パンチの独り言

(2002年10月14日〜10月20日)
(熱狂、親子鷹、本能、幽寂、絡繰、合目的的、ゆとり)



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10月20日(日)−ゆとり

 日常の情報源は、何だろうか。一番に挙げられるのはテレビで、その次が新聞だろうか。朝から晩まで忙しく働く人たちにとっては、テレビは情報源としてあまり使われないのかも知れない。プログラムが固定されていて、本人の都合に合わせた情報提供がなされないからだ。新聞はその点が自由な代りに、時間的に遅れるという難点が指摘されている。テレビの普及とともにその意見が強くなってきたようだ。
 そうは言っても文字による情報提供はやはり強力である。じっくりと何度でも繰り返し読めるし、聞き違いなどの誤解を生むことが少ない。テレビは映像の威力が大きく、逆にそれだけに頼る面が強くなりすぎている感がある。映像によって話ができ上がってしまうことも多く、誤解の元となる。では、もう一つのマスメディアであるラジオの評判はどうなのだろうか。テレビの普及以前は、速報はラジオの得意分野であったが、最近はもっぱらテレビの方にその座を奪われている。ただ、ラジオを聴いている人の話によると、テレビと違ってラジオでは「ながら族」が可能である。仕事をしながら、情報を手に入れることができる。テレビは映像という媒体に頼りすぎるために、音声という媒体だけでは伝えられる情報が不十分なことが多いからだ。手を休めて、テレビを見ることに集中しなければ、多くの情報を手に入れることはできない。車を運転するときもまさにその通りで、ラジオであればほとんど問題を生じない。最近はカーナビにテレビの受信機能がついているから、見ようと思えば見られるのだが、これほど危険なことはない。法律で規制する以前に解りそうなものだか、運転手がテレビを見ることは道路交通法で禁止されていると思う。そんなわけで車での移動が多い身としては、ラジオからの情報収集が主体となる。時事ニュースなどはあまり気にならず、どちらかと言えば、文化、文芸、趣味などといった話題に興味が湧く。先日も夕方のニュース番組に高木美保がゲストとして出ていた。田舎暮らしのすすめという話題で、那須高原での暮らしの良さを紹介していた。その元となっているのは、何と言っても自然と人間である。自然があるからこそ、人間にも暖かみが出てくる、と一言で片付けることもできるのだが、その暖かみをお節介と受取る人も多い。そのギャップを越えることができれば寛げる環境になるが、そうでなければ孤立するしかない。ゆったりとした時間の流れに安心する人がいる一方で、不安を覚える人もいる。結局は人それぞれの心の準備によるのだろう。面白かったのは、ニュースキャスターが亀の話題にふったところだ。高木さんの書いたエッセイに亀の話を見つけた彼は、自分も亀を飼っていることから、話題に取り上げ、その可愛さを語り始めた。北朝鮮やバリ島などの時事問題を語る一方で、何ともほのぼのとした話が展開される。余裕と感じるか、戯事と感じるか、受け取り手の気持ち次第だったのだろう。

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10月19日(土)−合目的的

 今週、ラジオで特集を組んでいた。夕方、「生きる力」育ってますか、という生活に役立つ教育を考える番組を毎日違うゲストを迎えて流していた。数学を考えたり、「よのなか」を考えたり、現在いろんなところで実際に行われている新しい試みを紹介しながら、それに携わっているゲストに話を聞くというものであった。二度ほど聴いていたが、面白いと思うと同時に、心配なことも多かった。どうも、横の繋がりが感じられないからだ。
 各人は彼らなりに良く考えた教育プログラムを組んで、子供達により分かり易いものを提供しようと努力しているようだったが、個々に考えれば素晴らしいものも、全部を繋ぎあわせるとばらばらで幹のないものになっているように思える。つまり、それぞれの枝にはきれいな花が咲いているけれど、それを辿っていこうとしても、どこにも幹になるところがない。見せかけの素晴らしさとでも言えば良いのだろうか、何となく美味しいお菓子を売っている人たちのように見える。その傍で、無理矢理にでも覚えなければならない、とてもつまらないものを教えている人たちにとっては、迷惑とも思える代物なわけだ。甘くて美味しいお菓子を売っている傍で、苦くてまずいけれども栄養価の高い野菜を売るのは、簡単なことではない。そんな喩えが似合っているのではないだろうか。聴いている人たちからもその辺りに対する不満や不安が寄せられて、魅力的なプログラムを実施することは大変結構なことだけれども、そのために基礎的な教育がないがしろにされるのでは本末転倒ではないか、などといった意見も聴かれた。これに対するゲストの答えは、こういう試みが教育カリキュラムに占める割合はほんの少しだけで、他の大部分できちんとした、ある意味強制的な教育が行われるはずだから心配ない、といったものだった。しかし、実際には、本来そういった基礎的な教育を行わなければならないものまでも、こういった形の試みを実施しなければならない状況になっているので、この答えは正しい答えとは言えなくなる。どの教科も目的第一主義になってしまい、(生活などの)目的に必要でないものは削除するという傾向が最近どんどん強くなっているのだから。紹介されていた「よのなか」科では、ハンバーガーをテーマに、お金や材料などといった話題を次々に考えていこうという、目的のしっかりしたものだったが、これと同じようなことが基礎を成している教科についても起きている場合がある。つまり、将来「これ」に役に立つから、「これ」を教えるとか、「あれ」に役立つから、「あれ」を教えようといった具合にである。目的を定めて、それに応じた教育を施すというのはとても効率的なものに見えるかも知れないが、非常に危険なものでもある。目的になかったものが必要になったときに、どうしたらいいのかわからなくなるからだ。実際には、目的意識をもった教育というのは、そうでない教育を受けてきた人たちの抱いた幻影に過ぎないのではないだろうか。目的も持たず、何の役に立つのかもわからずに、習ってきたことがずっと後になって何の役に立つのかわかったときに、それに役立つから教えるべきと短絡的に考えてしまったためではないのか。目的がはっきりしていれば学びやすいなどというのはとても魅力的な意見に思えるかも知れないが、本当はそれによって視野を狭めているということに気がつかないといけないのである。合目的とは頭の中だけで机上で展開されたものにのみ当てはまる話で、すべてがそれほど単純に展開するはずがないのだから。

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10月18日(金)−絡繰

 春と秋の二回開かれる高山まつりは豪華な山車がでるので全国的に有名なまつりである。秋の高山まつり、八幡祭は、既に先週終わってしまったが、ここで披露される山車は、屋台と呼ばれている。高山まつりの屋台は動く陽明門と呼ばれるほど豪華な飾り付けがなされているそうで、紹介文によれば「荘厳で華麗、絢爛で豪華、それに幽玄と哀愁がほどよく融合した」屋台だそうである。もう一つ、この屋台が有名なのは、その上でからくり人形の演技があるからで、楽しみの一つとなっている。
 からくりというのはかなり歴史のあるものらしく、室町時代と書いてあるものもある。京都、名古屋、関東という三つの系統があるとのことで、高山のものは距離的にも近いことから名古屋系統なのだそうだ。確かに、名古屋近郊の知多半島にある町にもからくり人形で有名なところがあり、伝統は受け継がれているようだ。動かし方や、仕掛けなど、色々と複雑なものがあるのだろう。お茶を運んでくる人形など、どんな仕掛けなのかわからないが、お茶の入ったお茶碗を運んできて、客が茶碗を持ち上げると止まり、飲んだ後の空の茶碗を乗せると、くるりと踵を返して戻っていくという動きをする。中々凝っていることは事実で、どんな人たちがこういう仕掛けを考えたのだろうかと不思議に思える。人の考えたからくりとは違って、自然にはもっと単純なからくりがある。植物の種など、その典型ではないだろうか。植物は動物と違って動き回ることができないから、ある場所で増え始めると何らかの形で移動する手段を使わないかぎり、その場に留まることになり、密度が高まるだけで効率が悪い。それを防ぐためには移動する手段を手に入れなければならない。その一つが種である。たとえば赤く目立つ実は、鳥がそれを食べ、消化されない種は鳥の移動に伴って別のところに排泄される。これだけで移動完了である。またタンポポの種は傘のような綿毛を持っていて、それが風を受けて遠くまで飛ぶことになる。同じ風を利用するのにも、アオギリは浅い椀のような形をしたものの内側に種がついていて、椀が風に乗ってある程度遠くまで移動することができるし、カエデの種はプロペラのような羽根をもち、それがくるくる回ることで落下速度を落とし、より遠くへ移動するのに役に立っている。東南アジアの島に生えているある植物の種は飛行機の翼のような形をしたものにくっついており、木から落ちるときに見事な滑空をする。この場合種の重さは重心を絶妙なところに置き、方向性を高めている。この辺りのことは、東京工業大学の教授だった東昭が、色々と書いているので、興味のある人は探して欲しい。こんな仕掛けとは別なのだが、いつも不思議に思いながら手に持つ植物がある。エノコログサである。この名前を知らない人でも、ネコジャラシと聞くとわかるかも知れない。この穂の部分を手でそっと覆って、そのまま軽く握ったり緩めたりを繰り返すと、穂が動いていく。まるで手の中から逃げ出そうとしているみたいだ。これは穂の中の実から堅い毛が出ていて、その方向と毛のもつ弾力性によって、握ったり緩めたりの時に一定の方向に動く仕掛けを作っているからだ。まるで機械の中のギアの歯の傾きみたいな感じなのである。こんな簡単な仕掛けで、ちゃんとした動きをさせることができるのは、とても不思議に思える。まあ、そんなことを言っても、この仕掛けはネコジャラシにとって、何かの役に立っているとは思えないけれども。

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10月17日(木)−幽寂

 列車で旅をしていると、他の人たちの動向が気になることがある。一人旅の場合、話をする相手もいないので、本を読んだり、物思いに耽ったりするのだが、周囲の乗客はこちらの状況などおかまいなしである。四人くらいでの旅行が一番やかましくなる。中年の女性は井戸端会議よろしく、中年の男性は酔っ払いの戯言となり、徐々に音量は高くなる。昔、早朝の東北新幹線に乗ったら、ちょっとおしゃべりしただけでも怒られた。早起きして通勤している人が眠りを妨げられるという理由だったらしい。はて、そんな権利あったのか、と思ったりもしたものだ。
 他人のおしゃべりは結構気になるものである。ずっと昔は、集中力があったから、周囲のおしゃべりを聞き逃さずに、話相手との話もちゃんとするという芸当もできたが、最近はどうもダメである。それは集中ではなく、分散ではないか、と思われるかも知れないが、集中力がなくなると、相手との話に集中するのに難渋して、かえって他の話が聞こえなくなるのである。それとは違う話だが、どの職場にも独り言をブツブツ言っている人がいる。10年ほど前、、同じ職場にその性癖の激しい人が二人いて、ほとんど毎日ブツブツ言っていた。ところがある日、なんと独り言で会話をするという場面に出くわした。本人達にとっては当然ながら独り言であるが、周囲で聞いている者には立派な会話に聞こえたのである。まあ、不思議な話なのだが、いくら独り言でも周囲との連絡がまったく途切れているわけではないのだろうから、わからないわけでもない。こちらも元来おしゃべりだが、独り言はここだけである。ブツブツ言うことはほとんどなく、必ず相手を見つけて会話をするようにしている。ただ、その頻度は寡黙な人に比べたらずっと多いはずだ。こんな具合だから、学生の頃に苦手な場所があった、図書館である。中学や高校の頃にはほとんど寄りつきもしなかった。公立の図書館だけでなく、校内にある図書室にしても、同じである。まあ、本を読むのが好きではなかったから、必要がなかったという理由もある。いずれにしても、静かな場所は苦手なのである。今でも図書館は比較的静かな場所として、一部の人には好まれているようだが、最近ちょっと様子が違ってきたような気がする。まず、小さな子供が増えたので、何となく騒がしくなった。子供向けの本を置いてある場所以外にもウロウロするので、かなり問題になっているようだ。単なる躾けの問題で片付けるべきことだが。もう一つの騒がしい原因は大人の方にある。所構わずおしゃべりをしている人たちが増えたのか、図書館といえども例外ではなくなり、ついつい大声をあげている人がいる。そのために、ちょっとしたスペースを設けているところもあるが、効果があるのかどうか怪しいところである。図書館から受験生の姿が消え始めた頃から、本を読む静かな場所といった姿から、本を借りる場所に変貌してしまったようである。まあ、最近の所蔵本を見るとその理由も自ずと明らかになるのだが。

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10月16日(水)−本能

 ちょっと昔テレビで、泳げないカバの話をやっていた。何処かの動物園で生まれたカバの赤ちゃんの母親が子育てを放棄してしまったことで、飼育係が人工哺育を始めたところから話が始る。日本で初めての試みで様々な障害を乗り越え、そのカバの赤ちゃんはどんどん大きくなっていった。そこまでの話ならそれほどの話題にならなかったかも知れない。ところが、このカバが泳げなかったことからテレビに取り上げられることになったわけだ。
 こんな話を思い出したのも、つい先日テレビでカバの話をやっていたからである。名古屋のテレビ局が企画制作したもので、多産のカバの話である。名古屋にある東山動物園には重吉と福子というカバの夫婦が飼育されていた。彼らが動物園にやってきたのは、昭和20年代の後半で、戦争の混乱で動物園が多くの動物を失ってしまったところから徐々に回復していった時代である。現在東山動物園は日本で三番目に大きい動物園になっていると思うが、当時から上野動物園とともに日本の動物園のモデルとして様々なことを試みてきた。地元で最も有名だったのはゴリラの芸で、飼育係との息もぴったりの三頭のゴリラが様々な芸を披露していた。元々野生の動物、それもゴリラのような大型霊長類に、芸をさせるというのは誰も試みていなかったから、世界的にも有名になっていたと思う。ただ残念だったのは、飼育係が退職する頃から、ゴリラは芸をしなくなり、観客にものを投げるなど、危険な行動に走ってしまったことで、子供達にとっては身近な存在から、怖い存在となってしまったことだ。同じ動物園に飼われていた動物の中で、もう一つ有名だったのがカバの夫婦で、彼らは何頭ものカバを産み、育てた。これらのカバは全国の動物園に引き取られていき、現在生きているものでも彼らの子、孫、ひ孫、玄孫を含めて、40頭くらいになるのだろうか。テレビで紹介していたが、数を数えるのを忘れてしまった。これらの子孫の中に泳げないカバとして有名になったモモがいる。まだ子供だった頃、モモは水を怖がって、近寄りもしなかった。カバは通常水中で出産するのだが、母親がモモを産み落としたのが岸辺の泥地だったために、水に馴染まないまま育ったせいもあるのだろう。飼育係はウェットスーツで身を包み、モモと一緒に水泳教室を開いていた。しかし、普通なら水中で閉じられるはずの鼻の穴を閉じられないモモは、不器用な泳ぎ方で浮いたり沈んだりを繰り返していた。それから何年経ったのだろうか、今回見たモモはちゃんと普通に泳ぐようになっており、いつの間にか伴侶にも恵まれて、子供をもうけていた。出産は水中でごく普通に行われ、モモの子供モモタロウはごく普通のカバとして育っていた。あれだけ人の手に委ねられて育ったモモがちゃんと子育てをするというのはとても不思議な感じがしたものだ。やはり、環境より遺伝子なのだろうかと。

カバの重吉

泳げないカバ


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10月15日(火)−親子鷹

 先日ラジオで、ある女優が父親の書いた小説を元にしたドラマを演じたときのことを話していた。良寛に関するものだったように記憶しているが、その時にこういう企画が親子の遊びと受取られないかと心配した、と語っていた。確かにそういう関係があったからこそ、主役の座を得ることができたと言われてしまえばその通りである。ただ、結果は上手くいったようで、父親が娘にぴったりと見込んだ事は間違いではなかったようである。
 このように親子で似た仕事をしている人は最近増えているように思う。昔は、世襲制が明確な歌舞伎、能、狂言などの伝統芸術や、技術の継承が必要となる伝統技法などにのみ、そういった傾向が見られたが、最近では様々な職業に親子がつく場合を見かける。小さな会社の社長が自分の子供に跡を継がせる話など、馬鹿げたことと片付けられていたこともあったが、十把一絡げにそう決めつけるのはどうかと思える。学生時代に理系の先生から伺った話だが、その方の二人の子供は文系に進んだのだそうだ。何となく寂しい顔をされていたが、やはり共通の話題を子供と持ちたかったのだろう。でも、これが親に逆らう行為でないことはあとで判った。奥様がドイツ語の先生だったからだ。才能というものは遺伝子で決まるものではないし、環境で決まるものでもないとよく言われる。どんな調査で結果を出したのか知らないが、数学の才能は遺伝しないと断言する人もいる。いずれにしても、様々なことにこのような断言が当てはまらないことは事実で、数学にしても断言は怪しいものだと思っている。たとえば、小説家を親子でやっている人は数多くいる。幸田露伴の系統など、幸田文、青木玉、そして青木奈緒となんと四代も続いている。青木玉の著書がでた頃には、これで次の世代が継げば四代になるから頑張れなどと言っていた人もいるらしい。これをみると物書きの才能は遺伝するのかな、などと勝手に想像したくなるが、その証拠はどこにもない。小さい頃から良い文章に触れていたから、などともっともらしい理由をつける人もいるが、これも想像の域を出ない。では、理系の方はどうか、今の皇后の親戚筋にあたる家系で、三代にわたって同じような分野の大学教授をしている人たちがいる。こちらも遺伝を考えたくなるが、それぞれに違った才能を開花させているとも言えるから、そう簡単な話でもないだろう。話をちょっと前に戻して、会社の社長の場合を考えてみると、創始者とその跡継ぎでは役割はまったく違うのではないだろうか。何もないところから会社を興すという仕事と、既に存在している会社を維持し、拡大する仕事とは明らかに違うものだと思える。そう考えると、親子が似た才能を持っていたとしてもそれを有効に使えるのか判らないとも言えるし、親子が違う才能を持っていたとしても二代目は二代目なりに能力を活かせる場があるとも言える。ただ、あるものを好きとか、嫌いとか、そういった感情が似ていることは意外に重要なのかも知れない。なにしろ、嫌いなものには気持ちが入らないことが多いのだから。

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10月14日(月)−熱狂

 久しぶりにマニアを見た。唐突な始まりだが、それほど衝撃が大きかったわけだ。新幹線に乗り込むと、すぐに同じ列の座席に掛けてきた男がいた。彼はおもむろにテーブルを下ろすとそこに鞄を載せ、さらにその上に三台の携帯電話をおいた。この時点で、おや最近見たことのないマニアの登場かな、と思ったわけだ。その後の展開は、始めの驚きをさらに上回るものになっていく。こういうタイプの人がまだ世の中にはいるんだなと、再認識させられた。
 何とも勿体ぶった書き方になってしまったが、こういう書き出しをやってみたかったのだ。それほど、面白おかしい場面に思えたのである。彼は三台の携帯電話を首から下げて現れたらしいのだが、それはストラップの様子からも見てとれた。しかし、横から見ている者にとって三台必要な理由はすぐには判らない。次に取り出したのはパームと呼ばれる手帳タイプの小型パソコンかあるいは電子手帳そのものだろうか、小さな鉛筆のようなものでチマチマと画面を操作して何かを入力している様子だった。ここまで来るとちょっとした情報通信系のマニアかと思えるのだが、実はそうではなかった。こういった光景は以前も何度か見かけたことがある。特に、光通信が大活躍するより少し前の携帯電話が投げ売りというか様々なところでほとんどタダで配られていたときに、人によっては六台くらい持ち歩いているのを見た。それ以来の光景だったのだが、この男はそれだけでは済まなかった。電子手帳のようなものを操作していたと思ったら、それが終り一安心したかのように椅子に深く掛けたのを見たとき、テーブルの上の鞄の上に携帯電話だけでなく、競馬新聞がおいてあるのが見えたのだ。あれまあ、そういうことなのね、と納得してしまった。全ての機械の操作は競馬の馬券を購入されるためのものだったわけだ。その証拠に、その後三台の携帯電話のうちの一台が、受信を知らせる着メロを奏で始めたのである。タァラララッタタァ〜ン、といったところだろうか。競馬場でかかっているファンファーレのような音楽だ。何の知らせかは判らないが、なにしろ電話でないことは確かだ、本人は画面を見ただけなのだから。その後も、何度かファンファーレは鳴るし、新聞を広げて赤鉛筆ならぬ赤ボールペンで印を入れるし、寝ている以外は予想と投票のためにいそいそと動いているようだった。確かに、日曜日の昼間は重賞レースなどメインレースが開催されるから、競馬マニアにとっては重要なときなのだろう。しかし、不審な行動、うるさい携帯電話、等々、あまり良いマナーとは言えない感じだった。こちらもモバイル二台を出張の際には持ち歩く。一つは通信用、もう一つは仕事用である。通信用には小さなものをと思って選んだが、ウィンドウズだったので、仕事用のマックは別に持ち歩かねばならない。短期出張には通信用だけとしているが、少し長くなるとそうもいかない。両方合わせると5キロ近くなるだろうか。いずれにしても、両方のパソコンを車内で使うこともあって、かなりおかしく見えるのかも知れないが、少なくとも音は出さない。この時もいい加減にファンファーレをやめて欲しいな、と思いつつ観察を続けた。

(since 2002/4/3)