パンチの独り言

(2002年7月15日〜7月21日)
(本物なの、週明け感染、袈裟まで、ゲット、見えない方が、儲かる科学、季節の中で)



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7月21日(日)−季節の中で

 テレビで地元の高校野球の予選を放映していた。元々この土地の生まれでもない者にとっては、何処のチームを応援するわけでもなく、単にゲームとしての面白さを楽しむ程度である。ひいきなしで見るのは、結構面白いのかもしれないと思いつつ、でも今一つ気合いが入らないものである。
 気になったことがいくつかあるが、その中で一番印象に残ったのは、球場の中を飛び回る蜻蛉の姿である。梅雨明けでそろそろ夏本番というときに、もう蜻蛉なのかなと不思議な気がした。セミの声が本格化する前に虫の声が響き渡り、何ともはや季節感がずれてきているような気もするのだが、今年は桜に始まりどんどんずれているのだろうか。秋の虫の声と言っても、最近よく聞くマツムシの仲間は在来種のマツムシに似た鳴き声の外来種とのこと。まあ季節を外していても仕方がないのかな、とも思ったりする。蜻蛉の方はさほど気にならない、アキアカネにはまだ早く、おそらくナツアカネの季節の始まりなのだろうから。それにしても、ここ数日の気温の高さ、湿度の高さは、やはり日本の夏がやって来たという感じで、いよいよ耐えられない日々の到来といった感じだ。季節感に溢れているのが日本の気候の特徴で、そういうものの無い土地に住んだりするととても懐かしいものに思えてくる。ただ、やはりその渦中に入るとそんな贅沢な気持ちはどこかに吹っ飛んで、いい加減にして欲しいなどと勝手な思いがよぎるものだ。そうは言っても、やはりこういう変化が一番嬉しいものである。この暑さがあるからこそ、秋の爽かさを満喫できるのだから。などと、やっぱり無理しているかな、今日も寝苦しい夜になりそうだ。

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7月20日(土)−儲かる科学

 科学者と呼ばれる人種は一体どのくらいいるのだろうか。大学などの教育機関、企業などの研究機関で働く人たちだけでなく、市井の科学家といった人もいるだろう。ただ一般には生業を科学そのものにしている人のことを科学者という場合が多いようだ。
 では、その数は、どのくらいか。実際に調査したことのある人はいないと思うが、ある程度こんな感じじゃないのか、という話は聴いたことがある。現在地球上にいる科学者の数は、有史以来たぶんついこの間、明治以前だったか、大戦以前だったか、とにかくそれくらいまでの間に存在した科学者の合計とほぼ同じといった話である。この真偽はともかく、そんなに多くの人たちが現在、科学に携わっているわけだ。もっとも、ずっと昔には科学は趣味の領域で、本業を別に持っていながら余暇として自分の知識欲を満たすために研究を行っていたから比較の対象外かも知れない。職業としての科学はニュートンの時代に始まったと言われ、その後徐々に増えていたものが、大戦前後から急激に増えたらしい。これは研究によってもたらされた知識を利用して身の回りの機械や道具となる機会が増えてきたからのようだ。確かに、節目節目で色んな研究が方向性をもって行われ、良いも悪いも十把一からげで結果を生み出してきた。それと共に職業としての地位を確固たるものにしてきたのだろう。しかし、どうも方向性が定まりすぎてきたせいか、昔の興味を満たすための研究は影を潜め、物作りだけを目指した研究が氾濫するようになった。それと共に、目的意識が明確なものだけが評価されるようになっている。遊びが良いとは言わないが、すぐそこにあるものを対象にするのではなく、ちょっと先にあるものを対象にする気持ちも大切だと思う。子供の時の気持ちを忘れたのかも知れないが。

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7月19日(金)−見えない方が

 ラジオを聴いていたらちょっと面白い絵本を紹介していた。本を見たわけではないので誤解している部分もあるだろうが、その関連として話を進めて行こうと思う。ラジオでは以前に柳田邦男さんの推薦絵本として紹介されたそうだが、今回は絵本作家自らが出演していた。
 絵本のタイトルは、「あらしのよるに」という。結構売れている作品らしく、反響も大きいのだそうだ。おおかみのガブとやぎのメイが嵐の夜に、真っ暗な小屋の中で出会うという始まりで、お互いの正体を知らぬまま意気投合して、再会を誓って別れるというところで終る、とのこと。作者は元々続編を書くつもりはなく、このまま後は想像の世界を展開して欲しいと思っていたらしいが、あまりにも反響が大きく、読者自身の続編までが送られてくる始末で、続編を書くはめになったとか。詳しい内容は本屋か図書館で確認して欲しい。面白いと思ったのは互いの正体を知らぬままという点で、本来なら食う者食われる者という関係が暗闇の中で対等となっている。それによって様々な誤解が生まれ、その後の展開も意外なものになっているらしい。姿を見れば明らかな強い弱いがあるのに、見られないために対等となるという点が気になってしまった。そこで思い出したのは、テレビ番組で取り上げていたある障害者の本の話。感動を呼ぶ内容に仕上げてられていたが、はたしてそういった背景なしで素直に作品を感動できるものとして受入れられるのか、と思った。作品の良さはそのものの中にあり、作者のおかれた環境に左右されるものではない。そんな印象と今回の絵本の話がなぜだか重なってしまった。

絵本作家のホームページ


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7月18日(木)−ゲット

 この所バタバタしていて、落ち着いて考える時間がないので、新しい題材が浮かんでこない。時間と言っても数分なのだが、追い立てられているとそういう時間さえ無くなってくるから恐ろしい。さて、そんな愚痴を書いていてもつまらないので、今日の題材をひねり出そう。
 ネット掲示板は情報交換の場と思っても良いだろう。新聞、テレビは交換ではなく、情報享受と言ったほうが良いようで、一方通行のものである。情報交換とは本来両方向のもので、与える側、受けとる側が時々入れ替わることによって成り立つ。この国に限ったことではないのかも知れないが、どうもこういった交換の精神が失われているような気がしてならない。情報は享受するものであって、自らが提供するものではないとか、提供できるほどの情報は持ちあわせていないから受け取るだけで十分とか、色んな理由をつけている場合があるが、どうもそんな理屈をこねるまでもなく、自分のことが知られるのが嫌という心理が働いているようだ。個人的なものは当然として、職務上のことにまでそういった心理を持ち込むこともある。職務上の秘密を守ることは必要だからその範疇のものは仕方ないが、何から何まで隠そうとするのはどうかと思う。他人の話を聴くことは大切だが、また一方で情報を得ようとすれば自らも少しは提供する必要が出てくる場合も多いのではないか。その辺りの理解は非常に乏しく、一方的にノートをとって立ち去る、一方的に質問して立ち去るといった人々をよく見かける。彼らにとってはそれで十分な情報を得られなくても良いのだろう。自ら働きかけることでより良い情報が得られる機会をたとえ失うことになったとしても。

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7月17日(水)−袈裟まで

 日本人は議論が下手で、外交でのディベートで損をしていると言われている。明治時代の政治家達はそんなことはなかったと聞いたことがあるが、実際にどうだったのかは判らない。外交での損が大きくなれば戦争などの大きな問題になるだろうが、そんな例は比較的少ないようだ。
 自虐的な発言を好むせいなのか、どうも議論が上手くないことに対する反論は少ない。確かに、議論の仕方を知らないとか、狭い社会の中では議論を避けるのが賢明だとか、根に持つタイプが多いから真面目な議論ができないとか、色んな意見があるけれども、日本人以外との議論の場では通用しない話である。自分の主張を展開する場合にある程度の興奮を伴うのは悪いことではないし、反対意見を述べるのに焦点をぼかす必要などない。はっきり意見を述べればいいだけなのだ。しかし、何も言わないのが一番損をしないと信じている人も多く、結論を出すための会議ではなく、結論を先送りするものや、既に根回しされた結論を認めるだけのものになったりする。これはこれで良い点もあるので、一概に否定するつもりはないが、議論の必要なときにしないのはどうかと思う。相手を目の前にして厳しい言葉を突きつけるのは嫌だと思う人は、やんわりとした言葉で同じ主旨の主張をすれば良い。ただ一つ気になるのは根に持つ場合で、これだけは議論の参加者に理解してもらわねばならぬ。批判的な議論は相手が憎いからやっているのではない、それによってより良い結論を出すためにやっているのである。面と向かう場合も、ネットで戦わす場合も、そういった感情が出てくるようではまともなものは期待できない。

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7月16日(火)−週明け感染

 週明けのメールチェックには特に気をつけたほうが良いようだ。コンピュータウィルスを運んでくるメールが含まれている可能性が大きいからである。以前のような甚大な被害を及ぼすようなものは減って、膨大な数のメールの発送によってメールシステムの能力を落とすタイプが増えてきた。
 なぜ週明けに気をつけたほうが良いのか。自宅でパソコンを使っている人には関係ないが、職場で使っている人は週末にメールのチェックを行わない。それで週が明けた最初の朝に、週末に受け取ったメールのチェックを行うことになる。もしそこでウィルスに感染したメールを開いてしまったらどうなるだろうか。感染したパソコンのメールアドレス帳に掲載されている相手への感染メールの発送がそこから始まる。だからその日のメールにウィルスが含まれている可能性が大きくなるのだ。また、ウィルスの感染源というか作成者はそういう意図をもって週末に仕掛ける場合が多いようである。困った性癖だが、最も効率良く感染させるためにはウィルス対策を練る組織も休みになっている時を狙うのが一番なのである。いずれにしても普段から注意していれば問題は起きない。ただ最近はパソコンのシステムも便利さを増していて、操作する側が意図せずともメールを開いたりする場合があるので要注意である。作成者は甚大な被害を期待し、ウィンドウズシステムを感染対象とするから、マックユーザーにとっては対岸の火事となるのだが、社内システムがダウンしてしまえば結局巻き込まれてしまう。

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7月15日(月)−本物なの

 日本独特のシステムというと何を思いつくだろうか。色々とあるだろうし、他の国でもやっているがよく知らないというのもあるだろう。戸籍や住民登録も米国では見たことが無いが、そういう中で印鑑押捺という習慣はかなり特殊に思える。
 外国人、と言っても欧米からの人たちにとって、印鑑はかなり珍しいものに映るらしい。そんなことから自分の印鑑を作ってから国に帰る人もあり、何度か見せてもらったことがある。一つはカタカナで名前の発音を表したシンプルなもの、もう一つは発音と同じ音になるように漢字を組みあわせたものである。前者はあまり面白くないが、後者はどんな漢字を当てはめるかという楽しみもあって、中々面白いものである。せっかく作った印鑑だからというわけで、色んな物に捺す人もいる。しかし、日本のように法的な意味を文書にもたせるための押捺はない。米国ではそういう場合サインを使うからだ。サインが正しいかどうかを証明する文書はなく、おそらく問題が起きたときには鑑定などをするのだろう。面白いことに、本人のサインが偽物とされ、秘書のものが本物とされたという話もあるらしい。日本の場合は印鑑登録を行い、その証明書をつけて実印を捺した書類につけて提出する。お墨付きということで良い制度だと思うが、それだけ面倒なものである。最近、銀行の通帳の印影の欄が省略されてきたのは、窓口での真偽の判断が不十分であるためらしい。複製も容易になったことも要因の一つだろう。

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