パンチの独り言

(2002年8月26日〜9月1日)
(色違い、埋伏、解読不能、異同、同好の士、秋鮭、長短交々)



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9月1日(日)−長短交々

 音楽を聴くと気分の変わることが多いし、その時の気分によって聴く曲を変えることも多い。絶対音感を持っている人にとっては、音階だけで楽しめない場合もあるのかも知れないが、そんなものを持ち合わせていない人間にとっては楽しい曲、悲しい曲、嬉しい曲、愉快な曲、怒りの曲、などなど様々な感情が引きだされる。
 ピアノの鍵盤を見ればわかるように、曲ごとにそれぞれの音が変わるわけではなく、限られた種類の音の組み合わせで様々な曲調が奏でられているわけだ。ではどうしてあれだけの音の組み合わせで、楽しいと悲しいといった全く正反対の感情が引きだされるのだろうか。音楽を聴いて楽しいとか悲しいとかで愉しめばいいわけで、その理由などは知らなくても良いのかも知れないが、ちょっと思い出して欲しい。音楽の時間に習ったはずで、この違いは確か長調と短調の違いによるもので、楽しい曲は長調、悲しい曲は短調と覚えたような記憶がある。では、長調と短調の違いはどこにあるのか。たとえば、音階がいわゆるドから始まる長調はハ長調と呼ばれるが、ハと呼ぶのは日本ではドレミファソラシドをハニホヘトイロハと当てはめているからである。この音階と全く同じ音を使う短調はイ短調と呼ばれるが、これはドレミでいうラの音から音階が始まるからである。同じ種類の音を使っているのに、片方は長調にもう一方は短調になるとは、なんということか。余計にややこしくなってしまったのだろうが、音階の始まりの違いは和音の違いを生み出すと思えばいい。ハ長調のドミソの和音に対応するのが、イ短調のラドミとなる。近くにピアノなどの楽器があったら試してみると、ずいぶんと違った感じになるのがわかるかも知れない。ちょっと見方を変えて音の違いを色の違いと考えると、和音の違いというのは色の混ぜ方の違いとなる。混ぜ方によって、楽しい色になったり、悲しい色になったり、暖色と寒色の違いのようだが、音とは違って色ではそんな正反対の色の違いは出せないと思う。とにかく長調と短調という音階の違いで気分がコロッと変わってしまう。同じ曲をこの違いに当てはめて弾いてみるとよくわかるそうで、使われていたのは「蝶々」、試してみようか。それにしてもたったそれだけのことであんなに違った気分になるとは、音楽が不思議なものなのかそれとも人間が不思議なものなのか。

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8月31日(土)−秋鮭

 先日、司会者の態度からあまり好きでもないテレビのクイズ番組で、あきあじとはどんな魚のことを言うのか、という問題が出ていた。かなりの高額に達していた賞金を得るために回答者は会場に助けを求めたが、結果は二つの答えに同じ程度の支持が出てしまい、迷った挙げ句間違いの方を選んでしまった。
 正しい答えは鮭のことであり、ここで選んだ答えの方は秋刀魚だった。本人も迷っていたのだから仕方のない所だが、なんとも難しい問題に思えたのだろう。秋の味覚と言われて、すぐに思いつくものの一つに秋刀魚があるから、こういう答えをしてしまったのも無理はない。暦の上では秋に入ったとはいえ、まだまだ食べ物の方はほんの走りのものしか出回っておらず、旬に比べると数倍の値段がついている。秋刀魚もキラキラと光っているものが店先に並んでいるが、お値段はというと一匹400円近くしていたりする。今はまだかなり北の方にいるので、たぶん北海道沖辺りで獲られたものが出回っているのだから、輸送経費などばかにならないのだろう。しかし一方で、こんな季節でも、新鮮な秋刀魚が日本各地で手に入るようになったというのは、流通システムのお陰である。ただ、そのお陰もあって、高いお金を出さされているのかも知れないというのもおかしな気もするが。昔から秋刀魚が好きだったのは、非常に食べやすい魚の一つだからだ。小骨もあまりなく、身ばなれも良いので、魚の食べ方が下手な人でもほとんど問題ない。臭みが嫌な人もいるのだろうが、比較的人気の高い魚であろう。焼いて食べる以外に食べ方を知らなかったが、10年ほど前に関東方面に移ったとき、初めて秋刀魚の刺し身というものに出くわした。はっきり言って、うまかった。かなり新鮮なものでないと刺し身では食べられないので、水揚げのある漁港の近くだけの限定品だったらしいのだが、最近は流通効率の良さから、結構いろんな所で食べることができる。これとは別の珍しいものに、秋刀魚寿司というのがある。これは熊野地方特産と言われているが、他でもあるのかも知れない。鯖の押し寿司のような、秋刀魚の押し寿司である。去年は秋刀魚があまり南下せずに漁獲量が減り、秋刀魚寿司も危機に瀕したとの話だったが、さて今年はどうなるのだろうか。

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8月30日(金)−同好の士

 世の中には書くことの好きな人が沢山いるらしい。インターネットを使っていろんなサイトを訪問してみると、様々な話題に関する意見や感想が書いてあるし、まるで教科書のようにある教科の学習内容をまとめたものまである。情報を享受するだけではもの足らず、自分から情報発信をしようという心なのだろうか、それとも単に発散しているだけなのだろうか。
 その中でも独り言はいろんな面をもちあわせていて面白い。日々の出来事を書く日記のようなものから、論説、コラムのように真面目な雰囲気のもの、エッセーのように少しくだけた感じのものまである。日記の場合はほぼ毎日という縛りがあるので大変になるらしく、全体的に短いものが多いのに対して、他のものは内容をもたせることの方が優先されるから長くなる。他人の日記をネットで覗き見るというのは変な気持ちがするものだ、とある友人が言っていたが、個人的な話題が含まれるものほどそういう感想が増えるようだ。これはネット社会に限ったことではなく、一般に売られている本にもあてはまる。たぶんアイドルの場合そのファンはアイドルの私生活に関する話題をより多く望むのだろうが、エッセーはもっと多くの様々な経歴の持ち主たちが書いているからそうなるとは限らない。ところが二ヶ月ほど前ラジオの朗読の時間に放送されていたエッセーはまさにそういった形のもので、ある絵描きが書いたものなのだが家族の生活が綴られていた。その時思ったことは、自分の家族のことをこんなに赤裸々に語るのはどうも感心しないなということ。確かに何気ない風景と言えなくもないのだが、どうも素直に受取れない感じがした。嘘とか真実とかそんなことによるのではなく、ただ単に抵抗感があったのだ。この本の感想を探そうと検索をかけてみたら幾つか出てきた。ドイツ文学者の池内紀さんのものもあり、著者の人となりを紹介した好意的な感想であった。もう一つ目に留まったのはごく普通のサイトの中にある読書感想文のようなもので、こちらはやはり家族の話題に触れることに対する感想が記してあった。ついでに、このサイトの他の部分を覗いてみると、そこには管理人の書いた小説やらのいろんな書き物が並んでいるし、掲示板にはお仲間と見られる人々の書き込みがある。それを辿って行くとさらに多くの書く事大好き人間達が現れてくるのである。世の中に同人誌は山ほどあるとは言え、ネット社会にはそれとは少し趣を異にする場があるようだ。興味のある方は一度覗きにどうぞ。

Dull's Room


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8月29日(木)−異同

 このところ公共事業に回る予算が削減されていると言われている。この場合、道路の建設や公共性の高い建物の建設などがその対象だと思うのだが、こういったものの新規の計画が抑えられているようだ。膨大な額の予算を必要とするものだから、これらがもっと生活に密着したものに回されるのであれば歓迎すべきなのだと思う。
 ところが様子を見てみると、どうも事はそう簡単にはいかないらしい。というのも、たとえば高速道路の建設計画が見直されるとなった途端に、整備新幹線の計画が復活してきたように、いわゆる国土交通省の管轄という同じ括りの中での変更しか行われていないようにも見えたからである。それと平行して、さらに複雑なことが行われているような感じさえすることがあった。知り合いの話や掲示板での話題から推察するに、昨年度の後半から日本全国いろんな所の国立大学で建設ラッシュが始まっているように思えるからだ。大学での工事は公共性があるとはいえ、大学の建物は一般道路や高速道路などのように誰もが使うというものではない。それに、管轄は文部科学省だから、上で書いたような括りも適用されない。そういうことを意図した上での補正予算、および年度予算の配分なのかどうかはわからないが、今年度に入っても工事が続いているばかりでなく、どうもどんどん増える傾向にあるらしい。国立大学は東京大学を始めとして、建物が古く、使い勝手が悪く、劣悪な教育、研究環境を放置していると、ずっと言われ続けてきた。この原因は主に、建物の修復および建替えにかかる費用を賄うだけの予算を各大学に配分してこなかったことにあり、劣悪と言われ続ける中で何らの変化も生み出せなかった理由のようだ。それが東京大学の総長を始め、いろんな人たちが様々なところで役所の関係者だけでなく、一般大衆に対して訴えかけることによって、かなり改善されてきた。今回のこともその流れがより強くなったものと受取ることもできるのだが、どうも別の要因もあるように思えてしまう。どちらにしても、金が流れて行く先はよく似ているわけで、それが全ての疑いの源となる。もしかしたら、そんなことが今回の大学の建築バブルの理由なのかも知れない。

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8月28日(水)−解読不能

 職場の近くに植えられている桜の木のそばを通ると、なぜだか桜餅の匂いがする。桜餅と言っても、ここでは粒々の餅にこしあんが入って桜の葉の塩煮で包んだものだが、その匂いがするのである。よく見ると葉が毛虫に食われているようだ。昔ならばアメリカシロヒトリだったのだろうが、これは何奴の仕業なのだろうか。
 草花や木の名前を漢字で書くと突然読み方が判らなくなるものが多い。ちょっと紹介してみるので、既に御存知のものを除いて、考えてみて欲しい。

百日紅:みそはぎ科の落葉高木。幹はなめらかでつやがある。
山茶花:つばき科の常緑小高木。秋から冬にかけ、白または薄紅の花が咲く。
馬酔木:つつじ科の常緑低木。早春、小さい白いつぼ形の花をふさ状につけ、下垂する。馬などが葉を食うと体がしびれるので、こう書く。
梔子:あかね科の常緑低木。夏、芳香のある白い六弁の花が咲く。
石楠花:山地に自生する、つつじ科の常緑低木。花は紅色・淡紅色で、初夏に集まり咲く。
翌檜:深山に自生する、ひのき科の常緑高木。葉はヒノキに似て、もっと大きい。

 さて、どのくらい分かっただろうか?ここでは読み方を紹介しないので、できるだけ自分で調べて欲しい。これらの漢字をどこかにペーストして再変換すれば、読み方が出てくるとは思うがそれでは芸が無いような気もするが、それぞれの人たちの自由には違いない。とにかく木の名前というのは色々とあって、それぞれに漢字が当てはめられていることがほとんどである。外来種の場合はどうしてもカタカナになってしまうが、定着して長く経過したものには漢字が当てられているようだ。上に挙げたものとは違い、多くのものは木偏の漢字である。幾つ思い出せるか試してみるのもいいが、ちょっと大変そうだ。そんなことに興味を持った人が書いた本で、面白いものがあるので紹介しておこう。

木偏百樹


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8月27日(火)−埋伏

 昼間点灯という言葉を御存知だろうか。対向する二輪車を四輪車の運転手が発見しにくいということで、以前から二輪車は昼間からヘッドライトをつけて走ることが義務づけられ、常時点灯する装置が付けられているそうだが、最近四輪車でも昼間ヘッドライトを点灯する試みが進められているそうだ。
 この昼間点灯推進運動は元々自治体ごとに進められていたので、既に去年辺りから始められていたようだが、その地域以外にはあまり知られていなかった。しかし、最近タクシー会社や運送会社が実施し始めたことからよく知られるようになったらしい。と言うよりも、タクシーがヘッドライトを消し忘れているのを見つけて注意したことがある人もいるのではないだろうか。つい先日もそんなことがあって気になっていたのだが、テレビのニュースでこの推進運動の話題を取り上げていたことからやっと納得したわけである。ニュースによれば、昼間点灯の目的は相手に注意を促すもので、昼間でもライトの輝きによって視認しやすくなるとのことだ。北海道、長崎県、長野県などがこの推進運動を進め、長野県の調査では事故の割合が減少したという結果も出ているそうだ。この動きに乗ったのがタクシーや宅配のトラックで、会社を上げて取り組んでいるとのこと。意外な効果には、エンジンを止めるたびにライトを消さなければならないため、運転の手順をきちんと踏む必要がでて、漫然と運転を始めることが少なくなるということもあるらしい。これは宅配の運転手にとっては重要なことで、配達と運転を兼ねるためにそういうことが問題になるそうだ。ただ、良いことばかりではなく、全ての四輪車が昼間点灯を始めた場合、既に点灯することによって目立っている二輪車が目立たなくなるのではないかという危険性がある。一方、強制点灯装置の搭載の義務化に関する法整備なども問題となるためにEUでは反対運動も起きているそうだ。EUでは各国が独自のルールを作ってそれを実行しているために、そこへ強制力をもつ形で装置搭載の義務化を導入するのは実情に合わないかららしい。実際に北欧諸国では既に昼間点灯を導入しているが、これは緯度の高い地域特有の薄暮の時間が長いことによるものだそうだ。参考のために詳しいサイトを紹介しておく。

四輪車の昼間点灯に関する情報


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8月26日(月)−色違い

 最近、果物屋の店頭に並んでいるものに見たこともないものが増えてきた。いろんな国から輸入される果物なのだろうが、外見からどんな味がするのかを言い当てることはかなり難しそうである。大体の場合、酸味の強いものが多いので、そんな味を言っておけば無難なのだろうが、中にはまるで違った味のものもあるようだ。
 国内でも、新しい品種の果物や外来種を日本で育てられるように改良したものが出回り始め、賑やかになっている。いずれにしても、新しいものを試すにはかなりの勇気がいるものだ。それにしても、輸入された果物が現地でも同じ味なのだろうか、という疑問が浮かぶ。特に酸味の強いものはそんな気がしてしまうものだ。バナナなどは熟させる方法が確立しているので、ほとんど変わらないようだが、多くの果物は実が熟していないまま収穫されて輸送されてくるわけだから、味が違っていても仕方がないのかも知れない。米国で食べる果物のうちで印象的なのは、ハニーデューメロンだろうか。直径20センチほどの緑色の果肉のメロンで、その名の通りとても甘い。最近は国内でも見かけるようになったが、果肉が堅く、甘さも足りない感じがする。プラムやアプリコットなど他にも色々とあったような気がするが、こちらであまり見かけないので比較のしようがない。ところ変わってイタリアでまず思いつくのはブラッドオレンジである。文字通り血のオレンジで、イタリア語でもsanguinellaと呼ばれる。確か前のほうが血を表す意味の言葉だったと思う。これがとてもドギツイ赤い果肉をもつオレンジで、初めて見たときは食べる気が起きない。実際に、北イタリアのある駅で日本人の子供が現地のおじさんに渡されて、剥いてみたら真っ赤で食べるのを躊躇したという話もある。見ず知らずの人が果物を渡してくれるというところがいかにもイタリアらしいが、渡されたほうは中身を見てちょっと考えてしまうわけだ。それほど印象的な色をもつオレンジなのだが、実際はとても美味しい。逆に外国人から見た日本の果物の話で思いつくのは白桃である。日本の桃は柔らかくてとても美味しいが、これに対して、米国の桃は黄桃で堅くて酸味さえ感じられる。日本を旅行した米国人から白桃の値段に対する驚嘆の声が上がっていたが、すかさず味はどうだったと聞くと、ニヤッとしながら期待した通りの返事が返ってきた。それが値段に見合うものと思うかどうかは人それぞれだが、桃に対する認識が変わったことだけは確かである。

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