パンチの独り言

(2002年10月21日〜10月27日)
(聴納、十八番、欲心、湯中り、試読、振子、勧化)



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10月27日(日)−勧化

 景気が良し悪しがはっきりと現れるものがある、広告だ。テレビの広告など、流しっぱなしにしているので、気がつかないかも知れないが、この景気の具合で数が減っていると思う。その代わりに頻繁に流されているのが、自局の番組の広告である。こうすることで隙間を埋めることができるのだろう。こんなやり方をしているから、気がつかないかも知れないが、減っていることは事実だと思う。
 テレビの広告とは別の広告で景気の悪さを示しているのでは、と思えるものがある。駅の広告だ。列車を待っているときにホームの正面に見える「あれ」である。地方の小さな駅に行くとそんなものはほとんど無いし、あってもその地方の旅館やら店の宣伝だが、新幹線が止まるような大きな駅になると大きな広告が目白押しになっている。ただ、広告板は埋っているのだが、どうも様子がおかしな感じがする。以前であれば、日本の会社の花形である電気製品や車の会社の宣伝が並んでいたと思うのだが、最近はそういうものをあまり見かけなくなった。これは地方の駅だろうが都会の駅だろうが変わらない傾向だ。では、他のスペースを埋めているのは、何の広告なのか。贔屓目かも知れないが、教育関係のものが目立つ感じがする。その中でも特に大学関係のものが増えているようだ。先日見かけたものは地方私立大学のものだったが、今は21世紀に入ったばかりなのに、22世紀がそこにはある、などといったキャッチがあり、苦笑いをしてしまった。本当にそんなものがそこにあるのかどうか確かめる術もないが、100年も先のことなら何を言っても大丈夫だろうという気持ちが現れているような気がしたからだ。それに、これから大学に入る人間にとっても、22世紀などというのは触れることのできない時代である。まったく、どうやってそんな文句を思いついたのか知らないが、知性溢れるとは言い難いものだった。これだけでなく、その周りにも地方大学の広告がずらりと並んでいた。子供の数が減り続け、大学にとっての氷河期の到来が叫ばれている時代だからこそ、これほどの広告が巷にあふれているのだろうか。それとも、肝心の企業からの広告が激減してしまって、他に依頼主を見つけようとした努力の結果がこのような形に現れてしまったのだろうか。実際に、古都と呼ばれるところにある日本一長い駅ビルの建設に当たっては、その周辺にある仏教系の大学に対しても広告の勧誘がなされたようで、正面改札口の傍にも二つ三つ掲げてある。正面といえば一番目立ち、広告料も高いはずのところに、大学の広告というのはちょっと場違いな気がするが、今の時代それが当り前のことなのかも知れない。大学がそれだけ学生集めに必死になっていると見るべきなのか、それともこれがつまりは景気の悪さの指標ということなのだろうか。

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10月26日(土)−振子

 昔、バブルがはじける前の日本が勢いを失っていなかった頃、日本と米国のシステムの違いについて話すことがあった。日本の官僚主義は今や諸悪の根源とさえ言われるが、ある一定の安定したシステムで走り続けるためにはとても良い機構であると思った。一方、米国のシステムは大統領が替わるたびに総入替えとなり、極端な場合にはまったく違った方向に走り出さねばならないから、不安定であまり良い機構でないと思った。
 しかし、いざ変化が求められると、安定したシステムは硬直化したシステムと言い換えられ、すべての変化に大きな労力を要するものになり、不安定なシステムは軽快に変化をこなすことができるものとなった。安定が居座りを産み、変化を求めぬ保守派の天国となったためだろうが、どんなシステムでも徐々に極端な方へ移っていく証だったのだろう。一方で米国では最近、大統領が替わっても以前ほどの変化が起きなくなり、民主、共和の中間的なやり方が採入れられるようになり、かえって危険な感じがしてしまう。変化が極端に動くのは世の常らしく、何にでもそんな傾向がある。身の回りで起きている例を二つほど紹介しよう。一つ目は老人介護の問題。痴呆老人の介護にあたって、以前は人権を無視する行為が行われてきた。たとえば、徘徊が起きないようにベッドに縛りつける、暴れて落下するのを防止するために車イスに縛りつける、といった「拘束」は介護側の論理で行われてきた。人によっては縛りつけらるのを嫌がり暴れるのだが、それを抑えるために様々な工夫もなされたようだ。これが人権侵害に当たるという意見が出て、介護側がそれらを一切禁止する方針を打ち出した。ここまでであれば、良い結末を迎えたといえるのだろうが、これで終わらないのが難しさだ。車イスからベルトが取り外され、縛りつける行為が無くなるとともに、落下事故が増えてきたのである。安全のためのベルト固定までも禁止されたような印象を与えたのが、原因の一つらしい。一つの措置がいろんな副作用を生み出す例だろう。もう一つはchild abuseに関するものである。子供の虐待というのはいろんな形態をとるが、最も多いものは体罰であろう。日本ではまだ話題になっていなかった頃、米国ではこれが深刻な問題となった。子供は自分自身で訴えることができないので、隣近所からの告発なども出てきて、人前で叱る行為さえも憚られるようになっていた。実際にそういう場面に接したことがあるのだが、良心の下に行われる暴挙なのではと思ったほどだ。体罰を容認する気はないが、躾けにとって必要なものは何かを考えないといけないと思う。一局面だけを捉えた告発で被害を受けるのは告発された親だけでなく子供も含めた家族なのだから。チンパンジーのアイが子供を産み、育てている話を何処かで見た。アユムは元気に育ち、アイの傍で訓練を楽しんでいる。母親は何も言わないし、叱るしぐさも見せない。これを見て、やっぱり叱らなくても良いと結論づけるのか。でも、四六時中見守ることができる環境にあることを忘れないで欲しい。子育ての途中でその場を離れることは多いし、特に働いている人は接する時間がかなり減らされるはずだ。そういう状況で同じことをしたら、どうだろうか。暖かく見守ることだけが良いとは限らないのではないか。決めつけることはできないが、いろんな見方があると思う。あれが良いから、これが良いから、と変えるばかりして落ち着かないと相手はかなわない。少しくらい悪くても落ち着いてくれた方が、と思うこともしばしばなのだ。

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10月25日(金)−試読

 今月、国立国会図書館関西館が開館した。中々モダンな建物で、建物の中に木が植えてあるようだが、どうなっているのだろうか。本家の国会図書館とどう役割分担をするのか、よく判らないのだが、本の所蔵よりも情報の所蔵に重点を置くのでは、と言われている。本という形にこだわらず、あらゆる形態の情報を扱おうというのだろう。興味深いのはネット情報に関しても何らかの形で収集しようという話が出ていることだ。
 国内で出版された書籍は、通常の本であろうが雑誌であろうが、国会図書館に届けられるようである。寄贈の扱いになっているのか知らないけれど、大学の博士論文など売り物になっていない出版物も置いてある。こんな調子で持ち込まれていけば、当然置く場所も足らなくなる。関西館の建設が提案された理由の一つに、場所の問題があったのだろうが、同じやり方で保存するのでは、それほど時間が経たないうちにここも一杯になってしまうだろう。だからマイクロフィルムやその他のメディアを使った保存を中心にするのだろうが、それでもいつまで大丈夫なのか判らない。まあ、そんなことを言っているうちに、もっと優秀なメディアが開発されてスペースの問題も解決されるのかもしれないが。そんなことを心配しなければならないほど多くの出版物が巷にあふれている。その割には本屋の経営状態はあまりよくないらしく、今年に入ってから近くの本屋もつぶれてしまい、別の本屋が新装開店した。置き換えができるくらい業界としてしっかりとした組織を作っているのかもしれないが、いずれにしてもあまり売れていないのが実情なのだろう。一方、その近くにある最近流行の古本屋の方はつぶれる兆しを見せない。何しろ文庫本だろうが、1000円を超える一般書だろうが、100円で売るのだから、皆そっちに向いたくなるのだろう。捨てるよりはこんな形でのリサイクルの方が良いという意見もあるが、皆がそう考えてしまったらリサイクルの源がなくなるかも、今のところそんな心配はないのだろうが。さて、肝心の本の中身はどんな具合なのだろうか。大手の出版社がこぞって新書を始めてみたり、小さな出版社が世界的に話題になった本の翻訳で大当たりを出したりと話題があることにはあるが、どうも内容的には寂しい感じがする。本屋に行って選ぶにしても、こんなに多くては困ってしまうな、などと思うと、やはり何を揃えるのかをきちんと考えてくれる本屋の存在は非常に重要に思える。ここもまたスペースの問題に悩んでいるという話も聞こえてくるのだが、手にとって見てからという消費者の心理を大切にするためにも、頑張って欲しい。

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10月24日(木)−湯中り

 小さい頃に温泉と聞くと、年寄りの行くところと思っていた。湯治場とか保養所とか、そんな言葉も温泉と結びついたもので、どちらにしても病気をもった人や疲れた人が行くところというイメージで、その結果年寄りとつながっていたわけだ。ところが最近は、20代や30代の特に女性が行くところとなっているようだ。温泉のイメージが変わったのか、それともその年頃の女性が疲れやすくなったのか、よくわからないが。
 いずれにしても、昔に比べて温泉の数が増えているようだ。温泉と呼ぶためには規定があって、25℃以上の湧き水といったものである。別府のように湧出量が多いところでは、自然に湧きだしていることもあるが、実際にはほとんどの温泉が井戸を掘り、ポンプで汲み上げている。この井戸の深さが最近かなり変化しているらしく、それが増加の原因の一つになっているらしい。以前はせいぜい数百メートル掘って、出てこなければ諦めるといった具合で、どこから出そうかという調査も不十分だったらしい。ところが最近は最新型の機械を使って調査し、掘削機の方も千メートルを越える深さの井戸を掘る能力をもっている。これらの機械は温泉を掘り当てるためではなく、石油を掘り当てるために開発されたものなのだそうだ。そう言われると、温泉よりも石油の方が儲かりそうに思える。そんな具合に開発された機械もどこからでも石油が出てくるわけではないから、使用頻度がそれほど高くないわけで、どうせ遊ばせておくのなら温泉でもと考えた人がいたようだ。実際にやってみたら、結構いろんなところに温泉が見つかるようになった。そんなこんなで、日本国中回ってみれば、どんどん温泉が増えているということになるわけだ。温泉の成分、泉質はそれぞれで異なっていて、それを楽しむのが通だという話もあるが、一般には火山帯の近くから湧きだす温泉は酸性のものが多く、そうでない地域ではアルカリ性のものが多いのだそうだ。酸性で有名なのはたとえば蔵王温泉で、測ってみると大体pH2くらいなのだそうだ。お湯に入るとピリピリして、粘膜などはやられてしまいそうだ。一方、アルカリ性の温泉はヌルヌルした感じで、よく美人の湯と呼ばれている。肌がすべすべして、滑らかになる感じがするからなのだろう。こちらはどこが有名なのか、よく知らないが、結構たくさんあると思う。酸性も、アルカリ性も、極端だとピリピリ、ヌルヌルとなってしまうが、いわゆる弱酸性、弱アルカリ性であれば、それほど刺激性のものではなくなる。また、こういうものの中には胃腸に良いというので、飲用の温泉もあるようだ。ただ、温泉宿などでは湧出量や衛生管理の関係からろ過装置を付けた循環型の温泉が多くなっているので、この場合は飲用には不適となる。循環するなら、何処かから温泉を運んできてもいいということで、街中に突然温泉が出現することもある。そこで湧いているのではなく、遠くの天然温泉から運んでくるわけだ。一度温泉と認定されたものでも、場合によっては湧出量が極端に減ってしまったために自前の湯だけでは足らなくなることもあるようだ。その場合、井戸水を沸かしてつぎ足すことになる。はたしてこれを天然温泉と呼んでいいのか、いろんな事情をもっているところがありそうだ。宿の食事の多さに閉口する年齢になってきたが、やはり温泉にゆっくりとつかるというのは気持ちがいい。こんな小難しい話なんか放っておいて、ゆったりと。

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10月23日(水)−欲心

 先日、庭に植えていた植物が伸びすぎたので、始末しようとしたら、面白いものを見つけた。自分で買ってきたものではないから、名前も知らない植物だが、蔓状に伸びてくる。しかし、どこにも取っ掛かりがないために、上に伸びることができずに、庭を這い回っていた。その先端が、土の中に頭を突っ込み、なんと根を出していたのだ。
 植物はどの部分を切り刻んでも、そこから完全な植物を再生する。この能力を全能性と言い、どの部分も体のすべての部分になる能力があるという意味である。とは言っても、植物によってその繁殖力には差があり、ベンケイソウのように葉の部分を千切って植えておけば、根を出し完全な植物体を作るものもあれば、そうでないものも多くある。サツマイモ、じゃがいもなどの育て方を知っていれば、この違いがよくわかるだろうし、種で殖える野菜でも苗で売っているものはなぜそうなのかを考えてみるといいかも知れない。植物が全能性をもつことは以前から知られていたが、動物はそれをもたないと信じられてきた。せいぜい、トカゲの尻尾の再生など一部の例外的なもので、器官の再生が知られているのみだった。この例でも、一部の器官だけの話で、すべての器官が再生するわけではないし、ましてや他の組織からある器官が作られたなどという話は聞いたことがなかった。そんな状況では、クローン人間とかクローン動物はSFの中だけのお話で、実際に登場するなんて文字通り夢にも思っていなかった。ところが数年前、クローン羊のドリーが登場してしまった。実はこれ以前にもクローン牛なるものが世の中に知られていたが、これは受精卵が二度ほど分裂したところで細胞を一つ一つに分離させて、そこから分裂を続けさせることで牛を誕生させる技術で、クローン本来の体の細胞から完全体を作り出すという意味とは異なるものであった。このクローン牛は一卵性の双子、三つ子、四つ子といった代物である。それに対して、ドリーはある羊の細胞から遺伝子を含んだ核と呼ばれる部分を採りだし、核を取り除いた卵細胞に入れることで作られたもので、元々の核を提供した羊と同じ遺伝情報をもつクローン動物と言うことができる。この技術が確立するとすぐに、ネズミ、牛など様々な動物でクローンができることが示された。ある国の科学者は、この技術は人間にも応用可能であると言うだけでは物足りなかったらしく、実際に作り出したと発表した。真偽のほどは定かではないが、可能であるというのが共通の認識で、そのために早々と人間に対するこの技術の適用を禁止する法律を制定した国もある。ただ、最近はクローン動物が実際には核を提供した動物とまったく同じというわけではなく、何かしらの欠陥を蓄積したものかも知れないという話も伝わってきている。この技術は様々な刺激を細胞に与えているし、体細胞の核の中の遺伝情報は傷んでいるかも知れないから、ありそうなことだ。そんな問題を孕んでいるにも関わらず、世の中には使ってみたいという人が沢山いるようだ。体外授精、代理母、そしてクローン人間、十把一絡げにしてはいけないのかも知れないが、欲望のなせる術である。

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10月22日(火)−十八番

 昔の日本では、末は博士か大臣か、というのがサクセスストーリーだったのかも知れない。しかし、今では中学生に、「博士って、なに?」と言い出す子供もいて、意味さえも通じなくなっている。サッカーブームの頃には、サッカー選手になることが成功物語に繋がると言われていたが、それも過去のこととなりつつある。成功しないわけではないが、誰もがなれるものではないし、本当に成功するのはプロになった内のほんの一握りに過ぎないことがわかってきたからだろう。
 ビジネスの上でのサクセスストーリーといえば、アメリカの話が多くなる。最近では、ビル・ゲイツがその筆頭だろうか。財団の名前になっている人たちもその代表だった、ハワード・ヒューズ、ロックフェラー、他にもあるけれど思い出せない。これらの財団は超特大のものだが、他にも多くの財団があり、いろんな事業を行っている。日本でも財団は色々とあるが、これほど大規模なものはない。製薬会社絡みのものでは、内藤、山田、上原がある、どこの会社か思いつくだろうか。その他にも、谷口、王子、大川など色々とあるが、活動の幅はアメリカのものに比べると狭いように感じる。アメリカでは、このように登りつめていく話と同時に、いやもっと数多くの挫折物語がある。そんな話は当然ながら伝わってこないが、働いている人たちを見ていると何となく感じることがある。挫折したからと決めつけるのは言い過ぎだが、何となく仕事に身が入っていない、ただ機械的にこなしているだけ、という姿を幾度となく見てきた。その当時、日本では様々な職種で誇りをもって仕事をする人たちを見ていたから、そのギャップには正直驚いた。一部の成功を約束されたかあるいはこれから成功を手に入れようとしている人たちはがむしゃらに働いているのに、一方ではやる気を無くし、ただ言われた仕事のみを片付け、nine to fiveで働く人たちがいる。別に底辺で働いている人たちがすべて能力がないわけではないと思うのだが、なにしろ気力を無くしているから何ともならない。いろんな職種で、いろんな能力が必要とされ、上手く折り合いをつけることができた人たちが、きちんと仕事をこなすことが一番効率的なものだと思うのだが、どうもそうなっていなかったような気がする。今の日本は、それに近い感じではないか。挫折というかやる気のない人たちが多くなったような気がする。大した仕事じゃないから、などと言う声も聞こえてくるけど、そうなのかなと思ってしまう。どんな人でも、その能力を活かせる場所はあるはず、そんな気で見ると、大した仕事じゃない、などと言わなくて済むはずなのだが。適材適所とは、別に優秀な人材を活用するためだけにある言葉ではない、下から上まで、どんなところにでも通用するはずのものだろう。人それぞれに能力があり、それに見合う役割がある。そう考えると安心する人もいるし、落胆する人もいる。所詮は色々なんだから。

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10月21日(月)−聴納

 数年前から中年の自殺が増えているそうだ。中年が一体何歳くらいを指すのか、ということもよくわからないが、どうも実感がない。まず第一に、周囲でそういった事件が起きていないことがあり、第二にこういった事件のすべてが新聞などで伝えられるわけではないことがあるのだろう。また、自殺と決めつけられるほどの証拠がない場合もある。これは増加現象を論じるときも注意しなければならないことだが、分類自体の不備もありうるわけだ。
 以前は、仕事の過負荷や責任の重圧といった話題が多くあったが、最近は失業という、より直接的な原因も多くなっているようだ。原因がどこにあるにしろ、自殺に至る経緯には共通点があるというのが、精神科医やカウンセラーが強調するところだ。特に問題視されているのは「鬱」症状で、この症状が出始めたら要注意と言っている人が多い。しかし、素人目には「鬱」なのか、単なる精神的な疲れなのか、はたまた肉体から来るものなのか、判断がつかない場合が多い。そうなると、心配の対象となっている人に対してこちらから働きかける機会はできそうにもない。では、ただ何もできず、手をこまねいて見守るのみなのだろうか。最近読んだ本にその辺りのことが書いてあったが、どうも今一つ理解できない点が多い。要注意信号を当人が発するようになると書いてあっても、その見極めは難しそうだし、うっかり判断ミスを犯せば相手に対して失礼極まりないことになる。それで、やはり躊躇してしまうのだろうな、というのが正直な感想である。これだけでは、何とも物足りないから、この先のことを書いておこう。相手の見せる信号にこちらが気がつかなかいとしても、その次の段階がありうるのだ。人間関係の親密さにもよるのだろうが、相談を持ちかけられる場合が多いのだそうだ。これもまた、別に自殺とは無関係の相談も数多くあるから、注意しなければならない。まずは、そんなことを気にせずに、相手の言うことを聴くことが肝心なようだ。その具合によって、何のための相談かが判断できるようになる場合も多く、相手の言うことを真剣に、親身になって聴くことが大切だ、とのことだ。つまり、これは相談であって、議論ではないので、相手の言うことを聴くことが大切で、自分の意見を相談してきた相手にぶつけることは避けるべきである、ということなのだそうだ。はじめはさほどでもない相談内容が、徐々に佳境に入り、肝心なところに至るという展開もありうる。そのためには、じっくり気長に相手の話が進むのを待つしかないわけである。ここに書いているのはあくまでも受け売りであって、自分ができることとは限らない。実際に、そんなことになったら、たぶん無理だろうな、などと思いながら、この部分を読み進めていったわけなのだから。それにしても、そこまで悩まなければいけないのはなぜなのだろうか。自分の中にしまっておくことは、色んな意味で辛いことが多く、解決の糸口さえ見つからないことも多いだろう。それが幾つも重なることによって、逃れようのない悩みが生まれてくるのかも知れない。しかし、そこまで重ねるのはなぜか、やはり能天気にはわからないのだろう。

(since 2002/4/3)