パンチの独り言

(2002年6月24日〜6月30日)
(糊代、人気図書館、蝶の羽と嵐、手の平に人より、寄らば大樹、逆走自転車、成功の素に)



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6月30日(日)−成功の素に

 つらつらと書き始めてから三ヶ月経過した。思いついたことを書き上げるだけだから、それほど大変でもないと思うこともあるが、材料の無いときにはどうしたものかと考えてしまう。所詮は備忘録の一つと思っておけばいいのだが、読んでいる人のことを考えるとちょっと違うようにも思える。
 梅雨の時期となるとあまり変化もなく、題材となるものも当然少なくなる。このところ忙しさも増して、あたふたとしながら書くことも多くなった。それでも無理矢理続けているのは何か訳があるのだろう、自分でも意識しない何かが。何かを書くときに間違いや失敗を恐れることは少ないが、ミスは沢山あったと思う。書くのは10分程度、読み返しに5分くらい、あとの整備などに5分で、合計20分くらいの作業だがミスの無いように心がけている。ここで話を移すが、失敗には色々とあるとはいえ、当事者からの経過報告で失敗と片付けられることほど不快なことはない。うまくいかなかったことを単に失敗というのなら報告は不要である。なぜうまくいかなかったのか、次はどうしたらいいのか、そういう分析と対策の無い報告は何も無いのと同じだからである。原因があまりに馬鹿らしいのだったら報告せずにすぐにやり直せばいいし、交渉などなら報告より前にきちんと対策を練り直すべきだ。そういうことを一切合切考えずに、失敗の一言を繰り返されては相手をしようという気力が萎えてしまう。もっと考えることがあるだろうに、始めから諦めているとしか思えない。そういう仕事の仕方では何事も進むはずはないのだから。失敗を恐れて何もしないというのは論外だが、失敗を糧にできないのも困ってしまう。失敗を犯した人に対する周囲の配慮を都合よく解釈して、一言で済まそうとしているのかも知れないが、これでは配慮の意味もなくなる。

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6月29日(土)−逆走自転車

 ちょっと街中に出かける時も最近はバスを利用している。自動車は駐車場の問題があるので面倒だし、自転車の方はとんとご無沙汰である。学生時代は十キロ程度の距離ならば自転車で済ませていた。快適なものだし、駐輪もほとんど問題にならなかった。
 車を運転するようになってから、自転車に乗る時の注意の仕方が変わってきたような気がする。以前ならばこちらが安全と思えばそれで大丈夫という気持ちだったが、車にとっても安全にするためにはどうすればいいのかを考えるようになった。と言っても、どっちもどっちでドライバーの方がその気が無ければやっぱりこっちが危険に曝されてしまうわけだが。自転車を相手にひやりとしたことが何度もあるが、その中で最も危険だと思ったのが夜の無灯火での車道逆走である。歩道が自転車通行可であるのに、真っ暗で狭い歩道では危険だと思うらしいが、車道を無灯火でこっちに向ってくるのである。カーブなどでは気がつくのが遅れて、危うく引っかけそうになったこともあり、ヒヤリとさせられた。自転車側から見ればこちらをはっきり捉えることができるので安心なのだろうが、こちらからは全く見えない。自転車に付いている反射板は後ろから見た場合を想定しているので、前からは前照灯の光もほとんど反射してこない。自分は見えているのだから安心と思っている人がいたとしたら大間違いである。無灯火も違反行為だし、逆走は暴走行為のようなものである。自分が相手を見えるだけでなく、相手に自分を見つけてもらうことの大切さをわかって欲しい。これはそのまま普段の仕事にもあてはまることなのだが。

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6月28日(金)−寄らば大樹

 どんな組織でも何か決定事項があると会議を開き、多数決などによって決議をとる。会社なども一部のワンマン経営のところを除き、この形式をとっている。株式会社では株式を公開している場合には、いくらワンマンでも何でも勝手にという具合にはいかない。
 多数決による決議は、特に戦後の占領下で民主主義があらゆるところに導入された頃から当たり前のものとして受入れられてきたようだ。ただ、そんな流れの中で民主主義イコール多数決と思っている人もいるのではないか。しかし今の国会などを見ていると一部の多数派の思い通りになっており、これは民主主義とは言わないのではと考えてしまう。構成員それぞれが対等の立場で何ら繋がりを持たない場合には、多数決は誠に結構な決議方法だが、いったん多数派が構成されてしまうと言葉は変だが多数による独裁が行われることになる。これを防ぐために選挙があるのだろうが、そういうシステムを持つ組織にしか通用しない。またたとえそのような機構があったとしても、国会などを見るかぎり上手く機能しているとは思えない。大抵の決議組織は選挙などを経ないで作られているので、いったん多数が作られたら当分の間その独裁は続く。日本はどうも安全装置を持たない組織ほど民主主義が強調される傾向があり、平等という殻を被った悪平等が蔓延っているようだ。結局、何かしらの組織を組むときにそういう弊害を産まないような配慮が必要なのだろうが、自分の思い通りにしたい欲望を持つ者がそんな不都合なことを実行するだろうか。本来は構成員が派閥などに囚われず、自分なりのきちんとした考えを持てばすむことなのかも知れないが。

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6月27日(木)−手の平に人より

 人前に出るとあがるとか、本番に弱いとか、そんなことを言う人が沢山いる。心臓の鼓動が激しくなり、不安にさいなまれる。心理的な動揺が心臓に現れることから、心が心臓に宿ると昔の人が考えたのも無理もないような気がする。
 本番に強くなるためにどんなことをすれば良いのか、色んな本が出ているからそういう方面のことはお任せするとして、ここでは本番のための練習と本当の本番との違いについて少し書いておこう。スポーツでは良く試合ではポジティブマインドで構えようと言われる。ここで失敗したらなどと考えないように、ということである。それに対して練習では、何かが起きたときのことを想定して対策を練ることが大切だ。これをネガティブと称した人がいたがちょっと違うと思う。失敗をしてしまうと考えるのではなく、色んな失敗が起きたときの対策を練るわけで起きるかもと考えるわけではない。万全の準備をしてこそ、本番に平常心で臨めるわけで、そのための練習なのである。一方本番の方は、悪いことは考えないにしても、ただ闇雲に大丈夫というのでは心もとない。ここで何をすべきかということを常に考えながら、心の準備をすることが大切なようである。たとえ失敗しても、それを引きずることによる心理的動揺が次の失敗を誘うから、次の対策に専念することが大切だ。失敗などしないという慢心から事故が起きたことに対して、フェイルセーフの考え方が出てきたように、最悪のケースを想定したうえで対策を練っておくことが大切で、最悪に至らない準備が必要となる。金融商品の売り込みに最悪の想定は難しいとは思うのだが、最近はこんなものまで厳しく指導されているようだ。いずれにしても、スポーツにしろ、仕事にしろ、何事も準備万端が肝心だろう。

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6月26日(水)−蝶の羽と嵐

 梅雨は鬱陶しいものだが、その上にこの寒さとくると、いろんな意味でかなわない。服の選択も面倒だが、湿度が高いためにちょっと動くと汗がでてきて、さらに体を冷やすことになりかねない。お天気ほど思い通りにならないものはないのだろうが、もう少し「素直に」変化してくれないものかと、勝手なことを願いたくなる。
 勝手気ままな天気の変化から新たに注目された分野がある。カオスと呼ばれるが、英語ではchaosとなり、混沌という意味となっている。混沌と言われてもどういった内容のことなのかさっぱりわからないが、数学では同じ出発点から出かけても行き着く先がその時その時で違ってしまうといったことを表す。同じ天気の日でも次の日の天気は時と場合で違ってくるというのだが、そんなの当たり前と思うのは変なのだろうか。まったく同じというのはどんなことなのか、同じといっても違いがわからないだけなのではないか、などと考えるのはいけないのか。元々は計算機による予測がちょっとした違いでまったく違った結果を生み出すというところからでてきたものらしい。でも、計算そのものが近似(正確な値でなく、近い値をとる)を伴うものだから、仕方ないのではないかと思えてしまう。とはいえ、数値計算が正確を目指してきたものだけに、ちょっとしたことで変化するということがとても不思議なものに思え、その後様々な人の注目を浴びることになったらしい。当たり前と言わずに面白いと言ったことが今のカオスの分野を支えていることに繋がったとも言えるだろうか。やっぱり物事は捉えようということなのだろう。

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6月25日(火)−人気図書館

 先日、久しぶりに図書館の職員と話をした。ある地方都市の図書館だが、市民一人当たりの貸し出し冊数が日本で一番というのが自慢の一つのようである。大体どのくらいなのか、一人当たり一年で14冊くらいになるのだろうか。全国平均では7冊くらいだそうだ。
 これだけの冊数が借りられているということになれば、紛失、盗難の数もかなり多くなると思って聞いてみると、案の定かなりの冊数であった。年間予算のかなりの部分をこういう本の補充と新しい本の購入に充てているそうだ。なぜ貸し出し冊数が多いのかという問いには結局要望のある本を揃えることという答えが返ってきた。また、公立図書館として視聴覚資料を整備しているがこれも要望の多いアニメや映画のビデオが多くなっているとのこと。資料価値のあるものはほとんど借りられないのだそうだ。だからといって軽く見ているわけではないだろうが、やはり人気のあるものを揃えようとする努力に気持ちが向うようだった。これもまた返さない人や盗難が頻繁なようで、対策に苦慮しているようだった。当たり前の方法でも欠点はあり、予算面の問題も無視できないようである。本の損傷に到ってはどうしようもない状況で、返本時のチェックを要望されたりするが実現不可能とのこと。全ての点で基本になっているのは、資金を出すのは納税者であり、納税者の利益となるような取り組みをしなければならないことと、一方でこういう公的なシステムが成立するためには利用者一人一人の良識が必要であることのようだ。簡単そうで難しい問題である。

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6月24日(月)−糊代

 新しい事業計画、新たな社内提案などを揚げるときに、書類を作らねばならないことがある。口で説明するわけではないので、読み手が判らないようなところがあったり、誤解を生むようなところがあってはいけない。そういう意味でかなり堅苦しい表現をする場合が多いようだ。
 こういった文書作りを会社に入る前から習得している人はほとんど無く、入社してから徐々に身に付けていくものだと思う。その過程には面白いものが多く、非効率的だと思いながらも継承している場合があるのではないだろうか。中でも驚いたのはある官庁の本省職員の場合で、上司のところへ書き上げた書類を持っていくと、まず突っ返される。どこが悪いのかを考えて、書き直しを持っていくと、再び同じことが繰り返される。この間ほとんど無言なのだそうだ。どこがどう悪いのか、という指摘はなされないので、自分で考えてみろというわけなのだろうか。そうしているうちに一人前になっていくらしいのだが、何だか効率が悪そうだなと思った。手取り足取り教えることが良いことだとは思わないけれども、何も指針を与えないというのもどうだろうか。計画書などで面白い話をもう一つ紹介しよう。計画を提案する書類では、必ず着手したい計画を掲げておくとともに、これは落として貰っていいというのを付けておくのだそうだ。その判断を下す立場の人がきちんと仕事をしたという証拠を残すためらしい。何とも非効率的なやり方だが、これが日本が伝統的に進めてきたものらしい。表には出ないが欠くことのできない「糊代」のようなものである。郷に入れば郷に従え、なのだろう。

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