パンチの独り言

(2002年10月28日〜11月3日)
(独立事象、無知無恥、権利、追懐、向上、選別、掘り出し物)



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11月3日(日)−掘り出し物

 文化の日、と言っても、何の意味があるのか、さっぱりわからない部分もある。それにしても、いろんなイベントがいろんなところで開催されているようで、文化的と思えるかどうかわからないけれど世界一の大きさのお好み焼きやらいろんな講演会などが開かれたようだ。面倒ということもあるが、そういうところへ出かけることは実際にはほとんどない。
 講演会に参加することが面倒だと書いたものの、実際にはいろいろと参考になることも多い。ただ、どれが参考になり、どれがそうでないかを、講演会のタイトルと講演者の名前だけから推測することは至難のわざである。タイトルは人集めのために一番重要な因子だから、なるべく魅力的なものにしようと主催者側は考えるだろう。だから、タイトルと中身がまったく違ったものになることもよくあるし、いわゆるタイトル倒れということになり、どちらかというとそちらの方が多いのかもしれない。作る側はそういうことをわかった上でやっているから、文句を言っても始まらない。でも、期待が外れた時にはやはりがっくり来てしまうものだ。これと同じかそれ以上に落胆させられるのは、講演者に対する期待外れかもしれない。テレビをはじめとするマスコミで有名な人が講演すると聞けば、いろんな意味で期待してしまうのは仕方のないところだろう。でも、多くの場合、中身の無さにがっくり来てしまうことが多い。仕組まれたものの中で自分を活かすことができる人ほど、テレビの中で活躍できるのかもしれないなとさえ思えてしまう。もともと、そんなことに期待することが間違っていると言われれば、その通りだろう。でも、そういう人の方が実際には多いのではないか。本当の姿を見られる場に居合わせることができただけでも運が良かったと思っておけば、それで十分なのだろう。そういう外れは外れとして、意外なところに意外な掘り出し物が見つかることも事実だ。こちらの方は前評判はさほどでもなく、でも行ってみたら面白かったというわけだ。そういう意味でアンテナをしまってしまうのは良くないと思う。ぜひ、いろんなところを覗いてみて、良いも悪いも含めたいろんな経験をすべきなのだろう。

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11月2日(土)−選別

 久しぶりで生まれ故郷の地下鉄に乗った。階段の昇り降りに便利だという理由でいつも乗る箱に乗ろうとしたら、見なれぬステッカーが貼ってあった。ピンク色のもので、いつの間にこんなものを貼るようになったのかなと思ったが、そこには、女性専用と書いてある。東京で始まり、大阪にも飛び火していたが、ついにこんなところまでやってきたのかといった感じだ。
 女性専用といっても、その下に更に但し書きがあって、平日の始発から午前9時までとある。たまたまその時間から外れていたので乗り込んだが、何となく変な気分がした。確かに、平日の朝は地下鉄のこの路線はかなり混んでいて、特に、JRの駅からビジネス街までの間は、東京のラッシュ並みとなる。そういう意味で、こういった措置をするのは良いのかもしれないな、とも思ったのだが、一方でなんでもかんでも区別するのはどうなのかなとも思う。実際にどのくらいの被害があったのかは知らないけれども、予防という意味で効果はあるのだろう。しかし、何でも分けてしまえばそれでおしまいという考え方は、どうかとも思う。この措置は期限付きのもので、現在は試行中とのことだが、今までの例からしても本格運用になることはほぼ確実である。こういうシステムは安心をうむものとして歓迎されているが、以前の差別が横行していた頃とどう違うのか、ちょっと考え込む人もいるのではないか。人種のあいだ、男と女のあいだ、年齢の違いなど、いろいろと差別の対象はあった。その後、問題視されるようになり、いろんな形で改善されてきたのだと思う。それが落ち着いたと思ったら、今度は別の形での区別が始まったと思うのは、考え過ぎだろうか。確かに、利益になるような区別なのだろうが、こういう形でいかにも意味のあるものとして始まったものが、その後、別の形に変わってしまうこともよくある。そんなに心配しているわけではないが、区別と差別に関して以前どこかで書いたように、ちょっとしたことで区別が差別に変わってしまいそうな気もするのだ。まあ、そんなに心配しなくても、なるようになっていくのだろうが、区別することを始める時にはそういった危険性を考えておいた方がいいと思う。電車を降りるときに前に立っている女性に鞄が当たってあらぬ疑いをかけられるなどということが起こらないためには、こういうふうに別のところにいるのが安全であるということは、よくわかるのだけれども。

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11月1日(金)−向上

 この独り言をおいてあるホームページは管理人の引き継ぎの時に、インフォシークという会社の無料サービスのところに移動した。その後、比較的安定に稼働しており、安心していた。でも、この世界のビジネスの常なのだろうか、いろんな会社を吸収する形で拡大していた。ただ、これまでは相対的な大きさで差があったためか、何も起きずに済んでいたのだが、今回はかなり大きな変更を余儀なくされたようだ。
 そんなわけで、ホームページの管理に関して一時的に不具合がでるとの知らせがあった。ところが、その説明の仕方がわかりにくく、つい先日管理用ツールが使えなくなって初めてこのサイトにも影響が出ることが判った。日本語の難しさなのか、こちらの理解力不足なのか、はたまた不慣れなだけなのか、いずれにしても、かなり大きな変更であることが想像できる。これに伴って、掲示板を動かしているソフトやファイルを転送するためのソフトが、使用できなくなる時期が出てくる。実際にはもう少し先のことなのだが、様々な環境下でパソコンを使用している者にとっては、そういうことに一々違った対応をさせられるのは面倒ということで、臨時の掲示板を設置することにした。この掲示板もインフォシークの管理下にあるから、もしもの時は使えなくなる可能性もあるが、お知らせを読むかぎりは影響の及ばない範囲にあるものと思えた。いずれにしても、完璧を目指すわけにもいかないので、今回はこのやり方で進めてみようと思う。ネット時代の到来と言われてから、もうずいぶん時間が経過しているのだが、いろんな対応に関してこれといった決定版があるわけでなく、どうしても手作業的なやり方になってしまうようだ。動くのはコンピュータなのだろうが、動かすのとやり方を考えるのは人間なのだから、そういうところの遅れは仕方のないことかも知れない。少しずつでも進んでくれればそれで良いし、ネット社会ができたことでそういう横の繋がりはしっかりしたものになりつつあるから、良いものが見つかればそれがすぐに広められるだろう。今回の措置は、データを保存してあるコンピュータからデータを移動させるためのものらしく、こんなに長い時間と労力を必要とするものとなったらしい。お金さえあればサブのシステムを稼働させておいて、ということができるのかも知れないが、なにしろかなりの大きさのホームページを無料で設置させてくれるのだから、そんなことはできないのであろう。いずれにしても、利用者にとってはいろんな形の不便が押し付けられるわけだから、たまったものではないのかも知れない。でも、何とか事情を理解していただいて、正常に戻るまで待っていただきたい。独り言を書く方もシステムが違っていて、何となく落ち着かないのだが。

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10月31日(木)−追懐

 昨日の朝、ドライブ中にいつものようにラジオを聴いていたら、懐かしい声が聞こえてきた。ラジオを聴きだしたのは中学の頃だろうか、はじめは民放の深夜番組で、「あまちん」、「のんちゃん」、「レオ」といったパーソナリティが出演していた。受験勉強のともとして聴いていたようだ。高校に入ると夕方の番組を聴くようになった。こちらは民放ではなく、あの放送局のものだ。その頃のパーソナリティの声が昨日の朝聞こえてきたのだ。
 当時は陽水の「傘がない」が流行っていて、その番組でもリクエストとしてかけていた。その時の便りで、この曲を初めて聴いたときには大変衝撃を受けましたと紹介されていたが、その通り衝撃的な曲だった。この番組のパーソナリティはアナウンサーが担当していて、男性の方は覚えていないが、女性の方は良く覚えている。村田幸子という人で、アナウンサーは真面目にニュースを読んだり、司会をしたりするものと思っていた高校生にとっては、何とも不思議な感じのする人だった。単に、面白い話をしていただけなのだが、そういう人間性溢れるものとニュース読みがどうしても繋がらなかったわけだ。その後もこの人はいろんな番組の司会をしていたが、いつ頃からかあまり見かけなくなった。日本放送協会のアナウンサーは当時は民放に移ることが多かったが、おそらく協会内での地位が安定していなかったのも理由の一つなのではなかろうか。とにかく、見かけなくなってずいぶん時間が経ってから、ふっとその姿を現したときにはちょっと驚いた。老人福祉などの問題を扱う解説委員になっていたからだ。アナウンサーから部長や局長に上がれる人の数はそれほどいないのだろう。だから、ちょっと売れた人は民放に引っ張られることになる。それがお互いのためであると言えるのかも知れない。しかし、そういう経路だけではどんどん増えていく人をさばくことができなかったのだろうか、それとも、単に与えられたものを読むという仕事では不十分と考え、自分の能力を活かすために様々な勉強をして専門家に近い存在になろうとする人が増えたのだろうか、ある時期から解説委員の数が急増していたような気がする。でも、とにかくこの村田さんは解説委員としての道を選んだのだろう、その後もこの仕事を続けているのだから。懐かしい声を聴くことができたのも、ラジオに戻っていったからだが、そのきっかけは自動車通勤にある。朝の通勤時にラジオを聴いていると、そこから様々な面白い話が聞こえてくる。以前は真面目一本だった局が、がらりと変わってしまったような印象さえした。その頃のアンカーは、横山、中川両アナウンサーである。どちらも現在はラジオのニュース読みをしている。何とも言えない柔らかい口調の横山さん、人懐っこい感じがする女性アナ中川さん、どちらも魅力的なアンカーでした。いつか戻ってくるのかな、と思いつつ、もう何年も経過してしまった。今は山田さんと村上さん、そして月末の緒方さん、この人は相撲の実況でも有名である。やっぱり、才能溢れる人が多いなあ、と感心しきり。

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10月30日(水)−権利

 不良債権やら失業率やら、景気の悪い話を聞きたくないのは皆同じだろうか。そんなことを思っていても、世の中そんな話ばかりで何ともならない。こんなことばかり考えていると気が滅入ってくるから、なるべく他の事を考えるようにしている。実際にこれまで転々としてきたが幸い職を失うこともなく、何とか無事に過ごしてきた。そんなことが自慢できる時代が来てはおしまいだと思うが、まあそんな状況だからこそ、こんなお気楽な独り言が書けるのかも知れない。
 それにしても、また失業率が上昇したらしい。どうにも良くわからない状況なのだが、最近の失業の状態に関する話を聞いているとちょっと不思議なこともある。今回はその件に関して書いておこうと思う。失業率とはそもそもどんな数字のことを言うのだろうか。職を失うということはそれなりに理解しやすい事柄だが、それを率にするとなるとある程度決まった規則というものが必要だと思われる。今はハローワークなどと呼ばれている職業安定所には、職を失った後で通うことになる。それはそこで新たな職を見つけるためなのだろう。しかし、最近ではそういうところに求人が来ることも少なくなっているそうだ。だから、失業したものはずっと失業したまま、と考えるのは妥当なのだろうか。失業者が職安に通うもう一つの理由は失業保険を受けとるためである。失業保険の給付にはある条件があって、その条件を満たさなければ実際に職のない人でも保険を受けとることができない。基本的には職を探していて、次の職が見つかるまでの間、給付が受けられることになっている。そうは言っても、最長どれだけの期間かは、前の職に就いていた期間によって自動的に決められている。求職のために職安にいくだけでなく、その際に就職活動をしていることを証明してもらわなければならないのだ。こんなことは誰でも知っているだろう。と言っても、パンチは自分自身で経験が無いから人から聞いた話を紹介しているだけである。その例として幾つか面白い話がある。給付を受けられる期間を目一杯に活用するためになるべく職を見つけないようにしたという人の話。この手の話はバブルがはじける以前には良く聞いたような気がする。もらえるものはもらっておくという考えだそうだ。そういうものかと思って聞いていたが、もっと上手の話がある。定年退職して次の職を見つけるのに、失業保険の給付を受けている人がいたそうだが、実は給付期間中に次の職が見つかっていたのだそうだ。普通ならここで職を見つけたということでその届を出して給付の打ち切りとなるのだが、この人と新しい雇い主はそうしなかった。届を出さずに、残りの給付期間にいわゆるただ働きをしたのだそうだ。この雇用関係においてはこれが最良の策となったのだろう、呆れるばかりなのだが。真剣に探しても職の見つからない人がいる一方で、こんな話も聞こえてくる。また、毎日パートなどの求人の折り込みが新聞に必ず入っているのを見ると、職安に求人が無いのはなぜなのか考えてしまう。こういう状況での失業率とは、何を示しているのだろうか。

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10月29日(火)−無知無恥

 情報を正確に伝えることの大切さを何度か書いてきたが、これがそんなに簡単ではないことも事実である。まず、事件など起きた事柄を正確に表現して、誰にでもわかる、そして誤解の起きない文章表現をしなければならない。見たままを書けばいいと言うと簡単なように思えるが、自分が見たものと他の人たちが見たものが同じかどうかの保証はないわけだから、簡単にはいかない。その上誤解の無いようにとなると、一段とハードルが高くなる。
 最近の国際情勢に関しても、様々なニュースが流れてくる。疑心暗鬼に陥っている人たちにとっては、マスコミの流す情報はすべて何処かがずれていて、すぐには信じがたいものばかりということになりかねない。一度ボタンを掛け違えるとそんなに簡単には元に戻らないものだなと思えてしまう。こんな状況とは違うが掛け違えたボタンがせっかく元に戻りかけていたのに、また元の木阿弥になってしまったような事件があった。原子力発電所の様々な不祥事の数々である。ああいった事件に触れるたびに、原子力発電の仕組みそのものの危険性よりも、人間が作り出す事件や事故の危険性の方が格段に大きいのではないかと思えてしまう。今回のひび割れなどの隠ぺい工作や検査の妨害などは論外としか言い様がないが、その背景には原子力政策の難しさが挙げられるのだろう。原子力の象徴とも言える原爆を経験した国として、それに関わることは何でも気になるものだからだ。ただ、一時期勢いを失いかけていた原子力発電が欧州で見直されているなどというニュースを聞くと、一体全体こういうものに関する人間の感覚というのは普遍的なものはないのだろうか、などと思えてしまう。なにしろ風力発電が強力な対抗馬だったはずなのだが、それも様々な問題点を抱えていることが明らかになってきたようだ。さて、情報に話を戻してみよう。原子力に関わる情報で昔から気になっていたものに「放射能」という言葉がある。英語のradioactiveとかradioactivityを翻訳したものなのだが、日本では何にでもこれを使う傾向があった。たとえば、放射能漏れ、この意味は何だろうか。「能」とは、何らかの能力を表すわけだから、このまま受取れば能力が漏れ出るという意味になる。能力という形や実体を伴わないものが漏れるとは、何とも不思議な表現ではないか。にもかかわらず、この例に代表されるように、この手の使い方に頻繁に接するのである。さすがに最近はこのような誤用を指摘する本や論説が目立ち始めたが、以前は専門の書物でさえ混乱していたようだ。得体の知れないものだから、正確に表現する必要などないという判断があったのかどうかわからないが、放射線、放射性物質、放射能、これらの言葉がごちゃごちゃに使われていた。たぶん今でも続いているような気がする。怖いものだから怖がっているだけで良い、のではなく、怖いかどうかを決められるようにきちんと知ることの方が大切なのに。

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10月28日(月)−独立事象

 プロ野球の中継を見ていると実況と解説が二人でいろんなことを話している。試合の進行とはまったく無関係に話続ける人もいれば、その場その場で適切な解説を入れる人もいる。どちらが好きなのかは人によるだろう。こちらから見ればうるさいだけの実況を信条としている人がいつまでも生き残っているのを見ると、彼を嫌う人ばかりでないことがわかる。景気づけという意味もあるのかも知れないが。
 そういう中継の中で時々聞こえてくることなのだが、どう思われるだろうか、少し考えてみて欲しい。バッターが安打を打つ確率を打率という。わざわざ書かなくてもと思われるかも知れないが、こういう基本は押さえておかねばならない。とにかく打率3割3分3厘といえば、3回打席に立てばそのうち一度は安打を打つということになる。実際には、それまで90回打って、そのうちの30回安打を打ったという記録を残していた場合、この打率になる。では、ある日の試合で、そのバッターが始めの二度の打席で安打を打てずに凡退していたとしよう。こういうとき、実況と解説の二人は時々、こんな会話を交わすことがある、「今日の○○選手はヒットが出ていませんね。打率からすると、そろそろヒットが出てもいいころです」。こんな具合である。さて結果がどうなるのかは神のみぞ知るところだが、この話は正しいとみるべきなのだろうか。これはつまり、始めの2打席安打を打てなかったときに、3度目の打席で安打を打てる確率はどのくらいか、という問題である、少し考えてみて欲しい。どう考えるのかは、それぞれの自由である。このまま読み続けたい人のために、ちょっと蛇足を書いておくが、すぐには解答は出てこない。考えたい人はここから先はしばらくの間読まずにじっくり考えたらいかがだろうか。確率にはいろんな制約がかかっている場合が多いが、通常、問題の設定の段階でそれが明確になっている場合が多い。すぐには気がつかないかも知れないが、野球の打率の場合も、既にいろんな条件が論じられているのだ。90回のうち30回というのは、90回の連続する試行のうち30回の成功という意味で、90回のうちのある特定の30回というわけではない。つまり、成功と失敗はお互いに無関係である、これを独立事象という。このようにそれぞれの試行が独立している場合、前に起きた事柄とは無関係にその度ごとの確率が一定となる。なに、ズルズルとここまで読んできてしまった。それはいけない、ここでまたひと休みすべし。これまた蛇足の蛇足だが、なぜ好打者でも4割バッターがいないのだろうか、これも摩訶不思議である。3割だろうが4割だろうか、変わりないだろうに、と思うのはどうも素人考えらしい。まあ、それにしてもなぜ打てても3割なのか、不思議なものだ。さて、そろそろ話をもとに戻そう。では、2度凡退したバッターは3度目にはどんな打率になるのか。3割3分3厘で変わらないというのが正解である。実際は、92回の打席のうちの30回の安打ということで、実際には打率は3割2分6厘に下がっているが、ここでは複雑になるので、このことは無視する。つまり、どの打席も同じ打率ということになる。ということで、中継の中の会話は間違いとなる。まあ、気分的には、正しい気もするのだが、確率という意味からすると、間違い。こういったところが確率に騙されやすい部分だ。サイコロを考えてみたら簡単だろう。一の目が何度も連続して出たら、もう出にくくなるのだろうか。

(since 2002/4/3)