梅雨が明けてから、連日猛暑が続いている。特に今年は典型的な梅雨寒の後だから、この暑さはかなり体にこたえる。しかし、実際に毎日の気温を見ると確かに高いのだが、体温より高いことはあまりないようだ。
地球温暖化の話や、エルニーニョの話やらで、気温の上昇や異常気象が話題になっている。しかし、いざ昔の夏と比べて最近の夏が暑くなっているのかと聞かれると、はてどうだったのだろうかと考えてしまう。たとえば全国の最高気温の歴史上の記録はどこでいつ何度だったのか、などということを調べてみたら、意外に最近じゃなかったりする。きちんと調べていないが、山形、京都はそういう記録がでやすい土地のようだ。盆地ということでフェーン現象などが起きやすいこともあるのだろう。最近はアメダスの整備により記録地点が多くなったので、今まで全く知られていなかったところが顔を出すようになった。ここ数年では、静岡の天竜市周辺がよく話題になる。いずれにしても、気温として昔より高くなったのかと聞かれても、そうだと自信を持って答えることができない。人間の感じる暑い、寒いは相対的なものが大きく作用するからだ。暑さの感覚では湿度の影響が大きいからさらに難しくなる。寒さの方はどうかと思えば、降雪量など以前とはかなり違った傾向がみられることもあり、変化が起きているような気がするが、はたして気温の上昇と繋がっているのかすぐには判らない。結局こういうことを論ずるには人の感覚というのはあまり役に立たないもののようだ。
数字は便利なもので、数字を使うことで、色々なものの大きさ、重さ、数などをみんなに判る形で表現することができる。数という概念は人間の作り出したものだから、たとえばリンゴ2個とミカン3個で合計何個あるでしょう、などという問題に答えられない小学生がいたとしても、不思議ではない。
義務教育で算数、数学を学んだ過程で、上の問題に対する適切な答え方を身に付けたわけだが、実際にはリンゴとミカンは違うものだから合計などできないというのも答えになりうる。そんなに難しく考えなくても、数字とは仲良くしていきたい。特に桁の大きなお金とは、などと考えるのは欲張りすぎか。桁が大きくなると急に馴染みがなくなり、実感が湧かなくなるが、逆に小さな数字になっても難しいことがある。1よりも小さく0に限りなく近い数字などと言われてもさっぱり判らない。大きさではそのために色んな単位がある。世界標準はメートル法だが、メートルが小さくなるとどうなるのか。1メートル(m)の千分の一は1ミリメートル(mm)、そのまた千分の一は1マイクロメートル(μm)、そのまた千分の一は1ナノメートル(nm)、そのまた千分の一は1ピコメートル(pm)となる。つまりナノメートルはメートルの十億分の一となるわけだ。見たことがあるかどうか判らないが、大体の大きさはゾウリムシは0.1ミリメートル、大腸菌は1マイクロメートル、タンパク質は1ナノメートル、原子はその十分の一くらいで1オングストローム(Å)という大きさだ。これらのものは取るに足らない大きさのものだが、最近は小さい方にも注目が集まっているので、ちょっとくらい気にしてもいいのかも知れない。
セミナーや講演会で偉い人のお話を聴くと、やはりありがたく感じるのだろうか。道端で近所の人と話している内容は、平凡でありがたくないのだろうか。時々そんなことを考えてしまうが、人の意見を確かめるのはかなり難しい。時と場合によって違うということになるからだ。
しかし、本当に時と場合だけで違うのだろうか。元々面白い話、役に立つ話、ありがたい話などは、自分の持つ感想であって、目の前にいる人の顔によって変わるものではないのではないか。同じ人の同じ話を聴いても、時間の経過と共にありがたさが変わってくるとしたら、それは受け手の気持ちが変わったせいだろうか、それとも相手の立場が変わったせいだろうか。大した問題ではないのだろうが、どうも気になる。実際に講演者の顔を見られる場面では、その人の地位や雰囲気を掴むことができるので、それらから全く影響を受けないようにするのは難しいのだろう。では、同じような意見が出される場としての、ネット掲示板などではどうだろうか。あえて名前や地位を明らかにしているところもあるが、大体の場合は匿名である。だから、そういった先入観はほとんど入らず、ただ目の前に並んでいる字面だけがこちらに語りかけてくる。だからそれに対する感想もおそらく素直に抱いたものになるのではないか。ひょっとすると隣のおじさん、おばさんが投稿したものでも、ありがたい話はありがたく感じる。普段だったら余計な情報に邪魔されて、感じることのできないものを感じ取ることができる。そんなところにネットの良さを感じるのだが、どうだろうか。
ラジオは他のことをしながら聴けるので便利である。テレビには目を奪われてしまうから、集中しなければならなくなる。同じ耳を使うものとして電話があるが、会話となると口を使う必要が出てくるので他のことをしながらというわけには行かない。
ラジオやテレビにも双方向といったシステムが採入れられ始めて、視聴者参加などと色んなところで言われるようになってきた。しかし、一方的であることのメリットも無視できないのではないだろうか。双方向だと番組の編成なども聴視者の希望に合わせねばならず、それによって内容の偏りが出てくるだろう。聴きたいものを聴ける満足感は得られるだろうが、一方で情報の偏り、欠損が出てしまうことは否めない。一方的であるが故に、思いがけない情報を得ることもできるわけで、そういうメリットを失うような形にはなって欲しくない。先日もラジオで民謡の番組をやっていた。民謡には興味はないのだが、この番組のDJ、と言うか解説者と言うか、をやっている竹内勉の話がとても面白い。訥々と話し、落ち着いた口調なのだが、言っていることはかなり厳しい。今回も「強い」民謡歌手ということで色んな人を紹介していたが、そのほめ方が中々ふるっていた。「強い」というのは、こういう意味で、そうなるためには、頑固でないと駄目で、などと言いながらほめるのだから、素直に聴けないところがある。でも、だからこそ、面白いのだ。やはり人間性がはっきりと出てくることが大切なのだということが判ってくる。
先日友人に誘われて、地方の美術館のような施設に行ってきた。町が作った創作の森という施設で、森の中に美術館、ガラス工芸館などが点在し、その他にも小川や広場などを設けて、屋外展示もできるようにしていた。
今回は陶芸、彫刻、染織といった分野で活躍する女流芸術家三人による創作展とそれに伴うシンポジウムだったのだが、片田舎といった雰囲気なのに結構多くの聴衆が集まっていたので驚いた。ここは特にガラス工芸の教室で有名らしく、パンフレットを読むと中々本格的なカリキュラムが組んであった。当然ながら経費もかなりかかるようだったが。シンポジウムは美術評論家である館長と三人との間のお話で、特にこれまでの作品の紹介と説明にほとんどの時間を費やした。説明の後、館長から評論家然とした質問も出され、何とか重い口を動かしている人もいた。それに比べると聴衆からの質問の方がよほど新鮮で、特に芸術家はいかに儲からない職業かといった話題ではかなりの盛り上がりがあった。確かに、どんな分野にしろ創作活動をする人はよほど有名にならないかぎり、創作からの収入のみで生活することはできない。女性ということもあって、最年少の方からは結婚、出産、子育てということをいかに回避するかといった発言もあり、考えさせられる場面だった。シンポジウムの後、野外に展示してあるそれぞれの作品を見て回ったが、三人とも展示場所の様子を見てから構想を練るだけあって、面白いところがあった。他の展示物を見るかぎり、展示期間が終わってもそのままそこに残される運命にあるようだ。今回の訪問では、自分のやりたいことを貫くといった姿勢が強く感じられたのが良かったのだろう。
相場で儲け続けるには何が重要なのだろうか。100万円を1億円に増やすための投資法という主旨の本も沢山出ているが、その真偽はさておき、ここでの問題は継続性である。たとえ一時の儲けが少なくてもいいから、儲け続けるにはどうしたらいいのだろうか。
この質問を数学の特に確率を専門にしている人にすると、次のような答えが返ってくることが多い。相場で儲けることは、カジノのギャンブルで勝つことと同じことである。それではギャンブルに勝つためにはどうすべきか。極端に言えば、二つの戦略がある。持ち金をある程度分割して、チビチビと賭け続けるやり方と、持ち金を一度にポンと賭けるやり方である。ブラックジャックだろうが、ルーレットだろうが、そこに何らかの情報があって、どんな出目があるのかを知っていたら、それにあわせて賭けるのが必勝法なのだろうが、一般にはそんな情報を持ち合わせている人はいない。全く情報のない状況では、チビチビではなく、一度にポンと賭ける方が勝率は良くなるのだそうだ。この理由を何度か説明してもらったが、中々分かりにくい。結局持ち金が無限大にあれば別の話になるらしいのだが、どこにも限界はあるので、一発勝負が良いということになるのだそうだ。相場の方も同じことで、一度だけ勝ったというのはよく聞く話だが、いつまでも勝ち続けるのは難しい。成功した人でもあるときに大きな損失を抱えてしまうのは、絶対的な必勝法がなく、単に確率的なことで振り回されているという証拠なのかも知れない。但し、これは売買を繰り返す投資法での話で、別の投資法を実践する場合には話が違ってくる。
夏休みに入って、朝のラジオでは子ども科学電話相談が始まった。素朴な疑問から、奇問、珍問、難問まで、次から次へと寄せられる質問に専門家たちが平易な言葉を駆使して答えていくという番組で、一体何年ぐらい続いているのだろう。
子どもを相手にするときに困ることの一つは、質問攻めにあうことなのではないだろうか。確かに、ゲームの相手をさせられるのも困るし、言うことを聞かないのも困る。しかし、次から次へと繰り返される質問にきちんと答えることは至難の業であるし、答えがさらなる質問を呼ぶことが繰り返されたりすると嫌になることが多い。昔読んだエジソンの伝記では、彼が幼少の頃に何にでも興味を持ち、それに対して出てきた疑問を周囲の人にぶつけて、辟易とされていたなどとあったが、どうも子どもというのは古今東西そういった存在のようである。ただ、それを繰り返しているうちに周囲の状況を判断して、質問をしなくなり、大人しくなっていく場合が多い。この時同時に疑問に思う心も失われる場合が多く、深刻な問題を産んでいる可能性もある。子どもにとっては周囲にいる大人は何でも知っているはずの存在で、だからこそ知りたいことを一つ一つ聞いてくる。しかし、大人の方はあるところから面倒になったりして、いい加減な受け答えをして、うるさがったりする。正確な答えを必要とするかどうかは別にして、きちんとした対応が必要なときもあるはずなのに。さすがに、ラジオの相談にあたる専門家の人たちは仕事でもあり、慣れているせいもあって、ユニークで矛先を躱すような答え方をしている。一つ重要に思えるのは、質問に対する質問をすることなどで、本人の興味を無くさないように心がけているようなところだろうか。