気楽なものだが、何しろお金が絡んでいるのでそうもいかないのだろう。
久しぶりに同業者の話をラジオで聴いた。その内容が理解できない聴き手の様子が伝わってきて、同情するしかないなどと思いながら聴いていた。業界用語のオンパレードでは、関係ない人にとってはチンプンカンプンだろうし、ましてラジオの前の人はお経よりも苦痛を感じるはめになっていたかも知れない。
業界の外の人と話をする時はやはり言葉に注意しないといけない。これは別にどんな業界の人でも同じだろう。その中でしか通じない言葉を日常的に使っているために、いざいつもと違う場面になっても対応できないことが多い。ラジオ番組では綿密な打ち合わせをして、そういうことがないように工夫しているはずだが、それでも話し手の責任は重大である。やさしく話すとはゆっくり話すだけでなく、みんなに分かる言葉で話すこともあり、これが一番難しい。何しろ厳密な表現をするための業界用語だったりするから、その説明だけで時間がかかるからだ。これとは別に業界独自の用法を持つ言葉もある。一般に使われる言葉を本来の意味とは違う意味で用いるが、これは誤解をうむから注意しなければならない。とにかく不特定多数の人と話をするという形は色んな意味で大変である。一方、読むことで専門外の情報を得ようとする人たちもいる。そんな人たちにとっては今の状況はありがたいのではないだろうか。あらゆる出版社が新書を作って色んな分野の本を出している。内容は専門的なものから一般的なものまであるが、なるべく分かりやすいように工夫されているものもあって、人気が出ることがある。先日も、同じ業界の人の本をまったく別の業界の人が分かりやすかったと褒めていたという話を聞いた。こういうものはひょっとするとベストセラーに化けるのだが、どうなるだろうか。誰にでも分かるようにというのは、結局小学生にでも分かるようにということなのだと思うが、じっと聴くかどうかを心配するようでは土台無理かも知れない。
ドライブの途中に村がある。文字通り市町村の村だが、毎年音楽会を開催するなど結構活性の高い所らしい。二、三年前から、隣県との境辺りで土木工事が始まった。すごい勢いで山を切り崩し、平地を作って新しい建物を建設していた。
今年に入って山を切り崩す作業は一段落したらしく、出てきた土砂の始末も付いてきた。土砂の運び出しの時に基地となっていた所は以前は田圃だったのでどうなるのかと思っていたら、赤土が敷き詰められた基地がきちんと整地されて、なんとこの春田圃が突如出現した。あっという間の出来事で整地後、田となる部分を掘り下げ、そこにおそらく新たに土を入れたのだろうか、いつの間にか水が張られていた。まさかすぐに田圃にはならないだろうと思っているうちに、あっという間に田植えが行われていて驚いた。米余りが指摘され、減反政策がとられたのはいつ頃だったのだろうか。その後、一時的に政策が緩められたときに休耕田を元の状態に戻すのは至難の業といった報道が何度もされていたと記憶していたので、このあっという間の回復に驚いたわけだ。今は青々とした田圃となっているが、本当に大丈夫なのかは秋の収穫期にならないと判らないだろう。しかし、それにしても今見えている田圃は幻なのではないかと、毎回通るたびに思えてしまう。米作りには良い土地のようなので幻に終らないことを願っている。
急に蒸し暑くなっていよいよ梅雨入りも近いと思えるが、今年は梅雨入り以外のことは全て一週間から十日ほど例年より早く始まっている。昆虫もその例に漏れず、大阪のある都市では既にクマゼミが鳴きだしたそうだ。
セミといえば小学生の頃よく採りに行った。当時は細くて長い竹棒の先にトリモチをつけて採る子供も多かったが、セミの羽がベタベタになるのが嫌で網を使っていた。年上の知り合いから貰った連結式の網を使うと面白いように採れ、一日で百匹以上も採ったこともある。夕方に全部逃がしたが、捕まえることの楽しみで十分だった。その地方では夏になるとニイニイゼミがまず鳴き始め、その後アブラゼミ、クマゼミと続き、最後にツクツクホウシで秋の訪れを感じるとなっていて、当時はアブラゼミが圧倒的に多かった。だから木の高い所にいて、羽が透明で美しいクマゼミを捕まえると自慢したものだった。ところが、最近はクマゼミの数が非常に増えて、その希少価値を失っている。クマゼミは南方系のセミで日本でも南の方へ行くほどその数が増える。その割合が昔と比べると変化するだけでなく、より北方にまで棲息域が広がっているようだ。その一方でニイニイゼミはほとんど見られず、さすがのアブラゼミも減っている。これがすぐにそのまま気候の変化に繋がるかどうかは判らないが、どうも地球温暖化の一つの例として考えたくなるのも頷けるのではないか。単に時季のずれが起きるだけでなく、生き物の数や種類にまで影響を及ぼすほど、大きな変化が続いているようだ。
今は資格の時代と言われる。週末の新聞に折り込み広告が入るし、一時期は勧誘の電話が職場にかかっていたそうだ。前者は本人の気持ちを促すものでさほどの効果もないのだろうが、後者は受け手を不安にさせることで無理矢理勧誘するものもあり問題になっていた。
そもそも資格とは何か。ある業務に就くために必要不可欠なものというのが一般の解釈だが、医師、弁護士などといった特殊な職業に必要な資格から、一般業務の特殊な場合に必要となる資格まである。これらは職業上、業務上、必ず必要となるものだから取得することが最低要件となる。それに対して、英検やTOEICなどは絶対条件ではなくあるレベルより上といった形であまりきちんと決められるものではない。絶対要件として使われる資格は当然ながら国家試験などという形で厳密に選定が行われ、その資格を持つことはステイタスとなる。一方、それに比べると他の資格は文部科学省認定などといった形でお墨付きをいただき、それによりちゃんとしたものとみなされている。ただ最近これらの認定を止めるということが明らかになり、一部にはかなりの混乱をきたしているようだ。それにしても、なぜ国家資格だけではなく他の資格までも取るのだろうか。本当の実力を測るために資格試験があるといえばそうなのだろうが、実際にはそうでもなくTOEICの高得点者が英語を話したり書いたりできないなどといったことが取り上げられると特に心配になる。腕試しの受験、実力を測りたいといった動機もあるのだろうが、どうも自分の力に対する不安感を資格によって覆い隠すという気持ちも働いているようで不思議だ。