五感というのを御存知だろうか。視・聴・嗅・味・触の五つの感覚のことである。視る、聴く、嗅ぐ、味わう、触るということだが、ほとんどの人の場合視ることにかなりのウェイトがかけられる。
視覚はとても優れた感覚で、近くのものから遠くのものまで、その位置を含めて多くの情報を得られるだけでなく、色覚を有するヒトの場合、色というさらに多くの情報を得ることができる。だからと言えるのかも知れないが、この感覚に頼っている人が非常に多いそうだ。しかし他の四つの感覚も優れたもので、聴覚は音の有無だけでなく音色の区別や音源の大体の方向を定めることができるし、嗅覚(きゅうかく)は様々な匂いを区別できるだけでなくその強さから匂いの元までの距離を大体識別する。味覚は驚くほど多くの味を区別することでその組み合わせから食事の愉しみを引きだし、触覚は1ミリの百分の一ほどの凹凸を感じとることができる。それぞれ優れた機能を持つが情報の割合としては視覚から来るものが非常に大きい。そんなわけで普段目を開いているときには視覚からの情報ばかりになってしまい、他の情報が覆い隠されてしまうようだ。一方で、温泉宿で夜中に近くの川のせせらぎの音を聴くとか、朝コーヒーの香りで目を覚ますとか、そんな経験もあるのではないか。実際に他の感覚に集中したいときには目を閉じることが効果的なのだそうだ。さて、ちょっと目をつむって、視覚以外の四感を意識してみては如何だろうか。
セミの話をしてから、ずいぶんと日にちが経過している。いよいよ気温も上がってきて夏本番と思えるのに、は何かおかしいぞと思いながら、昨日は木陰を歩いていた。どうしたことか、セミの声が全く聞こえないのである。
大阪では台風一過、セミの声が戻ってきたと紹介していたが、今年は全くと言って良いほど聞いていない。仕事の都合で色んなところをウロウロとするのだが、立ち寄る先では鳴いていない。特に気になっているのは、大都市の中でも緑の多いところとして知られている地域で、例年ならもううるさいほど鳴いているはずなのに今年はさっぱりである。原因は幾らでも考えられるの。単なる想像でしかないが、ちょっと紹介してみよう。たとえばセミのことだから当たり年ならぬ外れ年みたいなものではないかとか、梅雨時の気温の低下によるものだろうかとか、まあなんでも良いのかも知れない。ただ少し気になっていることがある。その地域はここ数年地下での工事が頻繁に行われてきたということだ。セミの幼虫の地下生活は大体7年ほどだから、その間に何らかの変動があれば、かなりの影響を受けるだろう。工事の音が彼らにとって迷惑なものなのかどうかは判らないが、何か影響があったのかも知れない。土を掘り起こすことによって、周辺の地下にも影響を与えたのかも知れない。鳴けばうるさいが、静かすぎると逆に心配になる。相変わらず、自分勝手な生き物だと思うのだが。
三日ぶりにファイルマネージャーというシステムに戻っている。このホームページが設置してあるサイトのシステム変更によって、ファイルマネージャーが使えなくなり、フェッチというパソコン上のソフトを利用してファイルを転送していたためだ。いざ戻ってみるとシステムの使い勝手は良くなっているのかもしれないが、少々面倒なことが起きていた。
実際には大したことはないのである。ファイルを転送する際にその作成にワープロソフトを使ったら、行替えごとに一つずつ余分な行替えが挿入されてしまっていたのである。しかしそうすると全体の行数が多くなってしまうので、スクロールが面倒である。速いパソコンならそれほど気にならないのだが、使っているものの中に遅いものがあるのでそれらを全て削除した。いちいち面倒な作業である。ただ、幾つかそうやって転送したものがあるので、このアップが済んだらすぐに他のファイルも変えておかないといけない。実際にはこれらの文書はhtmlなので、行替えは別の命令文で行う。だからブラウザ上で表示されたものには何も変化がないのである。そういう意味で元に戻す必要はないのだが、やはりとびとびに行が空いているのは落ち着かないので戻すことになる。今日は元々別のことを書く予定でいたのだが、管理システムの変更等があったので、急きょこちらの話題にした。それにしても、読み直してみると色々と訳のわからないカタカナ言葉が氾濫している。パソコンを使う上で必要とは限らないものばかりだが、何となく意味を知っておくと話題が広がって便利なものである。但し、相手に合わせることも必要で、チンプンカンプンという顔をしている人の前でペラペラとやるのも感心しない。先日もある言葉の説明を求められたが、結局4段階に分けたものを差し上げた。果してそれが役に立ったのかわからないが、相手次第というのは大切だろう。業界の話も然り、である。ちなみにこの文章は不特定多数を相手にしていると想定しているので、一部の方には不満が残るかもしれないが、お許し願いたい。
最近たびたび起きた国内の食品の不正表示や不正請求などを、どういう気持ちで行ったのかほとんど理解できない。そんなことを考えているうちに、海の向こうでも不正会計疑惑なるものがそこら中で浮かび上がってきて、どうなっているのだろうかと思ってしまう。
国内の事件を見るかぎり罰則規定などの手ぬるさも原因の一つと考えられ、その後改定された。しかし、今回の改定では効果は期待できそうにもない。不正することで得られるものの方がはるかに大きい場合が多いからだ。厳しい罰則規定を定めることによって、不正を未然に防ぐという手法を用いてきたあちらの国で、最近これほど多くの不正がそれも大会社によって行われていることが発覚してきたのは驚きである。さらに厳しい規定を設けることによって防止しようとする動きがあるようだが、果して効果を上げられるのだろうか。現状を見るかぎり、見つからなければ良いといった感覚の方が優先されているようだし、バブル期の勢いがなくなってきた今急激な落ち込みを露見させないためには致し方ないといった考えもあるのだろう。いずれにしても、誤魔化していることは事実だし、その責任は不正に加担した全ての人々にあるはずだ。ただ、こんな状況を見ていると罰則規定だけで未然に防ぐことができるのかどうか、自信をもてなくなりつつあるのではないか。正直者はばかをみるなどといった考えが当たり前のように出されているようでは、たとえ厳しい罰則があったとしても貧乏くじを引かなければと片付けられてしまいそうだ。不正を行った会社やその関係者が生き延びられる状況を許さず、厳しい結果につながることを決定づけないといけないのだろう。どんな方法があるだろうか、まずは賢い正直者になることから始めるのだろうか。
この頃数学に関する本が数多く出版されている。数学を理解するためのハウツー本から、フェルマーの定理や暗号解読に関する少し専門的なものまであり、ついには数学者を主人公としたノンフィクションが出て、それが映画化されてしまった。
どういうわけか知らないが日本では数学が進路の決定に大きな影響を与えているようだ。最近は高校が大学入試対策に力を入れる余り、早い時期での進路決定を強制され、習得科目の絞り込みが行われる。その際に数学の得手不得手が大きな要因となるようで、得意なら理系、不得意なら文系と簡単に区分する場合も多いようだ。文系、理系の区別は日本特有のものとも言われているが、数学の学習に対する考え方もかなり特徴的である。記憶は不確かだが、中教審の委員だったある文筆家が学校で習った複雑な数学は卒業以来使ったことが無いので不要であるという極端な意見を出したという話があるほどだ。まあ、これは極端すぎるとはいえ、強制的に学習させられる数学がどんな役に立つのかという疑問に対して満足できる答えを導き出すのはかなり難しい。以前は問題を解く方法の習得に力を入れていたために、余計に意味や意義を論じにくい状況にあった。そこで最近は論理的な思考に主眼をおく数学教育が重要視され、その線で色んな議論がなされている。しかし現場では依然として入試のための解法の習得に力が入り、そんな机上の空論のようなものには構ってられないという状況が続いている所もあるようだ。文系の同級生の中に数学の点が定期試験と実力試験でかなり差がある人がいたが、教科書の例題の解法を丸暗記していたのだそうだ。例題とほぼ同じ問題なら解けるが、少しひねられると手も足も出ないとのこと、一部で数学は暗記科目などと言われたのも頷ける話である。最近は、分数や小数の計算ができない大学生が目立つそうだが、こちらは数学ではなく算数なので誤解なきよう。
日本の夏らしい鬱陶しい天気が続いている。カラッと晴れてくれれば蒸し暑くても洗濯物が乾くから良いのだが、にわか雨が降ってくるとかなわない。そろそろ日本の回りも台風で賑やかになりつつあり、いよいよ夏本番と言ったところだろうか。
台風と言えば我々の世代にとっては伊勢湾台風ということになる。昭和34年9月に東海地方を襲ったもので、甚大な被害をもたらした。雨風による被害だけでなく、特に大きな被害を産んだのは高潮によるものである。被害に遭った地域の家屋の壁にはその時の水位を示す線が残っており、床に立つ自分の頭の高さにあるのを見て驚いたことがある。この被害がいかに大きかったのか、この後高潮防波堤が築かれた事からもわかる。その地域を流れるある川の河口付近の被害を語り伝える会が開かれているそうだが、数年前にその中流域で豪雨による洪水被害が出て、最近はその問題を考える会に変貌したそうだ。その川の源流から河口まで歩いて、環境問題などを考えるとのこと、先日ローカルラジオで紹介していた。実はその話を懐かしく聴いていたのだが、中学時代の部活動でその川の水質、生態調査をしたからである。河口から源流近くまで水を採取し、魚を捕獲して、流速、透明度なども測定した。当時から生活排水が問題とされ、特に魚の分布には十年ほど前と明らかな違いが見られた。社会問題に関心があったわけでもなく、ただ調べただけなのだが、ある新聞社主催の科学賞で表彰された。自主性とは違っていたとは思うが、自分達で行い、まとめることの大切さは学んだような気がする。
七夕はもう過ぎたが、今年は珍しく晴れていた。織姫(こと座のベガ)と彦星(わし座のアルタイル)が一年に一度天の川を渡って逢うというお話だが、例年は雲に隠れてこっそりと逢っていたようである。しかし今年は天候不順もあり、梅雨の晴れ間となって、白鳥座のデネブを加えた夏の大三角形がきれいに見えていた。
地方都市といっても天の川が見えるほどではなく、せいぜい三等星程度の星が見えるくらいだが、都会に比べると星を見る楽しみがある。夏は特に形の美しい星座が見えるので子供達に教えたりするには好都合なのかも知れない。そういう時期を狙ってか、ハワイのすばる天文台の話題がテレビで紹介されていた。口径の大きな望遠鏡としては、アメリカのパロマ天文台の反射型望遠鏡が有名であった。小学校か中学校でその望遠鏡の製作ドキュメント映画を観たことがあるが、直径5メートルは反射鏡の大きさの限界ということだった。これ以上大きくすると自重で歪みが出てしまい、正確な面を保つことができなくなるためだ。ところがそれをはるかに凌ぐ大きさの鏡を作ることができた。これは歪みを積極的に修正する装置を鏡の裏に付けたためで、画期的なアイデアである。この望遠鏡を使って観測することができる銀河系外銀河はアンドロメダ大星雲のように普通星雲と呼ばれるが、それらがそこにじっとしているものではなく恐ろしく速く移動していることがわかってきた。シミュレーションによれば、私達の銀河系も隣にあるアンドロメダ銀河系と遠い将来合体するのだそうだ。まあ30億年といえば、地球上に生命が誕生してからの期間とそれほど変わらない長さなので、私達には全く関係のないことなのだが。