パンチの独り言

(2002年9月16日〜9月22日)
(実試、鱗落、伴食、似非、民主主義、白道、非凡)



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9月22日(日)−非凡

 画家や音楽家などの偉大な芸術家と呼ばれる人たちは普通の人たちとどこがどう違うのだろうか。単なる変人としか見えない人も多いけれども、どう見てもまともで、どう聴いていても普通にしか話していない人でも、その作品を見たり聴いたりすると、まったく違った感覚を受けることがある。彼らは自分の振る舞いによって相手に自分の思いを伝えるのではなく、やはり作品を介して何かを伝えているのだろう。
 絵画でも写実的なものは見たままが写し取られているはずなのだから、それほど考え込まなくてもサッと心の中に入ってくる気がする。それでも構図や技法など、いかに写実と言えども、特別な才能を必要とする部分は多い。それに対して、抽象画はさらに厄介だ。何をどう描いているのかさえわからない場合がある。ある時、美術評論家の話を聴いていてちょっとだけ納得できたのは、そういう画家の人たちには私達には見えない線が鮮明に見えていて、それを描き出した場合が多いという解説だった。全てがそうであるとは言えないだろうが、少なくとも対象の中にある特徴を抽出して抽象画を描く手法においては、その特徴を見つけだす力がない限りそれを描くことができないというのは、何となく納得できるものだった。もう一つ、学校の美術の時間に接していて興味を持っていたものの中に、新たな情報を入れることによって驚いた例がある。点描画法(pointillism)というのを御存知だろうか。印象派と呼ばれる画家達が活躍している時代に流行していた画法で、スーラがその代表格として教科書に紹介されていた。中でも、「グランド・ジャット島の夏の日曜日の午後」という作品が最も有名である。セーヌ河畔にいる人たちを描いたものだが、教科書で見るかぎり小さな色の点を集合させることによって絵にしているという印象を持っていた。ところが、この作品の大きさに対する認識がまったく外れていたのだ。作品は高さ2メートル、幅3メートルもある。つまり教科書で紹介されていたものの20倍ほどの大きさであるわけだ。そうなれば点の大きさも想像していたものよりはるかに大きい。そんな点を目の前に描きながら、その点の集まりが人の顔になったり、服になったりするのがわかるというのは、どういうことなのか。どんなに手を伸ばしたとしても、絵からはそれほど離れることはできない。一体どうやったら描くことができるのか想像できないのだ。これもやはり一種の才能か。そういえば画家にとっては顔の中に緑色があるのは当たり前のようだし、あんな色の混ざり方が美しい結果を生むということがなぜわかるのだろう。やはり凡人にはわからないということで片付けるしかないか。

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9月21日(土)−白道

 観月とか月見とか、日本独特とまではいかないにしても、欧米の人たちから美しい月を愛でて、という話はあまり聞いたことがない。月に不思議な力をもたせて、色々な事象を説明しようという試みは古今東西を問わず為されてきたものだろうが、摩訶不思議な力をもつ月を愛でようというのは、また違った気持ちが働くからかも知れない。
 美しい月を見ていて、気がつくことがある。天球上の月の高さが変わることである。太陽の高さは夏に高く、冬に低いということぐらい、誰でも気がついていることだし、学校でも習うことだ。しかし、月の高さの方はそれほど単純には記述できないので、その場その場で気がつくことがあっても、どういう仕掛けになっているのかというところまで考えが及ばないことが多い。太陽、月、惑星、恒星などの天体の動きを考えるときに大切になるものに、天球上の赤道、黄道、白道というものがある。地球の地軸が傾いているために、星たちはへんてこな動きをしているように見えるが、この三つの道を頭に入れておけば、大体説明がつくので参考にして欲しい。赤道とは地球の赤道と同じで、天球上の軸から90°傾いた面にあるものを言う。地球上の軸である地軸は北極と南極を結んだ点であるのに対して、天球上でも北極星のあたりと私達には見えない南極のあたりを結んだ軸が天球の軸となりそれを中心にして星が回っているように見える。天球の赤道はこうやって決まるが、黄道と白道はそれとは異なり、黄道は太陽の通り道、白道は月の通り道を表す。これらが赤道面とある傾きをもっているために太陽の場合、夏至に天空の一番高いところに、冬至に一番低いところにあるように見えてくるわけだ。白道は黄道とほとんど違わないので、月も太陽とよく似たところを通るのだが、さらに地球の周りを短い周期でグルグルと回っているので、高さの変化がさらに複雑なように見える。これを単純にするためには、満月の時だけに限定してあてはめてやれば、太陽と同じような動きをすることになる。但し、太陽が南に見えるのは昼であり、満月が南に見えるのは夜だから、位置が逆転してくる。そんなわけで、満月の場合夏至の頃低く、冬至の頃高くなる。そういえば夏の満月は低いところにいたような、と思い出せる人は、注意深いと言えるのかも知れない。

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9月20日(金)−民主主義

 最近いろんな組織での責任のとり方が問題にされているようだ。会社や第三セクターでの大金横領事件での上司の監督責任や検査報告のもみ消しに対する取締役レベルでの責任などと、挙げ始めたらきりがないのではないか。特に、金の横領では単に辞職や降格といった責任の果し方だけでなく、被害金額にみあった賠償責任が問われるほどで、かなり厳しいものになっている。
 責任問題が表面に出れば出るほど気になるのは、誰が責任を負うはずだったのか、ということだ。問題が表面化した後では、誰が責任者なのか明確にされるようだが、実はそれまでは組織内で責任の所在を論じたことがないのではないかと思える節がある。何となく皆が同じようにある地位の人が責任を負うはずだと思っていても、その地位にある当人はそれほどの自覚を持っていない場合が多いのではないか。最近の事件発覚後の対応やその事件が起きた経緯を見ていると、情報の流れがまったく遮断されているというよりも、それなりの流れが維持されているにも関わらず、何の対策もとっていなかったり、情報が流れてこないことをまったく不審に思わないまま放置している例が非常に多いように思える。責任を負うべき人たちは常にその責任を果たすべく努力をし、その対価としてそれにみあった給与を受け取っているはずではないのか。どうもこの辺り、階段を自然に上っていくといった感覚しかない人たちの中には、まったく感じていない場合があるようだ。責任の所在がはっきりしなくなると出てくることに民主主義という言葉があるような気がする。民主主義とは民意を反映させて様々な決定を行い、それによって社会を動かしていくというものなのだと思うが、これをみんなで決めるから、全責任を負って物事を決める人がいない、といった形に変換してしまい、まったく別の意味に解釈しているのではないかと思えるのだ。この頃よく聞こえてくるのは、任せている、という一言だが、これはあくまでも信頼の下に仕事を任せているだけであって、責任をも相手に擦り付けるための一言ではない。にもかかわらず、この言葉を聞くたびにどうも責任も含めているように聞こえてしまうのはどうしてだろうか。いろんな人の意見を反映させることは大切なことだと思うが、決定するのは責任を負うべき人だし、たとえ他の人たちに任せたとしても任せたことも含めて責任を負うのは責任を負うべき人なのだ。この辺をねじ曲げた形で、民主主義などという便利な言葉を使って、小手先で誤魔化そうとする姿勢は忌み嫌われるべきものだろう。

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9月19日(木)−似非

 日本語を母国語としている者にとって、外国語を身に付けるのは大変な労力を要すると言われる。一番の問題は文法の違いで、語順だけでなく言語によっては女性、男性などの区別をつけねばならない。次の問題は発音で、rとlの区別で困った人も多いだろうが、実は母音の少なさも問題となる。
 こんな具合に他の国の言葉を習うことの難しさがあるが、そのせいなのか、それとも別の理由があるのか、日本語自体には便利なことがある。それは読み書きのときの利点である。日本語は三種類の文字を使っている。漢字はその名が示す通り、中国から入ってきた文字で、形を描写したものを変形させることによって作られた。意味を表す文字ということで表意文字に分類される。この他に二種類の仮名文字がある。仮名文字はある音を表す漢字の形を省略して作られた文字で、日本独自のものだから日本人の発明と言われているが、そうでないとする説もあるらしい。こちらは音を表すので表音文字とか音節文字と呼ばれる。その形によって、ひらがなとカタカナがあり、時と場合によって使い分けることが多い。ひらがなで有名なのは、平安時代の源氏物語で、仮名文学の最高峰である。カタカナは戦前には教室などでも良く使われていたようだが、いつの頃かひらがなにその座を譲り、現在では主に外来語を表すのに使われる。26文字のローマ字からなるアルファベットをもたない国にとって、そういうアルファベットを使った言葉を表現することはとても難しく、以前は言葉の意味を翻訳して、たとえば漢字などの自国の文字を使って表現していた。しかし新しい言葉が出るたびにその翻訳を考えるのは至難の業だから、徐々に外来語の音をそのまま自分達の文字で表現するようになった。この時中国文字は元々表意文字だから、音に置き換えたときにその文字が本来もっている意味が邪魔になる。その点、日本語は便利で表音文字である仮名を、それも外来語専用としてカタカナを使えばよい。発音の微妙な部分は表現できないが、少なくともその言葉をそのままの形で伝えられる。日本でも、外来語をその音のまま漢字に置き換える試みがなされ、型録は音と意味の両方をきちんと伝える大傑作の一つだと思うが、こういう例は多くない。その点、カタカナであれば意味を気にせずに置き換えられるので気楽である。しかし、音の表記なので、間違う場合もある。これも有名な例だが、英語のsimulationのカタカナ表記である。よく見かけるものに、シュミレーションとシミュレーションがあり、どっちが正しいのか迷ったことも多いのではないか。本来の英語の発音の表記からすれば、前者が間違いで、後者が正しい。communicationの時にはちゃんとコミュニケーションとするのに、シミュレーションはつい間違うようだ。それでも通じてしまうところが恐ろしいとも言えるのだが。

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9月18日(水)−伴食

 仕事の関係で全国いろんなところへ出かける。と言っても、南の方には行ってない県があるし、東北も未だに足を踏み入れたことのない県がある。こんな具合でまだまだ十分とは言えないが、まあいろんなところを訪問する機会があるわけだ。
 元々観光にはあまり興味がないし、歴史的なものにもあまり興味が湧かない。となると旅先での愉しみは一つしか残らないのかも知れない。温泉という意見も出るかも知れないが、ここで取り上げるのは食べることである。その土地、その土地で、名物と呼ばれるものがあれば食べたくなる。そうは言ってもたとえば琵琶湖の鮒鮨などはやっぱり敬遠する。いくら何でも限度というものがあるからだ。こんなことを書くと美味いものに対して失礼だという声が聞こえてきそうだが、まあそこは個人の好みの問題ということで許していただこう。こういう極端な例ではないが、思い出してみるとやっぱり色々とあるものだ。北海道の毛ガニ、秋田のキリタンポ、仙台のホヤ、信州そば、東京のもんじゃ焼、名古屋の味噌煮込み、岡山のままかり、讃岐うどん、博多のとんこつラーメンと数え上げればきりがない。かなり飛び飛びで登場したから、何でこっちの地元の料理が出てこないのかと文句が出るかも知れないが、食べることを職業としているわけではないから、そんなに多くの経験はない。また、麺類が多いような気もするが、やっぱり好きなのだろう。ちょっとそっちの話で思い出したことについて続けて行こうと思う。麺類といえば、博多ではとんこつということで出かけるたびに長浜まで足を踏み入れる。と言っても、数年前にタクシーの運転手に尋ねたら中洲の店に案内してくれた。例の一人ひとりの客の席の両脇に衝立がある店だった。ラーメンを食べることに集中してもらおうという意図らしいが、知り合いと出かけておしゃべりしながらと思うと、どうも邪魔になる。博多では他にもうどんが名物としてあるらしいが、讃岐うどんとは正反対のコシのないものらしく、敬遠していて食べたことがない。そんなことでラーメンしか食べていなかったが、数年前に、ある大学の近くの麺類の店にひょいと入ってみたら結構美味しかったので、次の訪問の機会にも系列の店に行ってみた。その麺は「めんちゃんこ」と呼ばれるもので、分厚いきしめんのような平麺がちゃんこ鍋に入ったような感じである。別に名物と呼ばれるほどのものではないようだが、美味いからまた行ってみる、という繰り返しだ。でも、このところあちら方面に出かけることがない。そろそろ恋しい気もするのだが。

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9月17日(火)−鱗落

 先日、この独り言の読者の皆さんにお願いした投稿に関して書くことにしよう。あれからもう一度お願いしたが、新たな投稿はなかったので、あちらの掲示板に書いた事と同じ感想になってしまう部分もあるのだが、個々の投稿に関する感想を書くのではなく、全体を見ての感想としておこう。
 ここから読み始めた人には何のことかわからないかも知れないが、以前算数や数学が役に立っているかどうかについて読者に意見を求めたことがある。それが御意見掲示板である。この独り言を読んでいる人たちからのものということで、少数の意見に過ぎないのかも知れないが、驚いたのは全ての意見が数学あるいは算数に対して肯定的なものだったということだ。確かに否定的な意見を出す人は文部科学省に関連した委員会などでも少ないようだし、あえて否定的にしようとすると無理が出てしまうというのも理由の一つだろう。特に、出された肯定的な意見はどれもなるほどと思えるもので、それなりの実感のこもったものと思えた。その中で最も印象的だったのはどれか、と聞かれたら、迷わずグラフに関するものだと答えるだろう。これははっきり言って虚を衝かれたものだからだ。算数、数学で役に立つと聞かれると、つい計算のことばかりが思い浮かぶ。しかし、新しい計算法を編み出す一方でそれとは違う便利な道具を編み出したのも数学の功績ということができる。その最たる例が棒グラフ、折れ線グラフ、円グラフといったグラフで、色々なデータをまとめて一目で判るように表示するための便利な方法なのである。そう思って周りを見渡してみると、新聞でもテレビでもこういうグラフを頻繁に使っている。やはりわかりやすいというのが理由なのだろう。数学は言語の一種と考えるべきだと思っているが、こういう意見を読むと便利な道具のつまった道具箱という考え方もできるのだと思えてきた。やはり日頃からいろんな考えを持った人と意見交換をすることが大切なのだなと思った。また、次の機会を狙って、御意見掲示板を活用しないといけない。よろしくお願いする次第である。

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9月16日(月)−実試

 バブル崩壊以降不況が続き、いまだに出口が見つからないと言われ続けている。いろんな政策が出され、それぞれ試されてきたが、大きな成果が得られないままのようだ。特に最近は不良債権の話ばかりで、いつまで同じことを考え続けなければならないのか、さっぱり判らない状況に思える。
 対策を考えるというのは実はそれほど難しいことではない。当然ながら、もしその成否を論じないというのならという前提の下に、という但し書きはつく。何でもよくて結果を気にしないといえば、誰だって何か思いつくことができるだろう。しかし、国の存亡に関わるとか、そんな圧力のかかった中ではそう簡単にはいかない。有識者が集まった中で、これだけ長期間にわたって何も成果が得られていないのは、それらの有識者が無能かあるいは有識者を選ぶものが無能かはたまたその両方か、などと言いたくなるものだが、そんなことを言っても解決の糸口が見出せるわけではない。こんなときによく登場する人々には経済学者が多くいるように思うが、経済学とは解決法を見つけることを目的としているのかちょっと疑ってしまう。何かきっかけがあって、その結果ある所に経済が落ち着いたとすると、その原因や理由を分析するのが経済学の主目的のような気がするからだ。以前は分析もいい加減なものであったのが、数学の導入によって様々な細かく正確な分析ができるようになった。しかし、あくまでも起きたことの分析であり、予想に使えるものは現時点では存在しないようだ。予想に近い手法としては、短時間のデータを元に分析を繰り返し、その度に修正を繰り返すことによって、より正確な対処をするものがあるが、これは予想とは違う。修正と対処と言ってもそれが万全なものでないのは、今までのいくつかの破綻した例を見れば明らかだろう。たとえば国の急激な政策転換のように、あまりに短時間に起きる現象にはこの手法は対応できないことが多い。しかし、元々経済学を主な手法として経済政策を考えるのであれば、何らかの政策を決定し実行してみないことには、何も判ってこないのは確かなようだ。たとえ付け焼き刃の政策でも何かを試してみなければ、次の対策も立てられない。まして、付け焼き刃の政策を単発的に出しているだけでは、次の政策への反映などあり得ない。正しい道を進みたいのは誰しも思うことだが、間違いを上手く修正しながら進むことも、同じ目的地に到達するためには十分満足できるものだろう。深く考えていない付け焼き刃も嫌われるだろうが、有言不実行を繰り返すのはもっと嫌われるのではないか。

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