パンチの独り言

(2002年9月9日〜9月15日)
(秘伝、異端、通訳、権能、馬耳、隠顕、雅俗)



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9月15日(日)−雅俗

 宮中の行事などでオーケストラなどの西洋音楽とは違った異様な響きの演奏が紹介されることがある。何やら見慣れる楽器を持った見慣れる装束の人たちが演奏しているのは雅楽と紹介される。そういえば音楽の時間に習ったような記憶があるような無いような。とにかく、間延びした変わった音楽だ。
 数年前までは雅楽といえばこんな印象しかなかった。ほとんどの人がそうだったのではないだろうか。ところが最近はかなり情勢が変化している。特殊な場面でしかお目にかかれなかったものが、意外なところで紹介されたり、テレビのCMで流れたりするようになった。その発端となったのが雅楽の演奏家の東儀秀樹という人だ。どんな人なのかそれぞれ調べていただくとして、この人の登場で雅楽がテレビ、ラジオのマスメディアでたびたび流されるようになった。それにしても何とも言えぬ不思議な響きをもった音だ。あるところでは「たおやかな」と表現されていたが、しなやかでやさしいという意味らしい。いずれにしても突然の登場であり、日本独特の音とはこんなものなのかと再認識させられる。と言っても、雅楽も元々は外国から入ってきたもののようだ。ただ、そのままの形で残っているものが他の国にはほとんど無いために日本独特と表現してもよいとも言える。1200年もの時代の流れにほとんど変わらぬことなく伝えられ、現在は宮内庁式部雅楽部が中心となって継承している。雅楽とは元々俗楽に対する言葉で、正しい音楽という意味であり、こういう歴史から来ていることが判る。この伝統から抜け出すことはこれまであまりなかったのかも知れないが、彼が雅楽部を退職して独立したことで様相は一変した。その後は、単に雅楽の演奏だけでなく、他の音楽とのコラボレーションも盛んに行うし、奈良の薬師寺などでのコンサートを行ったりして、盛んに活躍しているようだ。伝統を打ち破るというほど強い気持ちではないのかも知れないが、面白い試みと言えるのだろう。このままだと単なる宣伝に終ってしまうので、最後にちょっと思ったことを書いておく。雅楽の楽器の中の管楽器に笙(しょう)とか篳篥(ひちりき)というものがある。これらはリードをつけた楽器で、クラリネットなどと同じ系統と思えばいい。ただ音色はまったく異なっていて、表現しがたいものがある。難しいと思っていたのだが、ある時ひょっとしてと思いついたものがある。楽器と呼べるものではないが、子供のころによく遊んだカラスノエンドウのサヤで作った草笛の音だ。カラスノエンドウのサヤから実を採りだして片方の端をちぎったあと、口にくわえて吹くとあんな音がしていたような気がする。それで懐かしい気分になっていたのだと勝手に納得している。

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9月14日(土)−隠顕

 車を運転する機会が多いと他人の運転の仕方も気になるものだ。加速の仕方、減速の仕方、前後を走っていても気になるが、助手席に座るとつい足を踏ん張ったりして、我ながら呆れてしまうことがある。初めてフリーウェイを走ったときも助手席に乗ったが、日本では運転席側なので気が気でなかった、今思い出すと苦笑いである。
 車の運転にはかなり癖があるようで、人それぞれの違いが現れる。特に顕著なのは減速の仕方だろう。信号が赤になり、止まるところまで距離があるときに、どこからブレーキペダルを踏み始めて、どんな止まり方をするのか、人によってかなり差がある。結局は同じところに止まるのだが、一気に減速して最後はゆっくりと止まる人もいれば、直前までほとんど減速せずに急ブレーキに近い形で止まる人もいる。これとは別に車線変更や右左折の時の方向指示の出し方にも個性が出るようだ。長々と出して周りの車が警戒しきった頃に車線変更する車や、方向指示を出しながらの車線変更、変更してからの方向指示など、色々である。どれが危険で、どれが安全かということは言うまでもない。横に並んだときに突然こちらに寄ってきて驚かされたこともあるが、これは直視確認を怠ったためだ。首を回して確認せよと、教習所では教えられた記憶があるが、真直ぐ前しか見られないドライバーもいて、そんな気配も余裕も感じられない。最近は特に右左折の際に方向指示を出さない人が目立つような気がする。追突するのは後の車が悪いからとは事故の際によく言われることだが、急停止などの急激な変化に間に合わないケースもある。まあ、それでも安全を確保するのは後についている者という原則があるので、文句も言えない。別に直接話を聞いたわけではないが、こういう人たちの多くは自分の行動は自分で理解しているから方向指示など必要ないと考えているようだ。同じことが前照灯にも言えて、暗くても自分が前をちゃんと見えるからつける必要はないと考える。確かに暗がりで前を照すのは自分の確認のためもあるが、あれは前から来る車などに知らせる役目もある。この方が重要だという意見もあり、先日取り上げた昼間の点灯という考えに繋がっている。車を運転しない人は関係ないと思うかも知れないが、自転車に乗っている人にこのタイプの人が多いというのもよく聞く話である。夜間無灯火の自転車の怖さは暗がりからひょいと現れたのに出くわしてみればよく判る。注意すると大体の場合、謝るより自分が見えているから大丈夫という返事が返ってくる。自転車の前照灯の明るさを知っていれば、あれが運転する人が前を見るためでなく、前からやって来る人や車に自転車の存在を知らせるものだということくらいすぐに判りそうなものなのだが。

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9月13日(金)−馬耳

 学校も二学期に入ると学園祭、体育祭など、様々な行事が目白押しとなる。学園祭というのはおそらく高校以上の学校だけで、中学まではたとえあったとしても親も加わってのものだろう。お化け屋敷、金魚すくいなど出し物やらは昔から基本的にほとんど変わっていないようで、違う高校に通っている中学時代の同級生がやって来るという状況も変わらない。体育祭は昔は運動会と呼ばれていたようだが、この呼び方を敬遠する向きもあるようだ。
 二学期にこういったことが盛んに行われるのは、おそらくその学年になってから時間の経過とともに級友や先生ともお互いに慣れてきたということと、三学期は短すぎて行事を入れる暇がないということによるのだろう。行事には他にも、音楽会や学芸会などが小学校や中学校では開かれていたと思うのだが、最近はどうなのだろう。音楽会はクラス単位の合唱や合奏で、音楽嫌いの者にとっては目立たぬようにやり過ごすしかなく、特に迷惑な行事だったようだ。学芸会は学習発表会などと呼ばれることもあるようだが、音楽会の出し物と同じことをしたり、お芝居をしたりといったところか。昔は定番のお芝居があるらしく、先生の指示で題目を決め、役の担当などを決めて練習に入る。絵本や童話で読んだお話が採用されるのだが、たとえば「裸の王様」では、王様、仕立職人、大臣、子供などが主役で、なぜだか主役には歌を歌う場面が出てくる。こんなことを覚えていても仕方のないことだが、大臣は文部省唱歌「秋」の替え歌で、「見えない、見えない、見えないぞ、おれはバカなのか、バカなのか」と歌う。こういう脚本を先生が一人で考えたとは思えないので、おそらく何か参考書のようなものがあったのだろう。お芝居といえば、幼稚園や小学校の低学年のもので、異様な光景が見られるようだ。いつの時代に始ったのか、いまだに続いているのか、まったく知る由もないが、お芝居のそれぞれの役を4人か5人の子供が演じるというもので、主演の王女様が5人並んで同じ台詞を唱和するといった芝居が演じられたようだ。5人の王女様と5人の王子様が出てくるというのはある意味圧巻かも知れないが、やっぱり変である。平等の精神から、少数の子供が目立つ役を演じるのはけしからんということらしいのだが、お芝居としてはぶち壊されている。こういうことを子供が主張しているのか、親が主張しているのか、考える必要もないのだろう。こういう人たちに対して、適材適所、人それぞれに役目がある、等々、まあ何とでも言えそうな気もするが、一生懸命になっていると聞こえないようだ。

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9月12日(木)−権能

 世の中は立場に応じた意見を求められたり、立場に見合った意見を出したり、立場を利用して意見を通したりと、地位や立場によって同じ意見でも違った形に解釈されたり、違った扱いを受けることが多い。当然、それらの意見を利用する側がその場に応じて都合よく解釈するのであろうが、提出するほうにその気持ちが出ている場合も多いようだ。
 何度も引き合いに出していることだが、ネット上の掲示板は匿名である場合が多いので、意見を出す側に立場についての意識があったとしても、受けとる側には出す側の意識が直接入り込むことはほとんどない。せいぜい働いたとしても、意見の内容から類推してその中身の解釈に確信を持たせるかどうかの程度にしか働かない。そんな点がネット掲示板の特徴で、万人平等ということでそれを上手く利用することができる人もいれば、普段使える地位を利用できないために大したことが言えない人もいる。そういう裏側は結局のところ見えないわけだから、表面に出ている部分だけから判断するしかない。だから意見の中身自体が非常に重要な意味をもつわけだ。人の意見を吟味する上で、地位や立場といった背景を考慮しなくてすむのは大変良いことで、意見そのものの吟味の良い訓練になると思う。最近、特に気になることに立場や地位を利用して権力の行使に集中している人が目立つことだ。こういう人たちに限って、権力の行使とともに生じるはずの責任の履行が抜け落ちていることが多い。十把一絡げで論じるのは乱暴なことと思うが、現在そういう立場になっている人の多くは全共闘世代とか団塊世代とか呼ばれた人たちである。体制を打倒するために徹底的に闘った人もいるのだろうが、その多くはその後、体制側に立つことになった。権力を忌み嫌う立場にいたのが権力を行使する側に回ってしまったわけだ。はじめに乱暴と断っておいたのは、この辺の議論をする上で一つのステレオタイプの帰結させてしまう傾向を避けることができないからである。しかしそういう傾向を考慮に入れた上で、この話を続けるとこういうタイプに限ってどうも握った権力に固執する傾向があるように思えるということになる。自分の思うことが立場や地位によって変化するのはある程度仕方のないことかも知れないが、対極に向かって変化するというのは理解しがたいことである。いずれにしても、自由と責任の組合せを若い世代に要求するだけでなく、権力を持てば責任が被さるという道理を忘れないようにしなればいけないのだろう。

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9月11日(水)−通訳

 相場の動向が芳しくないといろんな問題が噴出してくるようだ。海の向こうのある証券会社の有名アナリストの問題などもその一つだろう。確かに情報を操作しようと思えばある程度できてしまうわけだから、くれぐれも慎重に行動して欲しいものだ。まあ、アナリストの分析が信用できるものなのかどうかについてはいろんな意見があるのも確かなことだが。
 一般的な傾向としては高度な技術、新規の技術に関する分析において、十分に理解できていないと思えることが多い。これは何もアナリストに限ったことではなく、大部分の投資家や投資とは全く関係のない人々にも言えることだ。高度な技術というのはそれまでに培われてきた知識の上に築き上げられたものだから、その基礎知識を理解できないのでは何ともしようがない。ところがこれらの技術はある限られた分野においてのみ使われるものだから、分野に精通していない人間にとっては、たとえ基礎と言えども理解するのは難しい。こんな状況が情報技術、バイオ技術、ナノ技術と次から次へと始ってしまい、本来ならそれらの新技術を理解していなければならない立場の人たちにとっても、かなり難解なものになってしまった。投資の対象として考えなければならないとき、難解だから無視していいというわけにはいかないから、何とか付け焼き刃的な聞きかじり、読みかじりでレポートを作成している場合も多いに違いない。しかし、そんないい加減な知識の上の理解によって判断されたものが、はたして投資判断の参考になると言えるのだろうか。こんな状態を打破するためには、二つのアプローチが考えられる。技術を開発した会社などからのアプローチとその情報を分析するアナリストなどからのアプローチだ。これらの二つの間での情報の伝達が不完全なために問題が生じる場合が多いから、その間を上手く繋ぐ工夫をしようというものだ。情報伝達が不完全になるのは、多くの場合理解する側の基礎知識不足のために起きる。この障害を減らすために間を繋ぐ存在をおくのである。どちらがその人材を供給するかで、上に書いた二つの場合に分けられるわけだ。この存在は異なる言語の間を繋ぐ通訳のような役割をはたすことになる。供給するのはおそらく秘密保持という観点からも技術開発会社の方になる場合が多いのだろうが、その辺を上手く調整できればどちらでもかまわないことだ。問題はそういう人材をどう育成するかである。以前ある大学の教授がこの人材育成の重要性に関して新聞紙上で提言していたが、その後そんな動きがあるとの話は聞こえてこない。研究開発の基礎を身に付けた上で、一般の人々にも容易に理解できる翻訳の能力を身に付けた人材の育成は、今までの大学、大学院教育の観点からは少しずれているので仕方のないところかも知れない。しかし、このままだと訳の判らない情報を訳も判らず流すという状況は決して変わることがないのではなかろうか。

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9月10日(火)−異端

 朝晩の気温の下がり方が大きくなって、暦の上だけでなく天候においても夏が終わり、秋がやって来たと感じる。夏が終わる前に書いておかねばと思っていたことが幾つかあるが、その中の一つに夏の風物詩、花火がある。8月中、日本国中で開催される花火大会の数は一体幾つなのか。花火の公式サイトなるものもあるが、近所の花火大会が記載されていないから、あてにならないようだ。
 全国的に有名な花火大会といえばどんなものを思い浮かべるだろうか。大きな花火が上がるので有名な新潟長岡の花火大会、花火師の技を競うので有名な秋田大曲の花火大会、都会のど真ん中で開催される東京隅田川の花火大会、季節外れだが来年の玉の選定に使われる茨城土浦の花火大会、他にもたくさんあるだろうがきりがないので、この辺でやめておこう。それぞれに特徴をもち、どんな地方へ行っても必ずどこかで花火大会が開かれている。だから、やはり花火は日本の夏の風物詩である。上に挙げた花火大会はいずれも東日本のものだが、西日本にも有名な大会はある。などと言ってもきりがないので、ほんの少しだけ、それも今までに観た多くもない花火大会の中で最も印象的だったものを紹介しよう。西日本でも大阪の周りで一番有名な花火大会といえば、やはりある宗教団体が主催しているものだろう。上げられる花火の数がとんでもない数らしく、仕掛け花火も見事だと評判だ。ただ、実際には観に行ったことがない。結局のところ混雑するのを敬遠しているだけなのだが。では印象に残ったのはどこのものか。もう20年ほど前のことになるが、知り合いが住んでいたので海水浴も兼ねて訪ねた先で観たのが、その花火大会である。そこは三重県の熊野市で交通の便が悪いことから、日本で東京から一番遠いなどと言われたこともあるらしい。その不便なところに花火大会の当日はなんと10万人もの人が集まる。このことからもいかに人気のある花火大会なのかが想像できる。当時の目玉は、海岸から上げるスターマインと鬼ケ城と呼ばれる奇岩の上で打ち上げ花火を炸裂させるパフォーマンスであった。先日朝のテレビで紹介されていたが、最近はさらに海上を進む船からうしろの海に花火を投げ込み、そこで爆発させるといういかにも危険な出し物が加わったそうだ。打ち上げ花火は上げてしまえば所詮は打ち上げ花火と思ってしまうが、これを地上で爆発させるとまったく違った効果が現れる。破裂する花火の火の粉は半分しか観えないから面白みはまさに半減するが、爆発音が地上の岩との組合せで恐ろしく響き渡るのだ。そこにはそれまで観た花火大会とはまったく違った世界が展開されることになる。こんなところにも当たり前で終らせないことの大切さを気づかせてくれるものがあると思えた。

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9月9日(月)−秘伝

 数年前にベストセラーになった本に、エジプト文明やインカ文明などよりずっと昔に、もっとすぐれた文明が存在していたという荒唐無稽な話を取り扱ったものがあった。詳しい内容はもう覚えていないが、どんなに栄えたすぐれた文明でも何かのきっかけで壊滅的な被害を受けてしまえば、そのあとで当時の技術を再現することは非常に難しいという記述がどういうわけか頭の中に残っている。
 壊滅してしまうということはたとえ文書などといった記録媒体で技術などを記録保管しておいたとしても、それらが全て消滅してしまうことを意味する。また、当然のことながらその文明によって培われた技術の結晶である財宝、製品なども同時に失われてしまう。そうなるとたとえその文明の構成員の一部が生き残ったとしても、それらの技術を再現することはほとんど不可能であるというのだ。つまり、生産のための材料を作り出す技術も同時に失われるわけだから、基礎からすべてを築きなおさねばならない。そんなことを読みながら、現代においても、もし何かそんなことがあって、すべての記録が失われてしまえば、同じとは言わないまでもよく似た状況に陥り、その状況が数世代に渡って継続してしまえば、ほとんどが失われてしまうのかも知れないと思ったわけだ。このことはたとえば陶器において釉薬と燃焼の技術が伝承されなかったときに、一度絶えてしまった技術を残存する完成品やそのかけらから再現することが難しいということからも容易に想像がつく。技術をいかにして後世に伝えるのかということが、いかに大切なことであるのかを表しているように思う。一方、このことは特殊な技術者の知恵が一般に人たちに知れ渡っていないことも示している。工業技術の分野においては、現代では何も特殊でないことまでもが、ある一部の人間にしか知られておらず、その集団が消えてしまったら、その技術も消えてしまうことにならないとも限らない。例として適切でないかも知れないが、テレビだって材料を集めて完成品を作るとしたら自力で作ることのできる人は世の中にどのくらいいるのだろうか。そんなことを考えると、工業技術を始めとした技術を何らかの形で記録・保存しておくことは非常に重要なことであると思える。現在、どんな形で記録・保存が行われているのかよく知らないが、たとえば特許というものもその一つだと思う。ただ、青色ダイオードの開発者が言っていたように、特許の申請書を読んでその真似をしても同じ製品ができないというようなものでは、その意味をなさないことになるのだが。

(since 2002/4/3)