パンチの独り言

(2002年9月30日〜10月6日)
(句切、特異日、愉悦、愛別離苦、積木、迷惑困惑、巧遅迅速)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



10月6日(日)−巧遅迅速

 近所の田圃も稲刈りを始めた。今週か来週で、この辺りの稲刈りはほとんど済んでしまうのではないだろうか。今年は台風の直撃もなく、大雨やら、冷夏といった天候不順も無かったようなので、豊作の年になりそうだ。最近は米余りといった心配もほとんど無いのだろう。お隣の国々で水害などの被害に遭ったニュースを聞くと、農作物の出来がいかに天候に左右されるものかよく判って、こういう年のありがたさを感じる。
 最近は、米の保存設備も整ってきており、いつでも美味しく食べられるようになってきた。ある程度低温の状態で保存するのが良いらしく、ドライブの途中でもそういった倉庫を見かける。それでも、とれたての新米の美味さは格別のものがあるらしい。その違いがよく判らない者にとっては何ともコメントのしようがないのだが、香りが違うとか歯ごたえが違うとか、そんな話が伝わってくる。新鮮なものを美味しくというのが、料理するためのコツとか食べるためのコツとか言われるが、やっぱり旬のものをいただくのが一番なのだと思う。それにしても、野菜などそれぞれの旬の時期がいつなのかさっぱり判らなくなってしまった。ハウス栽培で温度を上げたり、下げたりしながら、年中供給できるようになった。食べたいときに食べるという感覚の方が、旬のものを食べるという感覚を上回っただけということなのだろうが、どうもしっくりこないことがある。それでも松茸や栗などはこの時期でないと食べられないから、ある意味希少価値があり、ありがたくいただくことができる。これもまた、当り前のことを当り前にやって、ありがたいとは変な感じがするのだけれども。でも、まあ、季節の移り変わりを食べ物からも感じられるというのは、四季の違いがはっきりしている国に住んでいる特権であろう。食べてしまえば何でも同じといった感覚のファーストフードが彼の国から入ってきて以来、食べ物に対する執着が無くなってきたような気もしていたが、最近ではスローフードなる言葉がよく聞かれるようになり、食を大切に考える気持ちが戻ってきたようだ。とはいえ、飽食の時代は終わったわけではなく、街には食べ物が溢れかえり、コンビニやパン屋の店の脇には売れ残りが捨てられている。一つ一つのものを大切にする気持ちより、自分が欲しい時にいつでも手に入る環境を望む欲求が勝つようになったのか、それともそうしないと商売がやっていけないという気持ちからか、いずれにしても何ともならない感じだ。残飯も以前はブタなどの飼料になっていたようだが、得体の知れない残飯は危険であるということでそういう道もなく、ただ捨てられるものが増えている。そういう危険なものを食べているのだろうか、などと考える暇もなく、コンビニ弁当をかき込んでいる人たちも多いのだろう。これが破滅への道などとは思わないが、はてさて、どこに向かっていくのだろうか。

* * * * * * * *

10月5日(土)−迷惑困惑

 久しぶりにコーヒーショップに行った。例の、米国から進出してきたシアトル系と呼ばれるところの一つである。気に入っている理由の一つは、店内が禁煙であること。店側の主張はコーヒーの香りや風味を損なわないようにとのことだが、こちらにとっては煙を意識しないで済むからありがたい。ただ、愛煙家からの注文があるせいか、いつ頃からか店の前のスペースに椅子を置き、そこを喫煙席にするようになった。入口でタバコの香りを感じるかどうかも重要な要素なのだが。
 こういう店はそれぞれにスペースや作りなどが異なっているので、なるべく多くの客を受け入れ、くつろげるような工夫をしている。ここの場合は、小さなビルに入っているので、二階部分に客用のスペースが用意されていた。当然ながら禁煙区域である。さて、その部屋の窓際から外を眺めていると気がつくことが二つ、三つある。人通りが多いのは賑やかな街だから当たり前のことだし、車の通りもかなりのものである。ただ、おかしな感じがするのは、違法駐車の多さである。荷物の積み下ろしをするトラック、客待ちをするタクシー、商売のためだから仕方がない、ということなのだろうが、それでも通行の邪魔になることには変わりない。タクシーもこんな不況になってしまえば、賃走させている時間より客待ちの時間のほうが長くなる。トラックは荷おろしに出かけたまま帰ってこない運転手を待ったままである。一体全体どうなっているのかと思うが、駐車スペースを店側が用意することなど考えられない。そう思いながら違法駐車の列を見ていると、あるディスカウントストアの袋を抱えた人が乗り込んでいくのが見える。客用の駐車場を用意しないのが品物を安く売るための戦略という話はよく聞くが、その通り実行されているようだ。客の方も少し離れたところに駐車場があっても、そこに置くようなことはしない。近くに路上駐車しておけば取締りがあっても気が付くし、何しろ重い荷物を抱えて歩く距離が短くて済む。そんな考えだから、間違っても公共交通機関を利用せず、車で店にやってくる、だから店の周囲の道路には違法駐車が増える。となれば近所の人々はいろんな意味で迷惑に感じる。すると、そういった店が近くに出店することに反対したくなる。いやはや、当たり前の論理かもしれない。でも、なんでも安く手に入るのだから、そういう店が無くなることは困る。自分の近所に来なくていいから、ちょっと離れた所に来てほしい、などと勝手なことも言いたくなる。店も店で、安く売るためには駐車場など用意できない。もしそんな要求が出たら、こういう店はやっていけないから、規制をかけられたらそういうところには進出しない、といった論理を展開する。何が正しいのか、何がおかしいのか、そんなことを考えても仕方がないところにきているのかもしれないな、などと外の様子を見ながら思う。

* * * * * * * *

10月4日(金)−積木

 パソコンを扱っていると日々進歩しているのがよくわかる。以前は閉じた世界にいるだけで、自分から新しいものを欲しがらなければ、何も変化することはなかった。しかし、インターネットという外との繋がりを持つと、否が応でも変化が押し寄せてくる。新しいことが好きな人にとっては、どんどんいろんなものが流れてくるから大歓迎となるのだろうが、古いものや慣れたものを好む人にとってはただうるさい存在となることがある。
 何か新しいことを身につけようとすれば、それなりの努力が必要である。そのために教えてくれる人、学校でなくても教師と呼ぶことがあるが、を必要とする人と、ただ独力で何でもやってしまう人がいる。どちらでも努力は必要なのだが、行動パターンに大きな違いがある。教師を必要とする人はほとんどの場合受身的で、自分の方から積極的に働きかけることが少ない。だから、こういう過程を学習と呼ぶのなら、カリキュラムの整った学習環境を望む。それに対して、独学派は自分なりに独自の道を作り上げることが多いから、たとえ、市販の本を参考にするにしてもその組み合わせがどこかで推奨されている必要はなく、ただ単に自分が必要性を感じるかどうかで決める。パソコンを相手にするときに、前者は第三者の助けを必要とするので、以前は色々と難しい問題を抱えていた。ただ最近は、パソコンの中にそのためのソフトを備えたものも出ているし、何しろネットを使えばそこら中に教師があふれている。残った問題はそこまで行き着くだけの道具と力を持っているかである。後者にとっては以前から問題はなかったのだが、さらに便利になったといえるだろう。特に、積極的に何でも試みる人にとっては、パソコンのように失敗しても平気という環境は非常にありがたいのではないだろうか。そうは言っても時々とんでもない窮地に追い込まれることもあるので、注意して欲しいが。こんなに便利で効率的なのだから、こういう学習環境を他の場面にも導入できないものだろうかと思う人がでてきて不思議はない。たいていのことにこんなシステムが取り入れられているのだろうが、学習内容や対象によって難しい場合もでてくるようである。断片的な知識を繋ぎ合わせるだけで成り立つものはこれでも充分だが、一つ一つの積み重ねが必要な場合は中身が長大なものとなってしまい継続できずに挫折してしまうことが多い。これは、学生時代によく聞かされ、当たり前のように言われているのだが、最近少し疑いを持つようになった。断片的なものを積み重なるようにできないのか、関連付けを前もってしていないといけないのか、色んなブロックを自由に組み合わせてはいけないのか、などといった具合に。いずれにしても本人の努力しだいとなるに違いないが。

* * * * * * * *

10月3日(木)−愛別離苦

 今年の夏から秋にかけて、何となくいつもと違う感じがしていた。別に気候のことが気になるわけでもないし、虫たちや鳥たちに異常が見られたわけでもない。自分の仕事の忙しさということもあったから、そのせいかなと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。つい先日、ある電話を受けて、原因はこれなのかなと思った。
 その電話とは訃報を伝えるものだった。人はいつかは死んでいくもの、死に方、死ぬタイミングなど人それぞれなのだが、結局はそれまでたまにでも会えていた人に二度と会えなくなるという結果だけを考えれば同じである。しかしその割にはさまざまな死に方が伝わってきた。特に今年の傾向だったのだろうか。ある人の死は事故死ということで、ネット新聞に取り上げられた。死因は溺死であり、これだけなら複雑でも何でもない。しかし、パンチにとっては複雑だったのは、伝えられていた名前が自分の知る名前とは違っていたのだ。これが事を複雑にし、別の情報源からその死を知った友人と確認をとるのに苦労した。結局事情は明らかにならなかったが、想像するに配偶者の苗字の方が報道されたようだ。ひょっとすると戸籍上の名前はそちらになっていたのかも知れない、こちらの知っていた名前は仕事にのみ使っていたものだったのか。いずれにしても、こういう死は急であり、驚くことぐらいしかできない。特に、ある仕事の打ち上げでひと月ほど前に一緒に飲んだとなればなおさらである。まさか別れの杯というわけでもあるまいに。次の訃報は電話で伝えられた。死、そのものは意外だったが、別の感情も働いた。ここでの不思議は死に行く者の思いである。この人の場合は、遺族にさまざまな要求、無理難題を遺していった。何の目的で、何を思って、そうしたのか想像もできないが、何とも言えぬほど複雑な気持ちだけが残った。なぜわざわざこうまでする必要があったのか。安らかに、という思いは、薄れていきそうだった。最後は、件の電話による訃報である。はじめに話題にした溺死した人物と深い関係にあった人で、毎年ある時期になると必ず顔を合わせる人だった。とても元気で、こちらの悩みを吹き飛ばしてくれるほどの大きな笑い声をあげる、そんなありがたい人だった。本当にとても元気だったのである。つい半年前にも元気な姿を見た人がいた。しかし、この3ヶ月ほどで急に容態が悪化し、逝ってしまった。急性白血病、病気の進行の速さではつとに有名な死に至る重い病気である。その素早さにも驚かされたが、こちらも訃報の伝達に特徴があった。葬儀が済んでから数日後に、訃報が伝わり始めたのだ。親しい友人もほとんど葬儀に出られなかった、唯一出た人から情報が細々と伝わった。故人の希望により身内だけでという話はよく聞くが、そういう話も伝わってこない。どうも遺族の意向だったようだ。亡くなった人と別れを惜しむなどという感覚は一部の人には理解できないかも知れないし、国や宗教によってはそんなことを必要とは思わないかも知れない。また遺族の悲しみはたとえ親しい友人でも癒すことができないのかも知れない。でも長年仕事の上で苦労を共にしてきた人たちにとっては、病気のことも死のことも知らされなかったということはあまりにも色んな意味をもつような気がする。

* * * * * * * *

10月2日(水)−愉悦

 65歳以上の高齢者が日本の人口に占める割合は、などと新聞などで話題になっている。そういう記事を読むたびに、高齢者社会が築かれていることを実感する。その上、高齢者の年齢は以前は60歳以上だったような気がして、実態によって変化してきたのか、それとも年金などの制度の変更によるものなのか、よく判らないが何とも考えさせられる問題であることだけは確かだ。
 齢を重ねても、健康で楽しく生きることができたら、やっぱり幸せなのだと思う。ただ生き延びているだけという状態をなるべく避けたいと思うのは、みんな同じなのではないだろうか。ただ、そういう状況に追い込まれてしまったら選択の余地はない。さて、どうやってその中に愉しみを見出すか、また苦痛をなるべく軽減するための方法は何だろうか、などと考えることが必要になってくる。ところで、平均寿命が新生児の平均余命のことをさすことは御存知だろうか。年齢を重ねるごとに余命は減っていくのだが、年齢の増に対する平均余命の減少の大きさはは微妙に違っていて、当り前のことだが高齢者になればなるほど年齢と余命の和は大きな値になる。寿命や余命では単に命の長さを論じているに過ぎないが、最近はそれだけでなくQOL (Quality Of Life)というものが重視されるようになってきた。命の質とは、命の長さという単位を問題にするだけでなく、その質も問題にしようとするもので、楽しく、苦痛をあまり感じないで生活することを目標としたものである。ただ生き延びるというのではたとえば植物人間という存在も生きていると言えるかも知れないが、それでは本人にとって生きているという実感が無いし、生活を愉しむといったことも当てはまりそうにもない。また、元気に歩き回っている人に対して、寝たきりの人は、やはり色々な楽しみが減らされてしまうだろう。さらに、肉体的に元気でも、精神的に病んでしまえば、やはりそれも生活をエンジョイしているということにはならない。そういったことを全て総合的に数値化したものがQOLと呼ばれ、福祉や介護を考えるうえで重要な因子として扱われている。それに関係したことだが、介護保険制度が実施されるようになってから、介護用品の充実が図られるようになり、最近では展示会が頻繁に開催されるようになった。ベッド、車イスなどはどの国でも頻繁に使われるものだろうが、要介護の人を風呂に入れるための補助器具は日本で特に発達しているものだろう。そんなにしてまで風呂に入りたいのか、という疑問はさておき、最近の器具を見ると小型化するだけでなく使い勝手の良いものが多くなっている。実際に使ってみて、改良を図るシステムが充実しているからなのだろう。先日ラジオで取り上げられていたが、車イスはどれでも同じと思うのは健常者の考えの浅はかさで、一番慎重に選ぶべきものの一つのようである。なるべくお世話にならずに済めば、などと考えるようになるのはやはり齢を重ねてきた証拠なのだろうか。

* * * * * * * *

10月1日(火)−特異日

 以前にも書いたが、日本は多雨地帯にある。雨として降ってくる水の量だけでなく、冬に雪として降ってくる水の量も非常に多い。こういう地域はそれほど多くなく、水に恵まれた温暖な気候の場所として農業に適しているのだろう。ただ、耕作面積が広く取れないから、大規模農場という形はほとんど導入できない。小規模でも十分にやっていけると思うのだが。
 別にこんな形で始ったからといって、農業の話をするわけではない。田植えや稲刈りを少ししたくらいで、実際の農業の現場を経験したわけでもないし、やはり知らないことが多すぎて、うっかり書けないという事情がある。では、何の話題かというと、またまた雨の話題である。秋の長雨と言って、この時期はじとじととした天気が続く。北海道を除く各地では雨といえば梅雨を思い出すくらい、梅雨の時期に雨が多いという印象を持っているが、統計的には実は秋のこの時期の方が降水量が多いのだそうだ。理由は色々と挙げられるのだろうが、まさに今の状況がそれで、秋雨前線が台風の接近によって刺激され、長時間に渡って、まとまった雨が降るということだ。梅雨の時期はジメジメとして、雨が降り続くような印象があるが、今年もそうだったように、梅雨のはしりにちょっと長雨が続き、その後蒸し暑い日が続く。そして梅雨の終り頃には、集中豪雨が局地的に降る。そのため非常に多くの雨が降っているような印象を持ってしまうが、結局局地的なものだからおしなべてしまうと意外に少なくなるらしい。それに対して、秋の方は秋雨前線が思っているよりも長く居座るだけでなく、それに台風による雨が加わるために合計としては多くなるとのことだ。この時期、まだ稲刈りの済んでいない所が多いが、雨が降っているときには稲刈りができないから、長雨が続くとやきもきするだろう。特に雨で湿った稲穂の重さに耐えられずに稲が倒れてしまったり、台風の風が加わって倒れることもあって、刈りにくくなるから大変だ。と言っても、最近の稲刈り機は倒れた稲でもきちんと刈ってくれるそうだから、心配する必要はないのだろうが。そういえば、ハッピーマンデーなるへんてこなシステムの導入でもう祝日ではなくなったが、10月10日は晴れの特異日である。古い話だが、東京オリンピックの開会式が行われたのがこの日で、それを記念して「体育の日」という祝日になった。この日に開会式を行うことを決めたのは、晴れの確率の最も高い日の一つであったからで、それは今でも続いている。そういういわれなど、連休が欲しいという人にとっては何の意味も持たないが、結局運動会が「体育の日」に開かれることが多いことを考えると、あの日のままにしておいたほうが良かったのかも知れない。

* * * * * * * *

9月30日(月)−句切

 たまにはその日の出来事のような話をしてもいいだろう。今日で9月もおしまいである。それに今日で独り言を書き始めてからちょうど半年になる。一年が365日あるわけだからその半分で180日余りということになるが、正確には183回目ということになる。短かったというのか、長かったというのか、もちろん長かったに決まっている。
 独り言を書き始めたときに注意していたことが幾つかある。まず個人的なことをなるべく書かない、これは書き手の正体が知られることをなるべく避けるためであって、個人的なことがつまらないというわけではない。自分の職業などに関連した話題はとても扱いやすいものだが、それをしてしまうとせっかくのハンドルが意味をもたなくなる。次に日記のような書き方をしない、これはその日その日の出来事を綴るような形式をとらないという意味で、これも一番大きな要因は個人的な話題に触れないようにするためだ。もう一つの要因としては、日記をつけたことのない人間が、こういうものを毎日書こうとするのだから、日記形式では破綻をきたす可能性が非常に大きいということがある。元々一つのことを長続きさせることが苦手な性格であるから、日記などと肩ひじ張っては続かないことが明白だった。またその関連から、それぞれの日にちなんだ話題をなるべく避けようとした。ちょっと天の邪鬼的だが、その日の話題という形で書けばどこにでもあるものになってしまいそうな気がしたのだ。だから変に思われることも覚悟して、数日ずらすような形で書いた話題もある。ただ、季節の話題は大切にしたつもりだ。特に生き物や自然に関係した話題を多く取り上げてきた。この方法だと一年はもつかも知れないが、しかし、次からは同じ話題を使えなくなるので難しい。こんなことを書くと、まだ続けるのか、と思っている方もいらっしゃるだろう。たぶん一年は続くのだと思う、ただその先は怪しい。さて話題を変えて、最近独り言を読んでいて気がつくことはないだろうか。極端な意見が出るようになったとか、訳のわからない話が増えたとか、ありえないが読みやすくなったとか、そういうことではない。文章の長さがかなり違ってきているのだ。ここ二ヶ月程のことだろうか、意識的に長くするようにしてきた。それで問題が生じていないか心配になっていることがある。それはウィンドウズユーザーでインターネットエクスプローラーのユーザーに限ったことだと思うのだが、週ごとの表示などで窓が出てくると思うのだが、その中でスクロールバーが表示される問題が生じているのではないか、ということである。始めに調節したときには短い文章に合わせていたので、それでちょうど良かったのだが、今は少々長くなっているので、はみ出している可能性がある。是非点検して知らせていただきたい。

(since 2002/4/3)