先日、職場で雑談をしているときに、どういうわけだか侵略やら虐殺の話題になった。深刻な話題だから、皆それぞれに意見を持っていても、中々本音で話せないものである。その中で気になったことがあるので、ここで紹介しておこうと思う。と言っても、やはり色々な意味で問題を生じかねないので、普段にも増してパンチの勝手な独り言として片付けておいて欲しい。
日本という国にとって上に挙げた話題に関係した出来事といえば、どうしても60年ほど前のことを引き合いに出さざるを得ない。以前、このサイトの掲示板でも話題になった出来事だが、それに対する報道メディアの取り組み方については、賛否両論があると思う。ただ歴史的事実として何があったのかという点に関しては、事件そのものがなかったと言いきれる人は少ないと思うし、どちらかといえば、被害人数の多少に関する問題が大きいのではないだろうか。そのことに関して、ここで論じるつもりもないし、それぞれの人がそれぞれの情報源を持ってそれぞれに結論づければいいことで、統一した最終結論を出さねばならないものではないと思う。その意味で、ニュースを配信する場で唯一の事実のような伝え方をするのは軽率だと思うが、これも番組製作者の考えに基づくもので、そう受取るしかない。最近はこの話をしていると必ず引き合いに出されることがある。かの国の内陸部奥地にある地域の話題である。時々暴動が起きたなどと伝えられる高山地帯北部の地域では、治めている国家によってかなり酷いことが行われていると伝えられることも屡々であるし、沙漠地帯に近い地域の人々から聞く状況も国家による弾圧に近い酷いものである。個人的な会話で伝えられることはねじ曲げられている可能性もあるが、一方で個人的であるからこそ真実が伝えられることもある。海岸地帯や首都圏では異常なほどの発展を遂げている国でも、その流れに乗れないあるいは乗せられていない地域ではまったく違った図式が展開されている。こういうことに関して、私達が何か言うべきかどうかを話しているときに、それぞれの国の人々が犯した間違いを批判し、反省し、解決策を論じることは重要だと思っていた。ところが、その過程で自分達はあの国に対して間違いを犯したのだから、その国の間違いを批判する資格はないという意見が出てきた。本人はいたって真面目にこれを論じていたが、こちらはどうにも賛成しかねる。極論になるが、これでは犯罪者はいかなる犯罪に対しても意見を持つことはできないということになる。加害者と被害者がお互いの立場をわきまえて、配慮のある発言をすることに反対するつもりは毛頭ないが、罪を犯した者は言葉を発することさえ禁じられるというのはおかしい。確かに彼らの配慮ない発言は開き直りとか居直りとか言われることも多いが、発言する機会さえ奪ってしまうのは明らかに行き過ぎで危険な考え方だと思う。国と国のことは複雑な背景や経過をもつから、そう簡単に片付けられることではないが、それぞれに属する人々が自由な意見交換をしてこそ、そこに何らかの解決の糸口が見えてくるのではないだろうか。
パターンと言われると何を思い浮かべるのだろう。あの人はワンパターンだなどと言うときの行動パターン(様式)のことを思うだろうか、それとも身の回りの品物についているパターン(模様)のことを思うだろうか。不思議なことに、行動様式のワンパターンは嫌われる場合が多いようだが、落ち着きのある模様のワンパターンはどんなときにも好かれるようだ。
模様には古今東西様々なものがあるが、基本的にはあるパターンの繰り返しを用いることが多いようである。その例として挙げるなら、市松模様とか千鳥格子とか日本でもいろんなパターンが考案されてきた。奈良国立博物館で毎年開催される正倉院展でも布や小箱などが展示されることがあり、その模様の面白さに引かれることがしばしばある。元々はシルクロードを辿ってきたものである場合もあるが、日本で独自に考え出されたものもある。鴛鴦の模様などもよく使われるらしく、土産物屋でもそれぞれの模様のついたスカーフなどが正倉院紋様として売られている。これらは布地などに模様を描く形で作られるが、一方で布を織る過程で模様を作る技法がある。色の異なるたて糸とよこ糸を様々な組合せで使って織物を作れば、縦横に様々な形と色をもつ模様を作ることができる。欧州ではチェックとストライプとなるし、日本では格子と縞ということになる。これらは熨斗目とか着物の生地に使われており、昔から長く続いている模様が多い。この辺りの話に興味のある方は、京都書院アーツコレクションというシリーズの文庫本に多くのものが紹介されているので、書店で眺めてみて欲しい。繰り返しが、ある意味での安心感を生むのは安定していることからかも知れないが、他にも違った形の安定を生み出す手法がある。ペルシャ絨毯にある模様を見ると、そこにある模様がある規則性をもって作られていることに気がつく。一つ一つのパターンが四つの同じものの繰り返しによって作られているのだ。絨毯を敷き詰めている部屋を持つ人は少ないかも知れないが、その場合玄関マットでも眺めて欲しい。但し、この場合はその並べ方に工夫がされていて、並列に並ぶのではなく、向かい合わせに並んでいるのである。四つのうちの二つずつの左右が向かい合わせに、上下も向かい合わせに、という具合である。こうするとパターンの中心から放射状に模様が広がっていくことになり、これも気持ちを落ち着かせるようで、安心できる安定性を生み出すことに繋がる。対称性や繰り返しをパターンの創出に使うのは、一つの小さな模様を作り出すだけで大きなものまでの応用を無限に広げられるという経済性と人の心に安心感を与えられる安定性を生み出すという利点があるのだろう。一方ででたらめに並んでいてパターンがないように見えるものには、不安定を感じ、最近では3Dアートで有名になったものがあるためにトイレの敷物から変なパターンが浮かび上がったという笑い話さえ聞かれる。気持ちの不安定さが何かしらのパターンの創出を促し、そういう結果になったのかも知れない。それはともかく、古今東西、人は人であり、それぞれ違いはあっても、根底では共通部分を持ち合わせているのである。そういえば、仏教で使われる曼陀羅もそんな配置をしていたような気がするのだが。
何でもかんでもお金で買えると思っている人はどのくらいいるのだろうか。一番大切なものは、と聞かれて、自分の命と答えない人はいないと思うが、その次に来るのがお金という話を最近よく耳にする。周囲の人間でもなく、大切にしている物でもなく、お金である。お金さえあれば、人間関係もうまくいくし、物も買えるというのだろうか。
そういう考えを持っている人に、何か意見を言っても中々受入れてもらえないし、多くの場合怒りだしてしまう。自分の人生観の根幹をなす部分を批判されている気がするのだろう。確かに、形は違うとはいえ、同じようなものを他人から批判されたら自分でも不快な思いをするだろう。お金でなんでも解決するというのは批判の対象になるが、一方でお金がないと何もできないというのも事実だろう。一般の人たちから見たら、何の役にも立たないような研究を行う人たちも、ある程度のお金は必要となる。それを職業とするのなら給料もその中に入るわけだ。こういう話から突然ノーベル賞などと話を飛ばすと、意外に思われるかも知れないが、今の首相の考えはここまでの話の流れに沿ったものだと思っている。ノーベル賞受章者を何人出すために、これだけの予算を使って、などと論じるのを眺めていると、この人たちはあれがお金で買えると信じているのだろうかと、今更ながらに驚く。さすがにそれほど短絡的な考えは持っていないだろうが、根っこではそれに近いものを持っているという疑いは晴れない。これには二つの問題があることを当人は気づいていないのではないか。一つ目は、お金という問題を解決することだけで研究が進むというものではないということ。お金は確かに最低限必要なものだが、たとえば一万倍多くのお金を使えば一万倍レベルの高い研究成果が得られるわけではない。極端な例を引き合いに出したのは、これほどの極端さをもってしないと、理解できないあるいは理解しようとしない人が多いからだ。研究だけでなく、教育なども含めた環境の整備という点に、受賞を目指す予算配分が行き渡るのは無理であるからだ。いろんな配慮をしてこそ、多くの予算を使う意味が出てくるはずである。もう一つの問題とは何か。ノーベル賞は何種類あるか御存知だろうか、それである。ノーベル賞を目指すという目標は、結局特定分野への重点的な予算配分に繋がるわけで、研究全般を支援するものとはならない。またノーベル賞だけが特別扱いされる必要はなく、他の様々な賞が様々な研究分野の素晴らしい業績に与えられているわけで、それらの間に差を設けること自体が視点のずれを表している。ブランドに引きずられる人かどうかは知らないが、そういう志向を持っていることははっきりとわかってくる。多様性の重視ということがよく取り沙汰されるが、こういう施策を見ているとそれとはまったく逆行したものと感じてしまう。多様性とは重点的でないために、無責任なお金のばらまきを産むこともあるが、一点集中はたとえ責任を負ってくれたとしても、様々な面から歓迎できないものである。これも一種の投資であるのだから。
久しぶりのドライブで、道端を見ると田圃の畦道に彼岸花が咲いていた。秋の彼岸もそろそろおしまいだが、それに合わせるかの如く、鮮やかだった赤い色は色褪せて花も萎れているようだった。季節を表すというよりも、彼岸というたった一週間という短い時期に合わせて咲くという意味ですごいものだと感心させられる。
季節を表すといえば、誰もが春の桜の花を思い出すだろうが、今年もそうだったように年毎にかなり違ったときに開花し、違ったときに満開となる。確かに春が本格的にやって来たことを告げるという意味で重要な役割を果しているのはよく判るが、日にちの正確さから考えるとかなりいい加減なものに思えてくる。逆にそれだからこそ愛でる気持ちが出てくるのかも知れないが。その点、彼岸花は驚くほど正確に彼岸を当てているような気がする。こちらの記憶が不確かなのかも知れないが、毎年その正確さに驚かされているところをみるとほとんど外れていないのではないかと思える。毎年そんなことに驚きを感じることの方が、他の人たちからみたら驚きなのかも知れないが、どうもそういう性分なので仕方ない。植物の花が咲く時期や蝶やとんぼなどの昆虫を見かける時期、動物の行動のリズムなど、日本では季節の変化がはっきりとしているせいもあって、周囲の生き物のことで色々と気になることがある。植物は気温や日照時間の変化などに敏感で、それによって季節の変化を知り、花を咲かせる時期などを決めているらしい。特に気温は大きな影響力をもつようだが、花が咲くその瞬間の気温ではなく、そのきっかけを与える時期の気温の変化が大きな影響をもつようだ。桜で言えば、冬の寒い時期の気温の低下と上昇のタイミングがその年の開花の時期をある程度決めているとのことだ。そういえば咲いてみたら結構寒くて、寒風吹き荒ぶ中でのお花見となることが多いのは、このためらしい。また、チューリップの花を咲かせる時期を調節するために球根を冷蔵庫にしまっておくという話を聞いたことがある。これもまた冬の訪れを真似て、球根に冬はもうやって来たと思い込ませることによって、本来の時期とは異なる季節に咲かせることができるということだ。逆に言えば、それほど正確に温度の変化を察知し、忠実に反応していると言えるだろう。しかし、それにしても彼岸花はどうやって、寸分の違いもなく日にちを当てることができるのだろうか、それも土の下にある球根の状態のまま。
こういうことまで米国の真似をしているわけでもないのだろうが、最近訴訟の話題を多く聞く。何から何まで裁判の形をとって解決するという社会形態になってしまった米国では、自動車事故の際も大丈夫ですかという意味を込めた『I'm sorry』を使ってはいけないと言われていた。自らの非を認め裁判で不利になるとの事だったが、最近はさすがにギスギスした人間関係の構築という副作用に気づいたようでそれを採用しないことになったようだ。
それにしてもこの頃の訴訟騒ぎには少し辟易としてくる。特に契約との関係に基づいたものに関しては、どのような解決策が模索されるのか興味のあるところだが、一方でなぜ契約そのものが重視されないのかが不思議になる。契約そのものが不当なものであるという観点から訴訟に踏み切ったという判断なのだろうが、それならば、どの時点で訴訟を起こすのかということが重要に思えてくる。これはたとえば青色ダイオードや人工甘味料の特許権やその報酬に関する裁判のことを指しているわけだが、新聞などの偏った報道を見ているとどこに問題があるのかまったく判らなくなる。契約が不当であることが争点なのか、それとも報酬そのものの問題なのか。前者であれば、特許が効力を発してかなりの収益を上げるようになってからの提訴には抵抗感を覚えてしまう。契約そのものの話ではなく、それぞれのケースによる話になってしまうからだ。儲かれば問題が生じるが、儲からなければ不当なものでも放置すると解釈されかねない。一方、後者のことに関しても、いろんな意見があると思う。やはり収益を上げたからこういう権利主張をするのだと言われればその通りで、儲からなければ何も起きない。ただ一方で、会社という組織ではないが、自分の権利を主張するために組織に対して権利譲渡せずに特許申請費用の一部を負担している人がいることがあまり知られていないのは問題であると思う。会社での研究の成果としての特許であれば、全ての権利は会社に帰属し、個人は主張することすらできないとするという取り決めが正当か不当かという議論は今後進めていかねばならないが。権利主張とともに相応の負担も生じてくることは当然であるから、その特許が将来的に期待できると予測しているのならば、権利を主張し申請費用などでそれなりの負担をする必要がある。このことを脇に置いたまま、権利の話ばかりを前面に出すことには矛盾を感じるわけだ。少し違いがあるが大学の入学金返還に関する訴訟も契約そのものの問題を含んでいると思う。もう一つの訴訟として話題になっているのは小説でのプライバシーの侵害に関するものだ。法律などで自由を縛ることは避けなければならないことだが、二つの自由の間でどちらを優先するべきかといった場合、今回のような選択もあって良いのではないかと思う。ただ、中身も読んでいないし、対象となった人のことも知らないから、報道から受けた印象だけでこれを書いていることを断っておく。いずれにしても一般論としては、今回の判決は当然で、報道に関してもこの判決の意味を十分に考えて欲しいものだと思う。先頭を切って、個人の人権を踏みにじっているのは、あの人たちではないかと思うからだ。
色々と長ったらしい名前などを使うときに、何とか簡単にできないかと考え出されたのが、略号とか略称とか呼ばれるものである。さすがに落語で出てくる「寿限無」のような長い名前を持った人はいないだろうが、少し長いだけでも短いものを使おうとする。効率のことを考えているかはわからないが、想像の範囲内だと使いやすいと言えるのだろう。
英語を習って驚かされたのは人の名前の愛称と呼ばれる略称だ。MichaelをMikeというくらいは可愛いもので、WilliamがBillになったり、RobertがBobになったりすると、不思議になる。おそらく語源はあるのだろうが、そんなことを調べていたらきりがない。とにかく混乱さえしなければ、一対一対応で何とかするしかない。略称といえば、GMと聞くと何を思い出すだろう。ごく一般的に言えば、General Motorsという会社やGeneral Managerという役職になるのではないだろうか。ところが、最近はまったく違った分野でこの略称が使われている。GM=Genetically Modified(遺伝的に改良された)というもので、特に目立つものとしては大豆を原材料とした食品に表示されている。これらをGM食品と呼び、その原材料となる植物をGM植物と呼んだりする。日本語では遺伝子組み換え食品と呼ばれたりもするが、これはGenetic Engineering(遺伝子工学)とかRecombinant(遺伝子組み換え体)を日本語化したものだと思う。いずれにしても、これらのものは人間が勝手に作りだしたもので、非常に危険なものであるという風評がある。前の文章の前半部分と後半部分がそのまま繋がるという発想があるとしたら大きな間違いで、それならば長年行われてきた品種改良は人間に都合の良いものを選び出した結果であり、これらも危険なものと扱わねばならない。また、品種改良の操作は意図的に行われておらず自然発生的なものを選び出すのに対し、GMは目的を達成するために人間が操作をするという点の違いを論じる人もいるが、これが危険性の違いを明確にするものではないのは明らかである。方法の違いがそのまま生み出すものの危険性に繋がるとは言えないからだ。さらに、生物間の遺伝子の伝達を伴うからGMが危険だとする意見もあるが、これも自然界では起きないという証拠が示されない以上脆弱なものと扱うことができてしまう。別にこれらを理由に推進する側に与するわけではないが、こういった説明をきちんとする研究開発者側とそれを理解しようとする消費者側の努力、精進が足りないのではないかと思うだけだ。危険だといえば車などその最たるもので、日本国内だけでも年間一万人ほどの人を殺しているという論理から、禁止するという結論を導きだすこととの違いを明確にすることができるのだろうか、などと極端な話をしてはいけないのかも知れないが。
車を運転していて、周囲の風景に目をやるのは、わき見運転ということになって危険なのかも知れない。でも、時々信号で止まったり、対向車や前後に車がいないような状況の時に、脇の山を見ることがある。10年くらい前からだろうか、気になっているものがある。竹林と葛による山林の侵食である。
侵食などと言うといかにも大げさだが、杉林の一部に竹林ができてくるとか、伐採されたか、がけ崩れでなくなってしまった林の一部に蔓植物が蔓延っているのを見る。竹林の例はどちらかというと西の方に多く、東の方ではそれほど頻繁に見ることがないが、これはどうも別の理由があるらしい。蔓植物の方は遠目ではっきりと断定はできないものの、最近の傾向からするとおそらく葛だろう。葛とは、その根が葛粉の材料になる葛である。生産に手間がかかるので最近は一部の地域でしか作られていない葛粉は、材料が足りないというより人手が足りないことの方が問題かも知れない。道端に生えているものが原料として利用できる代物かどうかはわからないが、かなりの勢いで勢力を伸ばしている。それこそ葛が屑になっているのかも知れないが、それだけではすまない。葛とともに増えていて、迷惑がられているのがカメムシで、マルカメムシと呼ばれるらしいが、洗濯物についていてうっかり触ってその臭さに文字通り閉口した人もいるだろう。これが葛を食草にしているらしく、その増加とともに非常に多く見られるようになった。結局、こういう植物が蔓延るのはそういう土地の管理が行き届いていないことによるもので、林だった所の新たな植林や下草刈りなどが行われていないことによるものらしい。一方、竹林の方はそんな消極的な原因よりも、積極的な理由があるようだ。孟宗竹の筍を採る目的で植林されたと言われている。高く取引されていた筍を採るために竹を植えたが、その後中国からの輸入などによる価格の低下で意味が無くなったために放置され、それが周囲をも侵食し始めたことによるらしい。竹は地下茎を横に延ばして成長するから、周囲の土地がずたずたに荒らされて他の植物が育たなくなる。また地下茎は地面の浅い部分を横に走るので。意外に脆い構造となり、がけ崩れの原因になったりする(放置竹林の問題を論じたサイトがあったので下に紹介しておく)。最近は新聞で取り上げられるほどの問題を生じているようだが、前にも書いたように植物は成育に適した環境を必要とするから、独占的な育ち方をした所では突然育たなくなり荒れ地が作られてしまう。バランスがとれてこそのものだという認識を持たなければならないのだが。