パンチの独り言

(2002年8月5日〜8月11日)
(数は苦手、他山、二度は三度、列車の旅、自分落下、都会の秘境、褒貶)



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8月11日(日)−褒貶

 最近、教育現場では褒めることの大切さが論じられるようになってきた。褒めると言うより、褒めてあげると言ったほうが正しい表現なのかも知れない。子供達の良いところを見つけて、それを指摘することという意味なのだが、どうもおかしな気がするときもある。
 悪いところには目をつぶって、良いところを探すということは別に悪くもないし、それによって積極性が引きだされるのなら、良いことだろうと思う。しかし、悪いことをしていても目をつぶるというのでは、ちょっとおかしいのではないだろうか。また、悪いことをやっているのに、それを善いことのように褒めるというのはもっと変だ。褒め方の話で、そういう誤解を生みそうなことが正しいことのように言われたりするので心配になる。さて、一方でこういう具合に褒められることだけで育った人達がいたとして、その人達に今の日本は駄目だなどという話はどう響くのだろう。悪いところは指摘しない、駄目だとか、馬鹿だとか言わない、という中で、いくら人ではないにしろその集団としての国をけなすような発言はどう映るのだろうか。現状を見るかぎり、褒められ続けて育った人はほとんどいないだろうから、こんな心配は無用なのだろうが、褒められることで積極性を引きだされてきた人達には、こういう「駄目」発言が効果を生み出すとは思えない。駄目だ、駄目だと言われ続けながらも、なにくそという精神で頑張った人にはこんな言葉がやる気を奮い起こさせるものになるかも知れないが、逆のタイプの人には逆効果なのではないか。だからと言って、現状を見ずに大丈夫、大丈夫と同じ発言を繰り返す人達を見ているとどちらにしても危ない時代なのかも知れないと思えてしまう。いずれにしても、そういう言葉に振り回されることなく、自分の能力に自信を持つことが大切だと思う。

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8月10日(土)−都会の秘境

 暑くなると涼しい所を求める。家の中であれば、猫のいる所が一番涼しいとよく言われるが、猫を飼っていないと判らない。涼しい所を求めて外出するとなると、一番に思いつくのは山であろうか。次に思いつきそうなのは水のある所、川とか海ということになる。暑さを避けるために人工的な場所に行くよりも、やはり自然の中に行きたいものである。
 水のある所として思い浮かぶものに、他にもたとえば尾瀬のような湿地帯がある。ただ、そんなに遠い所にはちょっと出かけるというわけにはいかない。でも、地方によっては意外な場所に湿地帯があるものである。昔、自転車で30分ほどのところにある墓地の近くによく出かけた。墓参りに行ったわけではないし、また近くにあった全国での先駆けと言われた自動車学校に通ったわけでもない。自動車学校の脇を抜けていったところにこんもりとした森があり、その丘陵地の奥に湿地帯があった。今では周囲も開発が進み、果たして昔のまま残っているかどうか判らないが、その当時はミズゴケがびっしりと生えた中に、コモウセンゴケなどの食虫植物が生えている不思議な場所のひとつだった。近くにある池にはタヌキモという水中食虫植物が自生していて、時々観察に出かけていた。採集が目的ではなかったが、中にはミズゴケをごっそりと持ち帰っている人もおり、何に使うのかと思っていたが、後日ガーデンショップでその疑問が解けた。その場所はとても変わった所らしく、当時から既に希少種として話題になっていたハッチョウトンボもその季節になると雄雌共に見かけることができて、なぜこれが珍しいのかと不思議に思った。ただ、新聞などでその場所が取り上げられることもなかったので、おそらくそういう情報網に載せられなかったものなのだろう。こんな自然に豊かな場所も開発の波に押されて、今では道路に囲まれるようになってしまった。なんとなく気にかかっているのだが、見に行くことはしていない。残っていてくれたら、嬉しいのだが。

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8月9日(金)−自分落下

 テレビのニュース番組などを見ていると、時々外国の要人とのインタビューが放送される。特に、生中継の場合は、その場で日本語に翻訳する必要があるので、同時通訳の登場となる。最近はかなり数が増えてきたようだし、色んな言語の通訳が活躍している。たとえば、読んだ本のコーナーで紹介している米原万里さんはロシア語の同時通訳者である。
 同時通訳という職業が一般に知られるようになったのはいつ頃だろうか。おそらくかなりの数の人達がアポロの月面着陸の場面を思い出すのではないだろうか。最近映画で有名なったオーストラリアのアンテナ基地を中継して全世界に放映されたあれである。あの当時、宇宙飛行の中継が入ると必ず登場する同時通訳がいた。村松増美さんという方で月から送られてくるとても鮮明とは言えない音声の英語を巧みに日本語に翻訳していた。こちらは英語がさっぱりだったから、本当にきちんとした翻訳かどうか判るはずもなかったが、なにしろあっちがしゃべっているのと同時進行で別の言語が出てくるというのには驚かされたものだ。でも、今ではそれもごく普通に見られるようになった。通訳に必要な能力の一つに途切れることなく話を進めるというものがあり、そのために即興的なウィットやらユーモアも要求されるらしい。村松さんはその能力にも長けていて、先日ラジオに出演していたときも面白いお話を連発していた。その中で興味深かったのは、多くの国の人が集まるところでのユーモアの心得で、色んな国の人々の特徴を風刺した話をするのが手っ取り早く、受けも良いけれども、注意することが一つだけある。最後のオチで必ず自分の国のことを引き合いに出すこと、それですべてが丸くおさまるそうだ。

村松増美


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8月8日(木)−列車の旅

 昨日に続いて、鉄道の話題をしようと思う。別に鉄道マニアではないので、国内の鉄道にしても海外のものにしても詳しい話ができるわけではない。ただ、一般の使用者とした感じたところを書いておこうと思ったわけである。
 日本の鉄道ではターミナルというのは非常に少ない。終着駅という意味で考えると、そこから先の線路が無いわけだから、ほとんどの駅は単なる通過駅となる。欧州の駅はターミナル形式が多いが、これは駅の建設や乗り換えの便利さなどから来るらしい。駅に玄関を作り、それと同じ階にホームを建設するので、乗り換えも階段を昇降する必要がない。しかし、列車の出入りは少々複雑になる。その辺りが不便で、特に遅延列車が出るとホームの変更などで混乱する場合がある。言葉の通じない者としてはこれが一番の悩み事となる。なにしろ入線の数分前に変更があり、乗り間違いも起きやすいからだ。一方米国では地下にホームを作っていて、待合室が階上にある所がある。こういう駅での乗り換えは中々大変で、まず待合階まで上り、そこで乗り換え列車の表示を待つ。どの番線に入るかは予定が表示されるまでは判らず、その列車を待つ人々は表示が出るまでそこで待つ。いざ表示が出るとそのホームに向かってどっと下っていくわけで、通勤列車に大きな荷物を抱えて乗ろうとするとかなり大変である。もう一つ面白いと思ったのは切符の購入だろうか。地下鉄などでは自動販売機があって便利なのだが、料金体系が複雑で判りにくい。週末、昼間などの割引やら何やら全て表示されていてどれを選んで良いものか迷わされる。いやはや鉄道の旅も楽しいと思えばそうだろうが、気になることも多いものだ。同じことがこの国に来る外国人にも言えるのだろうが。

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8月7日(水)−二度は三度

 郵政事業の民営化が色んな形で議論されているようだが、どうも姿形が見えてこない。まあ、これまでも国鉄、専売公社など色んなものが民営化されてきて、その過程ではっきりしない面も多かったから、また今度もそんな調子かと思えてしまうが、はたしてそれで良いのかどうか、自信は持てない。
 国営のものが民営に移行するというのは日本だけで行われていることではなく、欧米各国で実施されたことである。アメリカの郵便事業は民営化後も失われた信用を回復できず、翌日配達を売り文句にした会社に信用とともに実績も奪われてしまった。欧州では鉄道が良い例だろう。ドイツも、イギリスも、民営化された途端に事故、運行の不手際など色んなトラブルに見舞われていて、その国々の人達からなぜ日本のJRは運行、整備など以前と変わらぬレベルを保てているのかと質問される。JRはサービスが格段に良くなっただけでなく、自慢としていた運行と整備も良い状態を保っており、どこに理由があるのか、どこが欧州の鉄道と違うのか、良く判らない。確かに民営化の前から、イタリアの鉄道ではストで全てが止まってしまったりとトラブルが多く、信用できないという評判だった。しかしドイツなどは国営の時代は非常に高いレベルを保っていたそうだ。仕事に対する誇りというのに違いの原因をもっていく考えもあるが、それは彼の国々の人達に対して失礼だろうし、日本人にそれほどの誇りがあるのか最近では怪しくなっているのでどうにも落ち着きそうにもない。こういう良い例の方から考えると次の民営化でもそれほどの障害が出ないと考えたくもなるのだが、どうだろうか。今回の場合は競合という新たな問題を含んでいるだけに、今までと同じ考え方が通用するとも思えないのだが。

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8月6日(火)−他山

 8月に入ると毎年話題になることが二つある。一つは原子爆弾のお話、もう一つは終戦のお話である。既に50年以上経過しているが、風化することのない話題である。ただ、どうも忘れ去られている部分もあるようで気になることもある。
 最近テレビのドキュメンタリー番組で同じような話題が二度取り上げられていた。被爆少女が千羽鶴を折るというお話である。きちんと覚えていないが、禎子という名の少女が原爆症の回復を祈って千羽の鶴を折るという話で、志し半ばにしてこの世を去ってしまうという内容だったと思う。昔教科書かどこかで読んだような気もするが、どこだったのか思い出せない。この頃、この話は世界の色んな国で教科書に取り上げられているのだそうだ。番組の一つは、モンゴルでこの話が歌になって歌い継がれていることと、禎子の話を人形劇にして上演する女性の記録で自分の子供達が大きくなったのを機に昔やっていた人形劇を復活させるという内容だった。もう一つの番組も、歌の話や町の人達の話など同じような内容で、最後まで観ていなかったので、詳しいことは判らないが主題は同じだったようだ。同じ話題を同じ年に違うテレビ局で取り上げるというのは偶然にしてはおかしな気もするが、モンゴルでこの話を知っている人がいるということだけでも驚かされた。最近は、原爆の悲惨さや戦争の惨さを認識するために修学旅行で広島や長崎に行くようだが、普段学校でこういうことに触れる機会は少なくなっているのではないだろうか。昔のように、映画や漫画でこういう話題を取り上げることも少なくなってきた。祈念日ということで思い出すことの大切さを否定するつもりはないが、機会あるごとに話に触れることの大切さも忘れないようにしなければと思う。

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8月5日(月)−数は苦手

 今話題のことを取り上げるのはあまり好きではない。どうしても好き嫌い、善し悪し、賛成反対などという形になってしまいがちだからだ。そういう書き方をすると、読む方もその流れに乗せられて、本当の問題がどこにあるのか判らなくなることが多い。
 それでも取り上げたくなった話題がある。休日の朝のテレビ番組で話題にされていたのだが、気になることを言っている評論家がいたので、その気になった。住民基本台帳ネットワーク、略して住基ネットというらしいが、このお話である。中高年の方達はおそらく国民総番号制との重なりを意識しているのではないだろうか。自分を番号で呼ばれることに対する抵抗感、まさにこの話をある評論家がしていた。まるで「囚人」のように番号で呼ばれるのは御免というのが主張の一部である。人権云々という話をするまでもなく、こんなことを引き合いに出すのはおかしいし、そんな感情的なことを施策に対して主張するのも変だと思う。総番号制の時と違って、今ではデータ処理の段階で表面に現れない番号で処理されていることは確実で、それを統一することが今回の目的の一つだから感情でものを言っても始まらないと思う。こういうデータをネットワークで閲覧できることの問題をそういう形ではぐらかしては、また訳の判らない議論が始まり、本質を忘れてさらにひどい状況を招く。相変わらず懲りない人達だなと思ったのが正直な感想である。本来データは色んな所に保持されているわけで、それが芋づる式に繋がることの危険性を指摘すべきなのだろうが、実はデータ閲覧だけでなくデータ改竄の危険性も指摘されている。これは番号で整理されているから起きるのではなく、データの閲覧とデータの保存を同じ系統で行うシステムの問題なのだ。その辺の議論を非専門家が行っても埒が明かない、専門家から見て準備不十分なら止めておいたほうが無難というものだろう。ただ、米国の社会保障制度(Social Security)のことを考えると、どれほどの問題があるのかとも思えてしまうのだが。

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